まず動く

「動く」と,ものごとが見えてきます。仕事や旅などで動きまわり、そこで経験したことや見聞したことについて述べたいと思っています。ここで、「動く」という意味は身体だけでなく、頭も口もです。  いつまでも元気でありたいと願い、「動き」を実践しています。
 
2012/07/06 10:05:57|研究・教育の思い出
測る技術とその面白さ!

 いくつも溜まったブログがある。昨日(2012.7.5)のことを今日投稿するというのは珍しい。昨日は、越谷市にある埼玉県立大学 健康開発学科 健康行動科学専攻 3年生の講義「健康生活測定」の一コマを担当し、測る技術の面白さについて話しをしてきた。

 講義依頼をいただいたのは、埼玉県立大学が開設される以前から共同研究を行い、いまだに看護・介護分野の研究で交流を行ってK先生からである。昔からひずみ、力、圧力、加速度、変位といった物理量の測定を行ってきた。その関係で、力測定の応用としての看護や介護動作研究を20年近く一緒に楽しんできた研究仲間がK先生である。

 K先生は上述した健康開発学科に所属し「健康生活測定」という科目を講義している。これまでのところ、塩分濃度計を使って味噌汁の塩分濃度を測定して、温度、直前に食べたもの、心理的負荷などによって好みの塩分濃度が変わるのか、というような実験をやってきたそうである。それに加えて、人間の行う動作を測る事例として、力や圧力測定例を示すと同時に実際の実験を通して「測る技術の面白さ」を学生たちに紹介したいということで講義依頼をされたようだ。

 我々人間は力を発揮しなければ、鉛筆一本、本一冊たりとも持つことはできない。昔、コップを握る手は、水が入るに従いどのような握り力を発揮するのか、寝ている患者の臀部を持ち上げるのに看護師はどのくらい力を発揮するのか、あるいはギャッチベッド(背中が持ち上がるベッド)の背中が持ち上がるとき寝ている患者の背面にどの程度の力がかかるのかということを明らかにする研究を行ってきた。
 さらに、最近ではNHKの「ためしてがってん」からの要請で、ベッド端に座っている患者を看護師が立ち上げ支援する時の@床反力測定を行った。また、A注射器内の溶液の圧力測定、B点眼容器の内圧測定、C注射針の反り量測定なども行った。こうした力変換装置は手作りで古くなったので、もう使えないかもしれないと思った。しかし、変換器を測定装置に接続し試したところ使えることがわかった。そこでこれらの装置を大学に持ち込み演示すれば、身近で見ることはまずない学生たちは、喜んで見てくれ操作してくれ、測る技術は面白いと感じるだろうとの思いでセンサー、変換器、測定装置、パソコンを持参し講義を行った。

 講義に先立ち、測るために必要なセンサー、変換器、検出器、「測ってどうする」というような話しをした。測るということは、その測った結果をコントロール(制御)に使うことを強調し、前半は主に講義をし、後半は前述した実験装置の演示に時間を割いた。変換器や装置の説明後、学生自身が注射器を握り薬液(水)を注射器に入れたり出したりした。圧力変動が目に見えるようにスクリーン上に投影したので、全員がその圧力変動を観ることができる。注射技術の評価も直ぐに行えることの素晴らしさを実感できたようだ。この装置は注射器シミュレータ(インジェクション・トレーナー)といい、近い将来世にデビューする予定である。その他の床反力についても、学生がその床反力計に乗ると荷重がかかるプロセス(時間に対する力の変化)が目に見えるので、見えない力がこうして見えるようになることの素晴らしさを体験できたようだ。

 こうして、「測る技術の面白さ」について講義し、午後14時40分から17時50分までの約3時間を楽しく過ごした。私自身は講義と実験を楽しんだが、学生が「測る技術の面白さ」を実感できたかどうかは不明である。一般企業、公務員、学校の先生になることを希望する学生たちで、理系のセンスはほとんどないと聞いていたので、授業感想を聞きたい。そこで、授業感想(評価)を提出するようお願いし、講義を終えた。【2012.7.5】

写真1:K先生の研究室にて老後のための手すり実習
写真2:学生の注射技術を指導するK先生
写真3:大画面上で得られた注射器内圧変動グラフの評価
写真4:講義を聴講した学生と記念撮影

2012.7.6 記







2012/06/29 21:08:13|小さな旅の思い出
思い出の都電

 50年以上昔の昭和20年〜40年ごろ、小学校、中学校、高校、大学時代は東京都墨田区向島に住んでいた。中学・高校は両国駅近くのY学園、大学は高田馬場にあるW大学。そして勤め始めたのは本郷にあるT大学。いずれの学校へいくのにも都電のお世話になった。向島に近い鉄道駅は、東武亀戸線曳舟駅、京成線曳舟駅でがある。一方、路線番号30の都電も向島と須田町間を走っていた。向島から出発する都電の終点は神田須田町であってよく利用した。通学以外でも、中学・高校時代は真空管ラジオ製作に夢中になっていたので、電子部品を買うために秋葉原に近い万世橋(須田町の一つ手前)までよく都電を利用した。秋葉原駅のガード下には、真空管をはじめ抵抗、コンデンサーなど電子部品を売っている小さな店が沢山あった。そこがお目当ての店である。また、万世橋には今は大宮に移転した交通博物館もあったので、ここにもよく都電に乗って訪れた。

 向島から須田町へ行くまで、この都電は言問橋、牛島神社前、本所吾妻橋、吾妻橋を渡り浅草雷門前を通る。そして、田原町、菊屋橋、稲荷町、上野駅前、上野公園、上野広小路、末広町、万世橋を通って終点の神田須田町に着く。田原町は浅草の映画館街が近い、菊屋橋は調理・家庭用品の問屋街、上野駅・上野広小路はアメ横、上野広小路は上野松坂屋デパート、万世橋は秋葉原電気街・交通博物館、神田須田町はここから神保町方面へ歩いていくと三省堂書店をはじめ古本屋街、そしてその先は靖国神社へと通じる広い通りである。

 ハゼを釣りに月島方面へも都電に乗ってよく行った。月島方面へは、本所吾妻橋という都電駅で乗り換え柳島からやってくる月島行き都電に乗り換える。柳島は今東京スカイツリーで有名になった押上、業平橋付近にある。この柳島と月島間を走る都電の路線番号が24番であることと、前述の向島−須田町間を走る路線番号が30番であることは今でもようく覚えている。

 6月11日に熊本へ行ったら、駅前を市電が走っていた。そこで、日本で市電が走っている市は幾つぐらいあるのか調べた。その結果、北から札幌市、函館市、秋田市、仙台市、東京都、川崎市、横浜市、富山市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、呉市、熊本市、鹿児島市、北九州市と1都、16市で路面電車が走っていることが分かった。いつか、これらの全ての電車に乗ってみたい。川崎市電(1944年)を除き、いずれも私が生まれる以前に走っていたのには驚く。一番古くから走っていたのは京都市電で1895年、次いで名古屋市電1898年である。ということは、古くは117年前から走っていたことになる。開業当初は民営であったそうだがそれが市営化されたところが多い。

 よく路面電車のことを「チンチン電車」ということがある。それは、運転手と車掌との情報交換手段としてベルを「チンチン」鳴らすのでそう呼ばれていた。そのベルには以下のような約束がしてある。走行中に電車が停留場に近づいたとき「チン」と1回鳴らす、それは「降りる客があるため停車せよ」、停車中に「チンチン」と2回鳴らすとそれは「乗降が済んだので発車してもよい」、「チンチンチン」と3回以上の連打は「直ちに停車せよ」または「停車する(非常停車)」などと約束がなされている。無線あるいは有線の音声による情報交換ができなかった時代に考えられた運転手と車掌とのコミュニケーション手段である。このような原始的な情報交換の方法には、手旗信号、モールス通信、のろしがある。情報は、情報交換する人同士の約束と情報を伝えるための媒体の変化が必要である。上述したチンチン電車は、チンチンの音の回数に対する約束、それに足でベルを鳴らすか、紐を引いてベルを鳴らすかして音(空気の振動)という媒体の変化を利用した情報伝達である。

 今は荒川線のみになった都電であるが、中学、高校、大学時代にはその都電に毎日お世話になった懐かしい乗り物である。その都電荒川線に乗って、大塚駅から三ノ輪駅まで乗ったり降りたりしながら下町を3月28日に散策した。昔よく利用した都電は写真1であるが、今では写真2〜4のようなモダンな形に変わった。

写真1:飛鳥山公園に保存されている都電
写真2:大塚駅で乗った都電
写真3:大塚駅周辺を走る都電
写真4:終点三ノ輪橋で発車を待つ都電

2012.6.29







2012/06/21 22:41:14|研究・教育の思い出
奇遇とはこうゆうこと!

 月曜日から金曜日まで泊りがけで看護大学1校、看護専門学校4校の講義の旅を続けている。「人間工学」30単位の講義を各学校で担当しているが、看護専門学校では1日に4単位(180分)の講義を行う。ところが看護大学では1日90分の講義が多いので、大学の講義はもうしばらく続く。講義をしている専門学校の1校に成田市にある一葉福祉学院介護福祉学科がある。この学科での今年度の最終講義が6月15日(金)に終わり、これで一連の平成24年度(前期)講義が大学1校を除き全てが終了した。

 京成成田駅とJR成田駅の中間あたりから成田山新勝寺へ通じる参道がある。一葉福祉学院は、その参道沿いにあって両成田駅から5分という極めて立地条件(写真1)のよい、小ぢんまりした家庭的な雰囲気のある門前町の学校である。専任の先生たちは若く、学生たちのお兄さんお姉さんという感じがする(写真2)。この学校の牽引力となる若い副学院長M先生が在籍されている(写真3)。先生方も気さくなら学生も気さくで明るい学生たちだ。介護福祉士を目指す学生さんには、大学卒業者、主婦、新卒者など様々な人(写真4)が学び、それぞれ将来を見据え、介護・福祉に関わる勉強をしている。私の講義は人間工学、介護に直接関係ないように思われがちだ。しかし、この分野では、重い利用者や高齢者の方々を移乗といって、ベッドから車いすへ移す場合、あるいは移動といってベッド上で寝相がわるくて枕元から位置がずれたような場合に元へ戻すような身体力学的負担が大きい作業が多い。このような場面で腰痛をはじめとする脊椎障害を起こす可能性が多いことを話し、その対策を講義する。

 表題の奇遇について以下に述べる。何年か前、始めてこの学校に講義に来たとき私の経歴紹介で「東工大(東京工業大学)」という1項目があった。M先生はこれに気が付き、私に東工大のどちらにという質問があり「制御工学科」と応えた。すると、M先生は「実は父はこの学科の教授で森田矢次郎といいます」といい、何年か前に亡くなったといわれた。確かに、何年か前に森田矢次郎先生を偲ぶ会に出席したので、今ここでお会いしているM先生は森田矢次郎先生のご子息に間違いないことが分かった。

 森田矢次郎先生といえば、計測工学の権威で東工大の著名な先生であった。私は東工大に昭和49年〜昭和62年まで助手として在籍したことがあり、この間、森田矢次郎先生には大変お世話になった。東工大在籍当時の上司はロボット工学で著名な森政弘先生で、森教授室の前に森田教授室があった。そのため、別室にあった私の研究室から教授室に用事があってくると廊下で森田先生によくお会いした。特筆すべきことは、森田先生が私の博士論文の審査員(主査は森政弘教授)のお1人であり、書きあげた英文論文をよくお読み頂き、コメントをいただいたことである。なぜ、英文の論文かというと、論文はネパールへの技術支援に関するものであるからネパール政府にもこの技術を知らせるため英文で書いた。当時、KJ法の川喜田二郎先生からネパールへの技術支援ということで、自然力ボート開発依頼が森教授のもとになされていた。その開発研究を私にまかされ、川の流れのエネルギーで100mほどの川幅を渡れるボートを創造する研究を行った。あらかじめ日本で各種ボートの渡河実験を行い、現地で実用化するボートの試作や予備実験を行っていた。ネパール王国のトリスリ川の川原でテントを張り、ヤマハ発動機の支援を受け、日本から空輸したガラス繊維や樹脂を使いFRP(浴槽と同じ材料)ボートを作った。このボートの開発研究と現地ネパールでの実用化試験の模様を1985年に英文論文「Studies on The Practical Use of Stream Propulsion Boats」にまとめた。本来、ロボット研究をしていたのでロボットに関する研究で論文を書く予定にしていた。しかし、自然力ボート開発に7年も費やしたので、森政弘教授から自然力ボートでまとめたらどうかといわれ論文を書き、それが私の博士論文となった。

 このとき、博士論文審査員であった森田矢次郎先生から英文の論文を完成させるためにインド人の大学院留学生を紹介していただいた。英語が堪能な彼とともに英文の博士論文を苦労して作成した経緯がある。さらに、本来、英語が堪能な森田矢次郎先生がフィリピン大学へ行く予定であったが急きょ行けなくなり、私にマニラにあるフィリピン大学で計測・制御工学の講義をしてきてほしいと言われた。光栄なことと思い、お引き受けし2週間ほどマニラにいったことがある。そのとき、マニラに着き大学キャンパス内の宿泊所へ行ったところ宿泊所が火災で消防自動車が消火活動を行っているところに出くわした。当然、泊まれないので別棟の宿泊所へ移り、2週間の講義をたどたどしい英語で行った懐かしい思い出がある。このことを今でも思い出し、たどたどしくない英語をしゃべりたく英会話に夢中になっている。

 当時、東工大制御工学科ではモノづくりの大切さを学生に知ってもらうため、創造工学とか「乾電池1個で人を乗せて走る車」を作る実習があった。これらの講義や実習を指導されていたのが森先生、森田先生である。この講義風景がNHKで放送され、後日、NHKのロボコンに発展し有名になった。

 以上のように東工大で大活躍され、なおかつ、30年ほど前になるが私の学位論文審査委員のお一人で大変お世話になった森田矢次郎先生のご子息に一葉福祉学院でお会いできるとは奇遇であるとしか思えない。今では、一葉福祉学院に講義に行くたびに、よく東工大在籍中にお世話になった森田矢次郎先生の思い出をM先生と語ることが多くなった。

写真1:門前町にある一葉福祉学院の案内(この案内左に学校がある)
写真2:静かな教務室風景と専任の先生
写真3:森田矢次郎先生のご子息で副学院長のM先生とツーショット
写真4:仲良しになった学生さんとスリーショット







2012/06/18 8:30:43|思い出
眞喜子が立てた!

 3週間ほど前、眞喜子が突然腰痛におかされ立てなくなったが、その眞喜子が再び立てるようになった(写真1)。立てるようになると花好きな彼女はまず庭先にでる。バラが大好で庭にはいろいろなバラを植えている。きれいに咲いたバラを切りだし花瓶に飢えた(写真2)。これが立ち上がれてから行った最初の仕事である。

 4月初めごろから、まず、両腕が上がらなくなり整体院に通いだした。その原因はパッチワークのやりすぎだと本人は自覚している。腕は上がらないが普通の生活はできていた。それから2カ月が経った6月初めのある日、読み終わった古新聞の束を持ち上げ、急に腰痛になったといい立てなくなった。

 1週間ぐらい寝たきりに近い状態を過ごした。この間、私は月曜日に自宅を出ると金曜日に帰宅するという講義の旅に出ていた。そのため、彼女の看病はできないので、帰宅した土日に食料品と彼女が望む日用雑貨を買い出ししておいた。眞喜子は普段なら整体院まで自転車で通うが、立てなくなってから時間をかけ地面を這うようにしてゆっくり整体院に行っていたという。幸いにも我が家には可視光線療法の装置がある。これは、だいぶ前に私が腰痛をおかしたときに買ったもので、昔の映画館で使っていた光源のアーク灯のようなものである。光線療法・治療用カ−ボンという黒い二本の棒を接触させるとまぶしい光を発するものである(写真3)。その光を腰部に当てると、腰痛が治る(可能性がある)という光線療法である。整体院に通い、そこでも光線療法を行っているようだが、我が家でも同様な装置で光を何回か腰部に当ててやった。

 真喜子の腰痛発症から3週間が過ぎた。その間、腰と肩には痛み止めの大きな絆創膏を貼り、なおかつ整体院に通い、上述の光線療法を併用してきた。その甲斐あって鑛一の最後の講義の旅が終わる15日(金)ごろからベッドや椅子からの立ち上がりが容易になった。

 立てるようになると早速行動範囲は広がる。1ヵ月前に知人の一人から所属する「文京白山フィルハーモニック」定期演奏会の招待券(写真4)をいただいた。眞喜子の腰痛で行けるかどうか危ぶまれたクラシック音楽の演奏会に昨日(6月17日(日))に行き、午後のひと時をベートーヴェンの「エグモント」、ビゼーの「カルメン」、ブラームスの「交響曲第1番」を聴き、感動して帰宅した。

 演奏会は午後1時半からなので、早めに自宅を出て、池袋西武デパートで食事。眞喜子が椅子から立て、立派に歩けるようになったので、そのお祝いを兼ね、昼食としては少々贅沢な中華料理を食べた。これで、腰は嘘のように回復したようだが、まだ、腕の痛みが残っている。両腕が上がるようになれば完璧で、そう願い眞喜子は今日も整体院に通う。鑛一は、講義の旅は終わったので泊りがけということはないが、7月中旬まで1校だけ残された講義をしに今日も宇都宮まで出かける。

写真1:立てるようになった眞喜子
写真2:彼女が愛するバラ
写真3:可視光線療法はこうして腰に光を照射する
写真4:「文京白山フィルハーモニック」定期演奏会招待状

2012.6.18







2012/06/14 17:55:12|小さな旅の思い出
佐賀、福岡、熊本ひと回り!

 ANAでもJALでも会員で高齢者は空席があれば国内どこへでも¥12170で行けるサービスがある。眞喜子の腰痛が気になるが、羽田空港12時40分発のANAで佐賀に向かう。めったにないことだが、テレビでよく見るお笑い芸人「はなわ」、漫才師B&Bの「島田洋七」が一緒の便であった。「はなわ」は息子の嫁と中学時代に同級生であったという。同乗した人物が「はなわ」かどうか不確かであったので彼が佐賀空港出口からでてくるのを出迎えてくれた嫁夫婦と待ち構え、確認したところ間違いないことが分かった(写真1)。一方の島田洋七は、確か広島の「もみじまんじゅう」という言葉をよく使っていたのを思い出す。彼は「佐賀のがばいばあちゃん」の著書でも有名になった。何年か前に佐賀に来た時、映画「佐賀のがばいばあちゃん」宣伝のための講演会に出くわし、そのとき彼の話を聴講、映画「佐賀のがばいばあちゃん」も観る機会を得た。その後、何冊か「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズの本も出版されたので、全部読んだ。その中で、「通知表は、0でなければええ。1とか2を足していけば5になる。人生は総合力だ!」、「いつまでも夢を追い続けよう。叶わなくてもしょせん夢だから」、「生きていることが面白い。なりふりかまうより、工夫してみろ」などがばいばあちゃんの名言がいくつもあり、感動した。乗り合わせた2人の芸能人は、両人とも佐賀人なので佐賀でなんらかの催し物があったのかと推測される。

 孫は今年小学校1年生(写真2)。生まれて半年のときに息子一家が孫をつれ定年退職時の最終講義を聴きにきてくれたのを覚えている。早いものであれから7年の年月が流れた。大きくなった孫に会い、孫一家と夕食を共にし、その翌日は日曜日で授業参観ができるというので、午後の学会発表で時間がないが1時間目の国語の授業だけを参観した。一番後ろの席で国語の教科書を元気よく読み上げていた孫の姿に感動。2時間目は体育の時間、相撲をとるというので見たかったが時間が無い。

 1時間目の参観が終わると息子が佐賀バス停留所まで送ってくれ、福岡天神までバスで移動。今回の九州行きの目的は、九州大学大橋キャンパスで開催の日本人間工学会の全国大会で発表するためだ。発表題目は「注射針の反り測定装置と反り量の測定例について」で、穿刺時に注射針が反るというので、その反り測定装置を開発したので報告した。写真3は共同研究者の一人と会場入り口の案内掲示板前で撮ったものである。これは学会出席の証拠写真である。

 我々の発表は大会最終日(6月10日(日))午後であったので、発表終了後共同研究者を空港まで見送り、空港で夕食を共にした。その後、博多駅に戻り九州新幹線で熊本へ移動し、駅前の東横イン熊本駅前に宿泊。翌11日(日)は、熊本大学のS先生からの依頼で、国立療養所 菊池恵楓園で働く看護師さんの看護研究会に参加した。研究会は午後2時から、それまで時間があるというので午前中は熊本城を案内していただいた(写真4)。

 私に課せられた課題は、看護師、介護士さんが畳の部屋で寝起きしている患者さんを介助する場合に脊柱障害を発症することが多いので、その原因解明の調査とその予防のための研究助言ということである。1995年ごろ、腰痛発症の現状を調査するため、日本と英国の看護師さんの腰痛発症の現状を調査したことがある。調査結果を発表しておいたので、それが縁で今回熊本とチャンネルが結ばれた。S先生は、20人ほどの看護師さん全員の指導、私は腰痛に関する調査研究をするというその一部の看護師さんグループと一緒に考え、議論する場に参加した。

午後4時、研究会終了。雨が降り出したが空港まで車で送っていただいたお蔭で、17時40分発のANA羽田行きに間に合い、夜9時には入間の自宅に無事帰れた。2泊3日で九州の佐賀、福岡、熊本の3県を移動し、初期の目的を無事に達成できた。大きくなった孫にも会え、それぞれの訪問先で有意義な時間を過ごすことができた。【2012.6.9〜11】

写真1:空港出口から出てくるお笑い芸人“はなわ”
写真2:1年生の孫が重いランドセルを背負って登校
写真3:日本人間工学会全国大会会場(九州大大橋キャンパス)入り口にて
写真4:S先生に案内いただいた熊本城にて

2011.6.14   コンフォートホテル成田にて記す