槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2009/10/31 1:43:07|旅日記
中国中原五古都を行く(2.河南博物館)

 朝8:30にホテルを出発した。当初の予定では、河南省博物館の見学は、最終日の鄭州を立つ日に予定されていた。しかし、鄭州発の航空便の時刻が早まり、しかも、建国60周年記念式典が北京であり、北京に向かう旅行客のチェックは厳格に行われる可能性があるので、空港での待機時間は余裕をもっておく必要があるかも知れない、ということで、北京に向かう日の観光は無理、ということで、急遽洛陽に向かう前に、見学を済ませておくことになった。従って、「中国中原5古都を行く」の二つ目のイベントが河南省博物館の見学となった。ホテルから車で15分くらいのところにあり、開門したばかりの様で、広い駐車場には数台の車と、博物館の従業員と思わしき人の姿を時たま見かけるだけであった。
 ガイドの牛潞さんは車から降りて、切符を買いに行くと言ってなかなか戻ってこない。自分も運転手の趙さん同様、車から降りて外気に触れることにした。建物(写真1a)は造形美豊かであり、広場の植え込みにはバラが建物の白に対比的(写真1b)であった。「牛潞さん戻ってこないけど、どうしたのだろう」と怪訝な顔を趙さん(写真2)に向けると、「開場は9:00からなので、まだ切符が買えない。」と言いたげな顔つきで無言の応答を返してきた。
 9:00少し過ぎに牛潞さんは切符を片手に戻ってきた。
河南省は、黄河文明発祥の中心的な地域であり、新石器、陶器、青銅器、鉄器などの利器が、多く出土されている。特に青銅器は、鼎、尊、斝、壷。鏡、祭礼用楽器など多種多彩な形の出土品が展示されている。
 以前(2000年)日本で、四大文明展というイヴェントがあり、中国文明展が横浜美術館で開催され、数多くの展示品を見た記憶があった。購入した分厚い案内書によると、中国文明の誕生は、新石器時代(BC4000)に始まり、土器、陶器、玉器時代を経て、最初の都市文明として夏が興り(BC2000)、殷、周と続く。
 その文化の担い手は青銅器であり、都市文明圏の重心的な位置を占めるのが、現鄭州であり、商城遺跡がある、としている。この中国文明展には中国各地の博物館から出土品が持寄られ、展示されていたが、河南博物館からも、青銅器や陶俑、玉璋などが展示されていた。そのほか難しい名の青銅製の爵(酒を温めて注ぐもので、後に爵位の語源となっている)や、鼎、尊、鏡、壷、祭礼用楽器などがある。
 中国は古代より楽器演奏に関する歴史的エピソードは多い。孔子の「論語」の中で、夏の舜王の楽器演奏の腕を、「善美の限りを尽くしている」と評したり、孔子が斉に滞在している時、大韶を聞いて深い感銘を受け、数ヶ月もの間、どんなにうまい料理を食べても、味が分からぬほどであった。孔子は「夢にも思わなかったことだ。音楽がこれほど心を動かすとは。」と言った。(徳間文庫:「中国の思想、論語、七、述而」)、同九、子罕で孔子は「私は衛から魯に戻って後に、古典文化の整理にかかり、音楽では正調を復活させ、詩では雅と頌とを正しく分類した。」 更には、弟子の子路の琴を批判しているところ(十一、先進)もある。また、諸葛孔明が琴の名手であることは有名で、戦場の前線で琴を弾いたところ、敵方の大将は、その音色を聞き、「これほど琴をうまく弾くのであれば、戦争でも同様の腕をもっているに違いない」と推測し、退却したという話もある。
 更に、金庸の小説には、ふんだんに琴などの楽器が登場し、それを演奏する人物は相当な剣客でもある設定となっている。また、石窟寺院の窟壁に描かれた飛天は、楽器を手にしたり、演奏したりしている様子が描かれ、あるいは塑像とされている。この様に中国では、古代より、祭礼の道具であり、信仰の道具でもあった。
 博物館の中に入って先ず確認するのは写真を撮って良いかである。見回したところ撮影禁止の表示はどこにも無い。牛潞さんに聞いてみたら、「ストロボを焚かなければOKだ。」とのこと。これは有り難い、儲けものである。日本では、この規模の博物館では、間違いなくNGである。そこで、牛潞さんに一つ一つ説明を聞きながら写真を取り捲った。陳列品一つひとつに、牛潞さんは納得のゆく説明をしてくれた。
 最初に現れたのが骨笛(写真3a)であった。鶴の足の骨から作られ、調音用孔が7つ開いている。中国最古の管楽器とのことであり、約8000年前に作られたものとのことである。調音孔はともかく、どの様に中身を除去して管状に加工したのか新石器時代の技術に興味が出てくる。
 次に青銅器製の方鼎(写真3b)である。このような青銅製の鼎は、鄭州商城近辺から多数出土されていていることが行列展示されていることから想像できる(写真3c)。青銅製ということでは、音階を奏でることが出来る鐘が展示されていた。さまざまなサイズの鐘が音階順に吊るされていた(写真3d)。他の楽器としては、やはり何かの骨で出来ていると思われる長さの異なるパイプ(写真4a)、石製で、音階が奏でられる石琴(写真4b)が展示されていた。吊るして叩くのだろうが、形状は五角形に近く、上二辺は直線で山形をなし、左右二辺は、互いに非平行で。音階は左右二辺間の長さで決まるようである。また、底辺は緩やかな円弧を描いている。この形状は、音響学的に言って、帯域が広く、残響が少なく、まろやかな音が出るはずである。ちなみに、鐘(写真3d)の底淵部が平坦なのと、曲面をしているのがあったが、後者の鐘は叩く位置によって異なる音色を出すことが分かっているらしい。
 展示品で最後に紹介するのは、女子十二楽坊ならぬ女子八楽坊である「絵彩陶伎楽坐俑」である(写真4c)。楽器は、篳篥(ひちりき=縦笛)、排簫、篪(ちのふえ=横笛)、鈸(バチ=シンバル)、竪箜篌(ハープ状楽器)、曲頸琵琶(四弦)、琵琶(五弦)、木拍子(?)で隋の時代の副葬品で、埋葬された人物は生前余ほど音楽が好きだったのだろう。今にも楽隊の奏でる音楽が聞こえるようであった。博物館内にデジカメを手にした多くの中高生を目にした。メモを取っている生徒もいた。中学時代に土器、石器堀りに熱中し、発掘して手にとった石器を、幾千年の長い年月を経て、古代人と自分が握手した感覚に陶酔した半世紀前の自分を思い出してしまった。







2009/10/21 22:23:32|旅日記
中国中原五古都を行く(2009.9.20〜2009.9.28+1)


 ここ数年、春は少数民族が多く住む中国南西部、秋は漢民族の多い、中国東北部を観光するパターンが定着してきた。去年の秋は大同の雲崗石窟+北京を観光し、既に莫高窟を観光済みなので、中国三大石窟寺院である洛陽の龍門石窟寺院を三大石窟寺院制覇の締めとして、主目的地として選び、その近辺の歴史的由緒のある観光地として、鄭州、開封、邯鄲、濮陽の計五つの古都の観光を計画した。
 これらの地は、愛読書の宮城谷昌光著「孟嘗君」や、「戦国策」(徳間文庫)、「十八史略」(同)、さらには「三国志」、「孔子物語」(徳間文庫)に頻繁に登場する地域であり、親しみ深い地域でもある。
 今回もまた家内に同伴を遠慮され、結局、航空機を使った移動を除いて、桂林国際旅行会社AraChinaに手配していただいた現地日本語ガイド、運転手との三名のパーティでの観光となった。個人旅行、しかもオーダーメイドの旅なので、AraChinaとは事前に頻繁にメールのやりとりを行い、トラブルが起こらない様に、細部にわたる慎重な日程調整を行った。
 今年は中国建国60周年記念行事が催されることや、インフルエンザ騒ぎがどの程度くすぶった状態か分からなかったし、そうでなくても、すでに60歳を越えること3年、体力、知力(特に判断力)ともに衰えを隠しきれない状態を自覚しているので、その様な配慮が益々必要であった。
 持ち物は、リュック一つとオリンパスSP570UZ+オリンパスμ750+オリンパスボイストレックV40+成田空港で借りた現地使用可のカメラ付き携帯はいつもの通りである。
 ホテルは三つ星を指定した。また旅行費用をなるべく節約するためと、食べ残ししないで済むように、夕食は全て自前とした。 三つ星と言っても、洛陽、邯鄲のホテルは四つ星レベルであったし、トイレの水周りも大幅に改善されており、少なくともホテル内、空港内では苦悩することが全く無かった。
 これまで、中国旅行するときは、司馬遼太郎の「街道を行く」をガイド本としてきたが、この一帯に関する「街道を行く」は無い。まだ存命であれば、「続・街道を行く」を著し、「河南の道を行く」とでもしたであろうか。そんな気分で今回の旅を自分なりに、「中国中原5古都をゆく」として、特に古代歴史風土に直接触れる旅と動機づけた。
 以下に写真を交えて観光先ごとに、見学記を書き綴って行く。尚、今回の共通のテーマを「屋根飾り」と設定し、写真を取り捲った。屋根は天との境界にあり、そこに配置される飾りは、人間が天に語りかける代弁者とも言え、その姿の違いは、その屋根の下に住む人間の文化様式の違いを表しているからと考えたからである。

1. 河南省の省都、鄭州、@黄河遊覧区(9/21)
河南省は黄河のすぐ南に位置する省で人口は1億を越え中国最大の省であり、洛陽、鄭州、開封、濮陽、徐州、安陽、許昌、商丘など、「孟嘗君」をはじめとした春秋戦国時代を扱った宮城谷歴史小説群、「戦国策」、「論語」、「十八史略」などに頻繁に登場する都市を抱え、かつ、東に曲阜のある山東省、北に邯鄲のある河北省、大同のある山西省、北京などの華北地方、南に、安徽、江蘇、湖北江南各省、西に西安のある陝西省と接している(図1)。

春秋時代には宮城谷の小説にも取り上げられている鄭の大夫・子産の封地となった。隋代になってこの地に鄭州が設置された。黄河中游に位置する鄭州は歴史上たびたび黄河の水害を受けたため、経済の発展は緩慢だった。
 20世紀始めに隴海線と京広線が建設され、鄭州は南北大動脈の交差点となった。1954年、河南省省都が開封から鄭州に移った。人口は2004時点で710万人と、ウィキペディアに紹介されている。鄭州空港から最初の目的地「黄河遊覧区」に向かう途中通過した市街地は高層ビルが林立し、中国の急速な経済発展の足音が聞こえる様であった(写真1)。

 黄河遊覧区は市の北西30kmのところにある巨大公園で、入場すると、先ず広大な敷地に方鼎や円鼎の巨大模型(写真2a)、が点在し、反対斜め上方には「炎黄二帝巨塑」が青空をバックに、黄河を見つめている(写真2b)。そこから黄河碑林(写真2c)、を通り抜け、母なる大河を表わす母子像「哺育塑像」(写真2d)を見て、長いロープウェイ「黄河索道」に乗って、「大禹塑像」(写真3a)の建つ黄河見晴らし台広場に足を下ろした。 ここからは黄河全幅を眺望でき(写真3b)、またうっすらと京広線の大鉄橋(写真3c)を眺めやることが出来る。
 ガイドの牛潞さんが、「渇水状態なので全川幅は分かりませんが、最大幅で7.8kmあります。」と教えてくれた。「これで渇水状態?ならば日本の大きな河川で大雨が降った後ではない通常の状態は全て渇水状態と言わねばならないではないか。」と思った。
 日本に帰ってから写真3bを見てもらうと、一様に「渇水と聞いていたが、水量豊かではないか」となる。一方、後日ガイドブックに見る黄河をまたぐ京広線の大鉄橋の写真には水量豊かな黄河が写っている。中州や緑地が現れて全く見られない。これが普通なら、確かに渇水といっても不思議では無い。かつては治水というと渇水対策だったのではなく、洪水対策だったのだ。

「大禹塑像」の「大禹」とは伝説の王朝「夏」の初代の帝王とされ、治水の神と言われている。「夏」王朝の帝王としては、帝尭、帝舜、が良く聞く名であり、「論語」の中では孔子と弟子たちとの間の問答によく登場する三人であり、孔子はこの三人を最も理想的な大政治家として賛美している。例えば、「仁」についての子貢との会話で、
子貢「人民を貧窮から救い、生活を安定させることが出来れば、これこそ“仁”ではありませんか?」、孔子「それはもう仁どころではない。そこまで行けば聖だ。尭、舜でさえそれを成就
できず、悩んだのだ。仁はもっと身近にある。自分の名誉を大切に思うなら、先ず他人の名誉を重んじる。自分が自由であれば、先ず他人の自由を重んじる。こうして、自分をつねに他人の立場においてみること。これが仁の道なのだ」 「中国の思想 論語」徳間文庫版より。更に、同書、八.「泰伯」の項で、禹について、「日ごろの食事は簡素にして、宗廟への供物は豊富、日ごろの着物は粗末、祭礼の式服は見事に整え、宮殿は仮小屋同然にして、水利事業には全精力を注ぎ込んだ。禹にはじつに頭が下がる思いがする。」⇔「禹吾無間然矣」。 事前に、「論語」、「孔子物語」ともに徳間文庫を読んでいたので、伝説とは言え、そんな地を訪れていると思うと感慨無量であった。

    (つづく)







2009/06/19 22:25:02|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(24.北京槐、帰国の途()

24.北京槐、帰国の途
麗江空港までは当初タクシーを使う予定を体調のこともあり、鄭さんと運転手の潘師に見送りをお願いすることにした。麗江空港から昆明経由で北京に向かった
航空便は、MU、海南航空(HU)であり。昆明空港乗換えでは、HUのチェックインカウンターを見つけるのに苦労したり、便の搭乗案内表示がなく、戸惑ったが、なんとかHUに搭乗し、多少のだるさを感じながらも落ち着くことが出来た。

機内に乗り込むシャトルバスに乗り込み、バスが動きはじめる直前に複数の人から肩に指でタッピングして、なにやら教えてくれていることに気がついた。何かチョンボでもしてしまったかと、一瞬戸惑いの気分に襲われたが、一つ空席があるので、ど〜ぞ、という合図であった。まだ発熱後の疲労感が顔つきや姿勢に表れていたのかも知れない。それとも髪の白さから余程の老人かと思われたのかはわからないが、有り難く座らせてもらった。ただ食欲は、まだ復調していないため機内食は残してしまった。

北京空港に着き、李さんの出迎えを受ける頃にはほぼ完全に体調は復調していた。記憶力が良いほうではないので、「李さんの顔分かるかナ」と思ったが、李さんが笑顔で大きく腕を振っているのが見え、ホッとした気分になれた。空港から市内(ホテル)までの道路のラッシュは相変わらずで、「市当局は何か対策を講じていないのでしょうかね?」と非難がましくなく呟いたら、「マイカーは曜日ごとに、プレート番号の末尾が該当した番号の車は市内を走れないように規制されている」とのことであった。

その翌日の北京空港までの車の中を含めて李さんからは様々な中国事情を聞けた。その中に中国の一人っ子政策の中で育った人が結婚する世代になっているが、子供の時に甘やかされたために我慢することを知らない人が多い。その為中国では離婚率が急増しているとのこと。

また、企業への定着率も悪く、これも、我慢することを知らない人が増えているためと考えらているが、李さんが、「今の観光ガイドの仕事よりもっとやりがいのある仕事を求めている。英語を勉強しようと思っている。」との言葉を聴き、
「今の中国の急激な経済成長にあって、キャリアアップの実現可能性が現実的となっていて、特に貿易関係の人材は売り手市場になっているのだろう」と思った。

更に、麻生首相が北京訪問中であること、豚インフルエンザが外国(中国以外)で発生し、世界中が色めきたっているが、中国はサーズの経験から防疫体制が万全で、米欧諸国に発生が確認されているが、中国では発生していないことなどを教えてくれた。

ホテル北京香江戴斯酒店の前庭にはたわわに咲いた槐の白い花が咲いていた(写真1、写真2)。北京の通りに街路樹として植樹されている槐は花どころか蕾さえ認められないのにである。そのことを李さんに話すと、「槐にはいろいろな種類があるので。」とのことであった。このホテルは三ッ星で、バスタブは無いが名前の通り、ルーム内が香しい香りがして、癒しを感じられ、室内は清潔で(写真3a)佇まいが閑静(写真3b)で落ち着きを感じるので気にいっているし、朝食メニューも、味に違和感が無く、気にいっている。去年に次いで2回目である。

TVも液晶で見やすく、チャンネル数が多く、言葉が分からなくてもどこかに気を惹く番組がある。繰り返し報道されるニュースの内容はトップが麻生首相訪中(写真4)、次が豚インフルエンザであった。同じ日、北京に向かう機内で
無料で見れる人民日報には麻生首相訪中のニュースは目立つところには無かった。もう一つの配布される新聞には大きくとりあげられていたが。

そして、翌日AM遅く10時半ころ李さんが見え、見送りをしてくれた。北京での出発ゲートでは、赤外線温度計を設置しつつあるところであった。熱のある人間は搭乗させないのであろうか。成田到着前に機内で健康状態調査表が配布された。下の方に虚偽申告したものは60日の懲役と書かれていたので、正直に一週間以内に発熱があった、のところにチェックを入れた。そのため検疫ゲートでは足止めを喰らい、防疫相談所に案内された。

この体験はみっとも良い話とは言えないが、良い体験と言えた。日本では出国者にも検疫をするであろうか?自国に豚インフルエンザウィルスが持ち込まれることばかりを気にしているが、他国に航空機内を拡散場とした豚インフルエンザウィルスを拡散させない、という大きな配慮はされないだろう。ここに国民性の差異を感じざるを得ない。帰国後一週間ほどして所沢保健所からその後
発熱などの症状が無いかとの追跡調査があり、日本のきめ細かい防疫体制に感心したが、本当の意味でウィルスを拡散させない、即ちウィルスを持ち出さない。持ち込ませないという双方向の防疫体制を敷くという意味では、日本の小乗に対して中国の大乗という差異を感じてしまった。

いろいろな意図しない体験はあったが、とにもかくにも中国雲南省大理及び麗江、そして北京への旅7泊8日は終わった。

***** 完 *****







2009/06/15 22:18:50|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(23.中国医療体験)
23.中国医療体験
麗江二日目は玉龍雪山の4500mほどの地点まで登る予定だった。ところがその日の明け方まで、熱を出してしまった様で、ふらふらしている最悪のコンデション。食欲は全く無い。ただでも高山病の恐れもあり、狭心症の薬をいまだ持ち歩きながら旅行をしている身である。前日の麗江古城見学でもかなりの疲れを感じていたが、一晩寝れば回復すると楽観していたのだ。

前日は30℃くらいはあると感じるほどの暑さで、体にほてりを感じていたが、それが風邪のひき始めとはよもや思わなかった。そのほてりを鎮めるためにシャワーを浴びようと思ったのだが、僅かにしか温かくなっていなかった湯を浴びたのがまずかったかも知れない。次の観光は体力的にハードなのが分かっていて、十分な睡眠をとっておくことが重要と考えれば考えるほど眠れなくなり、夜が白んでも朦朧とした意識に襲われていた。二日分朝食券をもらっていたが、結局両方使わなかった。

「病は気から」なので。気分が変われば鬱陶しさは霧散するかも知れないという期待で自分を励まし、約束の出発時間前には、ホテルのロビーに出向いた。ホテルの食堂に鄭さんは行っているというので、そちらに顔を出すと、全く観光客がいない食堂で朝食を摂っていた。朝食は観光客が少ないのでバイキング形式ではなくオーダー方式に変更になっていたのを知っていたが、見事に他の観光客の姿が見えないのであった。

鄭さんには、「あまり体調が良いとは言えなく、食欲がなく朝食は摂っていない」と伝えた。それでも、「では出発しましょうか」と自分から言ったので、トヨタハイエースに乗って目的地に向けて出発した。出発直後、こちらの具合がかなり悪そうだということに鄭さんは気づき、額に手を当て、「これはかなりの熱です。39℃はありますよ。今日は予定を変更して病院に行った方が良いですよ。自分や家族が世話になっている病院が近くにあるのでそこへ行きましょう。点滴を打てば熱は下がると思います。」

それを聞いて内心ホッとした。今朝から今日の観光は止めたほうが良いと思っていたからだ。中国の医療事情は全く知らないが、そうは言ってはいられない。翌日は北京まで3.5時間の空の旅、そして更にその翌日は成田までの空の旅、もし熱が下がらないままだと検疫で引っかかること間違いなし。鄭さんは運転手さんに何事か告げ、その結果車は直角に右折して、細い路地に入っていった。

その病院は薬局といった方が相応しい構えであった。鄭さんに続き中へ入ると看護師らしい女性が、こまめに動き回っていた。医師はまだ来ていないらしい。
受付と思われるカウンターの前に座り、医師が来るのを待った。看護師から体温計を渡され体温を測ったら38.3度あった。

しばらくして40歳前後の医師が現れ、脈をとり、聴診器をあて、のどを覗き込んだ。問診のしようがなく、これから点滴をうつとのことで、点滴室に案内された。五人ほどが同時に点滴を受けられる配置となり、巴に配置された一番奥のベッドに横たわった。
その前に、点滴に時間がかかるのでトイレを済ましておいた方が良いということでトイレを使わせてもらった。大小兼用、男女兼用のトイレで、よくみると堆積した糞便の上をネズミがうろちょろしていた。小便を済ませ、ベッドに横たわり、間もなく看護師が現れ、点滴用の針をさした。日本では腕の内側に刺すのが普通だが、ここでは手の甲にある血管に刺すのである。同時に左手ではアレルギーのチェックがあった。3袋点滴するということで、使いまわしの針でないことを確認するのが精一杯で点滴の薬剤の名称までは確認できなかった。

しばらくすると、鄭さんが熱湯に薬を溶かした薬湯を持ってきてくれた。あとで処方されて持ち帰った薬と同じで、二つの粉薬を熱湯に混ぜ込むタイプの薬(写真1)であり、片方の粉は飲み易くするための錠剤であれば、糖衣に相当するものだろう。柴胡とは解熱という意味であり、セフラディンはセフェム系抗生物質のことである。要するに、点滴で栄養剤を注入し、解熱剤と抗生物質で治してしまうと言う非常に分かり易く納得の行く治療であり、納得の行く処方であった。医療費は全て合わせて67元、日本円に変換して1100円弱であった。中国が社会主義の国であることが実感できた安さであった。

点滴中は点滴を受けている人の中に、熱でひどくうなされている患者さんが居て、ムニャムニャ、ゴニョゴニョと終始うるさかったが、こちらも睡眠不足だったので、点滴が完了した瞬間に気がつかないほどだった。

これからの中国では医療行政が大変であろう。医療技術は従来通りで良いにしても、医療現場の清潔さの向上は必是。特に開業医での清潔さの向上は伝染病が蔓延してからでは遅い。

感じとして中国医療は投薬診療が主で、装置診療ではない。装置診療になると医療費が増加することは誰の目でみても明らかである。投薬診療では追いつかない重篤な病気が装置診療で治癒できる場合があることを中国人が知ったとき、多少医療費が高くても装置診療を希望する患者が増えてくるだろう。一般生活者が裕福になるに連れて、装置診療を希望する患者が増え、病院は開業医であっても先端の、診断治療装置を導入して行くことになろう。

尚、その日のPMはホテルで療養の体(てい)となったが、鄭さんが、お腹がすいたでしょうと、パンと果物を自腹で差し入れしてくれた。また彼からは中国民歌CD三枚入りをプレゼントされ、申し訳なさと、嬉しさで熱は急速になくなった。おまけに、ARACHINAの沈さんから流暢で美声の日本語のお見舞いの電話をいただき、感激した。

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2009/06/15 0:39:30|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(22.麗江古城)

22.麗江古城
雲南省は北京から西に飛行機で3時間以上かかる。にも拘わらず北京時間を使い、時差が無いので19時を過ぎてもまだ昼間の様に明るい。黒龍潭公園の見学を終え一度ホテルでチェックインを済ませ、一時間ほど休憩してから、世界遺産麗江古城を見学することにした。二夜宿泊予定のホテル「古雲杉大酒店」は香格裏拉通りと七星二街との交差点に面した高層のビルで、麗江古城までは
5kmもなく、歩いて行ける距離であった。

ホテルで一服して、麗江古城に着いたのは17時過ぎであった。三筋ある川が合流したところに大きな水車と、「世界遺産麗江古城 江沢民 一九九九年五月二日木府」と刻まれた石壁とが建った広場(写真1a)では記念写真を撮る観光客でごったがえしていた。そこで記念写真を撮ったあと、一筋の運河に沿って歩き始めた。運河と、それを跨ぐ橋、運河に沿った通路、柳の並木、通路と運河を仕切る花壇には金盞花やつつじやブーゲンビリアが植えられている(写真1b)。更に行くと、ナシ族の民家と運河と石橋道路から運河水面まで石段が下ろされ(写真1c)、ここが観光地になる前は、人々が取り立ての野菜を洗ったり、洗濯をしたのかも知れない。

そして坂を上ってゆく。坂は急なのぼり坂で、道の両側にはいろいろなものを売った店が間断なく続いている。京都清水の産寧坂と雰囲気が似ている。途中で粉菓子を買った。途中比較的大きな土産物屋があったので、覗いてみると、店番は女性がやり、男性達は奥でトランプをして遊んでいるのである(写真1d)。その様子に目を遣っている自分にガイドの鄭さんは、「ナシ族は一家を支えているのは女性で、男性は何もやらないのだ。やるとすれば観光ガイドの説明の勉強程度ですよ。」とのこと。完全に女性上位なのである。

そして登り坂が終わり高台の見晴らしの良い客席のある店に入り込んだ。正面には、瓦屋根が隙間無く並んだ瓦群が見える。屋根は四合院の屋根が縦方向と横方向で一セットとなり、しかも同じ色、同じ形の瓦を使っているので、如何にも整然とした感じがあり美しい(写真2a)。遠方にあるビルも臍を曲げず同じ色をしている(写真2b)。これだけ屋根が平らかに見えるのは階数が全て同じなのであろう(写真2c)。屋根瓦の先端に目を凝らすと、その後ろに玉龍雪山が控えていた(写真2d)。

運河は三本あり、それぞれ異なる表情を呈している。真っ直ぐ伸びた川面には柳の木が映る(写真3a)。くねった川の臨水路は家並みが直線で造られているので、どうしても道幅が狭くなるところがある(写真3b)。そのようなところは利用しにくいのか、臨水路を隔てて建っている店も比較的地味であった。

また、運河ぎりぎりに建てられた店の入り口が運河側にあり、そこと臨水路との間に沢山の橋を渡した店もあった(写真3c)。その様な店に限って赤い提灯を無数に掲げていた。酔客が橋から落ちてしまうこともあるのではないかと余計な心配をしてしまった。

ガイドの鄭さんが、「こういう店はお酒を飲むのが目的ではなく、自慢の声、演奏を披露する場で、深夜遅くまでやかましい。」とのことであった。たしかにこれまでの中国旅行で気がついたことであるが、中国人は面前で歌ったり、踊ったり、演奏することに恥ずかしさを全く持たない。そんなことよりも、同好の士が集い、一緒に歌ったり、踊ったり、演奏することに限りない楽しさを感じるのであろう。

店の前が比較的広幅の臨水路となっているところには多くの人がたむろしていて、中には民族衣装をまとった人達の姿も目に入った。恐らく店員達で、これから忙しくなる前にリラックスした一瞬なのかも知れない。

ところによっては赤提灯の代わりに不思議な飾りをぶら下げている店もあった(写真4a)。まるで人工衛星を縦にして上側に三度傘を引っ掛けたようなものだったが何を意味しているか皆目見当がつかなかった。ある通りで、振り返ってみて、少し仰角を上げてみると柳の向こうに玉龍雪山の悠然とした姿が見えることに、鄭さんの指摘で気がついた(写真4b)。

そして場違いなところに馬がいると思ったら。鄭さんが、「ここが有名な茶馬古道の要衝なのです」と教えてくれた。その雰囲気を観光客に味合わせようとして馬乗散策という観光商売なのだ(写真4c)。そういえば、雲南省北部を支配していた木氏一族が南宋末に本拠地を白沙から麗江に移してから、清末までの交易路がこの地域にあったことを思い出した。

そして、鄭さんお勧めのみやげ物店に入り、息子達への土産のTシャツと、トンバ文字と漢字で自分の苗字が刻まれる印鑑とを買った。トンバ文字の印鑑は二回目の購入だったが、一度目とトンバ文字が異なることに後で気がついた。該当するトンバ文字が無いということで初回のは、漢字の持つ意味から近い意味のトンバ文字を彫ったと言っていたが、今回も同じだろうと推量していたが、それにしてもあまりにも異なる。近い意味のトンバ文字を使った、ということなら、作成者の作為が入る。その作為の内容の
違いなのだろう、そう思うことにした。

もとの水車のある広場に戻りかけたところで、鄭さんが、「折角なので一人で自由に歩いてみませんか?」と提案してきたので、賛成した。「三本の運河は流れに沿って歩けば、どの運河でも必ず水車のある広場にたどり着く」という言葉に後押しされたため
であった。そして、水車のある広場で落ち合う時刻を決め、自分の勝手気ままにそぞろ歩き始めた。茶馬古道広場に戻り、さらに足を伸ばしたが、疲れても居たので途中で引き返し、ゆっくりとした歩を止めては、続けながら水車のある広場にたどりついた。

近くにあったベンチに腰掛け、行き交う観光客を見ていたが、予想以上に欧米人が多いのに驚いた。しかも殆どが中高年であった。頭が白いのは殆どが欧米人か日本人(自分)であり、中国人に白髪が少ないという現象はここでも違わないことだった。

***** つづく ***** ←クリックで次へ