槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/08/02 23:28:06|物語
西方流雲(81) ---66-3)日本人と中国人(3)---
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       3)日本人と中国人(3)

  その端著ととして、
「ところで、先ほど、東伝さんという人の名前がでましたが、どなたですか?」と思い切って聞いてみた。

  「東伝さんは自分の人生では大切な恩人で、私の人生の指針を与えてくれたといっても良い両親の次に大事な人でした。日本へもその人の先導がなければ来られなかったと思います。」

  「今もお元気なのですか?どちらにお住まいですか?」

  「私が中国で結婚するまではいつも近くに居てくれましたが、二度目に日本にやってくる直前に主人とともに交通事故で亡くなりました。そのことを想い出すと今でも悲しくて仕方なくなります。」

  「そうでしたか。悲しい出来事を思い出させて申し訳ありませんでした。でも、その東伝さんについてもう一つだけ聞かせて下さい。東伝さんの出身地は中国のどのあたり?」

  紅蓮は、「崑崙山脈の麓の・・・」と言いかけて、「本当はご本人にはっきり聞いたことがないので、結局どこか私にもわからないのです。ただ亡くなった主人を私に紹介してくれる時、『自分と同郷の、』と言っていたので、崑崙山脈の麓のホータンと勝手に思い込んでいました。
 主人の出身地がホータンから、白玉川を少し遡ったところなので、そう思ったのです。」

  「そうでしたか、そういうことでしたら誰だってそう思いますよね。」

  「ええ、でもそれまでは、東伝さんは、よく私に崑崙の仙人のお告げだと言って、いろいろな話をしてくれましたが、その話ぶりからは、東伝さんから見ても崑崙というのは仙境の地で、そこが出身地という感じは受けなかったのです。主人と私を一緒にさせるための嘘だったかも知れなかった、と最近になって思うようになったのです。それに東伝さんの葬儀に見えた東伝さんの息子さん達の話では、崑崙ではなく四川省か雲南省という感じでした。」

  「そうでしたか、そういうことでしたら誰だってそう思いますよね。」と言いながら、自分も訪問したことのある四川省の話が出てきたので、記者は我然勢いついてしまった。

  実は記者は崑崙山脈とかホータン、あるいは白玉川という川の名前が出てきてもどのあたりかさっぱり検討もつかなかったのである。新聞記事には座標があって、その原点がわからないと記事を書きようがないのである。

  その座標原点の候補となりうる地名が出てきたので、これからが取材といえる、と思うことにした。そしてインタビューを続けた。

  「先ほど、もう一つだけと言って質問しましたが、構わなければもう少し話をつづけさせてもらえませんか?」

  「構いません。私もずっと胸のうちに暗くしまっていたので、いつかはそれを吐き出して、明るい気持ちになれたらと思っていました。聞いていただければ知っていることは何でもお答えします。ここのママさんも時間を気にしないで、記者さんと話をしていて良いと言ってくれていますので。」

  そこへタイミング良く、店のママさんが二つのコーヒーカップを載せたお盆を捧げ持つ様にして記者と紅蓮が座っているテーブルに近づいてきた。

  「西畑さん、紅蓮さん、コーヒー如何ですか?話が弾んでいたようなので遠慮していたのだけど喉も渇くでしょうと、気を利かせたつもり。」と言って、コーヒーカップをテーブルに置いて立ち去ろうとした。

  西畑は、「ママさんも一緒に話に加わりませんか?いいでしょ紅蓮さん?」とママさんと、紅蓮をかわるがわる見つめながら哀願するような表情を見せながら話しかけた。

  紅蓮は、「この人、西畑という名前なのだわ、ママさんに話しに加わってもらえば、もっとリラックスして話すことが出来そう。大歓迎だわ。ついでに、あの四面聖獣銀甕に加わってもらえれば、完璧なのだけれどね。」と独りごちた。

  ママさんは、「あら西畑さんありがとう。でも邪魔しちゃ悪いもの、遠慮しておく」と言って、カウンターの方へ戻って行きそうになった。ところが途中で急にUターンして二人の方へ戻ってきた。

  「あの四面聖獣銀甕を見たとたん気持ちが変わってしまったの。やはり一緒に話に加わらしてもらうことにしたわ。私の分のコーヒーも造ってきちゃうのでちょっと待っててね。」
と、にこやかに、仲間入りの宣言をした。

  既に午前11時を回っていたが、不思議なことに、客が誰一人来ていないのであった。窓の外を眺めていた西畑記者は、先ほどから、店の入り口に近づいてくる人はいても、店の中を覗きこんでは、首を傾げ、皆通り過ぎて行ってしまうことに気がついていた。

  ママさんが、自分のコーヒーカップを右手に持ちながら、西畑記者と紅蓮が座っているテーブルに、三人が直角三角形の頂点に位置するように腰をかけた。西畑記者からは、四面聖獣銀甕が正面に見え、左手に紅蓮、右手にママさんが位置することになった。

  腰をかけたママさんは、「いいから先を続けて、聞いているうちに話を呑み込んで話に加われるようにするから。」といって先を急がせた。

「では、先ほどの続きの話をさせてもらってよろしいかな?」と西畑記者が、紅蓮の顔を覗き込むようにして同意を得る言葉を発した。
           つづく







2010/08/02 23:12:57|物語
西方流雲(80) ---66-3)日本人と中国人(2)---
           
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       3)日本人と中国人(2)

  「記者さん、ごろつき犬と苦学生が前を通行して行くところを全く見ていませんでしたね。それ以上にあの置物に興味があったのですか?」と後ろを振り返りながら語りかけてきた。

  本当にこれが中国人かと思うほどに流暢で綺麗な日本語を使うことに先ず驚きを感じた。

  そして、四面聖獣銀甕に向かう視線の途中に紅蓮の顔貌が入り、彼女の顔形を観察した。一体何歳くらいなのだろう。そう思った気持ちが、言葉に変換された。

  「紅蓮さん、日本語がお上手ですが、日本に来てどのくらい経ちました?」

  「いつの間にか二十五年も経ちました。その間五年程中国に戻っていたことがありますが。だから日本には二十年滞在していることになります。」

  「どうりで日本語がお上手なはずだ。いや日本人以上に日本語がお上手だ。どこかで勉強したのですか?」

  「日本に来たばかりの頃、お世話になったお店の奥さんの勧めで神戸にあった日本語学校に一年ほど通ったことがあります。それ以外はありません。これまで、日本で出会った日本人の方が皆親切で普段の会話の中で教えて下さいました。」

  「そうでしたか。出会いというのは誰でもそうですが、運不運があって、良い出会いばかりではありません。良い運を引っ張ってくるのは、その人の努力と精進があってこそのこと。きっと、紅蓮さんは根っからの努力家で、何事にも精進を怠らないのですね。」

  「いえ、そんなことはありません。ごく普通の人間で、特に出会いで努力していることも精進していることも特にありません。それ以上に日本人全体が親切で勤勉で、それに同化させてもらっているだけです。」

  「そうですかね。日本人がそんなに親切で勤勉ですか。僕は新聞記者なので、そうでない場面は数え切れないくらい目にしてきていますけどね。中国人との比較でそう感じているのかも知れませんね。中国の人は日本人より親切でも勤勉でもないのですか?」

  「私の心に残っている中国人のイメージは、自分が中国人でありながらこんなことを言うのは残念なのですが、本当に親切で勤勉と言えるのは、自分の両親と東伝おじさんと、両親を匿って面倒を見てくれたおばさんだけです。それと生き物ではありませんが、あの四面聖獣銀甕だけです。日本にいる年月と中国にいた年月とが同じくらいになり、自分は中国人の資格は無いかも知れません。」

  「そんなことはありませんよ。時代はもう日本人だの中国人だのと言っていられない時代がきますよ。韓国もそうですが、もともとは中国人と共通の遺伝子を持っている民族同志ではありませんか?今は東アジアの三国志時代のように牽制しあっているところがありますが、新しい世代同志は三国を混合同化させるような時代がきますよ。」

  「本当なの?そうなるとうれしいなあ。」
という紅蓮の本当に嬉しそうな顔と言葉遣いを急に変えたのを見て、記者は素顔の紅蓮にやっと触れられたようでリラックス出来てきたのであった。それと同時に何かエピソードが隠されているように記者は直感し、そのエピソードの紐解きにとりかかったのであった。

             つづく







2010/08/02 22:55:35|物語
西方流雲(79) ---66.日本人と中国人(1)---
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       3)日本人と中国人(1)

  紅蓮とその新聞記者は、時計とにらめっこしながら、今か今かと店の前の通りを見つめている。苦学生とゴロツキ犬の通過を待っているのである。紅蓮はその一瞬を待ちながら、懐かしさがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
  
  蘇州にあった自宅の前に時折漣がたつ運河があり、そのそばに佇み、傍らの槐の大木の幹に左手の手の平を支え置き、右手を翳して毎日毎日河の流れを見つめていた頃を思い出すのであった。

  どんなものか分からないが、自分にとってとてつもなく幸運をもたらすものが自分のところまで流れ来るのではないか、それを見逃してはいけない。そう思って朝から晩まで待ちわびる毎日だった。
 
  そして、ついにその時がやってきたあの一瞬をいまだに鮮明に脳裏に残していた。その思い出を発端に、連鎖的に次から次へと時の流れに沿うように際限もなく頭をよぎるのであったが、いまは、“ごろつき犬と苦学生”の通りがかる様を観なくてはならないのだ。

  間もなくギーコ、ギーコとさび付いたペダルを踏むリズミカルな音が聞こえてきた。明らかに中古の自転車の音だが、犬の足音は聞こえてこない。

  最近は、この時間にこの通りを下っていく“ごろつき犬と苦学生”のことはこの界隈では評判になっていて、知らない者はいないということになっていた。

  以前は、時に店の前に駐車していた車もあったが、この時間帯に限って見通しが良くなるのであった。またゴロツキ犬も以前のように通りを右に左にと我が物顔に占領し、街の人にとっての恐怖心も与えなくなったので、それによっても道幅が広がったような印象を与えていた。

  そして、彼らが店の前を通過する瞬間をどの様な表情で新聞記者が見過ごすか、紅蓮にとってはその表情を観測しようとしていた。紅蓮は既に“ごろつき犬と苦学生”をまじかに見ていて、それほど大したことでは無いように感じていたのだ。

  第一中国でこのようなシーンを目にしたことがなく、犬を飼うという文化も身近なものではなかったのだ。しかし、それ以上にゴロツキ犬がゴロツキ犬だった時の行状を知らないので、感動のしようも無いのだった。

  店の女主人から、ことの経緯を物語ってもらったことがあるが、その情景を描き出せなかったのである。それにしても、その新聞記者は自分の方ばかり見ていて、外を眺めやる雰囲気が全くないのだ。

  従って、“ごろつき犬と苦学生”の光景を見て感動する表情を全く示してくれそうになく、“ごろつき犬と苦学生”が通りすぎる瞬間、そして通り過ぎたあとも表情を変えないのだ。

  一方、記者は記者で、これから紅蓮にどのようなインタビューをしようかと紅蓮の後ろにおいてある四面聖獣銀甕を見つめながら考えていたのである。

  四面聖獣銀甕がその格好なテーマであり、四面聖獣銀甕を知ることが紅蓮を知ることであると、半ば決め付けていたのだが、記者の持っている情報網をフル活用してもそれについての知見は全く得られないのであった。

  知っていることと言えば、店のママさんから聞いたことだけであり、その話には書誌的事実は何もなく、あるのは、四面聖獣銀甕を前にして如何にも会話しているかの様な不思議な光景を目にしたという店のマダムの話とマダムの鑑識眼だけであった。

  これまでのマダムとの付き合いで、ママさんの度量の大きさと美徳とに惹かれている。そのママさんがまるで自分の娘の様に面倒を見ているのだ。

  三年ほど前からは、彼女の兄の息子が勤務する山の手病院へ、勤務できるようにしてあげている。ここまでするのは、紅蓮が彼女の度量と美徳の眼に適う魅力的な人物と映っているはずなのであった。

  その魅力を自分が如何に引き出せるか、必ずしも自信があるわけでは無かった。そんな気配を察したのか、紅蓮から切り出してきた。

         つづく







2010/07/25 15:09:58|旅日記
北東北をレンタカーで巡る3泊4日の旅 11)角館逍遥

 11)角館逍遥(北東北をレンタカーで巡る3泊4日の旅の完)

  JRの駅で次の電車待ちで、10分も待たねばならないとき、体または腰から上を回転させて後ろを振り返る仕草をすることがある。そうした時に目に飛び込んでくるのがJR東日本の旅行ポスターであり、とりわけ北東北のポスターが多く、そのなかでも最近特に目につくのは角館である。

  大きなサイズのポスターに一杯に角館の写真が刷られている。それを見るたび、「写真が良いから、これに惹きつけられ出かける中高年観光客が多いのだろうナ」と独りごち、ついでに、「これがプロのカメラマンが沢山撮ったうちのベスト写真で、それと、同じアングル、同じ季節感、同程度の閑静さ、同じ程度の草木や花の咲き具合、そんなものに出逢えるのは稀で、その半分の良さでも味わえれば十分だ。」と考え、「そのベストの角館シーンは桜で、いくらなんでも十和田湖や田沢湖の様に待っててはくれないだろう。だけど、その変わり今の季節を彩る花くらいはあるだろう、その写真を沢山とることにしよう。それ以上のことに遭遇できれば、儲けものダ!」というやや期待感を薄くしていた角館逍遥である。

  春になると、その桜の美しい武家屋敷跡ということで、JR等で盛んに宣伝されている観光地で、秋田新幹線の目玉的な存在になっている観光地、稲庭うどん発祥の地としても有名である。田沢湖から、角館までは距離にして20km余りの近くにある。羽州街道(大覚野街道)/国道105号線の13.3kmというのが角館までの同一道路最長走行距離であり好天のなか気持ち良くドライブできた。角館と盛岡とを結ぶ角館街道/国道46号線を右折すると3km足らずで、角館武家屋敷入り口の無料駐車場に10時前に到着した。

  枝垂れ桜の高木が枝を頭につくくらいに垂らし、さすがに花の時期は終わっているが、花の盛時にはそのダイナミックな光景が魅了してくれるのだろう。“天空のアーケード”と言った趣で、武家屋敷に囲まれたメイン通り(写真1a)は時折乗用車が行き交う以外は中高年の観光客ばかりである。黒く塗られた板塀と、白く反射してまぶしい舗装道路と、木々の緑とのコントラストが落ち着きを感じさせる。

  さすが武家屋敷門構えは荘重で立派だ(写真1b)。木々は大木ばかりで、それによってこの地の歴史の重みを感じる。屋敷の門構えも寺の山門の王に厚さのある門構えもあるし(写真1c)、二本の縦の柱に、一本の横棒を架けた簡単な門(写真1d左)もある。そして、その門越しに、その武家屋敷に象徴的な花や木々が見えてくる。その木々は、今は満開のつつじになっているようだ。

  その様な門構えの無いところは大抵は店で、地酒屋(写真1d右)、稲庭うどんの店である。そうでなければ、土産物屋であり、中を覗くと、ほとんどの場合、中高年の女性である。その店に入ること自体受け付けず、散財防止と休憩を兼ねて体良く店の前に用意された椅子に腰をかけて、店の正面の他の武家屋敷を眺め、癒されているようだ。白いつつじが多く、屋敷の木塀に垂れ下がっていたり(写真2a左)、入門すると、門の裏側に大きな白いつつじが植えられていたりする(写真2b)。

 煌びやかさを隠した建造物は日陰だと黒っぽく見え、それとつつじの花の白さが、絶妙のコントラウトを醸し出している(写真2b〜2d)。そしてこの時期日本全国どこででも目にすることが出来る、清楚で可憐な“著莪(シャガ)”の花である(写真2e)。濡れ縁台にへばりつくように著莪を生えさせているのはこの屋敷の主の趣味だろう。

「紫の 斑(ふ)の仏めく 著莪の花」
************ 高浜虚子
    
「著莪叢(むら)の とどく木洩(も)れ日 濡れてをり」 
**************************** 稲畑汀子

「譲ること のみ多き日々 著莪の花」
********************************** 塙 義子

  角館武家屋敷に住んできた住人達の仏心は知る由も無いが、少なくともこの屋敷の主は,上記三句を理解する人に違いない。

  角館は佐竹氏の城下町であるが、佐竹氏が最初にこの城に入ったのが16世紀半ばで関が原以降であり、歴史はそれほど古くはない。佐竹氏はもともと京都の公家高倉家との関係が深く、公家出身である。彼らの嫁も京都の公家出身が多かった。

  公家育ちの嫁が京都から嫁入りするときの嫁入り道具とともに3本の京の枝垂れ桜をもたせ植樹したのが始まりで、京から遠く離れた地にいて、京が懐かしく、京に似た地形で、京を懐かしみ小倉山、加茂川などと地名を命名した、ことになっている。

  この京を懐かしむ気持ちを慰めてくれたのが、この著莪の花だったかも知れない。

  この季節に白い花のもう一つの代表選手は、オオデマリである(写真3a)、そしてさらにはカラフルで花姿は女性の歩く姿にたとえられる牡丹(写真3b)。

そして、驚いたことに楷(カイ)の樹まであった(写真3c左)。説明書きがあり、「日本最北端にある楷の樹」と紹介されている。

  “楷の樹”は中国山東省曲阜にある孔子廟の山道に植えられていることが知られていて、槐(えんじゅ)と同様学問の樹として知られているが、日本には孔子を祀るお茶の水にある湯島聖堂など、極限られた所にあるだけである、と言われている。

  この樹の名称をしばらく思い出せなかったのだが、こんなところで思い出すきっかけが得られるなど夢にも思わなかったのである。

そのことをかつての自分の上司だった知人に話しをしてみたら、「自宅の近くの神社(沙々貴神社)にもある」、ということを聞き、どんな花を咲かせるのか知りたくなった。
と同時に、意外と日本各地にあるのかも知れないという気持ちになった。花が咲けば、実が出来、種が出来る。その種を発芽させてみたいのである。

この様な思いもよらないきっかけが掴めるのも旅の醍醐味である。ところで、この楷の樹は葉紋を作り、何かを語り掛けて来るような形を作ることがある。
  葉紋と言うのは楷の樹の複数の葉が同心円状の模様(紋)を見せることがあるのだ。角館のこの楷の樹も注意深く観察すると、葉紋が何箇所かに見えている(写真3c右)。

  武家屋敷の庭園にはその他、様々な野草や花が植えられている。例えば九輪草(写真3d左、3d右上)、ハナズオウ(写真3d右下)、藤(写真4a)、初めて見る花(写真4b、4c)、さらには、シャクナゲ(写真4d、4e)と多彩である。恐らく四季折々の草花が咲き、年中花が咲いているだろう。とすると、今回たまたま目にした種類の3〜4倍の花が楽しめるのであろう。

武家屋敷は今は完全な観光地と化しているが、かつてはちゃんと人が住み、生活していた痕跡もあり、その当時の生活必需品、軍服、レコード、蓄音機、古い写真、古いポスターを展示している屋敷もあり、近代史展示館の様なところは、その時代の雰囲気を伝えていて、民族資料館の役割もしていて楽しい。

  角館の稲庭うどんを食べ、帰路角館と盛岡とを結ぶ角館街道/国道46号線に出ると、盛岡まで約65kmの一本道である。盛岡市内に入ってからレンタカーを返却するマツダレンタカー盛岡はすぐみつかったが、ガソリンを満タンにして返す必要があり、ガソリンスタンドを見つけるのに手間取ったが、帰りの新幹線には十分間に合った。盛岡駅前では、最近流行のよさこい祭りまたはソーラン祭りの最中らしく、多くのお祭り衣装の男女が駅前広場をうろついていた。盛岡16:57発の新幹線にのり帰宅の途についた。
旅日記 北東北をレンタカーで巡る旅 おわり







2010/07/24 0:33:36|旅日記
北東北をレンタカーで巡る3泊4日の旅 10)田沢湖めぐり+駒形神社随想

10)田沢湖めぐり + 駒形神社随想(付録)
翌朝4:00前に目が覚めた。
陽は上っていないが、明るい。おまけに雲は多少漂っているが、晴れであり、田沢湖全体が見渡せる。中でも最も明るいところが日の出の場所なのだろう(写真1a=3:48)。
カメラに三脚をとりつけ、視野の中心をそちらに固定した。刻一刻と明るくなってゆき(写真1b=4:22)、日の出である(写真1c=4:39)。そして湖面に描く光跡も太く強くなってくる(写真1d=4:40〜写真1f=4:41)。

それでも湖岸にたたずむ木々の緑の色彩はまだ分からない。しかし、確実に明るさが増してゆく。今回の旅で日の出を写真に収められるとは、夢にも思わなかった。

約一時間に亘り、素晴らしいショーを見させてもらった。ラッキーであった。ホテルの6階で、一枚張りのガラス窓というのも幸いした。機転を効かせてくれて、良い部屋を宛がってくれたホテル支配人?に感謝のひと時であった。

5:00近くなると、さすがに木々の緑の色彩や湖岸にへばりつく岩の苔の色もはっきりしてくる(写真2a=4:54)。鳥達も活動を開始し、湖面スレスレに飛び対岸の方へ向う姿が時折見かけられる。ホテルの外に出て、地上の高さから、ホテル周りの光景を眺めることにした。ホテル前の庭園は青空と湖面と遠方の山々が絶妙のアラカルトを作り出していた(写真2b〜2e)。

ついでにホテルの周りを歩いてみると200mも行かないうちに金色に輝く「辰子の像」が目に入った。あとで、ゆっくり観賞することにしてホテルに戻った。朝食を摂り、8:00前にチェックアウトした。この日の予定はこれから角館によって、そのあと、帰りの新幹線乗車駅の盛岡まで帰らなくてはいけないからだ。

チェックアウトして、徒歩で「辰子の像」へ向った。歩いてすぐのところに、湖岸から突き出した「浮き御堂」があり、右手を見ると、ホテルの整備された芝生の庭が見え、視線を直近に移すと、灯篭と「浮き御堂」から地面に張られた三本条線に隙間無くおみくじが結びつけられた様子が目に入った(写真3a)。

そして「浮き御堂」の軒先には、釣鐘がぶら下げられていて、快晴の空、遠方の山々を鏡映した湖面とその湖面に浮かぶ「辰子の像」とが絶妙のコントラストを生んで素晴らしい光景であった(写真3b)。そして、すぐ接近した足元近くの湖面をみると、多くの魚の群れが湖岸に沿って回遊しているのが、清澄な湖水を透してはっきりと見えた(写真3c)。

「辰子の像」は湖岸から20m程度のところに立っている。辰子像の正面には県道60号が欄干を隔てて東西に走っている。そして県道60号の山側に土産物屋があり、その土産物屋にへばり着くように、八重桜の大木が立っている。

八重桜は丁度見ごろで、その八重桜の花をかざして田沢湖の対岸を眺めてみると、色の対比が絶妙であった(写真4a〜4d)。そして、再度異なるアングルから「辰子の像」をみると、小さな漣さえ立っていない湖面に対称に映し出された虚像とのセットがまぶしかった(写真4e)。

 『十和田湖の主・辰子は絶世の美女でした。彼女をめぐり男鹿の赤神と竜飛の黒神が激突します。赤神は牡鹿を押し出し攻めます。一方、黒神は龍を飛ばして戦います。ついに、赤神は敗れ男鹿の寒風山へ引き下がりますが、女心の不思議でしょうか、辰子は赤神を追って田沢湖へ移住してしまうという伝説です。やはり、この伝説も、「戦い」を意味してるとも言われます。』
と説明された観光案内がある。

必ずしも最近の話ではないにも拘わらず、ここに立っている黄金色の「辰子の像」は若々しく現代的である。

他人からみた実像が、実は虚像で、他人には見えない虚像が、実は真実の自分である。そんなことを言っているようにも見える。

写真を沢山貼りすぎてしまい。文章を記載するエリアが出来すぎてしまった。そこで、ここに、逆に前章の長すぎた文章の一部を以下に移設することにした。またついでに、「駒形神社」随想を追記する。

※前章9)のつづき:***************************************
 いつしか、峠を越えたようだ。山の斜面は相変わらず眼前に迫っているが、少し下り始めているのが分かる。重く垂れ込めた雲から時々雨がぱらついている。そんな雲間から少し湖面が見え始めた。やっと田沢湖へ着いたか、と思ったら間違いで、宝仙湖である。

  宝仙湖の南西側の湖岸に沿って南下して、宝仙湖の最南端にある玉川ダムを横目に見て南下を続けていると間もなく田沢湖の湖面が見えたと思ったら、またしても田沢湖ではなく、今度は秋扇湖であった。こんどは秋扇湖の東側の湖岸を南下するのである。

  そして、田沢湖田沢という地名の村落に出合った。郵便局もある。しかし肝心の湖はまだ見えない。そして右折すると田沢湖に行くという交通標識とそれらしいT字路が目に入ったので、そこを右折した。県道248号である。248号を山間を蛇行しながら行くと、今度こそ正面に靄に覆われた田沢湖の湖面が現れた。雨が降っている。そのため、霞が掛かったようで向こう側の湖岸は分からない。湖岸を周回する県道38号線とのT字路にきた。「姫観音」という案内標識のあったところを左折し、田沢湖を時計回りに周回することになる。

  後日、このあたりをGoogle Mapの航空写真で辿ってみたが、湖水の清澄さが分かり、楽しい。県道38号線が湖面から大きく逸れて行くあたりから県道60号が周回道路となる。そしてしばらく
山道で、湖面が全く見えなくなってしまうことがあったが、気にしないで進むうちに田沢湖が正面に、右手に「たつ子茶屋」の大きな駐車場が現れた。

  しばらくそこに車を停め、休憩し、再び左に大きく旋回し湖岸すれすれの県道60号を今度は西進することになる。宿泊予定ホテルの田沢湖ホテルエルミラドールは辰子像のすぐそばにあるので、もう目と鼻の先だろうと思ったが、更に10分は走っただろう。やっとホテルに着いた。予定は湖に面した部屋ではなかったが、空いていると言って、6階の湖側の一番景色が良い部屋にしてくれた。部屋からは十和田湖のほぼ全景が一望できた(写真3)。

  雲は相変わらず重く垂れていて対岸の岸は見えるものの、それに覆いかぶさるようにあるはずの山々は灰色のベールに邪魔され全く見えなかった。刻一刻と垂れ込める雲の形が変わってゆく。近くの緑は認められても(写真4a)、遠景は無彩色の一点張りだ。時に対岸の表情が変わり一部だけ、はっきり見え湖岸に迫る低い丘が湖面に映ることもある(写真4b)が稀であった。
  注意:写真は前章に掲載してある。
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付録「駒形神社」随想
  同じ国道341号線沿いに同じ名前の「駒形神社」がいくつも目に留った。これは駒形神社に祭られた神になった人物が、国道341号線に沿って、北上したか、南下したのであろう。それは一体だれで、何を目的に、という疑問が沸き立ち、インターネット・サーフィンによって、その情報を手繰り寄せる試みをした。

坂上田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。とwikipediaで紹介されている。

田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。とも紹介されているが、感謝して建立した寺社が「駒形神社」ではないのか、と推理したくなる。


 田村麻呂には、子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある、という見方もあるようで、その見方を根拠に、坂上田村麻呂ルーツ説を展開したのであろう。

もし、その説が事実であれば、坂上田村麻呂の父 坂上 苅田麻呂 が中国の後漢の霊帝の流れを汲むという東漢氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した、というのは通説となるほど信憑性が高いので、全くありえない話でもないかも知れない、と言う気になってきた。