槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2017/03/25 23:50:46|その他
◆D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊

D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊

 この朝も,これまでと同様ホテルで朝食を済ませ、8:30にホテルを出発した。15分ほどで高速道路G60に入り、一路大足を目指す。運転手の蒋さんは若干28歳、龍齢であり若さ溢れる好青年である。今回の旅の最初から最後までのスルーの運転手である。

 これだけ長距離を走ってもミスが無いのは、結構予習をしてくれているのかも知れない。有難いことだ。そういう運転手を見つけてくれた駱さんにも感謝しなくてはならない。

 9:56にG60は分岐して大足方向へ。次第に地面の色は赤さを増し、道路の造成によって現れた断層は赤茶というより赤色であった(写真11.5 -1-1)。途中、車を停めやすいところへ停車してもらい、赤土を採取させてもらった。

 そして更に15分ほどして、目的地一帯に到着し、車から降り、園内に向かった。「世界遺産大足石刻世界文化遺産博覧園遊覧図」と書かれた案内図(写真11.5 -1-2)が目に入った。

 案内図では、現在地から最初の橋を渡ると、先ず旅客センター地区が現れ、更に二つ目の橋を渡ったところから大足石刻寺院域に入り、広大寺や、圣寿寺及びそれらの焚香所が現れるようだ。石刻像が現れるのは圣寿寺側となっている。

 旅客センター地区の一番北端の正面に寺の山門と思える建造物(写真11.5 -1-3)が現れた。20段ほどの石段を登りつめたところに、底部を象や獅子が支えた格好の8本の石柱に支えられた大きな屋根が現れた。

 屋根の4稜線は中国風の反り返りを見せているが、彩色はけばけばしさがなく落ち着いたたたずまいを見せている。観光客の服装の方がはるかに彩色豊だ。門の額には天下大足と右から書かれていた。いわば、この建造物は山門というより観光ゾーンの呼び込み口なのだろう。

 そして第二の川に架かる幅広で100m程の長さの石橋を渡ると、寺院(写真11.5 -1-4)が現れた。これが広大寺なのだろう。境内にあるすべての建造物が中国には珍しい入母屋づくりの屋根構造をしていて、色彩も派手ではなく、落ち着いた感じである。

 屋根の四稜線は特徴的な反りはないが、中国寺社建造物の屋根の稜線に鎮座する小動物の姿は見られる。これら建造物の歴史は浅そうであった。

 その寺院の一角から抜け出すあたりで進行方向右手を見ると、なんの像も彫られていない岸壁(写真11.5 -1-5)が見えた。大きな石が堆積しただけで、地層は現れていない。この大きな岩の凹凸を利用して昔の人たちは像を掘ったのであろう。

 そしてさらに行くと、竹林の向こう数10m先に、岩石からなる庇の下に三層からなる石刻像群(写真11.5 -1-6)が現われた。最上層には10体以上の鎮座する仏像群が整然と並び、次の層は更に二層に分かれ、市井の町人や役人風情の人物像が立ち並ぶ、そして最下層には、何やら怖い面持で何かを手にしている人物像が見られた。

 仏教で言う“三界”を表しているのかも知れない。「三界(さんがい)とは欲界・色界・無色界の三つの総称で凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。

 欲界(よくかい、skt:kaama-dhaatu कामधातु )とは、仏教における世界観のなかで欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。三界の一つで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人(にん)・天上(神)が住む世界のこと。

 色界とは欲望を離れた清浄な物質の世界。無色界の下にあり、欲界の上にある。この色界には四禅の四地、初禅、第二禅、第三禅、第四禅があり、これを過ぎると無色界に入る。天界28天に属す。色は物質の義、あるいは変礙の義。

 無色界(むしきかい、ārūpya-dhātu)は、天部の最高部に位置し、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。上から非想非非想処・無所有処・識無辺処・空無辺処の4つがある。」とWikipediaに紹介されている。

 更にもう少し歩くと、「大足石刻分布図」なる石壁に彫られた案内図(写真11.5 -1-7)が現れた。そこには、潼南県、銅梁県、永川県、〇(草冠に宋)昌県、安岳県に囲まれた大足県には宝頂山石刻、北山石刻、等、計5か所あることが書かれている。

 以上の内、宝頂山石刻、北山石刻を見学することにした。

 最初に現れたのが先ほど竹林の向こうに見えた石刻像群(写真11.5 -1-8)であり、岩石からなる庇の裏には「唐瑜伽部主揔持王」なる文字が彫られていた。「瑜伽」とはヨーガのことらしいが、文字の意味は分からなかった。

 また、最上層(無色界)と第二層の色界に属する仏像、人像は空色と青色の顔料が服や冠に施されているが、最下層の欲界に属する像には色彩が施されていない。

 各石刻像には、説明書きが石板に彫られているが、その解明はしないが、三界それぞれに於いて、遭遇する様々な場面を想定しているものと思われた(写真11.5 -1-9〜11.5 -2-9))。

 そして更に進むと、釈迦涅槃像(写真11.5 -2-10)が現れたが、あいにく工事中だった。中国で涅槃像は何度か見たが、これほど大きいのは初めてであった。この涅槃像を過ぎると少し趣が変わる。

 「華厳三経像」(写真11.5 -2-11、11.5 -2-12)の次は「六道輪廻」の世界(写真11.5 -2-14、11.5 -2-15、11.5 -2-16)であった。

 「六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。

 人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。

 大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう」とWikipediaに紹介されている。

 ここの「六道輪廻図(石刻)の大きさは、高さ、780cm、幅480cm、奥ゆき260cmという巨大な石刻像であり、90の人物像、24の動物像が、そして輪の中央にはアニッカ(無常)の長い手で支持されている。

 輪は6つに分割されていて、各分割枠内には神が創造した生き物や物が彫り込まれ、霊魂が隣接した分割枠の間を移動する様を石刻していて、仏教の教義である“六趣唯心”、“因果応報”、“十二因縁”を表している」と石標に刻み込まれている。

 “六趣唯心”とは、六道(仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと)のこと。

 ”唯心”とはすべての現象は心によって産出されたもので,本質的に実在するものではなく,心のみが一切の根源であり最高の実在であることを示す語である。

 また、“十二因縁”とは苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法とWikipediaに紹介されている。“因果応報”は言わずと知れた人間の業であるので省略する。

 生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であるといわれる。

 まだ続きがあり、武器と甲冑に身をかためた強面の神将像(立像)が12体ほど横並びで石刻されている(写真11.5 -2-17)。

 十二因縁をそれぞれ退治する神将達か、それとも因果応報を実施するエージェンシーか。よくわからないが、これらの神将像の前に佇んでいる観光客が多かったのが印象的であった。

 そして岩肌を大きくくり抜き入り口に大きな獅子の石刻像が横たわった石窟が現れた(写真11.5 -2-19)。中には多くの石刻仏像が安置されていた(写真11.5 -2-20〜11.5 -2-23)。

 石窟には外からの光が適度に入り込み、ストロボなしで、写真を撮ることが出来た。いずれも柔和な顔立ちをした仏像であった。直前まで、三界、六道、強面の神将像などを見て来たためかも知れない。

 石窟から出ると、すぐのところに、それぞれ虎と牛に半跏の姿で乗っている山君と道祖神(写真11.5 -2-24)が現れた。山君は手が3対あり、2対で物を持ち、一対で合掌している姿であった。さしずめ、宝頂山の守り神というところか。

 ここで、これまで中国語で現地ガイドをしてきてくれた中国人女性(写真11.5-2-25)とは別れであったが、駱さんの巧妙な日本語への通訳によって、この世界遺産の価値が分かった様な気がした。

 宝頂山を下山する途中、珍しい八角(または六角)四重の塔(写真11.5-2-26)及び聖壽寺と書かれた二層のお堂(写真11.5-2-27)及び帝釈殿、そして線香の煙がたちこめる聖壽禅院と書かれたお堂(写真11.5-2-28)を目にした。

 現地時間で12:00近くになっていたので境内の一角にあった露店で昼食(写真11.5-2-29)を摂った。相変わらずのワンタンであったが、予想以上においしかった。

 そして、駐車場に戻り、車で北山石刻に向かい、現地時間14:00頃到着した。駐車場で車を下りるとすぐに観光案内図(写真11.5-3-1)が目に入った。

 ほぼ南北に細く伸びた北山石刻景区を南端から北上してゆくコースであった。最初に目に入ったのはどこかの国の国王とその家族、更には背後に2体の仁王像が配置した石窟(写真11.5-3-2)であった。

 そして、次に現れたのが、千体仏が壁面全体に彫り込まれた石窟(写真11.5-3-3)であり、これまで見たことのある石窟寺院の形式と同じであった。

 石窟寺院の場合、石窟内にも入ることができ、内部から、像の背面を含めて仏像や飛天像を拝観できる場合が多いが、ここのは、それほどの広さは無く、窟の前面から窟内を眺めるだけであった。

 “石刻”と“石窟”との差異はどの様なものか、宝頂山以上に差異が少ない様に感じた。

 中央に天蓋と光背を備えた本尊としての仏像、それを囲む様に配置した飛天や脇を守る諸仏が一つの単位となった窟(写真11.5-3-4、11.5-3-6)が現れた。

 そして青い彩色が残っている窟(写真11.5-3-5)は千手観音を中心に飛天像や、羅漢像が精緻に彫られていた。

 青い彩色は既に多くの部分が剥げ落ちているが、剥げ落ちる前のこの石刻像を見て、どのような気持ちで拝仏したのだろうか。青い彩色用材料はラビスラズリかも知れない。

 いずれにしても、ここ北山石刻は、宝頂山の“三界“、六道“と言った人の所業に対する戒めを表したものではなく、仏の佇まいを丁寧に刻んでいるようであり、安心して拝観できるのであった。

 そして次に現れた石碑(写真11.5-3-7)は、仏教の教えを刻していることが、いくつかの知っている漢字から読み取れる。

 小さな単位の石窟には、本尊仏があり、その脇を固める脇侍仏、そしてさらにその周囲の天蓋近くに飛天、石窟壁に地方神という構図が多いと感じていたら、そうではなく、本尊はなく、同じような複数の菩薩像が並設された単位の窟(写真11.5-3-8)や、本尊が二体という単位の窟(写真11.5-3-9)もあった。

 恐らく窟を寄進した人物の仏への想いの違いが出ているのだろう。自分自身を、夫婦を、子、親等の家族全体を、一族をと、安寧を祈り、祀る単位の違いによって窟内の景色も変わってくるのだろう。

 それと、寄進者の財産力の違いも勿論あったに違いない。天蓋にも、石窟壁にも飾り佛はなく、本尊には光背の代わりに椅子という極めてシンプルな窟(写真11.5-3-10)もいくつかあった。

 そして後半の窟はほとんどが最初の窟同様、本尊がいて、それを周囲で守る脇侍としての仁王像、本尊の生活道具を持った召使仏など、天蓋、石窟壁とも隙間なく大小の仏像が石刻像として並んでいた。

 窟内に入って拝仏することも可能なほど大きな窟(写真11.5-3-11〜11.5-3-20)もいくつかあった。無論、観光客がその様な空間に入って拝観することはできない。最後に180度振り返り、観光客用通路の写真(写真11.5-3-20)を撮った。

 そして、北山石刻景区の北辺に至り、小さな池の南畔を東の方向に歩き駐車場に至った。

 現地時間PM3:30頃であったが、今回の旅行の最終泊の地重慶市内に向かった。先ほどまで、観光していた大足石刻も同じ重慶市にあり、その中心部までは車で一時間程度であった。


 大足の街なか(写真11.5-4-1)を通過する時は、まだ現地時間で、PM4:00近くだった。

 重慶市街地に入ると高層ビルが立ち並んだ道路(写真11.5-4-2)を突き抜ける形となる。

 時間的なゆとりがあったので、直接ホテルに向かう前に、重慶市郊外のやや高台にある“一棵樹“という重慶市街区を一望できる展望台に案内してくれた。

 薄暮の時刻であり、少しづつ日が暮れて行き、街の明かりがチラホラと見え始めている。

 遠方に眼をやると、うっすらと長江の流れを見ることが出来(写真11.5-4-3))、近景には小高い丘高層ビルが突き刺さっている様に見える(写真11.5-4-5)。

 鮮明な光景を映し出してくれないのは、夕もやかスモッグなのかは不明である。いずれにしても点灯されたビルや高速道路だけは比較的鮮明に見えてきている(写真11.5-4-6)。

 この夕暮れの重慶の街を背景とした写真をグループごとに順番に撮っているようだ。ライトアップされた高速道路が暗闇に浮かび上がっていた(写真11.5-4-7)。

 一棵樹で一時間近く夕景と夜景を楽しませてもらったあと宿泊予定のホテルへ向かうことになった。

 ホテルに着いたのは、現地時間の八時近くであった。大きなショッピングデパートの5Fに受付カウンター(写真11.5-4-8)があり、いつもの様に駱さんがチェックイン手続きをやってくれた。

 龍鼎精品酒店というホテルであった。カウンターロビーの右手には3m四方ほどの板絵(写真11.5-4-9)がソファーの後ろに位置していたふが、何をモチーフに描かれたものかは皆目見当がつかなかった。30分ほど部屋で休憩した後、夕食を摂りにゆくことにした。

 ホテルから階下に降りると大きなショッピングデパートビル内にいることが分かった。地下はレストラン街であり、その一角にあるレストラン(写真11.5-4-10)で夕食を摂った。

 自分は相変わらずのワンタン(写真11.5-4-11)であった。味が薄いかもしれないということで、トウガラシと山椒を一緒にしたような調味料を添えてもらった。中国のワンタンはどこで食べてもおいしい。

 いよいよ翌日は帰国日である。ホテルロビーで旅行費用の清算をして、翌日の朝の集合時間等を約して部屋に戻ることにした。
    本稿 完   次稿へつづく







2017/01/25 20:20:53|旅日記
◆D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺

◆D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺 遂寧市泊

今朝も朝食のオープン時刻は朝7:00である。駱さんがドアをノックしてくれて一緒に食堂に向かった。一人だと、食堂が容易に見つかるだろうか、という不安があるが、駱さんが一緒にいるので、そのたぐいの不安は皆無である。バイキング方式なので、食べやすそうな(癖のある調味料が使われていない)料理(写真11.4-1-1)を選んで、駱さんと互いに対面に座って食べ始めた。普段自宅で食べる朝食に比べると、種類、量とも豊富である。
食事の量は、朝は簡単少な目、夜たっぷりという食習慣が一般的だが、この逆の朝タップリ、夜少な目というのが好ましいそうだ。旅行中はこの好ましいパターンとなる。

これまで、中国旅行をすると、体調が回復するというジンクスがある、ということを口外してきたし、実際に帰ってくると、体調が回復したという実感がいつもある。その理由として、心身のリフレッシュと言った一般的な理由の他、血液型シェア説、駱さんガイド説PC隔離説、を唱えてきたが、食事スタイルの最適化が実は一番効いていたのかも知れない。

ちなみに、血液型シェア説というのは、自分の血液型と同じ血液型がその国の最大シェアとなっている国は、その血液型の人が過ごしやすい環境、習慣が構築される、というものだ。中国は、O型とB型がほぼ同率首位である。かつて日中国交回復交渉がうまく行ったのは、B型の田中角栄が首相で交渉にあたったからではないか。安倍首相もB型だそうだ。

筆者の血液型はB型であるが、B型がトップ・シェアの國、インドを旅行した時は、チップ制という支払いに大きな習慣の違いを感じ終始面喰い、人並みに「人生観が変わった。」という印象はあったし、違和感のある味に慣れず、更にはこれが一番大きかったが「酷暑」に閉口し、心身のリフレッシュとまでは行かなかったのである。従って血液型説は、多少は関与しているかも知れないが、殆ど関係無いと思い至っている。

朝食後、部屋に戻り、服薬等で時間を費やし、それでも出発時間の8:30まで少し時間があったので、柚(ユズ=巨大グレープフルーツ(ルビー))を種が見える状態にして写真(写真11.4-1-2)を撮った。この果物はこの季節の中国ではどこでも売られていて、味も良いので日本で発芽できないかと思ったのである。しかしこの大きさの柑橘類の種としては小さすぎ、発芽は不可能と思えた。

そして、ホテルを8:40に出発し、一路遂寧市に向かった。遂寧市は成都と重慶の丁度中間点あたりにある四川省の都市である。四川省は確かに霧が深い(写真11.4-1-3)スモッグではないようだ。霧、靄、霞、スモッグは見かけは似ている。ウェブで調べると、「霧(きり)と靄(もや)は、大気中の水蒸気が微小な水滴となって浮遊し、視界が悪くなる現象をいい、霞(かすみ)は、空気中の水滴やその他の粒子によって視界が悪い状態をいう。」更に、「「霞」は、気象用語として用いられていない。

また、気象用語での「靄」の定義は、微小な水滴や湿った微粒子で、湿度50%以上のものをいい、湿度50%未満の乾いた煙や砂ぼこりなどによって、視程1km以上10km未満となっている状態は「煙霧」という。スモッグは煙霧のことであろうと思ったが、Wikipediaには「スモッグと煙霧 (haze) は似ているが同一ではない。

スモッグは大気汚染により視程が低下している状態、煙霧は乾いた微粒子により視程が低下している状態を言う。煙霧は大気汚染以外に、砂塵(黄砂など)や火山灰などの微粒子により視程が低下している状態も指す。」とあった。

最近話題のPM2.5について調べると、中国沿海地域(北京、上海、杭州など)では極めて高く、内陸地でも成都や重慶等の大都市では高い、これから向かう遂寧市(85)は成都市(114)と重慶市(107)の中間点なので比較的濃度は低い。参考に北京(170)、上海(161)、杭州(188)、広州(178)、貴陽(30)<以上2017.1.10現在、単位はμg/m3で、0〜50:空気は良好、51〜100:許容範囲、101〜150:敏感な人には有害、151〜200:有害、201〜300:とても有害。301〜400:危険>

12:20頃、遂寧市に入り、高速道路(G42)から外れた。街中に入ると、所々にブーゲンビリア(写真11.4-1-4)や芙蓉の花(写真11.4-1-5)が迎えてくれた。そして間もなく霊泉寺の入り口に着いた。霊泉寺の前に、ここ遂寧市について説明する。

「遂寧市は四川盆地の中部に位置し、涪江の中流に位置する。古くからの文化の蓄積、人を迷わせる幽玄な山水、発達した農工商業などから、川中(四川省中部)地区の政治、経済、文化の中心であり、紡織や食品工業が盛んで沱牌グループなどの企業が所在し、「東川巨邑」、「川中重鎮」、「小成都」などの異名がある。」とWikipediaに紹介されている。

そして、更に歴史について「遂寧周辺には石器時代より人類が住んでいたとみられ、射洪県仁和鎮の馬鞍山からは紀元前1万年ころの人類の頭蓋骨が出土している。記録では夏王朝や殷王朝の時期には梁州に属したとされる。」と紹介されている。

もっとも気になっていた地名の由来について、「東晋と十六国が並存した時期にさかのぼる。この時期、十六国の成漢に属したが、各国間の争いや後継者争いで成漢は疲弊した。347年(嘉寧2年)、東晋の桓温将軍が蜀征伐に着手し成漢を滅ぼし、四川で50年以上続いた混乱に終止符を打った。桓温は凱旋の途中、急にこの地の風や太陽の美しさに打たれ、歌や踊りの声がどこかから聞こえてくることに平和さを感じた。長年戦場にいた桓温に平和を渇望する思いが生まれ、この地に郡を置き、「戦乱の終息と安寧に到達する」ことを願って「遂寧」と命名したとされる。」とWikipediaに紹介されている。

そして霊泉寺である。最初の入り口(写真11.4-1-6)手前の駐車場で運転手の蒋さんは待機である。この入り口を通過すると、「霊泉景区游客限流公告」と「観音故里旅游区文明礼仏公告」と書かれた看板(写真11.4-1-7)が目に入った。前者は、この景区の定員は15,000人なので、それを越す入場者が見込まれる場合は、何回かに分けて入場してもらうとのお断り書きであり、後者は、<安全生産法>、<旅游法>、<文物法>、<宗教活動場所及び旅游場所における燃香安全規範>の規定に基づき、紙銭を燃やすこと、爆竹を燃やすこと、大型の香を焚くことの禁止、即ち景区内での火気厳禁を注意している。前者の公告から大勢の人が一度に参拝に来ることがあること。後者からは消火の難しい地形にあることが推量されるのであった。

そして、そこから霊泉寺山門までは電動カートに乗り、その終点から山門までは階段が続く(写真11.4-1-8)。階段を登りつめたところにある山門は、色彩豊かで、門飾り、特に屋根の稜線に配した飾り、は複雑さを極め、見ていて飽きることがないほどであった。
三つの突き抜け出入り口が並んでいる構造で、中央の突き抜け門の前面両側には一対の獅子像が配置され、左右対称となっている。この中央の突き抜け門から山道(さんどう)に入った。

山道は進行方向左手が谷、右手には、種々の建造物が並んでいる(写真11.4-1-9)。建造物は、何に使われているのか、誰が使うのかという肝心なことが分からなかったが、拘らずに先に進んだ。屋根の上に小さな構造物が載っている(写真11.4-1-10)が、使途は見当もつかなかった。

次に朱塗りのお堂(写真11.4-1-11)が目に入った。中には高齢の婦人の姿が見える。近くに婦人用ハンドバッグがぶら下げてあるので、きっとボランティアかパートのおばさんであろう。仏教にまつわる何らかの品物を販売している様に見えた。本来であれば、本尊が据えられても良さそうな位置には仏像はなく、その前に花が活けられる筈の花瓶には花が無かった。

更に山道を進むと、今度はお堂の前で穴あきの黒い玉に糸を通して、数珠を作っているいるおばさんがいた(写真11.4-1-12)。こちらもそばに婦人用ハンドバッグがぶら下げてあるので、きっとボランティアかパートのおばさんであろう。近所の檀家の人かも知れない。但し、中国に檀家組織があるかどうかは知らない。老化防止にはこの指先運動が良いのだ、と言わんばかりに楽しそうに黙々と作業をしている。

数珠は正式には108珠からなり、その由来は、108の煩悩を消滅させる功徳があるからだといわれているが、その様な功徳を積みながらやっているとしたら檀家もしくは仏教を信じている人であろう。

少し行ったところで、先ほどの建造物というのが、実は仏塔(写真11.4-1-13)であることが分かった。但し、一般的な多重の塔とは異なる形式で、天辺には相輪は伴っていず、最上層には屋根や庇がついていない奇妙なドーム様式だ。あるいは、やはり仏塔ではないのか。自信が無くなってきた。

前方に視線を戻すと、さきほどの山門(写真11.4-1-8)の縮小版の様な小ぶりの山門(写真11.4-1-14)が見えた。扁額には、右から「川中禅林」と記された四文字が見えた。川というのは、四川省の“川”、中というのは中心部という意味、禅林とは禅宗寺院のことであり、四川省内江市には「川中第一禅林」と呼ばれる聖水寺という禅寺があるので、「第一」という文字は使えず「川中禅林」の四文字に落ち着いたもの、と勝手な推測をした。

そして、石段を何段か下り、この山門から新しい境内に踏み込んだ。眼に入ったお堂の屋根(写真11.4-1-15)は屋根飾りが賑やかであった。中国の建造物の屋根飾りは、落雷等による火災から建造物を守る“まじない”の機能がある。この“まじない”が賑やかということは、建造物が如何に重要か、または如何に火災に対する恐怖が大きいか、であろう。古来、大きな山火事があったのかも知れない。建造物は木造で山上にある建造物は消火にも苦労する。

この境内からは木々の向こうに遂寧市が一望でき(写真11.4-1-16)、うっすらと長江の支流の涪江の流れと、それに架かった大きな橋も見える。街並みには超高層ビルは殆どなく、木造の人家も殆ど見えなかった。

境内を先に進むと、また階段があり、階段を登ったところに、霊泉寺の象徴とも言える七重の塔(写真11.4-1-17)が見えた。屋根は7層あり、最上層の屋根には宝珠や相輪があるので、七重の塔には違いないが、これまでみたことのある多重の塔とは雰囲気が違う。心柱も無いのではないかと思える近代建築であった。その石段を黄色い法衣をまとった僧が上がってゆく。これからお勤めがあるのだろうか。階段は左右二列あり、その二列に挟まれる様に、龍の石刻像(写真11.4-1-18)が階段斜面に沿って配設されていた。

その石段を登りつめ、七重の塔の最下層正面の本尊前に向かった。ガイドの駱さんは先にそこに至っていて、観音様には特別の思い入れというか宗教心がある様に見えた。(写真11.4-1-19)対聯の右聯には「・・・・・甘露普渡衆生離苦海」とあった。“甘露”は世の中が平安の時に天から降る甘い液体であり、「普」とは世間の衆生を愛し 「渡」とは苦難の人々を 平安へ導くこと 苦難を和らげ 幸福へ導くことである、という意味で、観音菩薩を本尊とする堂宇には、この言葉がつきものらしい。

しかしながら、この七重の塔は派手、よく言えばカラフルであり、構造にも他にないユニークさをもっている、古代建築ではなく新進気鋭の仏塔建築家による建造物の様に見える(写真11.4-1-20)。特にユニークなのが塔の立体構造を四角錐と表現すると、その斜めの稜線が二重構造になっているところだ(写真11.4-1-21、11.4-1-22、11.4-1-23)。

また各層の屋根にはおびただしい数の走狗が鎮座して、落雷等の天災から守っている。

再び、最初の山門を見上げる広場に戻ってきた。広場から振り返ってみると、実に豪奢な構え(写真11.4-2-1)で、最上位に、先ほど見て来た七重の塔、その手前に、朱に染め上げられた建造物が位置している。この建物は宿坊だろうか、ここから見ただけでは分からない。ズームアップ(写真11.4-2-2)すると、いくつもの同じ構造の単位(部屋)が並んでいる。窓以外は全て朱色で、各階8部屋で3階あるので、見えるところだけで24部屋あることになる。ちょっとしたホテルである。

以上で霊泉寺の観光は終わりかと思ったが、地図案内板(写真11.4-2-3)をみてから、もう一か所みたい所がある、というのでついて行くと、七重の塔よりは古そうだが、屋根の色、壁の色と言った配色は同じ容姿の堂宇が現れた。

入り口正面から少し離れると、最も遠方で高いところに、七重の塔、その手前の少し低いところに、朱に染め上げられた宿坊と思われる建造物が、そして、さらに手前の更に低い位置にこの堂宇があるという位置関係が分かった(写真11.4-2-4)。山門は入母屋づくりで、赤れんが色の壁には、右側に「佛」、左側に「禅」の文字が書かれ、入り口頭上には「霊泉寺」と右側から書かれていた(写真11.4-2-5)。

天部の仏神の持国天、増長天、多聞天、広目天(写真11.4-2-6)の四天王が祀られたお堂に出た。広目天は右手に筆、左手に巻物(メモ用紙?)をもった天部として見慣れているが、ここの広目天はやや異なり、右手に魚、左手には小さな金色の玉を持っている。また、その奥に見える多聞天(毘沙門天と呼ばれることもある)は、日本では、その像容として右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿、または左右逆に持った像として描かれる場合が多いが、ここの多聞天は、右手に傘の形をした法棒、左手に鳩の様な鳥を握っていた。

そして同じお堂の反対側を観ると、四天王の持国天と増長天が祀られていて、持国天の傍で、高齢の女性が、同じく高齢の女性に整髪されているところ(写真11.4-2-7)が眼に入った。すぐ傍の机にはお茶飲み用ポットや旬の柚(=グレープ・フルーツ)が置かれていた。日本では見られない生活臭漂う寺であった。二人とも、四天王のいかめしい姿とは対照的な、やさしげで労わりあう雰囲気を醸し出していた。

更に奥の大雄宝殿(写真11.4-2-8)に足を運んだ。お堂の前の線香台には途中で燃え尽きた線香が残り、火も煙も出ていなかった。参拝者も少なかった。左側の対聯には、
「霊泉是千年古刹喜紺殿重光無辺春色来・・・」とあり、右側の対聯には、「佛陀為三界導師晋慈雲編覆丕振・・・」とあった。三界とは欲界・色界・無色界の三つの総称で、凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。尚、「欲界とは淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む処。色界とは欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわれた有情が住む処。無色界とは、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住んでいる世界」とWikipediaで説明されている。また三界図では更に細分類、細々分類されていて、例えば、「最下位の欲界は更に六欲天、四大洲、八大地獄の三つに細分類され、更にそれぞれ六、四、八に細々分類されている図」が同じWikipediaで紹介されている。四大洲は西遊記でおなじみで、人、畜生、餓鬼が共存する世界である。以上の話は、D5.大足石刻観光でも話題にする予定である。

  この堂宇は大雄宝殿だけあって、屋根(写真11.4-2-9)の天辺の水平な稜線の中央には宝珠があり、稜線の上は隙間が無いほど高密度に多くの龍をはじめとした神獣達が鎮座、またはからみついている。また斜めに下る稜線にはよく見かける神獣たちが外側に向かい鎮座し、更には、軒に近い瓦の上には一羽の不気味な鳥が羽を広げて近寄る悪魔を恫喝している様な姿がみられた。これまで見たことのある屋根上飾りに比較すると、造形の複雑さ多様さは一級品といえ、落雷火災等の災害に対する守りの強い意気込みが感じられた。

霊泉寺の観光が終了し、時刻が昼近かったので、車で30分の処にある中華レストラン(写真11.4-3-1)で昼食を摂ることになった。店内は清潔であり、壁面には、メニューではなく、提供する料理(中華料理)に対するこだわりの様な言辞「面賦」が貼られているのがまず目に入った。“面”というのは無論“麺”のことであり、“麺”へのこだわりが書かれているのだろうことが、いくつかの日本でも使われる漢字を拾うことによって推測できた。

そして、次に厨房口の上の壁面に貼られたメニュー(写真11.4-3-3)であった。注文したのは最近重点的に食べ始めた雲吞(ワンタン)(写真11.4-3-2)であり、ガイドの駱さんも付き合ってくれたが、重慶生まれの彼女にとっては、味が薄すぎるのか、トウガラシ入りにして四川料理風の味にしてもらったらしい。

昼食の後、向かったのは、遂宁市明月花园小区西山路にある四川省宋磁博物館であった。そもそも遂寧市が中国に名をとどろかす所以は、1997年 に発見された大量の宋時代の陶器類や窯跡である。発掘された陶磁器は26万点にのぼり、このうち1000点が展示されているとのことである。尚、ここで言う宋時代というのは、北宋、南宋を共に含んでいる。
1000点の内訳は、磁器が985件で、宋代の磁器として、龍泉青瓷が342件、景徳鎮の潔白の磁器が599件、その他、定窑(河北省曲阳县)の白瓷、磁峰窑(四川省彭州市(原彭县)磁峰镇)の白瓷、耀州窑(陕西省铜川黄堡镇)の青瓷、广元窑(四川省广元市)のK瓷が少量あった。とのことである。

館内に入って目に入ったドーム状ロビーの内壁面には、ほぼ全周に亘り、帯状のレリーフ(写真11.4-3-4)が形成されていて、人々による製陶の様子が生活臭豊かに描かれ、人を手伝う象の姿や、製陶に不可欠な水の神(龍)と火の神が描かれている。帯の上縁近辺には高貴な人の姿も見られるが、北宋時代に流行った官窯へのあこがれが垣間見られる。

そして、四川省蓬溪县大英乡(现大英县卓筒井镇)で発見された筒型井戸の説明ポスター(写真11.4-3-5)が掲示されていた。窯業とは一見つながらないポスター展示であるが、直径10〜12cm長さ130mの筒型井戸で、1041〜1048年ころ造られたもので、中国五大発明の一つとされている。これをどのように、どの様な目的で造られたかは明確ではないが、“卓筒井”と言うのが鎮の名前になっている程なので、発見されたときには鎮中大騒ぎになったのだろう。
中国四大発明は、羅針盤、火薬、紙、印刷でよく知られているが、この五つ目の発明はあまり知られていない。もの造りという要素が少ないからだろうか。しかし地下130mもの深さまで穴を掘る方法など容易には思いつかない。それに穴を掘る位置をどの様に決めたのであろう。

ポスター(写真11.4-3-6)の解説には石油や天然ガスの採掘用の人口の筒型井戸ではないかとの話。「地下から湧く燃える水の存在は、古代から各地で知られていた。産地で燃料や照明に用いた例も多い。たとえば4世紀には中国で石油の採掘が行われたという記録がある。

また、中国では、西暦1200年頃になると、竹の弾力性を利用した掘削技術が発達して、450メートルの井戸が掘られた。」、とWikipediaに紹介されている。更に「最初 の目的は岩塩水の採取にあったようだが、副産物の天然ガスは塩水を煮つめる燃料として便われた。」ともある。そもそも「石油」という言葉は沈括の『夢溪筆談』からの言葉らしい。

現在、中国では、南沙諸島近くに石油掘削基地と称して人工島を造成しているが、深い井戸を掘って、そこから石油や天然ガスを掘削したくなるのは4世紀頃に遺伝子に組み込まれた気性かも知れない。

話をもとに戻す。次に現れたパネルは遂寧市出身の歴史的な有名人を紹介している。

先ず、鄒和尚(写真11.4-3-7)である。唐代中期の遂寧出身の僧であり、学識が
深く、科学技術にも造詣が深く、腕利きの製糖工藝技術を持ち、氷砂糖の創始者であった。生産するのが上手で、香り、味とも申し分のない氷砂糖であった。このため遂寧は氷砂糖の生産地として全国的に有名になった。そして遂寧の氷砂糖は朝廷献上品となった。」と中国通史 第三巻 に記述されているとのことである。

  そして、李實(写真11.4-3-8)である。明末から清初にかけて活躍した遂寧出身の学者、役人である。役人勤めの時は、清正廉潔、洞悉民情、営利除幣、頗有政績、為百姓(手偏に用)戴の人であった。「長洲如鏡」の説を唱え、後役人を辞し、学究に没頭した。

次の遂寧出身の歴史的知名人は陳子昂。中国・唐代(初唐)の詩人。陳子昂の詩風は、六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とするもので、盛唐の質実な詩の礎となった。「感遇」三十八首は阮籍の「詠懐詩」をベースとし、不変だと考えられている神仙的な世界と移り変わる現実社会の有り様を対比させて表現し、さらに歴史を鑑として(詠史)社会批判をも盛り込んでいる五言古詩の連作である。「薊丘覧古」や「登幽州台歌」は契丹討伐に従軍した際の雑言古詩で、人間という存在の孤独さを表現している。

この博物館には多くの陶磁器が陳列されていた。先ず目に入ったのは、「黒釉玳i班免豪盞」(写真11.4-4-1)で南宋時代の広元窯のものである。中国の黄河下流域を中心に分布する新石器時代の,光沢のある薄手黒色の磨き土器。ここの展示品の様に黒色とは限らない。写真11.4-4-2は、「南宋龙泉窑青釉盘口弦纹瓷瓶」である。

写真11.4-4-3は、「南宋龙泉窑青釉j式瓷瓶」である。写真11.4-4-4は、「南宋龙泉窑青釉荷叶形盖瓷罐」。以上3点は現在も使われている色調である。これらに対して写真11.4-4-5は、「南宋景コ镇窑青白釉大口蟾蜍形三足瓷水盂」で、蟾蜍とは蛙のことである。

写真11.4-4-6は、「青白釉刻劇花纏枝花奔紋梅瓶」で色は、青白ではなく茶に近い色である。この博物館のホームページ、   http://www.scbwg.cn/Category_2226/Index.aspx
には掲載されていない。

写真11.4-4-7は、「南宋景コ镇窑青白釉凸雕花卉纹鬲鼎式瓷炉」でこちらの青白釉はそれらしい色調である。写真11.4-4-8は、「南宋景コ镇窑青白釉八棱鼎式瓷炉」でやはり青色釉が用いられている。写真11.4-4-9は、「白釉鵞戯蓮紋真壁椀」であるが、この博物館のホームページには掲載されていない。

以上は全て遂寧市金魚村で発見されたものである。釉は青磁、青白、白釉。黒釉があったが青磁釉が圧倒的に多かった。他にもたくさん展示品があったが、この博物館のホームページに、写真がアップされている(以下のURL参照)のでここでは割愛する。
http://www.scbwg.cn/Category_2226/Index.aspx

その後1時間ほど展示品の見学をして、最後に売店に寄り、展示品の目録が載っている小冊子と家内のお母さんへの土産品を購入して博物館を出た(写真11.4-4-10)。売店では、素焼き前の成型まで済ませた茶碗をサービスでもらった。これは後日、模様(種子=シュジ)を彫り、青磁釉を施し、約1250℃で焼成したところ、上記の展示品の青磁と同じような色を呈示することができた。

既に時刻は現地時間で4:30近くになっていたが、もう一か所観光することになっていた。とは言うものの、事前に行き先の説明を受けていなかったので、どこへ行くのか着いてみないと分からないが、目的地に着いたのは、途中道を間違えたこともあり、2時間ほど経ってからであった。遂寧市千年古鎮—遂寧龍鳳古鎮という古鎮であった。

この時期では、19:00近くなので、夕刻というより夜である。車を駐車場に置き、3人で歩き始めると、間もなく古鎮の入り口と思われる彩色豊かな門(写真11.4-4-11)が現れた。門には崩した中国文字で右から龍鳳古鎮とあったが、その時は読めなかった。後日、本稿を書いているときに、<遂寧市 古鎮>でウェブ検索したらヒットしたのが遂寧市千年古鎮—遂寧龍鳳古鎮だったのである。ところが中国語サイトだったので、それを機械翻訳してみると、遂寧市船山地区にある古鎮で前漢ミャオチワン古代都市の名残のある古鎮である。

門の向こうには古めかしい木造の三階建て建造物(写真11.4-4-12)が見える。赤い提灯が規則正しい間隔でブラ下がっている。平日の夕方なので、観光客には殆ど出会わず、住民の姿も殆ど見かけない、と思っていたら、営業中の床屋の店内が明るく浮かびあっているのが見えた(写真11.4-4-13)、客は若者で理容師は女性である。

通りは暗く、持参していたLED小型懐中電灯が役にたったほどであった。池に沿って更に奥に進むうちに花火の音が聞こえて来た。こんなにさびれた観光地で、これだけ間断なく花火を打ち上げて古鎮の財政がもたないのではないかと思うほどの連発である(写真11.4-4-14)。

そして、もと来た道を戻り、遂寧市内の方に戻った。途中夕食を摂るため麺屋に入った。店は最近オープンしたばかりと思えるほど清潔感にあふれた店であった。店内の壁には「麺賦」(写真11.4-4-15)なるポスターが貼られていた。注文したのは、相変わらずワンタン(写真11.4-4-16)と、それだけでは足りないだろうと、駱さんが四川料理風の辛そうな麺を頼んでくれた。共に腹を満たすのに十分だった。他の壁にはメニュー(写真11.4-4-17)が貼られていた。

食事を終え、一路宿泊予定のホテルに向かった。ホテルに着いたのは夜10:00を過ぎていた。ホテルは明星康年大酒店と言う名であり、二部屋からなっていて、TVは両部屋にあり、片側は中央にソファーが中央にあるので打ち合わせ室か(写真11.4-4-18)。このような豪勢な宿泊は初めてであった。

かくしてD4が無事終わった。
   本稿 完    次稿につづく







2016/12/21 10:17:16|旅日記
◆D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊 〜後編〜
◆D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊
    〜後編〜

 以上が一号館の展示であり、次に二号館に向かった。この二号館の展示品こそ異様な雰囲気を醸し出すものであり、日本の世田谷博物館で観覧して以来記憶に鮮やかに残っていたものである。

 先ずはその一つ“巨大神樹” (写真11.3–4-1)であるが、これを初めて見た時は、思わず「ジャックと豆の木」の豆の木を連想したことを覚えている。この木を登ってゆくといづれ天上にたどり着く。あるいは天上から神がこの樹を伝って降りてくる。そのような連想だった記憶がある。そして後に宮城谷昌光著の「孟嘗君」を読んだ時、最初に登場する槐の樹も何故かこの神樹にダブったのである。世田谷博物館で購入した図録には、「高さ3.84mで樹は扶桑に比定されている」のだそうだ。

 扶桑には10の太陽が宿り、太陽は鳥に乗り、順番に空に巡回に出かけることになっているらしい。しかし、この神樹の先端部は遺失されていて、そこに何があったのは不明だが、あったとすれば、10羽目の鳥ではないかとの推測もあるようだ。

 またこの神樹には龍が逆さになって絡まっていて、今まさに地上に降り立つ格好をしている。

 しかし、筆者は、この樹を天まで届けさすために、更に同じ構造のものを繰り返し継ぎ足し、その先端が天に届くようにさせたいという願望をあらわそうといたのではないか、という希望的空想をしたい。

 次の写真(写真11.3–4-2)も神樹であるが、前の神樹よりシンプルである。世田谷美術館での展示には無かったように記憶している。従ってこれを見たのは初めてになる。龍がからまってはいないし、天辺は折れて散失した様には見えない。きちんと終端している様に見える。

 そして次の写真(写真11.3–4-3)は青銅製の異様な仮面である。この様に目が飛び出している仮面を縦目仮面というのだそうだ。縦目仮面は第二坑から計三体出土していて、仏像の釈迦三尊の様に、中央に写真の縦目仮面、両脇に別の小さな縦目仮面が並べられ、神として崇拝する対象として使われたのではないかとの見方があるようだ。

 次の写真(写真11.3–4-4)は、金面人頭像が360度ぐるりと陳列されている。全面金箔が残っている人頭像は一つもなく、頭部はフラットなものと、ドーム状になっているものがあり、眼と眉の部分はいづれも金箔が貼られていない。稜線のあるアーモンド状の目、太い眉、シャープな頬骨、高い大きな鼻、一文字に硬く結んだ口、角ばった耳と耳たぶの孔はいづれの人頭像に共通した特徴となっている。頭部がフラットなものは髪を後ろで編んだ構造で、ドーム状は髪を後ろで垂らしていない。もう一つの髪型がちょんまげスタイルである。

 仮面の製法は鋳造法であり、仮面の外側の型と下面内側の型をスペーサーを挟んで配置させ、その隙間に溶融した青銅湯を流し込んだものと思われている。額中央の四角い孔は後加工で穿いたもので、ここに額飾りを篏合させたのだろう。他の二体の縦目仮面にはこの額飾りがついた状態で出土されている。

 写真11.3–4-5の青銅製立人像は、高さ2.62mで大型の立人像は唯一の出土とのことである。両手に象牙の様な祭祀に使う道具を持っているという説と、何も持っていず呪術師の象徴的なスタイルとの説があり、後者の説の方が説得性がある様だ。

 写真11.3–4-6は、罍(ライ)とよばれる青銅器であり、水や酒を入れるのに用いられたらしい。頸部はまっすぐ立ち上がり、短く外反して口唇部は四角い。頸部に三条の凸線をめぐらせる。ゆるやかにカーブした肩の上面には四方に鳥型の稜飾を立て、その間に変化した龍文を施している。肩の四方に大きな角を持つ羊頭を鋳ぐるみの技法(分鋳法)に依って接合している。・・・・・、と世田谷博物館で入手した冊子に解説されている。

 写真11.3–4-7は、青銅製の鶏で、二号坑から出土されているので、元は神樹の枝に装着していた可能性がある、と言われている。

 写真11.3–4-8は、きわめて複雑で、精巧なつくりの青銅製モニュメント(?)である。最下段に二頭の虎が台座を頭で支え、その台座の上に四人の兵士が頭で王冠を支えている。これが中段。更に王冠の上には、箱のようなものが乗っかっていて、その箱の上に四羽の鳥が四隅に、これからまさに飛び立たんが如くに位置取りしている。また箱のようなものの側面は多人数の人たちによって守られている様な透かし彫りになっている。

 この三段構造で、しかも三段の接続点は殆どが面ではなく点であり、かなりの柔構造と言える。このままの形で出土されたとはとても思えない。ばらばらに出土したものを発掘後に接続したと思わざるを得ない。

 また世田谷美術館で購入した「三星碓」図録には載っていないので、出土坑が一号坑か二号坑か、などの発掘の経緯、何を表しているのか、などが謎である。この陳列品の背面には、「國之重寶」と書かれた壁面に、この青銅製モニュメント(?)の各段の構造図が筆写されている。

 写真11.3–4-9は「龍形杖頭」で40cmあまりの高さを持つ青銅器である。この器物は、一号坑の黄金の杖の近くで発見されたとのことで、この器物と黄金の杖とは一体として使われていたものと推測されるらしいが、そもそも坑にバラバラになって破壊された状態で埋蔵されたのは、新たに王権を握ったものが、前王権者の権威を葬るとした前記のバラバラ埋蔵の理由としていた根拠が崩れる様に思われる。

 これは「三種の神器」の様に、これを手にしたものが王権者というのではなく、ある世代の王権者が、その象徴として持っていただけなのかも知れない。

 新王権者が前王権者を悪者扱いし、関わる住居、縁者を亡き者とし、自分を正当化するということは、いつの世も同じである。その一つの所作が前王権者の杖の廃棄だとしたら、そんな近くに廃棄するだろうか。

 最後に館内を案内してくれた博物館専属の日本語ガイドの羅さんとツー・ショット(写真11.3–4-10)、そして展示室に戻り、撮りそこなった青銅鳥脚人像の写真(写真11.3–4-11)と、駱さんと人面像とのツー・ショット(写真11.3–4-12)を撮って展示館を後にした。

 尚、鳥に載って空を移動する神々は『山海経』の至るところに登場しているが、空想上の存在とのことだが、どうせ空想上の存在ということであれば、その存在を宇宙人としても良いのではないかと考えてみた。

 館を後にして、博物館の建物(写真11.3–4-13)や博物館入り口の写真(写真11.3–4-14)を撮り、そして博物館公園の入り口にあった人面像と今度は自分がツーショット写真(写真11.3–4-15)を撮り、見かけたカラフルな野鳥を撮り(写真11.3–4-16)、三星碓遺跡と博物館を完全に後にした。

 そして広漢市内にあるホテルにチェックイン(写真11.3–4-17)し、ホテルの部屋で
少し休憩し、夕食に出かけることにした。夕刻(現地時間15:30頃)の街に出た。途中庶民風景として理髪店の写真(写真11.3–4-18)を撮り、食堂(写真11.3–4-21)に入り、自分はワンタン(写真11.3–4-20)を、駱さんはビーフン麺(写真11.3–4-19)を食べた。ワンタンは極上の味で、ビーフン麺もおいしそうだった。

そして、ホテルへの帰り道に露店スタイルの果物店があったので写真を撮った(写真11.3–4-22)。まだまだこれからという感じの夜の街(写真11.3–4-23)を通り抜けてホテルへ戻りついた。
  本稿 後編 完  D4へ つづく







2016/12/21 1:45:56|旅日記
D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊 〜前編〜

◆D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊
   〜前編〜

 朝食は、この日も駱さんに部屋のドアをノックしてもらって、食堂まで一緒に向かうことになっていた。ただ食堂のオープンは7;00で、食後の薬の服用と休憩の時間に少しゆとりがあった。バイキング方式の朝食(写真11.3–1-1)であったが、ここも味に違和感が全くなく、美味しく食べられた。食後部屋に戻って、外の景色を眺めたが、霧が濃く、高層ビルもよく見えなかった(写真11.3–1-2)。四川省は霧が多いことで有名と、司馬遼太郎
の「街道をゆく 蜀の道」に書かれている。

 足元に目をやると、手入れの行き届いた、屋上庭園が見える(写真11.3–1-3)。庭園の何カ所かにはブーゲンビリアの深紅の花が興を添えていた(写真11.3–1-4)。ホテルの裏側で、この様な光景が見られるということは、中国では稀である。ホテル経営者の客に対する、おもてなしの精神が感じられる。

 そして8:30にホテルを出て、蒋さん運転の日産車に乗り込み、一路三星碓遺跡を目指した。出発して25分経ち、そろそろ高速道路入り口ちかくで、大渋滞、というより全く動かない。これ以上待っても動く気配は全くない、と蒋さんは、強く感じとったのだろう。高速道路に並行して走っている国道を利用し、いくつか先のインターチェンジから高速道路に入ることにした。結果的にはこれが大正解であった。

 国道は山道にもなり、畑に囲まれるところもあるが、いづれにしても、濃霧というか靄がもの凄い。二つほど先のインターチェンジから高速道路に入った。この時、大渋滞の理由が分かった。濃霧による大型車の交通規制をしているのだ。小型車は規制をしていないが、大型車がインター入り口で立ち往生して邪魔しているので、小型車も移動できなくなっているのだった。インターから高速本線に入ってしばらくすると、成都まで100kmの道路標識があった。三星碓は成都の少し先なので、途中休憩しても2時間程度の道のりである。

 しかし、相変わらずの濃霧(写真11.3–1-5)である。インターチェンジから高速本線に入って10分弱のところにあるサービスエリア(爽江=ジャージャン)でトイレ休憩をとることにした。ついでに、そこで包装が如何にも中国っぽい土産を購入した。「玫瑰牌=メイグイパイ」という名前で、金釵爽心米花糖という菓子であった。後で味見をしたら日本のおこしと同じであった。釵はかんざしのことであり、花というのはバラのことだろう。

 後日袋に記載のホームページにアクセスしたら、重庆市にある江津米花糖有限责任公司という1926年に設立された老舗の企業の菓子製品であることが分かった。この菓子は小袋包装のデザインは極めて中国っぽいが中身は おこし そのものであり、味も日本のものと変わらない。土産にしたつもりだったが、結局すべて自分で食べてしまった。

 高速(成楽高速公路)を走っていると、行き先表示が次々に現れる。その中に眉山という地名があった。日本にも徳島県にある地名で、さだまさしの小説名でもあるが、行き先表示に現れた 眉山 はそれとは全く関係が無い。楽山市と成都市のほぼ中間点にある市で、楽山市にも流れていた岷江沿いにある地級市である。

 眉山市は駱さんとのちょっとした接点がある。駱さん曰く、「杭州市西湖に蘇提という橋+堤があるが、蘇というのは北宋時代の詩人蘇東坡(蘇軾)のことであり、眉山はその蘇東坡の出身地で、眉山から優秀な進士が多く出ている」とのことだった。自分もこの人物について調べてみたが、驚いたことに水滸伝で最大の敵とされた高俅が一時蘇東坡の配下だったことがあり、その時受けた恩を返すために、蘇東坡の死後、遺族を秘かに支援していたという。人は異なる角度からみると美談の主になっていることもあるのだ。

 その後、車中で居眠りっをしていたようだ。気が付いた時は成都にかなり近いところまできていて、またサービスエリアで休憩である。時刻は現地時間で11:45頃である。霧も晴れて太陽が顔を出し始めた様である。但し薄曇りと言った方が正しいだろう。三星碓まで15kmと案内板に記されていた(写真11.3–1-6)。このサービスエリア(写真11.3–1-7)に人は少ない。トラックの駐車が見られないのは、楽山での交通規制の影響か。

 そして、三星碓遺跡に最も近い外環高速路の分岐路出口から普通道路に向かった。町なかに入ったのは、恐らく広漢市の中心地(写真11.3–1-8)と思われる。交通量も人も増えて来た。ほぼ正午という時刻なので三星碓遺跡見学前に昼食を済ませることにした。

 店は清潔感があり、壁面にメニューが貼られている(写真11.3–1-9)。運転手の蒋さん(写真11.3–1-10)は、チャーハンを発注した。どれもおいしそうだったがワンタンは残念ながら無かったので、ネギとほうれん草を載せた醤油ラーメンとワカメ入りスープ、それに豚足だった(写真11.3–1-11)。

 価格は一部の特色料理を除いて、小盛6元(約75円)、中盛7元(約105円)、大盛8元(約90円)で格安である。街なかの店は中国全土似たようなものである。

 これまでの中国旅行では、グルメには余り興味はなかったが、駱さんにガイドを依頼する様になってから、店に、トウガラシや山椒を好みの味になる様に調整することを頼んでくれるので、違和感を感じる味にはならず、中国グルメに興味が持てるようになってきたのである。

 さて、いよいよ三星碓遺跡見学が始まる。
三星碓出土品を見ることができたのは2回目である。1998年春から初夏にかけて東京・世田谷美術館で「三星碓〜中国5000年の謎・驚異の下面王国〜」という陳列展があり、それを見学したことがあったからである。これまで見たことの無い出土品にどきもを抜かれ、これは地上に降臨した異星人が作り上げた文化に違いないと本気に思ったほどであった。特に目が飛び出た青銅仮面は異様で、眼が飛び出ている理由を知りたくなった。

『紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである[1]。本遺跡は東城壁跡約1100m(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180m・西城壁跡約600mが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。

三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、延2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4800〜4000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。

 第2・3期は4000〜3200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。

 第4期は3200〜2800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5〜6000m・南に2〜3000mに広がり、総面積約12km2で、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6km2である。』

とWikipediaに紹介され、更に

『三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3、4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を有力に証明してくれる。』と続く。

 展示館の前にはとっくに収穫が終わった麦畑が広がっている(写真11.3–2-1)。そして目を遺跡側に移すと遺跡の案内板(写真11.3–2-2)があり、そこに簡単な説明と二号坑発掘現場写真と地図が書かれている。

 更に進むと、「20世紀80年代三星碓城墻」というタイトルの看板(地図)(写真11.3–2-3)が建てられていた。この地図を見ると、北に鴨子江という河が配置していて、東西と南にそれぞれ城墻を配置し、それらに囲まれる位置に、三星碓城墻と亮湾城墻の計5つの城墻がある。そして三星碓城墻のすぐそばに、一号祭祀坑と二号祭祀坑がある。

 看板のタイトルが、「20世紀80年代三星碓城墻」とあるのは、今後の発掘によってまだ新しい遺構が出てきたり紀元前2000年以前の遺構が発掘される可能性があるという示唆を与えたいのだろう。

 この案内板をもう少ししっかり見ておけばよかったと後悔したのは、このあと三星碓城墻のすぐそばの一号祭祀坑と二号祭祀坑を見学した後、博物館に向かうのだが、二通りの道があり、少し遠周りだが、亮湾城墻と西城墻を経て、更に鴨子江河岸を東に向かって博物館に至る路があったのだ。そちらの道から時間をかけても行けばよかったと後悔したのだ。

 そして、いかにも祭祀場と思わせる階段があり、登ってゆくと天に近づくことが出来ると、思わせぶりの建造物が現れた(写真11.3–2-4)。無論現代人が最近(20世紀末)建造したものだ。その周りには、たくさんの金盞花(または百日草)らしき花が咲いている。

 その階段を上がってゆくと、壇上には、厚いガラス越しに坑が二つ見え、片方には、青銅製の銅器の断片が折り重なるように散在している。故意に破壊しない限りこの様な壊れ方はしないであろうし、この無秩序な散在の仕方は墳墓に埋められる俑とは異なり、悪意を持って捨てられたに違いない。一号坑(写真11.3–2-8、11.3–2-9)に比較して二号坑(写真11.3–2-5、11.3–2-6)の方が沢山の青銅器の断片が折り重なって捨てられている。

 二号坑は深さ方向が三層に分かれていて、最上層には象牙が坑全面を覆う様に敷き詰められ、その下に大型の青銅製器物、立人像、人頭像、や尊、罍(ライ)などが置かれ、最下層には、小型の青銅製の部品や樹木。玉石器、子安貝が大量の草木の灰と共に投げ込まれていた、とのことである。

 一方、一号坑には、純金を打ち延ばしたもので、長さ143cm、重さ463grの杖があった。杖には精巧な模様が形成されているらしいが、写真に撮ったものには模様はなく、単なるひん曲がった青銅製ではない棒で、面白くない。模造品ということは分かるが、もう少し、らしさ が欲しいものだ。出土された時の状況は、『約4.5m×3.4m、深さ1.5mの坑で、異物の大部分は坑の南半分に集中し、北半部には少なかった。・・・・・。玉石器や黄金の杖に続いて、人頭像や罍(ライ),尊などの大型の青銅器を投入し、次に焼けた動物の骨滓を入れ、最後に土器などを投じたものと推測される。』と朝日新聞社版 「三星碓」に記載されている。

 三星碓に関する更に詳細な紹介は割愛するが、今回遺跡のある地に立って(写真11.3–2-7、11.3–2-10)、本著の読み進みが早くなったように感じる。

 本稿の最初に、博物館に向かう二通りの道があることを記したが、近い方の道を使って20分ほどで博物館入り口(写真11.3–3-1)に到着した。入館して最初に目に入ったのは「蜀世系表」と書かれたポスター(写真11.3–3-4)である。

 ここで、中国の古代文化について年代別、地域別に整理してみる。
【紀元前8000年以前】
 黄河(−)、長江上流(−)中流(玉蟾岩遺跡、仙人洞・呂桶環 遺跡)、下流(−)、
【紀元前7000年〜】
 黄河(−)、長江上流(−)中流(彭頭山文化)、下流(−)、
【紀元前6000年〜】
 黄河(−)、長江上流(−)中流(湯家崗文化、城背渓文化)、 下流(−)、
【紀元前5000年〜】
 黄河(仰韶文化)、長江上流(−)中流(湯家崗文化、城背渓文 化)、下流(馬家浜文化)、【紀元前4000年〜】
 黄河(仰韶文化)、長江上流(−)中流(大渓文化)、下流(ッ 沢文化)、
【紀元前3000年〜】
 黄河(仰韶文化)、長江上流(宝墩遺跡(龍馬古城))中流(屈 家嶺文化)、下流(良渚文化)、
【紀元前2000年〜】
 黄河(二里頭文化(夏?)⇒二里岡文化(殷遷都前)⇒殷遷都  後)、長江上流(三星堆遺跡)中流(石家河文化⇒二里頭文化(夏?)⇒二里岡文化(殷遷都前)⇒殷、呉城文化)、下流(馬橋 文化⇒湖熟文化)、
 そして、周へと続く。

 以上(Wikipedia参照)の内、長江上流の地域に栄えた文化を総称して古蜀文明あるいは四川文明と呼ばれていて、具体的には宝墩遺跡と三星堆遺跡、および金沙・十二橋文化(BC1200〜500年、商後期〜春秋後期)、晩期蜀文化(BC500〜316年、春秋晩期〜戦国期)を指している。

 四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていたから、あえて文明という呼び方をしている。そして、三星堆遺跡から出土した青銅縦目仮面(中国語名:青铜纵目面具)が蚕叢の記述に合致したことから、古蜀が現実に存在したと考えられるようになった。

 その文明を担った古蜀王朝は、蚕陵⇒柏灌⇒魚烏⇒杜宇⇒開明氏の各世代によって受け継がれた(写真11.3–3-4)のであった。ポスターには各世代に該当する遺跡の写真や記紀も示されていて、現実味が確かにある。

 以降は三星碓遺跡からの出土品の内、玉や陶器などである。この内、陶器は構造、模様などによって類別されている。三星碓第二期と三星碓第三期における豆、盆、罐、盉、瓮、器柄など(写真11.3–3-5)である。これらのうち盉と器柄は他と異なり、360度回転対称構造を持っていない複雑な肉厚構造である。また展示されているこの時期の出土品のほとんどが。壊れていて石膏で修復されていた。

 そして、次にはこれら陶器の表面に彫られた図柄をポスター展示していた(写真11.3–3-6)。7つの符号があるが、これらの意味はよくわからないが、古蜀文字の原型か?とコメントされていた。

 次の写真は大きな盉(酒を入れる容器)とそれを囲む様に同じ形をした杯が展示されていた(写真11.3–3-7)。この盉には注ぎ口と取っ手がついていて、前記したいくつかの符号が彫られている。

 次の展示品(写真11.3–3-8)は虎の牙で、装飾に使われたものらしい。端部に小穴があいているので、紐を通し、身につけ、強さの象徴としたのであろう。それにしても妖色である。

 そして次の写真は(写真11.3–3-9)は陶三足炊器で下半分は盉と同じ形をしていて、上半分には皿と容器が乗っている調理用具である。三足の間から火をあて煮炊きや炙りをしたのであろうが、どのような食べ物を調理したのだろうか。

 他にも多くの写真を撮ったが、紙面の都合上割愛して、使われた道具や陶器以外の出土品のいくつかの写真を示す。陶器以外の材料と言えば石材である。その代表的なものは玉である。玉は陶器に比較して圧倒的に硬いので加工が大変であるがひとたび加工できてしまえば、耐熱性、耐衝撃、鋭利性を実現できるし、うまく加工できれば装飾性も確保できる。j(ソウ)、瑗(エン)、戈(カ)、管(カン)はそれらの特徴を生かした器物である。

 先ずは大きな玉石から板状やブロック状に加工することが必要であるが、その加工の痕跡を残した大きな玉石原石の展示(写真11.3–3-10)であった。加工方法は、現代の装置でいえばワイヤソーである。容易には断線しない糸または紐に油に溶いた研磨粉をまぶし、その糸または紐を左右に何度も往復させて、切り溝を垂直方向に深めてゆく工法である。

 筆者もかつて電子セラミクスの裁断に用いた経験があるが、切り溝を前後方向にも入れてゆく必要性があったため、ダイシングソーという回転型の刃を用いる加工装置に変更した経験を持っている。

 先ずは玉j(写真11.3–3-11)である。高さ7.2cm、口径7.1cmの玉製品で、それほど大きなものではない。祭祀用に使われた玉器で、多くは軟玉から作られた。「軟玉とはネフライト(nephrite)、透閃石-緑閃石系角閃石、化学式Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2で表されるようにCa、Mg、Feを主成分とする鉱物からなる、黄緑、茶色は鉄イオンの色である。

 外形は方柱状で、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており、jは天地の結合のシンボルであると一般に考えられている。」とWikipediaに記載されている。

 次の玉器は玉璋(写真11.3–3-12)である。木材や土器などを削るときに使われた工具であろう。玉璋は三星堆独特の型式である、先端が戈のように尖ったタイプの玉璋を原型とし、さらにその先端部に透かし彫りで鳥が飾られた精緻な玉璋など多彩であるが、写真のは、この玉璋の両面には刻線で玉璋の図像が描かれており、三星堆出土の玉璋のなかでも非常に珍しいものである。

 描かれた玉璋には、実物の玉璋にもあけられる孔が実際にあけられており、造形的にも興味深い。三星堆の社会では、玉璋は重要な役割を担っていたと推測されるが、実物の玉璋のなかにさらに玉璋を描きこんで、その力を倍加しようとするかのような玉璋の存在は、三星堆の人々の玉璋への特別な思いを示すものといえよう。

 次の写真は玉管(写真11.3–3-13)で、言わずと知れた装身具である。祭祀に携わった人々の腕や足首に飾ったものであろう。これらのほとんどが紐を通す構造になっているが、紐通し孔をどの様にして穿けたか興味ある謎である。

 錐を用いてドリルの様にして孔をあけたことは確からしいが、玉よりも硬い錐材が当時あったのだろうか。Wikipediaに、日本の縄文時代の管玉の場合だが、穿孔の方法について三つの方法があると紹介している。日本にある玉造という地名は穿孔の技術も持っている技術者がいた地域ということで地名が残っているのだそうだ。更に、ドリルの回転の際には摩擦材として硬く微細な砂をまくなどの工夫が施された。
以上本稿前編 完  本稿後編へ続く








2016/12/08 16:43:05|旅日記
◆D2(11/2=水)楽山市まで専用車で約3時間40分の移動、午後楽山大仏観光

◆D2(11/2=水)楽山市まで専用車で約3時間40分の移動、午後楽山大仏観光

朝食は駱さんに部屋のドアをノックしてもらって、食堂まで一緒に向かうことになっていた。10分ほどフライイングしたので、客は皆無だったが、バイキング風の朝食を味合うことになった。山椒や香辛料を多用する土地柄、ホテルの朝食が口に合うか心配だったが、思いのほか癖の無い、おいしい料理(写真11.2-1-1)であった。

 部屋に戻り、窓外の景色(写真11.2-1-2)を眺めると、高層ビルと、その後ろかなたに山並みが見える。重慶市は、かつて山城市と言われるほど山に囲まれた地域なのだそうだ。

 8:45蒋さんの車(車種は聞き忘れたが日産車)に乗りこむ。D2の始まりである。乗り込む前に、今回の旅のスルー運転手の蒋さんに手土産を渡した。むろん左ハンドルであり、助手席に駱さん。後部座席右に自分が座った(写真11.2-1-3)。道路は少し靄がかかっている様だ。これが一般的なこの辺りの空模様らしい。高速道路G85をまっしぐら。

 重慶を出発して約一時間後、最初の休憩をとるためにサービスエリアに入り一服することになった。エリアからすぐ傍に野菜畑(写真11.2-1-4)が見えた。ところどころにため池が見える。なので、これを水田というのだそうだ。

 水田というと野菜の水耕栽培を連想するが、そうではないのであり、野菜が植えられているのは水泥田ではなく赤土である。日本で見られる赤土に比べ赤が濃い。赤の正体は鉄分であり、この鉄分が野菜に吸収され、それを人が食すれば、酸欠とは無縁のヘモグロビンを形成し、酸素量たっぷりの健康人が出来るのであろうか。

 サービスエリアの上空は、雲が垂れ下がり、薄暗い。平日ということでもあり、駐車している車も少ない(写真11.2-1-5)。

 再び車中に戻ると、駱さんから柚を手渡された。無論、日本の柚とは全く異なり、巨大サイズのグレープ・フルーツ(ルビー)である。一年前の貴州省観光で高鐵(新幹線)で初めて食し、以来病みつきになったのだ。

 日本には持ち込めないので、せめて種でもと、今回は食する前に種を回収しようと考えていたのだ。長さ11cmの携帯がすっぽりおさまってしまい(写真11.2-1-6)、その2倍近くの直径20cmである。ちょうど今が旬であり、中国のどこに行っても販売されているのだそうだ。

 これが何故日本に輸入されないのか不思議だが、安価な上、食感が良いので、日本のグレープ・フルーツ栽培農家に打撃を与えること間違いない。この種をプロ並みの野菜、果物栽培をしている友人に発芽できるか頼んでみうという計画を旅行前から計画していたので、丹念に食前に種の回収を試みた。

 そして、重慶を出発して約3時間後に2回目の休憩である。Rongxian Service Area(長山)と案内板(写真11.2-1-7)にあり、これを見ると、2つほど前の自貢パーキング・エリアは自貢市にあり、種々の名勝地があり、かつては中国一の良質の塩が取れ、これで設けた富裕な商人が多かったらしい。

 長山パーキング・エリアを後にして、楽山市を目指した。車窓から見える高速道路沿いの景色で、繰り返し現れるのは、まるでお辞儀をしている様な高さのある竹の木(写真11.2-1-8)である。高さのある竹の先端近くで垂れる様に枝垂れていて、いかにも高速道路を通行する車に、「ようこそ、いらっしゃいませ。」と挨拶しているかの様に枝垂れているのである。

 間もなく(現地時間:12:50頃)、楽山市に入り楽山大仏観光地域に入った。楽山大仏観光をする前に、先ずは腹ごしらえである。最初に覗いた店は、駱さんの見立てでは不可で、良い店を探すことにした。自分には可、不可の見極めはつかないが、プロのガイドの駱さんには分かるのだろう。またもや、「ワンタンを食べたい。」と駄々をこねたことが不可の理由になったわけでないことは明白だった。

 そして今度は可と見なしたのだろう。店の目でワンタンの皮にひき肉を詰めるデモをしている(写真11.2-2-1)店があったので、その店の前の野天のテーブルに腰をおろした。まもなく隣の空席には中高年の女性グループが座り、談笑を始めた。

 客の循環が良い=サービスも味も良い、ということで、先ほどの店に比べ格段によさそうなことが自分にもわかった。店の前には肉まんとそれを蒸すセイロが置かれていて(写真11.2-2-2)、寒ければすぐにでも手が伸びそうである。

 そして、予定通りワンタンと豆腐牛肉料理を駱さんと共に食した。通常は、汁に山椒もトウガラシも入れるのだろうが自分の分は共に抜いてもらった(写真11.2-2-3)。味は極上であった。

 時刻は、13:00、いよいよ楽山大仏見学である。まもなく観光案内板(写真11.2-2-4)が見えた。嬉しいことに中国語、英語の他、日本語が書かれた案内板である。それを見ると、今いるところが、長江の支流岷江の南岸に位置している様である。同じ側にある船着き場から観光船に乗り、水上から大仏を拝すことになる。

 観光船に乗って暫くすると、河の東のかなたに楽山市の市街地(写真11.2-2-5)が臨めた。先ほどの案内板には300mとあったが、もっとあるように感じた。船にはライフベストを付けた人で混雑し、殆どの人が甲板の上に上がりカメラを構えている。

 そして、更に進むと三つの島というより岬だろうか、その並び方が、釈迦の涅槃の姿に似ていると言い出した人がいて、その人は、よくぞうまいこと言い当てた、ということで、賞金20万元(約300万円)をもらった、と現地ガイドの さんが説明してくれた。この現地ガイドさんは、なんとなく中国人らしくない面構えだ。少数民族かもしれないが快活さを感じた(写真11.2-2-6)。

そして、間もなく、少しオーバーランした位置になり、赤砂岩に彫られた巨大な大仏の姿が隠れてしまったが(写真11.2-2-7)、その右側の赤砂岩壁彫刻が見えた。赤砂岩に彫られた像の造形が印象的であった。

 楽山大仏の見学の仕方は二通りあり、一つは自分たちがしている様に、岷江の川面に浮かんだ観光船から見学する方法。もう一つは、河岸に沿って歩き、陸から大仏脇の石段を登りながら横顔を拝す見学の仕方である。

『楽山大仏(写真11.2-2-9)は峨眉山地域内の長江の支流、岷江(びん-こう)、大渡河、青衣江が合流する地点にある。
近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像である[1]。顔(写真11.2-2-10)は100畳分、岩山を掘り、90年かけて造られた。高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍にも及ぶ。当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られた。

 楽山大仏は、後述の韋皐(い-こう)が編ませた『嘉州凌雲寺大像記』の伝えるところによれば、開元元年(713年)、楽山周辺では塩が大量に取れ、年間の生産高は現在の価格に換算すると1千億円以上でその成功を仏様に感謝したいという気運が高まったことと、当時頻繁に起こっていた塩を運ぶ大動脈である岷江の水害を大仏の力で治めてもらおうという願いから、僧の海通が民衆の布施の下に寺院・凌雲寺に隣接する崖に石像を彫り始めた。

 天宝2年(743年)、海通は大仏が完成する前に亡くなったが、剣南西川節度使であった韋皐が建設を受け継ぎ貞元19年(803年)に完成した。 川の合流地点に工事で出た大量の土砂を投入することにより、川底が浅くなり、海通の意図通りに水害は大幅に減ることとなった。

 完成当時、大仏は「大仏像閣」と称する13層の木造の建造物に覆われ、法衣には金箔、胴には朱色が塗られていた。 さらに、湧水を外に逃がすための排水溝、そして雨水を効率よく逃す溝が掘られていた。 しかし、明代末期に建物は焼失、大仏も風雨に晒されて色が落ち、雑草に覆われていった。』とWikipediaに紹介されている。』と、Wikipediaに紹介されている。

 更に寸法をつけ加えると、肩幅 28.0m、中指(写真11.2-2-8)の長さ 8.3m、脚の長さ 10.5m、眼(写真11.2-2-11)の大きさは7mといづれも巨大である。目に入った巨大な大仏の横の階段から見学している人々が米粒の様に小さく見えた。川の色は、赤砂岩の影響でか緑に乳白色を混合した様な色を呈していた(写真11.2-2-12)。

 水上からの楽山大仏の見学が終り、岸に戻り、東の方向に歩いて行く。目指すは楽山博物館である。道路は蛇が乗っかった様な、しかもいろいろな形状の孔の開いた塀壁を右手に配した赤茶に彩色された舗装道路(写真11.2-3-1)を行く。途中キノコが切り株に生えた榕樹(写真11.2-3-2)が目に入った。キノコの生え方が山水画の様で眼を奪われた。

 先ほどの塀壁の隣には幅広の道路があり、更に先に進むと、その幅広の道路を跨ぐように建っている巨大な赤砂岩製で複雑な彫刻が施された門(写真11.2-3-3)が現れた。通り過ぎて振り返ると、門には、「弥勒世界」、「龍厳国土」の二語が掲げられていた。後者は意味が全く分からない。

 そして、楽山博物館(写真11.2-3-4)に着いた。赤砂岩色の立派な建物であった。建物の前の広場の際にブーゲンビリアの赤い花(写真11.2-3-5)が咲いていた。

 最初に目に入ったのは、赤砂岩の岸壁と、岩肌のところどころに生えたシダの様な草であった。はじめは人工的に造られた造形かと思っていたが、接近して観ると自然の岸壁(写真11.2-3-6)を博物館の壁としてはめ込んでいることが分かった。降雨時の防水は問題ないのだろうかと気になったが、赤砂岩の岩肌を利用しているので問題ないのだろう。

 早速、陳列館へ足を運んだ。他の入館者は一人もいなかった。最初に目に入ったのは、「成世南安」というタイトルの楽山市の地史であり、『現在の楽山市区は漢の時代には南安と呼ばれ.蜀の中でも経済、文化が最も栄えた地区の一つであった。・・・、楽山には、漢代、崖に造られた墓は規模が大きく、数も多かった。出土された文物は、精美であり、全中国でも最前列に挙げられるものであり、人々の裕福で多彩な生活がおくられていたことが伺われる。』とあった。

 そして、陳列品で最初に目に入ったのは、二階建ての建物の副葬品(写真11.2-3-7)であり、被埋葬者が死後も住まいに困ることなく生活できるように、との願望が見える。絢爛豪華な住居というより、静かに安穏に暮らせる住まいという感じである。

 そして、次は、白磁に青い花が描かれた罐と呼ばれる蓋つき容器であった(写真11.2-3-8)。普通は罐は金属製の蓋つき容器で、湯を沸かすやかんなのだが陶磁器でも用は足せる。陶磁器であれば割れやすいが、色彩豊かな模様をつけることができ装飾品としての価値も上がる。

 そして、白磁椀(写真11.2-3-9)等の陶磁器が続き、次に彩釉陶女侍俑(写真11.2-3-10)で、青色釉が施され、唐三彩を連想させる俑である。全員が同じユニフォームを着て、髪型もそろっている。手にしたものはぞれぞれ異なるが、いずれも身の周りの世話に必要な用具を持っていて、何不自由のない生活が死後においてもできることを願望したもので、全員が同じ台座に乗っている。

 以上が屋内での何不自由のない生活を願望したものとすれば、次は、彩釉陶侍俑(写真11.2-3-11)で、屋外の生活に侍る人物俑であり、こちらは全員が帽子を被り、手には何も持っていない。全員が同じ台座に乗っているのは同じである。他にも多くの陳列品が展示されていたが、紙面の都合で割愛する。

 次に向かったのはホテルのある街なかであり、10分程度の処に赤れんが造りの城壁が現れた。城壁の近くに親子で将棋をしているブロンズ像(写真11.2-4-1)があった。近くに母親らしき恰幅の良い女性がにこやかに見守っている。家族の理想的な在り方を描いている様だ。

 更に20分ほど歩いたところに、露店や屋台の食堂が現れた。野菜を売っている露店が延々と続く(写真11.2-4-2)。売られているのは、白菜、チンゲン菜、キウリ、キャベツ、とうがらし、ナスなどで、なんでも揃っている。街路樹は、どこも榕樹(写真11.2-4-3)であり、根っこ以外にも独特の風情がある。

 街なかには雀荘(写真11.2-4-4)もあった。雀卓が3、4台あり、中高年の客ばかりで、女性が半数以上である。民家での麻雀は紙麻雀を見かけるが、さすが雀荘、使われているのは皆、れっきとした雀牌である。

 そして、当然あるべき露店の果物屋(写真11.2-4-5)が現れた。旬の柚(ゆず)、といっても日本で言う柚とはまるで異なり、巨大グレープ・フルーツと言う方が当たっている。特にルビーは乙な味で、すっかり気に入ってしまった。それを知ったガイドの駱さんは、この旅行中絶え間なく、この果物を買い続けてくれる。

 その日の観光予定をすべて終え、ホテル(尚錦翡翠ホテル)に16:30頃チェックイン(写真11.2-4-6)できた。ホテルの部屋(写真11.2-4-7)をチェックし、荷物を置いて、暫く休んでから、夕食を摂りに外へ出た。

 部屋は特別なベッドメイクで歓迎ムードを演出している。トンボと菊(?)の花がタオルを用いて造形されている。このような宿泊者への歓迎は初めてであった。

 食べたい料理はワンタンと決めているので、駱さんはウェブ情報から、該当する店を定めていると見え、躊躇なく決めた方向に歩を向けることが出来た。

 ホテル前の広場(写真11.2-4-8)には車が2台のみで閑散としているが、それが、落ち着いた街の雰囲気を醸し出していた。まだ現地時間17:00前なので空は明るい。振り返りホテル正面の写真(写真11.2-4-9)を撮った。

 なんとホテルの名称に翡翠(カワセミ)の文字がある。無論、バードウォッチングという文化が無い中国においては、宝石の翡翠(ヒスイ)のことである。最近、自宅からのウォーキングで入間川沿いをカメラを持って歩いているが、目的は川沿いに棲息する翡翠(カワセミ)の写真をとることであり、なんとなく縁を感じた。

 そして歩いているうちに目指す料理店に到着した。店内に入ると、壁面にこの店の看板料理の簡単な説明がき(写真11.2-4-10)がされているのが目に入った。そして出てきたのは、たっぷり野菜ワンタン(写真11.2-4-11) であった。ワンタンの具がキャベツに隠れてしまっている。

 これでは味が薄すぎると思ったのか、トウガラシや山椒の混じった香辛料をつけてもらい、それと看板料理の肉料理と、こんにゃくレバーのようなものが出てきた。

 こういう自慢料理のある店に入って看板料理を食さないというのはいかがなものか、と駱さんは思ったのであろう。賛成である。さすがに、こんにゃくレバーは口に合わなかったが、その他の料理はおいしかった。

 そのレストランを出て、ホテル前まで来たら、多くの人が、ダンスをし、歌を歌い、リズム感のある大音声とライトアップが交錯し、賑やかだった。川の方を少し歩いてみよう、ということになり、喧騒の一角とホテルの前を通り過ぎて、岷江に架かる橋の方に向かった。

 橋(写真11.2-4-12)は、カラフルにライトアップされてきれいであった。その割には橋を渡る人も、通行する車も少ない。橋を端から端まで往復し、帰途についたが、橋ではない街路を店舗らしい家屋一軒一軒にライトアップ(写真11.2-4-13)が施され、魅惑的だった。しかし、舗装された歩道には人影が殆ど見かけられなかった。ホテルもしっかり光の化粧をしていた(写真11.2-4-14)。
     D2 完  D3につづく







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