槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2009/12/11 21:28:23|旅日記
F龍門石窟寺院(9/23)***その2***とG白居易晩年の寓居 G白居易公園

F龍門石窟寺院(9/23)***その2***とG白居易晩年の寓居 G白居易公園

 伊水に架かる橋(慢水橋)を西から東へと移動した。橋から見ると、北の方の川面には、白鷺が平然と漁をしている様子が見られた。獲物を狙うのに一生懸命で、橋を渡る人間どもの足音は全く気にしていないようである。
 川面から突き出している脚の長さから。少なくとも白鷺のいるところは川の深さは20cm程度と推測できた。目を南側(石窟側)に移すと、なみなみと水を蓄え、かなたに橋がうっすらと見える(写真1a)。そして石窟の方角をズームアップすると石窟の洞の配列が見える。大小大きさがまちまちの窟が何の配列ルールもなく配置されている(写真1b)。柳並木が川とその石窟群を区画している(写真1c)。
 慢水橋を渡り終え、少し小高いところへ登ったところで後ろを振り返ると、奉先寺の佛像群が鮮やかに見られた。さらにズームアップして奉先寺の佛像群を眺めると、随分大きなものだったんだな、と再認識させられてしまった(写真1d)。
 そして、細い山道を更に高いところへと進んでいった。最初の石碑の案内では、北から「擂鼓台三洞(写真2b)」、「千手千眼観音龕(写真2c)」、「高平群王洞(写真2d、2e)」、「看経寺」などがあることになっていたが出会う仏像の殆どが朽ち崩れていた。「千手千眼観音龕」は窟壁に無数の手の平の模様が見えることが、後で写真に強烈なコントラスト処理をしてかろうじて分かるというものであり、像の輪郭を認識するのに苦労した。その点、「高平郡王洞」はまだましで、立体感も
あり、着ている服の形や像の顔の表情も読み取ることが出来るものであった。

 龍門石窟寺院の見学を終え、次に石窟のすぐそば(南)香山にある白居易晩年の寓居 白居易公園(白園)を訪れた。白居易の時代、龍門山の伊水に面する山肌には造窟中の石窟もあったに違いない。白居易が終の棲家としてこの地を選んだ理由は何だったのか。中唐を代表する詩人。 名は居易、字は楽天。号は香山居士。晩年仏教に帰依する、ということになっているので、これが真の理由かも知れない。彼の詩の中でも「長恨歌」は、古来多くの日本人に最も愛されてきた。有名な『長恨歌』は、安禄山の乱で楊貴妃を失った玄宗皇帝の深い悲しみをうたった詩で、源氏物語など、日本の文学にも多大な影響を与えた、となっている。「漢皇重色思傾国」から始まり、「在地願爲連理枝」で終わる120行もの詩は、物語性豊かに玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇的な恋物語を詠いあげているが、詩は良くても、楊貴妃のために、国を傾けてしまった玄宗皇帝には、現代では誰にも許容されないであろう。白居易はこの恋物語を閉じるに当たって、自分の感慨を添えている。

天長地久有時盡
此恨綿綿無盡期

「天は長く、地は久しく存在するとしても、やがては天地ともに滅び尽きることが有るだろう。だがこの恋の恨み、愛の裏にある別れの恨みは、天地が滅びようとも綿々として尽きることは無いだろう」 と。

 この物語は、「安禄山の乱」という戦乱が引き起こした悲恋を扱っているが、「安禄山の乱」の代わりに、近代世界中に起こっている様々な戦争、新型インフルエンザとの闘い、病魔との闘い、テロとの戦い、環境破壊との闘いという語彙を当てはめてみても確かに玄宗皇帝と楊貴妃ほどでないにしても、どこにでも、いつでも興りうる話である。

 それはともかく、なんとなく「白」という文字に似た白園の門(写真1)をくぐった。園内を移動中にガイドの牛潞さんに、「中国では漢詩人では誰が人気がありますか?」とたずねてみたが、「白居易は人気ベスト5にも入っていない。ベストスリーは李白、杜甫、王維です。...。ところで李白の出身地は何処か知っていますか?」と逆質問してきた。唐は当時の国際都市、特に西域との通交が盛んということから、「ウルムチやトルファンの人?」と答えてみたら、「シベリア出身」と全く意外な答えが返ってきた。この種の話は、やりはじめたらきりが無いので、話題を白居易に戻すことにした。
 今の中国で、美女に現をぬかした玄宗皇帝を美化した白居易を支持することは出来ないのではないかと思ったが、悲恋とは言うものの、その裏には女狂いという側面があり、玄宗皇帝には、「まじめにヤレ!」と言いたくなるのは誰でも同じで、それを美化して「長恨歌」を作った白居易に対しても、「美化する対象が間違っているのではないの?」と言いたくなる。

 白居易に関するもうひとつのエピソードは紫陽花に関するものであろう。日本原産の「紫陽花」の名づけ親が白居易だというのである。肯定派と否定派がいて、肯定派は、遣唐使がアジサイを唐に持ち込み、それを見た白居易が、「紫陽花」と名づけ、その遣唐使が帰国後その名を広めた、という説であり、アジサイに良く似た中国の花を白居易が、「紫陽花」と呼んでいたのを見て、その花を紫陽花と誤解した遣唐使が帰国後、「唐ではこの花(アジサイ)を紫陽花と言っていると言ってその名を広めたというのが否定派の説明である。Arachinaの沈さんと旅行日程の相談のついでに以下のメールのやりとりをしたことを思い出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
写真(写真2a)の花の名は「秀球花」。「秀球花」は日本語では「しゅうきゅうか」と呼ばれていると思います。小さい花弁でそんな大きい花球に咲くなんで、いろいろの色もあり、この花が好きです。「劉三姐」は以前民族歌を上手の美人のお名前です。陽朔現地で漓江・印象劉三姐をご存知ますか。張艺謀という名人に導演されます。劉三姐の故郷は繍球「繍球=しゅうきゅう、いろいろ色の丸い民族特色ありの玉・飾り物」を好きな人に渡しております。
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 しばらく園内を移動するうちに、白居易の塑像が安置されている楽天堂についた。
塑像は純白であり、「白居」という文字が最適という佇まいであった(写真3)。この純白の白楽天が立ち上がった姿を連想させる花がある。白楽天草、というよりシロホトトギス草で知られている(写真2a)
 そのほか、この園内には、24トンもの重い石で造られた臥碑(写真4a)、烏頭門、鳥居などがある。詩の廊下区には、詩の石碑(写真4b)と壁画が立ち並んで展示されていた







2009/12/09 21:59:36|旅日記
6.中国三大石窟寺院制覇、E龍門石窟寺院(9/23)***その1***

6.中国三大石窟寺院制覇、E龍門石窟寺院(9/23)***その1***
敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟、そして今回の洛陽の龍門石窟で中国三大石窟寺院を制覇したことになる.またこのほかトルファンのゼベリクス千仏洞を含めると4つ目の石窟寺院訪問となる。ホテルを出発し、龍門石窟寺院についたのは、AM10:00少し前であった。

 最初に目に飛び込んだのは、水量豊かな伊河とそれを東西に跨ぐ石橋であった(写真1a)。河の両岸には当然の様に柳の青葉が垂れ揺れていた。その石橋と、歩行してきた道路が交差するところが入場門となっていて、入場門の門脚が石橋の支えを兼ねていた(写真1b)。そしてその幅広の門脚には石窟の配置が示された「龍門石窟遊覧示意図」と、この石窟の由緒が記された「龍門石窟介紹」が彫られていた。

これらの案内によると、『洛陽市の南十三公里(5.2km)のところにある龍門石窟は伊河を挟んだ東西に分布し、西側が龍門山、東側が香山となっていて、それらの山の壁に多数の屈が彫られている。龍門石窟は北魏時代西暦493年に、都が平城(現大同)から洛陽に遷されたのきっかけに、大同の雲崗石窟を継続(移設)する形で掘られたのが最初である。
 その後、東魏、西魏、北斎、隋、唐、北宋の諸朝に亘る4百余年に亘って造窟が継続された。現存する窟の数は東西合わせて2300余りとなる。佛塔は80座余り、題記が刻まれた碑は2800余塊、造像は11万尊、全造像の30%が北魏時代に造られているが、とりわけ有名なのは、古陽洞(1443号窟)、賓陽中洞(140号窟)、蓮花洞(712号窟)、魏字洞(1181号窟)、皇甫公窟(1609号窟)などがある。
 全体の60%程度の窟は唐代に造窟されていて、その代表的な窟は奉先寺(1280号窟)、潜渓寺(20号窟)、万佛洞(543号窟)、極南洞(1955号窟)、大萬伍佛洞(2055号窟)、高平郡王洞(2144号窟)、・・・・・。また龍門石窟は造像題記の数が多いだけでなく、多様な書体、例えば魏碑体や唐楷書体は芸術的書体とされ、“龍門二十品”と“伊関佛龕之碑”は芸術的代表作品とされている。・・・。』ということになる。中国の名所の案内は殆どが繁体字で書かれているので、大体何が書かれているか分かり有り難い。

  先ず、最初に目に飛び込んできたのは潜渓寺、本尊阿弥陀仏(写真1c)だったが、その表情が何か違う。しばらくして気がついたのは、大同雲崗と石窟の石質が違うのではないかということであった。仏像は風蝕や濃淡の異なる岩肌の溶解液を被って無残な模様を呈してしまっているだけでなく、石窟をつくりあげている岩質が均一ではなく、場所場所で風食の受け方が異なるように思えた。他の窟ではもっと岩肌の不均質さを感じさせるものが多かった。何らかの理由で岩壁に亀裂が入り、亀裂に沿って石灰質液が流れ、流れながら固化したという痕跡のある窟がいくつも見られた(写真1d)。

竜門石窟研究所編著による「龍門石窟芸術」なる小冊子には、『竜門石窟は、すでに1500年の歳月が経ち、自然環境の変化の影響を強く受け、多くの被害を受けている。また30年代前後憚りない盗難にあったため、完璧なものは滅多にみられなくなった。盗掘された跡は800箇所にのぼる。』とあるが、盗掘と自然環境の変化の影響を比較すると後者の方がより深刻だったのではあるまいか、と後日某小冊子を見ながら思った。
敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟は窟内に入り、窟内壁に掘られた仏像や色彩豊かな壁画を拝観し、記憶に留めることが出来た。しかし竜門では窟内に入り込み、じっくりと仏像を眺める空間がなかった。あとで、「龍門石窟芸術」なる小冊子を見ると、飛天像や楽士像など興味ある彫刻はあるにはあったのだ。しかし、気がつかなかったのだろう。残念至極。

ところで、この稿を書いている最中の12月2日 平山郁夫氏が逝去した。敦煌の莫高窟の保存に尽力した活動は有名だ。もし平山郁夫氏が、この竜門石窟寺院の荒れ果てた景観をみたら、どんな感想を持ったであろうか。この様な歴史遺産を風食から守る技術の開発にもっともっと力を入れて欲しい。そして、急激な経済発展は、歴史的風土や歴史遺産の破壊、自然破壊につながり易い。GDPの何%かあるいはサブ%は、経済発展による歴史的風土や歴史遺産の破壊を予防する基金にまわしてもらいたい。そんな声を、片手に仏教の悟しを手にし、もう片手に絵筆を握りながら念じていたのではないか、と思ってしまう。是非、「竜門石窟研究所」には優秀な保存技術を開発していただきたいものである。

そんなこととは裏腹に、前を流れる伊水との景観のマッチングは素晴らしく、莫高窟や、雲崗石窟が持っていない景観をもっていて、香山側に、白居易が寓居を構えた気持ちが理解できる。
 唐の時代には石窟自体もっと色彩豊かで、仏像の輪郭ももっとはっきりとしていたであろう。きっともっとピカピカ輝きのある姿を放っていたに違いない。そんな妄想を抱きながら、摩崖三仏龕を伊水との結合した風景として捉えてみようとして写真を撮ってみることにした(写真2b、2c)。そして他の観光客がやっているようにポーズをとってみた。(写真2d)

 そして、北へ進む。その途中、伊水越しに西側を見ると、甍の整った香山寺の姿が浮き上がって見えた(写真3a)。そして、再び東側の石窟に目を戻すと、萬佛洞の見事な仏龕(ぶつがん)(写真3b)が目に入った。次に寄った第557窟(清明寺)には石塔が彫られていた(写真3c)。雲崗石窟(第二窟、第十一窟)にあった石塔ほど立派なものではなかった。雲崗石窟の石塔が、窟の中央に窟頂の天蓋から掘り下ろされていて、塔の本来の存在意義を主張しているのに対し、ここのは窟壁に寄り添うようにこじんまりとしてたたずんでいるという感じであった。

 雲崗石窟の石塔は北魏時代平城京には3000人を超える仏教僧がいて、壮大な伽藍が立ち並び、それらを、模し、デフォルメして表現されたという見方ができるのなら、ここ竜門石窟は洛陽に立ち並んだ伽藍を模し、デフォルメして表現されたものといえる。ただし、作られたのは唐代であり、都は長安が中心で、仏教僧も玄奘三蔵のように本拠を長安に置いていたので、北魏平城京の僧の思い入れに比較すると、唐代洛陽の僧の仏教に対する思い入れは薄かったのではないかと思ってしまう。

 それはともかく、更に北に進むと蓮花洞窟が現れた。洞窟の窟頂に配された、蓮花や北側の窟内壁に彫られた精細な佛龕群が目に入った(写真3d)。注意深く釈迦像が胡坐した足元を見ると、蓮花坐を力強く支える力士の姿が見られた。蓮花が施された天蓋部は今にも剥がれ落ちそうな段差が見られる。
 こういう状況を見ているうちに、もしも、この天蓋部が崩れ落ちたのを石窟研究所のスタッフが見たときどの様な気持ちになるのだろう、というお節介な心配をしてしまった。

 しかし、次に足を運んだ奉先寺の彫像を見たとたん、その思いが一挙に吹き飛んでしまった。主面と左右前面が舞台になった劇場にいる錯覚に陥る。また、なんとなく癒しが感じられる立体空間のようにも感じたのは自分だけでなく、地べたに腰を下ろし安らぎを得ている人の姿もみられた(写真4a)。正面舞台に、本尊の大盧遮那(るしゃな)佛、その左横に左脅侍菩薩、力士像等の輪郭がはっきりした仏像が並んでいた。(写真4b,4c)。『大盧遮那(るしゃな)佛は高さ17.m余り、頭の高さ4m、耳の長さ1.9m、、造型は豊満秀麗、荘厳雄大で慈しみに満ちている。右側の老僧迦葉は慎み深く、左側の阿難は淑やかである。文殊、普賢両菩薩は派手やかな衣装を纏い、珱珞宝珠を飾っている。護法天王は身に鎧を固め、手で宝珠を支え、厳めしくて、落ち着いている。金剛力士は胸や腕を剥き出していて、芯が強く、気短で荒っぽい気勢が人に迫る。菩薩像の外側には一体ずつの供養人像があり、双髷を結び、長裙を纏い、雲頭靴を履いていて、微笑んでいる。この一組の彫像は盛唐芸術の最高峰の地位を十分表わしている。』以上、龍門石窟研究所編「龍門石窟芸術」より。西側の見学を終え、目を北前方に遷すと緑に覆われた中州を配した伊水と、それを跨ぐ橋で構成された光景(写真4d)が目に飛び込んできた。








2009/11/28 23:48:26|旅日記
中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)

5.中国最古の仏教寺、D白馬寺(9/22)
 今年の春は、北京最古の仏教寺院で観光客があまり訪れない「法源寺」を訪れたが、今度は中国最古の仏教寺院である白馬寺を訪問した。
 白馬寺は、先記したように、洛河の北側に位置する「漢魏洛城」の中に包みこまれる様に建立されていて、これからも分かる様に、後漢の明帝の時に創建されている。
 この白馬寺は北方謙三著「三国志」にも度々出てきて参考になる。この黄河流域は、三国志時代の初期の頃は、五斗米道や、太平道と言った大衆宗教が栄え、これらの宗教をよりどころとした黄巾の乱などの反乱が各地に起こり、曹操も劉備も孫堅も鎮圧に加勢しながら勢力を広げていった時代があった。曹操の手下(密偵集団)の中に石岐という名の仏教(当時は浮屠(ふと)と呼ばれた)を信ずる者がいて、生涯曹操の手足となって働くことを約束するのであるが、その交換条件として、曹操が天下を平定した暁には、浮屠の信者のよりどころとするための建物を、各郡に一つ欲しい、と約束させたのであった。
 この時期、仏教は漢族の間ではまだ広まっていなかったが、遥か西方の異民族月氏の中では信仰が広まってきている。その月氏が匈奴に追われ、この地域に逃げ込んでいて、彼らを祖先とした一族のよりどころとなっていたところが白馬寺で、曹操はこの白馬寺を、月氏一族が集まる場所程度だと思っていた、と北方謙三の「三国志」にはある。この見方が北片謙三の創作なのか、何かの文献に基づいているのかは分からないが、観光案内に書かれた白馬に乗った二人の天竺僧が経典と仏画を携えて入洛したのに因んで白馬寺と命名された、という説とはいささか隔たりがあるように思う。説得力は北方三国志の方があるように思う。もう少し時代が下って五胡十六国時代、北魏時代などの異民族国家は盛んに仏教を保護し、漢族との融和政策にも利用した地でもある。
 一方で、迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧が、白馬に乗り『四十二章経』という経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んで、白馬寺と名づけられた、という説の、『四十二章経』の序文に、明帝が大月氏に使者を派遣して写経させたとする記述があるので月氏が関係していることは確かの様で、後漢の明帝の、仏教の中国伝来に関する感夢求法説話の部分があやふやなのではあるまいか。
 境内には天王殿・大仏殿・大雄殿と言った伝統的な四合院形式による建物が歴史を感じさせてくれる。東側に金代の大定15年(1175)建立の斎雲塔と言う石塔が建つている。四角13層、高さ24bでこの寺院のシンボル。馬寺鐘声・『洛陽八景』の一つとされている。明朝・嘉靖34年(1555)の鋳造で、重さ2,5d。面白いことに、この鐘の音にこたえて洛陽東門にある鐘も共鳴すると言う。二つの鐘の共振周波数が同じなので、こういう現象が起きるそうだ。ここでは「馬寺の鐘音、西にこだます」と言われている。
 山門(写真1a)より天王殿(写真1b)、大仏殿、大雄殿(写真1c)、接引殿(写真1d)、清涼台(写真1e)と南北一列に伽藍が並ぶ。接引殿の入り口には触れ合う様に金木犀が白い花を咲かせていた。日本の金木犀のように心地よい芳香は漂ってこなかった。あの橙色の色素成分が芳香を放っているのかも知れない。 日本の金木犀の写真を毎回世話になっているARACHINAの沈さんにメール添付送信したことがあるが、返信メールには、黄色い花をつけていた金木犀写真が添付され、「金木犀のお花は綺麗で、素適で、私は好きです。この季節なら、桂林現地で市花(金木犀)も咲いています。路辺漂う香りは心から気分が宜しいです。」(以上原文のまま)という言葉が添えられていた(写真2a)。桂林とは桂樹林=金木犀林という意味なのであろう。古代中国では、この桂樹を「広宮仙」と呼んだ。また、芳香の強さから「九里香」といい、この乾花を烏龍茶の香りつけに用いることがあるらしい。以上脱線したが、話を戻す。
 清涼台から更に奥に進むと、建物の名称は確認できなかったが、ここで、先記した「浮屠(ふと)」という文字を発見した(写真2b)。建物の入り口の両柱に対聯があり、右側の柱には「金人入夢白馬駄経」と、左側には、「讀書台高浮屠地廻」と刻まれていることに旅行後写真を整理しているうちに発券した。)実はこの写真はこの対聯を撮るべくして撮ったのではなく、たまたまあとで写真を拡大したら、「浮屠」という文字が偶然眼にはいったのであった。こういうことが旅行後の楽しみなのである。従来のアナログ写真では気がつかなかっただろうし、高画素のデジカメでないと、少し拡大しただけで画像がぼけてしまい、「浮屠」という文字が眼にはいることは無かったであろう。
 この建造物を見ていてもう一つ気がついたことは、特徴のある格子模様である。格子は正方形と、二つの角が直角の五角形とだけから構成されている(写真2c)。それに気がついて、建造物の壁面を注意深くみると、格子となっているところは全て同じ格子模様になっていることを確認できた。この格子模様は何かに応用出来そうである。
 そして、帰りに通った、回廊に沿った小道はゴミ一つ落ちていない落ち着いた雰囲気の歩道であり、円形の出入り口に向かう(写真2d)。この小道の回廊と反対側には小道と建造物との間に植え込みがあり、その一角に黄色い僧衣を纏った若い僧侶の姿が認められた(写真2d)。
 そして更に先に進み円形の出入り口をくぐり少し行くと空海の像(写真3a)が眼に入った。像の台の側壁には「中日友好25周年」と記されていた。空海も遣唐使の一員として中国の地を踏み、この白馬寺を訪れたことが事実ということであろう。
 更に進むと、僧侶の像が安置された建物(写真3b)に出会った。この僧は、おそらくこの白馬寺に経典をもたらした迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧のいずれかであろうが、確認し忘れてしまった。この僧の左側の足元に白い服を纏った人形のような女性像、あるいは単なる人形か、があったからだ。これがお供えの様にも、はるか西域からの女性の旅人にも見えたのだ。像の前面に焼香壷とそれを置く長いテーブルがあったが、そこにはおかれていなかったので、お供えとして供されたものではなく、意味があるはず、と考え込んでしまったからであった。
 それはともかく、この建物の屋根瓦の稜線には見慣れた走狗の隊列が見られた。(写真3c)
 そして白馬寺を一通り見学したあと、隣接して建造されたばかりのインド風寺院の入り口(写真4a)に至った。正面から見るとドーム型の堂干で、出来たばかりの完全なインド風白亜の殿堂という感じであった。観光案内にこの殿堂のことは一切書かれていない。ガイドの牛潞(ニユールウ)さんが、「ここ見学しますか?」と聞いてきた。旅行のテーマが「中国中原五古都の歴史」と伝えているので、歴史のないこの白亜の殿堂には興味ないはず、と思われたのも当然かも知れなかった。しかし奈良薬師寺の玄奘三蔵院の例もあるので、「見学してみたいですね。」と返答し、本堂と思われる釈迦如来が安置されている堂内(写真4b)に入っていった。ひろびろとした堂内には本尊の釈迦如来が手を合わせ、胡坐をかいた像が鎮座していた。ブロンズ製でも木製でもなく、モルタル制かコンクリート製で、その他に仏像は一つもなかった。おそらくこれから信心の篤い富裕層の寄進によって、種々の如来、菩薩、明王、天 達が揃って行くのだろう。参拝する人も殆どいなかった。そのお堂を後にして入ってきた入り口に戻る時。見たことのあるレリーフ(写真4c)を眼にした。
 インドの世界遺産になっている「サーンチーの仏教遺跡」であるサーンチー第一塔東門のレリーフの複製である。少し前に、武澤秀一著「空海 塔のコスモロジー」を読んでいて、そこにサーンチー第一塔東門のレリーフの写真が掲載されていたのを記憶していたのだ。
 このレリーフは仏陀生誕説と関係している様であり、ブッダの母であるマーヤー王妃が、樹の下に立ち、マンゴーの樹の枝に手をかけたとき、そのわき腹からゴータマ王子が生まれたとされる説話であり、マーヤー王妃と思われる美女はかなりエロチックである。ブッダは、生涯最後の旅の途上、「女性にどう対したら良いのか」と問う弟子にこう答えたとのこと。「見るな!」...このレリーフ(複製だが)には像、猿、蛇、虎などの動物たちが複雑に絡み合って彫られていた。







2009/11/19 22:00:29|旅日記
4.九つの王朝の都、洛陽、C洛陽博物館(9/22)

前年(08年)十一月に雲崗石窟寺院を訪問し、まもなく北魏 孝文帝が都を移した先が洛陽であり、そこにも石窟寺院を建立したのが、竜門石窟寺院である。既に敦煌莫高屈と、雲崗石窟寺院を訪問しているので、竜門石窟寺院を訪問すると三大石窟寺院を制覇するということになる、という程度の気持ちであった。しかし、少し調べると、シルクロードの一地点でもあり、「三国志」、「孟嘗君」にも頻繁に出てくるし、芥川龍之介の「杜氏春」の舞台にもなっている。そして何よりも京都を訪れることを、訪洛といったり、京都の北辺を洛北、西辺を洛西、中心部を洛中というが、この「洛」の意味するところこそ、この洛陽のことなのである。即ち、日本の古都京都は、この洛陽の都をモデルにしているところ大なのである。
 九朝古都と呼ばれ、古くは紀元前770年の東周に始まり、後漢、魏、西晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の歴代九王朝、七十人の帝王が都を築いたのであった。それだけに、出土された文物は多彩
で、日本の特別展で目にしたものも多いに違いない、という期待を抱いて、洛陽博物館を訪れた。
 博物館に入って最初に目に入ったのは、「洛陽古代都城形勢図」という地図(写真1)であり、各王朝ごとにその都城域の輪郭が色線で示されている。最も大きいのが「隋唐洛陽城」であり朱色で囲われ、その西側に、1/4程度のスケールの「周王城」が紫色で囲われ、ともに洛河の北側に位置している。さらに東には、同じように洛河の北側に位置する「漢魏洛城」が、白馬寺を飲み込むかの様に緑色に輪郭線が描かれている。更に東には、偃師周城がやはり洛水の北岸に位置し、周王城の1/2くらいの面積で青色で輪郭表示されている。洛水は、少し南西の地点で「伊水」と合流し、伊洛河という河になって東に向かい黄河に合流して行く。そして伊水に沿って西に遡ると「二里頭遺跡」が所在する。「二里頭遺跡は紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の歴史上の夏・殷の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。しかし歴史上の夏王朝の人名を示す文字資料は出土していない。」とWikipediaに紹介されている。そして今度は伊水に沿ってさらに遡ると、「諸葛」という地名を過ぎて伊水が南に湾曲し始めるあたりに三国志の英雄関羽を祀った「関帝廟」があり、伊水が南下してまもなくの地点に「竜門石窟」が位置している。そして関帝廟」と「竜門石窟」とを結ぶ直線のちょうど北方に「隋唐洛陽城」が位置している。「洛陽博物館」はこの隋唐洛陽城領域内にある。以上の様に地図には示されていていた。
 最初に目に入った陳列品は「豆(トウ)」と呼ばれる食物容器(写真2a)であった。食べ物の「豆(マメ)」との関連に思わず拘ってしまった。後日調べたWikipediaには、古代における食物を盛る容器の一種で、柄のある足で支えられ、上部が円形である高坏(たかつき)を意味する、とあった。
 「豆」字には食用されるマメ科植物の種子あるいは果実の総称であるマメの意味があるが、これは後起字である。先秦時代において豆類食物を表すのは「菽」字であったが、「豆」にも仮借により豆類食物の意味が生じ、漢代以降、次第に「菽」字に取って代わるようになった。声符としては「登」や「逗」のようにトウといった音を示す。」とある。マメの括れた部分の曲線がトウの足の括れ部の曲線と似ているからではないか、あるいは、トウがマメに変遷する過程で、槐(エンジュ)が関係していたのではないかなどと夢想してしまった。
 この見学ペースでは一日かけても見学が終わらない。ちなみにデジカメ写真の撮影時刻から展示品の前に佇んでいた時間は、この「豆(トウ)」の前が一番長く10分近くいたことが後で分かった。
 次に記憶に残ったのは、陶俑であり(写真2b)、兵馬俑を思わせる人物俑であるが、兵の姿より一般人や女性の姿が目立つ。色ははげてしまっているが、赤身を帯びているのは、辰砂(シンシャ)と呼ばれる硫化水銀結晶で、青を呈するラビスラズリと対をなして使われる貴重な顔料であったらしい。
 更に、将棋の駒も記憶に残った(写真2c)。現在もその様だが、中国の将棋は線に囲まれた位置ではなく、線上に置くのである。下段中央に「将」、その隣両脇に「士」、その両隣に「象」、更にその両外側の「馬」と、更にその両外側の「車」は日本の将棋と同じで、中段の飛車、角の位置に「龍」が二つ、最上段には「卒」が一つおきに5枚配置して戦うようだ。そして駒の形状は円板であり、色は象牙色と黒に分かれていた。
 次に「画像磚(セン)」と呼ばれる出土品が多く展示されていた。磚(セン)は「甎」とも表記され、中国における焼成煉瓦を意味する語である。すなわち、捏ねた粘土を型枠入れて成型し、乾燥させて焼いたものである。文献の上では、西周時代(紀元前900年)頃から存在したらしく、中国では便利でポピュラーな建築資材として多用されてきた。ちなみに、焼かずに乾燥させただけのいわゆる日乾煉瓦のことを中国では「土磚」または「土磚」と称しており、磚よりも遥か昔の先史時代(紀元前1600年頃)から存在したといわれている。磚の表面に幾何学模様や動植物、あるいは人々の生活の様子などを型押しして描いた画像磚や、仏を彫り出した磚仏なども存在し、主として墳墓や仏塔などに用いられた。
 以上は神戸芸術工科大学 准教授 山之内誠氏の説明であるが、洛陽博物館に展示された磚の外形は角板(写真3a)、円板(写真3b)ともにあり、刻まれた模様は精細で、鏡面対象や四回対象など対象性が良いものが多いようである。円板タイプは、軒丸瓦の前身とも言えるのではないか、と思われた。目下、京都仁和寺の金堂にある軒丸瓦の模様に対象性が無いことに興味を持っていることもあり、三つの円板の画像磚にしばし見とれた。

 洛陽博物館の展示品で最も有名なのは、「唐三彩」であろう。その中でも有名でみやげ物の原像ともなっているラクダ像(写真3c)や女人陶俑(写真3d)、魔よけ獣陶俑(写真3e)を写真に撮れた。魔よけ獣は寺院の屋根瓦の稜線に沿って取り付けられた魔よけ獣
と姿勢がよく似ていた。

 中国人は古代から音楽好き、というより器楽の演奏はまつりごとに欠かせない小道具であり、器楽団を擁することは地位の象徴でもあったのだろう。「伎楽坐俑」は河南地方の博物館にはポピュラーと言える。ここ洛陽博物館では「伎楽坐俑」だけでなく、奏でる音楽に合わせて踊る「舞踊俑」がセットになって展示されていた(写真4a)。その躍動感にはしばし見とれてしまった。そうかと思うと、数人の男性楽士の演奏に合わせて踊り呆ける男たちの像(写真4b)はなんとも微笑ましい。隋唐時代の人物俑の表情や仕草は実に微笑ましい。精神的な充足感漂う時代であったのだろう。あるいは葬られた死者が黄泉の世界でもおかしくて仕方がないような気分になるように、それをみると笑いころげてしまう仕草を必死になって作り上げられた表情なのかも知れない。死者となった者を必死になって喜ばそうとする精神は一体何なのか?不思議な感覚に囚われた。
  つづく







2009/11/06 12:57:50|旅日記
中国中原五古都を行く(3.鄭州から洛陽へ:連霍高速を行く)

3.鄭州から洛陽へB連霍(レンカク)高速を行く(9/22)
河南博物館を後にして、今回の旅のメインイベントである洛陽への移動に入った。鄭州から洛陽へは、連霍(レンカク)高速を使って、黄河に沿う様に、一路西に向かうことになる。
 高速に入る時に、河南省高速公路図をもらった。中国もこういうものが無料で配布されるようになったかと裏面を見ると、高級高層マンション分譲案内のチラシとなっていた。1LDK(40平方米)、2LDK(80平方米)、3LDK((119平方米)、4LDK(140/160平方米)が販売対象になっていて、それぞれ、2万元、3万元、4万元、5万元、トイレは洋式となっているが、これが販売価格だとすると余りにも安すぎる。賃貸マンションにしては高すぎる。一元は15〜16円である。それはともかくこの地図は最初から最後まで大いに役にたった。

 連霍高速道路は東は開封、商丘、徐州といった「三国志」や「孟嘗君」に頻繁に登場する著名な古都を経て江蘇省に至っている。西は、洛陽、三門峡を経て陝西省に至っている。そしてこの高速は国道310号に沿ってもいる。またArachinaの沈さんの話しでは、年末には西安から鄭州までの400km余りを2.5時間で結ぶ新幹線が開通するとの話である。
この国道310号は日本で言うなら東海道、連霍高速は、東名+名神高速道路、そして新幹線は東海道新幹線と対比できるのではないかという感じがしている。ただし、太平洋という大海に沿うのではなく、黄河という大河に沿っている。その大河の上流に向かって走行するのである。

 更に、この国道310号は起点は江蘇省連雲区で、同省徐州、河南省商丘、同省開封、同省鄭州、同省洛陽、同省三門峡、陝西省西安、甘粛省天水に至る全長1613kmの国道である。開封から少し北東に分岐した街道(国道220号)に向かうと、孔子廟があることで有名な山東省の曲阜、さらに東の海岸までゆくと臨淄(リンシ)に至る。
 とすれば国道310号などという無機質な名前ではなく、東海道という様な名前があって欲しい。あるいは、例えば「河南街道」、あるいは「連天街道」などという名前がついていて欲しかった。それがあれば、今回の旅を司馬遼太郎風に、「街道を行く 河南の道」などとしたのに、と思うのである。そしてその道を古くは重耳が、そして、孟嘗君が、そして少し時が下って曹操が、劉備、関羽、張飛が、呂布が往来した可能性があり、道路も夏は草や茨が腰の高さまで生え、冬は枯れ草の上を人々や牛馬が往来したのではないか。
 旅行前はそんな妄想を抱いていたが、現地に来て、高速道路は縦横に整備されていて、建造物も高層のコンクリート製の建物が急ピッチで建造されている。日本では最近「コンクリートから人へ」という標語が闊歩し始めているが、この国では、その逆の「人からコンクリートへ」という流れを感じる。かつて日本が歩んできた道でもあり、ノスタルジアさえ感じてしまう。違うのはスケールの違いであり、国土が広大なためか高速道路の車線の数は多く道幅も広く感じる。

 運転手の趙さんは、移動車のフォルクスワーゲンを時速120kmまでスピードを上げ、走り続けている。そのため車の中から写真を撮るのは難しい。写真を撮るに値する景色と、スピードが落ちた時、さらには道路に接近して建造物や木々、道路柵がなくしかも他の車が並走していない時が重なった時がシャッターチャンスであったが、そんなチャンスは滅多にないものである。
 終始狙っていた風景は、時折、高速道路に接近して見えるはずの黄河であり、やっと撮れたのが、写真1であった。後日この写真の細部まで観察すると、ややくすんだ青空の下に、黄河の本流が高速道路に並行するように流れ、それに向かって、蛇行して流れる枝流が見える。そして河の向こう岸も見える。手前側は蛇行して流れる枝流に沿って、道路の様なものも見える。これは走行中にも気がついたことであり、ガイドの牛潞さんに、「人が住んでいるのですか?」と聞いてみた。答えは、「今は渇水して河が本流と枝流に分かれているように見えますが、ひとたび大雨が降ると、今見えている草地は完全に冠水し、一つの大きな川筋になります。ここ十年近くその様なことはありませんが。」とのこと、「そんな所に人が棲めますか?」とは言わなかったが、そういうことであろう。そして「緑地に見えるところは、野鳥の棲息地だったり、牧草地になっています。」とのことだった。「どの様な野鳥が棲んでいるのですか?」と聞こうとして、言葉を呑み込んだ。これまでの中国旅行で、中国人は“花鳥風月”のうち花鳥については大雑把すぎて名前を聞いてもわからない、というより細かく分類しないのが普通のようであり、多分答えは得られないだろう、と思ったからである。
 山茶花と椿、カケスと尾長鳥、どちらも同じ花であり鳥なのである。細かく分類し、それを知っていることを誇らしげに言いたがるのは日本人の固有癖なのかも知れない。あるいは多民族を一色にまとめることが古代からの国家(中国)としての願望であり、その思いが、中国人の情緒に投影されてきたのかも知れない。

 高速道路を作るのに、岡や小山を切り崩したと思われるところを時々通過するようになってきた。露出したベージュ色の土肌を見ると、泥岩に近く(写真2)、切り崩し易い地質の様である。従って、山の斜面に建造される民家も同じ泥岩を使って作られている様に見えた(写真3)。そして、その岡や小山はその容貌を大きくしてゆき、やがて高速道路を覆うようになり、トンネルが出現するようになった(写真4)。竜門石窟がある洛陽が近くなった証拠であった。