中国 雲南の旅 昆明(13)
11) 人参果 時間を戻すが、前日、石林を訪問した時に、入場券で入園する前に、ちょっとした広場があって、そこで、野菜、果物、穀物が朝市のように売られていたが、その中に『人参果』という果物があることに気づき、帰りに1kg程購入した。20元もしなかったと思う。これが、まさか実在の果物とは思っていなかったから、珍しさ故の購入で、味はどうでも良かった。安さんの話ではビワににて果皮は容易に剥けるとのことだったので、果物ナイフがないながら、ホテルに戻ったらゆっくりと食べよう考えたのだ。
『人参果』という果物は、愛読書で三回目の読み返しに入っている【西遊記】(小野忍訳 岩波文庫)の第二十四回、「万寿山にて大仙 故友を留め 五荘観にて行き 人参を盗む」という場面に出て来る。 三蔵法師ら一行は、根は崑崙の脈に接する万寿山という山の頂きにある五荘観という道教の寺を通りがかる。天下四大部州のうち、ただひとつ西牛貨州(さいごけしゅう)の五荘観だけから採れ、その名を「草還丹」またの名を「人参果」といい、三千年に一度花が咲き、三千年に一度実を結び、それから三千年たって熟す。少なくても一万年たたないと食べられない、しかもその一万年の間に三十個の実しか結ばない代物で、実の形は生まれたての赤ん坊そっくりで、五官も備え、四肢も揃っていて、もし、縁あって、臭いをかぐことができれば、360歳まで生き、もし一つ食べれば、47,000年生きられるといわれている。
この道観の鎮元大仙は、不在中に三蔵法師がここを立ち寄ることを予知し、立ち寄ったら、人参果を二つとり、丁重にもてなす様、留守番の二人の童子達に命じた。二人は言われたままに、人参果を二つ採ってきて、三蔵に差し出した。 ところが三蔵は、これを赤ん坊と間違え食べようとしない。そこで、二人の童子はそれを食べてしまう。それを隣の部屋で聞いてしまった八戒は悟空にいいつける。 それを聞いた悟空、「師匠が食べないのなら弟子の自分達に差し出すべきなのに。」、と騒ぎ出し、門を開けて外に出てみると、人間第一の仙景、西方一番の花園が目に入る。 もう一つの門を開けると、今度は菜園が目に入る。そこには四季の野菜が栽培されている。更にもう一つ門が見えたので、そこを開くと、その真ん中に大きな木があって芭蕉の形をした緑の葉をつけた青い枝をつけ、木はまっすぐに天に伸び、その高さは千尺に及び、根回りは七、八丈ある。隣の部屋からひそかに持ち出した金のたたき棒で人参果をたたき落とす。ここから大騒動が始まる。
この果物は五行(木火土金水)を忌む、即ち、金に会えば落ち、木に会えば枯れ、水に会えば溶け、土に遇えば土の中に潜り込んでしまう性質を持つ。 悟空は三人分の『人参果』をその庭園から採って食べてしまうだけでなく、『人参果』の樹を根こそぎ,倒してし、枯らしてしまった。 戻って来て、これを知った鎮元大仙は大いに怒り、師匠の三蔵を含めて鞭で叩こうとする。そこで悟空が身代わりになって叩かれるのだが、悟空は分身の計を使って逃げ出す。逃げてはつかまり、逃げては掴まることを繰り返し、ついに悟空は、枯れて倒れた『人参果』の樹を生き返らすことを約束させられる。 独力では再生させる薬が見つからず、結局菩薩と三星の力を借りることになり、生き返らす薬を貰って、人参果の樹を再生させ、鎮元大仙と三蔵一行、特に悟空、とは仲直りして、菩薩、三星、三蔵、悟空、八戒、悟浄が一つづつ、さらに鎮元も一つ、そして仙人たちも一つを分け合って人参果を食べた。また、鎮元大仙と悟空とは兄弟の約束をしたという物語になっている。
以上の物語が第24回〜第26回にかけて、延々95ページに亘り記載されている。 この部分は、第23回で猪八戒が、色欲と財産欲に負けて恥をかくことになる物語と同様、心の外にいる外敵を相手にするのではなく、食欲という自分の心の中に潜む敵を相手にするという物語になっている。
斛斗雲を繰り出し、宙返りする間に十万八千里飛べ、松、三面六臂、雀、蜂などに変化でき、八万四千本の体毛を小猿、催眠虫に化けられる身外身の法を使えたり、他の存在を吸引したり、狂風を起こす摂法が使えたり、隠身の法が使えたり、水を分けて道を作る閉水の法を使えたり、敵の動きを封じる定身の法が使えても、それらの法を合わせ持った巨大な腕力を持っていても、心の中の敵に打ち克つことは出来ず、菩薩の力を借りることになる。 西遊記は、他を頼りにせず、自ら悟り、自己と法のみをよりどころとするように、という小乗的な考え方に囚われず、ブッダの教え(小乗)を比較的自由にとらえ、仏や菩薩の救済によって悟りを開くのも認めるという大乗の教えの方を肯定している。
尚、他の売店に陳列されていた人参果を観ると、写真よりももっと大きく、形状もウリのようであった。産地によっては、更に大きく、本当に赤ん坊のようなサイズのものもあるかも知れない。
玄奘は西遊記の旅に出る前に、成都まで仏教の勉強をしにきていると言われている。更に足を南に延ばし、雲南まで来ている可能性があるのではないだろうか。そして雲南でおいしい果物『人参果』にめぐり合い、それを口述で、弟子たちに伝えたところ、『大唐西域記』を弟子達がまとめる時に、それに組み込んでしまった。憶測は自由と思い、『人参果』を軸にして脱線してみた。「旅は憶測を描くキャンバスである」と言いたい。
そのキャンパスにもう一つの憶測を描いてみると、その絵は次のようになる。
玄奘が成都に行ったのは、実は成都から雲南を経てベトナム経由で天竺(インド)へ向かうのが目的で、何らかの理由でそれを諦めて西安に戻ったのではにだろうか。地図を見てみると西安-成都-雲南-ミャンマー-天竺(インド)のコースの方が、シルクロードコースに比べてはるかに距離が短く、高い山は雲南省にある横断山脈くらいである。何故か不思議でならない。
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