槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2017/12/11 1:09:06|旅日記
「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」 D2: 9/4(月)杭州−曲阜(孔府,孔庙)<曲阜泊>

「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」 

D2: 9/4(月)杭州−曲阜(孔府,孔)<曲阜泊>
 ホテルまでは駱さんが迎えに来てくれて、杭州東まではタクシーである。何度か利用している駅で少しは慣れてきた。安全チェック等を経て見慣れた駅構内ロビーの出発ゲート前のベンチで待機することになった。

 ゲートには乗車予定の列車の案内が電光掲示がされている(写真9/4-1-1)。列車番号G58の寧波発北京南往き9:52発、乗車できるのは9-16号車、3番ホームに入線と表示され、発車3分前には改札終了、すると表示されている。同じホームの2番ホームには麗水発合肥南往き10:01発の列車G7632が入線の予定と表示されている。

 そして改札が開始され、階段を下りて3番ホームに向かう(写真9/4-1-2)。概して中国の列車のホームは日本より暗い。地下鉄含めて全体的に言えることの様に感じている。必要以上に明るくするのは、電力消費の点で好ましくなく、また蛍光灯証明は紫外線を発生するので、人の眼にも良くない。

 発車してしばらくすると窓外に黄色い花をつけた樹木が見えた(写真9/4-1-3)。この樹木は山東省に入ってから槐と同様に頻繁に街路で出会うことになる。後で。駱さんが調べてくれたところ。恋という字で。“心”のかわりに“木”という字がくる日本語には無い漢字である。

 杭州東駅を出発して一時間足らず経ったころ、高鐵は時速306kmと表示されていた(写真9/4-1-4)。日本の様に線路の近くに建物が無いせいか、それほどの高速感はない。

 駱さんがいろいろな御菓子をテーブルの上に出してくれていたが、今度は柚子(写真9/4-1-5)を出してむいてくれた。柚子といっても日本の柚子とは大違い、巨大グレープフルーツ・ルビーといった方がピンと来る。3年連続で秋に中国に来ているが、この季節は果物に出会う時期であり、楽しみになっている。

 かつて中国に来て、リヤカーに大量に載せて街路で売られていた柿を買い食べたことがあるが、最近は殆ど見なくなった。それだけ高速道路が増え、柿が売られている街路を通行する機会が減ったからかも知れない。

 新幹線(高鐵)の車内を見回してみたが、ビジネスマン風の乗客は殆どいない(写真9/4-1-6)。元気な中高年、高齢者の集団が目につく。座席の足元にはPCやスマホ充電用のコンセントがある。ビジネスマンはPCのキーをいじり。書類を開き目を通す。そのような仕草の乗客は殆ど目に入らない。それよりも座席を立ち、きょろきょろしている熟年と思われる乗客の方が目につく。

 今回は32GBのSDを突っ込んでいるので、かなりの時間、動画を撮っていた。そんなこともあり、約3時間の新幹線の旅はあっという間に降車駅曲阜東駅に着いた(写真9/4-1-7)。
 
 乗ってきた車両を振り返ると愛称は「和諧号」ではなく、「華夏幸福号」であることに気が付いた(写真9/4-1-8)。時刻は現地時間12:25なので、3時間より0.5時間ほど短い2.5時間の乗車ということになる。

 その時計の横に、「四海の内皆兄弟」(論語)ということばが電光掲示されていた(写真9/4-1-9)。如何にも孔子のふるさと曲阜である。この稿を書くにあたり、この言葉を吟味しなおしてみた。

論語 顔淵第十二 5 司馬牛憂曰。人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰。商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮。四海之内。皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也
司馬牛(しばぎゅう)(うれ)えて(いわ)く、(ひと)(みな)兄弟(けいてい)()り、(われ)(ひと)()し。子夏(しか)(いわ)く、(しょう)(これ)()く。死生(しせい)(めい)()り。富貴(ふうき)(てん)()り。君子(くんし)(けい)して(うしな)()く、(ひと)(まじ)わるに(うやうや)しくして(れい)()らば、四海(しかい)(うち)(みな)兄弟(けいてい)なり。君子(くんし)(なん)兄弟(けいてい)()きを(うれ)えんや。

 曲阜東駅からホテルまではタクシーでゆくことになっている。待合室で待っていると運転手らしい男がやってきてタクシー乗り場へ案内してくれ、その人ではない運転手が運転席でまっていた。20分も乗ると早くも道路は閑散としてきた(写真9/4-1-10)。更に10分ほど乗って今夜宿泊予定のホテル曲阜春秋大酒店@曲阜市春秋路に着いた。

 早速駱さんが代わりにチェックインをしてくれている(写真9/4-1-11)。このチェックイン手続きの間にホテルロビーを眺めまわし、飾られた逸品を探すのが恒例となっている。するとガラスケースに収まった大きな陶磁器のレプリカが目に入ったのである(写真9/4-1-12)。

 荷物をホテルに置いて早速孔廟、孔府の観光開始である。最初に観光したのは孔廟である。曲阜と朱記された石碑の背後には、城壁が見え(写真9/4-1-14)、レンガ作りの城壁には「仭宮牆」と朱彫りされ、その下に入り口がある(写真9/4-1-13)。萬仭宮牆とは 『学問の道は 近道などない それは高くて深い宮殿の土塀のようだ だから 学問の道に入り コツコツと 懸命に 努力せよ』との意味らしい。また宮牆(キュウショウ)」という言葉は「論語」に出てきて有名である。今回の山東省旅行で、「四海の内皆兄弟」についで二つ目の論語であった。言葉の意味を知り、思わず反省である。

 最初の門をくぐると次から次へ朱彫りや緑彫りの門(石坊)が現れる。最初の門をくぐったら実をたくさんつけたの木(写真9/4-1-15)が目に入った。杭州では殆ど見られない樹、駱さんにも珍しいのかスマホをかざして写真を撮っていた。

 次に現れた門には「金声玉振」(写真9/4-1-16左)とある。備わっている才知と、人徳の釣り合いが取れていることのたとえ。または、そのような人のこと。三つ目の論語文である。「金声」は鐘を鳴らすこと。「」は磬という打楽器のこと。「振」は収めること。古代中国の音楽は、まず始めに鐘の音から始まって、琴や笛の音が続き、最後は磬で締めくくるというもので、最初から最後までよく整っているもののたとえとして使われる。孟子が孔子を賛美したとされる言葉。

 次の門は、「櫺星門」。四柱三門の石坊には黄彫りされた文字が浮かんでいる(写真9/4-1-17)。櫺星とは、天上の文星を指すといわれていて孔子のことを表している。

 次の四柱三門の石坊には緑彫りされた、おなじみ「太和元気」の文字である(写真9/4-1-16右)。この言葉のレヴューをする。「太和」とは宇宙万物のすべてが和らぎあい、調和を保つことが基本であり、「元気」とは人間社会が存続する上で不可欠な活力を言う。四つ目の論語文である。

 途中に、“孔廟平面示意図” (写真9/4-1-18)という案内図がある。この図に基づいて孔廟境内を観てみると、相当の広さである。全建造物を一括表現すると、すべての廟が五殿・一祠・一閣・一壇・二堂・十七碑亭・五十三門坊、ということになるのだそうだ。

 その内訳をこの案内図に基づいて表現すると。一番奥の大成殿に至るまでに、中央の参道上に三つの石坊、六つの門、一つの川を通過する必要がある。また門と名のついている建造物で中央の参道から外れた位置にあるものを入れると、二つ、同じく中央の参道から外れた位置にあり、門の形をしているが“碑亭”という名前が13+2軒ある。「人は大成するまでにこれだけ多くの門をくぐり抜けてないといけない。」とでも言っているように見えるが、孔子の何らかの教えにもとづいているに違いない。

 境内は広く、移動するのに時間がかかる。“至聖廟”と朱彫りされた石坊(写真9/4-2-1)が現れた。ところが、この石坊、先ほどの案内図には出ていない。おそらくこれは観光客のための案内碑で最近たてられたのだろう。「ここからが本当の孔廟なのですよ」と言っているかのである。

 “孔廟”という名称はかなり最近呼ばれ始めた名前で、本当の名前は“至聖廟”と言う、としている人が多い。そう考えると、先ほどの案内図がなぜ最初の門“金声玉振と表記された門”のところになく、“至聖廟”と朱彫りされた石坊の前にあったのかが氷解する。

 言い訳しているようなこの石坊というより案内碑と言った方が正しいのかも知れない。“至誠”という言葉もあるが、これも孔子の教えに因む言葉であろうか。調べてみると、孔子の弟子の孟子の言葉で、「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」から来た言葉であり、日本人の好きな文字であり、新選組をはじめ個人の名前に用いられる。自分にとって五つ目の論語文である。

 案内図にもあった小川に架かっている石橋(写真9/4-2-2)を渡ると、大きなお堂が現れ、その入り口に“弘道門” (写真9/4-2-3)と書かれた立派な門というより“楼閣”と言った方が良い、作りが立派な門が現れた。彩色が美しく、青色は見ていると吸い込まれるようだが、ラビスラズリを使っているのだろう(写真9/4-2-4)。

 そして“大中門”写真9/4-2-5)、“同文門”写真9/4-2-6)とつづく。いづれも天井の彩色の形式は同じで、天井に施された塗りの色彩がきれいだ。赤青黄の彩色は中国古来の伝統色である。

 そして次に現れたのは亀(?)の上に巨大な石碑が載ったモニュメントである(写真9/4-2-7)。龍の子の上に黄石公が立ち姿で載っているという像は見かけることがあるが。この様な像はみたこともない。

 ところで、孔廟は日本人観光客に人気の観光地と見えて、日本語ガイドがいて駱さんが手配していてくれたのだろう。愛想がよく日本語が流ちょうな高(ガオ)さんの登場である(写真9/4-2-8)。

 次に現れたのは、奎文閣(写真9/4-2-9)であった。孔廟の中心的建築物の一つで、元来、献上された書物を収蔵している場所である。奎”とは星の名で二十八宿の一つ、孔子を天上の奎星に喩えたと言われている。

 この雄大な建築物は木造建築物で、中国の楼建設の上で飛びぬけている。その高さは23.35m、東西の幅は30.10m、南北の奥行きは17.62m、三階建て、四重のますぐみ、合理的な構造で、非常に頑丈。数百年の雨風と何回もの地震の揺れにも堪えてきた、とのことである。

 巨大すぎて、少し離れてみないと全貌が見えない。近くでみた屋根と柱の間の軒下の模様を彩る色は、またしてもラビスラズリを塗料とした青いというより濃紺色であった(写真9/4-2-10)。
 
 そして、金属製の柵に囲まれ、それほど幹が太くはない老木と、その近くに、見たこともない文字が刻まれた石碑(写真9/4-2-11)が目に入った。そして目を凝らしてみると、横には漢字が添えられている(写真9/4-2-12)。金王朝時代に孔廟は修復されているとのことなので女真文字かも知れない。しかし、拡大しても(写真9/4-2-13)何が書かれているのか全く分からなかった。

 そして更に北に向かって歩くと向かって右側に太鼓が置かれた大成門の建物(写真9/4-2-14)が現れた。“大成門”という文字が縦書きされ立派な額に収まっている(写真9/4-3-12)が、まだ新しく金ピカという見え方であった。そしてこの大成門をくぐると仏教で言うと本堂ともいうべき大成殿である。

 Wikipediaには、そのスケールが次の様に紹介されている。
「大成殿はすべての中心となる巨大な建物で、横54m、奥行き34m、高さは32mに達する。28本の装飾を施された柱で支えられているが、それぞれ6mの高さと0.8mの直径があり、それぞれ地元の一個の石から切り出されている。宮殿正面の10本の柱は渦を巻いた龍で飾られている。これらの柱は、皇帝が曲阜を訪れたときには、皇帝に嫉妬心を起こさせて持ち去られないようにするため覆いを掛けられていたといわれている。大成殿は孔子の祭祀にあたって犠牲を供える場所でもある。」

 大成殿の手前に「杏壇」 (写真9/4-3-13) と名付けられた、孔子が弟子に講学を行ったところとされる堂がある。杏の木の下で教えたといわれることを記念して名づけられているのだそうだ。「杏壇」と彫られた石碑(写真9/4-3-15)と、孔子ではなさそうな人物が祀られていた(写真9/4-3-16)。孔子が弟子に講学を行ったところだとすると孔子なのだろうが、少し表情がギラギラしすぎている。

 そして今度こそ大成殿写真9/4-3-17)である。堂内には様々な吊り鐘式の楽器や調度品が展示されている(写真9/4-3-18)。また「万世師表」や「斯文在茲」の文字が飾られている(写真9/4-3-19)。

 「万世師表」は、康熙23年(1684)に康熙帝が孔子旧居を訪れ、御書「万世師表」巻を贈り、その翌年には扁額を模拓させて全国の孔子廟に配布したのだそうだ。一方の「斯文在茲」は、何故か、ウェブ検索しても日本語で分かり易く説明されているものは見つからず、中国語の説明ばかりであった。
 
 そして大成殿の正面中央に祀られている(写真9/4-3-20)のは孔子に間違いないが、その顔を見ると、先ほど「杏壇」で見た像と同じ髭、ぎょろめ、服装、姿勢であった。そして屋根を支える巨大で絢爛豪華な彫りの入っている柱である(写真9/4-3-21)。この宮殿正面の10本の柱は渦を巻いた龍で飾られている。

 そして最後の立派な建造物は陳列館または宝物殿だろうか(写真9/4-4-1)。中に入ると、祭壇があるが祀られているのは人ではなく物であったが何かわからなかった。また内部に孔子物語のような絵図が飾られていて(写真9/4-4-2)、そこには斎国の景公へ登用を申し入れたが、晏嬰の意見により敵わなかったこと、そして弟子たちと諸国遍歴の旅に出たことが絵図とともに描かれている。

 孔子は晏嬰のことを「晏平仲、善く人と交わる。久しうして人これを敬す(晏平仲の人との交わり方は素晴らしい。交友した人々は皆、いつのまにか晏嬰を敬し親しむようになる)」と評したというから、その尊敬すべき人物の意見で、採用が叶わなかったのなら、と諸国遍歴の旅に出たのも心情的にわかるような気がする。

 そしてその堂宇から離れ、「孔府」に入る。「孔府」とは、代々孔子の子孫たちが生活した邸宅である。「魯壁」と書かれた石碑とその背後に赤色の壁が現れた(写真9/4-4-3)。これは孔子の時代より遥か後世、秦の始皇帝時代の「焚書坑儒」の時に「焚書」をまぬかれる為に壁の中に埋めて隠した。」という壁とのことである。

 更に前漢の武帝(前141〜前87在位)の時代になって、ここ曲阜で、孔子の旧宅を壊して宮殿にしょうとする工事が開始された時、思いがけず壁の中に隠されていた古書群が発見されたのだそうだ。

 そして「魯壁」の手前には、金網がかぶさった「孔宅故井」と呼ばれる丸井戸が現れた(写真9/4-4-4)。孔家の人々が実際に使用したと伝えられる井戸だ。
そして、「聖府」と書かれた扁額がかかった(写真9/4-4-6)堂宇が現れた(写真9/4-4-5)。孔府は別称を聖府とも言い、孔廟の東に隣接している孔家の邸宅である。その邸宅群の門が現れたのだ。

 その堂宇と言うか屋敷の一角に「六代含飴」と書かれた額と、その下に文字がびっしり書かれた額が現れた(写真9/4-4-7)。飴を口に含むように甘く、気分よく家族六世代が一緒に楽しく暮らしていると言う意味で、時の皇帝乾隆帝が贈ったのだそうだ。

 そして、その邸宅から出て、太湖石で作られたモニュメント(写真9/4-4-8)を横眼で見て通り過ぎ、更に細い路地のような通路(写真9/4-4-9)を行く。

 途中建物の屋根を見ると龍の姿の軒丸瓦と複雑な絵が彫られている軒平瓦、そして瓦の稜線には一匹の龍が寝そべっているだけ(写真9/4-4-10)。居住空間である邸宅には宝物は無い、という現れであるか。

 日本語現地ガイドの高(ガウ)さんが、「あの動物は何か分かりますか?」の問い。「麒麟でしょう。」と答えたら、「日本人の答えは皆同じ。ビールの影響ですか。」と笑いながら応じた。

 この動物は、不思議な動物の絵、頭は龍、背中は麒麟、足は牛、尻尾があり、足に宝物をたくさん持っていて、左上に描かれた太陽までをも手に入れたがっている「貪婪(どんらん)之獣」(写真9/4-4-11)と呼ばれているカラフルな絵である。

 これは、代々、役人になる孔家一族の子孫への戒めのために作られたもので、欲に埋もれ、 「貪贓枉法」(タンザンワンファー=賄賂をとって法を曲げること)を行えば、必ず罰が当たる、と厳しく教え込むために、ここに描かせたのだそうだ。

 そして、三孔の最後孔林に向かう。途中きれいな芙蓉または槿の花(写真9/4-4-12)や名前は分からないが小さな実をつけた樹木」(写真9/4-4-13)、そして柏並木」(写真9/4-4-14)を通り、広大な敷地なので電動カーで移動することになる。ここではパスポートの提示が必要である。3人とも通過するのに少し手間取ったが間に合った。

 電動カーから一族の墓が次々に見える。壇のついた墓石、壇がなく直接土中に突き刺さったような墓石、墓石がなくてドーム状に盛り上がった土だけの墓もあちらこちらに見える。孔子一族といえども本家、分家、又分家などで身分の差はあったのだろう。

 そして見事な柏並木である(写真9/4-4-15)。これまで、中国の神聖な地域、特に〇△廟と言われる一角には、必ずといってよいほど柏の樹があった。日本でよく見かける桧を中国では柏と呼んでいるものとばかり思っていたが、よくよく観察すると桧ではないことに気が付く。

 そして、次にあらわれたのは、“子貢手植えの櫂”であり、枯れてから久しい年月を経た古木であった(写真9/4-4-16、写真9/4-4-17)。手植えしたのが、何故‟“だったのか、どの様ないきさつで子貢が植えたのか。子貢孔子十哲の中でも顔回に次ぐ俊才であり、師を慕うこと特に深かったとされている人物である。

子貢が孔子を敬う弁舌で次の二つは特に有名である。
【子貢と景公との問答】
   景公:「あなたは誰を師となさっているのか?」
   子貢:「仲尼(孔子)が私の師です。」
   景公:「仲尼は賢いですか?」
   子貢:「賢いです。」
   景公:「どのように賢いのですか?」
   子貢:「存じません。」
   景公:「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さがどのようなもので  あるのかは知らないという。それでよろしいのですか」
   子貢:「人は誰でも皆、天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」
そして、ある時、子服景伯という人との問答で、
   子服:「叔孫州仇(叔孫武叔)が「子貢は孔子より優れている。」と言っていますがどう思いますか?」
   子貢:「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀の高さは高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知ることはできないでしょう。ですから、叔孫武叔がそういったのは無理ないことかもしれません。」


そして、次に孔子のお墓のところに来る。すぐそばに、かなり立派な「泗水侯墓」(写真9/4-4-18
があった。   
泗水侯は、74歳まで長生きした孔子(BC552〜BC479)の長男で、生まれたときに魯の昭公が祝いにコイを贈ったため孔鯉(BC532〜BC483)ともよばれたが、50歳で亡くなっている。
 
 孔子の墓石は二つある(写真9/4-4-19)。後ろにあるのが、宋代の「宣聖墓」というもの。前が石に黄彫りされた「大成至聖文宣王」と見える明代のものである。そしてその前に供え物を置く台が配置され、カラフルな花が供えられていた。

 文宣王という王位は唐の玄宗皇帝から与えられた後、歴代の皇帝から様々な名の王位を与えられた。1307年、元の武宗からは「大成至聖文宣王」を与えられ、それが明代に建てられた墓石に刻まれている。

 近くには子貢の墓もあった(写真9/4-4-23)。石板に「子貢盧墓處」と朱彫りされていた。立派な祠の様な建物の隣に土盛りされた墓があったが、孔子の埋葬のされ方とは少し趣が異なるように思えた。

 以上で孔林の観光と三孔の観光は終わりである。途中駐車場を横切り徒歩でホテルに向かった。途中黄色い花が満開の黄色い花をつけた樹が街路樹として植樹されていた。駱さんが調べてくれて、メモ張に書いてくれたのは“恋”と言う文字の“心”の代わりに“木”という文字が配置している文字だが、IMEパッドを用いて調べてみても出てこない文字であった。

恋の旧字が戀で「愛(糸)しい愛(糸)しい言う心」とするなら、この樹は「愛(糸)しい愛(糸)しい言う樹木」ということになる写真9/4-4-21)。街路樹にもなっているので、排気ガスに強いのであろう。

ホテルに戻って、一服してから17:20頃夕食を摂るため曲阜市街地写真9/4-4-22)を徒歩で移動し、適当な食堂を見つけ、夕食を済ませた。

  本稿 終わり      つづく

 



 







2017/11/23 22:43:04|その他
「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」1)序、2)D1

「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」
 
1)序
 現役で企業に勤務していた時、同じグループに所属していた中国人が山東省の出身で、水滸伝の梁山泊や泰山の話題が出て、その話題に共感を示したところ嬉しそうな表情をみせてくれた思い出がある。
 
 更には竜山文化で有名な黒陶は渡来人漢氏が朝鮮半島百済経由で倭国にもたらし、変じて須恵器となり、備前焼等のルーツとなっている、という話が記憶に残っていた。即ち、ものづくり文化の最たるものが陶磁器や瓦造りであるなら、日本のモノづくり文化の源流は竜山にあり、と勝手に思い込んでいた。

 そして、魯国や斉国は宮城谷昌光著の中国春秋戦国時代を彩る代表的な地であり、「太公望」、「晏子」、「孟嘗君」の舞台になった地である。

 また、孔子の孔廟の参道には立派な楷の木並木があるとの話、日本には東京お茶の水の湯島聖堂をはじめ全国で100本前後しかないといわれている珍樹である。それを是非見てみたいと思っていたのである。

 山東省の省都済南市は水の都、今回もスルーガイドをしてくれる駱暁蘇さんのお勧めの観光地である。

 山東省には他に青島や煙台という著名な観光地があり、青島には成田からの直行便もあるが、今回も駱暁蘇さんの根拠地の杭州市を旅の出発点/終着点として、往途の杭州から山東省曲阜まで、帰途の山東省済南市から杭州までは高鐵(中国版新幹線)で往復することにした。
 
 
D1: 9/3(日)東京(成田)10:10− NH929―杭州12:50 <杭州泊>
 
 前日はいつもの通り成田に前泊した。空港に近い、コンフォートホテル成田という初めてのホテルであった。これまで利用したことのあるホテルが軒並み満員で予約できなかったためであった。日本人旅行客よりも海外旅行客の増加によるものだろう。

 成田空港第一ターミナルからホテル専属のシャトルバスでホテルに向かい、翌日は朝7時に成田に向かった。成田空港第一ターミナルからホテル専属のシャトルバスでホテルに向かい、

 翌日は朝7時に成田に向かった。何を勘違いしたか、第二ターミナル
でバスを降りてしまった。4F南ウィングでチェックインするのだが、いつもと雰囲気が違う。

 間違いに気が付き、1Fまで戻りターミナルビル前の道路に客待ちしいたタクシーに乗り込んだ。タクシーの運チャン曰く。「最近はANA系のピーチ航空乗車のお客さんがよく間違えます。格安航空が第一ターミナルのはずがないと思い込むのでしょうね。」と。「いや、自分はANA利用です。」とは言い返さなかった。「国際便を持つ航空会社としてはJALが先行しANAや東亜航空が後発なのでその理由で、ANAは第二ターミナルと思い込んだことがあり、それが、睡眠不足で頭をもたげたのかも知れなかった。」というのが本音であったが、それは言わなかった。

 それほど大きな時間ロスはなく、免税店でのおみやげの買い物、トイレ、PCでのメール閲覧、などスムーズに行った。今回は無線ルータの飛行場での借用をしなかったことも時間的な余裕を生む原因になったのは否めない。
 
 定刻の搭乗、出発となった。最近は座席は往きは18H、帰りは18Aと決めている。18Hは往きに太陽光を浴びなくてよく、汗をかかなくて良い。18Aは帰りに夕景の富士山や海面に映る落陽が見えるからである。むろん、18H、18Aとも窓際である。3時間程度の乗機なので、トイレの心配もないからである。

 第一、離陸直後、着陸直前に見える下界の様子を鳥瞰視できることは無条件に楽しいことなのである。それはともかくタラップから離れ(写真9/3-1-1)、滑走路に向かって動き始めた(写真9/3-1-2)。

 最近は早起きの習慣がなくなっている為か、離陸する頃は居眠りを初めていることが多く、気が付いたらすでに離陸していて乗務員が飲みものを持ってくるころになって目が覚めるということが多くなってきた。

 食事は糖尿病食を予約できることがありがたいことである。飛行機に乗って離陸する前に、それを確認するために客室乗務員が名前を呼んで、小さいワッペンを座席の背もたれのてっ辺に貼ってゆく。

 この様子を事情の知らない通路側に座っている人たちは自分が特別な人物なのではないかという様な目つきで見るのである。なんとなく特権階級かの様にみられるのである。

 困るのは、一般食の方が先の場合で、最初に受け取った通路側の乗客が、親切にもバトンタッチの様に奥に座っている乗客に手渡ししてくれようとすることである。気持ちは有り難いが、手渡されるときにこぼしてしまったらと要らぬ心配をすることになる。

 糖尿病食はDB(Diabetesの略)と容器に書かれている。初めてこれをANA機内で食した時、結構おいしい、という体験をして以来、予約時に必ずと言ってよいくらいDB食にしている。

 こまやかなおもてなしで、中国系航空会社ではお目にかかったことがないANAならではのサービスと言える。JALは最近利用していないので分からないが。

 よほど眠かったのかまた居眠りをしていたようで「あと30分程度で着陸する」という機内アナウンスがあり、雲の層を何層か突き下っているようである。

 杭州も好天で下界の景色が明瞭に見え始める。最初に杭州湾湾岸の光景(写真9/3-1-3)が目に映る。複雑な湾岸ラインと森林が見えた。そして更に降下すると、民家が道路沿いに密集し、道路から隔たるにつれ民家を囲うように麦色の畑が位置している光景(写真9/3-1-4=着陸12分前)が明瞭に見えてきた。

 そして土色に染まった銭塘江から幅広の瑠璃色に染まった河川が見えてきた(写真9/3-1-5=着陸12分前)。更に低空飛行となり。民家の屋根が近くに見えるようになり、高度をどんどん下げていることがわかる(写真9/3-1-6=着陸5分前)。

 そして着陸態勢に入った所で水平線方向を見ると小高い山並みが見えた(写真9/3-1-7=着陸2分前)。後でGoogle Mapで調べてみると、滑走路の向き(北東から南西方向に敷設されている)と、機体の向き(滑走路の向きと同じ)とから推測すると、南から霊山、午潮山、西湖の北に位置し霊雲寺のある峰が連山の様に見えたのではないかと推察したが詳しくは分からない。そして着陸は12:44であり、成田から3.5時間の飛行であった。

 いつものように入国チェックをしてゲートを出ると、いつものように駱さんがにこやかに手を振ってくれている姿が目に入った。トイレは済ませているので、早速タクシーに乗り込んだ。

 乗り込むまでに歩きながら、「時間がまだあるので、疲れていなければ、以前、杭州開催のG20のあおりを受け、見学できなかった良緒遺跡へゆきませんか?」との問い。これに対し、「リベンジですね。機内で睡眠が摂れたので疲れてはいません。是非お願いします。」という嬉しいやり取りがあったのだ。

 そして良緒遺跡博物館の入り口まで行ったのだが、またしても休館であることが分かった。残念であったが仕方がない。杭州の宿泊予定の西湖湖畔にある杭州華僑飯店に向かった。

 少しホテルで休憩させてもらい、17:00少し過ぎに食事に向かった。途中見えた建造物は老朽化して改修さられたものが増えているとのこと(写真9/3-2-1)改修前はなんの変哲もない落ちぶれた建物であっても改修により俄然観光名所化に化けるのだろう。

 「杭州華僑飯店はかなり老朽化しているが、改修の計画はまだ聞かない。」とのことだった。立地条件が良いので改修したら料金の値上がりが目に見えている。しかし水回りや内装は気になる程度に劣化しているので改修せざるを得ないであろう。
 
 夕食はまたもや雲吞(ワンタン)である(写真9/3-2-2)。これで、朝、昼、晩続けて何回雲吞にしているのだろうか?日本ではどこの中華料理屋に行ってもタンメンだが、中国では雲吞である。

 ただし“雲吞”との表記に出会ったことはない。駱さんに聞いてみると、「広東では雲吞と書く」。そして、「江蘇省、浙江省では“餛飩”、湖北省(武漢等)では、‟包面”、江西省では、‟清湯”、四川省では、“抄手”、新疆では、“曲曲”、福建省や台湾では“扁食”という。」のだそうだ。

 自分にとっては、このままで十分おいしい料理であるが、駱さんにとってはやや味が薄いようだ。ラー油に唐辛子を混ぜたようなもので味付けをするようだ。

 店内を眺めまわすと若者が多く、また、この店は中華料理全般を出しているようだ(写真9/3-2-3)。店内は清潔である。

 駱さんは女性ならではの細やかな配慮でレストランを見つけだしてくれるので助かる。店の厨房に近いところでは、若い女性がワンタンの皮で小さな肉の塊を包んでいる様子(写真9/3-2-4)を披露していた。このような光景を見たのは2度目であった。

 食後はまだ暮れる前の西湖湖畔を散策である。歩いていた途中に同じ模様を描いた自転車(写真9/3-2-4)が見えた。スマホで決済できる貸自転車システムである。日本ではこれから普及するシステムであり、中国がいかにスマホ文化を享受しているかが分かった。

 少し歩いて目に入ったのは西湖湖畔名物のリスである。数本の木に数匹づつのリスが住み着き、観光客に食べモノをもらおうと幹を伝っておりてくる(写真9/3-2-6)。湖面に目を向けると遊覧船が浮かんでいるのが見えた(写真9/3-2-7)。駱さんがその方向にスマホカメラを向け写真を撮っていた、その姿を撮らせてもらった(写真9/3-2-8)。そして顔を少し左に回転させると。睡蓮群落と浮島亭の様な建物が見えた(写真9/3-2-9)。その近くまで歩いてゆき、そのツーショットを撮った(写真9/3-2-10)。そして駱さんの立ち姿を西湖を背景に正面から撮らせてもらった(写真9/3-2-11)。そして同じ立ち位置に自分が立ち、駱さんにカメラのシャッターを押してもらった(写真9/3-3-1)。

 そしてそれほど沢山は咲いていない睡蓮の写真を撮った(写真9/3-3-2、9/3-3-3)。なんとも言えないピンクのいでたちであった。更に蓮と浮御堂をセットで撮った(写真9/3-3-4)。浮き御堂には拡大してみると。鴫の姿があった(写真9/3-3-5、5a)。

 更に歩を進めてゆくといろいろなパフォーマンスを面前で披露する中年の男女、西湖をバックに自撮りをする若い一人旅の女性、ベンチに座り夕景を楽しむ老夫婦。時間がゆっくり流れている感じがした。

 しかし夕闇は急速に訪れていて、あっという間に日が暮れたようだ。それとともに湖岸には人があふれる様に増えてきた(写真9/3-4-1、写真9/3-4-2)。お目当ては僅か15分程度の水上噴水ショーである。

 係員が大勢の人の流れを誘導したり、制止したりで大変な騒ぎである。すでに場所取りを完了した人は、スマホを頭上高くかざし、動画モードで撮影する準備をしている。まるで、蛍がぎこちなくうごめいているように見えた。そして間もなく噴水ショーが始まった(写真9/3-4-1、写真9/3-4-4)。噴水と光と音楽のコラボである。

 自分もカメラを動画モードに切り替えてしばらく撮影した。ショーが終わりホテルに向かう。まじかにあるので、帰途が楽である。

 いつもと同様、近くのコンビニでアイスクリームと簡単なスナックを買い。ホテルの部屋に戻った。
以上でD1は終りである。
         本稿おわり  つづく







2017/03/28 22:42:15|旅日記
◆D6、D7 (11/6、11/7=日、月) 重慶市⇒上海経由成田へ

D6、D7 (11/6、11/7=日、月) 重慶市⇒上海経由成田へ
(濃霧で経由地の上海空港から離陸できず、急遽、上海で一泊、成田へは11/7=月の着となった。)

 いよいよ帰国日である。重慶空港13時30分発中国国際航空CA157便東京成田21:00着に搭乗予定であったが、十分時間があったので、宿泊ホテルの階下にある露天喫茶店というよりパン屋で、8:15頃に駱さんのお父さんと面談出来ることになった。旅行前に駱さんに、「可能であれば、駱さんのお父さんにお会いしてみたい。」と軽い気持ちで伝えてあったのだ。

 そもそも駱さんは重慶出身で、お母さんは既に亡くなっていて、お父さんはまだ存命であり80歳台半ばと聞いていた。一人で棲んでいるのであれば、駱さんが一時といえども実家に顔を出してくれるのは嬉しいことであろう。

 駱さんは時々杭州から新幹線で重慶の実家まで帰郷しているという話を聞いていたので、今回もプラス一回目の帰郷との位置づけで、ガイドの仕事と帰郷の一石二鳥になっていると推測していた。

 店に近づくと、椅子にポツ念と座る高齢者の姿が見え、他に高齢者は一人もいなかったので、それが駱さんのお父さんであることが容易に分かった。中国人の高齢者にありがちなぼってりと肥満したタイプとは全く異なり、姿勢がピンと直立した、どちらかと言えば痩身と言った方がよい姿勢をした優しそうな老人であった。

 中国人男性の平均寿命は1990年時点で67歳、2013年時点で74歳なので、それよりも10歳高齢である。趣味はほぼ毎日の仲間との麻雀とのことである。もう一つは部屋のかたづけで、見た目に几帳面という感じである。長寿の秘訣は聞き損ねた。

  ツー・ショット写真(写真11.6-1-1)を駱さんのスマホカメラで撮ってもらった。自分はどちらかと言うとポッチャリ型の体形なので、対照的な体形の二人のツー・ショット写真となった。駱さんのお父さんとの面会は今回の中国旅行の大きなットピックスになろう

 そろそろ出発しなくてはいけない時刻になったので、失礼して9;00には空港に向かうことになった。

 空港でのチェックイン(写真11.6-1-2)は駱さんが代行してくれた。出国手続きカウンターに入る前に駱さんと別離の挨拶をして、出国手続き➡手荷物チェックを何事もなく通過し、搭乗ゲートロビーに行き着いた。ロビーには出発時刻より一時間あまり早かったので、人はマバラで、日本人旅行者以外に姿は見えなかった(写真11.6-1-3、11.6-1-4)。

 搭乗ゲートロビーから外を眺めると、空模様はあまりよくないが、対面して見えるターミナルビル(写真11.6-1-5)や、管制塔(写真11.6-1-6)、駐機場(写真11.6-1-7)は靄(またはスモッグ)はかかっていず、比較的はっきりと見えている。しかし、その先の建物群は霞んで見えている(写真11.6-1-5)が、離着陸の障害になるほどではなく、定刻の12:45にCA157便上海経由東京成田行きに搭乗し、搭乗後45分ほどで、空港を離陸した。

 離陸して間もなく、濃霧で眼下が見えなくなったが、離陸10分後には眼下が開けてきて、高速道路(写真11.6-1-8)、広大な長江沿いの港(写真11.6-1-9〜11.6-1-11)などが次々に目に入ってきた。そして更に1時間足らずで、機内食となった。

 約2時間ほどの15:38で上海浦東空港(写真11.6-2-1)に着陸した。空は晴れているが、水平線方向は靄(またはスモッグ)で重慶よりは霞んで見える。

 ここで、また機体は同じであるが、出国手続きをするため、機内持ち込み手荷物を全てもって機外へ出て、出国手続きをすることになる。往きと同様、CAの案内人が最初から最後の搭乗までを案内してくれる。

 一般の上海からの搭乗客に比較し、時間的な便宜を図ってくれると思っていたが、裏コースがあるわけではなく、CA157便に再搭乗するまで1時間以上はかかった。それでもあとは成田到着を待つのみと思うと気分は楽であった。

 しかし、この後、その気分は暗転することになるのだ。搭乗予定の時刻になっても搭乗案内はなく、機体はあるので、整備に手間取っているのだろうか。多分アナウンスされているのだろうが、中国語なので分からない。ANAであれば、この様な事態をどの様に切り抜けるであろうか。

 ここ数年、駱さんの地元である杭州をベースとした中国観光を続けているのでANAの直行便を利用している。言葉が通じることもあるが、ANAのいたれりつくせりの機内サービスがなつかしくなった。

 滑走路方向の上空を見ると、薄暮の空を次から次へと間断なく、着陸態勢の航空機が見えている。この波が一段落するまで搭乗を待たされる予感がした。既に夕刻近い時刻になって、やっと搭乗できたが、機は相変わらず動こうとはしない。そのうち離陸もしていないうちに機内食が出された。悪い予感がした。かつて桂林からの帰途桂林から広州への国内便が天候不良で欠便となり桂林で足止めされた時のことを思い出しだ。

 自分の座席隣には東京芸大教授とやらの、自分よりは少しだけ若そうな人物が座っている。中国語も日本語も分かるようだが日本人だろう。その隣の通路側の席にはその奥さんらしい中年の女性、多分こちらはバイリンガルの中国人、が座っていて、盛んに遅れ具合に腹を立てていて、その腹立ちに同調してもらいたいような眼差しと言葉(日本語)を向けてくる。

 そして、ついには、「日本人はこんな事態に、状況説明を求めるでもなしに、よくおとなしくしている。」との発言。悪意がある発言とは感じなかったが、近くにいた日本人はこれを聞いて、同意をしても腹をたてた人は居ない様だ。日本人の腹立ちを代弁した様な形となった。

 しばらくして機体は少しずつ動き始めた。しかし足止めをされた機体は多く、滑走路まではまだまだ先のようで、いつ離陸できるかは保証できないという感じであった。

 すでに空港は暗闇に包まれていて、不安が高まってきた。翌日月曜日は陶芸教室に10時までにおみやげをもって行かなくてはいけない。翌日から早速仕事という日本人にとってみれば、気が気ではない事態が進行しているのである。

 既に現地時間でPM6時は過ぎている。日本時間ではPM7時ころであり、日本時間PM9時の成田着陸予定時刻に間にあうだろうか?遅れると、西武池袋線飯能行きの最終列車に間に合わなくなってしまう。

 この危惧が的中した。まもなく機内放送で、「このまま離陸して成田に向かっても、成田空港の営業時間内には着かない」との理由で、CA157便は欠航となったのだ。

 乗客は駐機場で全員機内から降ろされ、暗闇の中で途方に暮れるばかり(写真11.6-2-2〜11.6-2-6)、先ずはターミナルビルまで安全に誘導して欲しいところだ。

 間もなく、ターミナルビルまでの移動用バスが来て、全員がターミナルビルまで搬送された。そして、親切な、バイリンガルの女性が乗客を代表してくれたかの様に航空会社のアナウンスを日本語に訳してくれて、またいろいろとCA職員に、打診や折衝をしてくれた。多くの日本人旅行客が助けられたに違いない。本人は楽団員の様で、コントラバスの様な大きな荷物を移動させながらも、このような役割を買って出てくれたのである。

 そのあと航空会社手配のバスに乗って、ホテルに向かい、ホテルでのチェックインや部屋の割り当てもテキパキと最後までこなしてくれた。桂林での不安を感じないで済んだ。翌日のホテルのチェックアウト、空港までの誘導もチェックイン(写真11.7 -1-1〜11.7 -1-2)も先頭にたってこなしてくれて、どれだけ安楽な気持ちになれたか、そう思ったのは自分だけではない筈である。まさに彼女は楽器をかかえて飛び回る飛天のようであった。

 通常便か特別便か分からなかったが、とにかく成田行き11:30発の便に乗れた。隣席には昨夜のホテルで相部屋だった若者若松さんであった。千葉県の証券会社の社員ということであった。

 機中での「トランプ大統領が誕生するか」という話題に対し、自分は先ず無いだろうと決めつけたが、彼は、「意外と分からない。」との見解であった。日本の証券界は、そのほうが日本の経済発展にとって好ましいという情報でもあるのか、とその時は思ったが、事実トランプ大統領が誕生し、株価も上昇したことを思うと、本当にその様な情報が非公式に流れていたのかも知れない。

 時刻は前後してしまったが、搭乗後30分経過後の12:00少し前にCAで発行してくれた遅延証明書(写真11.7 -1-3)を見ていると、早くも機内食(写真11.7 -1-4)が出てきた。
 それほど食欲は無かったが、これを逃すと自宅にたどり着くまで食にありつけない予感がしてきたので何一つ残さず完食した。

 そしてPM3:00過ぎに成田に到着。飛行場での入国手続きなどやWIFIの返却などで時間を費やし、自宅に帰ったのはPM6:00前後となった。
「四川省及び重慶市の旅物語」の完結である。   完   







2017/03/25 23:50:46|その他
◆D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊

D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊

 この朝も,これまでと同様ホテルで朝食を済ませ、8:30にホテルを出発した。15分ほどで高速道路G60に入り、一路大足を目指す。運転手の蒋さんは若干28歳、龍齢であり若さ溢れる好青年である。今回の旅の最初から最後までのスルーの運転手である。

 これだけ長距離を走ってもミスが無いのは、結構予習をしてくれているのかも知れない。有難いことだ。そういう運転手を見つけてくれた駱さんにも感謝しなくてはならない。

 9:56にG60は分岐して大足方向へ。次第に地面の色は赤さを増し、道路の造成によって現れた断層は赤茶というより赤色であった(写真11.5 -1-1)。途中、車を停めやすいところへ停車してもらい、赤土を採取させてもらった。

 そして更に15分ほどして、目的地一帯に到着し、車から降り、園内に向かった。「世界遺産大足石刻世界文化遺産博覧園遊覧図」と書かれた案内図(写真11.5 -1-2)が目に入った。

 案内図では、現在地から最初の橋を渡ると、先ず旅客センター地区が現れ、更に二つ目の橋を渡ったところから大足石刻寺院域に入り、広大寺や、圣寿寺及びそれらの焚香所が現れるようだ。石刻像が現れるのは圣寿寺側となっている。

 旅客センター地区の一番北端の正面に寺の山門と思える建造物(写真11.5 -1-3)が現れた。20段ほどの石段を登りつめたところに、底部を象や獅子が支えた格好の8本の石柱に支えられた大きな屋根が現れた。

 屋根の4稜線は中国風の反り返りを見せているが、彩色はけばけばしさがなく落ち着いたたたずまいを見せている。観光客の服装の方がはるかに彩色豊だ。門の額には天下大足と右から書かれていた。いわば、この建造物は山門というより観光ゾーンの呼び込み口なのだろう。

 そして第二の川に架かる幅広で100m程の長さの石橋を渡ると、寺院(写真11.5 -1-4)が現れた。これが広大寺なのだろう。境内にあるすべての建造物が中国には珍しい入母屋づくりの屋根構造をしていて、色彩も派手ではなく、落ち着いた感じである。

 屋根の四稜線は特徴的な反りはないが、中国寺社建造物の屋根の稜線に鎮座する小動物の姿は見られる。これら建造物の歴史は浅そうであった。

 その寺院の一角から抜け出すあたりで進行方向右手を見ると、なんの像も彫られていない岸壁(写真11.5 -1-5)が見えた。大きな石が堆積しただけで、地層は現れていない。この大きな岩の凹凸を利用して昔の人たちは像を掘ったのであろう。

 そしてさらに行くと、竹林の向こう数10m先に、岩石からなる庇の下に三層からなる石刻像群(写真11.5 -1-6)が現われた。最上層には10体以上の鎮座する仏像群が整然と並び、次の層は更に二層に分かれ、市井の町人や役人風情の人物像が立ち並ぶ、そして最下層には、何やら怖い面持で何かを手にしている人物像が見られた。

 仏教で言う“三界”を表しているのかも知れない。「三界(さんがい)とは欲界・色界・無色界の三つの総称で凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。

 欲界(よくかい、skt:kaama-dhaatu कामधातु )とは、仏教における世界観のなかで欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。三界の一つで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人(にん)・天上(神)が住む世界のこと。

 色界とは欲望を離れた清浄な物質の世界。無色界の下にあり、欲界の上にある。この色界には四禅の四地、初禅、第二禅、第三禅、第四禅があり、これを過ぎると無色界に入る。天界28天に属す。色は物質の義、あるいは変礙の義。

 無色界(むしきかい、ārūpya-dhātu)は、天部の最高部に位置し、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。上から非想非非想処・無所有処・識無辺処・空無辺処の4つがある。」とWikipediaに紹介されている。

 更にもう少し歩くと、「大足石刻分布図」なる石壁に彫られた案内図(写真11.5 -1-7)が現れた。そこには、潼南県、銅梁県、永川県、〇(草冠に宋)昌県、安岳県に囲まれた大足県には宝頂山石刻、北山石刻、等、計5か所あることが書かれている。

 以上の内、宝頂山石刻、北山石刻を見学することにした。

 最初に現れたのが先ほど竹林の向こうに見えた石刻像群(写真11.5 -1-8)であり、岩石からなる庇の裏には「唐瑜伽部主揔持王」なる文字が彫られていた。「瑜伽」とはヨーガのことらしいが、文字の意味は分からなかった。

 また、最上層(無色界)と第二層の色界に属する仏像、人像は空色と青色の顔料が服や冠に施されているが、最下層の欲界に属する像には色彩が施されていない。

 各石刻像には、説明書きが石板に彫られているが、その解明はしないが、三界それぞれに於いて、遭遇する様々な場面を想定しているものと思われた(写真11.5 -1-9〜11.5 -2-9))。

 そして更に進むと、釈迦涅槃像(写真11.5 -2-10)が現れたが、あいにく工事中だった。中国で涅槃像は何度か見たが、これほど大きいのは初めてであった。この涅槃像を過ぎると少し趣が変わる。

 「華厳三経像」(写真11.5 -2-11、11.5 -2-12)の次は「六道輪廻」の世界(写真11.5 -2-14、11.5 -2-15、11.5 -2-16)であった。

 「六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。

 人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。

 大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう」とWikipediaに紹介されている。

 ここの「六道輪廻図(石刻)の大きさは、高さ、780cm、幅480cm、奥ゆき260cmという巨大な石刻像であり、90の人物像、24の動物像が、そして輪の中央にはアニッカ(無常)の長い手で支持されている。

 輪は6つに分割されていて、各分割枠内には神が創造した生き物や物が彫り込まれ、霊魂が隣接した分割枠の間を移動する様を石刻していて、仏教の教義である“六趣唯心”、“因果応報”、“十二因縁”を表している」と石標に刻み込まれている。

 “六趣唯心”とは、六道(仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと)のこと。

 ”唯心”とはすべての現象は心によって産出されたもので,本質的に実在するものではなく,心のみが一切の根源であり最高の実在であることを示す語である。

 また、“十二因縁”とは苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法とWikipediaに紹介されている。“因果応報”は言わずと知れた人間の業であるので省略する。

 生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であるといわれる。

 まだ続きがあり、武器と甲冑に身をかためた強面の神将像(立像)が12体ほど横並びで石刻されている(写真11.5 -2-17)。

 十二因縁をそれぞれ退治する神将達か、それとも因果応報を実施するエージェンシーか。よくわからないが、これらの神将像の前に佇んでいる観光客が多かったのが印象的であった。

 そして岩肌を大きくくり抜き入り口に大きな獅子の石刻像が横たわった石窟が現れた(写真11.5 -2-19)。中には多くの石刻仏像が安置されていた(写真11.5 -2-20〜11.5 -2-23)。

 石窟には外からの光が適度に入り込み、ストロボなしで、写真を撮ることが出来た。いずれも柔和な顔立ちをした仏像であった。直前まで、三界、六道、強面の神将像などを見て来たためかも知れない。

 石窟から出ると、すぐのところに、それぞれ虎と牛に半跏の姿で乗っている山君と道祖神(写真11.5 -2-24)が現れた。山君は手が3対あり、2対で物を持ち、一対で合掌している姿であった。さしずめ、宝頂山の守り神というところか。

 ここで、これまで中国語で現地ガイドをしてきてくれた中国人女性(写真11.5-2-25)とは別れであったが、駱さんの巧妙な日本語への通訳によって、この世界遺産の価値が分かった様な気がした。

 宝頂山を下山する途中、珍しい八角(または六角)四重の塔(写真11.5-2-26)及び聖壽寺と書かれた二層のお堂(写真11.5-2-27)及び帝釈殿、そして線香の煙がたちこめる聖壽禅院と書かれたお堂(写真11.5-2-28)を目にした。

 現地時間で12:00近くになっていたので境内の一角にあった露店で昼食(写真11.5-2-29)を摂った。相変わらずのワンタンであったが、予想以上においしかった。

 そして、駐車場に戻り、車で北山石刻に向かい、現地時間14:00頃到着した。駐車場で車を下りるとすぐに観光案内図(写真11.5-3-1)が目に入った。

 ほぼ南北に細く伸びた北山石刻景区を南端から北上してゆくコースであった。最初に目に入ったのはどこかの国の国王とその家族、更には背後に2体の仁王像が配置した石窟(写真11.5-3-2)であった。

 そして、次に現れたのが、千体仏が壁面全体に彫り込まれた石窟(写真11.5-3-3)であり、これまで見たことのある石窟寺院の形式と同じであった。

 石窟寺院の場合、石窟内にも入ることができ、内部から、像の背面を含めて仏像や飛天像を拝観できる場合が多いが、ここのは、それほどの広さは無く、窟の前面から窟内を眺めるだけであった。

 “石刻”と“石窟”との差異はどの様なものか、宝頂山以上に差異が少ない様に感じた。

 中央に天蓋と光背を備えた本尊としての仏像、それを囲む様に配置した飛天や脇を守る諸仏が一つの単位となった窟(写真11.5-3-4、11.5-3-6)が現れた。

 そして青い彩色が残っている窟(写真11.5-3-5)は千手観音を中心に飛天像や、羅漢像が精緻に彫られていた。

 青い彩色は既に多くの部分が剥げ落ちているが、剥げ落ちる前のこの石刻像を見て、どのような気持ちで拝仏したのだろうか。青い彩色用材料はラビスラズリかも知れない。

 いずれにしても、ここ北山石刻は、宝頂山の“三界“、六道“と言った人の所業に対する戒めを表したものではなく、仏の佇まいを丁寧に刻んでいるようであり、安心して拝観できるのであった。

 そして次に現れた石碑(写真11.5-3-7)は、仏教の教えを刻していることが、いくつかの知っている漢字から読み取れる。

 小さな単位の石窟には、本尊仏があり、その脇を固める脇侍仏、そしてさらにその周囲の天蓋近くに飛天、石窟壁に地方神という構図が多いと感じていたら、そうではなく、本尊はなく、同じような複数の菩薩像が並設された単位の窟(写真11.5-3-8)や、本尊が二体という単位の窟(写真11.5-3-9)もあった。

 恐らく窟を寄進した人物の仏への想いの違いが出ているのだろう。自分自身を、夫婦を、子、親等の家族全体を、一族をと、安寧を祈り、祀る単位の違いによって窟内の景色も変わってくるのだろう。

 それと、寄進者の財産力の違いも勿論あったに違いない。天蓋にも、石窟壁にも飾り佛はなく、本尊には光背の代わりに椅子という極めてシンプルな窟(写真11.5-3-10)もいくつかあった。

 そして後半の窟はほとんどが最初の窟同様、本尊がいて、それを周囲で守る脇侍としての仁王像、本尊の生活道具を持った召使仏など、天蓋、石窟壁とも隙間なく大小の仏像が石刻像として並んでいた。

 窟内に入って拝仏することも可能なほど大きな窟(写真11.5-3-11〜11.5-3-20)もいくつかあった。無論、観光客がその様な空間に入って拝観することはできない。最後に180度振り返り、観光客用通路の写真(写真11.5-3-20)を撮った。

 そして、北山石刻景区の北辺に至り、小さな池の南畔を東の方向に歩き駐車場に至った。

 現地時間PM3:30頃であったが、今回の旅行の最終泊の地重慶市内に向かった。先ほどまで、観光していた大足石刻も同じ重慶市にあり、その中心部までは車で一時間程度であった。


 大足の街なか(写真11.5-4-1)を通過する時は、まだ現地時間で、PM4:00近くだった。

 重慶市街地に入ると高層ビルが立ち並んだ道路(写真11.5-4-2)を突き抜ける形となる。

 時間的なゆとりがあったので、直接ホテルに向かう前に、重慶市郊外のやや高台にある“一棵樹“という重慶市街区を一望できる展望台に案内してくれた。

 薄暮の時刻であり、少しづつ日が暮れて行き、街の明かりがチラホラと見え始めている。

 遠方に眼をやると、うっすらと長江の流れを見ることが出来(写真11.5-4-3))、近景には小高い丘高層ビルが突き刺さっている様に見える(写真11.5-4-5)。

 鮮明な光景を映し出してくれないのは、夕もやかスモッグなのかは不明である。いずれにしても点灯されたビルや高速道路だけは比較的鮮明に見えてきている(写真11.5-4-6)。

 この夕暮れの重慶の街を背景とした写真をグループごとに順番に撮っているようだ。ライトアップされた高速道路が暗闇に浮かび上がっていた(写真11.5-4-7)。

 一棵樹で一時間近く夕景と夜景を楽しませてもらったあと宿泊予定のホテルへ向かうことになった。

 ホテルに着いたのは、現地時間の八時近くであった。大きなショッピングデパートの5Fに受付カウンター(写真11.5-4-8)があり、いつもの様に駱さんがチェックイン手続きをやってくれた。

 龍鼎精品酒店というホテルであった。カウンターロビーの右手には3m四方ほどの板絵(写真11.5-4-9)がソファーの後ろに位置していたふが、何をモチーフに描かれたものかは皆目見当がつかなかった。30分ほど部屋で休憩した後、夕食を摂りにゆくことにした。

 ホテルから階下に降りると大きなショッピングデパートビル内にいることが分かった。地下はレストラン街であり、その一角にあるレストラン(写真11.5-4-10)で夕食を摂った。

 自分は相変わらずのワンタン(写真11.5-4-11)であった。味が薄いかもしれないということで、トウガラシと山椒を一緒にしたような調味料を添えてもらった。中国のワンタンはどこで食べてもおいしい。

 いよいよ翌日は帰国日である。ホテルロビーで旅行費用の清算をして、翌日の朝の集合時間等を約して部屋に戻ることにした。
    本稿 完   次稿へつづく







2017/01/25 20:20:53|旅日記
◆D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺

◆D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺 遂寧市泊

今朝も朝食のオープン時刻は朝7:00である。駱さんがドアをノックしてくれて一緒に食堂に向かった。一人だと、食堂が容易に見つかるだろうか、という不安があるが、駱さんが一緒にいるので、そのたぐいの不安は皆無である。バイキング方式なので、食べやすそうな(癖のある調味料が使われていない)料理(写真11.4-1-1)を選んで、駱さんと互いに対面に座って食べ始めた。普段自宅で食べる朝食に比べると、種類、量とも豊富である。
食事の量は、朝は簡単少な目、夜たっぷりという食習慣が一般的だが、この逆の朝タップリ、夜少な目というのが好ましいそうだ。旅行中はこの好ましいパターンとなる。

これまで、中国旅行をすると、体調が回復するというジンクスがある、ということを口外してきたし、実際に帰ってくると、体調が回復したという実感がいつもある。その理由として、心身のリフレッシュと言った一般的な理由の他、血液型シェア説、駱さんガイド説PC隔離説、を唱えてきたが、食事スタイルの最適化が実は一番効いていたのかも知れない。

ちなみに、血液型シェア説というのは、自分の血液型と同じ血液型がその国の最大シェアとなっている国は、その血液型の人が過ごしやすい環境、習慣が構築される、というものだ。中国は、O型とB型がほぼ同率首位である。かつて日中国交回復交渉がうまく行ったのは、B型の田中角栄が首相で交渉にあたったからではないか。安倍首相もB型だそうだ。

筆者の血液型はB型であるが、B型がトップ・シェアの國、インドを旅行した時は、チップ制という支払いに大きな習慣の違いを感じ終始面喰い、人並みに「人生観が変わった。」という印象はあったし、違和感のある味に慣れず、更にはこれが一番大きかったが「酷暑」に閉口し、心身のリフレッシュとまでは行かなかったのである。従って血液型説は、多少は関与しているかも知れないが、殆ど関係無いと思い至っている。

朝食後、部屋に戻り、服薬等で時間を費やし、それでも出発時間の8:30まで少し時間があったので、柚(ユズ=巨大グレープフルーツ(ルビー))を種が見える状態にして写真(写真11.4-1-2)を撮った。この果物はこの季節の中国ではどこでも売られていて、味も良いので日本で発芽できないかと思ったのである。しかしこの大きさの柑橘類の種としては小さすぎ、発芽は不可能と思えた。

そして、ホテルを8:40に出発し、一路遂寧市に向かった。遂寧市は成都と重慶の丁度中間点あたりにある四川省の都市である。四川省は確かに霧が深い(写真11.4-1-3)スモッグではないようだ。霧、靄、霞、スモッグは見かけは似ている。ウェブで調べると、「霧(きり)と靄(もや)は、大気中の水蒸気が微小な水滴となって浮遊し、視界が悪くなる現象をいい、霞(かすみ)は、空気中の水滴やその他の粒子によって視界が悪い状態をいう。」更に、「「霞」は、気象用語として用いられていない。

また、気象用語での「靄」の定義は、微小な水滴や湿った微粒子で、湿度50%以上のものをいい、湿度50%未満の乾いた煙や砂ぼこりなどによって、視程1km以上10km未満となっている状態は「煙霧」という。スモッグは煙霧のことであろうと思ったが、Wikipediaには「スモッグと煙霧 (haze) は似ているが同一ではない。

スモッグは大気汚染により視程が低下している状態、煙霧は乾いた微粒子により視程が低下している状態を言う。煙霧は大気汚染以外に、砂塵(黄砂など)や火山灰などの微粒子により視程が低下している状態も指す。」とあった。

最近話題のPM2.5について調べると、中国沿海地域(北京、上海、杭州など)では極めて高く、内陸地でも成都や重慶等の大都市では高い、これから向かう遂寧市(85)は成都市(114)と重慶市(107)の中間点なので比較的濃度は低い。参考に北京(170)、上海(161)、杭州(188)、広州(178)、貴陽(30)<以上2017.1.10現在、単位はμg/m3で、0〜50:空気は良好、51〜100:許容範囲、101〜150:敏感な人には有害、151〜200:有害、201〜300:とても有害。301〜400:危険>

12:20頃、遂寧市に入り、高速道路(G42)から外れた。街中に入ると、所々にブーゲンビリア(写真11.4-1-4)や芙蓉の花(写真11.4-1-5)が迎えてくれた。そして間もなく霊泉寺の入り口に着いた。霊泉寺の前に、ここ遂寧市について説明する。

「遂寧市は四川盆地の中部に位置し、涪江の中流に位置する。古くからの文化の蓄積、人を迷わせる幽玄な山水、発達した農工商業などから、川中(四川省中部)地区の政治、経済、文化の中心であり、紡織や食品工業が盛んで沱牌グループなどの企業が所在し、「東川巨邑」、「川中重鎮」、「小成都」などの異名がある。」とWikipediaに紹介されている。

そして、更に歴史について「遂寧周辺には石器時代より人類が住んでいたとみられ、射洪県仁和鎮の馬鞍山からは紀元前1万年ころの人類の頭蓋骨が出土している。記録では夏王朝や殷王朝の時期には梁州に属したとされる。」と紹介されている。

もっとも気になっていた地名の由来について、「東晋と十六国が並存した時期にさかのぼる。この時期、十六国の成漢に属したが、各国間の争いや後継者争いで成漢は疲弊した。347年(嘉寧2年)、東晋の桓温将軍が蜀征伐に着手し成漢を滅ぼし、四川で50年以上続いた混乱に終止符を打った。桓温は凱旋の途中、急にこの地の風や太陽の美しさに打たれ、歌や踊りの声がどこかから聞こえてくることに平和さを感じた。長年戦場にいた桓温に平和を渇望する思いが生まれ、この地に郡を置き、「戦乱の終息と安寧に到達する」ことを願って「遂寧」と命名したとされる。」とWikipediaに紹介されている。

そして霊泉寺である。最初の入り口(写真11.4-1-6)手前の駐車場で運転手の蒋さんは待機である。この入り口を通過すると、「霊泉景区游客限流公告」と「観音故里旅游区文明礼仏公告」と書かれた看板(写真11.4-1-7)が目に入った。前者は、この景区の定員は15,000人なので、それを越す入場者が見込まれる場合は、何回かに分けて入場してもらうとのお断り書きであり、後者は、<安全生産法>、<旅游法>、<文物法>、<宗教活動場所及び旅游場所における燃香安全規範>の規定に基づき、紙銭を燃やすこと、爆竹を燃やすこと、大型の香を焚くことの禁止、即ち景区内での火気厳禁を注意している。前者の公告から大勢の人が一度に参拝に来ることがあること。後者からは消火の難しい地形にあることが推量されるのであった。

そして、そこから霊泉寺山門までは電動カートに乗り、その終点から山門までは階段が続く(写真11.4-1-8)。階段を登りつめたところにある山門は、色彩豊かで、門飾り、特に屋根の稜線に配した飾り、は複雑さを極め、見ていて飽きることがないほどであった。
三つの突き抜け出入り口が並んでいる構造で、中央の突き抜け門の前面両側には一対の獅子像が配置され、左右対称となっている。この中央の突き抜け門から山道(さんどう)に入った。

山道は進行方向左手が谷、右手には、種々の建造物が並んでいる(写真11.4-1-9)。建造物は、何に使われているのか、誰が使うのかという肝心なことが分からなかったが、拘らずに先に進んだ。屋根の上に小さな構造物が載っている(写真11.4-1-10)が、使途は見当もつかなかった。

次に朱塗りのお堂(写真11.4-1-11)が目に入った。中には高齢の婦人の姿が見える。近くに婦人用ハンドバッグがぶら下げてあるので、きっとボランティアかパートのおばさんであろう。仏教にまつわる何らかの品物を販売している様に見えた。本来であれば、本尊が据えられても良さそうな位置には仏像はなく、その前に花が活けられる筈の花瓶には花が無かった。

更に山道を進むと、今度はお堂の前で穴あきの黒い玉に糸を通して、数珠を作っているいるおばさんがいた(写真11.4-1-12)。こちらもそばに婦人用ハンドバッグがぶら下げてあるので、きっとボランティアかパートのおばさんであろう。近所の檀家の人かも知れない。但し、中国に檀家組織があるかどうかは知らない。老化防止にはこの指先運動が良いのだ、と言わんばかりに楽しそうに黙々と作業をしている。

数珠は正式には108珠からなり、その由来は、108の煩悩を消滅させる功徳があるからだといわれているが、その様な功徳を積みながらやっているとしたら檀家もしくは仏教を信じている人であろう。

少し行ったところで、先ほどの建造物というのが、実は仏塔(写真11.4-1-13)であることが分かった。但し、一般的な多重の塔とは異なる形式で、天辺には相輪は伴っていず、最上層には屋根や庇がついていない奇妙なドーム様式だ。あるいは、やはり仏塔ではないのか。自信が無くなってきた。

前方に視線を戻すと、さきほどの山門(写真11.4-1-8)の縮小版の様な小ぶりの山門(写真11.4-1-14)が見えた。扁額には、右から「川中禅林」と記された四文字が見えた。川というのは、四川省の“川”、中というのは中心部という意味、禅林とは禅宗寺院のことであり、四川省内江市には「川中第一禅林」と呼ばれる聖水寺という禅寺があるので、「第一」という文字は使えず「川中禅林」の四文字に落ち着いたもの、と勝手な推測をした。

そして、石段を何段か下り、この山門から新しい境内に踏み込んだ。眼に入ったお堂の屋根(写真11.4-1-15)は屋根飾りが賑やかであった。中国の建造物の屋根飾りは、落雷等による火災から建造物を守る“まじない”の機能がある。この“まじない”が賑やかということは、建造物が如何に重要か、または如何に火災に対する恐怖が大きいか、であろう。古来、大きな山火事があったのかも知れない。建造物は木造で山上にある建造物は消火にも苦労する。

この境内からは木々の向こうに遂寧市が一望でき(写真11.4-1-16)、うっすらと長江の支流の涪江の流れと、それに架かった大きな橋も見える。街並みには超高層ビルは殆どなく、木造の人家も殆ど見えなかった。

境内を先に進むと、また階段があり、階段を登ったところに、霊泉寺の象徴とも言える七重の塔(写真11.4-1-17)が見えた。屋根は7層あり、最上層の屋根には宝珠や相輪があるので、七重の塔には違いないが、これまでみたことのある多重の塔とは雰囲気が違う。心柱も無いのではないかと思える近代建築であった。その石段を黄色い法衣をまとった僧が上がってゆく。これからお勤めがあるのだろうか。階段は左右二列あり、その二列に挟まれる様に、龍の石刻像(写真11.4-1-18)が階段斜面に沿って配設されていた。

その石段を登りつめ、七重の塔の最下層正面の本尊前に向かった。ガイドの駱さんは先にそこに至っていて、観音様には特別の思い入れというか宗教心がある様に見えた。(写真11.4-1-19)対聯の右聯には「・・・・・甘露普渡衆生離苦海」とあった。“甘露”は世の中が平安の時に天から降る甘い液体であり、「普」とは世間の衆生を愛し 「渡」とは苦難の人々を 平安へ導くこと 苦難を和らげ 幸福へ導くことである、という意味で、観音菩薩を本尊とする堂宇には、この言葉がつきものらしい。

しかしながら、この七重の塔は派手、よく言えばカラフルであり、構造にも他にないユニークさをもっている、古代建築ではなく新進気鋭の仏塔建築家による建造物の様に見える(写真11.4-1-20)。特にユニークなのが塔の立体構造を四角錐と表現すると、その斜めの稜線が二重構造になっているところだ(写真11.4-1-21、11.4-1-22、11.4-1-23)。

また各層の屋根にはおびただしい数の走狗が鎮座して、落雷等の天災から守っている。

再び、最初の山門を見上げる広場に戻ってきた。広場から振り返ってみると、実に豪奢な構え(写真11.4-2-1)で、最上位に、先ほど見て来た七重の塔、その手前に、朱に染め上げられた建造物が位置している。この建物は宿坊だろうか、ここから見ただけでは分からない。ズームアップ(写真11.4-2-2)すると、いくつもの同じ構造の単位(部屋)が並んでいる。窓以外は全て朱色で、各階8部屋で3階あるので、見えるところだけで24部屋あることになる。ちょっとしたホテルである。

以上で霊泉寺の観光は終わりかと思ったが、地図案内板(写真11.4-2-3)をみてから、もう一か所みたい所がある、というのでついて行くと、七重の塔よりは古そうだが、屋根の色、壁の色と言った配色は同じ容姿の堂宇が現れた。

入り口正面から少し離れると、最も遠方で高いところに、七重の塔、その手前の少し低いところに、朱に染め上げられた宿坊と思われる建造物が、そして、さらに手前の更に低い位置にこの堂宇があるという位置関係が分かった(写真11.4-2-4)。山門は入母屋づくりで、赤れんが色の壁には、右側に「佛」、左側に「禅」の文字が書かれ、入り口頭上には「霊泉寺」と右側から書かれていた(写真11.4-2-5)。

天部の仏神の持国天、増長天、多聞天、広目天(写真11.4-2-6)の四天王が祀られたお堂に出た。広目天は右手に筆、左手に巻物(メモ用紙?)をもった天部として見慣れているが、ここの広目天はやや異なり、右手に魚、左手には小さな金色の玉を持っている。また、その奥に見える多聞天(毘沙門天と呼ばれることもある)は、日本では、その像容として右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿、または左右逆に持った像として描かれる場合が多いが、ここの多聞天は、右手に傘の形をした法棒、左手に鳩の様な鳥を握っていた。

そして同じお堂の反対側を観ると、四天王の持国天と増長天が祀られていて、持国天の傍で、高齢の女性が、同じく高齢の女性に整髪されているところ(写真11.4-2-7)が眼に入った。すぐ傍の机にはお茶飲み用ポットや旬の柚(=グレープ・フルーツ)が置かれていた。日本では見られない生活臭漂う寺であった。二人とも、四天王のいかめしい姿とは対照的な、やさしげで労わりあう雰囲気を醸し出していた。

更に奥の大雄宝殿(写真11.4-2-8)に足を運んだ。お堂の前の線香台には途中で燃え尽きた線香が残り、火も煙も出ていなかった。参拝者も少なかった。左側の対聯には、
「霊泉是千年古刹喜紺殿重光無辺春色来・・・」とあり、右側の対聯には、「佛陀為三界導師晋慈雲編覆丕振・・・」とあった。三界とは欲界・色界・無色界の三つの総称で、凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。尚、「欲界とは淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む処。色界とは欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわれた有情が住む処。無色界とは、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住んでいる世界」とWikipediaで説明されている。また三界図では更に細分類、細々分類されていて、例えば、「最下位の欲界は更に六欲天、四大洲、八大地獄の三つに細分類され、更にそれぞれ六、四、八に細々分類されている図」が同じWikipediaで紹介されている。四大洲は西遊記でおなじみで、人、畜生、餓鬼が共存する世界である。以上の話は、D5.大足石刻観光でも話題にする予定である。

  この堂宇は大雄宝殿だけあって、屋根(写真11.4-2-9)の天辺の水平な稜線の中央には宝珠があり、稜線の上は隙間が無いほど高密度に多くの龍をはじめとした神獣達が鎮座、またはからみついている。また斜めに下る稜線にはよく見かける神獣たちが外側に向かい鎮座し、更には、軒に近い瓦の上には一羽の不気味な鳥が羽を広げて近寄る悪魔を恫喝している様な姿がみられた。これまで見たことのある屋根上飾りに比較すると、造形の複雑さ多様さは一級品といえ、落雷火災等の災害に対する守りの強い意気込みが感じられた。

霊泉寺の観光が終了し、時刻が昼近かったので、車で30分の処にある中華レストラン(写真11.4-3-1)で昼食を摂ることになった。店内は清潔であり、壁面には、メニューではなく、提供する料理(中華料理)に対するこだわりの様な言辞「面賦」が貼られているのがまず目に入った。“面”というのは無論“麺”のことであり、“麺”へのこだわりが書かれているのだろうことが、いくつかの日本でも使われる漢字を拾うことによって推測できた。

そして、次に厨房口の上の壁面に貼られたメニュー(写真11.4-3-3)であった。注文したのは最近重点的に食べ始めた雲吞(ワンタン)(写真11.4-3-2)であり、ガイドの駱さんも付き合ってくれたが、重慶生まれの彼女にとっては、味が薄すぎるのか、トウガラシ入りにして四川料理風の味にしてもらったらしい。

昼食の後、向かったのは、遂宁市明月花园小区西山路にある四川省宋磁博物館であった。そもそも遂寧市が中国に名をとどろかす所以は、1997年 に発見された大量の宋時代の陶器類や窯跡である。発掘された陶磁器は26万点にのぼり、このうち1000点が展示されているとのことである。尚、ここで言う宋時代というのは、北宋、南宋を共に含んでいる。
1000点の内訳は、磁器が985件で、宋代の磁器として、龍泉青瓷が342件、景徳鎮の潔白の磁器が599件、その他、定窑(河北省曲阳县)の白瓷、磁峰窑(四川省彭州市(原彭县)磁峰镇)の白瓷、耀州窑(陕西省铜川黄堡镇)の青瓷、广元窑(四川省广元市)のK瓷が少量あった。とのことである。

館内に入って目に入ったドーム状ロビーの内壁面には、ほぼ全周に亘り、帯状のレリーフ(写真11.4-3-4)が形成されていて、人々による製陶の様子が生活臭豊かに描かれ、人を手伝う象の姿や、製陶に不可欠な水の神(龍)と火の神が描かれている。帯の上縁近辺には高貴な人の姿も見られるが、北宋時代に流行った官窯へのあこがれが垣間見られる。

そして、四川省蓬溪县大英乡(现大英县卓筒井镇)で発見された筒型井戸の説明ポスター(写真11.4-3-5)が掲示されていた。窯業とは一見つながらないポスター展示であるが、直径10〜12cm長さ130mの筒型井戸で、1041〜1048年ころ造られたもので、中国五大発明の一つとされている。これをどのように、どの様な目的で造られたかは明確ではないが、“卓筒井”と言うのが鎮の名前になっている程なので、発見されたときには鎮中大騒ぎになったのだろう。
中国四大発明は、羅針盤、火薬、紙、印刷でよく知られているが、この五つ目の発明はあまり知られていない。もの造りという要素が少ないからだろうか。しかし地下130mもの深さまで穴を掘る方法など容易には思いつかない。それに穴を掘る位置をどの様に決めたのであろう。

ポスター(写真11.4-3-6)の解説には石油や天然ガスの採掘用の人口の筒型井戸ではないかとの話。「地下から湧く燃える水の存在は、古代から各地で知られていた。産地で燃料や照明に用いた例も多い。たとえば4世紀には中国で石油の採掘が行われたという記録がある。

また、中国では、西暦1200年頃になると、竹の弾力性を利用した掘削技術が発達して、450メートルの井戸が掘られた。」、とWikipediaに紹介されている。更に「最初 の目的は岩塩水の採取にあったようだが、副産物の天然ガスは塩水を煮つめる燃料として便われた。」ともある。そもそも「石油」という言葉は沈括の『夢溪筆談』からの言葉らしい。

現在、中国では、南沙諸島近くに石油掘削基地と称して人工島を造成しているが、深い井戸を掘って、そこから石油や天然ガスを掘削したくなるのは4世紀頃に遺伝子に組み込まれた気性かも知れない。

話をもとに戻す。次に現れたパネルは遂寧市出身の歴史的な有名人を紹介している。

先ず、鄒和尚(写真11.4-3-7)である。唐代中期の遂寧出身の僧であり、学識が
深く、科学技術にも造詣が深く、腕利きの製糖工藝技術を持ち、氷砂糖の創始者であった。生産するのが上手で、香り、味とも申し分のない氷砂糖であった。このため遂寧は氷砂糖の生産地として全国的に有名になった。そして遂寧の氷砂糖は朝廷献上品となった。」と中国通史 第三巻 に記述されているとのことである。

  そして、李實(写真11.4-3-8)である。明末から清初にかけて活躍した遂寧出身の学者、役人である。役人勤めの時は、清正廉潔、洞悉民情、営利除幣、頗有政績、為百姓(手偏に用)戴の人であった。「長洲如鏡」の説を唱え、後役人を辞し、学究に没頭した。

次の遂寧出身の歴史的知名人は陳子昂。中国・唐代(初唐)の詩人。陳子昂の詩風は、六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とするもので、盛唐の質実な詩の礎となった。「感遇」三十八首は阮籍の「詠懐詩」をベースとし、不変だと考えられている神仙的な世界と移り変わる現実社会の有り様を対比させて表現し、さらに歴史を鑑として(詠史)社会批判をも盛り込んでいる五言古詩の連作である。「薊丘覧古」や「登幽州台歌」は契丹討伐に従軍した際の雑言古詩で、人間という存在の孤独さを表現している。

この博物館には多くの陶磁器が陳列されていた。先ず目に入ったのは、「黒釉玳i班免豪盞」(写真11.4-4-1)で南宋時代の広元窯のものである。中国の黄河下流域を中心に分布する新石器時代の,光沢のある薄手黒色の磨き土器。ここの展示品の様に黒色とは限らない。写真11.4-4-2は、「南宋龙泉窑青釉盘口弦纹瓷瓶」である。

写真11.4-4-3は、「南宋龙泉窑青釉j式瓷瓶」である。写真11.4-4-4は、「南宋龙泉窑青釉荷叶形盖瓷罐」。以上3点は現在も使われている色調である。これらに対して写真11.4-4-5は、「南宋景コ镇窑青白釉大口蟾蜍形三足瓷水盂」で、蟾蜍とは蛙のことである。

写真11.4-4-6は、「青白釉刻劇花纏枝花奔紋梅瓶」で色は、青白ではなく茶に近い色である。この博物館のホームページ、   http://www.scbwg.cn/Category_2226/Index.aspx
には掲載されていない。

写真11.4-4-7は、「南宋景コ镇窑青白釉凸雕花卉纹鬲鼎式瓷炉」でこちらの青白釉はそれらしい色調である。写真11.4-4-8は、「南宋景コ镇窑青白釉八棱鼎式瓷炉」でやはり青色釉が用いられている。写真11.4-4-9は、「白釉鵞戯蓮紋真壁椀」であるが、この博物館のホームページには掲載されていない。

以上は全て遂寧市金魚村で発見されたものである。釉は青磁、青白、白釉。黒釉があったが青磁釉が圧倒的に多かった。他にもたくさん展示品があったが、この博物館のホームページに、写真がアップされている(以下のURL参照)のでここでは割愛する。
http://www.scbwg.cn/Category_2226/Index.aspx

その後1時間ほど展示品の見学をして、最後に売店に寄り、展示品の目録が載っている小冊子と家内のお母さんへの土産品を購入して博物館を出た(写真11.4-4-10)。売店では、素焼き前の成型まで済ませた茶碗をサービスでもらった。これは後日、模様(種子=シュジ)を彫り、青磁釉を施し、約1250℃で焼成したところ、上記の展示品の青磁と同じような色を呈示することができた。

既に時刻は現地時間で4:30近くになっていたが、もう一か所観光することになっていた。とは言うものの、事前に行き先の説明を受けていなかったので、どこへ行くのか着いてみないと分からないが、目的地に着いたのは、途中道を間違えたこともあり、2時間ほど経ってからであった。遂寧市千年古鎮—遂寧龍鳳古鎮という古鎮であった。

この時期では、19:00近くなので、夕刻というより夜である。車を駐車場に置き、3人で歩き始めると、間もなく古鎮の入り口と思われる彩色豊かな門(写真11.4-4-11)が現れた。門には崩した中国文字で右から龍鳳古鎮とあったが、その時は読めなかった。後日、本稿を書いているときに、<遂寧市 古鎮>でウェブ検索したらヒットしたのが遂寧市千年古鎮—遂寧龍鳳古鎮だったのである。ところが中国語サイトだったので、それを機械翻訳してみると、遂寧市船山地区にある古鎮で前漢ミャオチワン古代都市の名残のある古鎮である。

門の向こうには古めかしい木造の三階建て建造物(写真11.4-4-12)が見える。赤い提灯が規則正しい間隔でブラ下がっている。平日の夕方なので、観光客には殆ど出会わず、住民の姿も殆ど見かけない、と思っていたら、営業中の床屋の店内が明るく浮かびあっているのが見えた(写真11.4-4-13)、客は若者で理容師は女性である。

通りは暗く、持参していたLED小型懐中電灯が役にたったほどであった。池に沿って更に奥に進むうちに花火の音が聞こえて来た。こんなにさびれた観光地で、これだけ間断なく花火を打ち上げて古鎮の財政がもたないのではないかと思うほどの連発である(写真11.4-4-14)。

そして、もと来た道を戻り、遂寧市内の方に戻った。途中夕食を摂るため麺屋に入った。店は最近オープンしたばかりと思えるほど清潔感にあふれた店であった。店内の壁には「麺賦」(写真11.4-4-15)なるポスターが貼られていた。注文したのは、相変わらずワンタン(写真11.4-4-16)と、それだけでは足りないだろうと、駱さんが四川料理風の辛そうな麺を頼んでくれた。共に腹を満たすのに十分だった。他の壁にはメニュー(写真11.4-4-17)が貼られていた。

食事を終え、一路宿泊予定のホテルに向かった。ホテルに着いたのは夜10:00を過ぎていた。ホテルは明星康年大酒店と言う名であり、二部屋からなっていて、TVは両部屋にあり、片側は中央にソファーが中央にあるので打ち合わせ室か(写真11.4-4-18)。このような豪勢な宿泊は初めてであった。

かくしてD4が無事終わった。
   本稿 完    次稿につづく







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