倭国(日本)への仏教伝来の道程(その3)序文(その1と同文)「仏教の伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。
また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。
そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
1.教義が多くの人によって支持されること。受容の風土があること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。
入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、長年に亘ってブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、33項、
項目番号 項目タイトル で表し、
大項目内に中項目を
中項目番号 中項目タイトル で表し、
更に中項目内に小項目を
【小項目番号 小項目タイトル】 で表しました.
前回までの第一回と第二回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回は以下を取り上げました。
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
第二回は以下を取り上げました。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、 11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13) 仏教迫害・弾圧
14) 高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15) 飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16) 前秦の苻堅
17) 中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18) 梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
【仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
【阿育王山石塔寺】
そして以下に今回(第三回)取り上げる項目を示します。
21)阿育王山 石塔寺と聖徳太子
22)五台山
23)外国から見た倭国(日本)
24) 呉の太白(ごのたいはく)、徐福(じょふく)伝説、始皇帝死後の平和俑(へいわよう)
25)弓月君(ゆづきのきみ)、阿智使主(あちのおみ)
26) 中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
21)阿育王山石塔寺と聖徳太子「石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院と伝えられています。伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願(本願)の寺院で、本願成就寺と称したといいます。
聖徳太子創建との伝承をそのまま史実と受け取ることはできません。しかし、石塔寺がある滋賀県湖東地区には他にも西国三十三所札所寺院の長命寺(近江八幡市)、百済寺(ひゃくさいじ、東近江市)など、聖徳太子創建伝承をもつ寺院が多く、この地が早くから仏教文化の栄えた土地であるとともに、聖徳太子とも何らかの特別なつながり、例えば聖徳太子は渡来人の血筋、のあったことを思わせます。
石塔寺境内にある数万基の石塔群の中で、ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承があります。「平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照(せきしょう)法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って、三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔(ぶっしゃりとう)のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いたのです。
寂照は、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、阿育王塔が出土しました。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号したとなっています。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたといわれています。
湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡尚、ここで留意すべきは「百済系の渡来人」と言う中に、「百済経由で来た土着以外の渡来人」例えば、「弓月君」や「東漢人」も含まれるということです。
以上のエピソードで注目すべきは、「長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中」という箇所であり、「五台山」で検索すると唐、宋時代に多くの日本人留学僧が五台山に滞在しているとあります。
22)五台山「五台山」は北京とほぼ同緯度、数100km西にある現在の山西省大同市にあり、この地は、仏教に対する庇護、廃仏希釈を繰り返した五胡の一つ北魏にある山岳仏教のメッカです。注目すべきは、日本人が幾人も「五台山」に滞在していたという点です。
また、この話から、仏教の伝来が、シルクロード⇒朝鮮半島⇒百済⇒倭国(日本)という経路ではない、例えば、インド⇒大月氏⇒シルクロード(北魏)⇒南朝諸国⇒東シナ海沿岸の港湾都市⇒琉球⇒倭国、という伝播ルートの可能性があり、伝播の担い手は、中国で仏教弾圧をうけ、それから逃避した中国人仏教僧や、倭国から仏教学僧として中国に滞在し、仏教の修行が終わり帰国しようとしたが、時の中国皇帝らの高官から帰国を邪魔され、死亡したことにして帰国した遣隋使以前の中国遣梁使という可能性があるのでは?と思っています。
以上のことに、別項で触れようと思っています。
インドで生まれた仏教が遅くとも1世紀前後に中国に伝来、372年に高句麗へ伝来、384年に百済へ伝来、その後538年に日本へ伝来されたと言われています。しかし、それはあくまで公伝であり、日本という国に、仏像や経典、仏具などと一緒に公式にもたらされた年であります。
そしてそれが受容されて初めて公伝となる。事前にその宗教の概要を分かってないのに、受容することはあり得ず、何らかの予備的交渉や根回しがあったはずであり、その為の関連情報を基に日本の土着信仰である八百万の神や神道との比較、そしてそれらの宗教に馴染んできた日本人に対する益、不益についての考察もされていたのではないかと推測できます。
しかし、そのようなプロセスを踏襲するには、時間がかかるので、取りあえず正式に上記の物品を受領したことを仏教公伝と言っているだけで、教義の理解や評価はその後、時間を掛けて、ということになり、それを初めて行ったのが聖徳太子による「三教義疏(さんきょうぎしょ)」、空海の「三教指帰(さんごうしき)」、更に鎌倉仏教に現れた親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などでありましょう。
公伝ではない伝来の形を、正しくはないかも知れないが、間違いとは断言できない形を模索しようと試みるつもりです。
23)外国から見た倭国(わこく)日本つぎに、倭国(日本)が仏教公伝前後まで、当時の諸外国からどの様な国とみられ、どのような人物が、倭国(日本)に渡来して重要な足跡を残したかについて記すことにします。
最も古いのは、既にふれたが、大月氏関連の人達で、この人々は原日本語を話す民族としても知られ、大月氏の部族は、姜族(きょうぞく)であり、姜族の一族後裔としては、周公旦(しゅうこうたん)や、姜子牙(きょうしが)(即ち太公望(たいこうぼう))、更には秦の始皇帝もその一族という見方があり、民族種としては、原日本語を話す民族であり、古代イスラエル人であるユダヤ人と大和民族は同祖であり、言葉や、読み、習慣が似ているだけでなく、新天地を求める気概が似ているとの見方があります。
そして、その気概に基づいて、中国春秋戦国時代に倭国に渡ってきた人たちがいた。先記の周公旦や、姜子牙、即ち太公望、は現在の山東半島に位置する王朝の話でありますが、それ以外の地から中国春秋時代に、倭国に渡来した人たちがいたという話があります。
中国では倭人を「呉の太伯(ごのたいはくの子孫」とする説があるようです。中国春秋時代に、今の江蘇省の港湾都市 蘇州 あたりに呉という国があり、その国を治めた太白(たいはく)という人物がいたのですが、倭人(日本人)はその太白の子孫という話が伝えられているのです。
24)呉の太白(ごたいはく)、徐福(じょふく)伝説、始皇帝死後の平和俑(へいわよう)太白は呉の前身の句呉(コウゴ)を建国した人物であり、後には孔子の青年時代に大きな影響を与えた季札(前575ころ〜前485ころ)がいて、北の孔子、南の季札と言われ、聖人と見做されていた人物が出ています。
この様に、この時代、即ち、神武天皇と同じくらいの時期、あるいはそれ以前に、倭国に渡ってきた中国人がいたということは、倭国の八百万の神信仰の雰囲気を感じ取って、また中国に帰っていった人たちがいたのではないかと言うことです。
この時期が神武天皇の時代とされている紀元前600年頃に相当します。その後の時代が秦の始皇帝で、蓬莱の国(ほうらいのくに)に不老長寿の薬草を求めて徐福に命じて、大挙して倭国に上陸させ、不老長寿の薬草を求めさせたが、結局、徐福は倭国各地に足跡を残したが、帯同した老若男女、衣食住を支える技術集団ともども中国に戻ることはなかった。
また、徐福は倭国の人達が八百万の神信仰で平和に暮らしている姿を見て、その信仰に溶け込んでいったのかも知れない。
あるいは秦の始皇帝は不老長寿の薬草が無いことに気付いていたが、蓬莱の国で平和に暮らす民のありさまを、帯同した老若男女、衣食住を支える技術集団にコピーさせ、彼らの帰国後、そのユートピアを自分の死後兵馬俑(へいばよう)ではなく平和俑(へいわよう)として地下陵墓にペーストさせ、死後の世界、平和俑(へいわよう)が永遠に続けば、それが不老長寿に等しい、と考えていたのかも知れない。
また始皇帝が京抗大運河を構築しようとした狙いは、秦の版図を中国大陸南方まで拡大する時の進軍の為の水路とされているが、もう一つの狙いは蘇州や杭州まで京抗大運河、その先は海路で蓬莱の国への航海で、大海への版図拡大をも夢見ていたかも知れない。
始皇帝の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の坑儒は倭国の民が八百万の神信仰で平和に暮らしている姿を知り、理屈ばかり論じる儒教という信仰は民を幸せに導くのに役立たないと悟った結果かも知れません。
25)弓月君(ゆづきのきみ)、阿智使主(あちのおみ)そして次に重要な足跡を遺した渡来人としては、「弓月君」で、倭国に渡来後は後に大和王権の樹立に寄与したり、地方豪族となり、地域おこしに日本全国に足跡を残した秦氏、そして後漢霊帝の子孫で、倭国に渡来後は東漢人(ひがしのあやひと)として、やはり大和王権で活躍した阿智使主が重要で、子孫として、後の武神と言われた坂上田村麻呂がいる。日本各地に阿智神社があり、長野県には阿智市があります。日本各地、特に東北地方には多くの祀る神社があり、祀られていることからも彼らが大きな足跡を日本に残したことがわかります。
このことに関し、筆者の
ブログ「槐の気持ち」付録「駒形神社」随想で紹介しているので、詳細はそれをご覧ください。
その他、王仁、観勒、曇徴らが渡来しています。彼等の仏教、儒教、道教等の信仰に関わるエピソードを以下に簡単に紹介しておきます。
いずれもWikipediaから抜粋転記となります。
【
王仁(わに)】王仁は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である(記紀には「辰孫王」の記述は無い)。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ、『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と言われているので、儒教を信仰として伝えたものと言える。
【
観勒(かんろく)】602年(推古天皇10年)に渡来、天文、暦本、陰陽道を伝える。書生を選んでこれらを観勒に学ばせた。
即ち暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、方術は山背日立を学ばせ、みな成業したという。
暦本は604年に聖徳太子によって採用された。但し正式な暦法の採用は持統朝である。このように仏教だけでなく天文遁甲や方術といった道教的思想もまた、まとまった形で観勒によってもたらされた。その後、後624年(推古32年)に日本で最初の僧正に任命された。
【
曇徴(どんちょう)】610年3月に高句麗の嬰陽王が法定とともに日本の朝廷に貢上し、来日した
僧である。『聖徳太子伝暦』(917年、または992年成立)には、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させたとある。曇徴は、前世では南岳恵思禅師(ここでは聖徳太子の前世)の弟子であったと言上しているらしい。曇徴は
中国古典に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼を動かした」とあるのが文献上の初見である。これだけの人材であれば、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させた、のも肯定したくなる。
26)中国の石窟寺院そして次に少し話題を変えて、これまで筆者が訪れたことのある中国の石窟寺院や石刻(せきこく)寺院についての話題を取り上げたいと思います。取り上げる石窟寺院は、莫高窟(ばっこうくつ)、雲崗(うんこう)石窟寺院、竜門(りゅうもん)石窟寺院、響堂山(きょうどうさん)石窟寺院、ベゼクリク石窟寺院、そして石窟寺院とは言えないかも知れませんが、アスターナ古墳、大足石刻寺院(だいそくせきこくじいん)を、更に現代版石窟式住居について簡単に紹介し、詳細は
筆者のブログ「槐の気持ち」で紹介しているので、そこから抜粋転記して、紹介したいと思います。尚今回は上記のうち、竜門(りゅうもん)石窟寺院以降っは紙面の都合で第四回での記載となります。
先ずは敦煌市にある莫高窟です。
@)敦煌 莫高窟『甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡。千仏洞(せんぶつどう)・敦煌(とんこう)石窟とも呼ばれる。4世紀から約千年間、元の時代に至るまで彫り続けられた。大小492の石窟に彩色塑像(さいしきそぞう)と壁画(へきが)が保存されており、仏教美術として世界最大の規模を誇る。1900年に敦煌文書が発見されたことでも有名。雲崗石窟(うんこうせっくつ)、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)とともに中国三大石窟(中国語版)のひとつに数えられている。
現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。
壁画の様式としては五胡十六国北涼、続く北魏時代には西方の影響が強く、仏伝・本生譚(ほんしょうたん)・千仏などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになる。
期間的に最も長い唐がやはり一番多く225の窟が唐代のものと推定され、次に多いのが隋代の97である。北宋から西夏(せいか)支配期に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏代のものは20、次の元代の物は7と推定されている。この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、特に1372年に完成した嘉峪関(かよくかん)を設置以降、関の外に置かれた莫高窟は忘れられた存在となる。
作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔(らくそん)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良(ほうろう)、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼(ほくりょう)の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。
莫高窟は、1900年に発見されるまで、500年以上も人々の記憶から忘れ去られ、砂漠に眠っていた。それが中国の敦煌という都市にある「莫高窟」という世界遺産。莫高窟には多くの壁画や仏塑像(ぶつそぞう)が安置されており、かつての中国仏教の信仰の姿をうかがわせます。
敦煌は遥か昔からシルクロードの要所として栄えた砂漠のオアシス都市。敦煌より西域の宗教や文化は、すべてここを通って中国へ広がりました。敦煌は中国における仏教布教の拠点であり、莫高窟はさまざまな国の僧侶たちが仏典の研究に励み、布教に尽力しました。
筆者は40歳の時に、会社のリフレッシュ休暇を使って、北京⇒西安⇒敦煌⇒西安⇒北京の旅をしました。余程敦煌が気に入ったという表情を現地ガイドに見せたのでしょう、ガイドさんが気をきかせて、敦煌滞在を一日鵜やしてくれました(その代わり西安の滞在が一日減りましたが)。その敦煌での目玉観光が、一日は莫高窟、そうして、もう一日がラクダに乗って月牙泉(ゆいがせん)や自分の足で鳴沙山(めいさざん)の砂漠の尾根に登るというものでした。
月牙泉は鳴沙山の北麓に位置する三日月形の湖です。別名薬泉(やくせん)ともいいます。以前は、今の約5倍の大きさだったといわれています。2000年という時を刻みながら、絶えることなく沸き続けているといわれ、透明な美しい水をたたえています。
砂漠の中にあって実に不思議な存在です。古来、仙人が住む場所として寺院が建てられたこともあったようで、現在でも対岸正面に立派な寺が建っています。また、月牙泉の砂丘すべりは厄除けとして知られています。鳴沙山では、自分達だけで砂漠の尾根まで登りました。また、初めてラクダにのり、砂漠を移動したのを覚えています。
残念ながら、ここを訪れた時はまだブログを始めていなかった為、旅行記は無く、莫高窟の壁画と塑像(そぞう)ばかりが強く記憶に残りました。また莫高窟の保存に平山(ひらやま)郁夫(いくお)が支援していることが記されていて、なんとなく誇らしい気分になったことも覚えています。
A)雲崗石窟寺院 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと山西省大同市(だいどうし)にあるが、最初は華厳宗(けごんしゅう)寺院を訪問することが目的でしたが、旅行会社がアレンジしてくれたコースの最重点観光地が雲崗石窟(うんこうせっくつ)寺院だったのです。それほど期待はしていなかったのです。敦煌の莫高窟が壁画や塑像を主体としていたのに対し、ここは殆どが彫像(ちょうぞう)であり、その数は5万1000にも及ぶとのことでした。それらが東西に配置している。東(写真右手)から第一窟、第二、・・・中略・・・、となっているが、古い順ではないとの田さんの説明でした。
東側から見学することにした。第一窟と第二窟は共に中心仏塔式建造物となっている。即ち仏塔が窟の中心にあり、その天蓋(てんがい)が窟の天井部へと繋がっている。窟の周囲の壁にはいくつかの石像が鎮座していたが、その石像のうちいくつかが頭部のみ盗み取られ、なくなっている。
イギリスの探検隊とも日本の探検隊とも言われている。他国の文化財を持ち出すだけでなく、仏の頭を壊損させてしまうとは二重の罪を犯しているようなものだ。
次に第三窟である(上写真右写真)。奥行き、高さとも規模が最大で、雲崗石窟の東端に位置する。北魏の皇室の雲崗石窟の掘削も第三窟に始まり、第三窟に終わったと言われている。
色彩という点では他の窟に及ばないが、雲崗石窟の第一号であり、道武帝(どうぶてい)から宗教事務を一任された法果和尚(ほうかおしょう)が何故このような、ここ武州山(ぶしゅうさん)のしかも石窟に寺院を建立したのだろうか。
その答えが田さんから安く購入した「雲崗石窟と北魏の時代」李恒成著、米彦軍訳 山西省科学技術出版社刊 に記述されていた。
要約すると、先ず第一に、鮮卑族(せんぴぞく)が洞窟住まいに慣れていたこと。第二に鮮卑族の発祥の地、嘎仙洞(かせんとう)と雰囲気が似ていた。そして、第三には武州山(ぶしゅうさん)にある最大の自然の洞窟で石窟寺院を創り易かった、とのことである。
ここで少し脱線しますが、ここへくる直前に現代版石窟居住者の住居を見学させてもらっていて。その様子を自分のブログ「槐の気持ち」に記載していますので以下に抜粋転記します
B)石窟に棲む現代版仙人 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>・・・前略・・・、途中休憩のため車を降り景色を眺めていると、田さんが、後を指さし、 「あの岩山に横穴が見えるでしょう。あそこに人が住んでいるのですよ。あの人がそうですよ。」と語りかけてきた。
たしかに岩穴近く(写真2上)で人らしきが動いているのが分かる。すかさず「側に行ってみることが出来ますか?」
とたずねると、OKの返事、住人の老人は誇らしげに内部を案内してくれた。
そこは、大同市渾源県東圪垞鋪村という住所で、張徳華という名前の人であると、ガイドの田さんがメモにして見せてくれた。
内部は寒さを全く感じず、清潔で、TVまであるのには驚いた。壁にはブロマイドやポスターなどが貼られていて、床にはカーペットまで敷かれていて(写真4上)、現代版仙人という感じがして、このような生活に満足していて楽しんでいるようにも見えた。穴の外にはとうもろこしや野菜が乾燥され、冬の食料の準備中という感じであった(写真3上,写真3下)。また箒のようにたなびいた姿をした箒梅(そうまい)という鮮やかな紫の草や、マリーゴールドの花が寒風に曝されてなびいていた(写真2中、下)。
仙人とのツー・ショット(写真下右端)などは一人旅ならではの面白い体験であった。外が寒いだけに石窟の中の暖かさが有難かった。またガイドの田さんに感謝であった。
石窟寺院を造るのには、掘削や内装に関わる工員や職人、更には監督者も近くに住みこむ必要がある。それは現在の住宅建設と同じで、彼らの住みこみのプレハブを近くに準備し、この住環境も住みやすく、安全、安心な環境が望まれる。住環境と言えば、先ず室温の管理、水回り、トイレだろう。恐らく古来から石窟寺院も同じであろう。大きな寺院建築では。先ずは、工人の住環境であろう。
その時、考えて分からなかったのは、マリーゴールドの花がどうしてそこにあるの?という疑問が湧いたのですが、今は、もしかして眼の働きをよくするルテインを摂取の為?きっとこの様な洞窟に住むのは現代であれば、高齢者であろう。加齢性網膜疾患(かれいせいもうまくしっかん)の予防かも知れません。
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き<ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記> 中に10mの弥勒仏が掘られているが、他は未完成で、固い砂岩の岩盤がむき出しになっている。余談だが、敦煌の莫高窟は、岩盤が柔らかい礫岩(れきがん)のために、巨大仏はほとんど掘られなかった。窟の地面に突き出た岩の上を田さんに続いて、ぴょんぴょんと飛び移りながら窟の奥の方へ入って行き、西の方に歩を進めると、三体の仏像に出くわした。
10mの弥勒仏(みろくふつ)(孝文帝(こうぶんてい)自身)を中心に西側に弥勒菩薩像(息子の皇太子元恂(げんじゅん))が、東側には女性と思われる弥勒菩薩像が掘られている。 中心の弥勒仏はどっしり構えた表情だが、西側の弥勒菩薩像は怒っているように見え、東側の弥勒菩薩像は西側に向かって、慈(いつく)しんだ表情をしている。
同著には、孝文帝と、孝文帝の徹底的な漢民族への同化政策に強く反対した皇太子との間の洛陽遷都に関しての骨肉の争いが紹介され、結局、孝文帝が息子を毒殺する破目になり、敬虔な仏教信者だった息子を往生させるために作ったのがこの第三窟とのことであった。
更に、孝文帝派(=遷都派=改革派)と皇太子派(=遷都反対派=保守派)との争いは続き、523年に平城北部に六鎮(ろくちん)の乱が勃発するに及んで、第三窟仏像彫りが止む無く頓挫した。この窟を掘削したことを通じて、北魏時代の民族融和の歴史を物語っている。
D)民族融和の歴史 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記> 鮮卑(せんぴ)拓(たく)跋(ばつ)氏(し)は北方少数民族として中国北方を制覇し、漢民族を含む各民族との同和、融合が余儀なくされた。この地が後に同じ少数民族の女真族(じょしんぞく)の遼(りょう)時代に大同という地名に変えられたことに納得できた。第四窟以降に関しても、その成り立ちやエピソードについてブログに詳しく記載しているので、それをご参照下さい。
E)石窟寺院の造窟方法 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記> 尚、ガイドの田さんの説明で、石窟寺院造窟(ぞうくつ)の謎の一つが解けたのでした。
田さん曰く、「石窟というのは下から上に彫り上げてゆくのではなく、上から下へ掘り下げてゆくのです。天窓は最初に窟の上部に入りこむ入り口で、この窓を最初に造り、そこから水平に掘り進んで行き、背丈ほどの高さまたは簡単な踏み台程度で届く高さで、奥行きのある空洞をつくり、同時に壁面や天井面に仏像を彫刻し、それが一通り終わると次に床面(岩肌)を堀下げて行きながら新たに現れた壁面に、像がつながるように彫り進めて行く」のだそうだ。
この説明で多くの謎が解けた。これまで高い天井や側壁上部に見事な形や色彩の仏像や飛天像が彫られているのを見てきたが、足場(あしば)として、高い櫓(やぐら)を組み、作業者がそこまで上って彫刻作業をしているものとばかり思っていたのである。
あるいは、先ず空洞を作ってしまい、また天窓も作ってしまい、そのあとで、壁面や天井面に諸像を彫って行くものとばかり思っていたのである。
しかし岩床面を彫り下げて行く方式であれば、足場は常に岩の床面であり、安定していて、彫像作業も楽な姿勢でできたに違いない。 しかし一方で、窟内の仏像の配置や彩色など造窟前に相当しっかりして精緻な設計図がないと、つなぎ目に狂いが出るなど完成度の低い窟で終わってしまうだろう。
この造窟責任者(造窟奉行)は、先ず造窟指令者(皇太后か孝文帝)の窟に架ける主題・目的を理解し、それに基づいて窟の設計、現場監督を兼任したに違いない。
その石窟責任者として、少数民族出身の甘爾慶時(カンジュルジャブ)(=王遇(おうぐう))が「魏・王遇伝(おうぐうでん)」に残されているらしい。巨額な費用をつぎ込んで窟建築に失敗したら大変である。皇太后や孝文帝の信任が厚く。しかも優秀な建築技術を持っていたのであろう。尚、王遇は姜族(きょうぞく)出身とのこと。太公望や始皇帝と同じであります。
F)皇帝一族の争いの歴史 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>465年5月、12歳の拓跋献文帝(たくばつけんぶんてい)が即位したが、その八ヶ月後、わずか24歳の皇太后が摂政を勤め、大量に漢民族の大臣を登用し、政治を担当させ、鮮卑人(せんぴじん)の権限が弱められた。
・・・中略・・・、当然ながら鮮卑人の反感を買い、献文帝は母(皇太后)の意に沿わず、鮮卑人に肩をもった。その一因となった母による慕容白曜(ぼようはくよう)の処刑に対する復讐として、母の恋人一家を殺したこと、さらに母による献文帝側の側近李欣(りきん)の殺害などの応酬が続き、母と子の間の確執は深まるばかりであったが、結局軍配は母側にあがった。
そして献文帝は在位5年で息子の孝文帝に皇位を譲った。その後も献文帝は戦争を機に政治介入を試み、ついに皇太后はひそかに献文帝を毒殺した。献文帝23才の時だった。
その20年後、その皇太后も崩御し、孝文帝は思うままに執政が出来た。皇太后崩御の年490年から495年のたった5年間で第5窟と第6窟が掘削されたのだ。
孝文帝の時代は北魏で最も安定した時代であり、この時代に造窟された第5窟と第6窟に棲む仏像の表情は柔和で、漢民族形式の仏、菩薩、護法(ごほう)、天人(てんじん)、飛天(ひてん)などのイメージを創出して、雲崗石窟スタイルが形成された。
そしてそのスタイルは益々芸術性を深め、仏像のみならず、その添え物や飾り物にも工夫が加えられ、雲崗石窟の彫像技術を最高峰に成長させた。それは、少数民族の鮮卑族が樹立した北魏王朝を後世に印象付け、その王朝の実力と国力と文化的格調の高さとを世人にアピールしました。
この窟を見ると、この窟の造窟に至るまでの、孝文帝の心の葛藤の様を思い遣ることが出来るような気がする。祖母の馮(ふう)皇太后、父献文帝をどのように見つめていたのだろうか。
たった五年で窟を完成した事実、窟内の仏像の柔和な顔つき、窟内に表現した釈迦の少年期までを描いた仏本行故事(ふつほんぎょうこじ)レリーフ、皆心の葛藤を収め、自らを慰めるための物語として使ったのではなかろうか。
以上の歴史からは、雲崗石窟寺院というのは、北魏王室の私有文化財と思えてならないのですが、仏教が翻弄(ほんろう)されたのか、北魏王朝が仏教に翻弄されたのか分からないが、中国全土にある石窟寺院が殆どどこの石窟寺院にも北魏時代に造られた窟という表示をよく見かける所を見ると、それ以上に同和(どうわ)の精神(せいしん)を大事にしたのである。そして、それは五胡十六国時代で多くの国家が乱立し、漢民族だけではなく、異民族国家も、もう少しまとまることが安定した世の中を作る為に必要不可欠、と感じていたのではないだろうか。
また以上の話から、一つの国家において、世継ぎが如何に大変かということが分かります。しかしこの時代、皇族内は何処でも同じように荒れまくり、皇族一族内の皇位継承に絡んだ殺し合い、近親結婚など乱れまくったのは、南北朝時代の南朝諸王朝や倭国(わこく)(日本)に於いても同様だったと言われています。また異常な程の仏教崇拝者まで現れることになります。この話題は、東晋と南朝国家の南宋、斉。梁、陳のところで触れることにします。
G)華厳三聖について <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと第十九窟は曇曜五窟(どんようごくつ)で最高の高さ17mの像で、仏教を復興させた文成帝を象徴している。この仏像と他の二体の仏像、普賢菩薩(ふげんぼさつ)と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)との三体を華厳三聖(けごんさんせい)と呼ぶのだそうだ。
こんなところに「華厳」という言葉が出てくるとは。文殊菩薩に対応するのは二代目で業績の芳しくない明元帝(みんげんてい)、普賢菩薩に対応するのが帝拓晃(たくこう)で、文成帝の父だったが若いうちに他界している。
滅仏(めつふつ)策(さく)の時、暗に僧侶達を庇護したという実績が評価され普賢菩薩とされたのだそうだ。
いよいよ曇曜五窟(どんよういくつ)の最後第二十窟である。ここは石窟前壁が崩れ落ち露天となっている。高さ13.7mの大日如来、即ち最高位の仏像である(写真3-4)。北魏後世の諸帝であり万世(一系を現している。
更に西に行くと階段が見え、ガイドの田さんに一人で見てきて良いと言われ、荒れ果てた感じの第二十一窟以降の石窟を目指した。更に行くと、石窟が天窓を同じ高さにして整然と配列しているのが分かる(写真4-1)。
全てを覗いてみるには時間が無さ過ぎなので、二、三覗いて見てから歩を戻し元の方へ歩いてゆくことにした。 遠くを望むと東の方角に山並みが見え、常緑樹が青々としていて、それがまるで北魏時代と現代を区画しているように見えた。(写真4-2)そして、視野を南に向けると石炭工場が整然と並んだ街並みが見えた(写真4-3)。田さんに「あれは石炭工場ですか?」と尋ねてみると、「いえ、あれは雲崗鎮(うんこうちん)という村ですよ。」とのことだった。
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)ここで、胡族(こぞく)が何故熱心な仏教信者だったかということだが、それには西域亀茲(きじ)(=庫車(くちゃ))出身の仏図澄(ぶつとちょう)の功が大きかった、と言っても良いだろう。
彼は儒家(じゅか)の反感を乗り越え、石氏(せきし)支配下の華北に入り、大衆の支持を得て、華北各地に八百九十三の仏寺を建て戦乱に苦しむ民衆の帰依(きえ)を得た。
その弟子道安(どうあん)は仏教教団の戒律を確立し、また仏者は皆釈迦の弟子なので、釈を姓とすることを主張した。現代の日本で浄土真宗の戒名に“釈(しゃく)”という文字を頭につけるのはここからきているのだろう。
この華北で北魏が栄えた頃、西域では亀茲から後に玄奘三蔵(さんぞう)が立ち寄ったことで有名な高昌国((こうしょうこく)に遷り代わり、遼東半島では高句麗、新羅、百済の時代、また日本は倭国(邪馬台国(やまたいこく))の時代であった。
中国は南北朝時代であり、北朝は隋の時代に至るまで北魏を初めとした東魏、西魏、北斉、北周が、また南朝は隋(ずい)の時代に至るまで東晋、宋、斉、梁、陳の順に主に江南の地に栄えた。
これら大陸の国々のうち倭国が接触したのは、遼東半島の国家としては、高句麗、百済、新羅で、北朝との接触は殆どなく、南朝では、東晋、南宋との接触があったが、斉、梁、陳との公式の接触はなかった。
また高句麗、新羅は北朝とのコンタクトがあったが、百済は最初は北魏に朝貢したものの、目的の高句麗攻撃の申請をしたことがあったものの、それが不成功に終わって以来接触が無くなった。従って仏教伝来のルートは北朝、遼東半島経由というより、南朝のあった江南の地経由で伝来したというのが考え易い。その裏づけとなるのが、仏図澄の弟子道安の存在がありそうだ。
道安は、北魏から襄陽(湖北)に活動の場を移し、江南の仏教に影響を与えた。その江南を訪問した倭国の使者が持ち帰った。或いは百済人や高句麗人も同行していたかも知れない。
第三回 完 第4回につづく