まず動く

「動く」と,ものごとが見えてきます。仕事や旅などで動きまわり、そこで経験したことや見聞したことについて述べたいと思っています。ここで、「動く」という意味は身体だけでなく、頭も口もです。  いつまでも元気でありたいと願い、「動き」を実践しています。
 
2012/02/23 20:13:25|思い出
閉店「ベッド周り研究会」

 看護大学の先生方と共同で看護基礎分野の研究を行って以来久しい。看護学の先生方から看護に必要な問題を提起していただき、私はその問題に必要な計測技術を提供し、実験的研究を2000年以来行い12年が経過した。このくらいの年月を研究に没頭する機会があるとある程度のことは解決できるし、成果も挙がる。

 ベッド周り研究会発足は、理系の大学に勤めていたある日、研究室に配属された一人の男子学生の姉が看護師であるといい、その姉から聞いた話だが看護師は腰痛持ちが多いということを教えてくれたことに端を発する。早速、その姉が卒業したという自治医科大学へ出向き、ある教授に会った。同時にその場にいて当時助手であったO先生とも話し合った。説明を聞き、腰痛を発症する理由が分かった。それを予防するために基礎看護では人の動作と力学に関係するボディメカニクスを教授しているという。しかし、看護学生の多くは物理・数学にほとんどの人が無縁のようで、それらの科目は履修していないという。物のデザイン、人の安全、作業効率・能率、身体負担などを考究する人間工学という分野で仕事をしていた関係で、腰痛予防やその軽減法に興味をもった。

 こうして看護分野と工学分野の研究が繋がり、看護の臨床現場で物理現象が測れたらよいという研究テーマが沢山あるというので、その計測に取りかかることにした。理系の研究室では、ベッド上の重い患者を持ち上げるときの力を測るとか、杖を突いたときの杖先の力を測るとか、ベッド上で寝ている患者の背中の力(垂直・水平力)を測るというような実験的研究を行った。その成果を学会で発表すると聴講した看護大学の先生方から相談を受け、それが共同研究に発展した。研究内容を議論するには、集まる必要があるので、一度集まろうということで自治医科大学へ出向いた。そこでは、研究について話し合ったことはもちろんだが、定期的に集まるためには会の名前をつけたることになった。しかし、その場で良い名称が思いつかないまま「ベッド周り研究会」と仮称し、月に一度このベッド周り研究会を開くことにした。第1回の研究会は、今から12年前の2000年7月29日(土)の午前11時から自治医科大学で行った。その後、場所を埼玉県越谷市にある埼玉県立大学、東京女子医科大学、あるいは喫茶店などと会場を変え、今日にいたった。当時私は埼玉県鳩山市にある東京電機大学理工学部に勤務していたので、ここを会場にするのが適当かと思った。しかし、遠路で不便であったため、東京電機大学鳩山キャンパスで研究会を開くことは一度もなかった。

 研究会では、看護師や患者のベッド周りの動作、あるいは起き上がり支援するモンキーポールという補助具の性能や設置位置の検討、ギャッチベッド・ストレッチャーの移動操作性、手すりの設置位置・高さ、摩擦利用のイージースライド、患者持ち上げようのハンドリングスリングの使用効果、注射シミュレータ開発のための注射器薬液の圧力測定など動作や用具の使用性などに関わる実験的研究を行ってきた。こうした研究の成果をまとめて、写真2〜3に示す「看護動のエビデンス」、「看護・介護のための人間工学入門」、「看護に生かすベッド周りの人間工学」の3冊を連名で世に送り出すことができた。

 今、思うと人間工学が主たる研究分野であった以前は、ロボットの研究を行っていた。ロボットに人間動作の真似をさせたい。その基礎として、人間の動作に興味を持ち、動作研究を長い間行っていたことがあって、看護の動作研究に入ることができた。これも “看護師は腰痛を起しやすい”という教え子の一言で、この分野の研究に入り、3冊の本まで出版できた。

 「ベッド周り研究会」は第三の場であると思っている。研究会といえば立派だが、研究以外の話し合いも結構盛に行い、旅行のこと、家庭のこと、子供のこと、友人のことなど研究会での話題はなんでもありであった。会は午前11時から始まって、午後3時ごろに終わろうと最初に話し合いがついている。昼食は近所のコンビニお弁当のこともあれば、わざわざ鰻屋さんへ行き、大学に戻ったらもう3時だったということもあった。

 以上述べたように研究の話題を議論する場であったはずの「ベッド周り研究会」だが、ストレス解消の場でもあったようだ。こうして、職場と家庭を往復するだけでなく、第三の場を設けて研究会・勉強会をするという大義名分をつけ皆が集まり、ストレス解消の場にするというアイディアは大変望ましい。この第三の場という話を評論家の秋山千恵子さんがその昔ラジオで放送していたのを耳にし、この第三の場をいつまでも持ち続け今日に至っている。その「第三の場」である「ベッド周り研究会」を2月11日(土)に閉会した。その時、集まったメンバーが写真4である。閉店の理由は、@皆さんお偉くなり非常に忙しくなったので集まる日程調整できないこと、A私自身も年輪を重ね動きが鈍くなったこと、による。【2002.2.11】

 Ko、Su、O、Ku、Ka、Saの各先生、あっという間に12年が過ぎましたね。第1回は上述したように2000年7月で自治医科大学(手帳に書いてありました)でした。それ以来、12年間という長い間大変お世話になりました。一度、ここで幕を下ろしますがまだ元気ですので、なにかの折に測定技術が必要になりましたら、遠慮なく声をかけてください。また、お役に立つことがあるかもしれませんので。


写真1:「看護動作のエビデンス」
写真2:「看護・介護のための人間工学入門」
写真3:「看護に生かすベッド周りの人間工学」
写真4:パリの朝市でのベッド周り研究会の閉店会

2012.2.23







2012/02/20 11:42:24|思い出
今年の人間ドック
 2012年2月3日(金)人間ドック入りし、その検査結果が送られてきた。胆嚢を取り、狭心症で冠状動脈に3本のステントを入れ、糖尿病の傾向があるというので健康には気を使い定期的に医師の診断を受けている。毎年、2月に自宅から車で10分のところにある入間ハート病院・健康管理センターの人間ドックに入り、健康状態をチェックしている。

 人間の生きている証拠を調べるためにバイタルサインの検査がある。心電図、血圧、脈拍、心拍数、血流、心音を測り「心臓が動いている」、呼吸数、排気量、呼気炭酸ガスを測り「呼吸している」、脳波、脳血流を測り「脳が活動している」、筋電図、筋弛緩を測り「身体が動いている」ことがわかる。人間の身体が順調に活動しているということはこのバイタルサインの検査で知ることができる。人間ドックはこうしたバイタルサインの検査であるといえる。

 人間ドックへ行く前日の夜9時以降は、一切の飲食物を口に入れてはいけない。お金をだしてどうしてこんなにつらい目に合わなければならないかといつも思うが、これも全て自分のためだと思いあきらめ毎年ドック入りしている。

ドック入りする日の2日前、1日前の2回便検査のための便採取を行う。また、前日には尿検査に必要な尿の採取も行う。検査日1週間前にそれぞれの容器が送られてくるので、その容器にほんのわずかだが便と尿を採取しておく。

 胸部レントゲン撮影のために飲むバリュームには例年苦労する。レントゲン台に乗ってからレントゲン撮影に必要なバリュームを一気に飲み、ゲップをしてはいけないと指示される。毎年のことだが、このバリュームを飲むのが一番苦手である。また、レントゲン台に乗ったまま身体を左右・上下方向に回転させられるのもあまりよい気分ではない。臨床検査技師の立場から考え、お腹の中の写真を鮮明に撮るためには仕方がない。今年飲んだ上記バリュームは甘いジュースのように飲みやすくなったような気がする。排便が容易になるように水を沢山飲み、もし排便がなかったなら、下剤を飲むようにと言われる。しかし、それを今年は使わずに済んだ。

 肺機能検査である肺活量の検査は、空気を大きく吸ってと指示され、その直後一気に空気を吐く検査である。これも、口にボール紙の筒を口にいれ、その筒を通して空気を吐き出すので、結構苦しい検査である。

 眼底検査のために大きく開けた目に急に空気を吹き付けられるが、これも一瞬だが驚く。血液検査のための血液採取もあまり気持ちのいいものではないが、一瞬我慢すれば終わる。少々時間がかかる検査に腹部の超音波診断がある。これは仰臥・横臥した状態で臨床検査技師が腹部、胸部にプローブをあてがい腹腔内の状態を検査するもので、苦痛ではない。

 その他、体格検査は身長・体重・腹囲測定、聴覚検査でイヤフォーンを付け高音を鳴らし、その音が聞こえたらボタンを押すという検査がある。この検査によって右耳から入る高音が聞き取れなくなったという結果がでた。

 上記したいずれの検査も、身体に針を刺し採血するとか、プローブを身体に接触させたりして身体情報(バイタルサイン)を得るので楽しいものではない。しかし、運動負荷試験は結構楽しい。これは自転車エルゴメーターといって自転車のペダルをこいで、その時の心電変化を調べる検査である。こいでいる間の心拍数変化や血圧変化が目に見えるのでこの運動負荷試験は、人間ドックで一番は楽しい検査である。

 最終の検査結果の説明では、レントゲンや心電図などを見ながら、女医が親切に説明してくれた。過去において患者に接する態度が横柄な医師に出会ったこともあった。今年の検査結果の説明は丁寧で納得のいく人間ドック検査であった。さらに、バリュームの味がよくなり気分を害さずに飲め、その上バリュームが夕方までに身体から別れをつげてくれたので、例年のような不快感がなかったことも幸いである。【2012.2.3】

写真:入間ハート病院健康管理センター

2012.2.20 記









2012/02/18 4:57:50|思い出
失敗!!!

 ある日、黄金卵がちょっとした工夫で簡単にできるというテレビ番組をちらっとみた。この黄金卵は茹で卵で殻を割ると普通なら真っ白だが、この卵は黄色いのだ。これが簡単に作れるなら、孫たちにきっとウケると思い、いつか作ろうと気に留めておいた。ある会合で、自分では作ることを確認せず、友人のSさんにその話をした。そのSさんも、この卵を人様に見せるなら必ずウケるといい、帰ったら早速実験すると言ってその会を別れた。その翌日、実験していただいたようだが、うまくいかないという報告をメールで受けた。

 自分ではやりもしないで人様に受け売りし、受け入れた友人が実験し失敗した事実を知り申し訳なく思い、今度は自身で実験を開始した。

 テレビで観た黄金卵の作り方は、まず写真1のように女性のナイロン・ストッキングの中央に生卵を入れ、卵が移動しないように卵両端部分のストッキングを結ぶ。子供のころ大きめのボタンに糸を輪に通し、そのボタンを勢いよく回して遊んだ手作り玩具がある。黄金卵を作るコツはその回転ボタンのように、ぶんぶんと勢いよく回すのがコツのようだ。すると卵の殻内の黄身と白身が混ざり合うので、それを茹で皮をむくとなかから黄色い茹で卵が出てくるという話しであった。

 ナイロン・ストッキングの両端を持ち、卵を回したがボタンを回すようなわけにいかず結構大変な作業であることがわかった。やや回転力が不足かと思ながらも、勢いよく何回か回した。これでよかろうかと思ったころ、誤って机の角に回転し終わったばかりの卵を軽くぶつけ、小さな傷がついた。一応、回転をし終えているので茹でればある程度黄金卵に一歩近づけたかと思い、その卵を茹でた。その結果は、無残にも写真2のように殻は崩れてしまった。中身を見ると写真3のように非常に見苦しい恰好の卵となっていた。

 以上のようで、黄金卵がナイロン・ストッキングを利用すると簡単に作れるかと思い、自身では試みずにSさんに投げ売りし、それを受けたSさんは失敗した。夢の黄金卵を先に試みたSさんに申し訳なく思っている。私自身も試み、眞喜子にナイロン・ストッキングを提供してもらい夢の黄金卵を作って見せてやると豪語して作った試作黄金卵だったが、写真のように無残な形の卵となり眞喜子に笑われてしった。実は、彼女は卵アレルギーなため、我が家には通常生卵は置いてない。卵をわざわざ近所のスーパーから買ってきてもらい、おまけに新品ナイロン・ストッキングを提供してもらっているので、彼女があきれるのもむりはない。

 その後、もう一個の卵についても同様に回したが、やはり思うような黄金卵は殻のなかから現れない。卵を回転させるにはかなりの力が必要でボタンを回すようにぶんぶんと回らない。また、卵の短軸方向に回転させたのがいけないのかと思い、長軸方向についても試みたがやはり高速でうまく回せない。ストッキングを引っ張る力が不足していたようにも思うが、その力は結構大きいので疲れる。こうして、卵2個とナイロン・ストッキングを無駄に消費してしまい、夢の黄金卵の製造は失敗に終わった。【2002.1.31】

写真1:ナイロン・ストッキング内に収めた生卵
写真2:黄金卵誕生とは程遠い茹で卵
写真3:卵の中はこの通りぐちゃぐちゃ
写真4:失敗した黄金卵の後始末

2012.2.18  箱根湯本にて記す








2012/02/12 18:26:24|思い出
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観て感動!

 1950年〜1960年代は、高校、大学へ通っていたころだ。そのころ観た映画に「路傍の石」、「野菊の如き君なりき」、「二十四の瞳」などがあり、感動の涙を流した記憶がある。最近、話題になっている映画「ALWAYS 三丁目の夕日 64‘」を観て昔の感動同様の涙を流した。
 この映画の紹介を新聞・テレビでよく見るので、気になっていた。「続 ALWAYS 三丁目の夕日」が1月20日夜テレビで放送され、それを観て感動し上記した昔観た映画を思い出した。観終わったらこの作品は第2作目であることがわかった。現在、映画館で放映されているのは第3作目の「ALWAYS 三丁目の夕日 64‘」で、1964年のころを描いた作品であることがわかった。
 そこで、翌日の1月21日(土)に眞喜子と入間シネマで第3作「ALWAYS 三丁目の夕日 64‘」を観に行き感動をもらってきた。第2作、第3作を観るとどうしても第1作が観たくなる。さらにその翌日の22日、近所のスーパー内にあるレンタルビデオ屋へ入ったら、第1作「ALWAYS 三丁目の夕日」のDVDが目に入った。早速、借りる手続きをしたところなんと嘘のような100円だという。普通の映画はシニア料金で1000円であるから、1/10の安さで第1作を観ることできた。こうして1月20日にテレビで第2作、21日に映画館で第3作、22日にDVDで第1作を連日にわたり観た。

 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は、上述したように第1作〜第3作がある。映画の中に「おだじん」「手回し洗濯機」「ラッパを吹く豆腐屋」「駄菓子屋」「フラフープ」「下駄」「大人の自転車を子供が乗る三角乗り」「集団就職」「ガラスの注射器」「焼け跡で残った万年筆を売る人」「蒸気機関車C62」「三輪自動車ミゼット」「東京都電」「映画“嵐を呼ぶ男”」「ストリップ劇場」「有楽町日劇」「日本橋」などいまではあまり聞かれない言葉や昔の懐かしい物や風景の数々を見ることができた。写真1にそれらの一部が見える。今では高さを東京スカイツリーに譲ったが、かつては世界一であった東京タワー建設中(1958年完成)の姿も映画の中で見た。

【第1作の感動場面(DVDで観る)】
●指輪なしで、まねごとで龍之介はひろみに指輪をはめてやる動作をする。ひろみは、空想の世界できれいねという。
●淳之介の父親が迎えに来る。車のなかで龍之介からもらった万年筆を出しおじちゃんを思う。一方、龍之介は淳之介を下駄ばきで追う。淳之介は父親から逃げ出す。道路上でおじちゃんと淳之介が合流、感情のやりとりあり。帰れ、やだ、帰れ、やだ・・・・・、やがて二人は泣きながら抱き合う。

【第2作の感動場面(テレビ放送で観る)】
●ひろみがストリップ劇場をやめ、好きでもない彼がいる大阪へ行こうとする。いったんは龍之介と別れ大阪へ向かったひろみだが、こだま号の中で龍之介が書いたひろみをモデルにした作品「踊り子」を読み感動し、再び龍之介の元へ戻り龍之介と抱き合う。
●龍之介は「君に会いたい!」、ひろみは「本物の指輪をはめたい・・・・・」という。
●鈴木オートに預けられたみかちゃん、父親が転勤のため九州へ行くので鈴木オートを去る。別れ際に「鈴木オート夫人をおかあさんと呼ぶ」
●みかちゃん「大きくなったら一平君のおよめさんになってあげるね!」という。

【夕日】鈴木オート夫婦、六子、一平の四人は東京タワー展望台からの夕日を眺める。

【第3作の感動場面(映画館で観る)】
●龍之介の父の通夜に父の真意を叔母から聞き、そのままに保存されている自室に入ると、龍之介の作品が全部本棚に並べられている。父はその作品の全部を読み、コメントを書き入れてくれた。それを手にして眺めた龍之介は、父の息子への思いを知り涙する。
●六子が孝太郎と結婚するために鈴木オートを去る日、鈴木オート夫婦に挨拶する。注:この場面がアンケートによると感動の第一位。
●淳之介が龍之介の意に反して作家の道を選ぶと断言する。

【夕日】六子は新幹線の中で、鈴木オート夫婦は土手を散歩しながら、龍之介と赤ちゃんを抱いたヒロミは三丁目で、タバコ屋のキンさんは自分の店の前で、宅間先生は商店街の通りでじっと夕日を見つめている。

 第3作は、3D(立体映像)でメガネをかけての鑑賞(放映開始時間が異なるが2Dも観れる)、東京タワーのアンテナ先端部が観客席目前に迫り、模型飛行機および赤とんぼが目の前まで飛んでくるので立体映画のすごさを味わえる。普通の場面も立体映像であるから、当初メガネをかけるので疲れるかと思った。しかし、若干違和感があったものの気にならない。それより画面が飛び出し、映像が立体的に観えるので楽しめた。【2012.1.22】

写真1:東京タワー建設中のころの第1作 「ALWAYS 三丁目の夕日」
写真2:東京タワーは完成し、空にはオリンピックの五輪の輪マークが描かれている第3作 「ALWAYS 三丁目の夕日 64‘ 」
写真3:「ALWAYS 三丁目の夕日 64‘」のオフィシャル・フォト・ブックが発売された(日本テレビ)
写真4:ランニングシャツで暴れまくった子供のころがなつかしい

2012.2.12 記







2012/02/03 7:09:43|思い出
“ALWAYS 三丁目の夕日”のころ!

 1945は終戦の年。山形の集団疎開から帰ってきた年で10才。生まれは東京亀戸で天神様のすぐそばの酒屋の長男として昭和10年生まれた。終戦直前に家は強制移動させられ大島へ移った。集団疎開は大島の第三大島小学校から山形米沢市(小野川温泉、高砂屋旅館)へいった。終戦を山形で迎え、疎開から帰ったら大島の自宅は3月9日夜の東京大空襲で焼失していた。両親と弟二人は、戦火をぬって隅田川の言問橋まで布団に水をかけ逃げ回って助かったという。一家は生き延び、隅田川に近い墨田区の向島百花園に近いところに移り移り住んでいた。両親は上野駅まで集団疎開から帰った私を迎えにきてくれた。 
 向島で迎えた1945年〜1960年(10才〜25才)代は、第一寺島小学校、安田学園中学校、安田工業高等学校第二部を卒業し、5年遅れの24才で早稲田大学第二理工学部に入学した青春時代であった。大学入学が遅れた理由は、働きながらの東大受験で少々無理であったため。年を考え私立大学へ変更。私立は授業料が高いので第2部入学となった。
 1960年〜1970年(25才〜35才)代は、大学を終え、普通なら就職をする年代。1952年(昭和27年、高校在籍中)から東京大学工学部船舶工学科で技術員として働き、その後科学技術庁の航空宇宙技術研究所に出向し、働いていたから就職に苦労することはなかった。

 1月20日(金)の夜、テレビで1950年代を背景にした「続ALWAYS 三丁目の夕日」を観た。1950年代から1960年代は、敗戦後の日本が大きく変わろうとする時代である。そうゆう私もこの間に上述したように青春時代を迎え大きく変わった。父親が東京タワーの完成を見ずに亡くなり、気落ちしていた母親をつれ完成まもない東京タワーに一緒に登ったことを記憶している。

●東京タワー完成:1958年(昭和33年)12月23日
 1950年代は東大で技術員として働きながら夜間工業高校へ通い、大学受験、私立大学理工学部第二部入学(東大は何回受験しても入れなかった)したころだ。仕事は東大の技術員(高校から大学2年まで)から科学技術庁の航空宇宙技術研究所へ研究員として移った。この間、大学2年のときに上級国家公務員試験に合格、正規の研究職員となった。1963年3月大学卒業。研究所から派遣され、1963年9月アメリカ・ペンシルバニア州ベツレヘム市にある工科系大学リーハイ大学大学院に2年間留学した。

 アメリカに留学していた2年間で、下記のような大きな事件と催しがあり、今でも記憶が生々しく残っている。
●ケネディ大統領テキサス州ダラスで狙撃暗殺される: 1963年11月22日(どのテレビ局も大統領暗殺ニュ―スを終日放送し、多くの一般市民は涙を浮かべていた姿が印象に残る)
●第18回(東京)オリンピック競技大会開催:1964年10月10日(テレビで日本から衛星放送で送られてくるオリンピックの開催式や競技を観た)

 1965年10月眞喜子と結婚(鑛一30才、眞喜子27才)、東京の吉祥寺に6畳一間のアパートで新婚生活に入る。公務員住宅や一般公営住宅の申込みを何回もするが当たらず、数年吉祥寺のアパートに住む。長男が誕生し部屋が狭くなり、押し入れに何回か寝たこともある。こうした、苦労があったことと飛行機が好きであったことで、航空自衛隊入間基地の近くに土地付き一軒家を購入した。50坪の土地付き平屋建てで250万円。もしも、公務員住宅か公営住宅の応募に当選しそこで生活していたら、ここ入間に住んでいなかったであろう。延々と払い続けたローンは何年か前に払い終えた。

 第1作目〜第3作目の映画“ALWAYS 三丁目の夕日 64` ”の背景は、上述したような時代であって、懐かしくなりこのブログ記事を書いた。映画の感想は次回に投稿したいと思っている。【2012.1.27】

写真1:留学時代の格好をつけた好青年(この車シボレーでアメリカ大陸を3週間かけて横断した。若かった!)
写真2:仙台でデート中の二人
写真3:教会で婚約式を終えた二人
写真4:あれから46年目に入った二人(マレーシアにて)

2012.1.27 記