槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/09/14 23:02:50|旅日記
洛北 正伝寺

3.洛北 正伝寺 *** 「あの借景のサイズはこんなものだった?」 ***

この寺は、家内を家内になる前に始めて連れて行った寺である。その寺を家内のリクウェストで拝観することになった。知名度という点では今ひとつというだけでなく、ここに来るまでの交通の便はなんとも良くないのである。
  旅行前の計画時に仁和寺からどの様に来たら良いのか、事前にさんざん調べまくった。その結果、仁和寺から京都市バスで千本北大路まで乗り、そこで、西賀茂車庫行きバスに乗り換えて、神光院で下車、徒歩10分程度で着くコースを予定した。
しかし、二王門の石段を降りると、タクシーが数台待っていた。  「正伝寺までどの位のタクシー代でゆけますか?」と聞くと、「2000円程度です。」との答え。正伝寺の拝観時間は17:00までなので、あと一時間半程度あり、30分は拝観できるだろう、という計算だったが、それも自信があるとは言えない。
  また、この猛暑、タクシーに乗っている間は冷房で涼むことが出来るという計算もあり、家内と相談した結果、タクシーを利用することになった。

  タクシー代は1600円で済んだ。途中、運転手は、「バスだと拝観時間に間に合わなかったでしょうね。」とか、正伝寺に着く直前「このあたりは分かりにくいんですよ。」といいながらも、迷いなく目的地に到着した。この寺への拝観者が少ないことが分かる。

  家内は今回で3回目というが、自分は今回を含めると6、7回は来ているだろう。今回以外は全て、自家用車またはレンタカーであった。前回は、京都の会社に勤務時代以来懇意にしているM氏と訪問している。

  タクシーは、少し登りすぎて、寺の裏口に出てしまった。運転手もおかしいと思ったのだろうか、すぐに立ち去らず、しばらくこちらの様子を見ていた。ちょうど、そこで立ち仕事をしていたおそらく寺のおかみさんらしき人がいたので、「こちらからで良いのですか?」と聞いたら、「裏口です。みんなこちらへ来てしまうのですね。」と笑顔でありながらも呆れ顔だった。30m程度戻ると、山門からの山道(サンドウ)へと入りこむことが出来た。
  見慣れた石段が現れ、のぼり切ると左手に白壁があり、その一部に木戸があり、その前に木戸の開閉を拒絶するような表情のダルマの置物が置いてあった。そのダルマは一体化されたくりぬいた切り株とで、「マルっ!アタリ!」と言っているようだった。更にそれを横目で見ているような狸が二体草むらにたむろしている(写真1)。
  靴を脱いで、庭園を前にした廊下に出た。“獅子の児渡し庭園”というのらしいが、はるかに比叡の霊峰を借景した庭園である(写真2a)。
  家内がしきりに、「こんなに小さかったのかなア。」としきりにつぶやいている。「前回はまだ結婚前で、不安、期待、夢という不確かなものが沢山あり、それらが借景のスケールを大きく見せたのではないの?未知のものが含まれると大きく見えたり、重く感じたりするものだヨ。30年も経つうちに、それらが実体化し、そのスケールから次第にこぼれ落ち、こんなスケールに縮こまってしまったのでは?」と言おうとして飲み込んだ。「誰がそうしてくれたのヨ?」と言われそうだったからである。

  庭園の右隅には、茅葺屋根の茶室の様な建物(写真2b)があり、そこに七つの島からなる丸刈りのさつきがあり、中央には五つ島、左手には三つ島の刈り込みのさつきが配置していて、石庭、さつき、白い壁、借景とが程よい静けさとバランス示している。白壁には瓦がのっている。ズームアップして丸瓦の模様を確認しようとしたが、丸瓦は無かった(写真2c)。同時に借景の比叡もズームアップされたが、暑さに辟易としているように見えた。
  先ほどの木戸の方に目をやると、擦りこぎ用の陶磁器鉢が目に入った(写真3a)。鉢の中には、一部が金膜処理された黒い石が20個ほど置かれ、更に10円玉が二つ投げ込まれていた。目をすぐ隣に移すと、影絵の様になった家内のリラックスした姿があった(写真4)。そして天井を見た。“血天井”である。初めてここに来た時は、血のりのついた頭部の髷の跡や、手形がはっきりと認められたが、30年経た今は、あれが“血痕”かな、と思えるほどに不鮮明になっていた。そして指を折って数えてみると、この30数年の間に、京都にある血天井のうち5つほど拝観していることが分かった。自分の性分は金閣寺や龍安寺ではなく、この正伝寺や鹿王院、実相院に合っているように思えることがある。正伝寺を後にして、徒歩で神光院停留所まで行き、京都駅行きの京都市バスにのり京都駅に至り、近鉄に乗り奈良に向った。







2010/09/13 16:36:04|旅日記
京都 仁和寺

1.はじめに

今回は、JTB主催で新幹線と宿泊ホテルがセットになった格安ツアー「万葉の夢 奈良」というプランを利用した。
初日は京都で、39℃を越える酷暑の中、御室仁和寺と洛北正伝寺を観光した。
二日目は、長谷寺、室生寺、談山神社をレンタカーで巡り、
三日目は、修学旅行以来で法隆寺、法起寺、唐招提寺、そして新しい装いの遷都1300年記念のメイン会場になっている平城宮跡をやはりレンタカーで巡り、
最終日は、ホテルチェックアウト後、ホテルに近い元興寺、興福寺を徒歩で観光した。また最終日は、新幹線乗車時刻までの間、四条烏丸界隈をそぞろ歩き、最後に恒例の京都、錦小路市場で新幹線中で食することになる食材を買い求め、予定の時刻にホームにたどりついた。しかし、台風の影響で新幹線乗車時刻は1時間遅延し、更に、徐行運転などで結局合計130分程度の遅れで東京駅に着いた。
  今回の訪問先のうち、仁和寺はしばらく自分の中で謎だった金堂の軒丸瓦の模様の解明を、談山神社は司馬遼太郎著「街道を行く 奈良散歩」の最初に取り上げられている神社であり、「『街道を行く』を行く」気取り、で以前から行きたいと思っていたところであった。また、元興寺は最近世界最古の木造建築と称される法隆寺より更に古い木造建築であることが新聞に紹介され興味を持っていた。正伝寺と室生寺は同行した家内の希望で、その他は共通の希望で訪問先候補となった。

今回の自分なりのテーマは「屋根瓦」、「塔」、「花」であり、写真も重点的にそれらを撮影した。「花」については、ボタン、シャクナゲは季節はずれであり、萩の花はまだ早かった。「花」の主役は百日紅であり、どの訪問先でも鮮やかなピンクや白の花が、彩りを添えていた。

2.御室 仁和寺 *** 軒丸瓦の模様解明 ***

御室仁和寺金堂の軒丸瓦の模様(写真1a)は、以前から自分にとって謎であり、京都出身者や仏像を寺院に納入することを仕事をしている友人、さらには一級建築士の資格を持つ友人の友人で奈良在住の建築士仲間にも情報を頂いたが、やはりはっきりしたことは分からずじまいであった。また、ウェブ検索しても分からなかったし、挙句の果て、仁和寺のホームページにあった「問い合わせ」に二度に亘ってメールをしてみたが、いずれも返信が無かった。
仕方がなく、自分で推理して、“蓮華の上に文字が載っている”ということにし、その文字も、梵字、モンゴル文字、チベット文字のいずれかであるに違いないと推測の範囲を狭め、その文字探しを始めた。以前中国北京にある雍和宮の扁額に書かれた文字(写真1b)に似ているところがあって、その様な推測をしていたのである。
そして、その文字のヒントになる情報が金堂周囲にあるに違いない、という思いがあり、それを探すことにしていたのである。金堂周囲に石碑があったのを記憶していたこともある。いささか執着しすぎの感もあるが、この様な課題を背負って旅をするのも楽しいものである。

 京福電鉄北野線の御室仁和寺駅を下車すると、すぐ、その傍らにカキ氷の垂れ幕を出した店の並ぶこぎれいな舗装道路があり、その突き当たりに仁和寺の“二王門(写真2a)”が目に入った。その門の向こうに、朱塗りされた“中門”が二王門の太い柱の間に透けて見えている。

今回の旅の主題の一つが“屋根瓦”ということもあり、門の石段を登る前に、屋根瓦のある上方に目を遣った。軒丸瓦の模様は、菊紋、巴紋、卍紋と同様の回転対象紋であった(写真2b)。さらにデジカメの望遠の倍率を上げ、いわゆる“鳥衾鬼瓦”のあたりを見ると、やはり回転対称紋で同心円模様あったが、紋の名称は分からない。(写真2c)。
阿吽の“吽”の形相をした金剛力士像(写真2d)を横目に見て、門をくぐった。

入ってすぐの入場券売り場で入場券を買い、すぐに金堂の方に向かおうとしたら、券売所の係員が窓口から顔を突き出し、「順路に従って下さい。」と言われ、先ずは、靴を下駄棚にしまい、白書院、黒書院、宸殿、霊名殿のある御殿内部の見学をした。
明治維新まで皇子皇孫が門跡となっていたので、“御室御所”と呼ばれてきたとのことである。皇子皇孫は茅葺き屋根が好きなのか、なんらかの決まりがあるのかは分からないが、“宸殿”の屋根はよく手入れがされた茅葺きであり、宸殿の木製の回廊から石庭に降りるための階段があり、石庭を含む“北庭”には池もあり、北庭の隅の方には“飛濤亭”という茶室が見え隠れしている(写真2e)。北庭の植栽をうまく捌けば、池に丁度その姿が映し出されると思われる方角に、先ず“中門”の屋根が、そしてその上に“五重の塔”がかぶさるように姿を見せている(写真3a)。

すぐにでも金堂へ行きたい気持ちを隠し、39℃以上の灼熱の地面を這いずるようにして中門をくぐった。左手の御室桜を見た家内は、「ずんぐりむっくりな桜とは失礼な。」と、ぶつくさ言っているいるようだったが、それをも聞き流し、尚も北へ歩を引きずる様な足取りで“金堂”へ向った。正直暑い。Hu〜っ!
金堂の前に辿りつくや、早速屋根の方を見上げた。屋根瓦は恐らく50℃を越えているだろう。その上に「黄石公」という秦時代の仙人が平然と書を開き、龍の子供の背に載っている屋根飾りが東西に一対とりつけられている(写真3b1、3b2)。そしてその下の軒丸瓦の模様は回転対称紋ではないだけでなく、ただものではないように思えてきたのだ。
今回の仁和寺訪問はこの謎を解くことが目的であるので、なんとかしてこの謎を解明せねば、という思いが強かった。先ず最初に向ったのは、石碑であったが、記憶に反して石碑は板状ではなく角柱であり、その頭頂部に梵字らしきが見られるだけで、それ以上のことは記されていなかった(写真3c1、3c2)。
家内がおみくじを買ってくるという。近くの売店で売っていたので、そこで買うのかと思ったら、金堂の軒下にある無人売り場で買い求めた様だ。

金堂の周りを一周しても、謎解明のきっかけになるような情報は見つからなかった。“鬼瓦”近くの軒丸瓦の模様も同じ謎めく模様であり(写真3d)謎解明の糸口は相変わらず見つけられなかった。

そこで、最後の手段というより、ダメもとで、おみくじや、土産物を販売している金堂そばの売店の係の人に、軒丸瓦の写真を見てもらいながら、模様が何を意味しているか尋ねてみた。自分と同年輩か少し上と思われる女性が売店の中から出てきて、親切に教えてくれたのだ。
軒丸瓦の下部に見えるのは蓮華であり、その上にあるのは、梵字で種子(シュジ)と呼ばれるもので、その文字はカーンを表していると、種子とカーンという文字を紙に書いて説明してくれた。

“梵字”くらいは知っているものの、“種子”と“カーン”の意味する所が良く分からなかった。しかし、これだけキーワードが分かれば、ウェブ検索でなんとか詳細が分かるだろうと思い、金堂を後にした。尚、この女性は、親切にももう一つ自分がこれまで気が付かなかったことを教えてくれたのである。
女性曰く、「あの“黄石公”の下の亀は阿吽の形相をしていて、向って左側は阿吽の“阿”を、向って右側は阿吽の“吽”の口をしているのです。」
配置はこの寺の二王門の金剛力士像と同じである。
「そこまでは気が付きませんでした。ところであれは亀ではなく龍の子供なのではないですか?この形式は中国を参考に移築前の御所の紫宸殿が採用したものなのでしょうね。」と、最後の言葉は、龍が正しいことをダメ押しのつもりで付け加えて問いただしてみたつもりだった。
果たして、亀か龍かに対する答えは無かったが、「御所の紫宸殿の屋根は茅葺きで、ここに移築されたときに始めて瓦屋根になったのですよ。」と言った。その言葉は暗に、「アレは亀が正しいのですよ。」と言っているようでもあったが、これ以上異論を繰り出すことは、折角、親切に教えてくれた人に失礼と思い、鉾を納め、金堂を後にした。

それにしても、あの女性は、単なる物売りだけではない、他の、もっと重要なことをあの場を借りて日々やっているのではないかと思えるほど、優雅で教養が深い人の様にも思えた。「冷泉家にゆくと,もっと面白いものが見れます。」とも言っていた。

後日、ウェブ検索して調べた結果をまとめると、推測も含めて以下の様になる。

1) 仁和寺金堂は京都御所の紫宸殿から移築されたものだが、その時に屋根は茅葺か瓦ぶきへと変更された。
2) 従って、黄石公”と、その下の龍の子供、そして軒丸瓦の模様は仁和寺側の関係者の創案と言える。
3) 軒丸瓦の模様は、蓮華の上に、仁和寺の本尊で、金堂に安置されている阿弥陀如来が絵図の変わりに梵字一字、即ち種子(しゅじ)、として座している姿を表している。カーンは“不動明王”のことであり、文字が異なるのでキリークと呼ばれる阿弥陀如来ではないか。そうであれば、金堂の軒丸瓦の模様として相応しいし梵字も一致する。阿弥陀三尊としても、脇を固める脇侍は、左脇侍:勢至菩薩、右脇侍:観世音菩薩であり、如来三尊や薬師三尊の脇侍として主仏を守る場合の相棒に不動明王(カーン)が入ることはない。
4) 更に種子(しゅじ)は十二支を表すことがあり、キリークは”戌年“を表す。

自分も戌年であり、阿弥陀如来(キリーク)に対して因縁を感じる。ちなみに阿弥陀如来信仰の功徳は、「大慈悲に浴して一切の苦難厄難を逃れ、また福徳長寿が授かります。その寿命は無限大といわれていおり、二十の光りによって人々を悩みや苦しみから救い出してくれるという、御加護を祈れば困難を払い進路が開け穏やかに暮らすことができる」と言われている。

最後に五重の塔を通りすぎるときに、その軒丸瓦を見たが、良くは見えなかったものの、回転対称紋ではなかったようだ(写真4a、4b、4c)
*** つづく ***







2010/08/29 11:21:53|物語
西方流雲(89) 66-3)日本人と中国人(11)= 1982年夏 =
                       前のはなし
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    3)日本人と中国人(11)= 1982年夏 =

  「薄ご一家がどこに行かれてしまったのか見当がつかなかったのですが、夢の中で、あの槐が、『薄(ボウ)夫婦は必ずここに戻ってくる。』と私に告げたのです。それなら、それまでずっとここで謝罪のために待ち続けよう、という決心をしたのです。  雨の日もこの槐の大樹の下で雨宿りできます。夏の強い日差しもこの槐の葉がさえぎってくれます。あの運河の流れを一日中みつめながら待ち続けました。
  そして、ついにその日が来たのでした。1982年の夏のことでした。ご両親がここに見えたのです。同じ年の6月、文化大革命に対して、全面的に否定的な評価が公式に「建国以来の党の若干の歴史的問題にかんする決議」として打ち出されていたので、それを薄ご一家が知れば、すぐにでもここに現れると予想していたのです。
  この決議において、文革十年は「指導者が間違って引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱である」と正式に定義付けられたのです。
  「そうでしたか。その頃私は日本に居て、日本という国に慣れてきた頃で、しばらく日本語の勉強をした結果、日本の新聞も多少読めるようになってきました。文化大革命のニュースも時折報じられていましたが、中国にとって良い方向に向っているのか、その逆なのか検討もつきませんでした。日本には詳しい情報は伝わっていなかったのだと思います。
  そうすると私の両親はその時点で健在ということだったのですね。私の両親と会われてどの様な話をされたのですか?」
と紅蓮はほっとすると同時に詰問調にならないように気を使いながら質問した。

  「私は、先ずは健在でいてくれた、ということで気持ちが少し楽になりましたが、とにかく額を地べたにつかせながらご両親に謝罪しました。自分の告げ口でとんでもない苦痛を味会わせてしまったという申し訳ない気持ちで一杯だったのです。
  そうしたら、地べたにかがみ込んだ私を助け起こして、『もう過ぎたことだ。告げ口は君の本心から出たことではなく、時代の流れがそうさせてしまったので、君の責任ではない、と今も思っている。むしろ不幸だったのは君達だったのではないだろうか、そうも思っているのだよ。ところで、これまでのこと、今後のことを少し話し合おうではないか。家は残っているようだから、中に入ってみよう。』と言ってくれたのです。
  いつご一家が戻ってきても良いように、毎日家の中の掃除と、庭の草むしり、白壁の汚れ落としを罪滅ぼしと思ってやっていましたので家としてはすぐにでも住める状態になっていたと思います。
  ご両親はその様子をみて訝しげにされていまししたが、すぐに察してくれた様でした。そして、あの時、紅蓮さん含めて皆で座った竈の近くのテーブルに座り、話を始めました。
  その時、気になっていたことを、思い切ってご両親に尋ねてみました。紅蓮さん、あなたのことです。『紅蓮さんは、どうされたのでしょうか?』と。
  でもお父上は時代が逆戻りすると、あなたが危険に曝されることになると思ったのでしょうか、『この家を脱出するときに離れ離れになってしまい、消息がいまだにわからないのだよ。』としか教えてもらえませんでした。
  紅蓮さんが私と同じ年齢であること、自分達とは異なり自分をしっかり持っているように見えたこと、そして東伝さんの指摘で分かったことですが、同じペンダントを持っていたことが気になっていたのです。」

  それまで黙って聞いていた周瑯の子供達は、それぞれ自分達の藍色をしたペンダントを手の平に載せ、不思議そうに見つめるのであった。そして、周瑯は続けた。
  「そして、お父上は、『自分達がここに戻ってきたのは、ここに住むためではなくて、十数年が経って、ここがどのようになっているか、誰も手入れする人が居ないで、荒れ放題に荒れて、近所に迷惑をかけていることはないだろうか、と心配して見に来ただけです。運がよければ、紅蓮が一足先に戻っているかも知れない、とは思ってはいましたが、そんな出来すぎた偶然があるはず無いということは承知していました。自分達はこれから河南に向かいます。黄河に近い鄭州に行って、念願の発掘調査員の仕事に就くためです。その路銀にするための骨董品を引き取りに来たのです。庭に埋まっているはずなのです。』とおっしゃったのです。
  
  そして私も立ち会って見ていると、確かに価値のありそうな骨董品が三つ出てきたのです。そして、私に対する依頼ということで、二つのことをお話になられました。」

  「そうでしたか、両親は私が現れるのを確信していたのですね。河南で夏王朝の遺跡を掘り当てたいということは、私が子供の時から、封神演義という話をしてくれるたびに言ってました。でも骨董品のことは全く知りませんでした。その二つのことというのは何だったのですか?聞かせてくれますか?」
             つづく







2010/08/24 21:23:11|旅日記
西方流雲(88) ---66-3)日本人と中国人(10)---
                        前のはなし
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    3)日本人と中国人(10)= 25年の歳月 =

  「時間を25年ほど前に戻しましょう。文化大革命が始まった翌年だったと思います。あの頃の若者はみんな純粋で、血気盛んでした。自分も紅衛兵の一員として、何が良くて何が悪いかなどということは考えず、親や先生よりも毛沢東を信じ、行動していたのです。その行動規範は、旧思想・旧文化の破棄であり、旧思想に結びつき勝ちな学問の師、旧家の屋主、旧文化の象徴である名所旧跡や文物を次から次へ競ってリストアップしては、我先にと自己批判させたり、吊るし上げたり、破壊したのでした。
  すでに失敗が発表されていたことを知らず、お宅の白壁に“大躍進”と赤いペンキで塗りたてたのです。その直後は英雄気分でした。しかし、近くに居た大人たちに囲まれ、つかまってっしまったのです。その頃のお宅はその界隈では名士でとおっていたので、旧思想・旧文化の破棄という点では格好のターゲットだったのです。」
「私もあの時のことは鮮明に覚えています。あなたと私の父、東伝さんの三人が家に入ってきて、最初は父も本当に怒っていましたが、怒りが鎮まるにつれ、冷静になり、『周瑯君、何も言わなくちゃ分からないではないか。何か訳があるのだろう。君が自分から進んでやったとは思えない。誰かに言われてやったのかね?』と聞いて、更には、『第一、大躍進万歳なんてのは、古いよ、君。毛沢東が、自ら大躍進は失敗だったと認めているのを知らないのかね?毛沢東が経済音痴と言っている人もいるくらいなのに。やはり、四川からここまでは距離があるんだね。』といったのでしたよね。」
「そうでした。あの時は、決定的な毛沢東批判を聞き取りした、と有頂天になったものでした。手柄とも言うべき、決定的な言質をとったと思いました。一方で、あなたのご一家が、知らされていたほどの利己的な人達では無い様にも感じたのです。あの時は、ふてくされた感情の中にも少しは良心を感じる力もあったのかも知れません。」
「あのときのあなたの表情は今でも覚えています。私はあなたの表情を見ていて、とてもそんな悪い事をするように思えませんでした。
  あなたの代わりに東伝さんが一生懸命父に詫びていました。そしてその東伝さんが、この私が身につけているペンダントとよく似たものを持っていることを話題に出し、『その二つの関係を、わしが知っているわけではないけど、二つを並べてみると何故か意味ありげに見えてくるのじゃよ。…・』と言ったのをよく覚えています。」
  「そんな話がありましたが、あの時は父のことを侮蔑された様な気持ちになったのが先に立ち、そのペンダントのことを考えるゆとりは全くありませんでした。ところが、あるとき息子も同じものを持っていたので大騒ぎをして以来、あの青い石のペンダントの存在が気になり始めたのです。そして娘も似たものを持つ様になっていたので、東伝さんのあの時の言を思い出し、益々あのペンダントの由縁が気になってきたのです。
  しかし、話はまた振り出しに戻ってしまい、お父上のお説教が始まったのです。」

  「そうでしたね。父が、『それは周瑯君の叔父さんが、悪い人などと思っている訳ではないのだよ。ただね、扇動されてはいけないのだよ。その運動の根底に何があるか見極めてから賛同したり、拒絶したりするべきなのだよね。
  その判断をするには、多くのことを知らなくてはならないし、経験も必要だ。僕が心配するのは、その様な判断基準を持たない若者をターゲットに、過激な思想や運動が先に支持され、それが中堅年齢層の大人を、吊し上げることによって人々に浸透してゆくことなんだ。』といったのでしたよね。その時の話を、日本に逃れ住んでから、東伝さんとよく話題にしたのですが、東伝さんは、『あの言葉は文化大革命をまっこうから批判するもので、後日、父が迫害を受けることになった最大の言質になったのでしょう。』と言っていました。」
  「全くその通りでした。大躍進政策に対する批判と文化大革命批判は二つの大きな言質として自分は使ってしまったのです。しかし、お父上の二つの言葉は、ズシンと胸に残りました。そして、自分の身を案ずることなく、吊るしあげの場でも、勇気をもってご自身の主張を展開されたことを後で同志から聞き、後々お父上を尊敬する原動力になりました。」
  「そうでしたか。ですが私は、その後々のことを誰にも聞いたことがありません。良ければ聞かせていただけませんか?」

  「そうですね、私も本当はそこが一番話したいところなのです。
  文化大革命は、吊るし上げ、自己批判、著名な文化人達の自殺などの人間への危害、中国最古の仏教寺院白馬寺の損壊、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓の暴きなどの文化遺産の破壊、孔子の極悪非道人間人格化など、が各地で展開され、紅衛兵の役割の終了に伴う下放なども行われる様になり、ついには内部矛盾があちらこちらに噴出すようになり、10年を経た1978年に終結することになったのです。
  内部から、『指導者が間違って引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱である』という見方が芽生え、多くの文革関与者がこの見方を是認するようになったのです。
  紅衛兵として文革に関与していた自分も次第に、この見方を受け入れる様になり、それとともにお父上のかつての言が心に染みるようになったのです。
  とくに、薄一家を不幸のどん底に陥れるきっかけを作った張本人が自分であるという自責の念は消えないどころか増長する一方で、気持ちの置き所に困ってしまったのです。
  そして毎日毎日、あの槐の樹のもとに佇み悩み続けていたのです。どの様に、ご一家に謝罪しようか、そればかりを考える毎日になっていました。そしてついに決心する時が来たのです。
「どのようなことだったのでしょうか、周瑯さん。」
               つづく







2010/08/18 21:22:34|物語
西方流雲(87) ---66-3)日本人と中国人(9)---
前回のはなし
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    3)日本人と中国人(9)= 医師 周榔 =

  しかし、紅蓮は17歳の周鴇蕾を見ていてつくづく思った。自分がこの運河を必至の思いで下ったのは同じ17歳だった。まるで、世の中に押しつぶされそうな思いをした。
  しかし、この周鴇蕾はどうだ。屈託が全くなく、明るくのびのびしている。それだけ中国も変わったということか。しかし、だからと言って、この国に戻りたいと思わない自分を持て余してしまった。

  陽がかなり傾き、路地に投影された槐の樹の陰も大分長くなってきた。これからいくら時間が経過しても暗黒の世界には決して突っ込みはしないことが、人々表情から読み取れる。
  あの時は本当に暗黒だった。どこを探しても、どんな小さな灯火も見えはしなかった。そんな暗黒の中を、両親と東伝との4人でこの住地を逃れ、先ずは以前東伝が居候していた太湖河畔にある船宿に向かい、両親をそこに残し、また同じ運河を逆行し、上海に向ったのだ。烏蓬船に乗ったのは同じメンバーの両親、東伝おじさん、そして自分の4人全員かと思ったが、両親はそこに残ると言った。あのときの驚きと心細さとは、かつて経験したことがない厳しいものであった。しかし、両親の決めたことであり、両親の必至の形相をみると、いやとは言ってはいけない一途さを持っていた様に思う。
  もしかしたら、あの時の自分は今の自分より強かったのではないかとも思えるのだった。しかし、それゆえに物事に動じない自分が形成されたのだとも思うのであった。
  あの逃避行で生き残っているのは、自分だけである。そして、生き物では無いが、四面聖獣銀甕である。ここにあった自分達の家を捨てる時、父鉦渓は金目になるものの殆どを持ち出し、残りを、庭に埋めていた。
  そして、両親と離別するとき、その中でも、とりわけ高価なものを紅蓮と東伝に渡し、路銀の代わりにするようにと言って見送ってくれた。渡村(とそん)のあの船問屋はどうしただろうか。
  親切な夫婦であった。きっと両親を安全に匿ってくれたのだろう。明日は、渡村の船宿を訪れてみよう。そして両親を匿ってくれたお礼と、東伝さんが亡くなったことを報告しないといけない。
  そういえば、あの時船着場を後にするとき、両親は、暗闇にまぎれて姿が見えなくなるまで、何度も何度も自分達に向って、頭を上げ下げしていた。
  しばらくはその姿を思い出すと、東伝さんに自分のことをよろしくたのむという意思表示だと思っていた。しかし、今思い出して見ると、あれは自分に対して、「離れ離れにして申し訳ない。」という気持ちと、「どうか自分達の分も含めて幸せに生きて欲しいという。」切なる親としての願望を精一杯表していたのだろう。」ということになる。
  そう思うと目頭が熱くなると同時に、一刻も早く母に会いたい気持ちになるのである。

  これから、周瑯と会えば、母の所在が分かるかも知れない。もし分からなかったら、渡村へ、そこでも分からない場合は河南の、父と一緒にすごした黄河河岸の住地までも行く覚悟はしてきている。
  そんなことが走馬灯の様に胸中を巡るのであった。先ずは周瑯の話次第だ、と思っていると、次第に近づいてくる靴の音に気がついた。
  振り返ってみると、40歳半ばと思われる折り目正しそうな紳士が近づいてきた。

  鉦倫と妹の鴇蕾がその紳士に向って、ともに手を大きく挙げ、それに答える様に、大きく手を振っているので、その紳士こそ周瑯に違いないと思えた。
  その兄妹と一緒にベンチに座っているのが薄紅蓮であるとはまだ分からないであろう、と思っていたが、20mくらいの近さになって、紳士は小走りになり、「もしかして、薄紅蓮さんでは?」と大きな声で叫んだ。
  鉦倫と鴇蕾との仕草から確信したのだろう。そして、突然地べたに膝をつけ、頭を上げ下げし始めたのだ。

  その様子から、周瑯にとって、この25年が如何に重いものであったかということが想像できた。鉦倫と鴇蕾も目頭を熱くしているのが読み取れた。
  自分にとって長い25年間だったが、周瑯にとっても長い25年であったのだろう。誰にでも、自分と同じか、それ以上の人間には自分と同じ25年の歴史を刻んできているのだ。
  そんな思いを胸にしまい、両手を差し伸べて、周瑯の腕をとり立ち上がらせた。そして、そのままの手組で、今度は紅蓮を家の中に誘った。

  玄関のライトがつくと、周瑯の面持ちが見受けられた。その顔は紅蓮の父や東伝が持っていたのと同じ温厚さを漂わせていて、思慮深く、慈愛に満ちたまなざしが感じられた。周瑯がまだ紅衛兵に身を投じているときは、目は鋭く、血走らせていた記憶があり、これが自分と同じ年の成人かと驚きを感じたことを覚えている。これも25年という歳月がなせる業かと、思わざるを得なかった。
  診察室の奥の方から白衣姿で紅蓮と同じ位の女性が笑みを浮かべながら現れた。奥さんであろう。鉦倫と鴇蕾にとっての母親である。
  その女性に向って、「探し続けていた人がついに現れてくれた。今日は本当に良い日だ。応接に案内するので、飲み物を持ってきてくれないか。
  お前達も話に加わると良い。今夜はここに一泊していただこう。病室になってしまうが、清潔なので我慢してもらうことにしよう。いくらか消毒の匂いがしますが構いませんか?」と紅蓮に顔を向けて同意を求めた。

  紅蓮は、「私も日本では医療に携わっている身ですので、消毒の匂いには慣れています。それより突然お邪魔することになって、かえって迷惑じゃないかと申し訳けなく思っているところです。あまりお構いなくして下さい。」
  「いやいや、とんでもない、あなたの家だったところです。何もできませんが、どうか存分に寛いで下さい。」
「ありがとうございます。私の両親についてのなんらかの情報がつかめると有難いと思っているのです。話に少々付き合っていただけると有難いのですが、よろしくお願いします。」
  「あなた方ご一家が仕打ちから逃れてこの住地をさられてからの25年間のことを知っている限り全てお話するつもりですよ。」

  そんな会話を交わすうちに応接室についた。
  応接室といっても細長いテーブルの周りに、座布団を乗せた木製の椅子が六脚配置されているだけの質素なもので、日本ならとても応接室とは呼べない部屋であった。
  部屋の片隅に大きな青磁の鉢があり、そこに植えられた牡丹のピンク色の花が、その部屋を引き立てていた。五月といえば丁度牡丹の花咲く時期である。全員着席してから周瑯が口をひらいた。
  「紅蓮さん、紅蓮さんは私の息子と娘の名前を聞かれました?長男は鉦倫(しょうりん)、こちらは妹の鴇蕾(ほうらい)といいます。
  長男にはあなたのお父さんの鉦を、妹にはあなたの母上の蕾をつけています。それほどあなたのご両親には、一生かかっても償い切れないほどの感謝の念と尊敬の気持ちを持っています。」
「先ほど息子さんと、娘さんのお名前を教えていただき、両親の名と同じ文字が一字づつ入っていることに気がつきました。ですが、償い切れないほどの感謝の念と尊敬の気持ちというのはどういうことなのでしょうか?一体何があったのでしょうか?」と問う紅蓮であった。
              つづく