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3)日本人と中国人(10)= 25年の歳月 =
「時間を25年ほど前に戻しましょう。文化大革命が始まった翌年だったと思います。あの頃の若者はみんな純粋で、血気盛んでした。自分も紅衛兵の一員として、何が良くて何が悪いかなどということは考えず、親や先生よりも毛沢東を信じ、行動していたのです。その行動規範は、旧思想・旧文化の破棄であり、旧思想に結びつき勝ちな学問の師、旧家の屋主、旧文化の象徴である名所旧跡や文物を次から次へ競ってリストアップしては、我先にと自己批判させたり、吊るし上げたり、破壊したのでした。
すでに失敗が発表されていたことを知らず、お宅の白壁に“大躍進”と赤いペンキで塗りたてたのです。その直後は英雄気分でした。しかし、近くに居た大人たちに囲まれ、つかまってっしまったのです。その頃のお宅はその界隈では名士でとおっていたので、旧思想・旧文化の破棄という点では格好のターゲットだったのです。」
「私もあの時のことは鮮明に覚えています。あなたと私の父、東伝さんの三人が家に入ってきて、最初は父も本当に怒っていましたが、怒りが鎮まるにつれ、冷静になり、『周瑯君、何も言わなくちゃ分からないではないか。何か訳があるのだろう。君が自分から進んでやったとは思えない。誰かに言われてやったのかね?』と聞いて、更には、『第一、大躍進万歳なんてのは、古いよ、君。毛沢東が、自ら大躍進は失敗だったと認めているのを知らないのかね?毛沢東が経済音痴と言っている人もいるくらいなのに。やはり、四川からここまでは距離があるんだね。』といったのでしたよね。」
「そうでした。あの時は、決定的な毛沢東批判を聞き取りした、と有頂天になったものでした。手柄とも言うべき、決定的な言質をとったと思いました。一方で、あなたのご一家が、知らされていたほどの利己的な人達では無い様にも感じたのです。あの時は、ふてくされた感情の中にも少しは良心を感じる力もあったのかも知れません。」
「あのときのあなたの表情は今でも覚えています。私はあなたの表情を見ていて、とてもそんな悪い事をするように思えませんでした。
あなたの代わりに東伝さんが一生懸命父に詫びていました。そしてその東伝さんが、この私が身につけているペンダントとよく似たものを持っていることを話題に出し、『その二つの関係を、わしが知っているわけではないけど、二つを並べてみると何故か意味ありげに見えてくるのじゃよ。…・』と言ったのをよく覚えています。」
「そんな話がありましたが、あの時は父のことを侮蔑された様な気持ちになったのが先に立ち、そのペンダントのことを考えるゆとりは全くありませんでした。ところが、あるとき息子も同じものを持っていたので大騒ぎをして以来、あの青い石のペンダントの存在が気になり始めたのです。そして娘も似たものを持つ様になっていたので、東伝さんのあの時の言を思い出し、益々あのペンダントの由縁が気になってきたのです。
しかし、話はまた振り出しに戻ってしまい、お父上のお説教が始まったのです。」
「そうでしたね。父が、『それは周瑯君の叔父さんが、悪い人などと思っている訳ではないのだよ。ただね、扇動されてはいけないのだよ。その運動の根底に何があるか見極めてから賛同したり、拒絶したりするべきなのだよね。
その判断をするには、多くのことを知らなくてはならないし、経験も必要だ。僕が心配するのは、その様な判断基準を持たない若者をターゲットに、過激な思想や運動が先に支持され、それが中堅年齢層の大人を、吊し上げることによって人々に浸透してゆくことなんだ。』といったのでしたよね。その時の話を、日本に逃れ住んでから、東伝さんとよく話題にしたのですが、東伝さんは、『あの言葉は文化大革命をまっこうから批判するもので、後日、父が迫害を受けることになった最大の言質になったのでしょう。』と言っていました。」
「全くその通りでした。大躍進政策に対する批判と文化大革命批判は二つの大きな言質として自分は使ってしまったのです。しかし、お父上の二つの言葉は、ズシンと胸に残りました。そして、自分の身を案ずることなく、吊るしあげの場でも、勇気をもってご自身の主張を展開されたことを後で同志から聞き、後々お父上を尊敬する原動力になりました。」
「そうでしたか。ですが私は、その後々のことを誰にも聞いたことがありません。良ければ聞かせていただけませんか?」
「そうですね、私も本当はそこが一番話したいところなのです。
文化大革命は、吊るし上げ、自己批判、著名な文化人達の自殺などの人間への危害、中国最古の仏教寺院白馬寺の損壊、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓の暴きなどの文化遺産の破壊、孔子の極悪非道人間人格化など、が各地で展開され、紅衛兵の役割の終了に伴う下放なども行われる様になり、ついには内部矛盾があちらこちらに噴出すようになり、10年を経た1978年に終結することになったのです。
内部から、『指導者が間違って引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱である』という見方が芽生え、多くの文革関与者がこの見方を是認するようになったのです。
紅衛兵として文革に関与していた自分も次第に、この見方を受け入れる様になり、それとともにお父上のかつての言が心に染みるようになったのです。
とくに、薄一家を不幸のどん底に陥れるきっかけを作った張本人が自分であるという自責の念は消えないどころか増長する一方で、気持ちの置き所に困ってしまったのです。
そして毎日毎日、あの槐の樹のもとに佇み悩み続けていたのです。どの様に、ご一家に謝罪しようか、そればかりを考える毎日になっていました。そしてついに決心する時が来たのです。
「どのようなことだったのでしょうか、周瑯さん。」
つづく