槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/10/10 23:54:03|旅日記
万葉の夢 奈良 斑鳩 法起寺 *** 大根紋様の軒丸瓦 ***
7.万葉の夢 奈良 斑鳩 法起寺 *** 大根紋様の軒丸瓦 ***

案の定。法起寺と法輪時を間違えていた。ともに法隆寺の近在にあり、ともに斑鳩を彩る寺院ではある。法隆寺を後にして、法起寺に車で到着するまで15分もかからなかったと思う。多分法起寺の駐車場と思われるところへ車を駐車させ、法起寺の門前に至る。
この門は法起寺の伽藍配置からは西門にあたり、所謂南大門に相当する表門ではない。従って質素な構えであり(写真1a)、法起寺と彫られた軒丸瓦(写真1b)が控えめに見れる。西門を入ったすぐ左手に受付があり、そこで入場料を払い、広くはない境内に入る。正面に三重塔が見え(写真2a)、券売所の係員が、写真を撮るのにベストなアングルを教えてくれた。
池があり、水面に塔が反射して見える位置で今は百日紅の枝が邪魔している、とのことであった。しかし邪魔をしているのは白い花を咲かせた百日紅ではなく、松の木であった(写真2b)。
但し、少し見る位置を変えると確かに百日紅が邪魔をしている(写真2c)。
そしてそのアングルから見て左手手前に講堂と聖天堂がある。そこまでゆっくり歩を進め、講堂と聖天堂の間から三重塔を眺めると、天平の甍を思わせる(写真3a)。
近代に建て替えられた多重塔は長谷寺の如く五重塔が多い中、三重塔は存在感がある。日本最古の三重塔ということである。少し離れたところから全体像をみても(写真3b)、近くから塔全体をみても(写真3c)、相輪をみても(写真3d)安定感があり、荘重感がある。

ウェブを見ると、「法起寺は、天平時代の記録に池後尼寺とあることから、尼寺として建立されたことがわかります。 その伽藍配置は、塔を東に金堂を西に配したもので、法隆寺西院や法輪寺とは位置が逆転しており、法起寺式と呼ばれています。」とある。更には、「この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。」、「平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微しましたが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されています。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔のみを残すのみであったといわれています。」とある。

聖天堂は江戸時代末期に金堂跡地に建立されたもので、屋根の軒丸瓦の模様はクロスした大根であった(写真4)。帰り際に、何故大根なのか券売所の係員に聞いたが、明確な回答は得られなかった。

基本的に尼寺であり、尼らの寺僧が近隣の農民に支えられて、1300年以上もの間,細々とではあるが何度かの荒廃を乗り越えて生きながらえてきたのであろう。
軒丸瓦の大根はそういう意味だと思いたい。帰りに、近くにある三井瓦窯跡のことを聞くと、「何も無い。」との券売所係員の話を聞き、既に昼を過ぎていたこともあり、次の観光予定の唐招提寺に向った。
             つづく







2010/09/27 0:29:43|旅日記
万葉の夢 奈良 斑鳩 法隆寺 *** 第一号世界遺産 ***

万葉の夢 奈良 斑鳩 法隆寺 *** 第一号世界遺産 ***

  今回の旅行の三日目である。ホテルサンルート奈良から法隆寺に直行である。40分足らずで法隆寺についた。初めて訪問したのは中学の修学旅行で、隣家のおじさんから二眼レフを貸してもらい、なくしてはいけない、壊してはいけないと神経を使った記憶があるが、そのカメラで、こんなにうまく撮れるものかと後々いつまでも記憶に残った撮影場所が法隆寺であった。

  自分が写真を撮るのが好きになった原点の寺である。そしてその後二度ほど来た記憶があるが、最後にここへ来てからこの日まで40年以上は経っている。その40年のうちに変わったと思ったのは、山道の両側の店である。そして全体にこぎれいになっている。当時は雑草があちこちにあったし、寺の壁の土が剥げ落ちていたり、補強用の麦わらが飛び出ていたところがあちらこちらにあった。

  事前の調査では斑鳩町営の駐車場があり、無料とあったのが、実際には有料なのである。町役場が管理を委託するうちに、周囲の店が持つ有料駐車場と同額になってしまったのだろう。あるいは車を締め出すのが目的なのだろうか?町と管理委託会社が結託して儲けようとしているように思えてならなかった。

  それはさておき、40年ぶりの法隆寺は期待を裏切られなかった。駐車場から法隆寺伽藍の方へ石畳を歩いて行くと、最初に出会うのは「南大門」である(写真1a)。早速屋根瓦に目が行った。入母屋造りの屋根で、灰色の瓦のうち丸瓦には酸化鉄の色は浮いていないが丸瓦の間の平瓦は淡い鉄さび色に変色したものが多く見られた。室町時代に焼失、再建されたものなので500年以上経っている計算となる。軒丸瓦の模様は“丸に右三つ巴”である。(写真1b左)。

  南大門をくぐると、40年前の記憶が残る光景が目に入った。中門とその向こうの五重塔がセットになったこの光景は40年前に借用した二眼レフカメラで撮った記憶がある。この中門(写真1c)も入母屋造であるが、南大門より構えが立派で、二層になっていて、下の層の門の両側には日本最古の金剛力士像(写真1b右)が睨みを利かしている(写真1d)。
  これらの視界にはいる伽藍は“西院伽藍”と呼ばれ、撮影場所からは見えない“金堂”や“大講堂”、“鐘楼”、“経蔵”が回廊に囲まれている。回廊の南西側の一角にある入り口(写真2a)で拝観料1000円/人を支払い、回廊の中を東に向って丁度中門のあたりまで歩く。

  ここからみた五重塔と金堂のセットも記憶がある。ただあの頃は五重塔の意味も、金堂の意味も知らなかったのである。しかし、そんなこととは関係なく、同じ場所に建ち続けていた。全く同じものを40年の時を経て向いあっている不思議な気分である。  同じ40年でも、人間にとっては、ほぼ50%ものエージングであっても、病の用明天皇のため、推古天皇と聖徳太子が建立した607年から現在までの1404年に対しては3%足らずのエージングであり、相対的には空間的にも、時間的にも普遍のものに接したという気持ちになった。

  法隆寺の五重塔は薬師寺の五重塔と異なり“裳階”というのがないので、屋根の数は単純に五層である。ただし最下層のみは内陣があり、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されていると法隆寺のサイトに説明されている。
  最下層だけはそのためか“裳階”がついているので、屋根の総層数は六層となる。しかし五重塔である。

 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句で、最初に頭に浮かぶのは、何故か、伽藍全体でもなく、金堂でもなく、南大門でも中門でもなく、五重塔なのである。それほど法隆寺の五重塔は美しいのかも知れない。屋根の庇が各層とも大きく、どこからみても懐が深くゆったりしている(写真2b左、右、写真2c右上)。これは耐震性に役立つであろう。
  “相輪”はしっかり“九輪”となっていて“水煙”も簡素で良い(写真2c左)。庇が長いので、その先端に吊るされた“風鐸”もちょうど良いアクセントとなっていた。東大寺大仏殿の“風鐸”の音は聞いたことがあるが、法隆寺の五重塔の“風鐸”の音色はどのように響くのだろう。

  日本で最古の五重塔ということは、日本中の五重塔の模範になっている可能性があるが、長谷寺や室生寺の五重塔とは受ける印象が全く異なるように思えた。

  五重塔と並び建つのが金堂である(写真3a)。内部は見ることは出来なかったが、パンフレットには、
「聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)、その左右には太子の父である用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、母である穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように樟で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安時代)の諸像が安置されています。また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在は再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。」
と紹介されている。

  いずれも“金銅”という材質を示す接頭語がついている。金と銅との合金なのか、銅の上に金箔を貼っているのか分からない。パンフレットの金堂内部の写真を見ると、黒化した金と緑青が長い歴史を感じさせる。

  尚、ここに安置された本尊は”釈迦三尊”で主仏が“釈迦如来”であるが、脇侍として“薬師如来”と、仁和寺では主仏だった“阿弥陀如来”が侍っているらしい。
 金堂は見る方向を変えても、それほど表情を変えない(写真3b)。ただ五重塔とセットで眺めた時と金堂単独で眺めたときの印象は異なる。
  金堂は二層になっていて一層目の屋根上と、二層目の屋根軒下の間につッかえ棒の様な柱が建てられ、その柱に龍が巻きついている。一方の龍は玉を持たず顔つきは鰐に似ていてがむしゃらに柱に巻きついている(写真3c左)が、もう一方の龍は玉を持ち、ゆとりをもって柱にまきついている様に見える(写真3c右)。
  そして金堂の軒丸瓦に目をやると、ここは巴紋ではなく、八枚の花弁を持つ花をデフォルメした模様で水蓮かも知れないが、よく分からない。回転対称紋に属することに間違いない。そして垂木の先端面は唐草模様が打ち抜かれた銅版がはられ、淡く緑青サビが浮いていた(写真3d)。

  次に回廊から抜けだし、順路に従って、聖霊院の横を通り、更に百済観音堂のある大宝蔵院の前を素通りして東大門に至り、それをくぐって夢殿に向った。東大門をくぐる時、有名な法隆寺百済観音像のある観音堂をなんの躊躇もなく通り過ぎてしまったことに気づき、一瞬戻ろうとしたが、いかんせんこの暑さ、そんな気持ちはすぐ蒸散してしまうのであった。やり過ごしてしまったのは百済観音堂がいかにも新築然としていて、とてもその中に百済観音像が安置されていると思いもしなかったのである。
  後でパンフレットを見ると平成10年秋に建立されたばかりである。その他、玉虫厨子や、夢違観音像、百万塔などわが国を代表する宝物が安置されているのだそうだ。おそらく、最新の防火、耐震、防カビ装置で制御された建造物なのだろう。納得!

  東大門をくぐると夢殿に向う道は日陰がなく、その道の両側に建つ瓦屋根つきの土塀がかろうじて作ってくれる僅かな日陰をくぐってゆく。その土塀に沿って視線を夢殿の方に移してゆくと、ここにも百日紅のピンクの花が色を沿え屋根瓦とのコントラストが映えていた(写真4a)。夢殿があるあたりは、東院伽藍と呼ばれ、先ず四脚門という中門がある。そこをくぐると正面に八角形の夢殿が見える(写真4b)。

  ところが法隆寺境内には八角形の建造物がもう一つあり、最初はてっきりそちらが夢殿だと勘違いしていた。西円堂という名前で、本尊薬師如来坐像が安置されているのだそうだ。夢殿を見上げると屋根瓦が見られ、軒丸瓦の模様は南大門と同じ三つ巴紋だが、“丸に左三つ巴紋”で巻いている方向が逆であった(写真4c)。

  そして屋根の天辺には絢爛豪華な屋根飾りがあり緑青がふいている(写真4d)。手にしているパンフレットを見ると、
「聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。」と説明されていた。

  しばし夢殿を眺め、また来た道を戻り東大門をくぐり、また石畳の広場にでて駐車場に向った。次はすぐ側の法起寺に向う。

                   つづく









2010/09/24 18:37:35|旅日記
万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***

万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社     *** 談合のはじまり ***

  司馬遼太郎の奈良散歩の最初にでてくるのが、ここ多武峰 談山神社で、「街道を行く24 近江散歩・奈良散歩」のカバーを飾っているのである。「街道をゆく」を行く、を気取っている自分としては以前から訪問したいと思っていた。
  しかし、前回奈良を訪問した時は。山のすぐ裏側にある岡寺は訪問したものの、この談山神社の所在が分からず、次回の奈良訪問時に実現させようと思っていた。

  今回は室生寺からの帰途寄れるところにあることが分かり、談山神社訪問が実現することになったのである。ここの神社の十三重の塔と秋の紅葉は有名である。紅葉の方は山の峰にある神社であり、紅葉がきれいなのは容易に納得できる。しかし、十三重の塔は多重の塔であり、本来仏教寺院にあるべきでないのか、と不思議に思っていた。
  多重の塔には心柱があり、その底部には仏舎利が安置されている。従って、塔は金堂よりも重要な建物であり、日本最古の飛鳥寺の伽藍配置では伽藍の中心に位置していた。この様に仏教と強いつながりが強い多重の塔が何故神社にあるのだろう。
  そういう疑問を持っていた。

  「街道をゆく 奈良散歩」を再度読み直してみると、答えが書かれていた。

  −多武峰(談山神社のこと)は観(道教寺院)か、神社か、寺かという項があった。それによると、

  「談山神社という殺風景な名になったのは、明治時代の『廃仏毀釈』によってであり、社僧たちは還俗させられ、その翌年の『神仏判然令』によって仏教色が除かれたのだそうである。
  それまでは社僧と呼ばれる天台宗の仏僧によって護持された。しかし、その以前は、平安期以来、多武峰(談山神社のこと)の祭神は「談峰(たんぶ)権現」であった。「権現」というのは、「仏が権(仮)に日本の神として現れる」という意味で、10世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。
  遡って7世紀後半、唐に留学していた鎌足の子の僧定慧が鎌足を祭るために多武峰(談山神社のこと)を創始し、木造の十三重の塔を建立した。」
  「最初は観(道教寺院)だったかも知れない」というのは、「たむ」と呼ばれるこの山は土地では神異を感じさせる山であり、鎌足が葬られ、その廟所となった。
  生身の人間を神社の祭神にするという思想は当時の神道にはなく、さりとて鎌足を仏にして、建物を寺に仕立てあげる思想も無かった。とすれば、仏教、神道以外の観(道教寺院)の形式が良いと思われたに違いない。幸い、多武峰には鎌足の生前「観」が出来ていた。
というのが、司馬遼太郎の推理である。


  しかし、勝手に、この地に「観」が出来ていたわけではなく、誰かがこの地に創ったのである。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)の母、斉明天皇との説がある。

  斉明天皇(594〜661)は、最近「斉明天皇の墓、ほぼ確実牽牛子塚古墳は八角形墳」というニュースの主役になったその人である。彼女が何故道教の観をここに創ったのだろうか。

  道教は、2〜3世紀の五斗米道(ごとべいどう)という呪術的な活動を起源とし、始祖の老子の姓が李氏であり、同じ李姓の王朝である唐は道教を重んじた。その唐へ文化吸収のために出かけた遣唐使の誰かが、帰国後道教の佇まいを斉明天皇に吹き込んでもおかしくない。

  以上は前置きである。

  宇陀市で、国道165号(初瀬街道)から国道166号(伊勢本街道)へそれ、更に左折して、県道37号(桜井吉野線)に入り、山道をどんどん登りカーブの連続になってきた。行く手の左右にいくつかの駐車場があったが、やりすごし、第一駐車場で駐車した。あとで貰ったパンフレットには、大型バス駐車場とあった。  大型バスなど一台も無かったので、気がつかなかったが、広大な大型バス駐車場はもう一つあるようで、来たる紅葉シーズンでの喧騒ぶりが目に映る。

  県道を横切ると、すぐ黒光りした鉄製の階段があり、それを下り、少し行ったところの第五駐車場のところを左折し、みやげもの店あたりまで来ると、右手の少し上がったところに鳥居があり、その先まで140段の石段が本殿につながっていることになっている。
  その石段の麓に入山入り口があったが、来客が少ないためか、そこは閉まっていた。
  そこで、多武峰観光ホテルの前を通りすぎ、少し歩くと、“神幸橋”があり、それを渡ったところに、談山神社の由緒が書かれた案内板(写真1a)と西入山入り口受付があり、そこで拝観料500円を払い、上に向って上がっていった。

  途中茅葺屋根の神廟拝所を横目に見て、緩い坂道を行くと、140段の石段のところにぶつかる。

  神廟拝所は最初680年に講堂として創建され、妙楽寺と称された。その後焼失し、1668年に修築されている古い建造物である。  堂宇の外壁(木製)には白鶴等の絵が描かれていた(写真1b)。この拝所内には“笙を吹く飛天”や“五百羅漢”の色彩豊かな壁画があることが後で分かり、気がつかずに残念な思いをした。
  本殿に向う緩いスロープの道には、竹竿を伝わって水の落下
をさせているところ(写真1c)があり、猛暑の中一服の清涼剤とはなった。
  神廟拝所の茅葺屋根には見事な苔が生えていて、緑の絨毯という光景であった(写真1d)。このスロープの小道から振り返ると、神廟拝所に百日紅の鮮やかなピンクの花が色を添えていた(写真1e)。

  石段を少し登ると、本殿、楼門、拝殿などが立ち並ぶ台地に至る。そして、同じ台地の西側には、十三重の塔と権殿(写真2a、2b)があったが、現在は権殿は修復中である。

  十三重の塔は「父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等に よって西暦678年に建立された。現存の塔は、享禄5年 (1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものです。唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられています。高さは約17メー トルあり、屋根は伝統的な檜皮葺きです。神仏混淆時代の名残であると同時に、談山神社のシンボル的な存在です。」と談山神社の公式サイトに書かれている。

  但し、見上げると相輪の九輪はどう見ても七輪であり(写真2c)、何か事情があったのだろうか。一層あたりの高さが無いので、予想したほど高さを感じない。周りには楓やもみじの木が鬱蒼と茂っているので、紅葉のシーズンは最高のスポットとなるのだろう。

  そして回れ右をして本殿に向かい靴を脱いで、楼門をくぐり、拝殿に向った。本殿(写真3a)に人は上がれないが、拝殿側から向って左手には、談山という銘柄のお神酒が4樽ほど積まれ、正面室内にあるはずの鏡やは見ることが出来ない。

  建物は朱塗りであるが軒周りの組み物には、猫や獏、鶯、孔雀、鳳凰などの様々な極彩色の彫り物が施され、柱には模様が抜かれた銅板が張られ、程よく緑青がふいている(写真3b)。

  おりしも談山神社の平成の大修理中で、10月からは、この所謂三間社隅木入春日造の本殿が対象となるので、直前の本殿を拝観したことになる。拝殿の軒先には青銅製の灯篭が列を成して吊るされていて(写真3c)、打ち抜かれた模様を一つ一つ見て行くのも楽しい。

  家内が、「抱き茗荷に似ている。」と言ったが、「抱いてはいるが茗荷ではないね。」とは言ったものの結局分からなかった。
  抱き紋が多いが細かく見ると少しづつ差異がある。拝殿には板張りの回廊があり、どの向きの回廊にもその軒下には春日神社風の青銅製の灯篭が吊るされている(写真4a、4d)。
  
  拝殿内には大化の改新前後の物語を表した絵巻物が陳列されていた。中大兄皇子と鎌足との出会いから曽我一族の暗殺、大化の改新の様子が描かれている。拝殿を外から見ると、石段に脚元が接地した高下駄構造(舞台)となっていて(写真4b)、中国でよく見かける山の斜面に建てられた道教寺院、“観”の佇まいを連想させる。

  石段の上空を見上げると一面緑のもみじであったが、何故か一箇所のみ鮮やかに紅葉していた(写真4c)。全体が紅葉した時の美しさを思いながら、来た道をもどり、土産物屋で葛もちをみやげとして買い、一路国道169号線に出て無事ホテルに辿りついた。
               つづく







2010/09/20 20:35:51|旅日記
万葉の夢 奈良 女人高野 室生寺

万葉の夢 奈良 女人高野 室生寺 *** 「種子(シュジ)如意輪観音菩薩」 ***

  近鉄大阪線に沿って国道165号線があり、ところどころ登坂車線が見られるようになってきた。時折ダンプが登坂車線をしんどそうに登って行く姿が見られる。この国道165号線、初瀬街道は大阪と三重県津市を結ぶ幹線道路で、三重県名張市、伊賀市を経て津市に至る。道なりに三重県方面に30分ほど走ると、右折すると室生寺に至る道の標識があった。如何にも山の奥という感じで、カーナビ案内によると右折してからまだ5〜6kmはあるようである。

  このあたり一帯には大野寺、龍穴神社、室生シダ群落、赤目四十八滝などがあり、室生赤目青山国定公園に指定されている。また少し先の山中には、伊賀忍者の祖、百地三太夫屋敷がある。山岳信仰が醸成されやすい地なのであろう。

  「大和平野の東方、奥深い山と渓谷の続く室生のあたりの一帯は、太古の火山活動によって形成された幽邃な場所で、その中心が室生山である。室生は室・牟漏とも書いていずれもムロと読ませ、土地の人もムロと言うが、ムロとはミムロという神の坐ます山のことである。・・・」と室生寺のホームページに紹介されている。

  また室生寺は太陽信仰のメッカでもあり、古墳時代の初頭、初めて太陽の神、天照大神を祀った所とされている三輪山の麓の桧原神社という古社の真東にあり、更に真東には伊勢内宮の元の社地とされる伊勢の斎宮跡があり、この東西を結ぶ線上には、太陽祭祀にまつわる遺跡が点在していますので『太陽の道』と称しているという興味深い話が紹介されている。

  さて、わがレンタカーは室生寺駐車場(有料)に停め、駐車場係員の「室生寺への入り口は太鼓橋を渡ったところ」という口案内に従い、5分ほど歩くと、朱塗りの“太鼓橋”が見えてきた。正面までくると、確かに円弧を描いた橋の向こうに「女人高野 室生寺」と刻まれた石標が見える(写真1a)。
  茅葺の屋根だが門は閉ざされているので、右手か左手に歩いてゆくと山門があるのだろう。橋の下には、暑さで干しあがったように見える室生川の流れがあり、向こう側の岸辺には瓦葺の堂宇と百日紅が目に入る(写真1b)。

  太鼓橋を渡って右手に向うと正面に朱塗りの仁王門が眼に入り(写真2a)、更に近づくと、目玉にガラス(又は水晶)が嵌め込まれた青塗りの力士像が入門者に睨みを利かしているのが見える(写真2b)。
  また門の右手には同じ様に朱塗りされた力士像が睨みを利かせていて、赤鬼と青鬼の組み合わせを思い出させる。門をくぐって少し行って左折するあたりに梵字池(写真2c)があった。

  池の反対側にはたくさんのもみじの木があり、紅葉の季節になると、この池の水面に紅葉したもみじが映り、絶好の写真撮影のアングルになることが容易に想像できる。
  そして、そこを左折すると、金堂や五重塔に通ずる石段があった(写真3a)。
  丁度手すりを取り付ける工事をしている最中で、来るべき紅葉シーズンに備えているのだろう。目をつむると、老若男女がこの手すりに手を架けながら、列をなして金堂や五重塔に向かう姿が見えてくる。

  そして最初の階段を登りきったところに金堂があり、堂内の照明が外へ漏れている。階段を登りきったすぐのところには小さな石塔があり、仁和寺金堂の軒丸瓦に書き込まれたのと同じ梵字、即ち、種子(しゅじ)を発見した。(写真3b)。
  石塔の下段に、蓮華座が刻み込まれた層があり、その上に立方形の石が載り、そこに第一の梵字が刻み込まれ、更にその上に二層目の蓮華座が載り、更にその上に第二の立方形の石が載り、そこに第二の梵字が刻み込まれている。

  この第二の梵字が阿弥陀如来を表す種子で、仁和寺金堂の軒丸瓦に書き込まれたのと同じ梵字となのである。第一の梵字は複雑な字で、なにを表す種子か分からない。

  ところで、阿弥陀如来は本尊でもないし、金堂内に安置されている仏像群の中にもいない。とすると同じ種子が表すもう一つの仏、如意輪観音菩薩となる。両仏は、千手観音菩薩とともに同じ種子で表されるのである。

  室生寺の如意輪観音菩薩は日本三大如意輪観音像の一つで、本堂正面の厨子に安置されている。手が阿修羅像と同じ6本あるが、持ち物は違うようだ。
  堂内は写真撮影禁止なので、ここに示すことのできる写真はない。堂内の風格のある諸仏の様子を室生寺のホームページに書かれた文章を拝借すると以下の様になる。
  「
  堂内の須弥壇には中尊の釈迦如来像を中心に、向かって右へ薬師如来と地蔵菩薩像、左は文殊菩薩と十一面観音像の五尊(国宝・重文、平安時代前・中期、)が並び、その前に十二神将像(重文・鎌倉時代)が一列に配されている。
  五尊像は大きさや作風に違いがあって同時期のものとは言えないが、いずれも一木造彩色像で、すべて板光背を付けるのが珍しい。また本尊の背後には、他に例のない帝釈天曼荼羅を描いた板壁がはめられている。
   」
  “十二神将”は薬師如来を守護する役割があり、その動的な仕草が面白い。

  そこから更に石段を登ると、五重塔(写真3c)に至る。この五重塔は平成10年9月22日の台風7号によって杉の巨木が倒れかかり、五層すべてで背面のひさしが破壊されるという大きな損傷を受けたことがニュースになった。
  室生寺のウェブを見ると最初にこのことが紹介されていて、この被害に対するショックが如何に大きく、また、すぐに協力者の援助を受けて修復できた大きな喜びと感謝が文章に滲み出ている。

  今も倒れかけた杉の大木があったと思われる部分だけ、木が歯抜け状態になっている(写真4a)。心柱が直撃されなかったので塔に傾きが生じなかったことや、軒の部分で大方の衝撃が吸収されたことなどが幸いして、全壊は免れたということである。

  そして来た道を逆に辿り、仁王門をくぐり(写真4b)太鼓橋をわたり、途中近くの和風レストランで1300円の山菜料理を昼食として食し、次の見学先、談山神社に向った。
              つづき







2010/09/20 18:38:32|旅日記
4.万葉の夢 奈良 長谷寺

4.万葉の夢 奈良 長谷寺 *** 「カーナビの読み違い」 ***

  朝9時に近鉄奈良駅前のトヨタレンタカーでレンタカーを一泊二日の予定で借りた。最軽量車パッソだった。カーナビつきであったが、このカーナビはパッソでしか通れないと思われる狭隘な道を平気でわざわざ案内してくれるのだった。
  しかも山道を案内して、二人乗ると、もうゴホゴホ、ゼイゼイとあえいでしまうのだ。奈良公園をつっきり一路南下する国道169号は前回の奈良ドライブで、岡寺、飛鳥寺方面に行った時も通った道で、桜井市で左折し、国道165号を進むという極めてわかり易いコースの予定であった。

  カーナビは桜井市に入る前に左折し、西名阪自動車道に沿った道を案内するのだった。左折したときは、道は広く、近道なのかなと思ったが、道は次第に細くなって行き、山道に入ってゆく。
  パッソだから通行できるが、1500ccクラスだと脱輪してしまうのではないかと思われる道で、舗装はしてあるが、対向車が来たら一貫の終わりだ。両側に迫るススキの穂に車の顔を撫でられながらギヤー・チェンジに苦労しながらの運転になった。
  ところどころ、「冬季通行禁止」の標識が立っている。当初、桜井市あたりから前方右手、南西方面に天香具山、畝傍山、耳成山の大和三山が眺められる筈と、前回台風の為見ることの出来なかった眺望を見逃すまい、と期待していた気持ちは完全に失せてなくなっていた。

  桜井市の東側にはソーメンで有名な三輪山がある。その更に巻向山、初瀬山が連なり、長谷寺はこの初瀬山の南東側の麓にある。“長谷”は“初瀬”が変音したのではないかとの想像は間違っていないだろう。
 ところが、柿本人麻呂は、

 「こもりくの泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいざよう雲は妹(いも)にかもあらむ」

と詠み、“長谷”でも“発瀬”でもなく、“泊瀬”と呼んでいる。

  当初の予定では、国道165号から県道38号線をいくらか上ったところにあるのだが、カーナビの案内通りに来たため、その38号線を下って、途中初瀬ダムの脇を通ってきた計算になる。

  38号線を下っているうちに右手に、“長谷寺駐車場”という看板があったので、ハンドルを右に切り、少しでも日陰になっている場所を狙い駐車し、猛暑の中に身を投じた。駐車場代500円を払い、係員に聞いた方向に歩を進めた。

  右手に宗宝蔵の石垣をみながら坂を登ると、仁王門が現れた(写真1a)。こちらは“二王”ではなく“仁王”である。
  長谷寺のHPには、「長谷寺の総門で、建築の形式は三門一戸の楼門です。入母屋造本瓦葺で、両脇に仁王像、楼上に十六羅漢を安置しています。幾度か災害にあい、現在のは明治十八年(1885)の再建。「長谷寺」の大額の文字(写真1b)は、後陽成天皇の御宸筆です。」とある。

  その瓦屋根の軒丸瓦の模様は、二つの輪を横に交差させたもの、所謂“輪違い紋”(同図)であり、この紋を長谷寺のいたるところで見かけることになる。
  
  この紋は、「この世はひとりで生きることは難しい。ふたり以上互いに組んで生きてゆくこと。いわゆる二つの輪は仲良く手を組むことなのだ」という意味をもち、また、大乗仏教では「この世は金剛界と胎蔵界とが組み合って、バランスがとれる。“輪違い紋”はこれを図示したものだ」とも言われているようだ。一方で、ここ長谷寺では“巴紋”も多く見られた。

  仁王門を右手に振り返ると、金剛力士像が初瀬の山並みを見渡していて、金網の檻の中で屹立している。そして、その檻に草履やわらじや赤いマントをまとった地蔵がぶら下がっていて、覗き込んでいるような光景が見えた(写真1c)。
  
  仁王門をくぐると、すぐ399段の登廊が現れ(写真1d)、健全な身体と健全な精神が試される。

  そして、その399段の途中まで登り、階段が直角に折れ曲がるあたりに、「故郷(ふるさと)の梅」とかかれた看板が、小さな赤い祠に並んで、貫禄のある梅の木が木組みの囲いの中に植えられていた(写真2a)。看板には、紀貫之の

「ひとはいざ心も知らずふるさとの花ぞむかしの香ぞにおいける」(古今集)

とあり、花を愛でる気持ちの原点があるように思えた。おそらく梅林ではなく、この近辺ではこの梅だけがポツ然と在ることが重要のように思えた。

  階段を登りきると、瓦葺き屋根の“本堂”が現れた(写真2b)。瓦の模様は巴紋と輪違い紋が混在している(写真2c)。
  
  長谷寺は、活動している寺という感じがした。勤行を済ませてホッとした表情の若い僧侶(写真2d)や,願をかけて本堂を時計回りに回り、本尊の十一面観音の前に来ると、それに向って拝礼する動作を何度も何度も繰り返す人々がいる。それがお遍路の姿ではなく、普通に街中にいる人たちなのである。

  長谷寺は西国三十三所巡礼の道となっているので、当然かも知れないが、それにしても修験の香りがする。自分も蝋燭と家族5人+一匹の犬のために賽銭を投げ入れ、家内ともども手を合わせ先に歩を進めた。

  朱塗の五重塔が見えてきたが、その手前にもう一つ貫禄のある建築物が見えた。五重塔よりもはるかに古さを感じる。
“本長谷寺”である。
  長谷寺の創建は奈良時代と言われているが、こちらが、五重塔の少し先に、礎石だけ残っている三重塔とセットで本家なのだろう。こちらの建物の屋根は瓦葺きであり鬼瓦の鬼は本当に毀そうな面をしている(写真3a)。ここの軒丸瓦の紋様は巴であった。

  朱塗の五重塔は屋根は茅葺きである。各層の屋根の寸法は五層すべて同じであり、こじんまりとしてみえ、荘重感は感じられない。相輪は立派だが、宝珠は蓮華に載ったものが2セット連なり、その下に水煙、さらにその下は九輪のはずだが写真のとり方で二輪に見えてしまっている(写真3b)。

  昭和29年、戦後日本に初めて建てられた五重塔で、昭和の名塔と呼ばれているのだそうだ。相輪は金色とあるが、すでにかなり金色は褪せてしまってみえる。よく見ると、水煙の最下部には風鐸がぶら下がっている(写真3c)。
  かつては三重塔だったのをどの様な訳あって、昭和の塔は五重になったのか興味のあるところである。更に先を行くと、礎石だけ残っている三重塔跡に至った(写真3d)。
  なぜか、長谷寺のウェブの境内案内地図にはこの三重塔跡が図示されていない。

  そして、来た道を戻った。だれか知らないが、僧侶の青銅像があり(写真4a)、更に399段の石段を下り、仁王門から前方を眺める(写真4b)。
  再度屋根を見上げると、“輪違い紋”の軒丸瓦と、その向こうの“宗宝蔵”の屋根が目に入った(写真4c)。仁王門には、軒丸瓦だけでなく、風鐸にも、垂大にも“輪違い紋”がつけられていた。仁王門から石段に沿って下ってゆくと、山道の入り口に至り、そこに“総本山長谷寺”と刻まれた石碑があった(写真4d)。

  あちらこちらに自動販売機があり舗装道路の両側には土産物屋が立ち並んでいる。下界に戻った感じである。冷たいペットボトル飲料買い、駐車場に戻り、一路国道165号線に沿って室生寺に向うことになる。
                   つづく