倭国(日本)への仏教伝来の道程(その5)序文(その1と同文) 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。
また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。
そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。
入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、33項、
項目番号 項目タイトル で表し、
大項目内に中項目を
中項目番号 中項目タイトル で表し、
更に中項目内に小項目を
【小項目番号 小項目タイトル】 表しました.
前回までの第一回と第二回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回は以下を取り上げました。
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
第二回は以下を取り上げました。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、 11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13) 仏教迫害・弾圧
14) 高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15) 飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16) 前秦の苻堅
17) 中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18) 梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
【阿育王山石塔寺】
更に、
第三回で取り上げた項目は以下の通りです。
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26) 中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
そして、前回
第四回では以下の項目について取り上げました。
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞 マニ教
C)トルファン・火焔山
そして、
今回第五回は以下の項目を取り上げるました。
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
【六趣唯心】
【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
【東近江市石塔寺エピソード】
【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
【平重盛/源実朝エピソード】
【道元阿育王寺行エピソード】
【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
30)大足石刻寺院(仏教の世界観) <
ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと この朝も,これまでと同様ホテルで朝食を済ませ、8:30にホテルを出発した。15分ほどで高速道路G60に入り、一路大足(だいそく)を目指す。運転手の蒋(しょう)さんは若干28歳であり、若さ溢れる好青年である。今回の旅の最初から最後までのスルーの運転手である。
これだけ長距離を走ってもミス(道の間違え)が無いのは、結構予習をしてくれているのかも知れない。有難いことだ。そういう運転手を見つけてくれた駱(らく)さんにも感謝しなくてはならない。
9:56にG60から分岐して大足方向へ。次第に地面の色は赤さを増し、道路の造成によって現れた断層は赤茶というより赤色であった(写真11.5 -1-1)。途中、車を停めやすいところへ停車してもらい、赤土を採取させてもらった。 そして更に15分ほどして、目的地一帯に到着し、車から降り、園内に向かった。「世界遺産大足石刻世界文化遺産博覧園遊覧図」と書かれた案内図が目に入った。 案内図では、現在地から最初の橋を渡ると、先ず旅客センター地区が現れ、更に二つ目の橋を渡ったところから大足石刻寺院域に入り、広大寺や、圣寿寺及びそれらの焚香所が現れるようだ。石刻像が現れるのは圣寿寺側となっている。
旅客センター地区の一番北端の正面に寺の山門と思える建造物が現れた。20段ほどの石段を登りつめたところに、底部を象や獅子が支えた格好の8本の石柱に支えられた大きな屋根が現れた。 屋根の4稜線は中国風の反り返りを見せているが、彩色はけばけばしさがなく落ち着いたたたずまいを見せている。観光客の服装の方がはるかに彩色豊かだ。門の額には天下大足と右から書かれていた。いわば、この建造物は山門というより観光ゾーンの呼び込み口なのだろう。
そして第二の川に架かる幅広で100m程の長さの石橋を渡ると、寺院が現れた。これが広大寺なのだろう。境内にあるすべての建造物が中国には珍しい入母屋づくりの屋根構造をしていて、色彩も派手ではなく、落ち着いた感じである。屋根の四稜線は特徴的な反りはないが、中国寺社建造物の屋根の稜線に鎮座する小動物の姿は見られる。これら建造物の歴史は浅そうであった。
その寺院の一角から抜け出すあたりで進行方向右手を見ると、なんの像も彫られていない岸壁(写真11.5 -1-5)が見えた。大きな石が堆積しただけで、地層は現れていない。この大きな岩の凹凸を利用して昔の人たちは像を掘ったのであろう。
そしてさらに行くと、竹林の向こう数10m先に、岩石からなる庇の下に三層からなる石刻像群(写真11.5 -1-6)が現われた。最上層には10体以上の鎮座する仏像群が整然と並び、次の層は更に二層に分かれ、市井の町人や役人風情の人物像が立ち並ぶ、そして最下層には、何やら怖い面持で何かを手にしている人物像が見られた。
以下には、仏教の、特に死後の世界観について、展示された石刻像を通して受けた印象や意味について記すことにします。
@)仏教で言う“三界”とは <
ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真番号は左記URLをご参照のこと 「三界(さんがい)とは欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの総称で凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。
欲界とは、仏教における世界観のなかで欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。三界の一つで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天上(神)が住む世界のこと。
色界とは欲望を離れた清浄な物質の世界。無色界の下にあり、欲界の上にある。この色界には四禅の四地の初禅(しぜんのしちのういぜん)、第二禅、第三禅、第四禅があり、これを過ぎると無色界に入る。天界28天に属す。色は物質の義、あるいは変礙の義。
無色界は、天部の最高部に位置し、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定(ぜんじょう)に住している世界。上から非想非非想処(ひそうひひそうじょ)・無所有処(むしょゆうじょ)・識無辺処(しき
むへんじょ)・空無辺処(くうむへんじょ)の4つがある。」とWikipediaに紹介されている。
更にもう少し歩くと、「大足石刻分布図」なる石壁に彫られた案内図(写真11.5 -1-7)が現れた。そこには、潼南県(どうなんけん)、銅梁(どうりょう)県、永川県(えいせんけん)、〇(草冠に宋)昌県、安岳県に囲まれた大足県には宝頂山石刻、北山石刻、等、計5か所あることが書かれている。
以上の内、宝頂山石刻、北山石刻を見学することにした。
最初に現れたのが先ほど竹林の向こうに見えた石刻像群(写真11.5 -1-8)であり、岩石からなる庇の裏には「唐瑜伽部主揔持王((とう・ゆがぶしゅ・そうじおう」なる文字が彫られていた。「瑜伽(ゆが)」とはヨーガのことらしいが、文字の意味は分からなかった。
また、最上層(無色界)と第二層の色界に属する仏像、人像は空色と青色の顔料が服や冠に施されているが、最下層の欲界に属する像には色彩が施されていない。
各石刻像には、説明書きが石板に彫られているが、その解明はしないが、三界それぞれに於いて、遭遇する様々な場面を想定しているものと思われた(写真11.5 -1-9〜11.5 -2-9))。
そして更に進むと、釈迦涅槃像が現れたが、あいにく工事中だった。中国で涅槃像は何度か見たが、これほど大きいのは初めてであった。この涅槃像を過ぎると少し趣が変わる。
A)「六道輪廻」の世界とは <
ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真は左記URLをご参照のこと「華厳三経像(けごんさんきょうぞう)」(写真11.5 -2-11、11.5 -2-12)の次は「六道輪廻」の世界(写真11.5 -2-14、11.5 -2-15、11.5 -2-16)であった。「六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天という六つの冥界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。
人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。
大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう」とWikipediaに紹介されている。
ここの「六道輪廻図(石刻)の大きさは、高さ、780cm、幅480cm、奥ゆき260cmという巨大な石刻像であり、90の人物像、24の動物像が、そして輪の中央にはアニッカ(無常)の長い手で支持されている。
輪は60度づつ6つに分割されていて、各分割枠内には神が創造した生き物や物体が彫り込まれ、霊魂が隣接した分割枠の間を移動する様を石刻していて、仏教の教義である“六趣唯心”、“因果応報”、“十二因縁”を表している」と石標に刻み込まれている。
【六趣唯心】とは、六道(仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。”唯心とはすべての現象は心によって産出されたもので,本質的に実在するものではなく,心のみが一切の根源であり最高の実在であることを示す語である。
【十二因縁】<
ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真は左記URLをご参照のこと 苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法とWikipediaに紹介されている。“因果応報”は言わずと知れた人間の業であるので省略する。
生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であるといわれる。 まだ続きがあり、武器と甲冑に身をかためた強面の神将像(立像)が12体ほど横並びで石刻されている(写真11.5 -2-17)。
十二因縁をそれぞれ退治する神将達か、それとも因果応報を実施するエージェンシーか。よくわからないが、これらの神将像の前に佇んでいる観光客が多かったのが印象的であった。きっと自分の場合はどれに対応するか、自分の胸に手を置きながら石刻像を覗き込んでいるに違いない。
そして岩肌を大きくくり抜き入り口に大きな獅子の石刻像が横たわった石窟が現れた(写真11.5 -2-19)。中には多くの石刻仏像が安置されていた(写真11.5 -2-20〜11.5 -2-23)。
石窟には外からの光が適度に入り込み、ストロボなしで、写真を撮ることが出来た。いずれも柔和な顔立ちをした仏像であった。直前まで、三界、六道、強面の神将像など、恐ろしい場面や像を見て来たためかも知れない。
石窟から出ると、すぐのところに、それぞれ虎と牛に半跏の姿で乗っている山君と道祖神(写真11.5 -2-24)が現れた。山君は手が3対あり、2対で物を持ち、一対で合掌している姿であった。さしずめ、宝頂山の守り神というところか。
ここで、これまで中国語で現地ガイドをしてきてくれた中国人女性(写真11.5-2-25)とは別れであったが、駱さんの巧妙な日本語への通訳によって、この世界遺産の価値が分かった様な気がした。
宝頂山を下山する途中、珍しい八角(または六角)四重の塔(写真11.5-2-26)及び聖壽寺(せいじゅじ)と書かれた二層のお堂(写真11.5-2-27)及び帝釈殿、そして線香の煙がたちこめる聖壽禅院(せいじゅぜんいん)と書かれたお堂(写真11.5-2-28)を目にした。・・・中略・・・、
B)北山石刻 <
ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
写真番号は左記URLをご参照下さい そして、駐車場に戻り、車で北山石刻(ほくざんせきこく)に向かい、現地時間14:00頃到着した。駐車場で車を下りるとすぐに観光案内図(写真11.5-3-1)が目に入った。ほぼ南北に細く伸びた北山石刻景区を南端から北上してゆくコースに向かった。最初に目に入ったのはどこかの国の国王とその家族、更には背後に2体の仁王像が配置した石窟(写真11.5-3-2)でありました。
そして、次に現れたのが、千体仏が壁面全体に彫り込まれた石窟(写真11.5-3-3)であり、これまで見たことのある石窟寺院の形式と同じであった。 石窟寺院の場合、石窟内にも入ることができ、内部から、像の背面を含めて仏像や飛天像を拝観できる場合が多いが、ここのは、それほどの広さは無く、窟の前面から窟内を眺めるだけであった。
“石刻”と“石窟”との差異はどの様なものか、宝頂山以上に差異が少ない様に感じた。 中央に天蓋と光背を備えた本尊としての仏像、それを囲む様に配置した飛天や脇を守る諸仏が一つの単位となった窟(写真11.5-3-4、11.5-3-6)が現れた。
そして青い彩色が残っている窟(写真11.5-3-5)は千手観音を中心に飛天像や、羅漢像が精緻に彫られていた。青い彩色は既に多くの部分が剥げ落ちているが、剥げ落ちる前のこの石刻像を見て、どのような気持ちで拝仏したのだろうか。青い彩色用材料はラビスラズリかも知れない。
C)仏の佇まい、仏教の教え <
ブログ「槐の気持ち」より
抜粋転記>写真番号は上記URLをご参照下さい いずれにしても、ここ北山石刻は、宝頂山の“三界“、六道“と言った人の所業に対する戒めを表したものではなく、仏の佇まいを丁寧に刻んでいるようであり、安心して拝観できるのでありました。
そして次に現れた石碑(写真11.5-3-7)は、仏教の教えを刻していることが、いくつかの知っている漢字から読み取れました。
小さな単位の石窟には、本尊仏があり、その脇を固める脇侍仏、そしてさらにその周囲の天蓋近くに飛天、石窟壁に地方神という構図が多いと感じていたら、そうではなく、本尊はなく、同じような複数の菩薩像が並設された単位の窟(写真11.5-3-8)や、本尊が二体という単位の窟(写真11.5-3-9)もあったと思います。
恐らく窟を寄進した人物の仏への想いの違いが出ているのだろう。自分自身を、夫婦を、子、親等の家族全体を、一族をと、安寧を祈り、祀る単位の違いによって窟内の景色も変わってくるのでしょう。
それと、寄進者の財産力の違いも勿論あったに違いありません。天蓋にも、石窟壁にも飾り佛(かざりぶつ)はなく、本尊には光背の代わりに椅子という極めてシンプルな窟(写真11.5-3-10)もいくつかありました。
そして後半の窟はほとんどが最初の窟同様、本尊がいて、それを周囲で守る脇侍としての仁王像、本尊の生活道具を持った召使仏など、天蓋、石窟壁とも隙間なく大小の仏像が石刻像として並んでいました。
窟内に入って拝仏することも可能なほど大きな窟(写真11.5-3-11〜11.5-3-20)もいくつかあった。無論、観光客がその様な空間に入って拝観することはできない。最後に180度振り返り、観光客用通路の写真(写真11.5-3-20)を撮った。
そして、北山石刻景区の北辺に至り、景区内の小さな池の南畔を東の方向に歩き駐車場に至った。現地時間PM3:30頃でしたが、今回の旅行の最終泊の地、重慶市内に向かいました。先ほどまで、観光していた大足石刻も同じ重慶市にあり、その中心部までは車で一時間程度でありました。
以上、石窟と石刻は異なるものの、ともに、仏教または仏教の教えを後世に伝えるための文化財について、筆者が探訪したことのある石窟寺院や石刻寺院について紹介しました。
中国では、仏教の他に道教、儒教、そして現在は殆ど形跡がないが、道教へと変身した太平道、五斗米道と、歴史に残る地元宗教もあり、それぞれ中国の歴史の過度期に登場してきている、と言いますか、中国歴史を動かした、と言えます。
更には、外来宗教として、イスラム教、景教、マニ教、ユダヤ教はシルクロードという文化の交叉路を伝って、東へ東へと伝播して伝播の途中の地や、中国東端の地に伝播し、更には日本にも古代より様々な形で影響を及ぼしてきています。
またインド発祥の仏教においても、いわゆる南伝仏教(上座部仏教又は小乗仏教)、そして北伝仏教(=大乗仏教、密教)、更には雲南省から長江に沿って東シナ海沿岸都市へ伝播した雲南仏教や同じ大乗仏教に属するチベット仏教があり、チベット仏教は、雲南仏教とも相互に影響を及ぼしたと考えられます。
筆者は雲南省昆明や大理、麗江などを二度に亘って、訪問していますが、その地の田畑を耕作する時の身のこなしを観たり、人々が話す時のイントネーションや咳払いの音を耳にしたり、自然の風景を見たりすると、ありえないことなのに。 自分が生まれる前の、日本のかつての田園風景を懐かしむ気持ちになったのを思い出します。恐らく自分のDNAにメモライズされているのでしょう。
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)では、ここで、上記の種々の宗教について触れておくことにします、
図にインド・中国・日本を中心とした発祥信仰・外来信仰・土着信仰・伝播信仰などとしてまとめてみました。この内、長江(雲南)仏教(※5)と武神信仰(※9,※10)は正式な文言ではなく便宜的に付けた呼称です。
※1.インド発祥の仏教(※0)は4つの形態で中国に伝播した。
※+数字 はチャート図に示した伝搬ルート番号を示しています。
【その1】ガンダーラや大月氏国を経て中国北部に伝播し、シルクロードで、中国外来信仰としてのマニ教(※7)、ユダヤ教(※8)、景教、キリスト教、イスラム教、あるいは中国土着信仰の道教(太平道や五斗米道を含む)や儒教と影響しあいながら大乗仏教(北伝仏教)として、中国東部に伝播(※1)して行き、朝鮮半島経由で倭国に伝播したり、京抗大運河を南下したりして東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※4)を及ぼした。
【その2】タイやスリランカ等の南アジア諸国経由の南伝(上座(じょうざ))仏教が雲南省に至り、そこで、それらの信仰に更に隣接したチベット仏教(※3)の影響を受け稲作(いなさく)文化等の衣食住文化とともに、長江を下り、東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※5)を及ぼした。
【その3】南アジアのタイ、スリランカ、ミャンマーを伝搬し、途中中国南シナ海沿岸地域に寄港しながら、東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※6)を及ぼした。
※2.インド発祥の仏教は、チベットにも伝搬し、大乗仏教に近い独特の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響を及ぼした。
【その4】インド発祥の仏教がチベットにも伝搬(※2)し、大乗仏教に近い独特の信仰を作り上げたが、時代的にはその3までの伝搬に遅れてチベットで独自の信仰として教義の進化を遂げ、独立性を重んじたチベット仏教を形成し、現代に至っているが、倭国へは遠く、影響はほとんどない。
32)異なる信仰(宗教)間の習合 倭国には土着信仰として八百万神、ユダヤ教の影響をうけたとの見方がある神道、更には坂上田村麻呂に因む田村神社や八幡太郎義家等源氏を祀る武神信仰(※10)、菅原道真等の学問の神を祀る天満神社
等の学問の神信仰神社(※11)、更には海難から守る神を祀る海神信仰神社(※12)(宗像三女神、金毘羅があるが、中国でも武神信仰はあり、三国志での英雄関羽(※9)は中国各地に釈迦や老子とともに祀られているところを見かけることがあったが、明清時代に造られたものが多い。関帝廟が横浜にもあるが、観光価値であり、信仰的価値は少ないと思う。
以上の内、自分のブログ「槐の気持ち」に取り上げた「
マニ教」(※7)と、ヒンズー教と仏教の関り(※0)について、以下に抜粋転記して紹介します。
@)マニ教(※7)
【D3-4:トルファン・ゼベクリク千仏洞】 <
写真は左記URLをご参照下さい>
北京時間11:00少し過ぎ、ゼベクリク千仏洞の入り口の直前のところの光景から火焔山(かえんざん)の麓に位置することが分かる(写真上1)。すぐ近くで見ると火焔山の縦縞や断層、そして火に焼けたような色が眼前に見える。
ゼベクリクというのは、ウィグル語で「装飾された家」の意味らしいが、確かに外観の造形美を感じる(写真上2)。6〜14世紀に造られた83箇所の石窟があり、40箇所に壁画があるとの話であった。そのうちの数箇所を拝観したが、イスラム教徒によって破壊された顔面の無い仏の姿は無残である。・・・中略・・・、また時代を遥かに遡ること7世紀末にはマニ教がこの地トルファンで栄え、この千仏洞にはマニ教石窟も造られたが、マニ教徒がトルファンでの最大勢力の仏教を次第に受け入れ、マニ教石窟は仏教石窟へと造りかえられたとのことである。マニ教は仏教との接点が多く、「叡智を重んずる」、「殺生をしない」、「他者を重んずる」、「自らを省みる」といった共通の教義をもっていたとのこと。
壁画は西ウィグル王国時代(9〜11世紀半ば)のものが多く、花を手にしたウィグル教養人を描いたものが多く、その内容は仏教の大乗経典の因縁物語、経変画、千仏が描かれているとのこと。アスターナ古墓群の壁画に、花鳥図が描かれていたのを思い出した。
ゼベクリク千仏洞は太陽光線を受けると、黄赤色に染まる(写真上3)。背景の山も赤く焦げ付く。約一時間観覧し、帰途につく(写真上4)。
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
「4/28(日)
ペナレス ガンジス河(その2)」より。ブログ「釈迦の生涯を訪ねて」の表現を使わせてもらうと、「ガンジス河(ガンガ)は、インドで最も聖なる河で、全ヒンドゥー世界の神聖な水の源流で、母なる女神として崇められています。
ヒンズー教徒が等しく信じている玉条のひとつに「ガンガの聖なる水で沐浴すれば、あらゆる罪業は清められて消滅し、ヴァーラースィーで死んで遺灰を流せば、苦しい輪廻から解脱することができる」があり、年間百万人を超す巡礼者の中には、この地で死ぬことのみを目的とする人も珍しくありません。」となる。
ここは沐浴をする人たちだけでなく、死者を荼毘に伏す場(火葬場)があったり、河に遺灰だけでなく遺体そのものが流れてきたりすることもある、と聞いていただけに、薄気味悪い印象があった。
しかし、ガンジス河の川べりに出た時、その意識は無くなり、むしろ,何故か、厳粛な気持ちになれた。・・・中略・・・。ヒンズー教は信者の数では、キリスト教、イスラム教に次いで多い。仏教はどうしたかというと、始祖(しそ)である釈迦は、ヒンズー教の三大神の一つであるヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。
インド憲法25条には、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。そういうことであれば、仏教徒よりもヒンズー教徒の方が圧倒的に信者の数が多くなるのも当然である。
ヒンズー教の三大神というのは、世界維持の神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗るヴィシュヌ神、創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディンのシヴァ神、そして、世界創造の神、水鳥ハンサに乗った老人の姿で表されるブラフマー神である。三大神いずれも化身や分身を持つ。
仏教で吉祥天と称されるラクシュミーは、釈迦と同様、ヴィシュヌ神の化身であり、仏教で、大黒天と称されるマハーカーラは、シヴァ神の化身、弁財天と称されるサラスヴァティーは、ブラフマー神(梵天)の神妃である。
更に、歓喜天(かんきてん)(聖天(しょうてん))は、シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司るガネーシャ、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)と称されるインドラなど、仏教で〇〇天と称される仏は、殆どヒンズー教の三大神やその神妃、および、それらの分身、化身、更には。3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神などに対応している。
また、身体の大きさを自由に変えられ、外見が猿で、ヴィシュヌ神の化身であるラーマを助ける孫悟空の元になったと考えられるハヌマーンもヒンズー神の一員であるが、これに対応する仏教の〇〇天は聞いたことはない。
〇〇天と言うように、“天”の文字のつく仏は、如来や菩薩と異なり、人に直接作用するのではなく、如来や菩薩の活動を助ける存在なのだそうだ。ヒンズ−教に於いて、ヴィシュヌ神の9番目の化身とされている釈迦の活動を邪魔する相手とは戦う必要もある。従って、〇〇天の元祖は多くの場合、鎧(よろい)を
身に着け、手には武器を持っている場合が多いのだろう。
・・・以下省略・・・
B)長江(雲南)仏教雲南省民族は、日本人のルーツという説もあるくらい日本との共通点が多い。司馬遼太郎は「街道を行く、雲南の道」で雲南省の歴史、地史、民族性、風土、信仰などについて。約80頁に亘って、記載しています。筆者は初めての雲南省旅行前に、この著に訳80頁に亘って記載された雲南省の特性に
ついて、気になる項目を、予習のつもりで項目内容や、まとめを抜粋転記して
自分の
ブログ「槐の気持ち」に記載しているので、ここでその主な項目を再記します。
ページ 司馬遼太郎 「街道を行く 雲南の道」抜粋転記
153 雲南省 山も谷も湖もタイ語系やチベット系の人達の天国であった
155 武帝のころ 貴州省、雲南省一帯を「西南夷」と呼んでいた
魚を食べ、それも刺身で食べる
雲南省 長江の上流 江南まで下って勢力をつくったのが、呉と越
163 漢の使者に対して、滇王嘗羌は「夜郎自大」
177 睡美人(西山) 風景を比喩して文学化することは漢民族文化の特徴
179 南詔文化は稲作と青銅冶金を基底とし、中国文化、中国仏教を摂取しつつ、チベット文化、タイ語系文化、インド文化の影響
唐代、南詔国は「吐蕃」の後押しを受け、唐にそむきかねない
187 西山に道観(道教の寺) 山岳信仰 東アジア古代に共通した信仰が根で、日本の原始神道とも血縁関係?
211 雲南の松茸 松蕈(ソンスン)、松蘑(ソンモ) キノコ=蘑、菌 松茸菌(スンロンジュン)
214 蒟蒻 雲南省が自生、栽培の本場
217 22の少数民族 日本稲作文化の祖
雲南民族博物館:耳杯 漆器の出土品 漆技術の源流は稲作少数民族か
雲南民族博物館:古い青銅器 石賽山古墳群からの出土 貝殻が通貨、それを貯える貯貝器を争う情景が鋳金されている
222 雲南民族博物館:雑技 蛇を踏まえて踊る二人 蛇信仰 「散楽」、「夷楽」 日本の「猿楽」に展開[奈良時代)
223 跪座(正座): 胡座(あぐら);北方、イラン系民族の座り方 その影響で、土間に椅子、テーブルを置く生活
229 漢民族の素形を作った有力な要素として古代羌族があったのでは
イ族は雲南省だけで300万人 その中にサメ族
「牧畜系のチベット族を除いては、ほとんど稲作民族であり、いまもそうありつづけている。かつ魚を食べ、それも刺身で食べる。その民族が日本人に似ていることで、雲南省で稲作する少数民族民が私どもの先祖の一派ではないか、という仮説は、こんにち日本の多くの文化人類学者から魅力をもって唱えられているか、支持されている。」と言われています。
その雲南省から長江を伝って東シナ海沿岸都市例えば蘇州にまで来て、そこからは、東シナ海にそって北東方向に海路移動すれば、日本に来ることは不可能ではない。あるいは、東シナ海沿岸に出る前に少し南にそれて、杭州や福州に至り、そこから、台湾、琉球を経て海路倭国まで渡ってきた雲南人や、他の中国内地から長江へ辿り、そこからは同じ経路で倭国に至った人たちも居たに違いない。
彼らは雲南省の衣食住文化や信仰も一緒に長江経由で倭国にもたらした可能性は大である。信仰は北伝と言うよりは、タイ、ミャンマー、ベトナム等の南アジア諸国経由の南伝仏教に近いと思われます。
従って小乗仏教的な教えが強く伝えられ、古代から、自分に向き合う内省的な教えが伝承された、と考えて良いのだろうと思っています。
中国東シナ海沿岸の寧波市にある阿育王寺を訪れたことが、ありますが、中国中原地域にある寺院に比べなんとなく赤青黄色の原色を使った佇まいというより、原色の程度が弱い配色が使われている様に感じたのを覚えています。
阿育王寺は仏舎利信仰のメッカであり、これに関しての日本との交流のエピソードがあるので以下に紹介します。
C)仏舎利信仰 阿育(アショカ)王信仰と日本の関係において次の記事が初出としてよく用いられます。
隋の大業年間(605〜17)に倭国の官人会丞(かいじょう)が留学に来ており、内外(仏教以外の学問と仏教)にひろく通じた。貞観5年(631)に本国の道俗7人とともに帰国の際に、都の僧侶が倭国の仏法について尋ねたが、その時に阿育王の八万四千塔が全世界に及んだというが、倭国にも阿育王塔があるかと質問すると、「我が国の文献に記載はないが、土地を開発するたびに往々として古塔の霊盤(れいばん)が出ており、それが光を放って多くの奇瑞があるから、あるのだろう」と答えている(『法苑珠林((ほうえんじゅりん)』巻第38、敬塔篇第(けいとうへんだい)35之2、故塔部(ことうぶ)第6)。
弘仁12年(821)5月11日に播磨国で高3尺8寸(114cm)の銅鐸が発掘されているが、これを僧侶が「阿育王塔の鐸である」と述べたといい(『日本紀略』弘仁12年5月丙午条)、また貞観2年(860)8月14日に参河国渥美郡村の松山の中で出土した高さ3尺4寸(102cm)の銅鐸が献上されているが、これも阿育王の宝鐸とされたという(『日本三代実録』巻4、貞観2年8月14日辛卯(しんぼう)条)、
このような銅鐸発掘の例は古くから記録があり、崇福寺(そうふくじ)建立に際して銅鐸が発掘されているように(『扶桑略記』第5、天智7年正月17日条)、寺院建立に際して銅鐸の発掘が奇瑞とされた例として、他には石山寺があるが(『石山寺流記』)、阿育王との関連がなされたのは平安時代前紀からのことであり、その発端は奈良時代後期にあった。
日本において本格的な阿育王舎利信仰の契機となったのが、天平勝宝6年(754)の鑑真の日本行きである。彼の請来した物の中に如来肉舎利が三千粒、阿育王塔様の金銅の塔一基があるが(『唐大和上東征伝』)、前述したように鑑真は阿育王寺に逗留しており、これが阿育王塔様の塔請来に繋がったとみられる。
なお。天平3年(731)8月10日に阿育王経五巻の写経が行なわれているが(「写経目録」正倉院文書続々修十二帙三〈大日本古文書編年7〉)、膨大な写経事業の一環とみるべきで、必ずしも阿育王舎利信仰との関連が見出せるものではない。
【称徳天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万塔陀羅尼(だらに)造立事業エピソード】また称徳天皇による神護景(じんごけい)雲(うん)4年(770)の百万塔陀羅尼造立事業も阿育王八万四千塔との関連が指摘される。
【東近江市石塔寺エピソード】 阿育王寺を最初に訪れた日本人が誰であったのか不明である。中世の説話であるが、寂照(じゃくしょう)(962頃〜1034)は阿育王寺を巡礼して池の前に至ると、寺僧から日本の近江国蒲生郡の塔が池に光明とともに浮かんでくると言われ、そのことを寂照は書き記し、箱に入れて海に浮かべた。三年後に熊野山那智浦に着岸し、これを源信(942〜1017)が開けたという(『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』石塔寺(いしどうじ)再興事記)。
【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】実際に咸平6年(1003)に、日本国の僧寂照が源信の「天台教門致相違問目二十七条」を延慶寺知礼(960〜1028)のもとに遣わしており(『四明尊者教行録(』巻第1、尊者年譜、咸平6年条)、延慶寺と近かった阿育王寺のもとに赴いた可能性があるが、この説話をもって寂照が阿育王寺に巡礼した証拠とするのは、いささか無理がある。
【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】前述したように、阿育王寺を能忍(のうにん)の弟子が訪れているが、その後日本における阿育王寺信仰に重大な役割を果たしたのが重源(1121〜1206)である。
重源は入宋して阿育王寺を訪れており、帰朝後の寿永2年(1183)正月24日に九条兼実(1149〜1207)に阿育王寺の様相と現地の信仰について述べており(『玉葉』寿永2年正月24日条)、また周防の国の材木を送って阿育王寺舎利殿再建の材としている(『南無阿弥陀仏作善集』)。
【祇園(ぎおん)女御(にょうご)、平清盛(たいらのきよもり)伝承エピソード】白河法皇が得た仏舎利2,000粒のうち、1,000粒は阿育王寺から得たものであり、以後祇園女御(生没年不明)、平清盛(1118〜81)らに伝承されたという(「仏舎利相承図」胡宮神社)。
【平重盛/源実朝エピソード】また平重盛(1138〜79)は阿育王寺の拙庵徳光に金1,000両を寄進したといい(『平家物語』巻第3、金渡)、建保4年(1216)6月15日に源実朝(1192〜1219)と面会した陳和卿(生没年不明)が、実朝の前世を阿育王寺の長老(住持)であったと述べている(『吾妻鏡』建保4年6月15日条)。
【道元阿育王寺行エピソード】道元(1200〜53)は嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)夏に阿育王寺に行ったが、西廊の壁間に西天東地三十三祖の変相が描かれているのを見ている(『正法眼蔵』仏性)。
無本覚心1207〜98)も淳祐10年(1250)阿育王山に赴いて2年間滞在しており(『鷲峰開山(しゅうほうかいざん)法灯円明国師(ほうとうえんみょうこくし)行実年譜』淳祐10年庚戌条)、以後中国に渡った禅僧は阿育王寺に滞在する者が多かった。
【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼と鐘楼の併設】訪れた阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点があることに気がついたので、ブログ
「槐の気持ち」から抜粋転記して紹介したいと思います。
尚写真番号はブログ記載のものです。「・・・、しかし、この西塔と東塔のアンバランス感は一体何なのだろう、何かの間違いかも知れない、と思い、ウェブでキーワード検索をしてみた。そうしたら、维基百科なる中国語ウェブに、「至正二十五年(1365年)建的砖塔,高36米,七层六面。东塔七层八角,1995年竣工」とあることが分かった。
即ち、西塔は7層六面、東塔は7層八面でしかも20年ほど前に竣工したばかりなのである。色は西塔がだいだい色、東塔があずき色で最初に見えたのと同じである。
度重なる火災、世を統べる建築主(統治者)の思想によって修復のされ方が異なるのだろう。しかし、異国からの旅行者が統治者の思想を推測することは不可能である、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にあるもう一つの堂宇が羅漢堂(写真10.31-8-1)であり、内部には金ピカに輝く無数の仏像が配置されていた(写真10.31-8-3、8-4)。
又、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にある更にもう一つの堂宇が阿育王寺鼓楼(写真10.31-8-2)であり、鼓楼とは城郭、都市、宗教施設敷地内などに建てられる、太鼓を設置するための建物で、太鼓を鳴らすことによって、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たした。
一方鐘楼は寺院内にあって梵鐘を吊し、時を告げる施設であり、時を告げる役割は共通している。この寺院には両楼があり、不思議な印象を受けた。・・・以下略。
第5回 完 第6回に続く