槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2022/06/19 22:18:37|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その5)


           倭国(日本)への仏教伝来の道程(その5)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、33項、  項目番号 項目タイトル   で表し、
大項目内に中項目を    中項目番号 中項目タイトル で表し、
更に中項目内に小項目を  【小項目番号 小項目タイトル】 表しました.

  
前回までの第一回と第二回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回は以下を取り上げました。
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回は以下を取り上げました。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

更に、第三回で取り上げた項目は以下の通りです。
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
そして、前回第四回では以下の項目について取り上げました。
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
そして、今回第五回は以下の項目を取り上げるました。
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】

 
 


30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>   以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと
 
 この朝も,これまでと同様ホテルで朝食を済ませ、8:30にホテルを出発した。15分ほどで高速道路G60に入り、一路大足(だいそく)を目指す。運転手の蒋(しょう)さんは若干28歳であり、若さ溢れる好青年である。今回の旅の最初から最後までのスルーの運転手である。
 これだけ長距離を走ってもミス(道の間違え)が無いのは、結構予習をしてくれているのかも知れない。有難いことだ。そういう運転手を見つけてくれた駱(らく)さんにも感謝しなくてはならない。
 
9:56にG60から分岐して大足方向へ。次第に地面の色は赤さを増し、道路の造成によって現れた断層は赤茶というより赤色であった(写真11.5 -1-1)。途中、車を停めやすいところへ停車してもらい、赤土を採取させてもらった。 そして更に15分ほどして、目的地一帯に到着し、車から降り、園内に向かった。「世界遺産大足石刻世界文化遺産博覧園遊覧図」と書かれた案内図が目に入った。 案内図では、現在地から最初の橋を渡ると、先ず旅客センター地区が現れ、更に二つ目の橋を渡ったところから大足石刻寺院域に入り、広大寺や、圣寿寺及びそれらの焚香所が現れるようだ。石刻像が現れるのは圣寿寺側となっている。

旅客センター地区の一番北端の正面に寺の山門と思える建造物が現れた。20段ほどの石段を登りつめたところに、底部を象や獅子が支えた格好の8本の石柱に支えられた大きな屋根が現れた。 屋根の4稜線は中国風の反り返りを見せているが、彩色はけばけばしさがなく落ち着いたたたずまいを見せている。観光客の服装の方がはるかに彩色豊かだ。門の額には天下大足と右から書かれていた。いわば、この建造物は山門というより観光ゾーンの呼び込み口なのだろう。

そして第二の川に架かる幅広で100m程の長さの石橋を渡ると、寺院が現れた。これが広大寺なのだろう。境内にあるすべての建造物が中国には珍しい入母屋づくりの屋根構造をしていて、色彩も派手ではなく、落ち着いた感じである。屋根の四稜線は特徴的な反りはないが、中国寺社建造物の屋根の稜線に鎮座する小動物の姿は見られる。これら建造物の歴史は浅そうであった。

その寺院の一角から抜け出すあたりで進行方向右手を見ると、なんの像も彫られていない岸壁(写真11.5 -1-5)が見えた。大きな石が堆積しただけで、地層は現れていない。この大きな岩の凹凸を利用して昔の人たちは像を掘ったのであろう。

そしてさらに行くと、竹林の向こう数10m先に、岩石からなる庇の下に三層からなる石刻像群(写真11.5 -1-6)が現われた。最上層には10体以上の鎮座する仏像群が整然と並び、次の層は更に二層に分かれ、市井の町人や役人風情の人物像が立ち並ぶ、そして最下層には、何やら怖い面持で何かを手にしている人物像が見られた。
 
以下には、仏教の、特に死後の世界観について、展示された石刻像を通して受けた印象や意味について記すことにします。

@)仏教で言う“三界”とは 
 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>以下文中写真番号は左記URLをご参照のこと
 
「三界(さんがい)とは欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの総称で凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。

欲界とは、仏教における世界観のなかで欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。三界の一つで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天上(神)が住む世界のこと。

色界とは欲望を離れた清浄な物質の世界。無色界の下にあり、欲界の上にある。この色界には四禅の四地の初禅(しぜんのしちのういぜん)、第二禅、第三禅、第四禅があり、これを過ぎると無色界に入る。天界28天に属す。色は物質の義、あるいは変礙の義。

無色界は、天部の最高部に位置し、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定(ぜんじょう)に住している世界。上から非想非非想処(ひそうひひそうじょ)・無所有処(むしょゆうじょ)・識無辺処(しき
むへんじょ)・空無辺処(くうむへんじょ)の4つがある。」とWikipediaに紹介されている。

更にもう少し歩くと、「大足石刻分布図」なる石壁に彫られた案内図(写真11.5 -1-7)が現れた。そこには、潼南県(どうなんけん)、銅梁(どうりょう)県、永川県(えいせんけん)、〇(草冠に宋)昌県、安岳県に囲まれた大足県には宝頂山石刻、北山石刻、等、計5か所あることが書かれている。

以上の内、宝頂山石刻、北山石刻を見学することにした。

最初に現れたのが先ほど竹林の向こうに見えた石刻像群(写真11.5 -1-8)であり、岩石からなる庇の裏には「唐瑜伽部主揔持王((とう・ゆがぶしゅ・そうじおう」なる文字が彫られていた。「瑜伽(ゆが)」とはヨーガのことらしいが、文字の意味は分からなかった。

また、最上層(無色界)と第二層の色界に属する仏像、人像は空色と青色の顔料が服や冠に施されているが、最下層の欲界に属する像には色彩が施されていない。

各石刻像には、説明書きが石板に彫られているが、その解明はしないが、三界それぞれに於いて、遭遇する様々な場面を想定しているものと思われた(写真11.5 -1-9〜11.5 -2-9))。

そして更に進むと、釈迦涅槃像が現れたが、あいにく工事中だった。中国で涅槃像は何度か見たが、これほど大きいのは初めてであった。この涅槃像を過ぎると少し趣が変わる。

A)「六道輪廻」の世界とは <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真は左記URLをご参照のこと
「華厳三経像(けごんさんきょうぞう)」(写真11.5 -2-11、11.5 -2-12)の次は「六道輪廻」の世界(写真11.5 -2-14、11.5 -2-15、11.5 -2-16)であった。「六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天という六つの冥界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。

人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。

大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう」とWikipediaに紹介されている。

ここの「六道輪廻図(石刻)の大きさは、高さ、780cm、幅480cm、奥ゆき260cmという巨大な石刻像であり、90の人物像、24の動物像が、そして輪の中央にはアニッカ(無常)の長い手で支持されている。

輪は60度づつ6つに分割されていて、各分割枠内には神が創造した生き物や物体が彫り込まれ、霊魂が隣接した分割枠の間を移動する様を石刻していて、仏教の教義である“六趣唯心”、“因果応報”、“十二因縁”を表している」と石標に刻み込まれている。
 
【六趣唯心】
とは、六道(仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。”唯心とはすべての現象は心によって産出されたもので,本質的に実在するものではなく,心のみが一切の根源であり最高の実在であることを示す語である。

【十二因縁】ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真は左記URLをご参照のこと
 
苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法とWikipediaに紹介されている。“因果応報”は言わずと知れた人間の業であるので省略する。

生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であるといわれる。 まだ続きがあり、武器と甲冑に身をかためた強面の神将像(立像)が12体ほど横並びで石刻されている(写真11.5 -2-17)。

十二因縁をそれぞれ退治する神将達か、それとも因果応報を実施するエージェンシーか。よくわからないが、これらの神将像の前に佇んでいる観光客が多かったのが印象的であった。きっと自分の場合はどれに対応するか、自分の胸に手を置きながら石刻像を覗き込んでいるに違いない。

そして岩肌を大きくくり抜き入り口に大きな獅子の石刻像が横たわった石窟が現れた(写真11.5 -2-19)。中には多くの石刻仏像が安置されていた(写真11.5 -2-20〜11.5 -2-23)。

石窟には外からの光が適度に入り込み、ストロボなしで、写真を撮ることが出来た。いずれも柔和な顔立ちをした仏像であった。直前まで、三界、六道、強面の神将像など、恐ろしい場面や像を見て来たためかも知れない。
 
石窟から出ると、すぐのところに、それぞれ虎と牛に半跏の姿で乗っている山君と道祖神(写真11.5 -2-24)が現れた。山君は手が3対あり、2対で物を持ち、一対で合掌している姿であった。さしずめ、宝頂山の守り神というところか。
 
ここで、これまで中国語で現地ガイドをしてきてくれた中国人女性(写真11.5-2-25)とは別れであったが、駱さんの巧妙な日本語への通訳によって、この世界遺産の価値が分かった様な気がした。

宝頂山を下山する途中、珍しい八角(または六角)四重の塔(写真11.5-2-26)及び聖壽寺(せいじゅじ)と書かれた二層のお堂(写真11.5-2-27)及び帝釈殿、そして線香の煙がたちこめる聖壽禅院(せいじゅぜんいん)と書かれたお堂(写真11.5-2-28)を目にした。・・・中略・・・、
 
B)北山石刻  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>写真番号は左記URLをご参照下さい
 そして、駐車場に戻り、車で北山石刻(ほくざんせきこく)に向かい、現地時間14:00頃到着した。駐車場で車を下りるとすぐに観光案内図(写真11.5-3-1)が目に入った。ほぼ南北に細く伸びた北山石刻景区を南端から北上してゆくコースに向かった。最初に目に入ったのはどこかの国の国王とその家族、更には背後に2体の仁王像が配置した石窟(写真11.5-3-2)でありました。

そして、次に現れたのが、千体仏が壁面全体に彫り込まれた石窟(写真11.5-3-3)であり、これまで見たことのある石窟寺院の形式と同じであった。 石窟寺院の場合、石窟内にも入ることができ、内部から、像の背面を含めて仏像や飛天像を拝観できる場合が多いが、ここのは、それほどの広さは無く、窟の前面から窟内を眺めるだけであった。

“石刻”と“石窟”との差異はどの様なものか、宝頂山以上に差異が少ない様に感じた。 中央に天蓋と光背を備えた本尊としての仏像、それを囲む様に配置した飛天や脇を守る諸仏が一つの単位となった窟(写真11.5-3-4、11.5-3-6)が現れた。
 
そして青い彩色が残っている窟(写真11.5-3-5)は千手観音を中心に飛天像や、羅漢像が精緻に彫られていた。青い彩色は既に多くの部分が剥げ落ちているが、剥げ落ちる前のこの石刻像を見て、どのような気持ちで拝仏したのだろうか。青い彩色用材料はラビスラズリかも知れない。


C)仏の佇まい、仏教の教え  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>写真番号は上記URLをご参照下さい
 
いずれにしても、ここ北山石刻は、宝頂山の“三界“、六道“と言った人の所業に対する戒めを表したものではなく、仏の佇まいを丁寧に刻んでいるようであり、安心して拝観できるのでありました。

そして次に現れた石碑(写真11.5-3-7)は、仏教の教えを刻していることが、いくつかの知っている漢字から読み取れました。

小さな単位の石窟には、本尊仏があり、その脇を固める脇侍仏、そしてさらにその周囲の天蓋近くに飛天、石窟壁に地方神という構図が多いと感じていたら、そうではなく、本尊はなく、同じような複数の菩薩像が並設された単位の窟(写真11.5-3-8)や、本尊が二体という単位の窟(写真11.5-3-9)もあったと思います。

恐らく窟を寄進した人物の仏への想いの違いが出ているのだろう。自分自身を、夫婦を、子、親等の家族全体を、一族をと、安寧を祈り、祀る単位の違いによって窟内の景色も変わってくるのでしょう。

それと、寄進者の財産力の違いも勿論あったに違いありません。天蓋にも、石窟壁にも飾り佛(かざりぶつ)はなく、本尊には光背の代わりに椅子という極めてシンプルな窟(写真11.5-3-10)もいくつかありました。 

そして後半の窟はほとんどが最初の窟同様、本尊がいて、それを周囲で守る脇侍としての仁王像、本尊の生活道具を持った召使仏など、天蓋、石窟壁とも隙間なく大小の仏像が石刻像として並んでいました。
 
窟内に入って拝仏することも可能なほど大きな窟(写真11.5-3-11〜11.5-3-20)もいくつかあった。無論、観光客がその様な空間に入って拝観することはできない。最後に180度振り返り、観光客用通路の写真(写真11.5-3-20)を撮った。
 
そして、北山石刻景区の北辺に至り、景区内の小さな池の南畔を東の方向に歩き駐車場に至った。現地時間PM3:30頃でしたが、今回の旅行の最終泊の地、重慶市内に向かいました。先ほどまで、観光していた大足石刻も同じ重慶市にあり、その中心部までは車で一時間程度でありました。

以上、石窟と石刻は異なるものの、ともに、仏教または仏教の教えを後世に伝えるための文化財について、筆者が探訪したことのある石窟寺院や石刻寺院について紹介しました。

中国では、仏教の他に道教、儒教、そして現在は殆ど形跡がないが、道教へと変身した太平道、五斗米道と、歴史に残る地元宗教もあり、それぞれ中国の歴史の過度期に登場してきている、と言いますか、中国歴史を動かした、と言えます。
 
更には、外来宗教として、イスラム教、景教、マニ教、ユダヤ教はシルクロードという文化の交叉路を伝って、東へ東へと伝播して伝播の途中の地や、中国東端の地に伝播し、更には日本にも古代より様々な形で影響を及ぼしてきています。

またインド発祥の仏教においても、いわゆる南伝仏教(上座部仏教又は小乗仏教)、そして北伝仏教(=大乗仏教、密教)、更には雲南省から長江に沿って東シナ海沿岸都市へ伝播した雲南仏教や同じ大乗仏教に属するチベット仏教があり、チベット仏教は、雲南仏教とも相互に影響を及ぼしたと考えられます。
 
筆者は雲南省昆明や大理、麗江などを二度に亘って、訪問していますが、その地の田畑を耕作する時の身のこなしを観たり、人々が話す時のイントネーションや咳払いの音を耳にしたり、自然の風景を見たりすると、ありえないことなのに。 自分が生まれる前の、日本のかつての田園風景を懐かしむ気持ちになったのを思い出します。恐らく自分のDNAにメモライズされているのでしょう。

31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
では、ここで、上記の種々の宗教について触れておくことにします、
図にインド・中国・日本を中心とした発祥信仰・外来信仰・土着信仰・伝播信仰などとしてまとめてみました。この内、長江(雲南)仏教(※5)と武神信仰(※9,※10)は正式な文言ではなく便宜的に付けた呼称です。
※1.インド発祥の仏教(※0)は4つの形態で中国に伝播した。
※+数字 はチャート図に示した伝搬ルート番号を示しています。
 
【その1】
ガンダーラや大月氏国を経て中国北部に伝播し、シルクロードで、中国外来信仰としてのマニ教(※7)、ユダヤ教(※8)、景教、キリスト教、イスラム教、あるいは中国土着信仰の道教(太平道や五斗米道を含む)や儒教と影響しあいながら大乗仏教(北伝仏教)として、中国東部に伝播(※1)して行き、朝鮮半島経由で倭国に伝播したり、京抗大運河を南下したりして東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※4)を及ぼした。
 
【その2】
タイやスリランカ等の南アジア諸国経由の南伝(上座(じょうざ))仏教が雲南省に至り、そこで、それらの信仰に更に隣接したチベット仏教(※3)の影響を受け稲作(いなさく)文化等の衣食住文化とともに、長江を下り、東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※5)を及ぼした。
 
【その3】
南アジアのタイ、スリランカ、ミャンマーを伝搬し、途中中国南シナ海沿岸地域に寄港しながら、東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※6)を及ぼした。
※2.インド発祥の仏教は、チベットにも伝搬し、大乗仏教に近い独特の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響を及ぼした。
 
【その4】
インド発祥の仏教がチベットにも伝搬(※2)し、大乗仏教に近い独特の信仰を作り上げたが、時代的にはその3までの伝搬に遅れてチベットで独自の信仰として教義の進化を遂げ、独立性を重んじたチベット仏教を形成し、現代に至っているが、倭国へは遠く、影響はほとんどない。
 
32)異なる信仰(宗教)間の習合
 
倭国には土着信仰として八百万神、ユダヤ教の影響をうけたとの見方がある神道、更には坂上田村麻呂に因む田村神社や八幡太郎義家等源氏を祀る武神信仰(※10)、菅原道真等の学問の神を祀る天満神社
等の学問の神信仰神社(※11)、更には海難から守る神を祀る海神信仰神社(※12)(宗像三女神、金毘羅があるが、中国でも武神信仰はあり、三国志での英雄関羽(※9)は中国各地に釈迦や老子とともに祀られているところを見かけることがあったが、明清時代に造られたものが多い。関帝廟が横浜にもあるが、観光価値であり、信仰的価値は少ないと思う。
 
以上の内、自分のブログ「槐の気持ち」に取り上げた「マニ教」(※7)と、ヒンズー教と仏教の関り(※0)について、以下に抜粋転記して紹介します。
 
@)マニ教(※7)
【D3-4:トルファン・ゼベクリク千仏洞】 写真は左記URLをご参照下さい
北京時間11:00少し過ぎ、ゼベクリク千仏洞の入り口の直前のところの光景から火焔山(かえんざん)の麓に位置することが分かる(写真上1)。すぐ近くで見ると火焔山の縦縞や断層、そして火に焼けたような色が眼前に見える。
ゼベクリクというのは、ウィグル語で「装飾された家」の意味らしいが、確かに外観の造形美を感じる(写真上2)。6〜14世紀に造られた83箇所の石窟があり、40箇所に壁画があるとの話であった。そのうちの数箇所を拝観したが、イスラム教徒によって破壊された顔面の無い仏の姿は無残である。・・・中略・・・、また時代を遥かに遡ること7世紀末にはマニ教がこの地トルファンで栄え、この千仏洞にはマニ教石窟も造られたが、マニ教徒がトルファンでの最大勢力の仏教を次第に受け入れ、マニ教石窟は仏教石窟へと造りかえられたとのことである。マニ教は仏教との接点が多く、「叡智を重んずる」、「殺生をしない」、「他者を重んずる」、「自らを省みる」といった共通の教義をもっていたとのこと。

壁画は西ウィグル王国時代(9〜11世紀半ば)のものが多く、花を手にしたウィグル教養人を描いたものが多く、その内容は仏教の大乗経典の因縁物語、経変画、千仏が描かれているとのこと。アスターナ古墓群の壁画に、花鳥図が描かれていたのを思い出した。

 ゼベクリク千仏洞は太陽光線を受けると、黄赤色に染まる(写真上3)。背景の山も赤く焦げ付く。約一時間観覧し、帰途につく(写真上4)。
 
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
「4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)」より。ブログ「釈迦の生涯を訪ねて」の表現を使わせてもらうと、「ガンジス河(ガンガ)は、インドで最も聖なる河で、全ヒンドゥー世界の神聖な水の源流で、母なる女神として崇められています。

ヒンズー教徒が等しく信じている玉条のひとつに「ガンガの聖なる水で沐浴すれば、あらゆる罪業は清められて消滅し、ヴァーラースィーで死んで遺灰を流せば、苦しい輪廻から解脱することができる」があり、年間百万人を超す巡礼者の中には、この地で死ぬことのみを目的とする人も珍しくありません。」となる。

ここは沐浴をする人たちだけでなく、死者を荼毘に伏す場(火葬場)があったり、河に遺灰だけでなく遺体そのものが流れてきたりすることもある、と聞いていただけに、薄気味悪い印象があった。

しかし、ガンジス河の川べりに出た時、その意識は無くなり、むしろ,何故か、厳粛な気持ちになれた。・・・中略・・・。ヒンズー教は信者の数では、キリスト教、イスラム教に次いで多い。仏教はどうしたかというと、始祖(しそ)である釈迦は、ヒンズー教の三大神の一つであるヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。

インド憲法25条には、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。そういうことであれば、仏教徒よりもヒンズー教徒の方が圧倒的に信者の数が多くなるのも当然である。

ヒンズー教の三大神というのは、世界維持の神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗るヴィシュヌ神、創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディンのシヴァ神、そして、世界創造の神、水鳥ハンサに乗った老人の姿で表されるブラフマー神である。三大神いずれも化身や分身を持つ。

仏教で吉祥天と称されるラクシュミーは、釈迦と同様、ヴィシュヌ神の化身であり、仏教で、大黒天と称されるマハーカーラは、シヴァ神の化身、弁財天と称されるサラスヴァティーは、ブラフマー神(梵天)の神妃である。

更に、歓喜天(かんきてん)(聖天(しょうてん))は、シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司るガネーシャ、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)と称されるインドラなど、仏教で〇〇天と称される仏は、殆どヒンズー教の三大神やその神妃、および、それらの分身、化身、更には。3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神などに対応している。

また、身体の大きさを自由に変えられ、外見が猿で、ヴィシュヌ神の化身であるラーマを助ける孫悟空の元になったと考えられるハヌマーンもヒンズー神の一員であるが、これに対応する仏教の〇〇天は聞いたことはない。

〇〇天と言うように、“天”の文字のつく仏は、如来や菩薩と異なり、人に直接作用するのではなく、如来や菩薩の活動を助ける存在なのだそうだ。ヒンズ−教に於いて、ヴィシュヌ神の9番目の化身とされている釈迦の活動を邪魔する相手とは戦う必要もある。従って、〇〇天の元祖は多くの場合、鎧(よろい)を
身に着け、手には武器を持っている場合が多いのだろう。
 ・・・以下省略・・・    
 
B)長江(雲南)仏教
雲南省民族は、日本人のルーツという説もあるくらい日本との共通点が多い。司馬遼太郎は「街道を行く、雲南の道」で雲南省の歴史、地史、民族性、風土、信仰などについて。約80頁に亘って、記載しています。筆者は初めての雲南省旅行前に、この著に訳80頁に亘って記載された雲南省の特性に
ついて、気になる項目を、予習のつもりで項目内容や、まとめを抜粋転記して
自分のブログ「槐の気持ち」に記載しているので、ここでその主な項目を再記します。

ページ 司馬遼太郎 「街道を行く 雲南の道」抜粋転記


153 雲南省  山も谷も湖もタイ語系やチベット系の人達の天国であった
155 武帝のころ  貴州省、雲南省一帯を「西南夷」と呼んでいた
魚を食べ、それも刺身で食べる
雲南省 長江の上流 江南まで下って勢力をつくったのが、呉と越
163 漢の使者に対して、滇王嘗羌は「夜郎自大」

177 睡美人(西山) 風景を比喩して文学化することは漢民族文化の特徴
179 南詔文化は稲作と青銅冶金を基底とし、中国文化、中国仏教を摂取しつつ、チベット文化、タイ語系文化、インド文化の影響
唐代、南詔国は「吐蕃」の後押しを受け、唐にそむきかねない
187 西山に道観(道教の寺) 山岳信仰 東アジア古代に共通した信仰が根で、日本の原始神道とも血縁関係?
211 雲南の松茸   松蕈(ソンスン)、松蘑(ソンモ)  キノコ=蘑、菌    松茸菌(スンロンジュン)
214 蒟蒻 雲南省が自生、栽培の本場
217 22の少数民族 日本稲作文化の祖
雲南民族博物館:耳杯 漆器の出土品  漆技術の源流は稲作少数民族か
雲南民族博物館:古い青銅器 石賽山古墳群からの出土 貝殻が通貨、それを貯える貯貝器を争う情景が鋳金されている
222 雲南民族博物館:雑技 蛇を踏まえて踊る二人 蛇信仰 「散楽」、「夷楽」 日本の「猿楽」に展開[奈良時代)
223 跪座(正座):  胡座(あぐら);北方、イラン系民族の座り方 その影響で、土間に椅子、テーブルを置く生活
229 漢民族の素形を作った有力な要素として古代羌族があったのでは
イ族は雲南省だけで300万人 その中にサメ族
「牧畜系のチベット族を除いては、ほとんど稲作民族であり、いまもそうありつづけている。かつ魚を食べ、それも刺身で食べる。その民族が日本人に似ていることで、雲南省で稲作する少数民族民が私どもの先祖の一派ではないか、という仮説は、こんにち日本の多くの文化人類学者から魅力をもって唱えられているか、支持されている。」と言われています。

その雲南省から長江を伝って東シナ海沿岸都市例えば蘇州にまで来て、そこからは、東シナ海にそって北東方向に海路移動すれば、日本に来ることは不可能ではない。あるいは、東シナ海沿岸に出る前に少し南にそれて、杭州や福州に至り、そこから、台湾、琉球を経て海路倭国まで渡ってきた雲南人や、他の中国内地から長江へ辿り、そこからは同じ経路で倭国に至った人たちも居たに違いない。

彼らは雲南省の衣食住文化や信仰も一緒に長江経由で倭国にもたらした可能性は大である。信仰は北伝と言うよりは、タイ、ミャンマー、ベトナム等の南アジア諸国経由の南伝仏教に近いと思われます。

従って小乗仏教的な教えが強く伝えられ、古代から、自分に向き合う内省的な教えが伝承された、と考えて良いのだろうと思っています。

中国東シナ海沿岸の寧波市にある阿育王寺を訪れたことが、ありますが、中国中原地域にある寺院に比べなんとなく赤青黄色の原色を使った佇まいというより、原色の程度が弱い配色が使われている様に感じたのを覚えています。

阿育王寺は仏舎利信仰のメッカであり、これに関しての日本との交流のエピソードがあるので以下に紹介します。

C)仏舎利信仰
 阿育(アショカ)王信仰と日本の関係において次の記事が初出としてよく用いられます。

隋の大業年間(605〜17)に倭国の官人会丞(かいじょう)が留学に来ており、内外(仏教以外の学問と仏教)にひろく通じた。貞観5年(631)に本国の道俗7人とともに帰国の際に、都の僧侶が倭国の仏法について尋ねたが、その時に阿育王の八万四千塔が全世界に及んだというが、倭国にも阿育王塔があるかと質問すると、「我が国の文献に記載はないが、土地を開発するたびに往々として古塔の霊盤(れいばん)が出ており、それが光を放って多くの奇瑞があるから、あるのだろう」と答えている(『法苑珠林((ほうえんじゅりん)』巻第38、敬塔篇第(けいとうへんだい)35之2、故塔部(ことうぶ)第6)。
 
弘仁12年(821)5月11日に播磨国で高3尺8寸(114cm)の銅鐸が発掘されているが、これを僧侶が「阿育王塔の鐸である」と述べたといい(『日本紀略』弘仁12年5月丙午条)、また貞観2年(860)8月14日に参河国渥美郡村の松山の中で出土した高さ3尺4寸(102cm)の銅鐸が献上されているが、これも阿育王の宝鐸とされたという(『日本三代実録』巻4、貞観2年8月14日辛卯(しんぼう)条)、
 
このような銅鐸発掘の例は古くから記録があり、崇福寺(そうふくじ)建立に際して銅鐸が発掘されているように(『扶桑略記』第5、天智7年正月17日条)、寺院建立に際して銅鐸の発掘が奇瑞とされた例として、他には石山寺があるが(『石山寺流記』)、阿育王との関連がなされたのは平安時代前紀からのことであり、その発端は奈良時代後期にあった。

 日本において本格的な阿育王舎利信仰の契機となったのが、天平勝宝6年(754)の鑑真の日本行きである。彼の請来した物の中に如来肉舎利が三千粒、阿育王塔様の金銅の塔一基があるが(『唐大和上東征伝』)、前述したように鑑真は阿育王寺に逗留しており、これが阿育王塔様の塔請来に繋がったとみられる。
 
なお。天平3年(731)8月10日に阿育王経五巻の写経が行なわれているが(「写経目録」正倉院文書続々修十二帙三〈大日本古文書編年7〉)、膨大な写経事業の一環とみるべきで、必ずしも阿育王舎利信仰との関連が見出せるものではない。

【称徳天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万塔陀羅尼(だらに)造立事業エピソード】
また称徳天皇による神護景(じんごけい)雲(うん)4年(770)の百万塔陀羅尼造立事業も阿育王八万四千塔との関連が指摘される。

【東近江市石塔寺エピソード】
 阿育王寺を最初に訪れた日本人が誰であったのか不明である。中世の説話であるが、寂照(じゃくしょう)(962頃〜1034)は阿育王寺を巡礼して池の前に至ると、寺僧から日本の近江国蒲生郡の塔が池に光明とともに浮かんでくると言われ、そのことを寂照は書き記し、箱に入れて海に浮かべた。三年後に熊野山那智浦に着岸し、これを源信(942〜1017)が開けたという(『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』石塔寺(いしどうじ)再興事記)。

【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
実際に咸平6年(1003)に、日本国の僧寂照が源信の「天台教門致相違問目二十七条」を延慶寺知礼(960〜1028)のもとに遣わしており(『四明尊者教行録(』巻第1、尊者年譜、咸平6年条)、延慶寺と近かった阿育王寺のもとに赴いた可能性があるが、この説話をもって寂照が阿育王寺に巡礼した証拠とするのは、いささか無理がある。

【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
前述したように、阿育王寺を能忍(のうにん)の弟子が訪れているが、その後日本における阿育王寺信仰に重大な役割を果たしたのが重源(1121〜1206)である。

重源は入宋して阿育王寺を訪れており、帰朝後の寿永2年(1183)正月24日に九条兼実(1149〜1207)に阿育王寺の様相と現地の信仰について述べており(『玉葉』寿永2年正月24日条)、また周防の国の材木を送って阿育王寺舎利殿再建の材としている(『南無阿弥陀仏作善集』)。

【祇園(ぎおん)女御(にょうご)、平清盛(たいらのきよもり)伝承エピソード】
白河法皇が得た仏舎利2,000粒のうち、1,000粒は阿育王寺から得たものであり、以後祇園女御(生没年不明)、平清盛(1118〜81)らに伝承されたという(「仏舎利相承図」胡宮神社)。

【平重盛/源実朝エピソード】
また平重盛(1138〜79)は阿育王寺の拙庵徳光に金1,000両を寄進したといい(『平家物語』巻第3、金渡)、建保4年(1216)6月15日に源実朝(1192〜1219)と面会した陳和卿(生没年不明)が、実朝の前世を阿育王寺の長老(住持)であったと述べている(『吾妻鏡』建保4年6月15日条)。

【道元阿育王寺行エピソード】
道元(1200〜53)は嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)夏に阿育王寺に行ったが、西廊の壁間に西天東地三十三祖の変相が描かれているのを見ている(『正法眼蔵』仏性)。

無本覚心1207〜98)も淳祐10年(1250)阿育王山に赴いて2年間滞在しており(『鷲峰開山(しゅうほうかいざん)法灯円明国師(ほうとうえんみょうこくし)行実年譜』淳祐10年庚戌条)、以後中国に渡った禅僧は阿育王寺に滞在する者が多かった。

【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼と鐘楼の併設】
訪れた阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点があることに気がついたので、ブログ「槐の気持ち」から抜粋転記して紹介したいと思います。尚写真番号はブログ記載のものです。

「・・・、しかし、この西塔と東塔のアンバランス感は一体何なのだろう、何かの間違いかも知れない、と思い、ウェブでキーワード検索をしてみた。そうしたら、维基百科なる中国語ウェブに、「至正二十五年(1365年)建的砖塔,高36米,七层六面。东塔七层八角,1995年竣工」とあることが分かった。

即ち、西塔は7層六面、東塔は7層八面でしかも20年ほど前に竣工したばかりなのである。色は西塔がだいだい色、東塔があずき色で最初に見えたのと同じである。

度重なる火災、世を統べる建築主(統治者)の思想によって修復のされ方が異なるのだろう。しかし、異国からの旅行者が統治者の思想を推測することは不可能である、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にあるもう一つの堂宇が羅漢堂(写真10.31-8-1)であり、内部には金ピカに輝く無数の仏像が配置されていた(写真10.31-8-3、8-4)。

 又、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にある更にもう一つの堂宇が阿育王寺鼓楼(写真10.31-8-2)であり、鼓楼とは城郭、都市、宗教施設敷地内などに建てられる、太鼓を設置するための建物で、太鼓を鳴らすことによって、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たした。

一方鐘楼は寺院内にあって梵鐘を吊し、時を告げる施設であり、時を告げる役割は共通している。この寺院には両楼があり、不思議な印象を受けた。・・・以下略。
       第5回 完 第6回に続く



 

 







2022/06/11 22:20:02|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その4)
         倭国(日本)への仏教伝来の道程(その4)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、33項、   大項目番号 項目タイトル  で表し、
大項目内に中項目を    中項目番号 中項目タイトル        で表し、
更に中項目内に小項目を  【小項目番号 小項目タイトル】    で表しました.

  
前回までの第一回と第二回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回は以下を取り上げました。
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回は以下を取り上げました。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝菩薩(こうていぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

更に、前回(第三回)取り上げた項目は以下の通りです。
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
そして、今回(第四回)は以下の項目について取り上げることにしました。
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
 

27)洛陽の地史と歴史、九朝古都   

    <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記> 以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと
九朝古都(きゅうちょうこと)と呼ばれ、古くは紀元前770年の東周に始まり、後漢、魏、西晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の歴代九王朝、七十人の帝王が都を築いたのであった。それだけに、出土された文物は多彩で、日本の特別展で目にしたものも多いに違いない、という期待を抱いて、洛陽博物館を訪れた。
 博物館に入って最初に目に入ったのは、「洛陽古代都城形勢図」という地図(写真下)であり、王朝ごとに、その都城域の輪郭が色線で示されている。最も大きいのが「隋唐洛陽城」であり、朱色で囲われ、その西側に、1/4程度のスケールの「周王城」が紫色で囲われ、ともに洛河(らくが)の北側に位置している。さらに東には、同じように洛河の北側に位置する「漢魏洛城(かんぎらくじょう)」が、白馬寺(はくばじ)を飲み込むかの様に緑色に輪郭線が描かれている。

更に東には、偃師周城(えんししゅうじょう)が、やはり洛水の北岸に位置し、周王城の1/2くらいの面積を青色で輪郭表示されている。洛水は、少し南西の地点で伊水(いすい)と合流し、伊洛河(いらくが)という河になって東に向かい黄河(こうが)に合流して行く。そして伊水に沿って西に遡ると「二里頭(にりとう)遺跡」が所在する。

「二里頭遺跡は紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の歴史上の夏・殷の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。しかし歴史上の夏王朝の人名を示す文字資料は出土していない。」とWikipediaに紹介されている。

そして今度は伊水に沿ってさらに遡ると、諸葛(しょかつ)という地名を過ぎて伊水が南に湾曲し始めるあたりに三国志の英雄関羽を祀った関帝廟があり、伊水が南下してまもなくの地点に竜門石窟(りゅうもんせっくつ)が位置している。

そして関帝廟と竜門石窟とを結ぶ直線のちょうど北方に隋唐洛陽城(ずいとうらくようじょう)が位置している。洛陽博物館 はこの 隋唐洛陽城 領域内にある。以上の様に地図には示されていていた。・・・中略・・・、

中国人は古代から音楽好き、というより器楽の演奏はまつりごとに欠かせない小道具であり、器楽団を擁することは地位の象徴でもあったのだろう。伎楽坐俑(ぎがくざよう) は河南地方の博物館にはポピュラーと言える。

ここ洛陽博物館では「伎楽坐俑」だけでなく、奏でる音楽に合わせて踊る 舞踊俑(ぶようよう) がセットになって展示されていた(写真左)。その躍動感にはしばし見とれてしまった。そうかと思うと、数人の男性楽士の演奏に合わせて踊り呆ける男たちの像(写真右)はなんとも微笑ましい。隋唐時代の人物俑の表情や仕草は実に微笑ましい。精神的な充足感漂う時代であったのだろう。

あるいは葬られた死者が黄泉(よみ)の世界でもおかしくて仕方がないような気分になるように、それをみると笑いころげてしまう仕草を必死になって作り上げられた表情なのかも知れない。死者となった者を必死に喜ばそうとする精神は石窟寺院の壁画に描かれる飛天を描画する精神と一脈通じているようにも思える。

@) 洛陽 白馬寺  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
          以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと
今年の春は、北京最古の仏教寺院で観光客があまり訪れない「法源寺(ほうげんじ)」を訪れたが、今度は中国最古の仏教寺院である白馬寺を訪問した。

白馬寺(はくばじ) は、先記したように、洛河の北側に位置する 漢魏洛城(かんぎらくじょう) の中に包みこまれる様に建立されていて、後漢の明帝(みんてい)の時に創建されている。

この白馬寺は北方謙三(きたかたけんぞう)著「三国志」にも度々出てきて参考になる。この黄河流域は、 三国志時代の初期の頃は、五斗米道(ごとべいどう)や、太平道(たいへいどう) と言った大衆宗教が栄え、これらの宗教をよりどころとした 黄巾の乱(こうきんのらん)  などの反乱が各地に起こり、曹操も劉備も 孫堅(そんけん) も鎮圧に加勢しながら勢力を広げていった時代があった。

曹操の手下(密偵集団)の中に石岐(せきき)という名の仏教(当時は浮屠(ふと)と呼ばれた)を信ずる者がいて、生涯曹操の手足となって働くことを約束するのであるが、その交換条件として、曹操が天下を平定した暁には、浮屠の信者のよりどころとするための建物を、各郡に一つ欲しい、と約束させたのでした。

この時期、仏教は漢族の間ではまだ広まっていなかったが、遥か西方の異民族月氏(げっし) の中では信仰が広まってきている。その月氏が匈奴に追われ、この地域に逃げ込んでいて、彼らを祖先とした一族のよりどころとなっていたところが 白馬寺 で、曹操 はこの 白馬寺 を、月氏一族が集まる場所程度だと思っていた、と北方謙三の「三国志」にはある。

この見方が北片謙三の創作なのか、何かの文献に基づいているのかは分からないが、観光案内に書かれた白馬に乗った二人の 天竺僧(インド人) が経典と仏画を携えて入洛したのに因んで、白馬寺と命名された、という説とはいささか隔たりがあるように思う。説得力は北方三国志の方があるように思う。もう少し時代が下って五胡十六国時代、北魏時代などの異民族国家は盛んに仏教を保護し、漢族との融和政策にも利用した地でもある。

一方で、迦葉摩騰(かようまとう) と 竺法蘭(じくほうらん) の二人の僧が、白馬に乗り 四十二章経(しじゅうにしょうきょう) という経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んで、白馬寺と名づけられた、という説の、『四十二章経』の序文に、明帝が大月氏(だいげっし)に使者を派遣して写経させたとする記述があるので月氏が関係していることは確かの様で、後漢の明帝の、仏教の中国伝来に関する 感夢求法説話(かんむぐほうせつわ) の部分があやふやなのではあるまいか。

境内には 天王殿)・大仏殿)・大雄殿と言った伝統的な 四合院(しごういん)形式 による建物が歴史を感じさせてくれる。

東側に金代の大定15年(1175)建立の 斎雲塔(せいうんとう) と言う石塔が建っている。四角13層、高さ24bで、この寺院のシンボルとなあっている。白馬寺鐘声(はくばじしょうせい)・『洛陽八景』の一つとされている。明朝・嘉靖(かせい)34年(1555)の鋳造(ちゅうぞう)で、重さ2,5d。

面白いことに、この鐘の音にこたえて洛陽東門にある鐘も共鳴すると言う。二つの鐘の共振周波数が同じなので、こういう現象が起きるそうだ。ここでは「白馬寺の鐘音(しょうおん)、西にこだます」と言われているらしい。

・・・中略・・・。清涼台  から更に奥に進むと、建物の名称は確認できなかったが、ここで、先記した「浮屠(ふと)」という文字を発見した(写真2b)。建物の入り口の両柱に対聯(ついれん)があり、右側の柱には「金人入夢白馬駄経」と、左側には、「讀書台高浮屠地廻」と刻まれていることに旅行後写真を整理しているうちに発見した。実はこの写真はこの対聯を撮るべくして撮ったのではなく、たまたまあとで写真を拡大したら、「浮屠」という文字が偶然眼にはいったのであった。こういうことが旅行後の楽しみなのである。・・・中略・・・。

そして更に先に進み円形の出入り口をくぐり、少し行くと空海の像(写真3a)が眼に入った。像の台の側壁には「中日友好25周年」と記されていた。空海も遣唐使の一員として中国の地を踏み、この白馬寺を訪れたことが事実ということであろう。・・・後略・・・。
 
A)龍門石窟寺院   <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
          以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと
敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟、そして今回の洛陽の龍門石窟で中国三大石窟寺院を制覇したことになる。またこのほかトルファンの ゼベリクス千仏洞 を含めると4つ目の石窟寺院訪問となる。

最初に目に飛び込んだのは、水量豊かな伊河とそれを東西に跨ぐ石橋であった。河の両岸には当然の様に、柳の青葉が垂れ、揺れていた。その石橋と、歩行してきた道路が交差するところが入場門となっていて、入場門の門脚が石橋の支えを兼ねていた(写真1b)。そしてその幅広の門脚には石窟の配置が示された「龍門石窟遊覧示意図」と、この石窟の由緒が記された「龍門石窟介紹」が彫られていた。

これらの案内によると、『洛陽市の南十三公里(5.2km)のところにある龍門石窟は伊河を挟んだ東西に分布し、西側が龍門山、東側が香山(こうざん)となっていて、それらの山の壁に多数の窟が彫られている。龍門石窟は北魏時代西暦493年に、都が平城(現大同)から洛陽に遷されたのがきっかけに、大同の雲崗石窟を継続(移設)する形で掘られたのが最初である。

 その後、東魏、西魏、北斎、隋、唐、北宋の諸朝に亘る4百余年に亘って造窟が継続された。現存する窟の数は東西合わせて2300余りとなる。佛塔は80座余り、題記(だいき)が刻まれた碑は2800余塊、造像は11万尊、全造像の30%が北魏時代に造られているが、とりわけ有名なのは、古陽洞(こようどう)(1443号窟)、賓陽中洞(ひんようちゅうどう)(140号窟)、蓮花洞(れんかどう)(712号窟)、魏字洞(ぎじどう)(1181号窟)、皇甫公窟(こうほこうくつ)(1609号窟)などがある。

全体の60%程度の窟は唐代に造窟されていて、その代表的な窟は奉先寺(ほうせんじ)(1280号窟)、潜渓寺(せんけいじ)(20号窟)、万佛洞(まんぶつどう)(543号窟)、極南洞(ごくなんどう)(1955号窟)、大萬伍佛洞(だいまんごぶつどう)(2055号窟)、高平郡王洞(こうへいぐんおうどう)(2144号窟)、・・・・・。

また龍門石窟は造像題記(ぞうぞうだいき)の数が多いだけでなく、多様な書体、例えば魏碑体(ぎひたい)や唐楷書体(とうかいしょたい)は芸術的書体とされ、龍門二十品(りゅうもんにじゅっぴん)と伊関佛龕之碑(いかんぶつがんのひ)は芸術的代表作品とされている。・・・。』ということになる。中国の名所の案内は殆どが繁体字で書かれているので、大体何が書かれているか分かり有り難い。

竜門石窟研究所編著による「龍門石窟芸術」なる小冊子には、『竜門石窟は、すでに1500年の歳月が経ち、自然環境の変化の影響を強く受け、多くの被害を受けている。また30年代前後憚りない盗難にあったため、完璧なものは滅多にみられなくなった。盗掘された跡は800箇所にのぼる。』とあるが、盗掘と自然環境の変化の影響を比較すると後者の方がより深刻だったのではあるまいか、と後日某小冊子を見ながら思った。

敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟は窟内に入り、窟内壁に掘られた仏像や色彩豊かな壁画を拝観し、記憶に留めることが出来た。しかし竜門では窟内に入り込み、じっくりと仏像を眺める空間がなかった。あとで、「龍門石窟芸術」なる小冊子を見ると、飛天像や楽士像など興味ある彫刻はあるにはあったのだ。しかし、気がつかなかったのだろう。残念至極。

ところで、この稿を書いている最中の12月2日 平山郁夫(ひらやまいくお)氏が逝去された。敦煌の莫高窟 の保存に尽力した活動は有名だ。もし平山郁夫氏が、この竜門石窟寺院の荒れ果てた景観をみたら、どんな感想を持ったであろうか。この様な歴史遺産を風食から守る技術の開発にもっともっと力を入れて欲しい。

そして、急激な経済発展は、歴史的風土や歴史遺産の破壊、自然破壊につながり易い。GDPの何%かあるいはサブ%は、経済発展による歴史的風土や歴史遺産の破壊を予防する基金にまわしてもらいたい。そんな声を片手に「仏教の悟し」を手にし、もう片手に絵筆を握りながら念じていたのではないか、と思ってしまう。是非、「竜門石窟研究所」には優秀な保存技術を開発していただきたいものである。

そんなこととは裏腹に、前を流れる伊水との景観のマッチングは素晴らしく、莫高窟や、雲崗石窟が持っていない景観をもっていて、香山(こうざん)側に、白居易が寓居(ぐうきょ)を構えた気持ちが理解できる。

唐の時代には石窟自体もっと色彩豊かで、仏像の輪郭ももっとはっきりとしていたであろう。きっともっとピカピカ輝きのある姿を放っていたに違いない。そんな妄想を抱きながら、摩崖三仏龕(まがいさんぶつがん)と伊水とが結合した風景として捉えてみようとして写真を撮ってみることにした(写真2b、2c)。そして他の観光客がやっているようにポーズをとってみた。(写真2d)

雲崗石窟の石塔は北魏時代平城京には3000人を超える仏教僧がいて、壮大な伽藍が立ち並び、それらを、模し、デフォルメして表現されたという見方ができるのなら、ここ龍門石窟は洛陽に立ち並んだ伽藍を模し、デフォルメして表現されたものといえる。

ただし、作られたのは唐代であり、都は長安が中心で、仏教僧も玄奘三蔵のように本拠を長安に置いていたので、北魏平城京の僧の思い入れに比較すると、唐代洛陽の僧の仏教に対する思い入れは一部の僧を除いて薄かったのではないかと思ってしまう。

それはともかく、更に北に進むと蓮花洞窟(れんかどうくつ)が現れた。洞窟の窟頂に配された、蓮花(れんげ)や北側の窟内壁に彫られた精細な佛龕群(ぶつがんぐん)が目に入った。注意深く釈迦像が胡坐(こざ)した足元を見ると、蓮花坐を力強く支える力士の姿が見られた。蓮花が施された天蓋部(てんがいぶ)は今にも剥がれ落ちそうな段差が見られる。

こういう状況を見ているうちに、もしも、この天蓋部が崩れ落ちたのを石窟研究所のスタッフが見たときどの様な気持ちになるのだろう、というお節介な心配をしてしまった。

しかし、次に足を運んだ奉先寺の彫像を見たとたん、その思いが一挙に吹き飛んでしまった。主面と左右前面が舞台になった劇場にいる錯覚に陥る。

また、なんとなく癒しが感じられる立体空間のようにも感じたのは自分だけでなく、地べたに腰を下ろし、安らぎを得ている人の姿もみられた(写真4a)。

正面舞台に、本尊の大盧遮那佛(だいるしゃなぶつ)、その左横に左脅侍菩薩(ひだりわきさむらいぼさつ)、力士像等の輪郭がはっきりした仏像が並んでいた(写真4b、4c)。大盧遮那佛は高さ17m余り、頭の高さ4m、耳の長さ1.9m、造型は豊満秀麗、荘厳雄大で慈しみに満ちている。右側の老僧迦葉(かよう)は慎み深く、左側の阿難(あなん)は淑やかである。

文殊、普賢両菩薩は派手やかな衣装を纏い、珱珞宝珠を飾っている。護法天王(ごほうてんのう)は身に鎧を固め、手で宝珠(ほうじゅ)を支え、厳めしくて、落ち着いている。金剛力士 は胸や腕を剥き出していて、芯が強く、気短で荒っぽい気勢が人に迫る。菩薩像の外側には一体ずつの供養人像があり、双髷(ふたまげ)を結び、長裙(ながはかま)を纏い、雲頭靴(どんとうくつ)を履いていて、微笑んでいる。

この一組の彫像は盛唐芸術の最高峰の地位を十分表わしている。』以上、龍門石窟研究所編「龍門石窟芸術」より。西側の見学を終え、目を北前方に遷すと緑に覆われた中州を配した伊水と、それを跨ぐ橋で構成された光景(写真4d)が目に飛び込んできた。

28)トルファン

@)高昌故城   <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
             以下文中写真は上記URLをご参照のこと
北京時間8:50に到着。早速中に入るとロバ車が待機しているのが見えた。ロバ車の御者はウィグル人であろう。カタコトの日本語で話しかけてくる。トルファン土着民の西方インドヨーロッパ系の文化、漢民族文化、イラン系文化を積極的に摂取し、外国語を習得する能力のDNAは今のウィグル人にも伝達されているのかも知れない。
      
   写真上1のロバが振り返っている方向に見えるのが高昌故城(こうしょうこじょう)の遺跡である。そこに至るまでの通路の両側の砂地には、タマリスクが所々に茂っている。目的の場所に到着、下車すると、リズム感溢れるウィグル音楽の演奏が聞こえてきた。

 音は大きな城門の中から聞えている。高昌故城にはそれぞれ異なる時代に築かれる三重の城壁がある。周囲5kmの外城の中央部にあり、外城東南角に、1万平方kmの寺院遺跡があるとのこと。

山門、庭、講経台(こうきょうだい)、蔵経楼(ぞうきょうろう)、本堂などがあるとのこと。どれが何かは分からないが、山門の前に立つと玄奘が講経台から高昌国王麴文泰(きくぶんたい)らに「仁王経(におうきょう)」を講釈している姿が目に浮かぶ。(写真上2)「天竺への道」の、麴文泰が玄奘に傾倒する様を読むと、玄奘の凄さが伝わってくるが、これだけ仏教が人の心を捉えた歴史はそれほどあるものではない。おそらくこの国には仏教が初めての信仰文化の伝来だったのだろう。

 トルファンは歌舞の町であり、早速、歌舞音曲を演じている観光客目当ての写真撮影に納まる(写真上3)。胸に右手を置くポーズをとると願いが叶うという。

「シルクロード紀行No.3トルファン」朝日新聞刊には、高昌故城のCG俯瞰図が紹介されている。

この図の何処に立っているのか分からないが(写真上4)、風食された建造物に時代の逆送りをして、ブラストされて飛び散った砂礫を元の位置に戻す処理をした時の佇まいを想像しても何も出てこない。もう一度来ると、もう少し輪郭のはっきりした佇まいが現れるかも知れない。
 
A)アスターナ古墓群   <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
              以下文中写真は上記URLをご参照のこと
「古墳群ではなく、古墓群(こぼぐん)です」という駱さんとの会話から見学が始まった。なんの変哲もない、砂礫だけからなる平地(写真上1)に斜坑の入り口が現れる。墓は500箇所ほどあったが、そこに眠る遺体は殆どミイラ化し、多くの文物や装飾品とともに発見されている。

墓の三箇所が展示され、観光地となっているのだそうだ。(「トルファン旅游」丁暁○編著:○は山冠の下にヒ)その一つの入り口から降りてゆくと、その突き当たりに鮮やかな壁画が現れた。

一つは花鳥(かちょう)を描いた4連屏風(びょうぶ)の壁画、もう一つは、六重屏風壁画(ろくじゅうびょうぶへきが)の戒め図である。どの様な戒めを説いているのか、自分たち自身に対する戒めか、後世の人達への戒めか、よくわからないが、多分、死後の魂が、生きていた時にしでかした愚行を再び繰り返さないようにという配慮で造られたものと解釈するのが自然の様に思われてきたが良くわからない。

 古墳内の壁画が一般に、死者を守る、死者の魂が彷徨(さまよ)わないように生活必需品を合葬する風習などから考えて、上記の解釈で良いのではないかと思われる。    
ここから出土された多くのミイラは新疆ウィグル民族博物館とトルファン博物館に展示されているとのこと。

 古墓群の周囲は現代的な中国風塀が現代人と古墓に眠る1000年以上も昔の人達を隔絶するようだ(写真上2)。 その塀の向こう側(現代側)に出てみると十二支像が立ち並んでいた。自分の干支の犬の前で写真に納まった(写真上3)。

 そして、猪(ブタ)の前に立つ駱さんの写真を撮らせてもらった。現代側には古墓群を見おろす観楼があり、最後に観楼から古墓群を眺め下ろした。(写真上)
 
B)ゼベクリク千仏洞  マニ教 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記 > 以下文中写真は上記URLをご参照のこと
北京時間11:00少し過ぎ、ゼベクリク千仏洞の入り口の直前のところの光景から火焔山の麓に位置することが分かる(写真下・右)。すぐ近くで見ると火焔山の縦縞や断層、そして火に焼けたような色が眼前に見える。

ゼベクリクというのはウィグル語で「装飾された家」の意味らしいが、確かに外観に造形美を感じる(写真上・右)。6〜14世紀に造られた83箇所の石窟があり、40箇所に壁画があるとの話であった。

そのうちの数箇所を拝観したが、イスラム教徒によって破壊された顔面の無い仏の姿は無残である。しかし、それ以上に各国探検隊によって剥ぎ取られた形跡も沢山あり、敦煌の莫高窟よりスケールが小さい。

因みに、現地観光案内書「吐魯番旅遊(トルファン りょゆう)」には、後者の破壊のことは記述されているが、前者の破壊については記載されていない。

 また時代を遥かに遡ること7世紀末にはマニ教がこの地トルファンで栄え、この千仏洞にはマニ教石窟も造られたが、マニ教徒がトルファンでの最大勢力の仏教を次第に受け入れ、マニ教石窟は仏教石窟へと造りかえられたとのことである。マニ教は仏教との接点が多く、「叡智を重んずる」、「殺生をしない」、「他者を重んずる」、「自らを省みる」といった共通の教義をもっていたとのこと。

 壁画は西ウィグル王国時代(9〜11世紀半ば)のものが多く、花を手にしたウィグル教養人を描いたものが多く、その内容は仏教の大乗(だいじょう)経典(きょうてん)の因縁(いんねん)物語(ものがたり)、経(きょう)変画(へんが)、千仏(せんぶつ)が描かれているとのこと。アスターナ古墓群の壁画に、花鳥図(かちょうず)が描かれていたのを思い出した。

ゼベクリク千仏洞は太陽光線を受けると、黄赤色に染まる(写真上3)。背景の山も赤く焦げ付く。約一時間観覧し帰途につく。(写真上4)
 
C)火焔山   <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>以下文中写真は左記
         URLをご参照のこと

これまでに観光した高昌故城、アスターナ古墓群(以上南麓)、ゼベクリク千仏洞(北麓)はいずれも火焔山(かえんざん)の麓にあった。

西遊記で火焔山ほど有名なところは無いだろう。三蔵法師と孫悟空らの一行が火炎に阻まれ、孫悟空が鉄扇公主(てつせんこうしゅ)、牛魔王(ぎゅうまおう)と戦い、芭蕉扇(ばしょうせん)で炎を消したという話の舞台となったところである。

トルファン最後の訪問地ということだったが、前記の様に火焔山は遠近双方から眺めてきたので、それで良いだろうと思っていたが、運転手の庫さんとガイドの李さんは、西遊記に因む「火焔山」という観光標識のある、即ち、三蔵法師の一行が通っていったであろうあたりを案内してくれた。
 
ゼベクリク千仏洞に行く途中に、既に火焔山を通行する三蔵法師一行の像が)見えていたが、帰途は下車し、赤黄色に焦げた砂礫の上に立ち、北京時間で丁度12:00頃の灼熱地獄を体感した。

李さんのガイドとしては、ここがトルファン最後の観光地となる。三人で火焔山の観光標識を背に写真を撮った(写真上)。火焔山の上空は真っ青な空が覆っていた。太陽の直射熱の凄さをうかがわせる。

 そして再度この青空と火焔山をバックに写真を撮った(写真上)。 考えてみれば、我が家は三息子、だれが、孫悟空、猪八戒、沙悟浄に似ているか。そして自分は三蔵法師? いやいや「あなたは白馬、私が三蔵法師」と家内に言われそう、などと思いながら火焔山を後にした。

  岩波文庫版「西遊記」は愛読書であるが、いつも飛ばしているのが、ところどころに出てくる詩の部分である。訳者の労で七五調とはなっているが、それでも理解するのは難しい。
火焔山が第60話、61話にも何回か出てくる。

29)響堂山(きょうどうさん)石窟寺院
               <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>

濮陽(ぼくよう)から車で3時間足らず、途中酷道に迷いながら、やっと石窟が山の上の方に姿を現した(写真1a)。この響堂山石窟は北と南に分かれていてややこしいことに、北響堂山石窟(きたきょうどうさんせっくつ)は河南省(かなんしょう)に、南響堂山石窟(なんきょうどうさんせっくつ)は河北省(かほくしょう)邯鄲市(かんたんし)にある。到着したのは南であり、従って、ここは河北省邯鄲市なのである。

3時間足らずだが車の中でじっとしていたので、手足が伸ばせるのと外の空気を吸えるのとで、ホっとした気持ちで車を降りた。 入場門(写真1b)には、「冀南名勝响堂山(きなんめいしょうきょうどうさん)」と記されている。北斉時代(550年―577年)につくられた仏教の石窟寺院と言われている。

丁度、北魏が滅亡したあとの南北朝時代の北朝側で東魏の後、北周に統合されるまでの間の27年間の短期王朝であった時代で、丁度日本に仏教が伝来した頃である。

長い石段をガイドの牛潞(ニューロ)さんはスイスイと登ってゆくが、還暦に消費税がついた様な年齢の自分にとっては、かなりきつい。行き交う他の観光客も殆どいないので、こちらが喘いでいる雰囲気がしない限り、快調なペースで歩を進める牛潞さんの後についてゆくのはしんどいのでマイペースに切り替えた。

響堂山(天宮峰)の中腹ほどまで上り、後ろを振り向くと、眼下に常楽寺の遺跡がうっすらと見えた(写真左)。天宮までの途中にある石窟の見学に留め、その先や、北響堂山石窟(きたきょうどうさんせっくつ)には足を伸ばさなかった。

この稿を記す為にウェブでキーワード検索したところ、南響堂山石窟は北に比較すると保存が悪く、スケールも小さいと紹介されているが、それでも仏像の顔や頭は残っているものも多く、その率は龍門石窟や、雲崗石窟より良いように感じた。また風食も比較的少なく仏像の顔面の平坦化も感じられなかった。

最初に見学した窟は刻経洞(こくけいどう)と呼ばれる窟で、仏像の人相は柔和さが無く、北方民族の武士の様な、しかめっ面に見えた(写真左上)。一方同じ仏像でも目玉は崩れ落ちているが、大仏坐像は色彩と立体感豊かであり、柔和な面差しが感じられた(写真左下)。そうかと思うと橙色と黄色がメイン色の比較的のっぺりした感じの塑像もあった(写真下右上)。

丁度仏教が篤く保護された北魏時代の様式からこれから移り変わってゆく隋唐時代の様式への遷り行く過渡期だったことのなせる業であったのかも知れない。

そして壁面に象られたレリーフ(写真上右下)は何の模様か分からないが、バランスが良く取れ、見事に光の影を創っていた。もしかしたら地上に降り立った宇宙人の姿かも知れないと思うほどであった。

この様な完成された忍冬模様があちらこちらの窟に見られた(写真下左上)。忍冬(すいかずら)模様の発祥は古代エジプト、オリエントから、東方はシルクロードをとおり飛鳥時代に日本へ伝わり、西方は、古代ペルシアの教会、ギリシャ、ローマへと広がったといわれているグローバルの模様といわれている。 

日本でも寺院などに良く使われる模様で、唐草模様というのは、中国(=唐⇒カラ)から伝来してきた紋様という意味でつけられたのだそうだ。

仏像の世界、金剛界と俗世界、胎蔵界を区画する塀に、仏像達がよく下界を見渡せる様に真円の出入り口が作られている(写真下左下)。

そして、釈迦洞には、左右に2大弟子を従えた釈迦が鎮座していた(写真下・右上)。堂内に佛が三体横に並び、その下に経文が彫られた石碑があったが何が書かれているのかは分からなかった。最初の十二部経という文字、“伽”という文字が多く使われていることと、達磨という文字が認められた。

この石碑を見つめていて気がついたのは、石窟の石質が明らかに龍門や雲崗とは異なり岩肌は緻密であり、岩肌に亀裂が見られるところは殆どない。砂岩や礫岩ではなく赤土肌で粘土を乾燥したような土質なので、削りやすく、鉄成分を含んだ赤レンガ、もしくはアルミをも含んだラテライト質に違いない。

石窟周り全景を写真に撮った(写真下・左上)。そして、下りはじめる前に、ズームアップして常楽寺(じょうらくじ)の全景を写真に収めた(写真4b)。

常楽寺は北斉時代の創建だが1945年に破壊され、白塔以外は墓や建物の跡が残るだけとなっているらしい。その白塔は、八角九層の大塼塔(だいせんとう)ということになっているが、7〜9層は半分ほど既に崩れ落ちていて、舞飛ぶ鳩達の格好の棲家になっている(写真上・左下)。

この塔で崩れ落ちない年数だけ、この地に大きな地震がないことを意味すると言ってよいような貫禄である。日本であれば、安全対策の面からもここまで放置することは許されないだろう。中国当局の文化財保護政策のいい加減さを感じてしまうが、それともこの程度の文化財は山ほどあり、まだ手がつけられないのだろうか。

多層塔(たそうとう)の各層の屋根に草が生え茂っている光景は何度も見ているが、レンガがこれまで崩れ落ちるのを放置しているというのは初めて見た。(写真上・右上)

日本に仏教が伝来した頃に建立された建築物である。法隆寺や薬師寺の塔の屋根瓦が崩れおちそうなのを放置しているのと同じである。亡き平山郁夫さんがこれを見たらなんと言って嘆くだろう。 

この白塔のすぐ側を通り過ぎ、後ろを振り返って見ると、その白塔のかなたに石窟の姿が見えた((写真右下)。

 今回、南響堂山石窟だけだったが、そのときは南北二箇所にあるということを知らなかったし、知っていても時間の余裕がなく見学は出来なかったかも知れない。あとでウェブ検索すると、北響堂山石窟には千仏洞など立派な仏像がより多くあると言うことを知り、残念であった。

 南響堂山石窟を後にしたのは現地時間でPM5:00を過ぎていて、いよいよ邯鄲を目指して走行を続けることになる。

以上で三大石窟寺院+響堂山石窟寺院+トルファン(高昌故城+アスターナ古墓群+ゼベクリク千仏洞+火焔山)に関してはおしまいにしますが、次に石刻寺院(せっこくじいん)として世界遺産になっている大足石刻寺院を訪問しているので、次の第五回の始めに筆者のブログ「槐の気持ち」から抜粋転記して紹介することにします。
        第四回 完 第五回につづく
 







2022/06/10 23:53:50|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その3)
      倭国(日本)への仏教伝来の道程(その3)

序文(その1と同文)
「仏教の伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。受容の風土があること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、長年に亘ってブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。

以下に大項目を、33項、   項目番号 項目タイトル で表し、
大項目内に中項目を    中項目番号 中項目タイトル で表し、
更に中項目内に小項目を  【小項目番号 小項目タイトル】 で表しました.

  
前回までの第一回と第二回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回は以下を取り上げました。
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回は以下を取り上げました。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、             11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    【仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
      【阿育王山石塔寺】

そして以下に今回(第三回)取り上げる項目を示します。
21)阿育王山 石塔寺と聖徳太子
22)五台山
23)外国から見た倭国(日本)
24) 呉の太白(ごのたいはく)、徐福(じょふく)伝説、始皇帝死後の平和俑(へいわよう)
25)弓月君(ゆづきのきみ)、阿智使主(あちのおみ)
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安) 


21)阿育王山石塔寺と聖徳太子

「石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院と伝えられています。伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願(本願)の寺院で、本願成就寺と称したといいます。

聖徳太子創建との伝承をそのまま史実と受け取ることはできません。しかし、石塔寺がある滋賀県湖東地区には他にも西国三十三所札所寺院の長命寺(近江八幡市)、百済寺(ひゃくさいじ、東近江市)など、聖徳太子創建伝承をもつ寺院が多く、この地が早くから仏教文化の栄えた土地であるとともに、聖徳太子とも何らかの特別なつながり、例えば聖徳太子は渡来人の血筋、のあったことを思わせます。

石塔寺境内にある数万基の石塔群の中で、ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承があります。「平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照(せきしょう)法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って、三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔(ぶっしゃりとう)のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いたのです。

寂照は、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、阿育王塔が出土しました。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号したとなっています。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたといわれています。

湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡尚、ここで留意すべきは「百済系の渡来人」と言う中に、「百済経由で来た土着以外の渡来人」例えば、「弓月君」や「東漢人」も含まれるということです。
以上のエピソードで注目すべきは、「長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中」という箇所であり、「五台山」で検索すると唐、宋時代に多くの日本人留学僧が五台山に滞在しているとあります。

22)五台山

「五台山」は北京とほぼ同緯度、数100km西にある現在の山西省大同市にあり、この地は、仏教に対する庇護、廃仏希釈を繰り返した五胡の一つ北魏にある山岳仏教のメッカです。注目すべきは、日本人が幾人も「五台山」に滞在していたという点です。

また、この話から、仏教の伝来が、シルクロード⇒朝鮮半島⇒百済⇒倭国(日本)という経路ではない、例えば、インド⇒大月氏⇒シルクロード(北魏)⇒南朝諸国⇒東シナ海沿岸の港湾都市⇒琉球⇒倭国、という伝播ルートの可能性があり、伝播の担い手は、中国で仏教弾圧をうけ、それから逃避した中国人仏教僧や、倭国から仏教学僧として中国に滞在し、仏教の修行が終わり帰国しようとしたが、時の中国皇帝らの高官から帰国を邪魔され、死亡したことにして帰国した遣隋使以前の中国遣梁使という可能性があるのでは?と思っています。

以上のことに、別項で触れようと思っています。

インドで生まれた仏教が遅くとも1世紀前後に中国に伝来、372年に高句麗へ伝来、384年に百済へ伝来、その後538年に日本へ伝来されたと言われています。しかし、それはあくまで公伝であり、日本という国に、仏像や経典、仏具などと一緒に公式にもたらされた年であります。

そしてそれが受容されて初めて公伝となる。事前にその宗教の概要を分かってないのに、受容することはあり得ず、何らかの予備的交渉や根回しがあったはずであり、その為の関連情報を基に日本の土着信仰である八百万の神や神道との比較、そしてそれらの宗教に馴染んできた日本人に対する益、不益についての考察もされていたのではないかと推測できます。

しかし、そのようなプロセスを踏襲するには、時間がかかるので、取りあえず正式に上記の物品を受領したことを仏教公伝と言っているだけで、教義の理解や評価はその後、時間を掛けて、ということになり、それを初めて行ったのが聖徳太子による「三教義疏(さんきょうぎしょ)」、空海の「三教指帰(さんごうしき)」、更に鎌倉仏教に現れた親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などでありましょう。

公伝ではない伝来の形を、正しくはないかも知れないが、間違いとは断言できない形を模索しようと試みるつもりです。

23)外国から見た倭国(わこく)日本

つぎに、倭国(日本)が仏教公伝前後まで、当時の諸外国からどの様な国とみられ、どのような人物が、倭国(日本)に渡来して重要な足跡を残したかについて記すことにします。

最も古いのは、既にふれたが、大月氏関連の人達で、この人々は原日本語を話す民族としても知られ、大月氏の部族は、姜族(きょうぞく)であり、姜族の一族後裔としては、周公旦(しゅうこうたん)や、姜子牙(きょうしが)(即ち太公望(たいこうぼう))、更には秦の始皇帝もその一族という見方があり、民族種としては、原日本語を話す民族であり、古代イスラエル人であるユダヤ人と大和民族は同祖であり、言葉や、読み、習慣が似ているだけでなく、新天地を求める気概が似ているとの見方があります。

そして、その気概に基づいて、中国春秋戦国時代に倭国に渡ってきた人たちがいた。先記の周公旦や、姜子牙、即ち太公望、は現在の山東半島に位置する王朝の話でありますが、それ以外の地から中国春秋時代に、倭国に渡来した人たちがいたという話があります。

中国では倭人を「呉の太伯(ごのたいはくの子孫」とする説があるようです。中国春秋時代に、今の江蘇省の港湾都市 蘇州 あたりに呉という国があり、その国を治めた太白(たいはく)という人物がいたのですが、倭人(日本人)はその太白の子孫という話が伝えられているのです。

24)呉の太白(ごたいはく)、徐福(じょふく)伝説、始皇帝死後の平和俑(へいわよう)

太白は呉の前身の句呉(コウゴ)を建国した人物であり、後には孔子の青年時代に大きな影響を与えた季札(前575ころ〜前485ころ)がいて、北の孔子、南の季札と言われ、聖人と見做されていた人物が出ています。

この様に、この時代、即ち、神武天皇と同じくらいの時期、あるいはそれ以前に、倭国に渡ってきた中国人がいたということは、倭国の八百万の神信仰の雰囲気を感じ取って、また中国に帰っていった人たちがいたのではないかと言うことです。

この時期が神武天皇の時代とされている紀元前600年頃に相当します。その後の時代が秦の始皇帝で、蓬莱の国(ほうらいのくに)に不老長寿の薬草を求めて徐福に命じて、大挙して倭国に上陸させ、不老長寿の薬草を求めさせたが、結局、徐福は倭国各地に足跡を残したが、帯同した老若男女、衣食住を支える技術集団ともども中国に戻ることはなかった。

また、徐福は倭国の人達が八百万の神信仰で平和に暮らしている姿を見て、その信仰に溶け込んでいったのかも知れない。

あるいは秦の始皇帝は不老長寿の薬草が無いことに気付いていたが、蓬莱の国で平和に暮らす民のありさまを、帯同した老若男女、衣食住を支える技術集団にコピーさせ、彼らの帰国後、そのユートピアを自分の死後兵馬俑(へいばよう)ではなく平和俑(へいわよう)として地下陵墓にペーストさせ、死後の世界、平和俑(へいわよう)が永遠に続けば、それが不老長寿に等しい、と考えていたのかも知れない。

また始皇帝が京抗大運河を構築しようとした狙いは、秦の版図を中国大陸南方まで拡大する時の進軍の為の水路とされているが、もう一つの狙いは蘇州や杭州まで京抗大運河、その先は海路で蓬莱の国への航海で、大海への版図拡大をも夢見ていたかも知れない。

始皇帝の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の坑儒は倭国の民が八百万の神信仰で平和に暮らしている姿を知り、理屈ばかり論じる儒教という信仰は民を幸せに導くのに役立たないと悟った結果かも知れません。

25)弓月君(ゆづきのきみ)、阿智使主(あちのおみ)

そして次に重要な足跡を遺した渡来人としては、「弓月君」で、倭国に渡来後は後に大和王権の樹立に寄与したり、地方豪族となり、地域おこしに日本全国に足跡を残した秦氏、そして後漢霊帝の子孫で、倭国に渡来後は東漢人(ひがしのあやひと)として、やはり大和王権で活躍した阿智使主が重要で、子孫として、後の武神と言われた坂上田村麻呂がいる。日本各地に阿智神社があり、長野県には阿智市があります。日本各地、特に東北地方には多くの祀る神社があり、祀られていることからも彼らが大きな足跡を日本に残したことがわかります。
このことに関し、筆者のブログ「槐の気持ち」付録「駒形神社」随想で紹介しているので、詳細はそれをご覧ください。

その他、王仁、観勒、曇徴らが渡来しています。彼等の仏教、儒教、道教等の信仰に関わるエピソードを以下に簡単に紹介しておきます。
いずれもWikipediaから抜粋転記となります。
王仁(わに)】王仁は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である(記紀には「辰孫王」の記述は無い)。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ、『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と言われているので、儒教を信仰として伝えたものと言える。
観勒(かんろく)】602年(推古天皇10年)に渡来、天文、暦本、陰陽道を伝える。書生を選んでこれらを観勒に学ばせた。
即ち暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、方術は山背日立を学ばせ、みな成業したという。
暦本は604年に聖徳太子によって採用された。但し正式な暦法の採用は持統朝である。このように仏教だけでなく天文遁甲や方術といった道教的思想もまた、まとまった形で観勒によってもたらされた。その後、後624年(推古32年)に日本で最初の僧正に任命された。
曇徴(どんちょう)】610年3月に高句麗の嬰陽王が法定とともに日本の朝廷に貢上し、来日したである。『聖徳太子伝暦』(917年、または992年成立)には、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させたとある。曇徴は、前世では南岳恵思禅師(ここでは聖徳太子の前世)の弟子であったと言上しているらしい。曇徴は中国古典に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼を動かした」とあるのが文献上の初見である。これだけの人材であれば、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させた、のも肯定したくなる。

26)中国の石窟寺院

そして次に少し話題を変えて、これまで筆者が訪れたことのある中国の石窟寺院や石刻(せきこく)寺院についての話題を取り上げたいと思います。取り上げる石窟寺院は、莫高窟(ばっこうくつ)、雲崗(うんこう)石窟寺院、竜門(りゅうもん)石窟寺院、響堂山(きょうどうさん)石窟寺院、ベゼクリク石窟寺院、そして石窟寺院とは言えないかも知れませんが、アスターナ古墳、大足石刻寺院(だいそくせきこくじいん)を、更に現代版石窟式住居について簡単に紹介し、詳細は筆者のブログ「槐の気持ち」で紹介しているので、そこから抜粋転記して、紹介したいと思います。尚今回は上記のうち、竜門(りゅうもん)石窟寺院以降っは紙面の都合で第四回での記載となります。
先ずは敦煌市にある莫高窟です。

@)敦煌 莫高窟
『甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡。千仏洞(せんぶつどう)・敦煌(とんこう)石窟とも呼ばれる。4世紀から約千年間、元の時代に至るまで彫り続けられた。大小492の石窟に彩色塑像(さいしきそぞう)と壁画(へきが)が保存されており、仏教美術として世界最大の規模を誇る。1900年に敦煌文書が発見されたことでも有名。雲崗石窟(うんこうせっくつ)、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)とともに中国三大石窟(中国語版)のひとつに数えられている。

現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。

壁画の様式としては五胡十六国北涼、続く北魏時代には西方の影響が強く、仏伝・本生譚(ほんしょうたん)・千仏などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになる。

期間的に最も長い唐がやはり一番多く225の窟が唐代のものと推定され、次に多いのが隋代の97である。北宋から西夏(せいか)支配期に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏代のものは20、次の元代の物は7と推定されている。この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、特に1372年に完成した嘉峪関(かよくかん)を設置以降、関の外に置かれた莫高窟は忘れられた存在となる。

作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔(らくそん)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良(ほうろう)、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼(ほくりょう)の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。

莫高窟は、1900年に発見されるまで、500年以上も人々の記憶から忘れ去られ、砂漠に眠っていた。それが中国の敦煌という都市にある「莫高窟」という世界遺産。莫高窟には多くの壁画や仏塑像(ぶつそぞう)が安置されており、かつての中国仏教の信仰の姿をうかがわせます。

敦煌は遥か昔からシルクロードの要所として栄えた砂漠のオアシス都市。敦煌より西域の宗教や文化は、すべてここを通って中国へ広がりました。敦煌は中国における仏教布教の拠点であり、莫高窟はさまざまな国の僧侶たちが仏典の研究に励み、布教に尽力しました。

筆者は40歳の時に、会社のリフレッシュ休暇を使って、北京⇒西安⇒敦煌⇒西安⇒北京の旅をしました。余程敦煌が気に入ったという表情を現地ガイドに見せたのでしょう、ガイドさんが気をきかせて、敦煌滞在を一日鵜やしてくれました(その代わり西安の滞在が一日減りましたが)。その敦煌での目玉観光が、一日は莫高窟、そうして、もう一日がラクダに乗って月牙泉(ゆいがせん)や自分の足で鳴沙山(めいさざん)の砂漠の尾根に登るというものでした。

月牙泉は鳴沙山の北麓に位置する三日月形の湖です。別名薬泉(やくせん)ともいいます。以前は、今の約5倍の大きさだったといわれています。2000年という時を刻みながら、絶えることなく沸き続けているといわれ、透明な美しい水をたたえています。

砂漠の中にあって実に不思議な存在です。古来、仙人が住む場所として寺院が建てられたこともあったようで、現在でも対岸正面に立派な寺が建っています。また、月牙泉の砂丘すべりは厄除けとして知られています。鳴沙山では、自分達だけで砂漠の尾根まで登りました。また、初めてラクダにのり、砂漠を移動したのを覚えています。

残念ながら、ここを訪れた時はまだブログを始めていなかった為、旅行記は無く、莫高窟の壁画と塑像(そぞう)ばかりが強く記憶に残りました。また莫高窟の保存に平山(ひらやま)郁夫(いくお)が支援していることが記されていて、なんとなく誇らしい気分になったことも覚えています。

A)雲崗石窟寺院  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと
山西省大同市(だいどうし)にあるが、最初は華厳宗(けごんしゅう)寺院を訪問することが目的でしたが、旅行会社がアレンジしてくれたコースの最重点観光地が雲崗石窟(うんこうせっくつ)寺院だったのです。それほど期待はしていなかったのです。敦煌の莫高窟が壁画や塑像を主体としていたのに対し、ここは殆どが彫像(ちょうぞう)であり、その数は5万1000にも及ぶとのことでした。それらが東西に配置している。東(写真右手)から第一窟、第二、・・・中略・・・、となっているが、古い順ではないとの田さんの説明でした。

東側から見学することにした。第一窟と第二窟は共に中心仏塔式建造物となっている。即ち仏塔が窟の中心にあり、その天蓋(てんがい)が窟の天井部へと繋がっている。窟の周囲の壁にはいくつかの石像が鎮座していたが、その石像のうちいくつかが頭部のみ盗み取られ、なくなっている。 

イギリスの探検隊とも日本の探検隊とも言われている。他国の文化財を持ち出すだけでなく、仏の頭を壊損させてしまうとは二重の罪を犯しているようなものだ。

次に第三窟である(上写真右写真)。奥行き、高さとも規模が最大で、雲崗石窟の東端に位置する。北魏の皇室の雲崗石窟の掘削も第三窟に始まり、第三窟に終わったと言われている。

色彩という点では他の窟に及ばないが、雲崗石窟の第一号であり、道武帝(どうぶてい)から宗教事務を一任された法果和尚(ほうかおしょう)が何故このような、ここ武州山(ぶしゅうさん)のしかも石窟に寺院を建立したのだろうか。

その答えが田さんから安く購入した「雲崗石窟と北魏の時代」李恒成著、米彦軍訳 山西省科学技術出版社刊 に記述されていた。

要約すると、先ず第一に、鮮卑族(せんぴぞく)が洞窟住まいに慣れていたこと。第二に鮮卑族の発祥の地、嘎仙洞(かせんとう)と雰囲気が似ていた。そして、第三には武州山(ぶしゅうさん)にある最大の自然の洞窟で石窟寺院を創り易かった、とのことである。

ここで少し脱線しますが、ここへくる直前に現代版石窟居住者の住居を見学させてもらっていて。その様子を自分のブログ「槐の気持ち」に記載していますので以下に抜粋転記します

B)石窟に棲む現代版仙人  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
・・・前略・・・、途中休憩のため車を降り景色を眺めていると、田さんが、後を指さし、 「あの岩山に横穴が見えるでしょう。あそこに人が住んでいるのですよ。あの人がそうですよ。」と語りかけてきた。

たしかに岩穴近く(写真2上)で人らしきが動いているのが分かる。すかさず「側に行ってみることが出来ますか?」
とたずねると、OKの返事、住人の老人は誇らしげに内部を案内してくれた。

そこは、大同市渾源県東圪垞鋪村という住所で、張徳華という名前の人であると、ガイドの田さんがメモにして見せてくれた。

 内部は寒さを全く感じず、清潔で、TVまであるのには驚いた。壁にはブロマイドやポスターなどが貼られていて、床にはカーペットまで敷かれていて(写真4上)、現代版仙人という感じがして、このような生活に満足していて楽しんでいるようにも見えた。穴の外にはとうもろこしや野菜が乾燥され、冬の食料の準備中という感じであった(写真3上,写真3下)。また箒のようにたなびいた姿をした箒梅(そうまい)という鮮やかな紫の草や、マリーゴールドの花が寒風に曝されてなびいていた(写真2中、下)。
 仙人とのツー・ショット(写真下右端)などは一人旅ならではの面白い体験であった。外が寒いだけに石窟の中の暖かさが有難かった。またガイドの田さんに感謝であった。

石窟寺院を造るのには、掘削や内装に関わる工員や職人、更には監督者も近くに住みこむ必要がある。それは現在の住宅建設と同じで、彼らの住みこみのプレハブを近くに準備し、この住環境も住みやすく、安全、安心な環境が望まれる。住環境と言えば、先ず室温の管理、水回り、トイレだろう。恐らく古来から石窟寺院も同じであろう。大きな寺院建築では。先ずは、工人の住環境であろう。

その時、考えて分からなかったのは、マリーゴールドの花がどうしてそこにあるの?という疑問が湧いたのですが、今は、もしかして眼の働きをよくするルテインを摂取の為?きっとこの様な洞窟に住むのは現代であれば、高齢者であろう。加齢性網膜疾患(かれいせいもうまくしっかん)の予防かも知れません。

C)雲崗石窟寺院第三窟の続き<ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>                                中に10mの弥勒仏が掘られているが、他は未完成で、固い砂岩の岩盤がむき出しになっている。余談だが、敦煌の莫高窟は、岩盤が柔らかい礫岩(れきがん)のために、巨大仏はほとんど掘られなかった。窟の地面に突き出た岩の上を田さんに続いて、ぴょんぴょんと飛び移りながら窟の奥の方へ入って行き、西の方に歩を進めると、三体の仏像に出くわした。

10mの弥勒仏(みろくふつ)(孝文帝(こうぶんてい)自身)を中心に西側に弥勒菩薩像(息子の皇太子元恂(げんじゅん))が、東側には女性と思われる弥勒菩薩像が掘られている。 中心の弥勒仏はどっしり構えた表情だが、西側の弥勒菩薩像は怒っているように見え、東側の弥勒菩薩像は西側に向かって、慈(いつく)しんだ表情をしている。

同著には、孝文帝と、孝文帝の徹底的な漢民族への同化政策に強く反対した皇太子との間の洛陽遷都に関しての骨肉の争いが紹介され、結局、孝文帝が息子を毒殺する破目になり、敬虔な仏教信者だった息子を往生させるために作ったのがこの第三窟とのことであった。

更に、孝文帝派(=遷都派=改革派)と皇太子派(=遷都反対派=保守派)との争いは続き、523年に平城北部に六鎮(ろくちん)の乱が勃発するに及んで、第三窟仏像彫りが止む無く頓挫した。この窟を掘削したことを通じて、北魏時代の民族融和の歴史を物語っている。

D)民族融和の歴史    <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>                                   鮮卑(せんぴ)拓(たく)跋(ばつ)氏(し)は北方少数民族として中国北方を制覇し、漢民族を含む各民族との同和、融合が余儀なくされた。この地が後に同じ少数民族の女真族(じょしんぞく)の遼(りょう)時代に大同という地名に変えられたことに納得できた。第四窟以降に関しても、その成り立ちやエピソードについてブログに詳しく記載しているので、それをご参照下さい。

E)石窟寺院の造窟方法   <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>                                 尚、ガイドの田さんの説明で、石窟寺院造窟(ぞうくつ)の謎の一つが解けたのでした。 

田さん曰く、「石窟というのは下から上に彫り上げてゆくのではなく、上から下へ掘り下げてゆくのです。天窓は最初に窟の上部に入りこむ入り口で、この窓を最初に造り、そこから水平に掘り進んで行き、背丈ほどの高さまたは簡単な踏み台程度で届く高さで、奥行きのある空洞をつくり、同時に壁面や天井面に仏像を彫刻し、それが一通り終わると次に床面(岩肌)を堀下げて行きながら新たに現れた壁面に、像がつながるように彫り進めて行く」のだそうだ。

この説明で多くの謎が解けた。これまで高い天井や側壁上部に見事な形や色彩の仏像や飛天像が彫られているのを見てきたが、足場(あしば)として、高い櫓(やぐら)を組み、作業者がそこまで上って彫刻作業をしているものとばかり思っていたのである。

あるいは、先ず空洞を作ってしまい、また天窓も作ってしまい、そのあとで、壁面や天井面に諸像を彫って行くものとばかり思っていたのである。

しかし岩床面を彫り下げて行く方式であれば、足場は常に岩の床面であり、安定していて、彫像作業も楽な姿勢でできたに違いない。 しかし一方で、窟内の仏像の配置や彩色など造窟前に相当しっかりして精緻な設計図がないと、つなぎ目に狂いが出るなど完成度の低い窟で終わってしまうだろう。

この造窟責任者(造窟奉行)は、先ず造窟指令者(皇太后か孝文帝)の窟に架ける主題・目的を理解し、それに基づいて窟の設計、現場監督を兼任したに違いない。

その石窟責任者として、少数民族出身の甘爾慶時(カンジュルジャブ)(=王遇(おうぐう))が「魏・王遇伝(おうぐうでん)」に残されているらしい。巨額な費用をつぎ込んで窟建築に失敗したら大変である。皇太后や孝文帝の信任が厚く。しかも優秀な建築技術を持っていたのであろう。尚、王遇は姜族(きょうぞく)出身とのこと。太公望や始皇帝と同じであります。

F)皇帝一族の争いの歴史  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
465年5月、12歳の拓跋献文帝(たくばつけんぶんてい)が即位したが、その八ヶ月後、わずか24歳の皇太后が摂政を勤め、大量に漢民族の大臣を登用し、政治を担当させ、鮮卑人(せんぴじん)の権限が弱められた。

・・・中略・・・、当然ながら鮮卑人の反感を買い、献文帝は母(皇太后)の意に沿わず、鮮卑人に肩をもった。その一因となった母による慕容白曜(ぼようはくよう)の処刑に対する復讐として、母の恋人一家を殺したこと、さらに母による献文帝側の側近李欣(りきん)の殺害などの応酬が続き、母と子の間の確執は深まるばかりであったが、結局軍配は母側にあがった。

そして献文帝は在位5年で息子の孝文帝に皇位を譲った。その後も献文帝は戦争を機に政治介入を試み、ついに皇太后はひそかに献文帝を毒殺した。献文帝23才の時だった。

その20年後、その皇太后も崩御し、孝文帝は思うままに執政が出来た。皇太后崩御の年490年から495年のたった5年間で第5窟と第6窟が掘削されたのだ。

 孝文帝の時代は北魏で最も安定した時代であり、この時代に造窟された第5窟と第6窟に棲む仏像の表情は柔和で、漢民族形式の仏、菩薩、護法(ごほう)、天人(てんじん)、飛天(ひてん)などのイメージを創出して、雲崗石窟スタイルが形成された。 

そしてそのスタイルは益々芸術性を深め、仏像のみならず、その添え物や飾り物にも工夫が加えられ、雲崗石窟の彫像技術を最高峰に成長させた。それは、少数民族の鮮卑族が樹立した北魏王朝を後世に印象付け、その王朝の実力と国力と文化的格調の高さとを世人にアピールしました。

この窟を見ると、この窟の造窟に至るまでの、孝文帝の心の葛藤の様を思い遣ることが出来るような気がする。祖母の馮(ふう)皇太后、父献文帝をどのように見つめていたのだろうか。

たった五年で窟を完成した事実、窟内の仏像の柔和な顔つき、窟内に表現した釈迦の少年期までを描いた仏本行故事(ふつほんぎょうこじ)レリーフ、皆心の葛藤を収め、自らを慰めるための物語として使ったのではなかろうか。

以上の歴史からは、雲崗石窟寺院というのは、北魏王室の私有文化財と思えてならないのですが、仏教が翻弄(ほんろう)されたのか、北魏王朝が仏教に翻弄されたのか分からないが、中国全土にある石窟寺院が殆どどこの石窟寺院にも北魏時代に造られた窟という表示をよく見かける所を見ると、それ以上に同和(どうわ)の精神(せいしん)を大事にしたのである。そして、それは五胡十六国時代で多くの国家が乱立し、漢民族だけではなく、異民族国家も、もう少しまとまることが安定した世の中を作る為に必要不可欠、と感じていたのではないだろうか。

また以上の話から、一つの国家において、世継ぎが如何に大変かということが分かります。しかしこの時代、皇族内は何処でも同じように荒れまくり、皇族一族内の皇位継承に絡んだ殺し合い、近親結婚など乱れまくったのは、南北朝時代の南朝諸王朝や倭国(わこく)(日本)に於いても同様だったと言われています。また異常な程の仏教崇拝者まで現れることになります。この話題は、東晋と南朝国家の南宋、斉。梁、陳のところで触れることにします。
 
G)華厳三聖について   <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
           以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと

第十九窟は曇曜五窟(どんようごくつ)で最高の高さ17mの像で、仏教を復興させた文成帝を象徴している。この仏像と他の二体の仏像、普賢菩薩(ふげんぼさつ)と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)との三体を華厳三聖(けごんさんせい)と呼ぶのだそうだ。

こんなところに「華厳」という言葉が出てくるとは。文殊菩薩に対応するのは二代目で業績の芳しくない明元帝(みんげんてい)、普賢菩薩に対応するのが帝拓晃(たくこう)で、文成帝の父だったが若いうちに他界している。

滅仏(めつふつ)策(さく)の時、暗に僧侶達を庇護したという実績が評価され普賢菩薩とされたのだそうだ。

いよいよ曇曜五窟(どんよういくつ)の最後第二十窟である。ここは石窟前壁が崩れ落ち露天となっている。高さ13.7mの大日如来、即ち最高位の仏像である(写真3-4)。北魏後世の諸帝であり万世(一系を現している。

更に西に行くと階段が見え、ガイドの田さんに一人で見てきて良いと言われ、荒れ果てた感じの第二十一窟以降の石窟を目指した。更に行くと、石窟が天窓を同じ高さにして整然と配列しているのが分かる(写真4-1)。

全てを覗いてみるには時間が無さ過ぎなので、二、三覗いて見てから歩を戻し元の方へ歩いてゆくことにした。 遠くを望むと東の方角に山並みが見え、常緑樹が青々としていて、それがまるで北魏時代と現代を区画しているように見えた。(写真4-2)そして、視野を南に向けると石炭工場が整然と並んだ街並みが見えた(写真4-3)。田さんに「あれは石炭工場ですか?」と尋ねてみると、「いえ、あれは雲崗鎮(うんこうちん)という村ですよ。」とのことだった。

H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
ここで、胡族(こぞく)が何故熱心な仏教信者だったかということだが、それには西域亀茲(きじ)(=庫車(くちゃ))出身の仏図澄(ぶつとちょう)の功が大きかった、と言っても良いだろう。

彼は儒家(じゅか)の反感を乗り越え、石氏(せきし)支配下の華北に入り、大衆の支持を得て、華北各地に八百九十三の仏寺を建て戦乱に苦しむ民衆の帰依(きえ)を得た。 

その弟子道安(どうあん)は仏教教団の戒律を確立し、また仏者は皆釈迦の弟子なので、釈を姓とすることを主張した。現代の日本で浄土真宗の戒名に“釈(しゃく)”という文字を頭につけるのはここからきているのだろう。

この華北で北魏が栄えた頃、西域では亀茲から後に玄奘三蔵(さんぞう)が立ち寄ったことで有名な高昌国((こうしょうこく)に遷り代わり、遼東半島では高句麗、新羅、百済の時代、また日本は倭国(邪馬台国(やまたいこく))の時代であった。

中国は南北朝時代であり、北朝は隋の時代に至るまで北魏を初めとした東魏、西魏、北斉、北周が、また南朝は隋(ずい)の時代に至るまで東晋、宋、斉、梁、陳の順に主に江南の地に栄えた。

これら大陸の国々のうち倭国が接触したのは、遼東半島の国家としては、高句麗、百済、新羅で、北朝との接触は殆どなく、南朝では、東晋、南宋との接触があったが、斉、梁、陳との公式の接触はなかった。

また高句麗、新羅は北朝とのコンタクトがあったが、百済は最初は北魏に朝貢したものの、目的の高句麗攻撃の申請をしたことがあったものの、それが不成功に終わって以来接触が無くなった。従って仏教伝来のルートは北朝、遼東半島経由というより、南朝のあった江南の地経由で伝来したというのが考え易い。その裏づけとなるのが、仏図澄の弟子道安の存在がありそうだ。

道安は、北魏から襄陽(湖北)に活動の場を移し、江南の仏教に影響を与えた。その江南を訪問した倭国の使者が持ち帰った。或いは百済人や高句麗人も同行していたかも知れない。
       第三回 完 第4回につづく





 


 







2022/06/03 15:59:06|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その2)
            倭国(日本)への仏教伝来の道程(その2)
序文(その1と同文)
 「仏教の伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、長年に亘ってブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。

以下に大項目を、33項、   項目番号 項目タイトル で表し、
大項目内に中項目を    中項目番号 中項目タイトル  で表し、
更に中項目内に小項目を  【小項目番号 小項目タイトル】 で表しました
  
前回(第一回)は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、山梨県大月市
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
 
今回(第二回)は、次に視点を仏教伝播の担い手と、第一回で取り上げられなかった伝播の地を取り上げてみたいと思います。

以下に今回(第二回)取り上げる項目を示します。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、             11). 鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12)鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    【仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
      【阿育王山石塔寺】

10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王

 先ず、仏教発祥の地インドに関しては、@釈迦、Aアショカ王、Bカニシカ王を取り上げます。  @釈迦については、釈迦が初めて弟子たちに説法をしたとされているガンジス河近くにあるサルナート寺院を訪れたことが有り、その時の話を自分のブログ「槐の気持ち」に記載しているので、詳細については、そちらを御参照下さい。
 
Aアショカ王では、中国で唯一のアショカ王を祀る阿育王寺を訪問した時のことと、滋賀県東近江市(旧八日市市)にある阿育王山石塔寺のエピソードを紹介します。そのついでに、その近在に聖徳太子が関係している寺院が多い事、百済からの移民が多い地であることや、聖武天皇、天武天皇ゆかりの地を紹介します。後の項に、実は両人とも、生粋の倭人ではなく、両人とも百済や新羅出身であったという説も紹介し、更に両人の母である斉明天皇の道教に対する宗教感についても奈良の談山神社(だんさんじんじゃ)を訪問後に記載したブログから抜粋転記して紹介したいとい思います。
 
 仏教保護に関してBカニシカ王をも取り上げますが、カニシカ王情報は筆者が直接感じとったものはなく。Wikipedia 紹介文から抜粋転記となります。
 
11). 鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)

 次に、仏教伝播の担い手として、シルクロードを活躍の場とした、鳩摩羅什、仏図澄、その弟子道安、法顕、玄奘をとりあげます。この内. 仏図澄の弟子、道安は釈(しゃく)道安(どうあん)とも呼ばれ、浄土真宗の故人の戒名に釈という文字を冠せる見本とした人物で、朝鮮半島を経ずに、南朝国家に多大な影響を与えた人物の様に映っているので、そのことについて、紹介します。

 彼らの共通の功績は、仏典の翻訳と言われています。特に玄奘の物語は陳舜臣氏の小説「天竺(てんじく)への道」や、映画にもなり、西遊記のモデルとしても名高い。更に、日本の大和古寺の薬師寺の別院として近代に建立された玄奘院は本尊が平山郁夫(ひらやまいくお)画伯によるシルクロード壁画であることが興味深いことだとおもっています。

 筆者は玄奘院を参詣し、このシルクロード壁画に圧倒されたことがあります。その様子をブログ「槐の気持ち」に書きとどめてあるので、それを参照していただきたいと思います。
 
 また法顕は玄奘よりも前に、玄奘とは異なるコースで天竺を往復し、その著「仏国記(ふつこくき)」(=法顕伝(ほうけんでん))は、旅行記としても貴重な歴史資料とされ、玄奘が天竺を往復するにあたり、大いに参考にしたと言われています。

 参考にする情報も無い状況の中で、天竺を往復したことに対し、玄奘以上に艱難(かんなん)辛苦(しんく)を経験したと思いますが、何故か、自分のなかでは、知名度は玄奘より低い様に感じています。

 仏国記には399年に長安を出発してから。ホータンやアフガニスン等の中央アジアの国々を経て、インドに至り、405年-407年にはパータリプトラ(マガダ国・マウリア朝・グプタ朝時代の首都)在となり、近辺のブッダガヤ(釈尊が悟った場所)、鹿野苑(現サルナート。釈尊が最初の5弟子を得た場所)などを見学。さらに帰途は現スリランカ等での滞在(409年-411年)を経て、海路中国東シナ海に寄港しながら最終的に413年7月 建康(けんこう)(現南京市)着となっています。

 途中各地で夏坐(げざ)(=原始仏教からの伝統である、夏に3カ月坐禅をする修行。別名は安居(あんご)。中国では4月16日〜7月15日、インドでは5月16日〜8月15日に行う。)を繰り返し、帰途は船中でも行ったとされています。

 法顕はインドでは僧としての修行はそれまで同行していた道整(どうせい)に託し、帰りは単独行でした。道整のその後がどうなったか気になるところでありますがわかりません。これが法顕の印象を薄くしている原因でしょうか。
 
12)鑑真(がんじん)

 さて、ここで、大和古寺の薬師寺の話題が出てきたところで、同じ大和古寺の唐招提寺(とうしょうだいじ)と鑑真について取り上げることにします。鑑真は唐の時代の名僧であり、時の皇帝である玄宗皇帝には頭脳流出阻止を名目に渡日を妨害され、しかも玄宗皇帝は仏教より道教に親しみ、仏教を疎んじる姿勢が強く、鑑真にとっては居心地の良い環境とは言えませんでした。

 それより発展途上ながら仏教を重んじる国日本の方が、仏教を民衆の為に生かせるはず、と自らに言い聞かせることによって日本への渡航を決心したのではないかと思います。その執念は凄まじく、その様子は映画「天平(てんぴょう)の甍(いらか)」に描かれています。

 度重なる渡航時の海難に会いながらも、渡航を諦めなかった原動力は何だったのか、その一つに聖徳太子の存在がある様に思います。鑑真は聖徳太子が南嶽慧思(なんがくけいし)の再誕との説「聖徳太子敬慕説」に促されて渡来した「聖徳太子敬慕(けいぼ)説」という見方があります。その他渡日についての種々の見方についてブログ「槐の気持ち」に書きとめていますので、詳細はそちらをご参照下さい。
 
13)仏教迫害・弾圧

 鑑真の項に記した様に、玄宗皇帝は仏教の中国から他国への伝播を阻止する勢力となっていますが、この様に仏教伝播を阻止したり迫害したり弾圧した王朝の皇帝が時々現れます。

 特に大きなものとして知られているのが、「三武一宗(さんぶいっそう)の法難(ほうなん)」です。これは、 中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の 皇帝 による廃仏事件だったのですが、このことについて紹介したいと思います。
仏教に対し、迫害したり弾圧したりしたのは、中国だけではなく、仏教発祥の地インドや日本にも起きた現象でありました。

 また、中国によるチベット仏教の弾圧の様に、現在まで引きずっている迫害・弾圧もあるようです。

 日本では、仏教受容に際し、蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏との間に対立が起き、それに強く関与した聖徳太子が、実は渡来系である蘇我氏一族であるからとも言われた様です。聖徳太子は仏教に関する学術的な論拠を構えた『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著わしました。仏教の師として招いた高句麗の高僧慧慈(えじ)は任務を果たした帰国時、『三経義疏』の写しを持ち帰り、その内容のレベルに感心し、聖徳太子の資質を高く評価し、「日本に将来国王となる聖人がいる」と報告したとのエピソードがあり、「日本に聖人あり」、との情報流布は中国本土にも広く伝わり、鑑真の日本行きの動機の一つになったと考えても良いのではないでしょうか。

ここで、聖徳太子と言えば最もだれもが想起する寺院は法隆寺でしょう。そこで、筆者が法隆寺を訪問した後に、ブログ「槐の気持ち」に投稿した「法隆寺訪問記」を貼っておきます。
 
14)高句麗、新羅、百済(くだら)への仏教伝来

 ここで、高句麗の話題がでたので、朝鮮半島の高句麗、新羅、百済での仏教伝来について触れてみたいと思います。これらの国は常に中国王朝による侵攻に備えることが必要で、前記した聖徳太子の仏教の師となる高僧慧慈(えじ)の来日も、高句麗が日本を同盟国にする目的が有ったからと言えないこともありません。

 高句麗の平原王(へいげんおう)の意図を受けて、僧=恵便(えべん)が来朝してきた。それは、崇仏派の統領だった蘇我馬子に接近して、高句麗との関係を強化するためでした。

 ですが、この頃、倭国では、廃仏派が仏教徒を激しく迫害していました。その迫害から逃れるため、恵便は、同行してきた尼僧=法明(ほうみん)と共に、やむを得ず還俗して、播磨(現在の兵庫県加古川市のあたり)に身を隠すのですが、この時、仏教信奉が露見しないように、彼らの命とも言える仏典や仏具を廃棄せざるを得なかったのです。

 一方、百済からは弥勒菩薩(みろくぼさつ)2体がもたらされ、蘇我馬子は、この2体の仏像を請い受け、これを祀る僧を探し出すよう、司馬達等(しめのたつと)らに命じました(『日本書紀』)。

 その噂を耳にした恵便は飛鳥に行き、司馬達等と会い、早い時期から朝鮮半島の情勢を学んでいた蘇我馬子の目論見、即ち、一族が政権に就くためには、仏教を積極的に取り入れ、これを政治手段として用いるのが早道だということを、悟っていたのでしょう。恵便の出現は、馬子にとって渡りに船であり、恵便は、馬子の仏法の師となったのでした。
 
15)飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
 
 高句麗王の命令を受けて、多数の密偵が活動するなど高句麗の動きが活発になっていた頃でした。同時に、大和朝廷の高官に黄金をばらまいてもいたようです。

 当時、馬子は飛鳥寺(あすかじ)を建てたが、高句麗王は605年に黄金300両余りを贈ったと記録に残っているそうです。その話は、現在、埼玉県日高市(かつては高麗郡(こまぐん))にある高麗神社の現在の社主が書いた「若光物語(じゃっこうものがたり)」にも出ていて。飛鳥寺の造築技術は百済人が、その為の費用は高句麗人が協力したことになっていて、それがこの“黄金300両余り”に該当すると思われます。

 朝鮮半島の高句麗、新羅、百済のうち、最も早く仏教が伝来したのは高句麗で、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝されてとのことです。

 最も北にあり、中国に近かった高句麗へは372年、小獣林王(しょうじゅうりんおう)の時代に前秦から伝えられたとされていますが、このエピソードは前秦の創建者苻堅(ふけん)のところでも登場します。375年には肖門寺(しょうもんじ)・伊弗蘭寺(いふつらんじ)などが建立されています。

 大和朝廷と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王(ちんりゅうおう)が東晋から高僧の摩羅難陀(まらなんだ)を招来し、392年には阿莘王(あしんおう)(=阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告しています。

 ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭の頃で日本に仏教公伝があったのと同じころでした。

 残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。法興王(ほうこうおう)の時代に公認された後は、南朝梁との交流もあり、国家主導の仏教振興策がとられるようになっていたとのことです。

16) 前秦の苻堅(ふけん)

 以上のように、朝鮮半島では最初に高句麗に仏教公伝があったと記しましたが、ではどの様な担い手によって、どの様に伝えらえたのか、について仏教史上重要な人物を登場させたいと思います。その担い手は苻堅です。

 『三国遺事』『三国史記』によると、372年(前秦・建元7)、前秦の苻堅が高句麗に浮屠僧の順道(じゅんどう)を派遣し、仏像や経文を送ったことが高句麗の仏教の始まりと言われているらしいです。

 苻堅は、宰相の王猛(おうもう)を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功しました。その上、東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いたのです。そして、苻堅は華北を統一すると、この実績を背景に、残る江南制圧、すなわち東晋征服を企みました。しかしこの時、王猛はすでに死んでいて、その為、東晋征服を一族群臣と協議したのですが、その群臣の中に僧侶の釈道安がいたのでした。

 この話から分かる様に、苻堅は仏教と言う信仰が、他国を侵略する時の恰好の精神的な武器になることを知っていたのでしょう。恐らく、道安の師である仏図澄にも道安を介して参謀になることを打診していたに違いありません。

 そして高句麗側から東晋を攻める戦術も検討していたに違いありません。その為、苻堅は自ら、又は配下に命じて高句麗に接近を試みていたのでありましょう。それが「前秦の皇帝苻堅(在位357年 - 385年 )が高句麗の小獣林王(在位371年 - 384年)に使節と僧の順道と仏像と経文をおくった。」という正史『三国史記』に記載されたエピソードで、朝鮮半島周辺地域における仏教伝来の最初の公式記録になっているのだそうです。

 しかし、前秦の苻堅の作戦は苻堅の死とともに霧散し、前秦は歴史から消え東晋が残り、中国王朝は東晋、南宋、梁、陳と続くことになります。

17)中国南朝、東晋、南宋、梁、陳、

 これらの王朝は、いずれも長期政権はなく、政権をとるための同族争いや殺戮が頻繁に行われ、乱れていました。

 この時代は五胡十六国時代で、北朝でも南朝でも国が入り乱れ、かつ政権交代が頻繁でありました。その中で仏教と特に深い関係があったのは、北朝に於いては前出した苻堅が統一した前秦と、南朝に於いては梁武帝のいた梁でありましょう。

 倭国への仏教公伝はこの様な時期の具体的には梁の時代でありました。また倭国でも皇室が非常に乱れ、皇室内での殺戮を伴う権力争いや、同族内の近親結婚がなされた時代でありました。

 南朝の初代皇帝の蕭衍(しょうえん)は若い頃より文武両面において注目され、沈約(しんしゃく)らと共に「竟陵八友(きょうりょうはちゆう)」の一人に数えられました。

 彼は雍州刺史(ようしゅうしし)であった時、暴政を敷いていた皇帝蕭宝巻(しょうほうかん)が蕭衍の長兄の蕭懿(しょうい)(次兄の蕭敷は早世)を誅殺したこともあり、追い込まれた蕭衍は弟の蕭宏(しょうこう)・蕭偉(しょうい)・蕭恢(しょうかい)とともに蕭宝融(しょうほうゆう)(=和帝)を奉じて、皇帝打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて蕭宝巻を弑しました。

 彼が代わって擁立した和帝から禅譲を受けて天監(てんかん)元年(502年)に帝位に即き、南朝梁を興しました。

 治世前半、天監年間の武帝は、沈約(ちんしゃく)や范雲(ぼんうん)に代表される、主に名族出身者を宰相の位に就け、諸般にわたって倹約を奨励して、官制の整備、梁律の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減等の方面において実績を挙げました。また、土断法を実施し、流民対策でも有効的な施策を実施しました。

18)梁の皇帝菩薩(こうていぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触

 そして、普通元年(520年)に改元し、それ以降は次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めました。

 ついには大通元年(527年)以降、自らが建立した同泰寺(どうたいじ)で「捨身(しゃしん)」の名目で莫大な財物を施与しました。その結果、南朝梁の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が再現されてしまう。また朱异(しゅい)に代表される寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱(びんらん)の様相を呈してきました。

 ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩(こうていぼさつ)」とも称されました。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されているようです。

 また南朝梁は東南アジアや西域諸国・百済との交渉が盛んで、それら諸国からの武帝宛国書では仏教用語を用いて武帝を菩薩扱いし、南朝梁を礼賛していたといわれ、武帝は当時の国際社会において仏教信仰でも高名であったようです。日本(倭国)へも、柵封関係にあった百済を介して影響があったようです。

19)高句麗、百済、新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期

この当時、梁は百済と冊封関係にあった為、倭国との交流は百済経由で行っていました。

 4世紀後半以降、高句麗、百済、新羅は互いに連携・抗争をくり返していました。6世紀前漢に即位した百済の聖明王(聖王)は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に柵封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していました。

 しかし、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を泗沘(しび)へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状態にあり、新羅に対抗するため、さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していたようです。

 百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、大陸の先進文化を伝えることで、交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があったようです。

 しかし、梁からは朝鮮半島経由でなくても、先記したような京抗大運河の完成を待たずにその経路を利用して、即ち百済の清明王の思惑とは無関係に、仏教がもたらされた可能性があったと言えるのではないでしょうか。

 武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称されたのだそうです。

 その当時の日本と言えば、「倭の五王時代」で、皇室は乱れ果て、皇室内での殺戮を伴う権力争いや、同族内の近親結婚がなされた時代であり、それこそ救い主を必要とする時代であることは武帝の耳に入っていたと思います。

 尚、「倭の五王時代」とはWikipediaから抜粋転記すると以下の様になります。
『中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く斉の正史『南斉書』(537年)、梁の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。また宋に先立つ晋の正史『晋書』(648年)にも五王の先駆とも考えられる記事がある(後述)。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、倭の五王に比定される歴代大王(天皇)の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする。「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる。』
上記の『』で括られた史書については後出させる予定です。

 一方、梁の武帝は百済の聖明王の魂胆くらい見抜けたはず。そして、そういう状況下で、「皇帝菩薩」とも称された人物の武帝は、その様な人心が乱れた状況の下では仏教の教えの根本は伝わらないと思い、自ら、または信頼できる配下で、ともに仏教の教義の根本のところの理解に努めた配下に倭国とコンタクトさせて、直接仏陀の教えを授ける方法を考えたに違いありません。

 その結果、形は公伝として、百済聖明王(せいめいおう)を介して仏典、仏像、錫杖等の仏具を正式に贈る形をとるが、口伝で倭国のしかるべき人物に、仏陀の教えや実現の方法について論じあった配下に命じ、秘密裡に倭国に出向かせたはずです。

 その時期は恐らく倭国への仏教公伝とされる538年より以前で、既に倭に渡っていた」司馬一族の司馬達等らで、司馬一族は梁の前にすでに滅んでいる東晋の司馬一族で、国家を背負っている程の影響力は持っていない。従って、水面下で、ことを運ぶことが可能であり、梁と百済の冊封関係を乱すものではないと考えられたと思うのです。

 司馬一族は、司馬懿仲達の頃から、卑弥呼の使いを通じて、扶桑国あるいは蓬莱国と言われた倭国の風土を知り、倭国に憧れがあり、彼らにとっての新天地で、誰に憚ることなく彼らの潜在能力を発揮できるはずの国を訪れたい筈であります。司馬懿仲達は英雄諸葛孔明を破った策士であり、下心を見せ隠れさせる、老獪で陰湿な人物に描かれることが多いですが、中国の歴史ドラマの中には、あくまでもフィクションで正史とは言えませんが、配下を通しての倭の卑弥呼の使者との交流もあったようで、それを通じて、司馬懿仲達が倭国をどのように思い、その思いが、司馬一族の後裔にどのように受け継がれたか興味あるところです。配下を通しての倭の卑弥呼の使者との交流に関しては筆者のブログ「槐の気持ち」に、僅かですが投稿していますので、ご参照いただければと思います。

 以上の様に仏教と言う信仰の伝来と、仏教に関係した仏典や仏像といった物品の伝来とは異なるチャンネルで倭国への仏教伝播が行われた、というのが筆者の考えなのです。

 ここへきてインドを発祥の地とした仏教は日本に伝播してきたのでありますが、この辺で仏教伝来、仏教公伝、伝播、拡散、受容という言葉の使い方について云々したあと、日本の状況に触れることにします。

20) 倭国への仏教伝来

 日本への仏教伝来の具体的な年次については、有力な説として552年と538年の2説あり、現在では 538年が有力とされています。ただ、これ以前より前記した司馬達等の様に水面下で渡ってきた渡来人や、渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきており、さらにその後も何度か仏教の公的な交流はあったと見て、公伝の年次確定にさほどの意義を見出さない論者もいるようです。

 以下では、政治的公的に「公伝」が行われた年次確定の文献による考察の代表的なものを挙げますが、いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた、という見方が定着しているようです。ただし、538年というのは明確に文書に示された年ではなく、以下に示すような後世によるつじつま合わせの推察ということになっています。

【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
『上宮聖徳法王帝説(じゅぐうしょうとくほうおうていせつ)』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記(がんごうじがらんえんぎあわりゅうき)資財帳(しざいちょう)』(724年)には、欽明天皇御代の「戊午年((ぼごのとし)」に、百済の聖明王から仏教が伝来したとあります。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力とする説がありました。

 これら二書は書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも含めて説の支持理由とされていましたが、その後の研究で、これら二書の記述に淡海三船(おうみのみふね)によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが指摘され、書紀編纂以降に成立していたことが明らかとなりました。そのため作為のない典拠であるとは断言できなくなり、したがって論拠としては弱くなってしまった、とされています。

【仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
仏教で「伝来」という言葉の中に「公伝」という言葉があります。公伝と言うのは、Wikipediaによると、『国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指します。上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、・・・(中略)・・・、従来は単に仏教伝来と称され、区別のため「公伝」と称されることが多い。』とあります。

 この私的というのが、当時の日本にあって、どのような階層の人であったかによっては、公伝以前に、異なるルートで日本に伝来して、水面下で一般人民にもなんらかの信仰的な影響を与えていた可能性があったと言えます。

 その場合の仏教伝来の担い手は留学僧の場合もあるし、下層の民が漂流して中国本土のいずれかの地に流れつき、そこで生き抜く知恵として、現地の言葉を覚え、仏教と出会い、仏教を学び、そして日本に帰ったあとに、身の周りの人に流布した、ということもあったかも知れません。

 あるいは、留学僧として渡唐し、時の皇帝に仕え、帰国の旨を時の皇帝に願い出たが許されず、病気で亡くなったことにして帰国した。など史実に現れない人の流れがあった可能性もあります。そして、帰国後、水面下で、中国で学んだ仏教を民衆に流布した可能性が無いとは言えません。
 
 また、次の様なケースも可能性が無いとは言えません。

【阿育王山(あしょかおうさん) 石塔寺(いしどうじ)】
 M.M氏と私(H.A)は、ともにエレクトロニクス材料の研究開発者で滋賀県八日市市(現東近江市)にあるM製作所八日市事業所に勤務していました。その事業所の前には八風街道(はっぷうかいどう)(国道421号線)が あり、その事業場の少し手前に、事業所に向かって右折できる、道幅はそれほどでもないが、由緒ありそうな道路があり、その曲がり角に「阿育王」と書かれた道標があったことを覚えているのです。

ですが、その理由は、こんかいのテーマを掲げるまでは、分かりませんでした。しかし、40年前とは異なり、最近はWeb検索で知りたいことは、殆どのことが判る時代、知りたい情報はすぐ分かるのです。

 Web検索で調べてみた結果、その道標はその道路沿いにある「阿育王山石塔寺」への道標(みちしるべ)ということが判ったのです。そしてその寺の由緒として以下のことが判りました。正式名称を「阿育王山石塔寺」ということが判りました。

 上記webを参照すると、「平安時代、西暦にすると1003年、インドに、当時、日本から留学に来ていた僧侶がいました。ある時、その僧侶が以下の噂を聞きます。「紀元前に、インドを治めていた阿育王(アショカ王)が、仏教を広めるために84,000個の仏舎利を作って、世界にばら撒いて、そのうち2個が日本にもあり、1個は山の中に埋まっていて所在不明」と日本に手紙を送り、それを読んだ別の僧侶が、時の帝、一条天皇(いちじょうてんのう)にこの話をすると、天皇は、その塔を探す命を発し、山の中に埋まった仏舎利を探させた所、聖徳太子が作ったお寺に、阿育王の仏舎利が見つかった、という話が伝えられている様です。
      第2回 完 第三回へ続く
 







2022/05/26 17:25:03|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その1)
       倭国(日本)への仏教伝来の道程(その1)

1.序

筆者が「日本への仏教の伝来の道程」というタイトルの物語を、自分なりにまとめてみようと思ったきっかけは、二つの動機づけがあったからと言えましょう。その一つは、自分の投稿ブログ「槐(えんじゅ)の気持ち」で、自分のブログが扱うキーワードとして、第一に仏教を挙げていること。そして二つ目の動機は、自分の生涯の友と思っている友人からのサジェスチョンがあったためです。

 もともと理工系人間である自分にとって、仏教史などという分野は、憧れでこそあれ、それを論ずることなど、恐れ知らずと言えるし、定説から脱線し、誤解や無知に基づいた表現になってしまうことは確実と言える程、目に見えていますが、ブログに記載した記事を抜粋転記してつなげ、物語り風に文章化するだけでも、すでに後期高齢者になり、いつ仏門をくぐることになるか分からない身としては意味のあることと決め込み、できる範囲で試みることにしました。

 「仏教の伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、長年に亘ってブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただきました。以下に
大項目を、33項、      項目番号 項目タイトル で表し、
大項目内に中項目を    中項目番号 中項目タイトル  で表し、
更に中項目内に小項目を  【小項目番号 小項目タイトル】 で表しました
 以下に今回(弟一回)とりあげる項目を示します。
 
2.倭国(日本)への仏教伝来の道程各論(概略)
1)発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
 
2.倭国(日本)への仏教伝来の道程各論(概要)

1)発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教

 先ずは仏教発祥の地インドで、仏教がどの様な担い手によって発祥、拡散されていったのかを、釈迦、阿育王(アショカ王)、カニシカ王に照準をあて、彼らの果たした役割について記します。また同時にインドに於けるヒンズー教との相対的な位置づけについてインド観光後にまとめてみたブログ記載文から抜粋転記をして論じてみたいと思います。
 
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)

 インドについで最初の伝搬地はインド北部に隣接して位置する、中央アジアのガンダーラ、大月氏を取り上げます。ガンダーラは現在のパキスタン北西部に存在し、首都バクラームなどを中心に栄えた王国とされています。

 ゴダイゴの歌「ガンダーラ」はTVドラマ「西遊記」の主題歌であり、孫悟空を演じた堺正章は現在も健在だが、このTVドラマと主題歌は今から24年余りも前に流行ったものです。ガンダーラはガンダーラ美術という言葉がある様に、仏像が初めて造像された地とされています。

 ガンダーラとともに知名度が高いのはバーミアンでありましょう。そして、大月氏国。月氏は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族と、その国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは,中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになった、と言われています。大月氏時代は東西交易で栄えたのは、地理的配置を考えると当然のことの様に思われます。
 
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族、

 また大月氏の人々は原日本語を話す民族としても知られ、日ユ同祖論にも関連している人々であり、また中国への仏教伝来についての一説に、哀帝の元寿元年(前2年)に大月(だいげっ)氏(し)国王の使者伊存(いそん)が、『浮屠教』と言う経典を景蘆に口伝した、と言うものがあり(『釈老志(しゃくろうし)』)、これが諸説の中でもっとも早いものとなっていますが、これも良く知られたことのようです。この日ユ同祖論と伊存による『浮屠教』口伝は日本への仏教伝来にとって重要な出来事だったと感じています。
 
 4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫

 この日ユ同祖論と伊存による『浮屠(ふと)教』口伝は日本への仏教伝来にとって、重要な出来事だったと感じています。

 ここでは、秦の始皇帝のルーツが姜(きょう)族で、そのDNAは、徐福(じょ福(ふく)に命じて不老長寿の薬を求めさせる先が、「日出(ひいず)る国」、「蓬莱(ほうらい)の国」、日本に的を搾らせたのではないかと思われます。

 また、周の建国に関わり、春秋時代の幕開けを担った周公旦(しゅうこうたん)や太公望(たいこうぼう)として有名な名軍師姜呂尚(きょうろしょう)は名前から、姜族の流れを組む人物であることが分かります。

 大月氏(だいげっし)の月、弓月君(ゆづきのきみ)の月、そして春秋時代の都、孔子の曲阜(きょくふ)、春秋魯国(ろこく)を訪れた時に、観光案内をしてくれた、自称「周公旦の第77代子孫で、今は日本風の名前の望月(もちづき)を名乗っている」の望月の月の関連性についても、ブログ「槐の気持ち」から抜粋転記して紹介したいと思います。姜呂尚等は紀元前11世紀に活躍した人物とされていて、仏教が日本に伝来した時期よりも遥かに古代で、これらの地域からの渡来人によって信仰を醸成する風土が倭人に伝えられたり、商周革命や、その時活躍した周公旦や太公望の話が口伝され神武天皇神話のモデルとなり、日本書紀に記されることになった。

 以下少し脱線しますが、筆者が住んでいる入間市の隣市に日高市という市がありますが、ここは、以前は高麗郡(こまぐん)と呼ばれ、高句麗滅亡前に倭国に逃れてきた高句麗王朝の皇室に繋がる若光(じゃっこう)が天武天皇の勅許を得て拓いた郡であり、大和朝廷時代の聖武、天武天皇時代に天皇から、日本全国に散らばった高句麗からの渡来人を一カ所にまとめた地でありました。

 彼ら高句麗からの渡来人の末裔は近年は種々の姓に改名し、日本人と変わらない日常を過ごしている様です。その改名した名前に望月姓があるのです。この望月の月も、もしかして大月氏の月、弓月君の月と共通点があるのかも知れません。

 また、山梨県の大月市(おおつきし)もこじつけたくなりますが、ダイゲッシとも読めます。悪乗りかも知れません。
ただ、大月市は縄文遺跡が多くあり、市域東部にある猿橋(さるはし)は百済の渡来人が架橋した、という伝説があり、日本三奇橋の一つに数えられているという話もあるので、全く関係ないとは言えないかも知れませんが、突飛とも思われる考えと言えるかも知れません。

 さらには、春秋戦国時代に倭国への渡来人がいた可能性はあり得ると言え、もしその渡来人が春秋の国々に帰国し、争いが無く、平和に暮らし、長壽を謳歌している倭国の民の姿を伝えたら、行ってみたい島、憧れの島、と夢想するのではないかと思います。

 そして、その話が始皇帝の耳に入っていれば、始皇帝は老若男女、そしていろいろな階層の人、モノ造りの技を持った者を選び、彼らに蓬莱(ほうらい)の島での生活をコピーさせ、帰国してから秦の国のどこかにペーストさせ、理想郷を作る。そして、死後は、兵馬俑ではない平和俑の中で暮らせるような夢を持ったとしてもおかしくはない。と思っています。
 
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう))

 そして次の仏教関連地としては、更に北上し、カシュガルで交叉連絡しあうシルクロードの、特にカシュガル、亀茲国、高昌国、トルファン、敦煌を取り上げます。これらの地は筆者が実際に訪問したことのある地でもあり、時代は違いますが、現在そこに住む人たちの中には彼らのDNAに仏教が伝播したころの人のDNAの一部が残されているかも知れなく、彼らの喜怒哀楽を示す表情は、きっと似たようなものに違いないのです。

 何故かというと、表情や、仕草は筋肉の動きが作り出す結果であり、筋肉は様々な神経による指令によって動作するのだからであります。筋肉も神経もともに細胞の集合体であり、細胞には核があり核内にはDNA、核外の細胞内にはRNAやミトコンドリアなどの細胞小器官が配置され、遺伝を司る器官であるからであり、その観点(人々の喜怒哀楽の表情)からも仏教伝播を推測できるに違いないと思っているからであります。
 
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路

 そして仏教はシルクロード経由で後漢時代、三国志時代、五胡十六国時代に於いて、北魏、南北朝時代の(南宋、東晋(とうしん)、梁(りょう)、陳(ちん))や、時の国際都市として栄えた隋、唐、そして、南伝仏教とか上座仏教として東南アジアに伝播し、タイ経由で中国雲南省(うんなんしょう)に上陸し、少数民族に影響を及ぼすと同時に、更に南シナ海中国沿岸地帯の少数民族自治区や広東省を経て、陸路で東シナ海沿岸都市福建省(ふっけんしょう)に至り、更に台湾や琉球列島(りゅうきゅうれっとう)経由で日本へも伝播した可能性があります。

 一方、雲南省は隣接したチベット自治区におけるチベット仏教の影響を受け、特異な仏教建築文化を開花させていて、その仏教文化は、稲作や住居等衣食住を支える生活文化ともども、長江を経て、東シナ海沿岸都市の蘇州に伝播し、更に東シナ海、日本海を経て日本に伝播した可能性があります。
 
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)

 一方、後漢時代には三国志時代の司馬懿仲達が、遼東で、半独立政権を築いた公孫氏と遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)で武力衝突し、その戦い「遼隧(りょうすい)の戦い」で、司馬懿は魏の軍権を得ることになり、そのことが魏の皇帝曹叡(そうえい)との溝を作ることになり、司馬懿による西晋樹立の端緒となったのである。

 司馬氏は朝鮮半島に後漢の出先機関として、楽浪郡(らくろうぐん)と帯方郡(たいほうぐん)を置き、日本と後漢との交流パイプが出来、司馬懿の使者と卑弥呼の使者が後漢の洛陽で会見するなどの交流に繋がった。司馬一族が東方の日出る国、扶桑国(ふそうこく)、蓬莱国(ほうらいこく)などとし、魅惑的な国として司馬一族の心に刻まれ、彼らにとっての心理的新天地は日本に向くことになりました。

 以上のことを中国ドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms (字幕版)」を見て、思い描く様になりました。あくまで、ドラマの話で、誇張や偽説が多々あろうが、この部分は日本への仏教伝来につながる出来事として記憶に留めても良いのではないかと思っています。

 尚、この物語に関しては筆者のブログ「槐(えんじゅ)の気持ち、思うことあり」、に紹介しているので、詳しくは、そこを参照していただければと思います。

 司馬一族に関しては、日本への仏教公伝以前(522年)に、司馬達等(しめたつとう)なる者が朝鮮半島経由かもしれないが、日本に、来朝したとされ、すでに大和国高市郡(たかちぐん)において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』に記されているのであり、彼の配下が、更にそれよりかなり以前に倭国に渡り、仏教伝搬の環境を調査していたに違いないと思っています。
 
8.北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺

 三国志時代のエピソードで忘れてはならない登場人物は魏の曹操と間諜集団をまとめる石岐という人物です。但し。石岐は北方三国志に登場させた人物で、実在の人物ではないかも知れませんが、そうであったとしても、前記した様に、前漢哀帝の元寿元年(前2年)に大月氏国王の使者伊存(いそん)が、『浮屠教(ふときょう)』と言う経典を景蘆(けいろ)に口伝した、と『釈老老(しゃくろうし)』に記載されていることを念頭に、伊存に関係した人物がいたはず、ということで、登場させたのではないだろうか、と想像しています。

 曹操は太平道(たいへいどう)、五斗米道(ごとべいどう)の地元信仰が集団をまとめ、方向付けさせるのに格好のツールであることを経験的に知っていて、これを利用しない手はないと思っていたに違いないのです。

 中国で最初に仏教が伝わったのは洛陽にある白馬寺(はくばじ)で、筆者はその白馬寺を訪れたことがあり、堂宇正面柱に「浮屠(ふと)」という文字があるのを発見したことがあります。その様子を自分のブログ「槐の気持ち」に記載しています。
 
9. 北京と杭州を結ぶ京抗大運河

 さて話題が二転三転してしまいましたが、次に、日本に仏教が伝来した過程において、あまり注目されていないと思われる京抗大運河(きょうこうだいうんが)(北京と杭州を結ぶ大運河)の存在について触れたいと思います。

 日本への仏教伝来の経路で考慮すべきは、朝鮮半島だけではなく、秦の始皇帝時代に掘削が開始された京抗大運河の存在のことです。
 仏教の伝搬には必ず運び手がいて、仏典、仏像、曼荼羅(まんだら)、錫杖(しゃくじょう)などの重い仏具を携えながら移動することが極めて重要であり、それらを運搬する水路の存在は運搬の労力を軽減させる効果があります。

 運河なので、急流に呑まれる心配も、山賊や虎などの猛獣に襲われることはありません。時には運河が未完成で、船から荷物を下ろして、再び運びこむという面倒があっても、船中でのひと時は体や神経を休め、次の準備をイメージトレーニングするのに格好の時間であったに違いありません。

 北魏時代の仏教の聖地五台山(ごだいさん)は北京と同じ緯度に近く、200km程西に在り、多くの出身国公認の学僧や非公認の私学僧が自費で修行をしていたと想像できます。

 ところが、北魏時代や唐の時代には時の権力者による迫害があり、それから避難する学僧たちにとって、運河の存在は有難く、江南の地に避難する助け舟であったに違いありません。

 彼らは京抗運河を利用し、その終端地杭州に至り、そのあと海路日本に向かい、日本で布教活動をし、仏教の教義等を広めていた可能性があります。

 また京抗運河は、長江、黄河の両方と交叉しているので、日本からの遣隋使や遣唐使が京抗運河とそれら中国の大河を次いで、洛陽、長安へ向かうという光景を空海展で見たことがある様に記憶しています。

 その光景は遣唐使の空海が渡唐する場面に出て来たと記憶しています。また隋唐時代より前の、五胡十六国時代に於いても。朝鮮半島を経ずに、南朝に属す中国王朝諸国から、京抗大運河を経て海路日本に渡った、中国人、あるいはシルクロードから日出る理想の国へ向かったフロンティア精神あふれる異国人(弓月君(ゆづきのきみ)や、後漢霊帝の後裔rと言われる東漢人(ひがしのあやひと)も居たに違いありません。

 彼らは、古代イスラエル人を祖とする民族(失われた十二氏族)であり、東方の新天地に向かうしか選択肢がない民族であり、後に戻れない流浪の民であり、それこそかれらの三種の神器である「失われたアーク」を携えながらの移動をしたとされる民族です。

 重いものを携えての移動なので、水路に浮かべながらの移動は大いに助かり、朝鮮半島経由より黄河や長江から京抗大運河に至り、両者の交差点で京抗大運河に乗り換え、そのまま南下し、蘇州や杭州から海路日本に向かった可能性がないとは言えません。

 京抗大運河は秦の始皇帝時代に掘削が始まり、隋時代には完成されたとされています。当初は既存の河川を繋ぎ合わせるという工法で工事が進められたとされているので、直線とは程遠い運河であったと推測されるので一部陸路となっても全行程陸路に比較したら遥かに楽で、安心安全で危険性は少なかったと思われます。
         その1 完   その2 に続く