10)田沢湖めぐり + 駒形神社随想(付録) 翌朝4:00前に目が覚めた。 陽は上っていないが、明るい。おまけに雲は多少漂っているが、晴れであり、田沢湖全体が見渡せる。中でも最も明るいところが日の出の場所なのだろう(写真1a=3:48)。 カメラに三脚をとりつけ、視野の中心をそちらに固定した。刻一刻と明るくなってゆき(写真1b=4:22)、日の出である(写真1c=4:39)。そして湖面に描く光跡も太く強くなってくる(写真1d=4:40~写真1f=4:41)。
それでも湖岸にたたずむ木々の緑の色彩はまだ分からない。しかし、確実に明るさが増してゆく。今回の旅で日の出を写真に収められるとは、夢にも思わなかった。
約一時間に亘り、素晴らしいショーを見させてもらった。ラッキーであった。ホテルの6階で、一枚張りのガラス窓というのも幸いした。機転を効かせてくれて、良い部屋を宛がってくれたホテル支配人?に感謝のひと時であった。
5:00近くなると、さすがに木々の緑の色彩や湖岸にへばりつく岩の苔の色もはっきりしてくる(写真2a=4:54)。鳥達も活動を開始し、湖面スレスレに飛び対岸の方へ向う姿が時折見かけられる。ホテルの外に出て、地上の高さから、ホテル周りの光景を眺めることにした。ホテル前の庭園は青空と湖面と遠方の山々が絶妙のアラカルトを作り出していた(写真2b~2e)。
ついでにホテルの周りを歩いてみると200mも行かないうちに金色に輝く「辰子の像」が目に入った。あとで、ゆっくり観賞することにしてホテルに戻った。朝食を摂り、8:00前にチェックアウトした。この日の予定はこれから角館によって、そのあと、帰りの新幹線乗車駅の盛岡まで帰らなくてはいけないからだ。
チェックアウトして、徒歩で「辰子の像」へ向った。歩いてすぐのところに、湖岸から突き出した「浮き御堂」があり、右手を見ると、ホテルの整備された芝生の庭が見え、視線を直近に移すと、灯篭と「浮き御堂」から地面に張られた三本条線に隙間無くおみくじが結びつけられた様子が目に入った(写真3a)。
そして「浮き御堂」の軒先には、釣鐘がぶら下げられていて、快晴の空、遠方の山々を鏡映した湖面とその湖面に浮かぶ「辰子の像」とが絶妙のコントラストを生んで素晴らしい光景であった(写真3b)。そして、すぐ接近した足元近くの湖面をみると、多くの魚の群れが湖岸に沿って回遊しているのが、清澄な湖水を透してはっきりと見えた(写真3c)。
「辰子の像」は湖岸から20m程度のところに立っている。辰子像の正面には県道60号が欄干を隔てて東西に走っている。そして県道60号の山側に土産物屋があり、その土産物屋にへばり着くように、八重桜の大木が立っている。
八重桜は丁度見ごろで、その八重桜の花をかざして田沢湖の対岸を眺めてみると、色の対比が絶妙であった(写真4a~4d)。そして、再度異なるアングルから「辰子の像」をみると、小さな漣さえ立っていない湖面に対称に映し出された虚像とのセットがまぶしかった(写真4e)。
『十和田湖の主・辰子は絶世の美女でした。彼女をめぐり男鹿の赤神と竜飛の黒神が激突します。赤神は牡鹿を押し出し攻めます。一方、黒神は龍を飛ばして戦います。ついに、赤神は敗れ男鹿の寒風山へ引き下がりますが、女心の不思議でしょうか、辰子は赤神を追って田沢湖へ移住してしまうという伝説です。やはり、この伝説も、「戦い」を意味してるとも言われます。』 と説明された観光案内がある。
必ずしも最近の話ではないにも拘わらず、ここに立っている黄金色の「辰子の像」は若々しく現代的である。
他人からみた実像が、実は虚像で、他人には見えない虚像が、実は真実の自分である。そんなことを言っているようにも見える。
写真を沢山貼りすぎてしまい。文章を記載するエリアが出来すぎてしまった。そこで、ここに、逆に前章の長すぎた文章の一部を以下に移設することにした。またついでに、「駒形神社」随想を追記する。
※前章9)のつづき:*************************************** いつしか、峠を越えたようだ。山の斜面は相変わらず眼前に迫っているが、少し下り始めているのが分かる。重く垂れ込めた雲から時々雨がぱらついている。そんな雲間から少し湖面が見え始めた。やっと田沢湖へ着いたか、と思ったら間違いで、宝仙湖である。
宝仙湖の南西側の湖岸に沿って南下して、宝仙湖の最南端にある玉川ダムを横目に見て南下を続けていると間もなく田沢湖の湖面が見えたと思ったら、またしても田沢湖ではなく、今度は秋扇湖であった。こんどは秋扇湖の東側の湖岸を南下するのである。
そして、田沢湖田沢という地名の村落に出合った。郵便局もある。しかし肝心の湖はまだ見えない。そして右折すると田沢湖に行くという交通標識とそれらしいT字路が目に入ったので、そこを右折した。県道248号である。248号を山間を蛇行しながら行くと、今度こそ正面に靄に覆われた田沢湖の湖面が現れた。雨が降っている。そのため、霞が掛かったようで向こう側の湖岸は分からない。湖岸を周回する県道38号線とのT字路にきた。「姫観音」という案内標識のあったところを左折し、田沢湖を時計回りに周回することになる。
後日、このあたりをGoogle Mapの航空写真で辿ってみたが、湖水の清澄さが分かり、楽しい。県道38号線が湖面から大きく逸れて行くあたりから県道60号が周回道路となる。そしてしばらく 山道で、湖面が全く見えなくなってしまうことがあったが、気にしないで進むうちに田沢湖が正面に、右手に「たつ子茶屋」の大きな駐車場が現れた。
しばらくそこに車を停め、休憩し、再び左に大きく旋回し湖岸すれすれの県道60号を今度は西進することになる。宿泊予定ホテルの田沢湖ホテルエルミラドールは辰子像のすぐそばにあるので、もう目と鼻の先だろうと思ったが、更に10分は走っただろう。やっとホテルに着いた。予定は湖に面した部屋ではなかったが、空いていると言って、6階の湖側の一番景色が良い部屋にしてくれた。部屋からは十和田湖のほぼ全景が一望できた(写真3)。
雲は相変わらず重く垂れていて対岸の岸は見えるものの、それに覆いかぶさるようにあるはずの山々は灰色のベールに邪魔され全く見えなかった。刻一刻と垂れ込める雲の形が変わってゆく。近くの緑は認められても(写真4a)、遠景は無彩色の一点張りだ。時に対岸の表情が変わり一部だけ、はっきり見え湖岸に迫る低い丘が湖面に映ることもある(写真4b)が稀であった。 注意:写真は前章に掲載してある。 ****************************************** 付録「駒形神社」随想 同じ国道341号線沿いに同じ名前の「駒形神社」がいくつも目に留った。これは駒形神社に祭られた神になった人物が、国道341号線に沿って、北上したか、南下したのであろう。それは一体だれで、何を目的に、という疑問が沸き立ち、インターネット・サーフィンによって、その情報を手繰り寄せる試みをした。
坂上田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。とwikipediaで紹介されている。
田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。とも紹介されているが、感謝して建立した寺社が「駒形神社」ではないのか、と推理したくなる。
田村麻呂には、子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある、という見方もあるようで、その見方を根拠に、坂上田村麻呂ルーツ説を展開したのであろう。
もし、その説が事実であれば、坂上田村麻呂の父 坂上 苅田麻呂 が中国の後漢の霊帝の流れを汲むという東漢氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した、というのは通説となるほど信憑性が高いので、全くありえない話でもないかも知れない、と言う気になってきた。
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