昨日、5月4日はみどりの日で休日。この日、LSC東京サロン会の企画「亀戸天神、伊藤左千夫の墓がある普門院、香取神社、最後は「東京スカイツリー」をウオーキングで周る“東京歩こう会”に参加した。 亀戸天神といえば、この神社の直ぐそばで戦前に生まれたこともあって、亀戸の思い出が頭の中にかすかに残っている。80年も前のことなので、ほとんどのことは忘れている。記憶をたどると、親は酒屋でKoichiは酒屋の長男、店には赤く塗られた酒樽が沢山置かれてあったのを覚えている。夕方から夜にかけおじさん達が店を訪れ、父親が皿に乗せた升に酒をなみなみと注ぐと味噌・塩をなめながら、注がれた酒を美味しそうに飲んでいる、おじさん達の姿を子供ながらに思い出す。升からあふれ、皿に残った酒を美味しそうに飲んでいる姿が印象に残る。店の前は道路でその反対側は、映画「野菊のごとき君なりき」で有名になった伊藤左千夫の墓がある普門院というお寺の塀がある。塀に沿って、幅1.5mほどのどぶ川が流れている。このどぶ川に酔った人が落ち、亡くなり大騒ぎしたこともかすかに覚えている。 自転車を覚え始め、うれしくて香取小学校方面へ単独走行し、途中で転倒しハンドル・ブレーキ先端が足に刺さり大けがをしたこともある。自宅前にある普門院の墓石の中を飛び回って遊んだことはよく覚えている。普門院の直ぐ近くに藤で有名で学問の神様を祭る亀戸天神がある。その境内には池がありカメや鯉が沢山いたことの記憶が残っている。また、この池に架かる赤く塗られた太鼓橋も強く印象に残っている。亀戸天神は菅原道真が祭られ、学問の神様が祭られていると小さい頃から聴かされているが、お参りした記憶はない。この亀戸天神の直ぐ側にくず餅で有名な舩橋屋があるので、ウオーキングの途中で買い忘れないようにと思い草々に求めておいた。 香取神社の前にあった東京市香取国民学校に入学(昭和17年)。この時の住所は「城東区亀戸町1丁目59番地」と記憶している。戦争が激しくなり、酒屋であった我が家前の道路を戦車が通れるように拡張するというので立ち退きを迫られた。江東区大島町に強制移動させられ、大島第3小学校へ転校した。戦争が激しくなった3年生のとき、空襲による戦火から逃れるため、多くの人が郊外に疎開した。小学生も3年生以上で縁故疎開(親戚や知人を頼ってする疎開)ができない子供は集団疎開をするというので、山形県米沢市小野川の温泉街に最小年次の3年生のときに集団疎開した。この疎開地は温泉旅館高砂屋旅館で、3年生から4年生になるまでの1年少々お世話になった。4年生になった昭和20年(1945年)8月15日の終戦日(第二次世界大戦終結)は、大事な放送があるというので全員集れられ、昭和天皇が朗読する玉音放送を聴いた。それから数ヶ月後、蒸気機関車に乗って東京上野駅に集団疎開から戻り、両親の出迎えを受け、向島の自宅に無事戻ることができた。亀戸から大島へ移り住んだ自宅は焼夷弾で焼かれた。この時、両親は弟2人の手を引き、水で濡らした布団を頭に乗せ戦火を逃れ、隅田川に架かる言問橋下まで焼死体を避けながら逃げたという話しをよく聴かされた。集団疎開から帰ったときは、4年生である。両親は向島に家を借り移り住んでいたので、今度は向島にある第一寺島小学校に転校した。短い期間であったが3つの小学校を渡り歩き、最後はこの学校を無事卒業した。
亀戸天神、普門院、香取神社と聴くと記憶は薄れているが、上述したような光景が浮かぶ。今回のウオーキングで仲間17人と一緒であったが、3/4世紀以上前に過ごした場所を訪れることができた。戦前の自宅付近はすっかり変わりはててはいたが、家の前の普門院は昔のままで、そこを遊び場として過ごした小学低学年時代の思い出が昨日のようによみがえった。 地図に示したように、JR錦糸町駅北口に午後2時集合し、亀戸天神、普門院、香取神社、東京スカイツリーと歩き、午後4時半に東京スカイツリーがある押し上げ駅に着いた。今日は、12,089歩という最近にない歩数を計数し、疲れたがとてもよい運動になった。
今回、LSCの「東京歩こう会」に参加でき本当によかったと思う。下調べをして頂いた幹事さんに厚く感謝する。【2019年5月4日】 平成31年5月5日(日) 自宅にて記す |