まず動く

「動く」と,ものごとが見えてきます。仕事や旅などで動きまわり、そこで経験したことや見聞したことについて述べたいと思っています。ここで、「動く」という意味は身体だけでなく、頭も口もです。  いつまでも元気でありたいと願い、「動き」を実践しています。
 
2013/11/04 19:49:03|小さな旅の思い出
2013 佐賀インターナショナル・バルーンフェスタ 1

 息子たち家族が佐賀に住んでいる。毎年10月末から11月初めに開催されているバルーンフェスタに一緒に出かけ、バルーンを見ないかと孫たちから誘われるが、その機会がなかった。今年は、それが適えられそうなので11月1日に博多へ移動し、2日に佐賀入りし孫たちと遊び、3日早朝にバルーンフェスタに出かけ、午後には帰るという計画を立てた。本来なら佐賀に2泊する予定であったが、ホテルがバルーンフェスタの影響で3ヵ月前から予約がいっぱいでとれない。息子の家に泊まるのはいいのだが、畳の部屋に泊まるのが苦痛なので、佐賀へ行くときは東横イン佐賀に泊まることにしている。そのホテルも満室で、1泊目は東横イン博多駅前、2泊目に息子の家に泊めてもらうことにして出かけた。
 
 11月1日(金)に博多入してから息子から3日(日)は雨との天気予報だから、2日(土)にバルーンフェスタに行こうとメールによる連絡がはいった。バルーンフェスタは朝7時開始といので、博多駅を朝5時13分始発の大牟田行に乗り、鳥栖で乗り換えバルーンフェスタ臨時列車に乗り換え佐賀にくるようにとのメール連絡があった。そのスケジュールは以下通りである。
 
112日(土)
● 博多 5:13発(JR鹿児島本線(普通)[大牟田行])
  ↓39分
○ 鳥栖 5:52着(乗り換え)
● 鳥栖 5:55発(JR長崎本線(バルーンフェスタ号)[肥前山口行])
  ↓25分
■ 佐賀 6:20着・・・合流・・・車でバルーン会場へ移動
 
 11月1日に泊まった東横イン博多駅前は博多駅に近いので朝4時45分にホテルをチェックアウトし、博多駅へ。この時間はまだ真っ暗で、ほとんど人陰はいない。切符は博多から佐賀までなら、関東で使われているSuicaが利用可能というので、ワンタッチで駅構内に入る。一番列車はガラガラに空いている。しかし、佐賀へ向かう途中駅で徐々に混みだし、我々は佐賀駅で下車したが、次の臨時駅であるバルーンフェスタ駅へ行く乗客が佐賀駅からどっと乗り込み、まるで朝の東京JR山手線のように超満員であった。
 
 佐賀駅に着くと、息子家族がすでに出迎えてくれ、駅前に止めてある車でバルーンフェスタ会場近くの臨時駐車場(1日1000円)へ。ここからバルーンフェスタ会場となっている嘉瀬川の河川敷へは徒歩で行く。列車を使って会場へ行くとするなら、会場の近くにJR長崎本線の佐賀バルーンフェスタ駅という臨時停車駅が設けられてあるので、そこで下車すれば直ぐそばが会場である。この臨時駅は佐賀駅の次で、バルーンフェスタのために作られた駅である。
 
 会場へ着くと大勢の観客がすでに集まっている。話によると会期中(10月31日〜11月4日までの5日間)に訪れる観客は70万人とも100万人ともいわれる。佐賀の人口が約85万人というから、それと同じくらいの人がこの5日間に嘉瀬川河川敷に集まることになる。
 
佐賀の熱気球競技大会に毎年十数か国のバルーンが70機〜80機参加しているそうだ。それに加え、イベントのみに参加するバルーンが30〜40機あるというから、全体では100機前後のバルーンの参加がある。競技ルールは各種あるようだが、ゴールを自分で宣言するか、競技委員が決めるかし、そこへマーカー(リボンのついた砂袋)を投入するという話しだ。詳しい競技ルールは全くわからない。離着陸は農閑期の水田を使用するそうである。
 
 黄色い旗が緑に変わると、それが競技開始の合図だ。一斉に空気を送り込み、やや膨らむとバーナーから赤い炎を噴射し空気を暖めはじめる(写真1)。やがて、大きな気球が膨らみ浮力が出始め、寝ていた気球が起き上がる(写真2)。早く浮力がついたバルーンから浮上し始める(写真3)。大勢の観客が見守る真上でバーナーから炎を出しているバルーンの姿も見られた(写真4)。こうして、数は不明だが数多くのバルーンが一斉に浮かび上がる姿は見事だ。何キロメートル先か不明だが、目標地点へ向けて飛び去った会場には次のイベントが待っている。【2013.11.2】
 
写真1:出発の合図とともに一斉にバーナーに火をつけ熱と空気を送り込む
写真2:地面にあったバルーンが一斉に起き上がる
写真3:やがて空中に舞いあがるバルーンの群れ
写真4:観客の真上をバーナーに火をつけ上昇するバルーンもある
 
2013.11.4 自宅にて記す
 







2013/10/31 23:55:02|研究・教育の思い出
放送大学30周年

「学ぶ。世界が変わる。」−放送大学のチカラ−
 放送大学はラジオ・テレビ、インターネットによって学ぶことのできる遠隔教育大学である。この大学が今年で30周年を迎え、平成25年10月29日に「放送大学創立三十周年記念式典・記念シンポジウム」がANAインターコンチネンタルホテル東京で開催され、招待された。式典には下村博文 文部大臣、森喜朗 元内閣総理大臣、塩川正十郎 元文部大臣ほか多数の関係者が臨席された。
 
 放送大学開学の何年か前に放送授業実験番組「計測と制御」を東京工業大学の当時教授であった森政弘先生と制作した。その番組はテレビ朝日から実験放送番組として放送された。その後、1983年に放送大学が創立したことを機会に東京工業大学から専任の助教授として移った。引き続き「計測と制御」という改訂番組を制作、さらに「基礎電子工学」という番組も創った。残念だが、今ではこのような工学分野の授業は放送されなくなった。
 
 東大やお茶の水女子大学卒業の高学歴の学生から高校でたての学生までいろいろな人がいた。年齢も高校卒業直後の10代後半から80歳代までの幅広い年齢層の人達が学生である。平均年齢は40歳ぐらいである。放送大学第1期生の卒業研究も指導し、1989年に最初の卒業式を迎えることができた。第1回の卒業式には皇太子殿下はじめ文部大臣、郵政大臣も臨席され、N響の演奏でビバルディの四季が演奏されたことを記憶している。在籍期間は、わずか5年であったが、千葉幕張にある大学本部、大宮にある学習センターを往復するという充実した日々を送った。あれから30年が経った。
 
 これまでの学習者数は約140万人、卒業した学生数は7万9千人あまりになるという。現在の在籍者数は約9万人とのこと。現状は不明だが30年前の卒業率は8%、100人の入学者のうち8人しか卒業できなかったと記憶する。入るのはやさしいが出るのが難しい大学である。開学当初はラジオとテレビ放送で、しかも関東地方しか電波が届かなかったので限られた地域の人しか学生になれなかった。それが、技術進歩のお陰で今では全国どこでも受信ができ、さらにインターネットでも視聴が可能になったので、いつでもどこでも学べる大学になった。卒業するには面接授業が義務化されている。その講義が聴講できる学習センターは30年前は数えるほどしかなかったが、今では各県57箇所に学習センターが開設されているという。それに大学院修士課程ができ、さらに近いうちに博士課程もできるとも聞いている。
 
 昔の同僚は、ほとんどいなくなり、祝賀会場でかつての仲間の誰かに会えるかと期待して出席したが、会えたのはわずか2人だけであった。そのうちの一人は運動生理学/健康管理学の臼井永男教授である。小学校時代の同級生のWさんが臼井先生の指導を受けたということもあって、臼井先生と会場で会え親しく会話を交わすことができた。Wさんは臼井先生より年上であるので、放送大学は教員より年上の学生が沢山いる珍しい大学である。【2013.10.29】
 
写真1:千葉幕張にある放送大学の本部建物
写真2:放送大学創立30周年で挨拶する岡部洋一学長
写真3:来賓で挨拶する森喜朗 元内閣総理大臣
写真4:久しぶりに会った運動生理学/健康管理学の臼井永男教授とツウショット
 
2013.10.31 自宅にて記す
 
 
 
 
 
 
 







来年のロングステイ

 ロングステイの予約受付はかなり前から始まる。遅くなると希望の部屋がとれないとか、希望するコンドミニアムを確保できないことになる。今年の9月にロングステイを終えて帰る時に1年以上先のロングステイだが、来年12月の予約をして帰国した。
 
 来年のロングステイと関係ないが、予約で以下のようなことを経験した。九州佐賀の孫たちに会うために今年の11月初旬の連休にホテルの予約を試みた。ところが、この期間に佐賀では人気のバルーンを挙げる催しがあるというので、佐賀市内のホテルは2ヵ月前ごろからどこのホテルも満室で予約がとれない。そこで、11月2日に博多にホテルを確保し、佐賀には翌日の3日に出かけることになった。市内には沢山あると思われるホテルが2ヵ月も前から全部満室というから驚きである。
 
 このようなことが外国でしかも言葉が通じないイタリアで一回経験したことがある。このときは、小さな町でホテルの数が少なかったからだと思うが、あらかじめ日本で予約して出かけたが、手違いがあってホテルについたら予約情報が入っていないという。では、町内のどこかのホテルを紹介してほしいといったところ電話をかたっぱしからかけてくれたが全て満室という。しょうがないので隣の町まで電話をかけてくれ、やっと見つけた一件のホテルに泊まった経験がある。言葉は通じず、駅から遠く離れた隣の町までタクシーで行くという、大変なことがあった。田舎へ行くと英語が通じず往生した記憶がある。
 
 来年のハワイ・ロングステイが実現すれば、3回目である。3年目のコンドミニアムの部屋は街側(山川)である。ビルの前にはアラモアナ通りがあり、それが真下に見える14階の部屋である。近所の高層ビルがよく見える。丁度予約した時に、来年住む予定の部屋が空いているというので見せてもらう機会があった。悪くない部屋なので、予約してきた。部屋の様子、ベランダからの眺めを写真におさめた。
 
 2013年9月に1ヶ月滞在した様子をブログで紹介してきた。今回も昨年同様に快適な生活、楽しいロングステイが出来たので、来年も計画している。ただし、健康で元気なら!!
 
写真1:ベランダから見るアラモアナ・センタ方面の眺め
写真2:ベランダから見るワイキキ方面の眺め
写真3:ベランダの左方向にテレビが置かれている
写真4:食卓とその奥にはキッチンが見える
 







工夫
 ロングステイをすると、なにかと生活するうえで必要な物が欲しくなる。ここに、ペットボトル活用の物入れとテッシュペーパの空き箱利用のごみ箱を紹介する。写真左から3つの作品は飲み終わって捨てるべきペットボトルを輪切りにし、筆立てや小物入れに利用したものである。また、右側のテッシュペーパ―空き箱は、テーブルの上に置いて使用する小型ごみ箱である。
 







出合い
   今回のハワイ・ロングステイで何人かの方々に会った。未知の世界で、未知の人と出会い会話を交わし、その人のこと、その国のことを知るということは世界が広がり楽しい思い出となる。
ホノルル1ヵ月の滞在中、ハワイ在住の日本人、運動(氣功)を一緒にやり知り合った人、積極的に出向いて知り合った人、日本その他の国からハワイに来た旅行者、教え子など多くに方々と知り合い出合えた。その人たちからホノルル情報を教えてもらったり、お宅訪問したり、キャンパス見学などが出来、充実したロングステイができた。
 
写真1:ハワイアン・キルト・コレクションの店主Hirokoさん
写真2:ノルディックウォーキングしながら氣功にやってくるアメリカ人
写真3:ロイヤル・ハワイアン・バンドの指揮者ブライトさんにCDにサインしてもらう
写真4:ハワイ大学の研究室を案内してくれたJimmyさん