槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/07/24 0:33:36|旅日記 
北東北をレンタカーで巡る3泊4日の旅 10)田沢湖めぐり+駒形神社随想

10)田沢湖めぐり + 駒形神社随想(付録)
翌朝4:00前に目が覚めた。
陽は上っていないが、明るい。おまけに雲は多少漂っているが、晴れであり、田沢湖全体が見渡せる。中でも最も明るいところが日の出の場所なのだろう(写真1a=3:48)。
カメラに三脚をとりつけ、視野の中心をそちらに固定した。刻一刻と明るくなってゆき(写真1b=4:22)、日の出である(写真1c=4:39)。そして湖面に描く光跡も太く強くなってくる(写真1d=4:40〜写真1f=4:41)。

それでも湖岸にたたずむ木々の緑の色彩はまだ分からない。しかし、確実に明るさが増してゆく。今回の旅で日の出を写真に収められるとは、夢にも思わなかった。

約一時間に亘り、素晴らしいショーを見させてもらった。ラッキーであった。ホテルの6階で、一枚張りのガラス窓というのも幸いした。機転を効かせてくれて、良い部屋を宛がってくれたホテル支配人?に感謝のひと時であった。

5:00近くなると、さすがに木々の緑の色彩や湖岸にへばりつく岩の苔の色もはっきりしてくる(写真2a=4:54)。鳥達も活動を開始し、湖面スレスレに飛び対岸の方へ向う姿が時折見かけられる。ホテルの外に出て、地上の高さから、ホテル周りの光景を眺めることにした。ホテル前の庭園は青空と湖面と遠方の山々が絶妙のアラカルトを作り出していた(写真2b〜2e)。

ついでにホテルの周りを歩いてみると200mも行かないうちに金色に輝く「辰子の像」が目に入った。あとで、ゆっくり観賞することにしてホテルに戻った。朝食を摂り、8:00前にチェックアウトした。この日の予定はこれから角館によって、そのあと、帰りの新幹線乗車駅の盛岡まで帰らなくてはいけないからだ。

チェックアウトして、徒歩で「辰子の像」へ向った。歩いてすぐのところに、湖岸から突き出した「浮き御堂」があり、右手を見ると、ホテルの整備された芝生の庭が見え、視線を直近に移すと、灯篭と「浮き御堂」から地面に張られた三本条線に隙間無くおみくじが結びつけられた様子が目に入った(写真3a)。

そして「浮き御堂」の軒先には、釣鐘がぶら下げられていて、快晴の空、遠方の山々を鏡映した湖面とその湖面に浮かぶ「辰子の像」とが絶妙のコントラストを生んで素晴らしい光景であった(写真3b)。そして、すぐ接近した足元近くの湖面をみると、多くの魚の群れが湖岸に沿って回遊しているのが、清澄な湖水を透してはっきりと見えた(写真3c)。

「辰子の像」は湖岸から20m程度のところに立っている。辰子像の正面には県道60号が欄干を隔てて東西に走っている。そして県道60号の山側に土産物屋があり、その土産物屋にへばり着くように、八重桜の大木が立っている。

八重桜は丁度見ごろで、その八重桜の花をかざして田沢湖の対岸を眺めてみると、色の対比が絶妙であった(写真4a〜4d)。そして、再度異なるアングルから「辰子の像」をみると、小さな漣さえ立っていない湖面に対称に映し出された虚像とのセットがまぶしかった(写真4e)。

 『十和田湖の主・辰子は絶世の美女でした。彼女をめぐり男鹿の赤神と竜飛の黒神が激突します。赤神は牡鹿を押し出し攻めます。一方、黒神は龍を飛ばして戦います。ついに、赤神は敗れ男鹿の寒風山へ引き下がりますが、女心の不思議でしょうか、辰子は赤神を追って田沢湖へ移住してしまうという伝説です。やはり、この伝説も、「戦い」を意味してるとも言われます。』
と説明された観光案内がある。

必ずしも最近の話ではないにも拘わらず、ここに立っている黄金色の「辰子の像」は若々しく現代的である。

他人からみた実像が、実は虚像で、他人には見えない虚像が、実は真実の自分である。そんなことを言っているようにも見える。

写真を沢山貼りすぎてしまい。文章を記載するエリアが出来すぎてしまった。そこで、ここに、逆に前章の長すぎた文章の一部を以下に移設することにした。またついでに、「駒形神社」随想を追記する。

※前章9)のつづき:***************************************
 いつしか、峠を越えたようだ。山の斜面は相変わらず眼前に迫っているが、少し下り始めているのが分かる。重く垂れ込めた雲から時々雨がぱらついている。そんな雲間から少し湖面が見え始めた。やっと田沢湖へ着いたか、と思ったら間違いで、宝仙湖である。

  宝仙湖の南西側の湖岸に沿って南下して、宝仙湖の最南端にある玉川ダムを横目に見て南下を続けていると間もなく田沢湖の湖面が見えたと思ったら、またしても田沢湖ではなく、今度は秋扇湖であった。こんどは秋扇湖の東側の湖岸を南下するのである。

  そして、田沢湖田沢という地名の村落に出合った。郵便局もある。しかし肝心の湖はまだ見えない。そして右折すると田沢湖に行くという交通標識とそれらしいT字路が目に入ったので、そこを右折した。県道248号である。248号を山間を蛇行しながら行くと、今度こそ正面に靄に覆われた田沢湖の湖面が現れた。雨が降っている。そのため、霞が掛かったようで向こう側の湖岸は分からない。湖岸を周回する県道38号線とのT字路にきた。「姫観音」という案内標識のあったところを左折し、田沢湖を時計回りに周回することになる。

  後日、このあたりをGoogle Mapの航空写真で辿ってみたが、湖水の清澄さが分かり、楽しい。県道38号線が湖面から大きく逸れて行くあたりから県道60号が周回道路となる。そしてしばらく
山道で、湖面が全く見えなくなってしまうことがあったが、気にしないで進むうちに田沢湖が正面に、右手に「たつ子茶屋」の大きな駐車場が現れた。

  しばらくそこに車を停め、休憩し、再び左に大きく旋回し湖岸すれすれの県道60号を今度は西進することになる。宿泊予定ホテルの田沢湖ホテルエルミラドールは辰子像のすぐそばにあるので、もう目と鼻の先だろうと思ったが、更に10分は走っただろう。やっとホテルに着いた。予定は湖に面した部屋ではなかったが、空いていると言って、6階の湖側の一番景色が良い部屋にしてくれた。部屋からは十和田湖のほぼ全景が一望できた(写真3)。

  雲は相変わらず重く垂れていて対岸の岸は見えるものの、それに覆いかぶさるようにあるはずの山々は灰色のベールに邪魔され全く見えなかった。刻一刻と垂れ込める雲の形が変わってゆく。近くの緑は認められても(写真4a)、遠景は無彩色の一点張りだ。時に対岸の表情が変わり一部だけ、はっきり見え湖岸に迫る低い丘が湖面に映ることもある(写真4b)が稀であった。
  注意:写真は前章に掲載してある。
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付録「駒形神社」随想
  同じ国道341号線沿いに同じ名前の「駒形神社」がいくつも目に留った。これは駒形神社に祭られた神になった人物が、国道341号線に沿って、北上したか、南下したのであろう。それは一体だれで、何を目的に、という疑問が沸き立ち、インターネット・サーフィンによって、その情報を手繰り寄せる試みをした。

坂上田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。とwikipediaで紹介されている。

田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。とも紹介されているが、感謝して建立した寺社が「駒形神社」ではないのか、と推理したくなる。


 田村麻呂には、子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある、という見方もあるようで、その見方を根拠に、坂上田村麻呂ルーツ説を展開したのであろう。

もし、その説が事実であれば、坂上田村麻呂の父 坂上 苅田麻呂 が中国の後漢の霊帝の流れを汲むという東漢氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した、というのは通説となるほど信憑性が高いので、全くありえない話でもないかも知れない、と言う気になってきた。











2010/07/23 22:38:47|旅日記 
北東北をレンタカーで巡る旅 9)残雪と白蓮の道−国道341号(大湯環状列石〜田沢湖)

9)残雪と白蓮の道−国道341号(大湯環状列石〜田沢湖)
最初は大湯環状列石に面した県道66号線を南下する。そしてすぐ国道282号線、そして国道341号線を63kmに亘りドライブして田沢湖に至ることになっていた。計90kmを越え、今回のドライブ区間では最も長い。国道282号線に出る直前で家内がショールを資料館の中に忘れてきたことに気がついた。すでに何箇所か右折や左折を繰り返していたので、こういう時にカーナビは最大の味方だ。それ以上に交通量が少ないので、引き返すのが全く苦にならなかった。途中道路沿いに気温を示す表示器が見えた。11℃だった。5月の末にしては寒すぎる。相変わらず雲が重く垂れ下がっている。
途中、車中での昼食と夜の食事用買出しに丁度手ごろな比較的大きなモールが国道沿いにあったので、そこで、パンやおにぎりを買い求め、ついでにトイレも済まし、またドライブ再開である。国道341号線は見通しが良く、快適である。しばらく平坦な道が続き、所々にりんご園が見え、白い花をつけたりんご林を目にすることが多くなった。途中広い駐車場を擁した休憩場があり、りんごではなく、同じ敷地に山野草を販売している建屋があり、そこを覗いてみるといろいろな植物が陳列されていて、中には奥入瀬で見た様な花もあったが、その中から、柏葉あじさいと釣鐘つつじを買って、家内が購入したりんご酒とともに宅急便で送ってもらうことにした。駐車場の片隅にりんごを手の平に載せた観音さんの像があった(写真1左)。
運転再開。少しづつ緩い登り坂になってきたのに気づいたのは、少し小高い丘が迫りはじめたからである。
途中で不思議なことに気がついた。何度となく「駒形神社」の表示が目に入るのだ。大湯環状列石に着く直前にもあったし、その他、既に3回ほど「駒形神社」の表示を目にしている。まるで狸に化かされているようだ。「駒形神社」の“駒”が自宅の隣市、日高市の高麗(コマ)に同音で関係しているから気になっていたのだ。“熊”も然りである。後でゆっくり調べてみようということで、運転に集中することにした。
少しづつ坂が急になってゆくのが分かった。山道に入った証拠に、右に左にカーブが多くなって来た。気温は10℃を切っているだろう。しばらく行くと、クロスした頂部北緯40度と表示されたクロスアーチのモニュメントが現れた(写真1a右)。休憩所があるが、バスの停留所もあるようで、路線バスと思わしきバスがそこの駐車場に停車し、数名の中年の女性が降りてきた。山の方に歩いてゆき、何か山菜を摘んでいる様な仕草である。食に供することの出来る山の幸がありそうなところであった。
北緯40度地点を後にしてまたドライブ再開である。完全に山の中であり、外気温は
益々低下しているのが、車内の温調で分かった。道路の左手は山の斜面がすぐ側まで迫ってきていて、時々白っぽい花の木が目立ってきた。路肩に停車できるスペースのところがあったので、そこに車を停め、その白い花の写真を撮った(写真1b)。花は2種類あり、片方は白蓮であり(写真1c右下)、そこいら中に生い茂っている(写真1c)。群生といっても良いくらいである。そして、他は山あじさいのようである(写真1d)。ともに純白で
清楚な佇まいであった。

そして更に行くと残雪が見え始めた。後で調べて分かったことだが、この道は冬には雪のため通行できなくなるのである。大体3月〜4月頃になって開通するらしい(写真2a)。また車を駐車できるスペースがあったので車をそこに停め(写真2b)、寒そうなので、家内を車内に残し、車から出て、外の空気に触れてみた。山肌はまだ一面雪に覆われていて、(写真2c)木の根っこの周りだけ円形に融雪している。空気は冷たいが、初春のものであり、冬のものではないのは当然のことである。走行方向に向って右手には山肌も遠方にあり、開けた眺望となっている。残雪と新緑が混在した、今の時節、この場所ならではの景色に違いない。

そして、また山間の道を延々と運転する。しばらくすると強烈な硫黄のにおいがしてきた。車の中に充満した臭いは容易には無くならず、むしろ濃くなってゆくようである。カーナビ案内には次々と温泉の名前が現れては消えてゆく。志張温泉、東トロコ温泉、トロコ温泉、赤川温泉、玉川温泉、新玉川温泉、鳩の湯温泉、少し国道から外れるともっとあるみたいである。温泉があるということは火山帯ということだろうか地熱発電所というのもあるのだろう。
 ※以下長くなりすぎるので次章の末尾*********以下につづく







2010/07/22 16:00:33|旅日記 
北東北をレンタカーで巡る3泊4日の旅 8)国指定特別史跡大湯環状列石

8)国指定特別史跡大湯環状列石
英語で言うと、“ストーンサークル”である。こちらの方が分かりやすい。平成20年12月、大湯環状列石を含む北海道・北東北の15の遺跡を 資産とした「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産暫定一覧表 へ記載され、登録へ向け、頑張っている最中とのことである。

青森から十和田湖に入るルートを最初に考えたときは、三内丸山遺跡を観光対称に含めていたが、新幹線が青森まで開通していないことが分かり、唯一の歴史的風土観光地が無くなり、軽い観光になり、面白さ半減だった。そんなときに十和田湖周辺の観光地を物色しているうちに、目に触れてきたのが、この大湯環状列石であった。

三内丸山遺跡へ行ったのは、八戸での講演会の謝礼を使って、青森まで足を伸ばし、2008年9月に初めて訪れたのであった。広大に広がる遺跡の前に立った時の開放感は今でも忘れていない。単なる開放感ではなく、地に足がついていて、その地が太古から何者にも邪魔されずここまでつながっている。

そこに立っているという感覚である。奈良山田寺跡の草地に立ったときもそうだった。自分の足裏が、足元の台地に向ってひっきりなしに通信しているような感覚であった。また、その感覚が得られるのではないかという期待であった。

  その大湯環状列石は、鹿角市十和田大湯に所在する2つの環状列石(野中堂環状列石、万座環状列石)を主体とする縄文時代後期(約4,000年前)の大規模な遺跡である、と紹介されている。これだけ東北地方に沢山の縄文遺跡があるのに、ひとかけらの文字も発見されていないのか不思議である。最も発見されたら大事件であるが。

  十和田湖から坂を登ってゆき、発荷峠を通り過ぎ、南に一時間も経たないうちに、前方が開けた牧場の様な台地に出た。坂ではなく平地を走っている感覚になって30分程度はたっているだろう。空は相変わらず雲が垂れ込めているが、少し明るくなってきた様に感じた。すぐそばまで迫りきていた山の斜面が、少し遠のいたためだ。104号線を南下してゆくと間もなく大湯温泉
に出て、そこで現れるY字路を左へ行くことになっていたが、大湯温泉を認知しないままにそのY字路までみたことがカーナビの地図で判明した。カーナビの地図では、もう間もなく目的地である。

  山の裾野も次第に遠のいて行き、一番近いところでも1、2km程度はあるだろう、という開けた平地となっている。三内丸山遺跡でも時代の異なる奈良山田寺でも周囲の景色は似ている、ということは、間もなくだろう、という予感がしてきた。

  正式な地名は秋田県鹿角市大湯で大湯環状列石(古道)があったということで、上空写真を使って、その古道の存在を示唆しているホームページがあることに後で気がついたが、最近はグーグル・マップを使った、類似の発見があったとの情報聞いた記憶があるが、上空から古代の痕跡を解析するという分野があっても良い、
「古道」をウィキペディアでは、かつて使用されていたが現在はあまり利用されておらず、当時のままの状態で残されているような道路のこと。熊野古道、山の辺の道、塩の道 (日本)など。と説明している。この定義によると、 「大湯環状列石古道」は痕跡こそあれ、当時のままの状態で残されているわけでは無いから古道ではなくなってしまう。

  しかし、「大湯環状列石古道」の“古道”探しは“宝探し”といった感があり、ロマンを感じる。意外と自宅界隈にもこの様な縄文時代の“古道”があるかも知れない。宅地化あるいは市街地化された地域では、難しいかも知れないが、まだそうなっていない遺跡は東北地方には多いのではなかろうか。その東北地方でさえ、先のホームページの上空写真とGoogle Mapの写真とはかなり異なり、Google Mapの航空写真では“古道”は確認できなかった。







2010/07/12 21:00:31|旅日記 
北東北をレンタカーで巡る三泊四日の旅 7)奥入瀬の山野草
7)奥入瀬に咲く山野草
  渓流沿いに咲く山野草の写真を撮るのも楽しみの一つである。ここでは、奥入瀬散策をしていて、撮った山野草の写真を紹介する。但し花の名前は殆ど分からない。

  中には花だと思っていたものが、花びらを落とした綿帽子の状態だったり、葉の上に整然と並べられた花びらだったりのものもある。また、経時的に並べられているか、など自信のないものもあるが、気にしないで、投稿することにした。これらの花の姿が頭に残っていれば、いつかは、何らかの話題に上った時に、覚えることにする。







2010/07/12 19:12:24|旅日記 
北東北をレンタカーで巡る三泊四日の旅 6)奥入瀬渓流散策

6)奥入瀬渓流散策
  十和田神社を後にして、奥入瀬川の河口がある子の口に着いたのは11:30頃である。奥入瀬川を渡ったすぐのところの湖岸側に駐車場があることが、観光案内図にあったので、車の速度を緩めその近辺を物色していると、愛想の良さそうな日に焼けた70歳前後のおじさんが近寄ってきて、底に駐車しなさいとばかりに誘導し始めてくれた。

  てっきり有料かと思ったが、「無料ダヨ。」と教えてくれた。そして「ドコ行くんだい?」と聞かれたので、「奥入瀬渓流を散策するんです。」と答えると、「一番奥までゆくと、歩いて片道二時間はかかるけど、途中で引き返してもいいし、ここからバスで行って、戻りを歩きにしてもいいし、その逆でもいいよ。これからでも、戻ってからでも、あの店で食事をしていってくれると有難いネ。」と言って指さした。

  この地点には遊覧船乗り場もJRバスターミナルもあるのである。ということはトイレもあるわけで用を足してから、往復とも歩きにすることにし出発した。

  奥入瀬川に架かる橋から奥入瀬川を見ると、川幅は広く、流れは非常に穏やかで、滔々と流れるという感じであった(写真1a)。その橋の袂に鉄製の階段があり、そこを下りて行くと、川べりの散策路となっている様である。
  家内が一足先にありて行ったが、その少し先に6、7人の若い女性グループが先に進むのでもなく滞っている。近づくと笑い声や話し声が聞こえてきたが、どうやら韓国人の様である(写真1b)。
  あとで、韓流ドラマに詳しい人に聞いてみたら、この奥入瀬が韓国ドラマのロケに使われ、そのドラマに刺激されたファンが訪れたのではないかということであった。
  彼女らとすれ違って歩いて行くと、「奥入瀬遊歩道案内図」と書かれた看板が目に入った(写真1c)。それによると、渓流の両側には多くの滝があって、河の左手に遊歩道があったり、右手にあったりするが、雲井の滝まで行くのに計130分、距離にして5.8kmと表示されていた。
  また、ところどころに公衆トイレや水のみ場もあるようである。雲井の滝近くにはバス停があるので、先ほどのおじさんは雲井の滝までのことを言ったのであろう。雲井の滝より先には滝もなく、見せ場は雲井の滝近くまでなのであろう。かなり先に行ったところに、「奥入瀬渓賦」という佐藤春夫の詩がある。そこには奥入瀬渓谷の情景を過不足なく歌い上げている。

   「奥入瀬渓賦」 佐藤春夫
   瀬に鳴り渕に咽びつつ
   奥入瀬の水うたふなり
   しばし木陰に佇みて
   耳傾けよ旅人よ
の小節から始まり、
2小節目では「水清くして魚すまず」、    
  3小節目では「十和田の湖の波の裔」で渓流は十和田湖から流出していることを、
  4小節目では「友よ谷間の苔清水 羊歯の雫や瀧つ瀬よ」
  5小節目では「花も楓も多かると」、
  6小節目では「林に藤の大蛇(おろち)あり 谷に桜の鰐朽ちて」
  7小節目では「水泡は白く花と咲き 鶯老いて春長し」
  8、9小節目では
    もしそれ霜にうつろはば
    狭霧のひまの高麗錦
    流るる影も栄えあり
    皆一時の夢ながら
    
    わが行く前の十四キロ
    ここに歌あり平和あり
    また栄えあり劣らぬや
    浮かべる雲のよろこびに
の、4行×9小節の計36行の詩であるが、この詩に奥入瀬渓流の自然を過不足なく歌い上げている。

  45年前にサイクリングで通り掛かった時は数回川辺に下りたが、この様に整備された遊歩道は無かったと思う。これほど自然を満喫しながら散策したのは初めてであった。
  距離を行くにつれて、河の面には、次第に水泡で白い花が咲いているようになってくる(写真1d、1e)“それを立ち止まっては写真を撮る自分と、もともと健脚の家内との距離は広がり、曲がりくねった遊歩道にさしかかると互いに姿が見えなくなってしまう(写真1d。その度ごとに、「なかなか来ないので、河にでも落ちたんじゃないかと思った。」と言って、戻ってくる。

  流れは益々急になるかと思うと一服し(写真2a〜2e)、穏やかだと思っていると河全体が瀧になったりする。調子大滝はそんな滝であった。(写真3b、3c)そして落差の大きいところでは瀧になるが渓流の本流が瀧になることは少なく、瀧は殆どの場合渓流を挟んだ両側の山々を流れ落ちる(写真3a左,中,右、〜3d、写真4b右)。
  そして多少でも太い木には苔が間違いなくついていて、それが冬には衣となって木々を凍結から守るのではないかと思わせる。また、「監視木」と目印された苔むす木もあった(写真4b左)が、その木の成長具合を監視するのか環境の状態を監視する木なのかさっぱり分からなかった。
  まだ夕刻には遠い時刻であるが、とにかく歩き疲れた。
雲井の滝のあたりに至る前に、引き返すことにした。最初に渡った橋をみると、その下向こうに見える白じんだ十和田湖の湖面がまぶしく見えた(写真4d)。

  駐車場に戻ってきたのは15:00ころ、昼食を撮らないで、まあまあの距離、しかも起伏のある遊歩道を往復したので、空腹感を感じた。先ほどのいじさんの姿は見えなかったが、そのおじさんが指差した食堂に入った。

  食堂の中ではストーブを焚いていて、「寒ければこちらで温まりなさい」とあのおじさんと同じくらいの歳のおばあさんが言ってくれた。そして、「どちらから来たネ?」と言うので、「埼玉県から」というと、「ああ、いいところだネ。」と本当に知っているのか分からない様な受け答えであった。
  そして、「駐車場にいたおじさんに教わってここに食べにきたのですよ。」と言うと、「あのじいさんのこと知っとったかね。あの爺さんがいてくれて、うちは助かっているんですよ。面白い人でなあ。」と、お客を連れてきてくれるので、助かるのか、面白い人なので、今日みたいに客が少なく、暇で仕方が無いときに話相手になってくれて助かるのかは分からなかったが、少し経ってから姿を現し、話をし始めると、場が明るくなる雰囲気を持っていた。
  山菜定食を食べて、駐車場にもどり、エンジンをかける頃には、先ほどのおばあさんが、食堂のシャッターを閉め始めていた。そして元来た道を戻り、宇樽部、休屋を経てもう一泊予定の十和田プリンスホテルに向った。十和田プリンスホテルの夕食(ディナー)は一食5000円近くするので、途中地元の雑貨屋でパンを買い込み、今夜の夕食用とした。
  







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