槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2009/06/11 21:41:29|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(21.黒龍潭公園)

21.黒龍潭公園
昼食を終えて、レストランを出て.黒龍潭公園へ向かう。車で数10分後に右から黒龍潭と大書した大きな扁額を額に貼った入り口門(写真1)に到着した。門前には四頭の獅子、または狛犬が、侍っている。四頭の獅子のうち打つ側二頭は“阿”、外側二頭は吽”の形相をしている。また門の側壁はペー族独特の絵柄の模様に淵取られた白壁に文字が書かれていた。門をくぐりぬけた正面にも白壁塀がその向こうとの間を仕切っている。麗江は雲南省北部を支配していた木氏一族が南宋末に本拠地を白沙からこの地に移したことから始まり、以来、清末までチベットと雲南を結ぶ交易路茶馬古道の要衝として栄えた。
木氏は文化を重んじ、ペー族、ナシ族、チベット族、漢族の優秀な絵師を抱えていたので、麗江人口の90%をナシ族が占めているにも拘わらず。ところどころにナシ族以外の民族文化の香を漂わせているのであろう

そのナシ族は、ナ、ナシ、ナ汝、ナ恒を自称し、「納」とは「黒」、「西」は「汝」、「恒」は「人」または「族」を意味します。麗江ナシ族は普遍的に、多くの神を祭るトンバ教を信奉してきた。いわゆる八百万の神を信じていると言える。

伝承によると、ナシ族は古代中国の遊牧民「羌」の末裔で、数千年前に追われて西北の周縁部から南下し、四川の木里を経て雲南のロコ湖、麗江などに定住したと言われている。

門をくぐって右手に向かうと、素晴らしい光景が目に入った。柳の垂れ枝の向こうに、澄んだ池水に大きな弧を描いた白い石橋「五孔橋」がまぶしく映っていた(写真2a)。そしてもう少し歩いて行くと、ガイドの鄭さんが、「ここが一番景色の良いところです。写真を撮ってあげましょうか?」というので、先ほどの白い石橋の方を見ると、遠くに冠雪した玉龍雪山、浮堂、白く輝く石橋「一文亭」、三重の塔「得月楼」、そしてそれらの配置の間隙を埋める黄緑から深緑の木々が池水に混じりあい反射し、心地よい色模様を呈している。風も無く、雨も降っていないので水面は静かであり、注意して湖面を凝視すると、はるか遠方の冠雪した玉龍雪山の雪も見分けることが出来た(写真2b)。

後ろから二人ほどの若者が近づいてきて、持っているカメラを覗き込み、「オリンパス、オリンパス」と、呟き合っていた。鄭さんは、「写真を有料で撮ることを仕事にしている人達で観光客が持ち歩いているカメラを推量しているのだろう。」とのこと。観光客が沢山居れば、仕事もあるのだろうが、この写真を撮るのにベストなこの場所でこの程度の人出では商売上がったりで、当て推量ゴッコでもしていないと暇で仕方がないのだろう。鄭さんに、無料の写真を撮ってもらい(写真2c)、先に進んだ。

池畔に浮かぶ三重塔「得月楼」(写真3a)を撮り、更に先に進むと、「護国利民」とかかれた扁額を軒下に掲げた色彩豊かな山門が現れた(写真3c)。その奥を覗き込むと、正面石段上に立ちふさがり、白馬に跨る赤マントを羽織った勇士の像が見えた。その後ろに三重の塔(写真3b)が立っているのだが、よくみると、「和志強生平陳列館」とかかれた扁額が目にとまった。多分宝飾品、絵画骨董品売り場であろうと推察し、引き返すことにした。そして、その三重の塔を外側から遠巻きに見て驚いた。見たことも無い変わった建造物で、弓状に反り上がる屋根が鳳凰の飛び立つ姿を思わせる(写真3d)。と言っても、空想上の鳥、鳳凰など見たことはなく、あるとすれば、手塚治の火の鳥のイメージである。

そして更に黒龍潭のまわりを周回し歩くうちに、民族服を着たナシ族の婦人が背中をこちらに向けてベンチに腰掛けていた(写真4a)。空色、えんじ色、黒、白からなっていて、丁度胸囲に位置する黒色部の腰のあたりに白い円形の飾りが7つ横に配列している。北斗七星を表しているのだそうだ。

黒龍潭の水は、玉龍雪山の雪解け水が、トンバ文化発祥の地とされる白水台と同じ地下水脈を流れ、白水台の水が枯れると、黒龍潭の水も枯れるという言い伝えもあるらしい。地下水脈の湧き出し口は池の周囲に近いところにあるという点で黒龍潭も例外ではなく池の底部から、間断なく気泡が湧き出ている。その気泡が浮上し水面近くではじけるとそこから波紋が発生し伝播する。それによって水面があり、水があるのが分かるが、もしそれが無ければ、そのあたりを遊泳している魚達はまるで宙に浮いて移動している様に見えるに違いない(写真4b)。そう思うほど黒龍潭の水は、清澄で穏やかであった。

池の周りに植樹された木々の間を集団で移り飛ぶ野鳥の群れに気がついた。鳥の声は甲高く、「チッ、チッ、チッ」と群れをないて飛んでいるので、一羽くらいレンズに収まってくれるのを期待して写真を撮りまくった結果一枚だけだったが、姿を捉えることが出来た(写真4c)。

そして草むらにはピンク色したバラの花が咲いていた(写真4d)。誰かが植えたのだろうか、それとも自生したのだろうか。

***** つづく *****







2009/06/07 21:23:38|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(20.大理から麗江へC)

20.大理から麗江へC

そして、再び車上へ。
暫くすると道路は下る傾向が増えてきて、それとともに視線の水平線より下方に民居が見え隠れすることが多くなった。あきらかにペー族独特の民居とは異なる。更に下り坂が続いたあと、町中を通行し始めた。人を多く見かけるようになった。良く見るとナシ族とペー族の民族服を着た人達が入り混じっている。

街路に面した店も増えて来た(写真1)ので、到着予定時間にはなっていないが、麗江に着いたかと思い込んでしまった。そうではないと分かったのは街並みを後にしても依然として同じ調子で走行を継続していることに気がついたからであった。したがって、この街並みの写真を撮りそこなってしまった。後で地図をみたら、どうも鶴慶という名の町の様であった。なんとも目出度い名前である。あるいは、シャングリラへ向かう国道214号線に沿って走行し。途中白漢場という地で分岐して麗江へ向かうコースであれば剣川という地に違いなかった。

そして、視界下方遠方に明らかにナシ族のものと思われる村落が見え始め、更に、進むと村落は視界の高さと等しくなり、家々がはっきり見えるようになってきた。屋根に反りはなく、壁は黄土色であり、日本の田舎にある家屋に近い。視野には変化に富んだ景色が次々に目に入る。視野を転ずると、民家に寄り添うように、段々畑が広がるのが見え、まだ麗江市街よりも高地にいることが分かった。そしてついに水をたたえた池とその周りの新たな村落が見えた。実に良い眺めであった。

更に走行をつづけると道路は急に観光地然とした整備されたものとなり、視界も大きく開け、それと同時に左前方に冠雪した大きな山が眼前に迫ってくるのに気がついた(写真2a)。それが、玉龍雪山であることは容易に推測できた。道路が蛇行しているためは左前方に見えたり(写真2b)、正面に見えたり右前方に見えたりする(写真2c)。翌日この玉龍雪山の中腹まで登る予定になっている。

車はやがて今度こそ本当に麗江市内に到着し、しばらく市内を走行しているうちに黒龍潭公園に沿った道路に駐車した。車を降りたら、そこでのガイドの鄭さんがどこからともなく現れ、日本語で話しかけてきた。3.5時間ぶりの日本語で、これほど日本語をありがたく感じたことは無い。時刻は12時を過ぎていたので昼食を先ず摂ることになった。

鄭さんの後に続き、道路を横切ると四合院つくりのレストランの中庭に入り込んだ。二階の片隅にあり、黒龍潭公園が良く見えるテーブルに案内され、そこで暫く待っていると、次から次へと料理を運んでくる。車に長時間揺られ腹がもたれかかっていたので、空腹感がなく、とても食べきれそうにない。ナシ族風の若い女店員がジロジロとこちらを見ている視線を感じ、箸を付けた途端にまた次の料理を運んでくるのではないかという恐怖感が湧き出した。しかし、そういうことも無く、ただ日本人という外国人をもの珍ししそうに眺めているだけということが分かってホッとした。

ガラス窓の外には黒龍潭公園にある小山の中腹の寺の様な建物(写真3)が目に映った。
しばらくして鄭さんが現れ、「なんだ、殆ど食べてないではないですか」という様な顔つきをしたので、「最近はすぐおなかが一杯になり、少したつとすぐお腹がすくのですよ」と言い訳し、その店を後にして、黒龍潭公園に向かった。

***** つづく *****







2009/06/07 21:21:10|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(19.大理から麗江へB)

19.大理から麗江へB

更に車は北上し、東側を振り返っても洱海の湖面は目に入ってこなくなった(写真1)。しかし時折見える民居は依然としてペー族独特のものであり、ナシ族のものと思われる民居はまだ現れない。道は上り坂の連続になった。

それほど登ったとは思われないのに、車窓にうつる道路の左右に映る景色は、視線の水平線よりかなり下方になってきて(写真2a)、時折赤い山肌が目に入るようになってきた(写真2b)。山肌が赤く無い時は緑に覆われた山々が近くに遠くに見えるようになっている(写真2c)。道幅も狭くなってきた。行き交う車の量もめっきり減り観光バスや旅行中のマイカーと思わしき比較的高級車が目立つ様になった。
その理由は少し後にトイレタイムをした時に分かった。

さらに車は登り、道も当然ながら蛇行を繰り返す様になってきた。赤土の地肌が見える機会が増え、道路際の街路樹にユーカリの木が目立つようになった。
草木の種類も変わってきた。もしかしたら前年11月に訪問した大同でみた紫梅かも知れないとも思ったが問答をするにも、日本語ガイドが居ないので言葉を呑み込みざるを得なかった。紫梅というのは梅の木というより葉が紫変した背の低い草なのである。

そして、しばらくして、ひらけた大きな平地に出た。大きな駐車場があり、多くのバスや車が停車していた。また大勢の中国人達が右往左往している。

運転手さんに、「ツアソー マ?」と、これしか知らない中国語を発したら、親指と人差し指で○を描き、「シー」といって車から降ろしてくれた。トイレだけにしては、人や車が多すぎるし、トイレと思われる建屋もあまりにもスケールが多き過ぎる。尿意はそれほどでもなかったが、このトイレタイムは丁度道程の中間地点と聞いていたので、絞りだしておかねばならないという気持ちで建屋に入って行った。

建屋に入って驚いた。全館翡翠を中心とした宝飾品マーケットなのであった。ガラス張りのショーケースの底面にはぎっしり翡翠製品が陳列され、そのショーケースはいくつもいくつも、幅50m、奥行き100m以上に亘って並べられ、四合院のように並べられた内側の空間には民族衣装を着たペー族の娘さんたちが宝飾品の売り手として配置し、その外側には、買い手が、品定め、値定めをして群がっている。翡翠の輝きというのか、館内全体がまるで淡い緑の館の様になっていて、なんとなく疲れを癒す空間のようにも感じた。

もし、ここに日本語ガイドがいれば、これほど多くの品と、多くの人が買いに来るのであれば、きっと価格が安いに違いない、と推察し、多少の値引きを交渉して、ここで翡翠製品を購入したものを、と残念な思いをした。5月には、結婚記念日、家内の誕生日、母の日がつづくので、土産に雲南特産の翡翠製品をみやげに買って帰ろうと思っていたのだ。

この翡翠市場があった地名も市場の名称も、この稿を書いている時点でも分からない。後日ガイドさんに手紙を出して聞いてみよう。後で地図を見ると大理から麗江までの経路には、北衙、松桂、鶴慶、辛屯という町を通ったことになっている。中間地点と言うと、大理ペー族自治州内の鶴慶あたりということになる。

トイレはだいたいどんな建物でもあるところが決まっている。すぐ分かった。戻る時に写真を撮ったがボケてしまった。そして建屋の外に出掛かるとき後ろから運転手さんがニコヤカに近づいてきた。ここで迷子にさせては一大事とばかり、遠巻きに見守ってくれていたのかも知れない。感謝!

追記:後日(この稿を書き終えた直後、ARACHINAの滕さんから相互リンクの話をもちかけられ、ついでの話で上記の疑問点、@翡翠市場があった地名、A市場の名称、B運転手の氏名を問い合わせ、
回答:
 @ 大理から麗江へ車で移動の途中、停車したところは「松桂   県」です。更に訂正があり、「鶴慶県松桂鎮」
 A その翡翠市場の名前は 「泰安玉石商場」です。
 B 運転手の名前は 潘師(パンシ)です。
を翌日頂いた。@の答えから、ドライブコースが、北衙、松桂、鶴慶(県城)、辛屯コースだったことになる。

旅行から一ヶ月以上も経っているのにすぐ分かったということになり、充実した旅の思い出(旅日記)がまとまり、有り難く思った。


***** つづく *****







2009/06/07 21:17:51|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(18.大理から麗江へA)

18.大理から麗江へA
そして一路走行する道路は南北に延々と一直線に延びる。
走行の遅い車は滅法遅く、それを追い越す車はけたたましくクラクションをならしながら、時にセンターラインをはみ出し、時に対抗車線をすれ違う車がクラクションを合奏する。そんな光景が繰り返されるが、運転手は互いに殺気立った表情も見せず、何事もないかの様に平然と運転を続ける。
道路は往復二車線であるが、片道二車線ほどの道幅があり、追越が簡単に出来るためと思われた。
中国人ドライバーの目は広角遠近視野という点で日本人よい優れているのではないか思ってしまう。あるいは視野だけでなく感度、分解能も優れているかも、・・・

そんな光景を何度も何度も繰り返すうちに、次第に洱海と、走行している道路との間に展開していた田畑の幅が狭くなり(写真2a、2b、3a、3b)、湖水がすぐそこに見えるようになり、洱海の水際が道路に接するがごとくすぐ傍に見えるようになった。

とっくに胡蝶泉のあたりは過ぎていて、すでに洱海の北の終端あたりであろう。
突然マングローブの林がすぐ傍に見えた(写真4a)。咄嗟にシャッターを押したが画像は流れてぼけた写真(写真4b)となってしまった。
この稿を書いているうちに気がついた。動画モードで撮ればよかったのだ。

***** つづく *****







2009/06/07 21:13:54|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(17.大理から麗江へ@)

17.大理から麗江へ@
大理古城蘭林閣ホテルに二泊した朝、葛さんと別れをつげ一路3.5時間かけて専用車(トヨタ、ハイエース)で次の観光地麗江にむかった。中国語を話せない自分と、日本語を話せない運転手さんと二人きりで、この3.5時間をどの様に過ごすか多少の不安を感じながらユルユルと大理古城を後にした。 しかし、そんな不安など完全に打ち消してくれるほどに次々と現れる車窓の景色は美しく、写真を撮りまくるうちに麗江についてしまった。

ただ残念だったのは途中停車して写真に収めたいと思った景観が多々あり、それが出来なかったこと、車窓に映る珍しい草木の名の確認や地形についての質問など日本語ガイドさんが同乗していたら、出来たのに、また、それにより大理から麗江へのドライブがより充実したものになっていたのではないかという多少の悔悟感が残った。

車は、前日、胡蝶泉まで往復した道と同じで、そのときもこのあたり一体に広がる田園風景には深い郷愁を感じてしまった。自分は東京生まれ、東京武蔵野の育ちであり、田舎というものを知らない。

西の遠方には蒼山のなだらかな峰峰が南北に走り、
その麓からここまで畑や田んぼが広大に展開し、
所々に村落が見える
村落や田園風景の彼方に前日観光した崇聖寺の黄土色の甍が最初に見えた。

村落には、ペー族独特の民居と、
それに寄り添うように何本かの高い木があり、
畑を仕切る田んぼのあぜ道が縦横に横たわっている(写真1a,1b,1c,1d,2a,2b)。そして水田があるところには水路があり、
水田に反射した光がきらきらと輝いてそこだけ浮いたように見える(写真2c、2d)。

田んぼのあぜ道には農耕具を運んだり弁当を積んだかもしれないリアカーや麦わらに覆われた三輪自動車が置いてあった(写真2b)。その傍の田んぼや畑では複数の人達が、馬を使って畑仕事をしている(写真2a)。

東に目を移すと、洱海の湖面の輝きが直線状に南北に延びる
そして、そこからここまで、同じように、畑や田んぼが広大に展開し、所々に村落が見える(写真3a)。
洱海が起点と見られる水管路が東西に向かって長々と敷設されている(写真3b)。

民居の佇まい(写真4a〜4c)こそ違いはあるが、古きよき日本の田園風景そっくりと想像した。
また、時間のながれも、ゆっくりとして数十年前の日本と思いたかった。
ところが、時折近くに見える農夫が携帯電話でなにやら大声で話している姿を目にすると、もしかした民居の一室にはパソコンやモニターが置いてあるかもと連想してしまう。

***** つづく *****