槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/07/23 22:38:47|旅日記
北東北をレンタカーで巡る旅 9)残雪と白蓮の道−国道341号(大湯環状列石〜田沢湖)

9)残雪と白蓮の道−国道341号(大湯環状列石〜田沢湖)
最初は大湯環状列石に面した県道66号線を南下する。そしてすぐ国道282号線、そして国道341号線を63kmに亘りドライブして田沢湖に至ることになっていた。計90kmを越え、今回のドライブ区間では最も長い。国道282号線に出る直前で家内がショールを資料館の中に忘れてきたことに気がついた。すでに何箇所か右折や左折を繰り返していたので、こういう時にカーナビは最大の味方だ。それ以上に交通量が少ないので、引き返すのが全く苦にならなかった。途中道路沿いに気温を示す表示器が見えた。11℃だった。5月の末にしては寒すぎる。相変わらず雲が重く垂れ下がっている。
途中、車中での昼食と夜の食事用買出しに丁度手ごろな比較的大きなモールが国道沿いにあったので、そこで、パンやおにぎりを買い求め、ついでにトイレも済まし、またドライブ再開である。国道341号線は見通しが良く、快適である。しばらく平坦な道が続き、所々にりんご園が見え、白い花をつけたりんご林を目にすることが多くなった。途中広い駐車場を擁した休憩場があり、りんごではなく、同じ敷地に山野草を販売している建屋があり、そこを覗いてみるといろいろな植物が陳列されていて、中には奥入瀬で見た様な花もあったが、その中から、柏葉あじさいと釣鐘つつじを買って、家内が購入したりんご酒とともに宅急便で送ってもらうことにした。駐車場の片隅にりんごを手の平に載せた観音さんの像があった(写真1左)。
運転再開。少しづつ緩い登り坂になってきたのに気づいたのは、少し小高い丘が迫りはじめたからである。
途中で不思議なことに気がついた。何度となく「駒形神社」の表示が目に入るのだ。大湯環状列石に着く直前にもあったし、その他、既に3回ほど「駒形神社」の表示を目にしている。まるで狸に化かされているようだ。「駒形神社」の“駒”が自宅の隣市、日高市の高麗(コマ)に同音で関係しているから気になっていたのだ。“熊”も然りである。後でゆっくり調べてみようということで、運転に集中することにした。
少しづつ坂が急になってゆくのが分かった。山道に入った証拠に、右に左にカーブが多くなって来た。気温は10℃を切っているだろう。しばらく行くと、クロスした頂部北緯40度と表示されたクロスアーチのモニュメントが現れた(写真1a右)。休憩所があるが、バスの停留所もあるようで、路線バスと思わしきバスがそこの駐車場に停車し、数名の中年の女性が降りてきた。山の方に歩いてゆき、何か山菜を摘んでいる様な仕草である。食に供することの出来る山の幸がありそうなところであった。
北緯40度地点を後にしてまたドライブ再開である。完全に山の中であり、外気温は
益々低下しているのが、車内の温調で分かった。道路の左手は山の斜面がすぐ側まで迫ってきていて、時々白っぽい花の木が目立ってきた。路肩に停車できるスペースのところがあったので、そこに車を停め、その白い花の写真を撮った(写真1b)。花は2種類あり、片方は白蓮であり(写真1c右下)、そこいら中に生い茂っている(写真1c)。群生といっても良いくらいである。そして、他は山あじさいのようである(写真1d)。ともに純白で
清楚な佇まいであった。

そして更に行くと残雪が見え始めた。後で調べて分かったことだが、この道は冬には雪のため通行できなくなるのである。大体3月〜4月頃になって開通するらしい(写真2a)。また車を駐車できるスペースがあったので車をそこに停め(写真2b)、寒そうなので、家内を車内に残し、車から出て、外の空気に触れてみた。山肌はまだ一面雪に覆われていて、(写真2c)木の根っこの周りだけ円形に融雪している。空気は冷たいが、初春のものであり、冬のものではないのは当然のことである。走行方向に向って右手には山肌も遠方にあり、開けた眺望となっている。残雪と新緑が混在した、今の時節、この場所ならではの景色に違いない。

そして、また山間の道を延々と運転する。しばらくすると強烈な硫黄のにおいがしてきた。車の中に充満した臭いは容易には無くならず、むしろ濃くなってゆくようである。カーナビ案内には次々と温泉の名前が現れては消えてゆく。志張温泉、東トロコ温泉、トロコ温泉、赤川温泉、玉川温泉、新玉川温泉、鳩の湯温泉、少し国道から外れるともっとあるみたいである。温泉があるということは火山帯ということだろうか地熱発電所というのもあるのだろう。
 ※以下長くなりすぎるので次章の末尾*********以下につづく







2010/07/22 16:00:33|旅日記
北東北をレンタカーで巡る3泊4日の旅 8)国指定特別史跡大湯環状列石

8)国指定特別史跡大湯環状列石
英語で言うと、“ストーンサークル”である。こちらの方が分かりやすい。平成20年12月、大湯環状列石を含む北海道・北東北の15の遺跡を 資産とした「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産暫定一覧表 へ記載され、登録へ向け、頑張っている最中とのことである。

青森から十和田湖に入るルートを最初に考えたときは、三内丸山遺跡を観光対称に含めていたが、新幹線が青森まで開通していないことが分かり、唯一の歴史的風土観光地が無くなり、軽い観光になり、面白さ半減だった。そんなときに十和田湖周辺の観光地を物色しているうちに、目に触れてきたのが、この大湯環状列石であった。

三内丸山遺跡へ行ったのは、八戸での講演会の謝礼を使って、青森まで足を伸ばし、2008年9月に初めて訪れたのであった。広大に広がる遺跡の前に立った時の開放感は今でも忘れていない。単なる開放感ではなく、地に足がついていて、その地が太古から何者にも邪魔されずここまでつながっている。

そこに立っているという感覚である。奈良山田寺跡の草地に立ったときもそうだった。自分の足裏が、足元の台地に向ってひっきりなしに通信しているような感覚であった。また、その感覚が得られるのではないかという期待であった。

  その大湯環状列石は、鹿角市十和田大湯に所在する2つの環状列石(野中堂環状列石、万座環状列石)を主体とする縄文時代後期(約4,000年前)の大規模な遺跡である、と紹介されている。これだけ東北地方に沢山の縄文遺跡があるのに、ひとかけらの文字も発見されていないのか不思議である。最も発見されたら大事件であるが。

  十和田湖から坂を登ってゆき、発荷峠を通り過ぎ、南に一時間も経たないうちに、前方が開けた牧場の様な台地に出た。坂ではなく平地を走っている感覚になって30分程度はたっているだろう。空は相変わらず雲が垂れ込めているが、少し明るくなってきた様に感じた。すぐそばまで迫りきていた山の斜面が、少し遠のいたためだ。104号線を南下してゆくと間もなく大湯温泉
に出て、そこで現れるY字路を左へ行くことになっていたが、大湯温泉を認知しないままにそのY字路までみたことがカーナビの地図で判明した。カーナビの地図では、もう間もなく目的地である。

  山の裾野も次第に遠のいて行き、一番近いところでも1、2km程度はあるだろう、という開けた平地となっている。三内丸山遺跡でも時代の異なる奈良山田寺でも周囲の景色は似ている、ということは、間もなくだろう、という予感がしてきた。

  正式な地名は秋田県鹿角市大湯で大湯環状列石(古道)があったということで、上空写真を使って、その古道の存在を示唆しているホームページがあることに後で気がついたが、最近はグーグル・マップを使った、類似の発見があったとの情報聞いた記憶があるが、上空から古代の痕跡を解析するという分野があっても良い、
「古道」をウィキペディアでは、かつて使用されていたが現在はあまり利用されておらず、当時のままの状態で残されているような道路のこと。熊野古道、山の辺の道、塩の道 (日本)など。と説明している。この定義によると、 「大湯環状列石古道」は痕跡こそあれ、当時のままの状態で残されているわけでは無いから古道ではなくなってしまう。

  しかし、「大湯環状列石古道」の“古道”探しは“宝探し”といった感があり、ロマンを感じる。意外と自宅界隈にもこの様な縄文時代の“古道”があるかも知れない。宅地化あるいは市街地化された地域では、難しいかも知れないが、まだそうなっていない遺跡は東北地方には多いのではなかろうか。その東北地方でさえ、先のホームページの上空写真とGoogle Mapの写真とはかなり異なり、Google Mapの航空写真では“古道”は確認できなかった。







2010/07/12 21:00:31|旅日記
北東北をレンタカーで巡る三泊四日の旅 7)奥入瀬の山野草
7)奥入瀬に咲く山野草
  渓流沿いに咲く山野草の写真を撮るのも楽しみの一つである。ここでは、奥入瀬散策をしていて、撮った山野草の写真を紹介する。但し花の名前は殆ど分からない。

  中には花だと思っていたものが、花びらを落とした綿帽子の状態だったり、葉の上に整然と並べられた花びらだったりのものもある。また、経時的に並べられているか、など自信のないものもあるが、気にしないで、投稿することにした。これらの花の姿が頭に残っていれば、いつかは、何らかの話題に上った時に、覚えることにする。







2010/07/12 19:12:24|旅日記
北東北をレンタカーで巡る三泊四日の旅 6)奥入瀬渓流散策

6)奥入瀬渓流散策
  十和田神社を後にして、奥入瀬川の河口がある子の口に着いたのは11:30頃である。奥入瀬川を渡ったすぐのところの湖岸側に駐車場があることが、観光案内図にあったので、車の速度を緩めその近辺を物色していると、愛想の良さそうな日に焼けた70歳前後のおじさんが近寄ってきて、底に駐車しなさいとばかりに誘導し始めてくれた。

  てっきり有料かと思ったが、「無料ダヨ。」と教えてくれた。そして「ドコ行くんだい?」と聞かれたので、「奥入瀬渓流を散策するんです。」と答えると、「一番奥までゆくと、歩いて片道二時間はかかるけど、途中で引き返してもいいし、ここからバスで行って、戻りを歩きにしてもいいし、その逆でもいいよ。これからでも、戻ってからでも、あの店で食事をしていってくれると有難いネ。」と言って指さした。

  この地点には遊覧船乗り場もJRバスターミナルもあるのである。ということはトイレもあるわけで用を足してから、往復とも歩きにすることにし出発した。

  奥入瀬川に架かる橋から奥入瀬川を見ると、川幅は広く、流れは非常に穏やかで、滔々と流れるという感じであった(写真1a)。その橋の袂に鉄製の階段があり、そこを下りて行くと、川べりの散策路となっている様である。
  家内が一足先にありて行ったが、その少し先に6、7人の若い女性グループが先に進むのでもなく滞っている。近づくと笑い声や話し声が聞こえてきたが、どうやら韓国人の様である(写真1b)。
  あとで、韓流ドラマに詳しい人に聞いてみたら、この奥入瀬が韓国ドラマのロケに使われ、そのドラマに刺激されたファンが訪れたのではないかということであった。
  彼女らとすれ違って歩いて行くと、「奥入瀬遊歩道案内図」と書かれた看板が目に入った(写真1c)。それによると、渓流の両側には多くの滝があって、河の左手に遊歩道があったり、右手にあったりするが、雲井の滝まで行くのに計130分、距離にして5.8kmと表示されていた。
  また、ところどころに公衆トイレや水のみ場もあるようである。雲井の滝近くにはバス停があるので、先ほどのおじさんは雲井の滝までのことを言ったのであろう。雲井の滝より先には滝もなく、見せ場は雲井の滝近くまでなのであろう。かなり先に行ったところに、「奥入瀬渓賦」という佐藤春夫の詩がある。そこには奥入瀬渓谷の情景を過不足なく歌い上げている。

   「奥入瀬渓賦」 佐藤春夫
   瀬に鳴り渕に咽びつつ
   奥入瀬の水うたふなり
   しばし木陰に佇みて
   耳傾けよ旅人よ
の小節から始まり、
2小節目では「水清くして魚すまず」、    
  3小節目では「十和田の湖の波の裔」で渓流は十和田湖から流出していることを、
  4小節目では「友よ谷間の苔清水 羊歯の雫や瀧つ瀬よ」
  5小節目では「花も楓も多かると」、
  6小節目では「林に藤の大蛇(おろち)あり 谷に桜の鰐朽ちて」
  7小節目では「水泡は白く花と咲き 鶯老いて春長し」
  8、9小節目では
    もしそれ霜にうつろはば
    狭霧のひまの高麗錦
    流るる影も栄えあり
    皆一時の夢ながら
    
    わが行く前の十四キロ
    ここに歌あり平和あり
    また栄えあり劣らぬや
    浮かべる雲のよろこびに
の、4行×9小節の計36行の詩であるが、この詩に奥入瀬渓流の自然を過不足なく歌い上げている。

  45年前にサイクリングで通り掛かった時は数回川辺に下りたが、この様に整備された遊歩道は無かったと思う。これほど自然を満喫しながら散策したのは初めてであった。
  距離を行くにつれて、河の面には、次第に水泡で白い花が咲いているようになってくる(写真1d、1e)“それを立ち止まっては写真を撮る自分と、もともと健脚の家内との距離は広がり、曲がりくねった遊歩道にさしかかると互いに姿が見えなくなってしまう(写真1d。その度ごとに、「なかなか来ないので、河にでも落ちたんじゃないかと思った。」と言って、戻ってくる。

  流れは益々急になるかと思うと一服し(写真2a〜2e)、穏やかだと思っていると河全体が瀧になったりする。調子大滝はそんな滝であった。(写真3b、3c)そして落差の大きいところでは瀧になるが渓流の本流が瀧になることは少なく、瀧は殆どの場合渓流を挟んだ両側の山々を流れ落ちる(写真3a左,中,右、〜3d、写真4b右)。
  そして多少でも太い木には苔が間違いなくついていて、それが冬には衣となって木々を凍結から守るのではないかと思わせる。また、「監視木」と目印された苔むす木もあった(写真4b左)が、その木の成長具合を監視するのか環境の状態を監視する木なのかさっぱり分からなかった。
  まだ夕刻には遠い時刻であるが、とにかく歩き疲れた。
雲井の滝のあたりに至る前に、引き返すことにした。最初に渡った橋をみると、その下向こうに見える白じんだ十和田湖の湖面がまぶしく見えた(写真4d)。

  駐車場に戻ってきたのは15:00ころ、昼食を撮らないで、まあまあの距離、しかも起伏のある遊歩道を往復したので、空腹感を感じた。先ほどのいじさんの姿は見えなかったが、そのおじさんが指差した食堂に入った。

  食堂の中ではストーブを焚いていて、「寒ければこちらで温まりなさい」とあのおじさんと同じくらいの歳のおばあさんが言ってくれた。そして、「どちらから来たネ?」と言うので、「埼玉県から」というと、「ああ、いいところだネ。」と本当に知っているのか分からない様な受け答えであった。
  そして、「駐車場にいたおじさんに教わってここに食べにきたのですよ。」と言うと、「あのじいさんのこと知っとったかね。あの爺さんがいてくれて、うちは助かっているんですよ。面白い人でなあ。」と、お客を連れてきてくれるので、助かるのか、面白い人なので、今日みたいに客が少なく、暇で仕方が無いときに話相手になってくれて助かるのかは分からなかったが、少し経ってから姿を現し、話をし始めると、場が明るくなる雰囲気を持っていた。
  山菜定食を食べて、駐車場にもどり、エンジンをかける頃には、先ほどのおばあさんが、食堂のシャッターを閉め始めていた。そして元来た道を戻り、宇樽部、休屋を経てもう一泊予定の十和田プリンスホテルに向った。十和田プリンスホテルの夕食(ディナー)は一食5000円近くするので、途中地元の雑貨屋でパンを買い込み、今夜の夕食用とした。
  







2010/07/12 10:01:28|旅日記
北東北をレンタカーで巡る三泊四日の旅 5)再び十和田湖畔、乙女の像、十和田神社

5)再び十和田湖畔、乙女の像、十和田神社
  翌朝は5:30に目が覚め、朝食もバイキング形式で、十分に朝食を楽しめた。当初のこの日の予定は弘前まで往復する予定だったが、予定を変更し、十和田湖畔と奥入瀬渓流を時間を掛けて散策することにした。

  この日も小雨交じりの天気で、しかも肌寒い。長袖のシャツを持ってきて正解である。家内は大きなショールを持ってきていて、それを首から巻いた服装だが、それでも、「寒い、寒い。」の連発であった。

  昨日よりは湖に近い有料駐車場に車を置き、湖畔に着き、早速、小雨パラつく中、湖と遊覧船を背景に写真を撮った(写真1a)。
  湖畔には湖岸に沿った板敷きの遊歩道があり、そこを辿ってみることにした。遊歩道は雨で濡れ、先行して歩いている家内の後ろ姿が濡れた板敷きに反射して見えた(写真1b)。その板敷き散策路に接するように食堂や土産物屋が密集していて、店員は観光客が少ないので手持ち無沙汰にしている。この日の様に寒い日は暖かいものが恋しくなるはず、というのが店の算段であろう、おでん、ラーメン、甘酒などの香りが鼻腔をくすぐる。

  そして、更に歩いて行くと板敷きの散策路は途切れ、砂地の湖岸路となる。時折足の運びの遅い自分達を追い越して行くが多くはない。数人づつのグループであった。目指すは皆「乙女の像」であろう。

  しばらくすると、「乙女の像」(写真1c1、1c2)が見えた。像の近くには「十和田湖畔の裸像に与う」というこの像に作者である高村光太郎による一文が刻まれた石碑がある。「銅とスズとの合金が、立っている。」から始まるこの一文、「はらわたや粘液や脂や汗やいきものの汚らしさはここにはない」という文章があり、最後に「この原始林の圧力に堪えて立つなら、幾千年でも黙って立っていろ」とある。
  この像は2人の裸婦が向かいあっている一対の像で、見る人がどの角度から見ても自分の方を見ているように感じさせるために眼が空洞に彫られる工夫がされているのが特徴で、見る方向によって色々な美しい表情が楽しめる、と書かれた観光案内書があるが、この様な曇天ではわからない。

  御前ケ浜に垂れ下がる鉛色の空(写真1d)のもとでも、ブロンズ像はブロンズ色が明確に認められた。

  今から45年前、東京/青森間サイクリングで訪れた時はこんなだったろうか。季節は真夏、天気も良かったと記憶している。十和田湖といえば「乙女の像」。そんな気持ちだけで、この像を見たが、何故この像が。十和田湖の象徴となっているか考えることも無かった。「十和田湖畔の裸像に与う」というこの像の作者である高村光太郎による一文は昭和28年の建立ということなので、あの時点でも当然同じ位置にあった訳だが、そんなものにはついぞ気がつかなかった。

  そして、少し湖岸を離れてゆくと、十和田神社への道しるべがあった。何をまたは誰を祀っているのか分からないままに鳥居をくぐり、石段を登ってゆくと、昨年のものと思われる枯葉が屋根に積もった社が目に入った(写真2a)。家内がおみくじを見ている(写真2b1)。

  「十和田神社は、蝦夷征伐に来た田村麻呂が日本武尊を祀ったことが始まりとされています。その後、甲斐から南部氏が入部し、甲斐白鳥の宮の祭神を遷したとされ、熊野権現、青龍権現として知られています。青龍とは湖などの止水、白竜とは川の流水を指すといわれています。したがって、龍神の正体は水です。」と、ウェブ“青森の道ドライブマップ”に紹介されている。
  このウェブでは、この神社にまつわる二つの伝説を紹介している。一つは八郎潟に関するもの、他は田沢湖の辰子の像に関するものである。

  まだ奥にも社があるようだったが、この後、奥入瀬渓流散策を予定していたので、その先には足を延ばさず湖岸の方へ戻った。途中そこいら辺に咲いていた野草(写真2c)が目に入った。そして樹木の名称は分からないが、同じ木の葉でありながら、葉が垂れ下がった部分とそうでないところがあった(写真2d)。