槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2018/04/05 21:53:00|旅日記
「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」 D4: 9/6(水)泰安⇒淄博(斉国故城遺跡博物館)

「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」
D4: 9/6(水)泰安⇒淄博(斉国故城遺跡博物館) <淄博泊>
宿泊:淄博二五七軍興大酒店:淄博市張店区人民西路(市人民政府側)

 春秋戦国時代の「斉」の都「臨湽」は、今の淄博市臨淄区になる。

 斉は、太公望の名で親しまれる姜太公が起こした国、春秋時代初の覇者となった桓公、桓公を助けた菅仲と鮑叔牙、名宰相晏嬰、田氏斉の時代の孟嘗君、秦に最後まで抵抗した田横などが有名。

 途中姜斉から田斉に主が変わったが、秦に滅ぼされるまで約800年続いた国で、宮城谷晃光著の小説「太公望」、「春秋の名君」、「管仲」、「晏子」、「孟嘗君」、「香乱記」に描かれている舞台となった地である。

 自分のブログのタイトル「槐の気持ち」も辿ってゆくと、最初に「孟嘗君」があると思っている。また釣り人の代名詞として使われる「太公望」が中国歴史上で春秋戦国時代の基礎を作り上げた人物ということ、また太公望にとっての釣りの目的を知り、目の前が開けた感じがしたことがある。

 更には“管鮑の交わり”という言葉は知っていたが、管仲と鮑叔の見事な協力体制、協力するとはこういうことかと参考になった。
 
 また晏子は孔子の斉での仕官に反対した人物ということ、その晏子を孔子は妬むどころか尊崇の念をもっていたということも聞いたことがあり、もし晏子が居なくてすんなり斉に仕官出来ていたら、あるいは、孔子が一目おく晏子の反対がなく、すんなり仕官出来ていたら、孔子の存在はなかったかも知れない、と思わざるを得ない。

 それらの人物が闊歩した地が斉であり、その都の臨淄、即ち今の淄博市臨淄区になるのである。まさか、宮城谷昌光の小説に頻繁に登場するこの地に来られるとは夢にも思わなかった。
 
 泰安市のホテル、泰安錦華之星精を出発したのは、8:30頃であった。最初に眼に飛び込んだのはホテルとその背景に浮かぶ泰山であった(写真9/6-1-1)。駱さんが、泰山と言っていたが、自信をもった言い方ではなかった。曇天で、乳白色のベールに霞んでいたので断定はできなかったのだろう。あるいは泰山は連山の一つで、前日に連山の他の山の可能性もあると思ったのかも知れない。

 そして街路には黄色い花が満開の灤樹(ランジュ)(写真9/6-1-2)があった、この樹は以前河北省の邯鄲で目にしたこともあったが、名前は分からず、どちらかというと黄河より北に育つ樹かと思っていたのである。

 ちょうどこの時期、黄色い花が紫色の実に変わりつつある(写真9/6-1-3)時期なのだろう。かと思うと、完璧に紫色の実に変身している灤樹(写真9/6-1-4)もあった。

 そして高速道路を使って、淄博まで移動である。天気は良くなく、今にも一雨来そうな気配であった。道路は時々濡れているので、つい先ほどまで降っていたのかも知れない。車のフロントガラス下の白蓮の置物(写真9/6-1-5)が洒落ているだけでなく機能的にもブラブラ感がなく、運転視界に入ることが無いので安全運転にもつながる。
 
 高速道路を走っていて、眼に映り、気になるのは送電線とその櫓(写真9/6-1-6)である。電力の送電相手として大電力を食う工場が沢山あるのかも知れない。山東省の産業は、第1・2・3次産業とも全国3位内となっている。

 工業も発展しており、第二次産業の増加値は広東省、江蘇省に次いで全国第3位。白物などで世界トップクラスの売上高を維持している海爾集団(ハイアール・グループ)が同省(青島市)に本拠地を置くなど、大型企業も多い。とのことなので、やはり電力消費量が多いのだろう。

 そして、正午少し前に淄博市に着いた。駱さんはキョロキョロと車の窓の外を見つめて何かを探しているようである。あとで分かったのだが、昼食を摂るためのレストランを探していたのである。

 結果としてその店が見つかり、入ってみたら、かなりアンティークな店であり内装も凝っている(写真9/6-1-8)。入ってみると、まだ時間が早いのだろう、客は少なく、閑散としているが、店内の装飾品、調度品はかなり凝っている。

 料理の具材は客が好みに応じて選択する様になっている。その選択肢になる具材が陳列してある(写真9/6-1-7、写真9/6-1-10)。

 店内は清潔感があり、料理や食材の選択肢も多い。日本人好みの落ち着いた雰囲気の店(写真9/6-1-9)である。きっと、自分の好みに合わせて駱さんがスマホを駆使して事前に探し出してくれたのであろう。駱さんに感謝である。しかしこれほど選択肢が多いと目移りして自分では決められなくなる。従って駱さんに一任である。

 その結果が、そばと言うよりイタリアン・ヌードルと言った方がよさそうな麺類と、トマト(写真9/6-1-11)、そしてナスのあんかけ炒め(写真9/6-1-13)であり、もともとチンジャオロースが好みの自分にとって自然な流れの選択と言えた。

 テーブルに置いてあったティッシューボックスには“斉都古鎮” (写真9/6-1-12)とあったが、これが店の屋号なのだろう。

 そして、この店を後にして、更に車の車窓から、“斉都故城遺祉博物館”と表示された門(写真9/6-2-1)が目に入ったが、“斉都故城遺祉博物館入り口”といった感じで、“斉都故城遺祉博物館”はまだ車で先の様だった。

 途中車窓から歴史の古い風食された地形(写真9/6-2-2)や草地(写真9/6-2-3)が見えた。しかし目標の博物館は尚も見えない(写真9/6-2-4)。はやる気持ちを宥めてくれたのが車内の白蓮の置物(写真9/6-2-5)だった。

 博物館入り口から車で約20分後に広大な博物館が現れた。時刻はPM1:30頃であるのに、観覧客の姿は殆ど見られない。

 駱さんが入場券を買いに行っている間、館入り口にある博物館案内を眺めていた。すると、斉都文化城(写真9/6-2-)のメインのパビリオンは「足玉博物館(サッカー博物館)」と「斉都博物館」が併存しているのには驚いた。

 異色の組み合わせである。日本ではまずありえない配置である。その他にも、十七ほどの小さなテーマ館がある(写真9/6-2-7、写真9/6-2-)。

 最も中核的パビリオンはなんと言っても「斉故城考古遺址公園」であろう。
「この城には城門が13もあり、道路が縦横に交錯し、用水、排水、防禦システムがよく整えられており、遺址もたくさんあり、製鉄、製鋼、貨幣の鋳造など数多くの作業場跡が発見されている。

 小さな城は大きな城の南西の隅にあり、君主の住んでいたところで、宮城ともいい、その北東の隅では大きな城の南西隅へと伸びており、南北方向の長さは2キロ、東西方向の幅は1.5キロ。

 大きな城では春秋時代の斉国の君主の墓が2カ所発見されており、なかでも、中国の建国後における重要な考古学的発見の一つである殉馬坑は、斉国の25代目の君主斉景公の墓で、副葬として馬が600匹以上も葬られ、「東方の奇観」といわれている。」と「考古用語辞典abc0120」なるウェブに丁寧に紹介されている。

 入館して最初に目に入るのは、壁面に飾られた巨大な木製と思われるレリーフ(写真9/6-2-)であった。板の表面が凹凸加工され、斉王朝の王室の様子が細々と描かれている。その上から防腐のために漆が施されているようで、茶色く染まっている。近くに寄ってみないと、何が描かれているかすぐには分からなかった。

 後でデジカメ写真を拡大したり、明るさを変えてみると、その絵が見えてくる。斉の王朝の様子が天から地まで層状に描かれていて、各層には王を取り巻く宰相や家臣の姿が生き生きと描かれている。

 天には鶴が舞い、地上から少し離れた上の層の中央に斎王が陣取り、斎王には仏像の様な丸い光背があり、日輪を表して、この世の最上の存在を表しているのだろう。その少し低い層には宰相と思われる人物がいる。

 これが斉の桓公であれば、その宰相は管仲か、また管仲と反対側に控える人物は鮑叔だろうか、などと宮城谷昌光著の「管仲」を想い出したりした。

 そして、管内に入り陳列室に歩を進め最初に目に入ったのは、青銅性の王の行幸の様子を表したとみられる。日除け傘を備えた馬車に乗り。王と随行者が乗っている銅像(写真9/6-2-10)である。曲阜の孔子メモリアルパークで見た構図と似ているが、孔子像の様な逼迫感は感じられない。行幸ではなく野駆けかも知れない。

 これからが本番である。最初は斉の旧石器時代の遺物の様で、この地の原始時代の発掘品の様である。恐竜の顎骨と歯の断片と卵のような陳列品(写真9/6-2-1)である。その時代の人々の生活の様子の想像図がパネルに描かれていた(写真9/6-2-12、写真9/6-2-1)。

 次に現れたのは、発掘されたときは陶片だったものを、半分以上の面積が白い石膏で修復した単純な形の壺型陶器で、近くのパネルには後李文化とある(写真9/6-2-1)。

後李文化(こうり-ぶんか)とは山東省黄河下流域を中心に紀元前6500年頃 - 紀元前5500年頃にかけて存在した新石器時代の文化のことで、同じく山東省で見つかる北辛文化へと引き継がれていった、とwikipediaに紹介されている。

 また、これまで訪問したことのある河姆渡遺跡(長江文明)よりも1500年ほど古い。後李文化よりも更に古い新石器時代の文化は、黄河中流域河南省にある裴李岗文(BC7000年〜BC5000年)と、ほぼ同時期に栄えた長江中流域湖南省に起こった彭頭山文化BC7500年頃〜BC6100年頃)だけなので、新石器時代としては三番目の古さとなる、とwikipediaに表記されている。

 そして、次に現れたのは、穴あき飾りであり、円板の土器の中心に径の大きな円形穴の開いたもの、瑪瑙でできた腕輪の様な装飾品は穴の径が外径に近いリング状、穿孔のある円柱状の飾りが穴あけの差異ごとに比較展示されている(写真9/6-2-1)。

 円柱状の瑪瑙や壁、水晶に細い穴をあける装飾品はどこの文化にもあるが、最初にその技術を開発した古代人はすごいと思わざるを得ない。レンジ魂はすでにこの頃にあったのだろう。これこそモノづくりを発展させる精神と言えよう。

 次に現れたのは大漢口文化と書かれたパネルと、いくつかの陶器または土器である(写真9/6-2-1)。大漢口文化とは、维基百科,自由的百科全书によると、6300-4500年前頃に山東省中部をはじめとした黄河下流域と江蘇北部地域や、西は河南、東は渤海、南は淮北、安徽北に広く分布して栄えた文化の様であるが世界史的に認証された文化かどうかは分からない。
 
 そして隣に展示されているのが、「竜山文化」である。以前真偽はともかく、日本の備前焼のルーツは須恵器で百済、新羅、高句麗から物つくり技術が伝来し、さらに、その源流を訪ねると、竜山の黒陶文化に行き着くという説である。

 黄河流域の土には鉄が含まれ、水分を含んだこのあたりの粘土は成型し易く、乾燥すると非常に硬く、成型した後、形状が変形しにくい。古代、家の建材に用いられた日干し煉瓦は鉄分を含有することにより、建材として無くてはならない加工性と頑丈さを持てるようになる。
 
 写真9/6-2-17後列の四体は陶鸎(トウオウ)と呼ばれる酒具であり三本の脚で浮かせた三足土器である。下から火を浴びせる陶温器であり、温めると草木は柔らかくなり食べやすくなり、酒もうまくなるのだろう。
 
 同写真の前列は三体の黒陶磁器(写真9/6-2-17 前列)であり、陶磁器の肉厚は薄く、黒光りしていて、均整がとれた形をしている。竜山文化の多くは、泥と砂で作られた灰黒陶と、細かい泥で造られた黒光りする黒陶があると言われている。
 
 この博物館で「斉都文物」なる書籍を購入し、この稿を記す時の参考にしようと思ったが、黒陶文化が触れられているところは1ページも無かった。ウェブを調べると、この薄く黒光りした黒陶磁器は卵の殻のように薄いことから卵殻土器とも呼ばれるそうだ。

三体(写真9/6-2-18)のうちの2つは高足杯または高圏足盤と呼ばれるもの、左一体は壺であるが、具体的な名称は分からない。
 
 そして、やはり轆轤を使って成型し、酸化炎と還元炎との中間的な雰囲気で焼いたと思われる壺の形をした陶磁器(写真9/6-2-19)が表れた。肉厚も少し黒陶よりは厚いようだ。そして黒陶が再度現れた(写真9/6-2-21)。
 
 後列にある黒陶磁器4体は同じ構造、形状の三足磁器で少しづつサイズが異なる。そして前列の3体も同じ構造、形状(盆)で少しづつサイズが異なる黒陶列盆で。前列と後列の黒陶磁器に共通しているのは磁器破片を石膏でつなぎ合わせた三足磁器や盆が陳列されていた。
 
 そして次に現れたのは、三足磁器や、盆、壺、豆の容器ではなく、身に着ける装飾品であった(写真9/6-2-22)。写真9/6-2-14のコメントと重複するが、これらは身分の高い人達が生前または墳墓に合葬されるもので、材質は璧、瑪瑙、水晶の類でいずれも堅いもので、この様に真円に近い形状、糸を通す細孔を形成する技術は、容易には思いつかない。

 何か加工冶具がないと不可能という想いに至ってしまう。そんなことが出来るのは宇宙人に違いないと思ってしまうのである。
 
 リング状のものは用途が推測できるが中央に列状に陳烈された小型石鏟(小型のしゃべる)と右列に陳列された三体の石斧は何も表示されていないと何なのか想像もつかない。

 「斉都文物」によると、戦国時代に発掘されたものは更に表面が装飾彫り、透かし彫りされた加齢な玉器が登場する。竜山文化時代に比べ、戦国時代ともなると、身分の差が顕著になり、王家筋のものたちは競って玉石製の装身具を身に着けたり、死後は棺に合葬したのだろう。
 
 次に戦国時代をはるかに遡る商(殷)時代に臨淄近傍(山東省から河南省との境界に至る区域)で発掘された場所の分布を示す地図(写真9/6-2-23)が掲載されていた。

 その場所の数は重要なものだけで22箇所にものぼり、最も東よりには黄海沿岸に沿って、長島珍殊門、煙台芝水、また河南省との境界に近い地点では、滕州前掌大、斎寧風凰台、斎寧潘廟があり、河北省、河南省、江蘇省が隣接していることが改めて確認できた。
 
 次に現れたのは四体の三足磁器(黒陶)とその前に武器と思われる青銅製の戈(写真9/6-2-24)であった。
 
 更にそれ以降は時代が下り、青銅製のかなり凝った模様の農具などが墳墓から発掘されている。写真9/6-2-25は青銅製の鉞の刃の部分であるが、発掘経 緯が分からなければ。埋葬用の人面青銅器と思うほど凝っていて、特に外郭の形は均整が取れ、鉞の刃の部分の曲線は見事である。
 
 そして次に現れたのは、双竜把手簒(写真9/6-2-26)で、稲、粟(アワ)等の食料を煮炊きする食器具と前記の「斉都文物」に紹介されている。材質は青銅であり、表面の模様は、蝙蝠紋、菱竜紋、窃曲紋、風鳥紋などがある。この写真の青銅器には窃曲紋が模様付けられている。
 
 次の展示品(写真9/6-2-27)は、再び陶磁器であったが、黒陶ではなかった。壺に違いないが、鼎でも三足でもなく勿論平底でもない。そのまま立てて保管することは先ず不可能である。地面に突き刺して固定するのかも知れないがよく分からない。
 
 次は糸に括りつけられたおそらく。装身具(写真9/6-2-28)であろう。断片的なサイズであり、陶磁器製の様である。詳細は分からない。
 
 そして、続いて首飾り、または腕輪の様な陳列品(写真9/6-3-3)が目に入った。玉は陶磁器製で形も均一ではなく、いかにも手作りといった感じである。その無数の玉に穴があけられ糸が通してある。注目すべきは数珠の両端にホックが付いている点で、現代でも使われている構造である。
 
 次に、「六韜と太公軍事思想」と書かれたパネル(写真9/6-3-4)が表れた。以前から六韜三略という言葉が記憶にあったが、それと太公望との関りは全く知らなかったので、Wikipediaで調べてみると、

 「『六韜』(りくとう)は、中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。このうちの『三略』と併称される。「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味である。一巻に「文韜」「武韜」、二巻に「龍韜」「虎韜」、三巻に「豹韜」「犬韜」の60編から成り、全編が太公望呂尚がの文王・武王に兵学を指南する設定で構成されている。中でも「虎の巻(虎韜)」は、兵法の極意として慣用句にもなっている。」と紹介されている。
 
 虎だけではなく、龍、豹、犬と動物の名が使われているのも興味深い。内容自体は、それぞれ、
第一巻:「文韜」 - 戦を始めるに当たり、準備や政治問題の記述。「武韜」 - 政治的戦略についての記述。
第二巻:「龍韜」 - 作戦指揮や兵力配置などの記述。「虎韜」 - 平野部での戦略、武器の使用法についての記述。別名、虎の巻。
第三巻:「豹韜」 - 森林・山岳など地形に応じた戦略についての記述。「犬韜」 - 兵の訓練・
編成、兵種に応じた作戦の記述。
となっている。
 
 そして、次は、錆びた鉄製の容器の様にみえるが、「雨水冲出大銅盂」と呼ばれる青銅器(写真9/6-3-5)であり、雨水を貯める容器である。大きさは高さ43.4cm、口径62cm、重さ35.5kgと大きく重い。従って雨水が一杯になったときはかなりの重量なので、溜まった雨水を小さな椀か何かで掬って持ち運びするのであろう。
 
 次はパネル展示で何かを複数の人で作業している図(写真9/6-3-6)である。土を型枠を使って踏み固めては積み重ね、土塀の様なものを作っているのであろうか、高さは2.5m近くあり、型枠は長さが、やはり2.5mほどある。

 古代の家屋や屋敷づくりは何らかの寸法の基準を持っていたように推測される。寸法の単位を持っていないと、各戸バラバラで、ぎくしゃくした屋敷しかできないことになる。
 
 次は再び、青銅器で、左側が銅盤、右側が銅匜(写真9/6-3-7)であり、前者は水を容れる器、後者は水を灌ぐ容器の様だ。製法に関して「中国各地の遺跡から青銅器の鋳造に用いられた土型が見つかっており、土型鋳造であったことは確かだが、原型の製作方法、研磨方法など、製造工程の詳細については同時代の記録がないため、正確なことはわかっていない。」とWikipedia「中国青銅器」に紹介されている。写真9/6-3-8は銅盤と銅匜が使われている様子を示している。
 
「中国の青銅器時代は殷(紀元前1600年頃 - 紀元前1050年頃)から西周時代(紀元前1050年頃 - 紀元前771年)を経て、春秋時代(紀元前770年 - 紀元前453年/403年)まで継続し、春秋時代と次の戦国時代の交代期あたりに鉄器時代に入ったとみなされている。」のだそうだ。
 
 更に青銅器の展示が続く(写真9/6-3-9〜写真9/6-3-11)。そして青銅器の展示を中断するかの様に斉王(中央)と居並ぶ官吏、または諸侯の像(写真9/6-3-12)が現れた。そして再び青銅器の展示となる。
 
 時代は進み、斉の桓公、管仲が亡くなり、斉国は乱れ、5人の皇子による王位争奪戦(五子争位)が開始される時代に入る。春秋時代のさなか、BC500〜BC600頃の青銅器の名品が陳列されていた(写真9/6-3-13)。
 
 因みに、パネルに書かれた「五子争位」とは春秋五覇のことであろう。ところが五覇には定説がなく、いろいろな組み合わせがあるが、桓公と文公(重耳)、の二人は決まりだが他の三人が、楚の荘王であったり、秦の穆公であったり、の襄公であったり、王闔閭であったり、王勾践であったりする。さらには、晋の三公、呉王夫差も文献によっては候補に入っている。各文献に現れる五覇の組み合わせは、Wikipedia「春秋の五覇」参照されたい。
 
 この時代に活躍したこれらの登場人物は、宮城谷昌光著の小説に頻繁に登場して魅力的に描かれているが、とくに「管仲」と「重耳」は寝る間も惜しんで読みふけったことを思い出すし、今回の「山東省の旅」をしたいと思った動機付けになったことは確かである。
 
 さて、話を戻す。陳列品の青銅器であるが、鑑(かん)が三体(写真9/6-3-13)並んでいる。大型で深い水器。登場は他の器種より遅く、春秋時代中期から戦国時代に製作された。を入れて食物を冷やす、行水用などの用途があり、水鏡としても使われたという。水器の特徴は足がないことであろう。
 
 次に現れた蓋つきのはの球形をした容器であり、球形敦(タイ)と呼ばれる青銅器(写真9/6-3-14)である。敦(たい)は盛食器であり。球体を二分割して、それぞれを蓋と身とした形の容器で短い足がつく。

 この足が人形の形をしていることから人形足敦とも呼ばれる。他の器より遅く、春秋時代中期に現れ、戦国時代後期まで製作された、という歴史を持つ、とパネル(写真9/6-3-15)に説明されている。
 
次におなじみ銅鐘である。ただし甬鐘と言い、その各部位名称図がパネル(写真9/6-3-16)に紹介されている。そ

 の次のパネル(写真9/6-3-17)には、馬に手綱(たづな)をつけるため,馬の口にくわえさせる金具の馬銜(カン)や馬鑣(ヒョウ)や天子の馬車などにつける鈴である鑾鈴(ランレイ)、更に、車〇(車の下に日、車輪の構成金属部材?)の展示と図示説明がある。銜、鑣、鑾といずれも難解な漢字であるが、いずれも部首に金のついた文字なので金属部品であることが分かる。

 以上の様に馬具部品や甬鐘のパネルが唐突に出てきた印象を与えてしまっているが、この直前の展示に、車馬坑発掘現場の展示があり、馬の遺骸や車馬の一部の金具が大量に出土しているのである。馬の遺骸は発掘されたままの状態で、その、姿勢、向き、配置がきちんと配列されていて重量のある馬の死骸をこの様に配列させるだけでも大変だったと想像してしまう。

 そして発掘されたのは、車馬坑だけではなく、当時の権力者、例えば、大夫一族や商王の墳墓が発掘され、そこから夥しい数と種類の発掘品の出土があった、とりわけ目を引くのは、同じ意匠でサイズの異なる“編鐘(銅鐸)”(写真9/6-3-18、写真9/6-3-19)と“編磬”(写真9/6-3-20)と言った楽器の出土であり、形状、意匠は同じで、サイズのみ異なる。音色に合わせてサイズが異なるのだ。

 ともに8体でワンセットのようだ。写真9/6-3-19に示した銅鐘は3オクターブ以上の音色が聞こえそうだ。写真9/6-3-16には銅鐘の各部位の名称がパネル展示されている。

 その戦国時代の斉国に関する展示がつづく。

 タイトルが「戦国時代の斉」というパネル(写真9/6-3-21)が現れた。この中の概略的な説明は中国語の他、英語、日本語及びハングル語もあった。英語圏の欧米人、日本人や韓国人観光客の観覧を期待しているということである。

次に目に入ったのは銅豆(ドウトウ)(写真9/6-3-22)で、食物を載せる浅い皿を支える首の部分が、細い円柱ではなく、龍がその頭で支える構造となっていて、見事な意匠である。

 次に現れたのは「鳥首提梁壺」と言う名の青銅製の壺(写真9/6-3-23)で、戦国時代のものである。臨淄の商王墓から出土されたものは精美絶倫、琳琅満目と言われるだけあって、豪奢なものばかりである。

 次の写真9/6-3-24は韮頭壺で戦国時代のもので稷下街道商王村からの出土品とある。すなわち商王とは地名なのである。壺の頭部、すなわち口の部分に韮の花模様が施されている青銅器ということであろう。

 次の写真9/6-3-25は雁足灯と言う名の燭台で、これも稷下街道商王村からの出土品である。足の部分は欠けている。鳥の足と言うことは分かるが、鳥が雁ということは見た目には分からない。

 そして、次の写真9/6-3-26は青銅製の出土品の銅剣である。戦国時代と言えば合従連衡で戦争が繰り返され、武器として銅剣が大量に製造されたが発掘されたほとんどが長さ30cm足らずの短剣だったようだ。

 以上で青銅出土品展示はひとまず区切り、次の出土品からは陶土製の瓦当(写真9/6-3-26)や拓片の類である。瓦当(ガトウ)とは、軒円(のきまる)瓦の先端に付けられた円形部。軒平瓦の先端部をもさすことがある

 中国の戦国時代に半円形の半瓦当(写真9/6-3-28)が見られ,漢代に至って円形の瓦当(写真9/6-3-27)が出現する。瓦当に施された文様には饕餮(とうてつ)文,蕨手(わらびで)文,四葉文,蓮華(れんげ)文,獣面文,重圏文などがある。

 そして、写真9/6-3-29、写真9/6-3-30は装身具の首飾りや耳飾り、腕輪の類のようだ。実に精巧に作られている。金製の部分は失蜡法という当時では一般的な鋳造方法を用いているらしい。失蜡とは一種のLost Wax法と言えば分かり易い。

 写真9/6-3-31は玉製の装飾品であり、玉環または玉璧と呼ばれるものである。また写真9/6-3-32は夥しい数の法貨拓片と呼ばれる小さなナイフのような形状をした青銅製の通貨で大量に出土されている。

 斉では商業が発達し通貨として用いられていたようだ。刻み込まれた文様や金文文字は通貨の価値を区別するのであろうか。表裏には異なる文様や文字が刻み込まれている。

  写真9/6-3-33は、時代が一気に春秋時代早期に遡るが楽器とされているが、音階を奏でるものではなさそうである。鐘であって、時を告げるのに用いられたものかも知れない。山西省で発掘されたが、斉で作られた“素命鎛”と呼ばれる青銅器である。

 「斉都文物」には、この“素命鎛”の説明文の中に斉の桓公時代の宰相管仲と管鮑の交わりで有名な鮑叔牙の名前が載っている。

 そして次に目にしたのは、青銅製の牛の形をした酒器(写真9/6-4-1)である。「金銀錯鑲嵌戦国銅犢尊」と呼ばれるものである。

 写真9/6-4-2は馬と兵士の残骸の姿が、「火軍破燕軍」として描かれている。春秋時代の田斉時代、燕国との闘いで、夜中の暗い時に牛の尾っぽに松明をくくりつけ、その明るさと、しっぽの松明の熱さに怒り狂った牛が襲い掛かり、大勝を収めたという「史記」に記載されたエピソードを絵にしたものである。

 以上の話には燕斉の戦いに関する前後の話があり、以下のURLに詳しく紹介されている。

http://www.geocities.jp/shokatusei/DongZhou/21.html

 写真9/6-4-3は「秦皇東巡」、すなわち秦の始皇帝が威勢を示すために行った封禅の時、泰山等の現在の山東省を巡行した時に残した七刻石についての説明である。

 史記には七刻石とあるが、現存するのは、泰山刻石と瑯琊台刻石のみであるらしい。いずれも始皇帝の側近であった李斯の筆と言われるが定かではない。

 写真9/6-4-4写真9/6-4-5はそれぞれ、「嵌銀絲丙午帯鈎」、「〇〇〇〇」と呼ばれる漢代の装身具である。

 既に、写真9/6-3-32に法貨拓片なる通貨を紹介しているが、通貨ともなれば同じ形状、図柄のものを大量に製造する必要がある。その方法として同じ鋳型に溶けた金属材料を注型する必要がある。即ち溶けた金属材料を注型するための耐熱容器が必要になる。熱いので取っ手と注ぎ口が必要である。

 写真9/6-4-6はその様な容器、漏斗である。この漏斗の材料の融点は通貨の金属材料のそれより高い必要がある。まだ鉄器が普及していないこの時代、この漏斗がどの様に作られたか興味のあるところだ。

 写真9/6-4-7写真9/6-4-8は、ともに豆形の盒(コウ)だが、前者は銅製であるので緑青の現れ方が顕著であるのに対し、後者は銀製の盒ということになっているが、底座部と蓋側の頭部に載っている3体の動物は銅製のため、緑青が噴いている。この銀盒は銀製というより鎏金技法を使ったものと考えられる。

 鎏金技法は以下のプロセスからなる。
1.   脂や酸化物のような汚れを除去するために金(銀)めっきが必要な青銅の表面をまず研磨。
2.   金(銀)は 水銀と混合され、 水銀に対する金の比率は約1:7であり、液体合金( 金(銀)アマルガム )を形成。
3.   青銅製器物や像の表面に塗布。
4.   無煙炭は、水銀を蒸発させ、金(銀)層を残す。
5.   それを磨いて光沢を出す。
この様なプロセスでつくった金膜にピンホールがあればそこから緑青が噴くことは言うまでもない。

 前出の写真9/6-4-5も同様の手法を用い、見かけ上金製品に見えるが表面だけ金なのである。ちなみに奈良の大仏も建立当初この手法が使われ、蒸発した水銀を吸気し水銀中毒に罹った人が大勢出たことが平城京遷都の原因になったという説がある。

 写真9/6-4-9は既出の軒丸瓦の瓦当(ガトウ)であり、写真9/6-4-10は軒丸瓦である。瓦当は当初は灰陶(カイトウ)製だった。灰陶というのは、焼成時に空気を遮断し、還元雰囲気で焼成し、含有している鉄を2価状態とし色が青っぽくなった陶器で、赤っぽくない。

 写真9/6-4-11は銅鋪首(銅製のドアノブ)で、城門の飾り金具を兼ねている。リングが必ずあり、リングに横棒を通すと閂になり、施錠の役割も果たすが、その様に使われたかは分からない。

 説明カードには英文でbronze knocker pedestal とあるので、青銅製のノック台座で、高貴な人の屋敷への訪問を告げる打音器なのかも知れない。しかし古代中国にその様な文化があったか疑問である。
 
 写真9/6-4-12〜写真9/6-4-14はいずれも陶磁器であり、前二つは彩絵陶壺であり、造形は簡素で素朴、喇叭型の口、短脛、斜肩、腹下垂、矮圏足と言った構造が共通した構造である。斜肩、腹下垂部に堀溝模様が施されている。

写真9/6-4-14は明時代の瓮(酒などを入れるかめ)である。

写真9/6-4-15、写真9/6-4-16はこの地に伝播した仏教美術の紹介である。明清時代に至るまでのこの地に北魏時代以降に開かれた、龍泉寺、康山寺、金陵寺、施福寺、興福寺に安置された仏像(写真9/6-4-15)やアショカ王石経幢などがあったらしいが、情報提示まで。

 以上、この博物館の展示品の1/5ほどを写真に撮り、その更に1/2程度について本稿に紹介した。展示品は詳細を知れば知るほど興味を掻き立てられ切りがない。

 以上で斎文化博物館を後にする(写真9/6-4-17)そして市街地を通り抜け(写真9/6-4-18、写真9/6-4-19)、この日の宿泊ホテルの淄博二五七軍興大酒店に向かった。

 淄博二五七軍興大酒店(写真9/6-4-20、写真9/6-4-21)に到着後、いつものように駱さんがチェックインしてくれた。ホテル名ほどものものしくはなく明るく清潔な感じのホテルであった。さすが駱さん。
       本稿終わり D5に続く
 







2018/01/30 15:59:21|旅日記
「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」 D3: 9/5(火)魯国故城を見学、泰安の岱庙へ  

「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」

D3: 9/5(火)魯国故城を見学、泰安の岱庙へ       泰安泊>

 前日、曲阜の三孔を全て見学したので、この日は、魯国故城を見学し、泰安の岱庙に向かう予定であった。しかし、朝、孔廟の入り口で、古代歌舞などのイベントがあることが分かり、ホテルでの朝食を摂らずにそのイベントの見学に出かけた。

 ホテルから距離的には車で10分ほどもない近いところであったが、タクシーで向かうことにした。タクシーには、恰幅の良い黄金色をした弥勒菩薩の置物がフロントガラス下の台にセットされていた写真9/5-1-1)。バックミラーにぶらさげられる飾りよりもよほど良い。タクシーを下車し、孔廟入り口で昨日通過した「萬仭宮牆」と書かれた入場門を目指した。
 
 途中、つい先ほどまでの降雨で濡れた橋と川の両岸に植えられた大きく枝垂れた柳の光景(写真9/5-1-2)や、川岸の人けのない、濡れて鏡面となった道路(写真9/5-1-3)が映えていた。それらの光景を横目に更に進むと記憶に新しい曲阜と朱彫りされた石碑や「萬仭宮牆」と書かれた入場門についた。

 我々と同様に早朝の歌舞イベントを目当てにした観光客が大勢集まっていた(写真9/5-1-4)が、まだ歌舞イベントは始まっていない。観光客の顔ぶれを観察すると、ほとんどが中高年、高齢者でイベントの開始を待ちわびている風情であった。

 ところが間もなく放送があり、「今朝は雨模様のためイベントを中止にする」となった。おそらく歌舞の演者の服装が地面にすれすれの古代服を纏うので裾が汚れてしまうためであろう。このイベントについては駱さんから事前に知らされていなかったので、見れずに損したとか、残念という感覚は殆ど湧かなかった。

 曲阜と朱彫りされた石碑の前で駱さんと交互に写真を撮って写真9/5-1-5)、踵を返し春秋路の方へ戻り、その大道路に出たところで、「ホテルに戻って朝食をとるか、この近くの地元のレストランか屋台で朝食を摂るか」と問われ、駱さんの表情からは後者を期待しているように取れたし、その方が地元とのコンタクト感が大きいだろうと思い、後者にしたい旨伝えた。

 そして5分も歩かないうちにファミレス風で小綺麗なレストランが現れたので、そこで朝食を摂ることにした(写真9/5-1-6)。30分ほどで店を出た。食後の運動を兼ねてしばらく春秋路を歩くことにした。

 街路樹は槐が多く(写真9/5-1-7)、花と実が混じりあって咲いている槐(写真9/5-1-8)や既に豆状の実だけになっている槐の樹(写真9/5-1-9)があった。街路樹は槐だけでなく、葉が紫色になっている樹もあったが、樹の名前は分からない(写真9/5-1-10)。

 更に歩いてゆくと蓮池(写真9/5-1-11、写真9/5-1-12)や、花は黄色だが、実は茶色の袋状となる前出した“恋”と言う文字の“心”の代わりに“木”という文字が配置している文字の樹(写真9/5-1-13)が現れたりした。同じ樹に黄色の花と茶色の袋状の実があるのは奇観であるが、それとは関係なく排気ガスに強いのかも知れない。

 更にどのくらい歩いたであろうか、孔子を主人公にした「孔子六芸城、孔子故里園」という出来立てのテーマパークの入場門が現れた(写真9/5-1-14)。入場門の外からは、孔子が魯を後にして弟子たちと新しい世界を目指して疾駆する有名な場面がブロンズ像になっているのが見えた(写真9/5-1-15)。傍ら目を遣ると、低背で盛りを過ぎた百日紅のピンクの花が咲いていた(写真9/5-1-16)。

 ちなみに六芸(写真9/5-1-17)とは、(=作法)・(がく)(=音楽)・(=弓術)・(ぎよ)(=馬術)・(=書道)・(=数学)の六つであり、中国古代において、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養をいうのだそうだ。孔子は弟子達にこの六芸を教えていたのだろう。
 
 しかし孔子一人でこれらの教義を教授することは並大抵のことではなかったものと思われる。これほど多彩な教義を弟子たちに伝えると、一つの芸に対し浅薄なものとなり、深みのある揺るぎない教義を伝えることはできなくなるのが普通だ。

 道徳、音楽、車の運転技術、体育、国語、数学を一人で教える様なものだ。弟子たち(写真9/5-1-19)も多彩な才能、キャリアの持ち主で浅薄な内容の授業ではついてこないだろう。

 そんな疑問が湧くなか、孔子に関して、『史記:孔子世家編』には、次の様なエピソードが記されているらしい。孔子が一芸に名を成していないのは、世に用いられず、様々な芸を習い、多芸の身となってしまったからであり、このことを達巷の村人に、「(孔子は)一芸で名を成していない」といわれた。それを聞いた孔子は、「御(馬術)でも名を成そうか」といってみせた。
とWIKIPEDIAに紹介されている。ダヴィンチが束になって問答を挑んでも敵わない大天才だったのだろう。

 ちなみに、この六芸のそれぞれには、更に細分化された項目があり、五礼 六楽 五射五馭六書九数 で、例えば九数であれば、算法(計算)、九数包含、方田票布、差分、少広、商功、均衡、方程、勾殷などとなっている(写真9/5-1-18)。細分化された科目の数は合計36科目となる。

 それぞれの科目で専門性の高い教習を行うことは不可能だが、孔子はそれをやってのけたので、「一芸に名を成す」という印象を与えなかったのではないだろうか。

 更に、これらの教義を習得する前に、大切なことは、「道に志し、徳に拠り、仁に依り、その上で游芸・豊かな教養を身につけよ」と云う教えが論語述而第七 156にある。

子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝(()(のたま)わく、(みち)(こころざ)し、(とく)()り、(じん)()り、(げい)(あそ)ぶ。)の藝が六芸のことを言っているのだそうだ。
和訳すると、「孔子云う、『人として正しい道を踏み行なうよう心掛けなさい。そして人格(徳)を磨きなさい。徳の実践はすべて仁をより所としなさい。その上で豊かな教養を身につけ悠々と生きる。これが人生の王道だ』」ということらしい。

 その孔子の姿が石碑に刻み込まれていた(写真9/5-1-20)。歴史書「史記」によると孔子の身長は9尺6寸、2m16cmもの高身長であったため、世間では「長人」と呼ばれていたそうだ。

 彼は恵まれた体格だけではなく、剣をはじめとする武芸全般にも通じ、諸国を巡るなかで何度か暗殺されそうになるが、逃れてこられたのはこの体格と武芸の心得があったからと推測できる。

 そしてこのテーマパーク見学の途中に「工聖魯班文化展」(写真9/5-1-21)というコーナーを横眼に見て移動し、最後に電動カートに乗って孔子の魯国から他国への脱出の様子を立体的に描いたパビリオンに入った。

 見学者はゴトゴトと激しく揺れる電動カートに乗って、孔子にとって過酷なシーンが次から次へと現れるのを試聴し、孔子と孔子の弟子たちの過酷な行脚の様子がリアルに立体的に展開されていて、演出が見事であった。

 この労苦を共に体験した孔子と弟子たちには強い絆と連帯心が生まれ、孔子を聖人にする原動力になったのではないかと推察するのに十分なパビリオンであった。

 ところで、「工聖魯班」というのが気になり、後でwebで調べたところ、魯班(ルーハン)は紀元前500年頃に活躍した工匠で、ルーハンは、多くの土木工事に参加するために家族に従って育って徐々に労働スキルの生産を習得し、豊かな実践経験を蓄積してきた人物であり、彼が発明した道具は、後世、土木工事で使用されるツールや、これらのツールを作成するために使用されている。

 この新しい道具の使用によって、当時の原始的で面倒な作業から職人を解放することが出来た。労働効率は倍増し、土木工事はまったく新しい姿に変わったとのことである。

 その他の発明で興味を持ったのは、現在もセラミクスの製造プロセスとして用いられる擂潰器(ライカイキ)を連想させるミルの発明である。

 それ以前は、穀物を乳鉢に入れ、乳棒を叩きつけて穀物を処理していたが、このミル(写真9/5-1-22)の発明では、乳鉢と乳鉢の回転を変えて乳鉢と乳鉢の間欠的な作業を連続的に行い、労働力を大幅に削減し、生産効率を向上させることができ、古代の穀物加工ツールの大きな進歩をもたらした、と言われている。
 
 この発明は、龍山文化期(約4,000年前)にすでにモルタルと池の粉砕技術があった可能性があり、同じ地域にあるこの地、山東省に生きた魯班がそれを参考に進化させることができた可能性があるとも言える。

 その他、インキ噴水、プレーニング、掘削、チゼル、シャベルなどのツール、更には様々な兵器をも発明していると言われている。

 以上、魯班に関しては中国web「史海鉤沉」の日本語への機械翻訳を参考にした。

 後の諸葛孔明は琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(ぎすい)県)の出身と言われ、兵器等の発明家としても有名であるが、この魯班と同じDNAを持っているのかもしれないとの思いに至った。

 そして最後に目に入ったのは、知者楽水 仁者楽山 知者動、仁者静。 知者楽、仁者寿」。と書かれた額で、この意味を後日web検索したところ、

子曰く、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」
と読み、その意味は、、「知者は水を愛し、仁者は山を愛する。知者は動的であり、仁者は静的である。(また)知者は人生を楽しみ、仁者は長生きする」。(『論語』・旺文社)ということらしい。

 果たして知者と仁者とどちらが良いのだろうか。人はだれでも高齢化とともに知者から仁者へと遷移してゆくのではないだろうか。
 
 孔子に関しては以上であるが、孔子に関して分からないことが一つ残った。季札という人物の存在である。レンタルビデオの「孔子物語」では季札という人物が孔子の幼少期に時折現れ影響を及ぼしている。ところが、この季札のことをガイドの高さんや駱さんに聞いても知らないというのである。中国語での読み方が全く違うのかも知れない。

 生きた時代は孔子:紀元前552年9月28日紀元前479年3月9日)、季札:紀元前576年一前484年なので、季札の方が生まれたのも亡くなったのも早いが、紀元前552年9月28日〜前484年は重なっているので同時代の人物同士と言える。季札の方が24才ほど高齢なので、孔子にとっては見上げる存在であったのだろう。

 呉の季札は、呉王寿夢の末子だった。孔子と名声を等しくする聖人、同時に孔子の最も敬慕する聖人とされた。「南の季、北の孔」と称して、歴史の上で南方の儒学大家の第一人者、「南方の第一聖人」とも称される。

 孔子にこう評価されている。「太伯(季札の祖先は呉太伯)は道徳の聖人で、三回も天下を譲り、人民には貴重な君主だと語る」とある。したがって、直接の交流は無かったかもしれないが、季札の好評判の風評が若き孔子に影響を与えたのは確かであろう。
ということで、一件落着である。

 そして、次に曲阜の中心地(写真9/5-2-1)を抜けて魯国故城に向かった。故城の外壁を貫く入場門(写真9/5-2-2)を通り抜け、しばらく行くと、擩星門という朱塗りの門(写真9/5-2-3)がかなたに現れた。デジカメをズームアップして撮る。

 駱さんが入場券を買いに行っているうちに、小太りで青いシャツとジーパンのラフな姿で自転車に乗った人とすれ違った。後で分かったことだが、この人こそが、自称ではあるが、周公旦の77代目の末裔で、現在は姓が変わり〇〇という日本人に近い二文字姓となっている人であった。駱さんが現地ガイドとして手配してくれていたのだろう。有難いことだ。

 魯国故城は、周代の国都の遺跡である。紀元前1045年、周が商を滅ぼして天下を治め、武王の弟・周公姫旦が曲阜に封ぜられて、魯国となった。周公は天子を補佐したため、その子の伯禽が代理として封ぜられ、25世代にわたり34人の君主が続いた後、紀元前249年、楚に滅ぼされたというのがこの地の歴史である。

 尚、曲阜という地名は、隋の時代に、「城の東に阜(おか)あり、委曲して長さは七八里」との由来から変えられたのであり、それまでは、魯国や魯県であった。

 「曲阜魯国故城」というのが正式名称のようで、それが朱彫りされた石標(写真9/5-2-4)が最初にあり、案内図も他の石碑に彫られていた(写真9/5-2-5)。

 そして擩星門写真9/5-2-6)をくぐると、更に中門(写真9/5-2-7)があり、更に、元圣殿写真9/5-2-8)という建造物が現れた。その説明碑(写真9/5-2-9)には、「周公届の主体となる建築物で、間口23.7m、奥行き12.26m、高さ11.81mの平屋の建物で、屋根は緑瑠璃瓦からなり、内部には周公の塑像(写真9/5-2-10)が祀られている」とあった

 天井には「施勤徳明」と書かれた額があった(写真9/5-2-11)。そして最後の木戸(写真9/5-2-12)を通り抜けると、魯城の地下遺跡が眠る草地が現れた(写真9/5-2-13)。

 名前は分からないが黄色い花を咲かせた草がたなびいていた。そしてかなたには木々が茂り、他の場所とは区画された一画(写真9/5-2-14)が見える。おそらくこの地を管理する管理事務所、あるいは「曲阜魯国故城」を紹介する規模の小さい博物館がありそうな雰囲気である。

 それとは反対側に目を向けると大きな石碑(写真9/5-2-15)の様なものが見えた。カメラをズームアップして彫られた文字を読むと、「魯国故城国家考古遺址公園」とある。また前方を見ると、いかにも大らかな気分とさせる光景(写真9/5-2-16)があった。

 そして、先ほど見えた石碑のところまで行き、その前で周公旦子孫氏とツーショット写真(写真9/5-2-17)を撮った。そして野鳥が前を横切って着地したあたりに目を向けるとニッコウキスゲの様なオレンジ色の花の近くに背を向けたカケスと思われる鳥(写真9/5-2-18)が見えた。

 帰り際に周公旦子孫氏から、「自宅に家系図があるので見に来ないか」と誘われたが、まだ先の予定があるのと、何か高価なものを買わされるのでは無いかという思いで、断り、「曲阜魯国故城」を後にし、泰山のふもとの岱廟に向かった。
 
 岱廟に向う途中走行している車の中から店の表に一対の動物の石像が見えた(写真9/5-3-1)。一対の角が生えていて顔つきは龍で体には鱗で覆われ四つ足であった。先記した太陽までをも手に入れたがっている「貪婪(どんらん)之獣」(写真9/4-4-11)の様にも見えるが、この石像の動物は四つ足に何も持っていず貪婪(どんらん)さを全く感じさせない。
 
 また、岱廟に向かう途中、球体上に疾駆する馬の像(写真9/5-3-2)が見えた。一瞬千里馬(チョンリメ)かとも思ったが、孔子六芸の内の御(ぎよ)(=馬術)を連想させるため像かとも思ったが、それとも単に天翔ける馬、天馬かとも思ったが結局はよくわからなかった。千里馬は中国の様々な省で見ることができる。
 
 さて、〇〇さん運転の車のフロントガラスには恰幅の良い弥勒菩薩ではなく、蓮の純白の蓮の花の飾り(写真9/5-3-3)がセットされていた。材質はセラミクスであり、置台の中には芳香液を満たし、セラミクスに浸み込んだ芳香液を車内に漂わせる電力を使わない装置とも言える。お土産に買ってゆきたい衝動に駆られた。
 
 早速駱さんがウェブ上で販売されていることを確認してくれたが、帰国までには間に合わない、ので次回の中国旅行で来るときに間に合うように購入しておくとのことであった。楽しみにしておこう。
 
 そして午後2時頃岱廟に到着した。駐車場から岱廟の入場門へ歩いている途中、花を一杯にたたえた槿(むくげ)(写真9/5-3-4)の低木が目に入った。

 そして間もなく岱廟最初の石坊(写真9/5-3-5)が現れた。この石坊の両石柱にはなんと日本語が朱彫りされている。日本人観光客を目あてにした最近の建造物であろう。少し興覚めの感があったが、親近感は感じた。
 
 そして、岱廟の巨大な城壁が現れた。その正面は2層の楼閣となっていて、二層目の屋根の近くに岱廟と書かれた額(写真9/5-3-10)が架かっている(写真9/5-3-7)。

 正面には、入場券を検札する門(写真9/5-3-6)があり、左右には対象構造の城壁が展開されていて、城壁の両終端には3層の茶色の建造物が配置されている(写真9/5-3-8、写真9/5-3-9)。

 城壁を警護する兵士の詰め所の様に見える。このような建造物の最上層に詰めていれば、城壁の内外の様子が室内にいながらにして鳥瞰でき警護、見張りという点では好ましい。城壁に沢山の赤い提灯がぶら下げられているが、これは夜間城壁を登って忍び寄る敵を照らし発見しやすくするためか。
 
 城門の入り口前で、自分と、駱さんそれぞれ記念写真(写真9/5-3-14、写真9/5-3-15)を撮った。検札門を通り抜けると、石畳の通路が現れ、その通路を進むと、「炳霊門」と縦書きされた額(写真9/5-3-18)が架かっている門(写真9/5-3-16)が現れた。その通路の傍らに巨大な石づくりの亀とその上に乗っかった巨大な石碑からなる石像(写真9/5-3-17)が目に入った。何を意味している像かは分からなかった。
 
 そして、「炳霊門」をくぐり抜けて行くと、巨大な柏の樹(写真9/5-3-19)が目に入った。樹齢500年以上はあるだろう。「漢柏」という名称(写真9/5-3-20)がついている。漢の時代に植樹されたとすると樹齢500年どころではない。枝分かれした枝の何本かは既に枯れていて葉は全くついていない。
 
 柏は中国では神聖な樹で、歴史ある寺や廟には必ずと言って良いほど植樹されているが、これほど巨大で年季の入っている柏樹を見たのは初めてであった。この樹がどのような理由で神樹となったのか興味あるところだが、そこまでの突込みは、この稿を書いている現在でも分かっていない。
 
 この一角には、拓本を取った跡のある石碑がいくつかあり(写真9/5-3-21〜写真9/5-3-23)、表記されている文字の意味は分からなかったが、いづれも極めて達筆であり、古い時代に記されたものであることは分かった。秦の始皇帝が泰山で封禅を行った時、随行した丞相の李斯が記載したとの説明が別の碑にあった。

 そして、同じ館で次に目に入ったのは、畳の1/4程度の面積の屏風を6枚並べた屏風絵(写真9/5-3-24)であった。通常目にする屏風は白い紙に山水の風景を筆で描いたものであるが、ここに展示してある屏風は黒御影風の石板に彫り刻んだようなものであるが、よく見ると色彩が施されている。

 山水風景は泰山で始皇帝が封禅を行ったところを含んだ絵図、またはここ岱廟と遠方に臨んだデフォルメした泰山とを描いたものであるかも知れないが、これだけでは分からない。
 
 おなじ陳列館の中にはもう一つ奇妙な動物の像がガラスケースに入れて陳列されていた。(写真9/5-4-1)。見たことの無い毛むくじゃらの四つ足動物で目だけが煌々と煌いている。実物(剥製)なのか、人工物か分からないが奇妙な動物である。ペットにしたくなるような愛嬌さを漂わせている。あるいは泰山で捕獲した動物であろうか、よく分からない。
 
 さらにおなじ陳列館には花瓶のような色彩豊かな陶磁器、青銅を光沢が現れるまで磨かれた一対の丸鏡、壁飾りが展示されていた(写真9/5-4-2)。陶磁器に施された絵は、カラフルであったが、青磁でも白磁でもなく、かといって唐三彩風でもなく、むしろ九谷焼等の現代の日本の陶磁器に近い感じがした。恐らく明清時代のものではないかと思われる。
 
 そしてそこを後にして更に先に歩を進めた。すると石舞台の上に仁安門と金色の文字で額の中に縦書きされた楼門(写真9/5-4-3)が現れた。門には、同時に天下帰仁と横書きされた文字も表示されていた。中国によくある赤青黄に彩色された楼門であった。「天下帰仁」で後日ウェブ検索したら、「論語」に出てくる顔淵と孔子とのQ&Aの場面で、口語訳すると次の様になる。
 
 孔子:「自分に打ち勝って礼に立ち返ろうとすることが仁である。一日自分に打ち勝って礼に立ち返ることをすれば、世の中はその人の人徳に帰伏するであろう。仁を実践することは自分(の振る舞い)によるのであって、どうして他人に頼るものであろうか、いやそうではない。」と。
 
 顔淵:「仁を実践するための要点をぜひお尋ねしたいです。」
 
 孔子:「礼にかなっていなければみてはいけない。礼にかなっていなければ聴いてはならない。礼にかなっていなければ言ってはいけない。礼にかなっていなければ(その)行動をしてはいけない。」
 
 顔淵:「回(私=顔淵)は賢くありませんが、ぜひこの言葉を実践していきたいと思います。」
 
 以上manapedia.jpを参照させてもらったが、浅学な筆者にとって、以上のQ&A場面がなぜ「天下帰仁」と関係するのはよくわからない。
 
 また、mage8.comには、
論語顔淵第十二の一:「一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す
顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁、一日克己復禮、天下歸仁焉、爲仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動、顔淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣。

 書き下し文:顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰わく、己(おのれ)を克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰(き)す。仁を為すこと己に由(よ)る。而(しか)して人に由らんや。顔淵曰わく、請(こ)う、其の目(もく)を問わん。子曰わく、礼に非(あら)ざれば視ること勿(な)かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵曰わく、回(かい)、不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請う、斯(そ)の語を事(こと)せん。
 
 なんとなくわかるが、良くは分からない。
 
 その門を通りぬけて先に歩を進めると、その庭に太湖石が鎮座する堂宇が現れた天上は、例のごとく鬱蒼と柏樹が天を覆い被せていた(写真9/5-4-4)。幹が見事にねじれた柏の大木もあった。
 
 更に進むと、二層の全く反り返りの無い屋根を持ち、一層目と二層目の屋根の間に縦書きの額が架けられた間口の広い殿舎(写真9/5-4-5)が現れた。その額には「宋天貺殿」(写真9/5-4-6)とあった。天貺殿の屋根に反りかえりがないのは明清時代前の建立の証拠であろう。

 この「宋天貺殿」は岱廟内の最奥にあり、ここに於いて秦の始皇帝が封禅の儀を行い、以後、歴代皇帝の見習うところとなったものとのことである。
 
 この建物自体は今から丁度1000年前の北宋時代の天貺節(てんきょうせつ)を記念して建てられたものである。間の九五様式は皇宮正殿のみに許された建て方でもあった。
 
 近くまでくるとその巨大さが分かる。間口9間、奥行き5間の九五様式の建造物で、九五様式は皇宮正殿のみに許された建て方であった。
 
 考えてみると、北宋の都である開封(東京=トンキン)は洛陽、長安などと比較すると、山東省から最も近い古都であり、北宋の影響の強い史跡が多いのであろう。

 天貺殿は現在も信仰の対象として拝殿する中国人がいると見えて、大きな蝋燭立と線香立てがポツ然と設置されていた。殿舎の配色はやはり漢民族のものではなく、女真族や満州族が好む黄土色ということは北宋時代から南宋時代の過度期の建立で、北方異民族の支配がはじまった頃の建造物か。一体建立した民族は漢民族か女真族などの北方異民族か興味あるところである。
 
 天貺殿の小さな入り口から内部を覗き見ると、その最奥の薄暗い光明の中、黄色いマントを纏った泰山の主神である碧霞元君(女神)の立像(写真9/5-4-7)があったが、仏教や儒教よりも道教の神の様な雰囲気を漂わせていた。

 ウェブで検索してみると、その通り、道教の女神で別名天仙聖母碧霞玄君(てんせんせいぼへきかげんくん)、泰山老母(たいざんろうぼ)、泰山玉女(たいざんぎょくじょ)、天仙娘々(てんせんにゃんにゃん)、天仙玉女碧霞元君(てんせんぎょくじょへきかげんくん)などとも呼ばれ、この地では西王母よりも人気のある女神とのことである(wikipediaより抜粋)。

 更にwikipediaには、「碧霞元君は、どんなに信心薄い者の願いでも聞いてくれる、神々の中でも、もっとも優しい女神であるとされる。その神格も商売繁盛・子宝祈願・夫婦円満・病気治療の祈願や人々にお告げをもたらしてくれるなど、非常に幅広いご利益があるとされ、多くの信仰を集めている。」と紹介されている。

 「宋天貺殿」を後にすると復路である。途中いくつかの庭園(写真9/5-4-8)、殿舎(写真9/5-4-9)、楼門を通り抜けたり、横目に見て通り抜けし、最初の城壁(写真9/5-4-10)のところまで戻った。

 駱さんに、「城壁の上に登ってみますか?」と問われたので、多少疲れてはいたが、「そうしましょう。」と返事をして城壁に上ってみることになった。団体のツアーでは見学コースから外されるところであろう。

 正面に泰山が見える筈だったが、曇天で泰山の姿は雲に隠されていた(写真9/5-4-11)が絶景の部類に入るであろう。カメラをズームアップ(写真9/5-4-12)してみても、それらしき姿は現れなかった。しかたないので、その光景を背景にして写真を撮ってもらったが、逆光で黒い影となってしまった(写真9/5-4-13)。

 城壁上の屋根の無い回廊は転落防止の黒レンガつくりの手すりが、今は枯れてしまった古木を取り込み直線状に伸びている(写真9/5-4-14)。そしてその古木には観光客が赤い布札をくくりつけたのだろう、それらが奇妙な色彩バランスと造形美を醸し出していた(写真9/5-4-15)。

 赤い布札には黒墨で書かれた文字が浮かんでいた。願いを書いたおみくじの様なものかも知れない。その他、朱色のお守り袋のようなものも括り付けられていた(写真9/5-4-16)。

 この城壁上の回廊には屋根が無いので、風に吹き上げられ天上に届いて願いが叶えられるという期待を込めて赤い布札やお守り袋を古木に取り付けた観光客が居たに違いない。恐らくもっと沢山のものが無造作にくくりつけられたのであろうが、城壁の管理者が景観を壊さない様に間引きしたのだろう。

 そのお守り袋のある同じ地点から焦点を遠方に移すと、最初に岱廟の城門入り口から城壁を見上げた時に城壁の両端部に見えた三層の瑠璃瓦屋根からなる建造物の片方であった。

 ちなみに瑠璃とは表面がガラス化してツルツルになった状態を意味し、瓦としては、写真のような赤茶色の場合もあるし、濃紺の瑠璃色の場合もある。中国各地にある孔廟の屋根は殆どが前者の赤茶色の屋根が使われているようだ。

 もしかしたら、これが泰山と思える光景(写真9/5-4-17)を目にしたが確証は全く無い。駱さんも「あれが泰山です。」とは言わなかった。

 途中、赤茶色の屋根瓦と瓦の前に残った枯れ木または古木、の組み合わせがうまくマッチしていた(写真9/5-4-18)。その様な光景や前方に「厚載門」と書かれた額縁(写真9/5-4-19)をみながら(写真9/5-4-20)城壁の階段を下って行った。

 そして、最初に入場した門の裏側(写真9/5-4-21)にたどりつき、岱廟観光の終了となった。岱廟観光の最後に眼に印象的に残ったのは、日本でも見かけることの多い草花であった(写真9/5-4-22)。名前は忘れた。

 ちなみに「厚載門」は北京故宮、洛陽など中国各地にあるが、ここの「厚載門」は、この門から場外に出ると、前方正面に紅門路があり、泰山正面参道につながるということであった。

 紅門から岱頂まで、6600段の石段が続くとのことである。自分の体力ではこの石段を上るのはとても無理ということで、泰山登山ではなく岱廟観光に絞ったのだが、充実した観光が出来、その選択が良かったと思うことが出来た。
       本稿終わり D4に続く
 







2017/12/11 1:09:06|旅日記
「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」 D2: 9/4(月)杭州−曲阜(孔府,孔庙)<曲阜泊>

「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」 

D2: 9/4(月)杭州−曲阜(孔府,孔)<曲阜泊>
 ホテルまでは駱さんが迎えに来てくれて、杭州東まではタクシーである。何度か利用している駅で少しは慣れてきた。安全チェック等を経て見慣れた駅構内ロビーの出発ゲート前のベンチで待機することになった。

 ゲートには乗車予定の列車の案内が電光掲示がされている(写真9/4-1-1)。列車番号G58の寧波発北京南往き9:52発、乗車できるのは9-16号車、3番ホームに入線と表示され、発車3分前には改札終了、すると表示されている。同じホームの2番ホームには麗水発合肥南往き10:01発の列車G7632が入線の予定と表示されている。

 そして改札が開始され、階段を下りて3番ホームに向かう(写真9/4-1-2)。概して中国の列車のホームは日本より暗い。地下鉄含めて全体的に言えることの様に感じている。必要以上に明るくするのは、電力消費の点で好ましくなく、また蛍光灯証明は紫外線を発生するので、人の眼にも良くない。

 発車してしばらくすると窓外に黄色い花をつけた樹木が見えた(写真9/4-1-3)。この樹木は山東省に入ってから槐と同様に頻繁に街路で出会うことになる。後で。駱さんが調べてくれたところ。恋という字で。“心”のかわりに“木”という字がくる日本語には無い漢字である。

 杭州東駅を出発して一時間足らず経ったころ、高鐵は時速306kmと表示されていた(写真9/4-1-4)。日本の様に線路の近くに建物が無いせいか、それほどの高速感はない。

 駱さんがいろいろな御菓子をテーブルの上に出してくれていたが、今度は柚子(写真9/4-1-5)を出してむいてくれた。柚子といっても日本の柚子とは大違い、巨大グレープフルーツ・ルビーといった方がピンと来る。3年連続で秋に中国に来ているが、この季節は果物に出会う時期であり、楽しみになっている。

 かつて中国に来て、リヤカーに大量に載せて街路で売られていた柿を買い食べたことがあるが、最近は殆ど見なくなった。それだけ高速道路が増え、柿が売られている街路を通行する機会が減ったからかも知れない。

 新幹線(高鐵)の車内を見回してみたが、ビジネスマン風の乗客は殆どいない(写真9/4-1-6)。元気な中高年、高齢者の集団が目につく。座席の足元にはPCやスマホ充電用のコンセントがある。ビジネスマンはPCのキーをいじり。書類を開き目を通す。そのような仕草の乗客は殆ど目に入らない。それよりも座席を立ち、きょろきょろしている熟年と思われる乗客の方が目につく。

 今回は32GBのSDを突っ込んでいるので、かなりの時間、動画を撮っていた。そんなこともあり、約3時間の新幹線の旅はあっという間に降車駅曲阜東駅に着いた(写真9/4-1-7)。
 
 乗ってきた車両を振り返ると愛称は「和諧号」ではなく、「華夏幸福号」であることに気が付いた(写真9/4-1-8)。時刻は現地時間12:25なので、3時間より0.5時間ほど短い2.5時間の乗車ということになる。

 その時計の横に、「四海の内皆兄弟」(論語)ということばが電光掲示されていた(写真9/4-1-9)。如何にも孔子のふるさと曲阜である。この稿を書くにあたり、この言葉を吟味しなおしてみた。

論語 顔淵第十二 5 司馬牛憂曰。人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰。商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮。四海之内。皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也
司馬牛(しばぎゅう)(うれ)えて(いわ)く、(ひと)(みな)兄弟(けいてい)()り、(われ)(ひと)()し。子夏(しか)(いわ)く、(しょう)(これ)()く。死生(しせい)(めい)()り。富貴(ふうき)(てん)()り。君子(くんし)(けい)して(うしな)()く、(ひと)(まじ)わるに(うやうや)しくして(れい)()らば、四海(しかい)(うち)(みな)兄弟(けいてい)なり。君子(くんし)(なん)兄弟(けいてい)()きを(うれ)えんや。

 曲阜東駅からホテルまではタクシーでゆくことになっている。待合室で待っていると運転手らしい男がやってきてタクシー乗り場へ案内してくれ、その人ではない運転手が運転席でまっていた。20分も乗ると早くも道路は閑散としてきた(写真9/4-1-10)。更に10分ほど乗って今夜宿泊予定のホテル曲阜春秋大酒店@曲阜市春秋路に着いた。

 早速駱さんが代わりにチェックインをしてくれている(写真9/4-1-11)。このチェックイン手続きの間にホテルロビーを眺めまわし、飾られた逸品を探すのが恒例となっている。するとガラスケースに収まった大きな陶磁器のレプリカが目に入ったのである(写真9/4-1-12)。

 荷物をホテルに置いて早速孔廟、孔府の観光開始である。最初に観光したのは孔廟である。曲阜と朱記された石碑の背後には、城壁が見え(写真9/4-1-14)、レンガ作りの城壁には「仭宮牆」と朱彫りされ、その下に入り口がある(写真9/4-1-13)。萬仭宮牆とは 『学問の道は 近道などない それは高くて深い宮殿の土塀のようだ だから 学問の道に入り コツコツと 懸命に 努力せよ』との意味らしい。また宮牆(キュウショウ)」という言葉は「論語」に出てきて有名である。今回の山東省旅行で、「四海の内皆兄弟」についで二つ目の論語であった。言葉の意味を知り、思わず反省である。

 最初の門をくぐると次から次へ朱彫りや緑彫りの門(石坊)が現れる。最初の門をくぐったら実をたくさんつけたの木(写真9/4-1-15)が目に入った。杭州では殆ど見られない樹、駱さんにも珍しいのかスマホをかざして写真を撮っていた。

 次に現れた門には「金声玉振」(写真9/4-1-16左)とある。備わっている才知と、人徳の釣り合いが取れていることのたとえ。または、そのような人のこと。三つ目の論語文である。「金声」は鐘を鳴らすこと。「」は磬という打楽器のこと。「振」は収めること。古代中国の音楽は、まず始めに鐘の音から始まって、琴や笛の音が続き、最後は磬で締めくくるというもので、最初から最後までよく整っているもののたとえとして使われる。孟子が孔子を賛美したとされる言葉。

 次の門は、「櫺星門」。四柱三門の石坊には黄彫りされた文字が浮かんでいる(写真9/4-1-17)。櫺星とは、天上の文星を指すといわれていて孔子のことを表している。

 次の四柱三門の石坊には緑彫りされた、おなじみ「太和元気」の文字である(写真9/4-1-16右)。この言葉のレヴューをする。「太和」とは宇宙万物のすべてが和らぎあい、調和を保つことが基本であり、「元気」とは人間社会が存続する上で不可欠な活力を言う。四つ目の論語文である。

 途中に、“孔廟平面示意図” (写真9/4-1-18)という案内図がある。この図に基づいて孔廟境内を観てみると、相当の広さである。全建造物を一括表現すると、すべての廟が五殿・一祠・一閣・一壇・二堂・十七碑亭・五十三門坊、ということになるのだそうだ。

 その内訳をこの案内図に基づいて表現すると。一番奥の大成殿に至るまでに、中央の参道上に三つの石坊、六つの門、一つの川を通過する必要がある。また門と名のついている建造物で中央の参道から外れた位置にあるものを入れると、二つ、同じく中央の参道から外れた位置にあり、門の形をしているが“碑亭”という名前が13+2軒ある。「人は大成するまでにこれだけ多くの門をくぐり抜けてないといけない。」とでも言っているように見えるが、孔子の何らかの教えにもとづいているに違いない。

 境内は広く、移動するのに時間がかかる。“至聖廟”と朱彫りされた石坊(写真9/4-2-1)が現れた。ところが、この石坊、先ほどの案内図には出ていない。おそらくこれは観光客のための案内碑で最近たてられたのだろう。「ここからが本当の孔廟なのですよ」と言っているかのである。

 “孔廟”という名称はかなり最近呼ばれ始めた名前で、本当の名前は“至聖廟”と言う、としている人が多い。そう考えると、先ほどの案内図がなぜ最初の門“金声玉振と表記された門”のところになく、“至聖廟”と朱彫りされた石坊の前にあったのかが氷解する。

 言い訳しているようなこの石坊というより案内碑と言った方が正しいのかも知れない。“至誠”という言葉もあるが、これも孔子の教えに因む言葉であろうか。調べてみると、孔子の弟子の孟子の言葉で、「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」から来た言葉であり、日本人の好きな文字であり、新選組をはじめ個人の名前に用いられる。自分にとって五つ目の論語文である。

 案内図にもあった小川に架かっている石橋(写真9/4-2-2)を渡ると、大きなお堂が現れ、その入り口に“弘道門” (写真9/4-2-3)と書かれた立派な門というより“楼閣”と言った方が良い、作りが立派な門が現れた。彩色が美しく、青色は見ていると吸い込まれるようだが、ラビスラズリを使っているのだろう(写真9/4-2-4)。

 そして“大中門”写真9/4-2-5)、“同文門”写真9/4-2-6)とつづく。いづれも天井の彩色の形式は同じで、天井に施された塗りの色彩がきれいだ。赤青黄の彩色は中国古来の伝統色である。

 そして次に現れたのは亀(?)の上に巨大な石碑が載ったモニュメントである(写真9/4-2-7)。龍の子の上に黄石公が立ち姿で載っているという像は見かけることがあるが。この様な像はみたこともない。

 ところで、孔廟は日本人観光客に人気の観光地と見えて、日本語ガイドがいて駱さんが手配していてくれたのだろう。愛想がよく日本語が流ちょうな高(ガオ)さんの登場である(写真9/4-2-8)。

 次に現れたのは、奎文閣(写真9/4-2-9)であった。孔廟の中心的建築物の一つで、元来、献上された書物を収蔵している場所である。奎”とは星の名で二十八宿の一つ、孔子を天上の奎星に喩えたと言われている。

 この雄大な建築物は木造建築物で、中国の楼建設の上で飛びぬけている。その高さは23.35m、東西の幅は30.10m、南北の奥行きは17.62m、三階建て、四重のますぐみ、合理的な構造で、非常に頑丈。数百年の雨風と何回もの地震の揺れにも堪えてきた、とのことである。

 巨大すぎて、少し離れてみないと全貌が見えない。近くでみた屋根と柱の間の軒下の模様を彩る色は、またしてもラビスラズリを塗料とした青いというより濃紺色であった(写真9/4-2-10)。
 
 そして、金属製の柵に囲まれ、それほど幹が太くはない老木と、その近くに、見たこともない文字が刻まれた石碑(写真9/4-2-11)が目に入った。そして目を凝らしてみると、横には漢字が添えられている(写真9/4-2-12)。金王朝時代に孔廟は修復されているとのことなので女真文字かも知れない。しかし、拡大しても(写真9/4-2-13)何が書かれているのか全く分からなかった。

 そして更に北に向かって歩くと向かって右側に太鼓が置かれた大成門の建物(写真9/4-2-14)が現れた。“大成門”という文字が縦書きされ立派な額に収まっている(写真9/4-3-12)が、まだ新しく金ピカという見え方であった。そしてこの大成門をくぐると仏教で言うと本堂ともいうべき大成殿である。

 Wikipediaには、そのスケールが次の様に紹介されている。
「大成殿はすべての中心となる巨大な建物で、横54m、奥行き34m、高さは32mに達する。28本の装飾を施された柱で支えられているが、それぞれ6mの高さと0.8mの直径があり、それぞれ地元の一個の石から切り出されている。宮殿正面の10本の柱は渦を巻いた龍で飾られている。これらの柱は、皇帝が曲阜を訪れたときには、皇帝に嫉妬心を起こさせて持ち去られないようにするため覆いを掛けられていたといわれている。大成殿は孔子の祭祀にあたって犠牲を供える場所でもある。」

 大成殿の手前に「杏壇」 (写真9/4-3-13) と名付けられた、孔子が弟子に講学を行ったところとされる堂がある。杏の木の下で教えたといわれることを記念して名づけられているのだそうだ。「杏壇」と彫られた石碑(写真9/4-3-15)と、孔子ではなさそうな人物が祀られていた(写真9/4-3-16)。孔子が弟子に講学を行ったところだとすると孔子なのだろうが、少し表情がギラギラしすぎている。

 そして今度こそ大成殿写真9/4-3-17)である。堂内には様々な吊り鐘式の楽器や調度品が展示されている(写真9/4-3-18)。また「万世師表」や「斯文在茲」の文字が飾られている(写真9/4-3-19)。

 「万世師表」は、康熙23年(1684)に康熙帝が孔子旧居を訪れ、御書「万世師表」巻を贈り、その翌年には扁額を模拓させて全国の孔子廟に配布したのだそうだ。一方の「斯文在茲」は、何故か、ウェブ検索しても日本語で分かり易く説明されているものは見つからず、中国語の説明ばかりであった。
 
 そして大成殿の正面中央に祀られている(写真9/4-3-20)のは孔子に間違いないが、その顔を見ると、先ほど「杏壇」で見た像と同じ髭、ぎょろめ、服装、姿勢であった。そして屋根を支える巨大で絢爛豪華な彫りの入っている柱である(写真9/4-3-21)。この宮殿正面の10本の柱は渦を巻いた龍で飾られている。

 そして最後の立派な建造物は陳列館または宝物殿だろうか(写真9/4-4-1)。中に入ると、祭壇があるが祀られているのは人ではなく物であったが何かわからなかった。また内部に孔子物語のような絵図が飾られていて(写真9/4-4-2)、そこには斎国の景公へ登用を申し入れたが、晏嬰の意見により敵わなかったこと、そして弟子たちと諸国遍歴の旅に出たことが絵図とともに描かれている。

 孔子は晏嬰のことを「晏平仲、善く人と交わる。久しうして人これを敬す(晏平仲の人との交わり方は素晴らしい。交友した人々は皆、いつのまにか晏嬰を敬し親しむようになる)」と評したというから、その尊敬すべき人物の意見で、採用が叶わなかったのなら、と諸国遍歴の旅に出たのも心情的にわかるような気がする。

 そしてその堂宇から離れ、「孔府」に入る。「孔府」とは、代々孔子の子孫たちが生活した邸宅である。「魯壁」と書かれた石碑とその背後に赤色の壁が現れた(写真9/4-4-3)。これは孔子の時代より遥か後世、秦の始皇帝時代の「焚書坑儒」の時に「焚書」をまぬかれる為に壁の中に埋めて隠した。」という壁とのことである。

 更に前漢の武帝(前141〜前87在位)の時代になって、ここ曲阜で、孔子の旧宅を壊して宮殿にしょうとする工事が開始された時、思いがけず壁の中に隠されていた古書群が発見されたのだそうだ。

 そして「魯壁」の手前には、金網がかぶさった「孔宅故井」と呼ばれる丸井戸が現れた(写真9/4-4-4)。孔家の人々が実際に使用したと伝えられる井戸だ。
そして、「聖府」と書かれた扁額がかかった(写真9/4-4-6)堂宇が現れた(写真9/4-4-5)。孔府は別称を聖府とも言い、孔廟の東に隣接している孔家の邸宅である。その邸宅群の門が現れたのだ。

 その堂宇と言うか屋敷の一角に「六代含飴」と書かれた額と、その下に文字がびっしり書かれた額が現れた(写真9/4-4-7)。飴を口に含むように甘く、気分よく家族六世代が一緒に楽しく暮らしていると言う意味で、時の皇帝乾隆帝が贈ったのだそうだ。

 そして、その邸宅から出て、太湖石で作られたモニュメント(写真9/4-4-8)を横眼で見て通り過ぎ、更に細い路地のような通路(写真9/4-4-9)を行く。

 途中建物の屋根を見ると龍の姿の軒丸瓦と複雑な絵が彫られている軒平瓦、そして瓦の稜線には一匹の龍が寝そべっているだけ(写真9/4-4-10)。居住空間である邸宅には宝物は無い、という現れであるか。

 日本語現地ガイドの高(ガウ)さんが、「あの動物は何か分かりますか?」の問い。「麒麟でしょう。」と答えたら、「日本人の答えは皆同じ。ビールの影響ですか。」と笑いながら応じた。

 この動物は、不思議な動物の絵、頭は龍、背中は麒麟、足は牛、尻尾があり、足に宝物をたくさん持っていて、左上に描かれた太陽までをも手に入れたがっている「貪婪(どんらん)之獣」(写真9/4-4-11)と呼ばれているカラフルな絵である。

 これは、代々、役人になる孔家一族の子孫への戒めのために作られたもので、欲に埋もれ、 「貪贓枉法」(タンザンワンファー=賄賂をとって法を曲げること)を行えば、必ず罰が当たる、と厳しく教え込むために、ここに描かせたのだそうだ。

 そして、三孔の最後孔林に向かう。途中きれいな芙蓉または槿の花(写真9/4-4-12)や名前は分からないが小さな実をつけた樹木」(写真9/4-4-13)、そして柏並木」(写真9/4-4-14)を通り、広大な敷地なので電動カーで移動することになる。ここではパスポートの提示が必要である。3人とも通過するのに少し手間取ったが間に合った。

 電動カーから一族の墓が次々に見える。壇のついた墓石、壇がなく直接土中に突き刺さったような墓石、墓石がなくてドーム状に盛り上がった土だけの墓もあちらこちらに見える。孔子一族といえども本家、分家、又分家などで身分の差はあったのだろう。

 そして見事な柏並木である(写真9/4-4-15)。これまで、中国の神聖な地域、特に〇△廟と言われる一角には、必ずといってよいほど柏の樹があった。日本でよく見かける桧を中国では柏と呼んでいるものとばかり思っていたが、よくよく観察すると桧ではないことに気が付く。

 そして、次にあらわれたのは、“子貢手植えの櫂”であり、枯れてから久しい年月を経た古木であった(写真9/4-4-16、写真9/4-4-17)。手植えしたのが、何故‟“だったのか、どの様ないきさつで子貢が植えたのか。子貢孔子十哲の中でも顔回に次ぐ俊才であり、師を慕うこと特に深かったとされている人物である。

子貢が孔子を敬う弁舌で次の二つは特に有名である。
【子貢と景公との問答】
   景公:「あなたは誰を師となさっているのか?」
   子貢:「仲尼(孔子)が私の師です。」
   景公:「仲尼は賢いですか?」
   子貢:「賢いです。」
   景公:「どのように賢いのですか?」
   子貢:「存じません。」
   景公:「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さがどのようなもので  あるのかは知らないという。それでよろしいのですか」
   子貢:「人は誰でも皆、天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」
そして、ある時、子服景伯という人との問答で、
   子服:「叔孫州仇(叔孫武叔)が「子貢は孔子より優れている。」と言っていますがどう思いますか?」
   子貢:「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀の高さは高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知ることはできないでしょう。ですから、叔孫武叔がそういったのは無理ないことかもしれません。」


そして、次に孔子のお墓のところに来る。すぐそばに、かなり立派な「泗水侯墓」(写真9/4-4-18
があった。   
泗水侯は、74歳まで長生きした孔子(BC552〜BC479)の長男で、生まれたときに魯の昭公が祝いにコイを贈ったため孔鯉(BC532〜BC483)ともよばれたが、50歳で亡くなっている。
 
 孔子の墓石は二つある(写真9/4-4-19)。後ろにあるのが、宋代の「宣聖墓」というもの。前が石に黄彫りされた「大成至聖文宣王」と見える明代のものである。そしてその前に供え物を置く台が配置され、カラフルな花が供えられていた。

 文宣王という王位は唐の玄宗皇帝から与えられた後、歴代の皇帝から様々な名の王位を与えられた。1307年、元の武宗からは「大成至聖文宣王」を与えられ、それが明代に建てられた墓石に刻まれている。

 近くには子貢の墓もあった(写真9/4-4-23)。石板に「子貢盧墓處」と朱彫りされていた。立派な祠の様な建物の隣に土盛りされた墓があったが、孔子の埋葬のされ方とは少し趣が異なるように思えた。

 以上で孔林の観光と三孔の観光は終わりである。途中駐車場を横切り徒歩でホテルに向かった。途中黄色い花が満開の黄色い花をつけた樹が街路樹として植樹されていた。駱さんが調べてくれて、メモ張に書いてくれたのは“恋”と言う文字の“心”の代わりに“木”という文字が配置している文字だが、IMEパッドを用いて調べてみても出てこない文字であった。

恋の旧字が戀で「愛(糸)しい愛(糸)しい言う心」とするなら、この樹は「愛(糸)しい愛(糸)しい言う樹木」ということになる写真9/4-4-21)。街路樹にもなっているので、排気ガスに強いのであろう。

ホテルに戻って、一服してから17:20頃夕食を摂るため曲阜市街地写真9/4-4-22)を徒歩で移動し、適当な食堂を見つけ、夕食を済ませた。

  本稿 終わり      つづく

 



 







2017/11/23 22:43:04|その他
「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」1)序、2)D1

「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」
 
1)序
 現役で企業に勤務していた時、同じグループに所属していた中国人が山東省の出身で、水滸伝の梁山泊や泰山の話題が出て、その話題に共感を示したところ嬉しそうな表情をみせてくれた思い出がある。
 
 更には竜山文化で有名な黒陶は渡来人漢氏が朝鮮半島百済経由で倭国にもたらし、変じて須恵器となり、備前焼等のルーツとなっている、という話が記憶に残っていた。即ち、ものづくり文化の最たるものが陶磁器や瓦造りであるなら、日本のモノづくり文化の源流は竜山にあり、と勝手に思い込んでいた。

 そして、魯国や斉国は宮城谷昌光著の中国春秋戦国時代を彩る代表的な地であり、「太公望」、「晏子」、「孟嘗君」の舞台になった地である。

 また、孔子の孔廟の参道には立派な楷の木並木があるとの話、日本には東京お茶の水の湯島聖堂をはじめ全国で100本前後しかないといわれている珍樹である。それを是非見てみたいと思っていたのである。

 山東省の省都済南市は水の都、今回もスルーガイドをしてくれる駱暁蘇さんのお勧めの観光地である。

 山東省には他に青島や煙台という著名な観光地があり、青島には成田からの直行便もあるが、今回も駱暁蘇さんの根拠地の杭州市を旅の出発点/終着点として、往途の杭州から山東省曲阜まで、帰途の山東省済南市から杭州までは高鐵(中国版新幹線)で往復することにした。
 
 
D1: 9/3(日)東京(成田)10:10− NH929―杭州12:50 <杭州泊>
 
 前日はいつもの通り成田に前泊した。空港に近い、コンフォートホテル成田という初めてのホテルであった。これまで利用したことのあるホテルが軒並み満員で予約できなかったためであった。日本人旅行客よりも海外旅行客の増加によるものだろう。

 成田空港第一ターミナルからホテル専属のシャトルバスでホテルに向かい、翌日は朝7時に成田に向かった。成田空港第一ターミナルからホテル専属のシャトルバスでホテルに向かい、

 翌日は朝7時に成田に向かった。何を勘違いしたか、第二ターミナル
でバスを降りてしまった。4F南ウィングでチェックインするのだが、いつもと雰囲気が違う。

 間違いに気が付き、1Fまで戻りターミナルビル前の道路に客待ちしいたタクシーに乗り込んだ。タクシーの運チャン曰く。「最近はANA系のピーチ航空乗車のお客さんがよく間違えます。格安航空が第一ターミナルのはずがないと思い込むのでしょうね。」と。「いや、自分はANA利用です。」とは言い返さなかった。「国際便を持つ航空会社としてはJALが先行しANAや東亜航空が後発なのでその理由で、ANAは第二ターミナルと思い込んだことがあり、それが、睡眠不足で頭をもたげたのかも知れなかった。」というのが本音であったが、それは言わなかった。

 それほど大きな時間ロスはなく、免税店でのおみやげの買い物、トイレ、PCでのメール閲覧、などスムーズに行った。今回は無線ルータの飛行場での借用をしなかったことも時間的な余裕を生む原因になったのは否めない。
 
 定刻の搭乗、出発となった。最近は座席は往きは18H、帰りは18Aと決めている。18Hは往きに太陽光を浴びなくてよく、汗をかかなくて良い。18Aは帰りに夕景の富士山や海面に映る落陽が見えるからである。むろん、18H、18Aとも窓際である。3時間程度の乗機なので、トイレの心配もないからである。

 第一、離陸直後、着陸直前に見える下界の様子を鳥瞰視できることは無条件に楽しいことなのである。それはともかくタラップから離れ(写真9/3-1-1)、滑走路に向かって動き始めた(写真9/3-1-2)。

 最近は早起きの習慣がなくなっている為か、離陸する頃は居眠りを初めていることが多く、気が付いたらすでに離陸していて乗務員が飲みものを持ってくるころになって目が覚めるということが多くなってきた。

 食事は糖尿病食を予約できることがありがたいことである。飛行機に乗って離陸する前に、それを確認するために客室乗務員が名前を呼んで、小さいワッペンを座席の背もたれのてっ辺に貼ってゆく。

 この様子を事情の知らない通路側に座っている人たちは自分が特別な人物なのではないかという様な目つきで見るのである。なんとなく特権階級かの様にみられるのである。

 困るのは、一般食の方が先の場合で、最初に受け取った通路側の乗客が、親切にもバトンタッチの様に奥に座っている乗客に手渡ししてくれようとすることである。気持ちは有り難いが、手渡されるときにこぼしてしまったらと要らぬ心配をすることになる。

 糖尿病食はDB(Diabetesの略)と容器に書かれている。初めてこれをANA機内で食した時、結構おいしい、という体験をして以来、予約時に必ずと言ってよいくらいDB食にしている。

 こまやかなおもてなしで、中国系航空会社ではお目にかかったことがないANAならではのサービスと言える。JALは最近利用していないので分からないが。

 よほど眠かったのかまた居眠りをしていたようで「あと30分程度で着陸する」という機内アナウンスがあり、雲の層を何層か突き下っているようである。

 杭州も好天で下界の景色が明瞭に見え始める。最初に杭州湾湾岸の光景(写真9/3-1-3)が目に映る。複雑な湾岸ラインと森林が見えた。そして更に降下すると、民家が道路沿いに密集し、道路から隔たるにつれ民家を囲うように麦色の畑が位置している光景(写真9/3-1-4=着陸12分前)が明瞭に見えてきた。

 そして土色に染まった銭塘江から幅広の瑠璃色に染まった河川が見えてきた(写真9/3-1-5=着陸12分前)。更に低空飛行となり。民家の屋根が近くに見えるようになり、高度をどんどん下げていることがわかる(写真9/3-1-6=着陸5分前)。

 そして着陸態勢に入った所で水平線方向を見ると小高い山並みが見えた(写真9/3-1-7=着陸2分前)。後でGoogle Mapで調べてみると、滑走路の向き(北東から南西方向に敷設されている)と、機体の向き(滑走路の向きと同じ)とから推測すると、南から霊山、午潮山、西湖の北に位置し霊雲寺のある峰が連山の様に見えたのではないかと推察したが詳しくは分からない。そして着陸は12:44であり、成田から3.5時間の飛行であった。

 いつものように入国チェックをしてゲートを出ると、いつものように駱さんがにこやかに手を振ってくれている姿が目に入った。トイレは済ませているので、早速タクシーに乗り込んだ。

 乗り込むまでに歩きながら、「時間がまだあるので、疲れていなければ、以前、杭州開催のG20のあおりを受け、見学できなかった良緒遺跡へゆきませんか?」との問い。これに対し、「リベンジですね。機内で睡眠が摂れたので疲れてはいません。是非お願いします。」という嬉しいやり取りがあったのだ。

 そして良緒遺跡博物館の入り口まで行ったのだが、またしても休館であることが分かった。残念であったが仕方がない。杭州の宿泊予定の西湖湖畔にある杭州華僑飯店に向かった。

 少しホテルで休憩させてもらい、17:00少し過ぎに食事に向かった。途中見えた建造物は老朽化して改修さられたものが増えているとのこと(写真9/3-2-1)改修前はなんの変哲もない落ちぶれた建物であっても改修により俄然観光名所化に化けるのだろう。

 「杭州華僑飯店はかなり老朽化しているが、改修の計画はまだ聞かない。」とのことだった。立地条件が良いので改修したら料金の値上がりが目に見えている。しかし水回りや内装は気になる程度に劣化しているので改修せざるを得ないであろう。
 
 夕食はまたもや雲吞(ワンタン)である(写真9/3-2-2)。これで、朝、昼、晩続けて何回雲吞にしているのだろうか?日本ではどこの中華料理屋に行ってもタンメンだが、中国では雲吞である。

 ただし“雲吞”との表記に出会ったことはない。駱さんに聞いてみると、「広東では雲吞と書く」。そして、「江蘇省、浙江省では“餛飩”、湖北省(武漢等)では、‟包面”、江西省では、‟清湯”、四川省では、“抄手”、新疆では、“曲曲”、福建省や台湾では“扁食”という。」のだそうだ。

 自分にとっては、このままで十分おいしい料理であるが、駱さんにとってはやや味が薄いようだ。ラー油に唐辛子を混ぜたようなもので味付けをするようだ。

 店内を眺めまわすと若者が多く、また、この店は中華料理全般を出しているようだ(写真9/3-2-3)。店内は清潔である。

 駱さんは女性ならではの細やかな配慮でレストランを見つけだしてくれるので助かる。店の厨房に近いところでは、若い女性がワンタンの皮で小さな肉の塊を包んでいる様子(写真9/3-2-4)を披露していた。このような光景を見たのは2度目であった。

 食後はまだ暮れる前の西湖湖畔を散策である。歩いていた途中に同じ模様を描いた自転車(写真9/3-2-4)が見えた。スマホで決済できる貸自転車システムである。日本ではこれから普及するシステムであり、中国がいかにスマホ文化を享受しているかが分かった。

 少し歩いて目に入ったのは西湖湖畔名物のリスである。数本の木に数匹づつのリスが住み着き、観光客に食べモノをもらおうと幹を伝っておりてくる(写真9/3-2-6)。湖面に目を向けると遊覧船が浮かんでいるのが見えた(写真9/3-2-7)。駱さんがその方向にスマホカメラを向け写真を撮っていた、その姿を撮らせてもらった(写真9/3-2-8)。そして顔を少し左に回転させると。睡蓮群落と浮島亭の様な建物が見えた(写真9/3-2-9)。その近くまで歩いてゆき、そのツーショットを撮った(写真9/3-2-10)。そして駱さんの立ち姿を西湖を背景に正面から撮らせてもらった(写真9/3-2-11)。そして同じ立ち位置に自分が立ち、駱さんにカメラのシャッターを押してもらった(写真9/3-3-1)。

 そしてそれほど沢山は咲いていない睡蓮の写真を撮った(写真9/3-3-2、9/3-3-3)。なんとも言えないピンクのいでたちであった。更に蓮と浮御堂をセットで撮った(写真9/3-3-4)。浮き御堂には拡大してみると。鴫の姿があった(写真9/3-3-5、5a)。

 更に歩を進めてゆくといろいろなパフォーマンスを面前で披露する中年の男女、西湖をバックに自撮りをする若い一人旅の女性、ベンチに座り夕景を楽しむ老夫婦。時間がゆっくり流れている感じがした。

 しかし夕闇は急速に訪れていて、あっという間に日が暮れたようだ。それとともに湖岸には人があふれる様に増えてきた(写真9/3-4-1、写真9/3-4-2)。お目当ては僅か15分程度の水上噴水ショーである。

 係員が大勢の人の流れを誘導したり、制止したりで大変な騒ぎである。すでに場所取りを完了した人は、スマホを頭上高くかざし、動画モードで撮影する準備をしている。まるで、蛍がぎこちなくうごめいているように見えた。そして間もなく噴水ショーが始まった(写真9/3-4-1、写真9/3-4-4)。噴水と光と音楽のコラボである。

 自分もカメラを動画モードに切り替えてしばらく撮影した。ショーが終わりホテルに向かう。まじかにあるので、帰途が楽である。

 いつもと同様、近くのコンビニでアイスクリームと簡単なスナックを買い。ホテルの部屋に戻った。
以上でD1は終りである。
         本稿おわり  つづく







2017/03/28 22:42:15|旅日記
◆D6、D7 (11/6、11/7=日、月) 重慶市⇒上海経由成田へ

D6、D7 (11/6、11/7=日、月) 重慶市⇒上海経由成田へ
(濃霧で経由地の上海空港から離陸できず、急遽、上海で一泊、成田へは11/7=月の着となった。)

 いよいよ帰国日である。重慶空港13時30分発中国国際航空CA157便東京成田21:00着に搭乗予定であったが、十分時間があったので、宿泊ホテルの階下にある露天喫茶店というよりパン屋で、8:15頃に駱さんのお父さんと面談出来ることになった。旅行前に駱さんに、「可能であれば、駱さんのお父さんにお会いしてみたい。」と軽い気持ちで伝えてあったのだ。

 そもそも駱さんは重慶出身で、お母さんは既に亡くなっていて、お父さんはまだ存命であり80歳台半ばと聞いていた。一人で棲んでいるのであれば、駱さんが一時といえども実家に顔を出してくれるのは嬉しいことであろう。

 駱さんは時々杭州から新幹線で重慶の実家まで帰郷しているという話を聞いていたので、今回もプラス一回目の帰郷との位置づけで、ガイドの仕事と帰郷の一石二鳥になっていると推測していた。

 店に近づくと、椅子にポツ念と座る高齢者の姿が見え、他に高齢者は一人もいなかったので、それが駱さんのお父さんであることが容易に分かった。中国人の高齢者にありがちなぼってりと肥満したタイプとは全く異なり、姿勢がピンと直立した、どちらかと言えば痩身と言った方がよい姿勢をした優しそうな老人であった。

 中国人男性の平均寿命は1990年時点で67歳、2013年時点で74歳なので、それよりも10歳高齢である。趣味はほぼ毎日の仲間との麻雀とのことである。もう一つは部屋のかたづけで、見た目に几帳面という感じである。長寿の秘訣は聞き損ねた。

  ツー・ショット写真(写真11.6-1-1)を駱さんのスマホカメラで撮ってもらった。自分はどちらかと言うとポッチャリ型の体形なので、対照的な体形の二人のツー・ショット写真となった。駱さんのお父さんとの面会は今回の中国旅行の大きなットピックスになろう

 そろそろ出発しなくてはいけない時刻になったので、失礼して9;00には空港に向かうことになった。

 空港でのチェックイン(写真11.6-1-2)は駱さんが代行してくれた。出国手続きカウンターに入る前に駱さんと別離の挨拶をして、出国手続き➡手荷物チェックを何事もなく通過し、搭乗ゲートロビーに行き着いた。ロビーには出発時刻より一時間あまり早かったので、人はマバラで、日本人旅行者以外に姿は見えなかった(写真11.6-1-3、11.6-1-4)。

 搭乗ゲートロビーから外を眺めると、空模様はあまりよくないが、対面して見えるターミナルビル(写真11.6-1-5)や、管制塔(写真11.6-1-6)、駐機場(写真11.6-1-7)は靄(またはスモッグ)はかかっていず、比較的はっきりと見えている。しかし、その先の建物群は霞んで見えている(写真11.6-1-5)が、離着陸の障害になるほどではなく、定刻の12:45にCA157便上海経由東京成田行きに搭乗し、搭乗後45分ほどで、空港を離陸した。

 離陸して間もなく、濃霧で眼下が見えなくなったが、離陸10分後には眼下が開けてきて、高速道路(写真11.6-1-8)、広大な長江沿いの港(写真11.6-1-9〜11.6-1-11)などが次々に目に入ってきた。そして更に1時間足らずで、機内食となった。

 約2時間ほどの15:38で上海浦東空港(写真11.6-2-1)に着陸した。空は晴れているが、水平線方向は靄(またはスモッグ)で重慶よりは霞んで見える。

 ここで、また機体は同じであるが、出国手続きをするため、機内持ち込み手荷物を全てもって機外へ出て、出国手続きをすることになる。往きと同様、CAの案内人が最初から最後の搭乗までを案内してくれる。

 一般の上海からの搭乗客に比較し、時間的な便宜を図ってくれると思っていたが、裏コースがあるわけではなく、CA157便に再搭乗するまで1時間以上はかかった。それでもあとは成田到着を待つのみと思うと気分は楽であった。

 しかし、この後、その気分は暗転することになるのだ。搭乗予定の時刻になっても搭乗案内はなく、機体はあるので、整備に手間取っているのだろうか。多分アナウンスされているのだろうが、中国語なので分からない。ANAであれば、この様な事態をどの様に切り抜けるであろうか。

 ここ数年、駱さんの地元である杭州をベースとした中国観光を続けているのでANAの直行便を利用している。言葉が通じることもあるが、ANAのいたれりつくせりの機内サービスがなつかしくなった。

 滑走路方向の上空を見ると、薄暮の空を次から次へと間断なく、着陸態勢の航空機が見えている。この波が一段落するまで搭乗を待たされる予感がした。既に夕刻近い時刻になって、やっと搭乗できたが、機は相変わらず動こうとはしない。そのうち離陸もしていないうちに機内食が出された。悪い予感がした。かつて桂林からの帰途桂林から広州への国内便が天候不良で欠便となり桂林で足止めされた時のことを思い出しだ。

 自分の座席隣には東京芸大教授とやらの、自分よりは少しだけ若そうな人物が座っている。中国語も日本語も分かるようだが日本人だろう。その隣の通路側の席にはその奥さんらしい中年の女性、多分こちらはバイリンガルの中国人、が座っていて、盛んに遅れ具合に腹を立てていて、その腹立ちに同調してもらいたいような眼差しと言葉(日本語)を向けてくる。

 そして、ついには、「日本人はこんな事態に、状況説明を求めるでもなしに、よくおとなしくしている。」との発言。悪意がある発言とは感じなかったが、近くにいた日本人はこれを聞いて、同意をしても腹をたてた人は居ない様だ。日本人の腹立ちを代弁した様な形となった。

 しばらくして機体は少しずつ動き始めた。しかし足止めをされた機体は多く、滑走路まではまだまだ先のようで、いつ離陸できるかは保証できないという感じであった。

 すでに空港は暗闇に包まれていて、不安が高まってきた。翌日月曜日は陶芸教室に10時までにおみやげをもって行かなくてはいけない。翌日から早速仕事という日本人にとってみれば、気が気ではない事態が進行しているのである。

 既に現地時間でPM6時は過ぎている。日本時間ではPM7時ころであり、日本時間PM9時の成田着陸予定時刻に間にあうだろうか?遅れると、西武池袋線飯能行きの最終列車に間に合わなくなってしまう。

 この危惧が的中した。まもなく機内放送で、「このまま離陸して成田に向かっても、成田空港の営業時間内には着かない」との理由で、CA157便は欠航となったのだ。

 乗客は駐機場で全員機内から降ろされ、暗闇の中で途方に暮れるばかり(写真11.6-2-2〜11.6-2-6)、先ずはターミナルビルまで安全に誘導して欲しいところだ。

 間もなく、ターミナルビルまでの移動用バスが来て、全員がターミナルビルまで搬送された。そして、親切な、バイリンガルの女性が乗客を代表してくれたかの様に航空会社のアナウンスを日本語に訳してくれて、またいろいろとCA職員に、打診や折衝をしてくれた。多くの日本人旅行客が助けられたに違いない。本人は楽団員の様で、コントラバスの様な大きな荷物を移動させながらも、このような役割を買って出てくれたのである。

 そのあと航空会社手配のバスに乗って、ホテルに向かい、ホテルでのチェックインや部屋の割り当てもテキパキと最後までこなしてくれた。桂林での不安を感じないで済んだ。翌日のホテルのチェックアウト、空港までの誘導もチェックイン(写真11.7 -1-1〜11.7 -1-2)も先頭にたってこなしてくれて、どれだけ安楽な気持ちになれたか、そう思ったのは自分だけではない筈である。まさに彼女は楽器をかかえて飛び回る飛天のようであった。

 通常便か特別便か分からなかったが、とにかく成田行き11:30発の便に乗れた。隣席には昨夜のホテルで相部屋だった若者若松さんであった。千葉県の証券会社の社員ということであった。

 機中での「トランプ大統領が誕生するか」という話題に対し、自分は先ず無いだろうと決めつけたが、彼は、「意外と分からない。」との見解であった。日本の証券界は、そのほうが日本の経済発展にとって好ましいという情報でもあるのか、とその時は思ったが、事実トランプ大統領が誕生し、株価も上昇したことを思うと、本当にその様な情報が非公式に流れていたのかも知れない。

 時刻は前後してしまったが、搭乗後30分経過後の12:00少し前にCAで発行してくれた遅延証明書(写真11.7 -1-3)を見ていると、早くも機内食(写真11.7 -1-4)が出てきた。
 それほど食欲は無かったが、これを逃すと自宅にたどり着くまで食にありつけない予感がしてきたので何一つ残さず完食した。

 そしてPM3:00過ぎに成田に到着。飛行場での入国手続きなどやWIFIの返却などで時間を費やし、自宅に帰ったのはPM6:00前後となった。
「四川省及び重慶市の旅物語」の完結である。   完   







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