この映画は、音楽をやってるかどうかで、感想が全然変わっちゃうと思う。音楽映画の難しさというか、やりにくさですね。
自分はヴァイオリン弾きで、ピアノはそれなりに知ってるけども、この楽器は扱いが難しい。ヴァイオリンやギターは持って歩けますけど、ピアノはほぼ無理、ので、プロのピアノ弾きの人に要求される能力っていうのは、ずばり「対応力」なんですよね。
作曲家でピアニストでもある、林光さんがかつておっしゃっておられていたのだが、例えばヴァイオリンリサイタルで、ヴァイオリニストが凄い楽器を使っていてもピアノはしょうもないレベルの楽器、というのはしょっちゅうある事で(公民館や学校、あるいはコンサート会場の楽器ですら、手入れがなってないことが多いんですよ)、でも、アンサンブルを成り立たせなくちゃならない、のがプロには要求される、という。これはよく分かる。ヴァイオリンのリサイタルはほぼピアノとの共演になるから。これねえ、ヴァイオリンだけの曲がほぼないからしょうがないんですが、ピアノとヴァイオリンの音ってなかなか合わないんですよ。なぜなら、ピアノは平均律でヴァイオリンはほぼ純正調楽器だから。その辺が語られるのかなと思ったら、完全にスルーだったなー。
平均律で調律するとなると、例えば、弾き手がよく弾く曲の傾向とかに合わせて調律したりする場合も多い。ドビュッシーとバッハだったら、もう、同じ調律ではダメだ。ドビュッシーの曲には、独自の音階が使われている、一方、バッハはまさに平均律の発明者。かみ合わないのは当たり前で。それを1台の楽器でどう寄せて調律するのか、というような話が出てくるかと思ったのだが。
姉妹のピアニストのエピソードでは、二人の弾く曲の傾向が全く違うし、その手の話になるのかなあと思ったら、音の質がどうこう、という話になっちゃって。ちょっと違うと思うんだけど。かように、自分の考える話の方向性と映画がずれるので、困りました。
ということで、主人公のお兄ちゃんが、自分が担当してたピアニストがコンクールで弾けなくなったのをきっかけに全然弾くことができなくなった、のを、自分のせいだってピイピイ言うシーン、深刻なシーンだろうけど自分は笑っちゃった。あのさー、調律師なんぞができることなんか、高が知れてるっての。どんな楽器でも弾けなくちゃ、ピアニストとしてやっていけないんだから。大体、コンクールで使う楽器と、普段の練習楽器は全然違うわけで。じゃあ、調律師は、音楽のどこに、どこまでかかわれるのか?
音楽って極めて人工的なもので、なのに、人ができることが結構限られているんです。ヴァイオリンだと、ストラドを頂点とした「いい楽器」。金さえ出せば、いい楽器なんかすぐ手に入る。けど、その楽器の性能を引き出せるのかは、弾き手次第。ピアノはより複雑ですけど。造りが精巧なので。
ので、調律師に要求されるのは、結局、コミュニケーション能力かなあと。お客様のニーズやイメージを掘り出して、その通りの音をつくる。大半の弾き手は、そんなイメージなんかないんだけどね。その辺、この映画ではどう描かれてたかというと、あまりぱっとしなかったけど。主人公のお兄ちゃん、観ていて、あーこういうタイプがオウムとかにはまるんだよなあ、と。マジメはいいいけど視野が狭くて。その人の祖母役の吉行和子さん、一言もセリフはないんだけど、印象が強いです。で、この映画は風景の絵が綺麗です。北海道が舞台なんだけど、四季の一番いいシーンを撮ってます。そのくらいかなあ、やっぱり、音楽やってるから、厳しくなっちゃいますね、どうしても。
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