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3)日本人と中国人(8)= 医師 周榔 =
紅蓮の口から出てきた話は、西畑とママさんにとっては、引き込まれる様な興味深いものであった。
紅蓮は蘇州観光ツアーの団体と別れ、昔の記憶を辿りながら25年前まで両親と一緒に過ごした楓橋路を運河に沿って西に向って歩いた。運河に沿って歩けば、伐採されていない限り、槐の大木に出逢う筈であり、運河に沿った小路を隔てて家があるはずなのである。
以前、東伝には知り合いの貿易商に託された父からのメモがあり、それによると、文化大革命の余波がなくなったので太湖の渡村からここ楓橋路の自宅に戻って生活している、ということになっていた。
そのメモには、決して自分達に手紙を出すなとも書かれていた。それをかたくなに守っていたので、今回の旅についても手紙は出していないのであった。
運河に沿った小路を歩いているうちに、ひときわ大きな樹が100mほど先にあるのが目に入った。視力の良い紅蓮でも樹の種類までは見分けられなかった。柳か槐か見分けられなかったが、先ほどから柳絮(りゅうじょ)が頬を掠めながら浮遊し、漂っているのに気がついていたので、柳であろうと思っていた。
その手前で二人の若い男女がベンチに腰をかけているのが目に入った。恋人同士か、中国も随分変わったものだと独りごちた。
更に歩を進め50mくらい手前のところに来て、その大樹が柳ではなく槐ということがはっきり分かった。
それを見あげながら急に表情をほころばせた紅蓮をその男女が見て、表情を変え、互いに意味ありげに顔を見合わせたのが分かった。
顔がよく似ているので、恋人同士ではなく兄妹かも知れない。きっと自分達が日本へ旅立った後に生まれた世代だろう。
槐の大樹の手前10mくらいのところにいた彼らをやり過ごし、その槐の大樹のすぐそばまで来て、大樹と小路沿いにある一角に交互に目を向けた。そこは自宅があったところである。
しかし、そこにあったのは病院らしき建物であった。両親はここにはいないという予感が強くなった。そしてついに槐の大樹に触れられるところまで来た。自宅はなくなっているが、その槐の大樹はあきらかにあの槐である。運河の流れも当時と同じだし、向こう側に見える太鼓橋も多少化粧直しはされたようだが同じ佇まいである。
その橋の下から船に乗った東伝が現れたのが東伝との初めての出会いであった。
そのときの光景も交わした言葉も25年経た今も鮮明に覚えていた。
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太陽が、ちょうどその橋のあたりまで落ち、まぶしいけど、その紅く染まった夕陽に見とれ、紅蓮は手をかざしてそちらを見ていたら、その橋の下をくぐって東伝おじさんと、野菜等を乗せた烏蓬舟(うほうせん)がやってきて、この同じ場所を通りがかったのである。
紅蓮が今たたずんでいる足元にあり、路面から水面に突き出た、こぢんまりとした石段に舟を着け、東伝おじさんが舟から下りてきた。そして、
「お嬢ちゃん、何か用かな?手招きしていたみたいじゃったが。」
と言いながらその石段を上がってきた。
紅蓮は杖を立てて船首に立っている白髭の老人の姿が、父から聞いたことの有る封神演義(ほうしんえんぎ)に出てくる
崑崙山(こんろんさん)の仙人の様に見え、自分の方に近づいてきても、恐怖より好奇心に駈(か)られ、舟が近づいてくるのを待っていた。
そして、石段を、杖をつきながら上がってきた東伝おじさんに向かって、
「おじさん誰?崑崙から来たの?」
と、か細い声で聞いてみたのだった。
「わしは千年かけてここまでやってきたんじゃよ。」
というのが答えであった。その時、紅蓮のそばに佇む槐(えんじゅ)の樹が、ざわっと、身震いするように揺れた感じがした。
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その槐に、その時と同じように手のひらをそっとあててみた。何か暖かいものが紅蓮の体の中に染み込んでくるような気がした。
紅蓮が生まれる前からここに佇み、全てを見てきた槐である。自分がここに居なかった歳月の出来事を、その暖かいものとして自分に注ぎ込んでくれたような感覚になった。この樹だけは自分を覚えてくれていたのかも知れない。
そんな気分に浸っている紅蓮の背後から、中国語で、
「もしかして、薄(ボウ)さんではありませんか?」
という女性の声を聴いた。振り向くと先ほどの若い男女が近づいてきて嬉しそうに話しかけてきたのであった。
紅蓮もにこやかに、「そうです。薄紅蓮という名前ですが、どなたですか?」と返事をした。
「僕達は周という名前です。ご存知ないと思いますが、父は周榔という名前で、そこの病院で医師をしています。」
紅蓮はその名を思い出せなかったが、そこの病院ということは、そこには以前自分の家があったところであり、いきさつを知っているのではないかと思い、興味深げに、
「失礼ながら、お名前に記憶はありませんが、私は以前25年以上も前ですが、そこに住んでいたのです。」
「そういう話なら父が探していた人に間違いありません。これでやっと僕達の任務が終わります。父は今外出中でもう少ししたら戻るはずです。父も大喜びしてくれる筈です。それまで、しばらく槐の樹と運河が見えるあちらのベンチで話をさせていただいてよろしいですか?」
「勿論結構ですよ。お父さんとも話しをしてみたいですね。ところで、あなた方のお名前は?」
「僕は長男の周鉦倫(しゅうしょうりん)、こちらは妹の周鴇蕾(しゅうほうらい)と言います。僕は19歳、妹は17歳です。僕は医大生、妹は看護学生です。」
「妹の鴇蕾です。よろしくお願いいたします。それにしてもお若くお美しい方。父と同じ年とはとても思えないです。」
「いえ、いえ、そんなことありません。あなた達に比べれば、おばあさんですよ。もう42歳なのですよ。でも不思議な因縁ですね。私の父は鉦渓、母の名前は蕾蓮というので、それぞれ一文字づつ同じネ。」
それを聞いて大きく頷きながら、「その通りです。僕らの名前は、あなたのご両親から一文字づついただいたと父から聞いています。その理由はあとで父から聞いて下さい。」と鉦倫は言ってから先をつづけた。
「僕達は毎日交代でこのベンチに座りつづけて、あなたの現れるのを待っていました。15歳になったその日に父から、ここに大事な人が現れるので、それまでこの槐の樹の下で毎日辛抱強く待つ様に言われたのです。妹が15歳になってからは交代になりました。最初は、女の人とだけ言われていたので、母に後ろめたい気持ちがありました。
ですが、あるとき母からもその人を待ち続けて欲しいということを言われ、そうしてきたのです。最初はどうして待ち続けねばいけないのか何も聞かされていなかったのです。ですから、ここに居続けるのが苦痛になり、途中で逃げ出したり、居眠りをしたりでとても待ち続けるという状態ではありませんでした。ところがある日、やはりこのベンチに座っているうちに居眠りをしてしまったのですが、その時不思議な夢を見たのです。」と言いかけたところで、今度は妹の鴇蕾があとを継いだ。
紅蓮が目を運河に向けると、一艘の烏蓬船が陽を受けてキラキラと行きすぎてゆく。まるで時の流れのようだ。あの時自分達は必死になってこの国からの脱出を試みた。烏蓬船に身を任せ、紅衛兵に見つからないように、それ以上は不可能なくらいに身を縮め、音を立てないように、櫂を漕がずに流れに身を任せたのであった。目の前の運河がその時の運河と同じものとは信じられない紅蓮であった。そして、その時、その腕にしがみついてた東伝おじさんは天界の人となり今はいない。両親も一時的にここへは戻ったようであるが、消息が分からない。
妹の鴇蕾が話を続けた。
「私がこのベンチであなたの出現を待つ様になったのは、兄より二年後で私が15歳になったときからです。すでに兄が同じことを毎日やってましたので、私は何の抵抗もなくここに座って待つことになったのです。後で分かったのですが、実は私も兄と全く同じ夢を見たのです。私はここに座って本を読みながらあなたの出現を待っているうちに居眠りを始めてしまったようなの。突然あたりが暗くなり、ゴーゴーという凄い音を立てながら風が吹き始め、いつの間にかあの槐の樹が無くなっているのです。」
今度は兄の鉦倫が続けた。
「その代わり、あの太鼓橋の橋脚あたりがボ〜っと急に明るくなり、そこから小船に乗った小柄な白髪の老人が湧き立つように現れたのです。そして、どんどんこちらの方へ近づいてきて、岸辺にあがり、『わしは千年かけてここまでやってきたんじゃよ。』というのです。そして、『あの者たちはいまだにやってこんが、一体何をもたもたしとるんじゃろ。君達は毎日ここにいるので知っているじゃろ、あの者達のことを。』と聞くのです。
そのころには少しは父から、ここで待っている人のこととと、薄家のことを聞いていたので、『少しだけ知っています。』と答えたのです。するとその老人は、『最近のことを本当に少しは知っているのだな?』と言うものですから、『最近のことは全く知りません』と正直に答えたのです。すると老人は、『また出直しだ。次にわしがここに来るのと、その者がここに来るのとどちらが先になるか分からんが、もしその者が先に現れたら、これを渡してくれんかの、といって青金石(ラビスラズリ)で出来た飾り石を渡してくれました。ところがそれを受け取るときにそれを落としてしまったのです。その途端に再びゴ〜、ゴ〜という凄まじい音が聞こえ、同時に夢から覚めたのです。
槐の樹はいつもの様にいつもの場所にあったし、運河の流れもいつもと何も変わっていなかったのです。そして何気なく、足元を見たら、なんとその青金石で出来た首飾りが落ちていたのです。夢だった筈なのにです。妹も全く同じ内容の夢だったそうです。』
そして今度は妹があとを続けた。
「兄は、父に、その青金石で出来た首飾りを見せました。すると父は、『親の物を勝手に持ち出して、なんと恥知らずの息子か』と烈火の如く怒り始めたのです。兄は何故怒られているのか分からずキョトンとしているだけでした。」
「怒りが鎮まるまで待つしかないと思ったのです。」と兄鉦倫が続けた。「父はあの様な怒り方をするとき、必ず怒りながら何かを思い出すのか、すぐ鎮まるのが分かっていました。父は若いときに、ある人に烈火のごとき怒られかたをした経験があるようなのです。その時のことを急に思い出すのでしょうね。その後、夢のことをこまごまと父に話をしたのです。父はおもむろに立ち上がり、天井に接するようなところにある引き出しを開けてみたら、中に全く同じ材質、形、飾り、色の首飾りがあったのです。父は僕に詫びると同時にこの不思議な偶然に戸惑うばかりでした。」
「私の時も全く同じ状況で、足元を見たら、青金石で出来た首飾りが落ちていたところまでも同じでした。私は前例があったので、全く怒られずにすみました。
私は、『全く同じものが三つもあるなんて不思議ね。お父さんはどのようにしてこれを手にいれたの?』と父に言ったら、 『お前達と同じだ、運河の河岸に落ちていたのだよ。』と、そして何か思い出しながら、『三つではなく四つだ。』というのです。」
その時江蓮が話しに割り込み、「これでしょ、残りの一つは。」と身につけていたペンダントを二人の前に見せた。紅蓮は兄妹の代わる代わるの話を聞いているうちに、彼らの父周榔のことをはっきりと思い出していたのである。
「そうです。そうです。これと同じです。」と兄妹は驚愕の声を上げた。そして、「これだけ精巧な形を四つも作れるなんて、本当に崑崙の仙人の仕業に違いない。」と思わず口走るのだが、それは紅蓮の思いも同じであった。
つづく