谷中霊園内の散歩を終え、言問通りにでる。その角にある旧吉田屋酒店(今は下町風俗資料館附設展示場)へ立ち寄り、昔の酒屋の様子を眺めることができた。実は、私は酒屋の長男であったので、この旧吉田酒店内を懐かしく見まわした。終戦前まで、父親は城東区亀戸町1丁目の亀戸天神横で酒屋を営んでいた。戦車を通すため道路拡張するとのことで道路沿いの近所一帯は強制退去させられ、家族は江東区大島町3丁目へやむなく引っ越しさせられた。小学校は亀戸香取小学校から第三大島小学校へ移った。戦火が激しくなったということで、小学校3年のとき(昭和19年)山形県小野川温泉へ最年少で集団疎開した。疎開中の昭和20年の3月9日の夜、大空襲で米軍機B29から投下された焼夷弾により大島の家は失った。その夜、両親は1人の弟を背負い、もう1人の弟の手をひき、水をかけた布団をかぶり、死体をよけながら大島から言問橋の袂まで逃げ延びたという話しを後日聞いた。昭和20年終戦の年に山形から帰ったが、亀戸、大島の下町は全焼し焼野原であったことを記億している。集団疎開から帰ると、両親と2人の弟は、隅田川に近い向島町1丁目に移り住んでいた。
小学校へ入学したのは亀戸の香取小学校である。この学校から第三大島小学校へ、そして山形へ1年間集団疎開、疎開から帰ったら向島の第一寺島小学校へ通い、最後はこの学校を卒業した。こうして、小学生時代は3つの学校と1年間だが山形(小野川温泉)での集団疎開で教育を受けた。また、短い期間であるが、自宅は亀戸、大島、向島と引っ越しを繰り返した。戦前・戦後にまたがり、食べ盛りの男ばかり3人の子供を育てた両親は相当な苦労したはずである。その父親は67歳で、母親は83歳で他界した。酒屋であった父親は招待されよく国内を旅行したと自慢していた。今生きていれば、外国旅行に連れて行くのだが。「親孝行したいときには親はなし」で残念である。私は今年で父親の年齢より10歳余計に生きている。健康なうちは、もう少し動き回りたいと思っている。
旧吉田屋酒店を訪れ、酒樽やお祝い用の朱色の酒樽を見たら、戦前酒屋であった亀戸の自宅を思い出し、つい上述した小学生時代のことも思い出した。旧吉田屋酒店を出てから指人形店「笑吉」へ移動。ここは指人形店であるが、20人ほどしか入れない小さな指人形芝居小屋でもある。滑稽な顔つきの指人形を一人の男性が操る「笑える指人形芝居」を見せてくれる。酔っ払い、釣り人などと題名をつけた10の演目について、可笑しく笑える演技を30分間にわたり披露してくれた。大変面白い指芝居である。その後は、雨が降る中アメリカ人が日本に住みつき掛け軸を業としている店を訪れた。そして、昔、藍染川であったという川の上を利用し作った曲がりくねった「へび道」を歩き地下鉄千駄木駅近くまで来た。この時点で、腰部に支障をきたしたので、皆さんと別れ帰路についた。
私が生まれ育ったのは東京の下町。戦前・戦後の子供のころよく見かけた風景が今回の谷中界隈の散歩で見ることができ、懐かしい昔の思い出に浸ることができた。毎度のことだが、どなたかが計画・広報しない限りこの種の有益な散歩は不可能である。今回は、谷中の住人で地元に詳しい半谷会員が案内され、実施するまでの準備を川本、加藤、伊藤、才野の各会員がしていただいた。皆さんに感謝いたします。【2012.10.3】
写真1:旧吉田屋酒店の内部に飾ってある酒樽 写真2:お風呂屋を改造した博物館 写真3:猫に関連するものばかり売っているお店 写真4:笑える指人形芝居の人形
2012.10.6 自宅にて記す |