倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)序文(その1と同文) 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。
また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。
そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。
入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、 項目番号 項目タイトル(18pts)、で
大項目内に中項目を 中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
前回までの第一回〜第七回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回:1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
第二回:10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、 11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13) 仏教迫害・弾圧
14) 高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15) 飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16) 前秦の苻堅
17) 中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18) 梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
【阿育王山石塔寺】
第三回:22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26) 中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
第四回:27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞 マニ教
C)トルファン・火焔山
第五回:30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
【六趣唯心】
【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
【東近江市石塔寺エピソード】
【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
【平重盛/源実朝エピソード】
【道元阿育王寺行エピソード】
【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
第六回:33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
前回
第七回は、
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
[弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
そして、今回、
第八回は以下について記したいと思います。
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
@).聖徳太子
A)良弁
[飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】
【彫像】
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)序文(その1と同文) 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。
また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。
そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。
入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、 項目番号 項目タイトル(18pts)、で
大項目内に中項目を 中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
前回までの第一回〜第七回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、 11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13) 仏教迫害・弾圧
14) 高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15) 飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16) 前秦の苻堅
17) 中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18) 梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
【阿育王山石塔寺】
第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26) 中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞 マニ教
C)トルファン・火焔山
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
【六趣唯心】
【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
【東近江市石塔寺エピソード】
【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
【平重盛/源実朝エピソード】
【道元阿育王寺行エピソード】
【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
前回第七回は、
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
[弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
そして、今回第八回は
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
@).聖徳太子
A)良弁
[飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】
【彫像】
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所次に仏教が日本に渡来して以降、どの様に変遷したかを、担った人物と、歴史的名所について触れたいと思います。人物に関してはすでに天智天皇、天武天皇、斎明天皇を取り上げているので、聖徳太子、空海、最澄、良弁、親鸞聖人、空也上人を取り上げ、歴史的名所については、法隆寺、東大寺、薬師寺、興福寺、の寺院を取り上げたいと思います。
@)聖徳太子苻堅が五胡十六国時代を代表するほど仏教に対する関心があった王であり、中国仏教史上、重要な人物である道安(312または314〜385年)を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(350?〜400?年)を獲得するため西域に兵を派遣していた。
その苻堅から仏教を伝えられた高句麗でも仏教が盛んになり、中国に数多くの留学僧を派遣したほか、聖徳太子の師となった慧慈(?〜623年)をはじめとして、多くの僧侶が日本に来て活躍した。と伝えられている。
慧慈と聖徳太子との関係について、「推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教の経典である(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国し、『三経義疏』を高句麗に伝え、広める。」とある。
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて慧慈は大いに悲しみ、「高麗僧恵慈…誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、…玄聖の徳を以て日本の国に生まる」といい、来年の命日に死ぬと予言し、その誓いどおりに入滅したので、高句麗人は恵慈もまた聖なりと評したという。」と伝えている。
仏教の東アジアでの伝播に大きな寄与をした苻堅の係累の恵慈によってそれほどまでに称えられたということは、聖徳太子が単に時の風雲児ではなく、地に着いた研究者の側面を持っていたことを著わしていたのです。聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の意見を出すなど、仏教に関する高い知識を示している。今でいうなら仏教学博士と言っても過言ではないのです。
また、鑑真が唐の玄宗皇帝の妨害をはねのけて倭国に聖人がいることが訪日の動機の一つになっていたというのは聖徳太子のことに違いないのです。
もう一つ、聖徳太子に関する仏教受容に関して次の様なことが知られています。
日本では、仏教伝来以前から古来の神々が信仰されていました。仏教が伝えられると、仏教を積極的に受け入れようとする側と受け入れに反対する側とに分かれます。 仏教を受け入れようとする側の代表は、中国・朝鮮から渡ってきた渡来人系の蘇我氏で、受け入れに反対する側の代表は、物部氏でした。
仏教の受容を巡る問題は、豪族間の権力争いと共に激化しますが、蘇我氏の勝利により一段落します。 崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及していきます。推古(すいこ)天皇は、「三宝興隆の詔」を発布し、聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。
また、豪族の間では、各自の寺院が建立されます。これらの寺院は、それぞれの氏族の祖先を祀る目的で建てられ、「氏寺」と呼ばれます。 このように従来の祖先崇拝の延長として仏教が信仰される一方で、中国や朝鮮の最新の仏教学の影響も見られます。
以上の記載から、聖徳太子は、最初は一方的に仏教のみを特別扱いして受容したのではなく。儒教や道教、さらには祖先崇拝の神道や八百万の神の思想さえにも目を配った上で、日本人の民族性、風土や資質をも総合的に判断した上で仏教を国教にしたに違いありません。
北魏の皇帝のような、私的所有物の仏教ではなく、一般民衆によって広く、深く支持される仏教を目指していたものと思われます。
これほどの聖人であれば、信仰の対象にもなっている筈です。聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立していました。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていったのです。
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、聖徳太子の存在は倭国だけでなく、朝鮮半島や、中国本土にも伝えられていたようです。
また、室町時代の終わり頃からは、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。
さらに江戸時代には大工らの他に、左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになったようです。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称されるようになっていて、現在でも継続して実施されている地もあるようです。
現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。その法隆寺を訪れた時のことを
筆者のブログ「槐の気持ち」に取り上げているので、そこから抜粋転記して以下に紹介します。
尚、本欄に記載している写真番号はそのブログに記載した写真番号と同じです。『ここからみた五重塔と金堂のセットも記憶がある。ただあの頃は五重塔の意味も、金堂の意味も知らなかったのである。しかし、そんなこととは関係なく、同じ場所に建ち続けていた全く同じものを40年の時を経て向いあっている不思議な気分である。 同じ40年でも、人間にとっては、ほぼ50%ものエージングであっても、病の用明天皇のため、推古天皇と聖徳太子が建立した607年から現在までの1404年に対しては3%足らずのエージングであり、相対的には空間的にも、時間的にも普遍のものに接したという気持ちになった。
法隆寺の五重塔は薬師寺の五重塔と異なり“裳階”というのがないので、屋根の数は単純に五層である。ただし最下層のみは内陣があり、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されていると法隆寺のサイトに説明されている。
・・・中略・・・、
最下層だけはそのためか“裳階”がついているので、屋根の総層数は六層となる。しかし五重塔である。五重塔と並び建つのが金堂である(写真3a)。内部は見ることは出来なかったが、パンフレットには、「聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)、
その左右には太子の父である用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、母である穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように樟で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安時代)の諸像が安置されています。また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在は再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。」と紹介されています。
ここまでくると、雲崗石窟寺院3号窟を皇室の私的信仰と馬鹿にできなくなる。結局は造窟者にとって敬うべき大切な人を祀る為に建立するということに相違があるとは言えなくなります。
・・・中略・・・、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。
この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。」と説明されていました。
A)良弁(ろうべん)奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。良弁に関しては筆者のブログ「槐の気持ち」に詳しく紹介しているので、そこから抜粋転記して以下に紹介します。
【
飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
・・・前略・・・、次に本堂を参観した。正面に如意輪観音菩薩像が鎮座し、右手を鉛直に立て(施無畏印)、左手を膝の上に乗せ、手のひらを広げて天に向けている(与願印)(写真1)。
如意輪観音菩薩像は奈良時代中期の頃、東大寺の良弁や実忠による大規模な如意輪観音造像活動に促されて造立されたものらしい。
良弁、実忠については司馬遼太郎著「街道をゆく:24奈良散歩」に多くのページが割かれ、予備知識があったが、こんな所にある寺の由緒にも登場するとは思いも寄らなかった。ついでながら岡寺の開祖は義淵であり、その義淵像は国宝となっている。義淵は白鳳時代後期から奈良時代にかけて仏教界で指導的な役割を果たした高僧で、奈良仏教の逸材で彼の指導を受けなかったものはいないと言われている。その中に良弁、行基がいた。
良弁は聖武天皇に強い影響力を持ち、東大寺の開山であり、華厳宗の導入に力を尽くした。義淵は法相宗の確立に力を尽くしたと言われるので、良弁は法相宗から華厳宗に改宗したことになるが、塑像と同じ様に、心棒を法相宗とし、まわりに盛りつける粘土に相当するのが華厳宗の教義だったのかも知れない。・・・後略・・・。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。
天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や、『元亨釈書』にくわしい。
B)空海空海に関し、これまで自分のブログ「槐の気持ち」に取り上げたことのある部分を抜粋転記してみます。
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】・・・前略・・・、寧波は唐の時代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、空海、最澄らの留学僧、遣隋使、遣唐使が最初に着陸した中国の地であり、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学したと言われた地である・・・後略
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】・・・前略・・・、尚、夢枕 獏著の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」は一種の歴史怪奇小説と言えようが、それには、唐の長安に遣唐使としてやってきた若き天才・空海と、盟友・橘逸勢、更には、白楽天(白居易)や、安倍仲麻呂(中国名:晁衡)、李白、玄宗皇帝、安禄山、楊貴妃、韓愈など多くの歴史上の人物が登場 する。そして人物以外では猫と牡丹が重要な役割をしていて妖気漂う小説となっている。また、唐を衰退させる原因と見なされ、玄宗皇帝が楊貴妃を処刑せざるを得ない状況に陥った際、道士・黄鶴の提案に従って尸解の法を用い、楊貴妃を仮死状態にして、埋葬し、後に掘り起こして復活させようとした際に、晁衡(安倍仲麻呂)の手引きで倭国(日本)に難を逃れようとしたが、あえなく失敗したというくだりがある。・・・後略。
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】この時代、即ち日本では天平、奈良時代、中国では唐の時代、に仏教の進展に貢献したのは、日本人では空海、中国人では玄奘、そして両国の架け橋になったのが鑑真と言える、というのが自分の認識であるが、それは後世の著作物(小説)に影響されているところ大である。玄奘はご存知「西遊記」、空海は「空海の風景」司馬遼太郎著や、最近では「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」夢枕 獏著など、そして鑑真は「天平の甍」井上 靖著である。
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】写真番号はブログ「槐の気持ち」に用いたものです。
・・・前略・・・、ホテルの朝食を済ませ、最初に向かったのは、空海も訪れたと言われている大相国寺であった。・・・中略・・・、大師堂には空海の銅像が建てられている(写真3C1)。蔵経楼には玉仏のうつくしい観音像が安置されている(写真3a)。そして寺庭には開封大相国寺と京都相国寺との友好の記念碑が建てられている(写真3C2)。そして、他の寺庭には、先に触れている魯智深の像があった(写真3d)。・・・中略・・・、ところで、日本の鎌倉仏教、臨済宗、曹洞宗に大きな影響を与えたのが唐、宋時代の中国仏教と言われている。その中国宋代の禅には、看話禅と黙照禅がある。
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】写真番号はブログ「槐の気持ち」に用いたものです。
・・・前略・・・、そして更に先に進み円形の出入り口をくぐり少し行くと空海の像(写真3a)が眼に入った。像の台の側壁には「中日友好25周年」と記されていた。空海も遣唐使の一員として中国の地を踏み、この白馬寺を訪れたことが事実ということであろう。・・・中略・・・、少し前に、武澤秀一著「空海 塔のコスモロジー」を読んでいて、そこにサーンチー第一塔東門のレリーフの写真が掲載されていたのを記憶していたのだ。・・・以下略。
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】・・・前略・・・、ここ智積院と前日雪の中を訪れた東寺との共通点はともに真言宗の古刹で、ともに創建に空海が関わっていることであろう。その割りに仏教色は薄く、見せる非公開文化財は庭園と長谷川等伯の襖絵であった。
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】・・・前略・・・、また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。
一方、弘法大師と乙訓寺との関係は、以下のようなものだった。
弘法大師は、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住した。大師在任中、弘法大師と同時に入唐、大師よりかなり早くに帰国していた最澄は空海をこの寺に訪れ、真言の法を教えてほしいと頼んだ。大師は親切丁寧にその法を伝授した。
在唐期間の短かった最澄はその後も再三空海との交流を深め、二人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えた。
弘法大師が中国から持ち帰った仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備した。・・・以下略。
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】・・・前略・・・、金剛という言葉の意味を晃一はよく知らなかった。
空海が開いた金剛峰寺は歴史で学んで知っていたが、その本当の意味は、この時期の晃一にとってどうでも良いことであり、また、この寺を含めた近隣の寺々が、同じ叡山一派ということで、信長の焼き討ちに遭ったということも、脳梗塞を患って以降、精神の置き場所を探し続けるようになってから空海に興味を持った結果知りえたことであった。それはかなり先のことである。・・・以下略。
【西方流雲(4) <<< 6.神護寺 >>>】・・・前略・・・、楼門でもらった入場券の裏にはその様な神護寺の由緒が書かれていたが。その中に弘法大師の宗教即ち真言密教について簡単に紹介されていた。「真言陀羅尼には神秘の力が有り、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって災いを避け、福を招くことができるし、凡夫の身でも速やかに仏になることが出来る。」と書かれていた。
この頃の晃一には何を言っているのかさっぱり分からなかったが三十年後、この空海に魅かれて空海に関する色々な書物を読むことになるとは当の本人にもまったく想像ができないことで有り、人生の伏線を感じる能力を、もし晃一が持っていたら、この時何かを感じなくてはいけないのだったが、晃一は、この日付の日記に、この宗義に対する感想として、この宗義は仏道に限らず、現在における努力をすれば必ず報われる。古今東西を問わず人間界に通ずる一つの道理となる考え方であろうと、とんちんかんなことを書いている。・・・以下略。
C)最澄筆者は、若い時に司馬遼太郎の「空海の風景」を読み、すごい日本人がいたものだ、ということで関心を持ち、空海ものを読みふけり、かつ空海にとって重要な寺院の乙訓寺の近くの会社に勤務していたこともあり、空海に関しては関心が高かったが、最澄に対する関心は空海に比較して低かったと思います。
しかし、中学時代の修学旅行で訪れた比叡山延暦寺の伽藍と厳かな修行僧の佇まいを見て、大いに感銘をうけたことは今でも覚えています。
空海は、多少の道を外れても物事を達成して行く人間性を持っているのに対して、最澄は仏教の隅々まで、とことん理解しつくして行く努力派で、密教/顕教という使い方をするなら、空海の密教派に対して最澄は顕教派であったのではないかと思っています。どちらが良いかは、浅学な自分には分かりませんが、優秀な後継者づくりには顕教が有利だったのではないかと思っています。
空海は最澄の優秀さを認めていたので、密教の本質を最澄によって理解された挙句に、最澄が中国から持ち帰った天台宗に包含される一宗と体系付けされてしまうことを恐れたのではないかと思っています。
ここで、密教と顕教の違いについて以下に記したいとおもいますが、筆者は良くは理解出来ていません。
・・・以下省略・・・。
【顕教と密教】Wikipedia より
顕教とは、仏教の中で、秘密にせず、公然に(明らかに)説かれた教えのこと。密教の反対語。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した教相判釈の一つである。空海は、顕教と密教を次のように区別した。
顕教:衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。
密教:真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけた。
顕教の経典 - 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』など。
密教の経典 - 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』など。
最澄や弟子円仁らは、中国の天台宗とは趣を異にした日本独自の天台教学の確立を目ざし、『法華経』を核にし、他の仏教の経典を包摂しようと試みた四宗兼学という立場から、円密一致を説いている。
この2つの教典は密教内の別のグループにより 独立して作られたと考えられています。 大日経は、インドから中国へやって来た善無畏と、 その弟子の一行によって8世紀に漢訳されました。 金剛頂経は、インド出身の金剛智と、 その弟子で、インドまたは西域出身の不空によって漢訳されました。 これら2つの異なる系統の密教を1つにまとめて、 真言宗の体系を作り上げたのは不空です。 不空の弟子が恵果、恵果の弟子が空海です。
一方、天台宗は6世紀の智によって開かれた宗で、 まだ密教がない時代であり、顕教です。 法華経を根本教典としており、修行の中心である止観は 禅に近いものです。 最澄は唐で天台宗を学びますが、同時に密教も取り入れようとして それも学んできます。
比叡山延暦寺を開いた天台宗の開祖として著名な最澄は、エリート僧として出発する。その地位を捨て、比叡山中で12年間修行した彼は、弟子たちにも孤絶した状態での勉強を求める。そのような最澄の残した最大の成果は「二百五十戒」の伝統を捨て「大乗戒」を確立したことだと言われています。
今言われたように、例えば法然や親鸞も比叡山で「天台浄土教」という天台宗の中で発達した浄土教を勉強していますし、道元も最初は比叡山で勉強して、山を下りてから禅宗のほうに入っていくわけです。
日蓮にしても、最初は比叡山で勉強している時期がありました。そのようなことから、やはり比叡山延暦寺の持つ、学問や修行をする場としての意味は、非常に大きなものがあったと考えられます。人によっては、当時の「総合大学のトップ」と見なされると言う方もおられ、多くの僧侶が比叡山で学びました。尚、空海との関係については既に空海のところで紹介しましたので省略します。
D)親鸞聖人以下は「浄土真宗親鸞会」ホームページより」
【ご出家】親鸞聖人は約850年前、京都にお生まれになりました。4歳で父を、8歳で母を亡くされ、「次に死ぬのは自分だ」と死の影に驚き、9歳で出家。比叡山天台宗の僧侶となったのです。「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌は、出家の時に詠まれたものと伝えられています。「人は死ねばどうなるのか」。この暗い心の解決一つを求めて、親鸞聖人は比叡の山で猛烈な修行に打ち込まれます。
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】時は流れて20年。親鸞聖人の修行は他の追随を許さない壮絶なものでしたが、いまだ暗い心の解決は成し難く、比叡山の教えに絶望。ついに下山を決意されます。「煩悩に染まりきった親鸞の救われる道はないのだろうか。導いてくださる高僧はどこに……」。京都の街をさまよい歩く中、四条大橋で旧友と思わぬ再会を果たし、その縁で「どんな人も本当の幸せになれる道」を説かれる法然上人に出会います。そして阿弥陀如来の本願を聞き、たちどころに絶対の幸福に救われたのです。
【破天荒のご結婚】 本稿省略させていただきます。【弾圧により流刑】高木、風にねたまれる。それは、いつの時代も変わらない。法然上人の信奉者が急増すると、他の仏教宗派のねたみから日本仏教史上かつてない大弾圧が引き起こりました。念仏は禁止、法然上人は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流刑となったのです。しかし親鸞聖人は、越後で仏教を広められます。
【関東での20年間】 本稿省略させていただきます。【著作に励まれる】 本稿省略させていただきます。 E.空也上人(903年 - 972年)前回も取り上げたので、今回は省略させていただきます
第八回 完 第九階へ続く