| 6.中国三大石窟寺院制覇、E龍門石窟寺院(9/23)***その1*** 敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟、そして今回の洛陽の龍門石窟で中国三大石窟寺院を制覇したことになる.またこのほかトルファンのゼベリクス千仏洞を含めると4つ目の石窟寺院訪問となる。ホテルを出発し、龍門石窟寺院についたのは、AM10:00少し前であった。
最初に目に飛び込んだのは、水量豊かな伊河とそれを東西に跨ぐ石橋であった(写真1a)。河の両岸には当然の様に柳の青葉が垂れ揺れていた。その石橋と、歩行してきた道路が交差するところが入場門となっていて、入場門の門脚が石橋の支えを兼ねていた(写真1b)。そしてその幅広の門脚には石窟の配置が示された「龍門石窟遊覧示意図」と、この石窟の由緒が記された「龍門石窟介紹」が彫られていた。
これらの案内によると、『洛陽市の南十三公里(5.2km)のところにある龍門石窟は伊河を挟んだ東西に分布し、西側が龍門山、東側が香山となっていて、それらの山の壁に多数の屈が彫られている。龍門石窟は北魏時代西暦493年に、都が平城(現大同)から洛陽に遷されたのきっかけに、大同の雲崗石窟を継続(移設)する形で掘られたのが最初である。 その後、東魏、西魏、北斎、隋、唐、北宋の諸朝に亘る4百余年に亘って造窟が継続された。現存する窟の数は東西合わせて2300余りとなる。佛塔は80座余り、題記が刻まれた碑は2800余塊、造像は11万尊、全造像の30%が北魏時代に造られているが、とりわけ有名なのは、古陽洞(1443号窟)、賓陽中洞(140号窟)、蓮花洞(712号窟)、魏字洞(1181号窟)、皇甫公窟(1609号窟)などがある。 全体の60%程度の窟は唐代に造窟されていて、その代表的な窟は奉先寺(1280号窟)、潜渓寺(20号窟)、万佛洞(543号窟)、極南洞(1955号窟)、大萬伍佛洞(2055号窟)、高平郡王洞(2144号窟)、・・・・・。また龍門石窟は造像題記の数が多いだけでなく、多様な書体、例えば魏碑体や唐楷書体は芸術的書体とされ、“龍門二十品”と“伊関佛龕之碑”は芸術的代表作品とされている。・・・。』ということになる。中国の名所の案内は殆どが繁体字で書かれているので、大体何が書かれているか分かり有り難い。
先ず、最初に目に飛び込んできたのは潜渓寺、本尊阿弥陀仏(写真1c)だったが、その表情が何か違う。しばらくして気がついたのは、大同雲崗と石窟の石質が違うのではないかということであった。仏像は風蝕や濃淡の異なる岩肌の溶解液を被って無残な模様を呈してしまっているだけでなく、石窟をつくりあげている岩質が均一ではなく、場所場所で風食の受け方が異なるように思えた。他の窟ではもっと岩肌の不均質さを感じさせるものが多かった。何らかの理由で岩壁に亀裂が入り、亀裂に沿って石灰質液が流れ、流れながら固化したという痕跡のある窟がいくつも見られた(写真1d)。
竜門石窟研究所編著による「龍門石窟芸術」なる小冊子には、『竜門石窟は、すでに1500年の歳月が経ち、自然環境の変化の影響を強く受け、多くの被害を受けている。また30年代前後憚りない盗難にあったため、完璧なものは滅多にみられなくなった。盗掘された跡は800箇所にのぼる。』とあるが、盗掘と自然環境の変化の影響を比較すると後者の方がより深刻だったのではあるまいか、と後日某小冊子を見ながら思った。 敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟は窟内に入り、窟内壁に掘られた仏像や色彩豊かな壁画を拝観し、記憶に留めることが出来た。しかし竜門では窟内に入り込み、じっくりと仏像を眺める空間がなかった。あとで、「龍門石窟芸術」なる小冊子を見ると、飛天像や楽士像など興味ある彫刻はあるにはあったのだ。しかし、気がつかなかったのだろう。残念至極。
ところで、この稿を書いている最中の12月2日 平山郁夫氏が逝去した。敦煌の莫高窟の保存に尽力した活動は有名だ。もし平山郁夫氏が、この竜門石窟寺院の荒れ果てた景観をみたら、どんな感想を持ったであろうか。この様な歴史遺産を風食から守る技術の開発にもっともっと力を入れて欲しい。そして、急激な経済発展は、歴史的風土や歴史遺産の破壊、自然破壊につながり易い。GDPの何%かあるいはサブ%は、経済発展による歴史的風土や歴史遺産の破壊を予防する基金にまわしてもらいたい。そんな声を、片手に仏教の悟しを手にし、もう片手に絵筆を握りながら念じていたのではないか、と思ってしまう。是非、「竜門石窟研究所」には優秀な保存技術を開発していただきたいものである。
そんなこととは裏腹に、前を流れる伊水との景観のマッチングは素晴らしく、莫高窟や、雲崗石窟が持っていない景観をもっていて、香山側に、白居易が寓居を構えた気持ちが理解できる。 唐の時代には石窟自体もっと色彩豊かで、仏像の輪郭ももっとはっきりとしていたであろう。きっともっとピカピカ輝きのある姿を放っていたに違いない。そんな妄想を抱きながら、摩崖三仏龕を伊水との結合した風景として捉えてみようとして写真を撮ってみることにした(写真2b、2c)。そして他の観光客がやっているようにポーズをとってみた。(写真2d)
そして、北へ進む。その途中、伊水越しに西側を見ると、甍の整った香山寺の姿が浮き上がって見えた(写真3a)。そして、再び東側の石窟に目を戻すと、萬佛洞の見事な仏龕(ぶつがん)(写真3b)が目に入った。次に寄った第557窟(清明寺)には石塔が彫られていた(写真3c)。雲崗石窟(第二窟、第十一窟)にあった石塔ほど立派なものではなかった。雲崗石窟の石塔が、窟の中央に窟頂の天蓋から掘り下ろされていて、塔の本来の存在意義を主張しているのに対し、ここのは窟壁に寄り添うようにこじんまりとしてたたずんでいるという感じであった。
雲崗石窟の石塔は北魏時代平城京には3000人を超える仏教僧がいて、壮大な伽藍が立ち並び、それらを、模し、デフォルメして表現されたという見方ができるのなら、ここ竜門石窟は洛陽に立ち並んだ伽藍を模し、デフォルメして表現されたものといえる。ただし、作られたのは唐代であり、都は長安が中心で、仏教僧も玄奘三蔵のように本拠を長安に置いていたので、北魏平城京の僧の思い入れに比較すると、唐代洛陽の僧の仏教に対する思い入れは薄かったのではないかと思ってしまう。
それはともかく、更に北に進むと蓮花洞窟が現れた。洞窟の窟頂に配された、蓮花や北側の窟内壁に彫られた精細な佛龕群が目に入った(写真3d)。注意深く釈迦像が胡坐した足元を見ると、蓮花坐を力強く支える力士の姿が見られた。蓮花が施された天蓋部は今にも剥がれ落ちそうな段差が見られる。 こういう状況を見ているうちに、もしも、この天蓋部が崩れ落ちたのを石窟研究所のスタッフが見たときどの様な気持ちになるのだろう、というお節介な心配をしてしまった。
しかし、次に足を運んだ奉先寺の彫像を見たとたん、その思いが一挙に吹き飛んでしまった。主面と左右前面が舞台になった劇場にいる錯覚に陥る。また、なんとなく癒しが感じられる立体空間のようにも感じたのは自分だけでなく、地べたに腰を下ろし安らぎを得ている人の姿もみられた(写真4a)。正面舞台に、本尊の大盧遮那(るしゃな)佛、その左横に左脅侍菩薩、力士像等の輪郭がはっきりした仏像が並んでいた。(写真4b,4c)。『大盧遮那(るしゃな)佛は高さ17.m余り、頭の高さ4m、耳の長さ1.9m、、造型は豊満秀麗、荘厳雄大で慈しみに満ちている。右側の老僧迦葉は慎み深く、左側の阿難は淑やかである。文殊、普賢両菩薩は派手やかな衣装を纏い、珱珞宝珠を飾っている。護法天王は身に鎧を固め、手で宝珠を支え、厳めしくて、落ち着いている。金剛力士は胸や腕を剥き出していて、芯が強く、気短で荒っぽい気勢が人に迫る。菩薩像の外側には一体ずつの供養人像があり、双髷を結び、長裙を纏い、雲頭靴を履いていて、微笑んでいる。この一組の彫像は盛唐芸術の最高峰の地位を十分表わしている。』以上、龍門石窟研究所編「龍門石窟芸術」より。西側の見学を終え、目を北前方に遷すと緑に覆われた中州を配した伊水と、それを跨ぐ橋で構成された光景(写真4d)が目に飛び込んできた。
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