槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/04/11 10:12:17|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(15)
           中国 雲南の旅 昆明(15)

13) 雲南映像
中国に旅行した時の楽しみは、その地方ならではの民族音楽演奏や歌唱、そして民族舞踏を鑑賞することである。一昨年杭州を観光した時は、千手観音を、昨年の新疆ウィグル地区を観光した時はウィグル族、カザフ族、モンゴル族等の少数民族の歌舞を、そして今回は、"雲南映像"をオプションで観賞した。入場料は5000円で、元に換算すると、300元以上。今回の観光地の拝観料は一番高くて民族村の70元なので、その4倍以上。割高という感じが否めなかった。今回の雲南の旅を思い立った理由の中に、葫芦絲の演奏が入ったビデオCD “雲南民族文化音像“ を見聞きして刺激を受けたということを書いたが、これを基に期待しすぎた感がある。また写真撮影禁止という点も失望した点である。もっともボイス・トレック(電子録音機)で、最初から最後まで録音したが・・・

出し物は
http://www.dyci.cn
の通りで、プロローグ、エピローグ含めて計七幕の出し物で、特に太鼓の演奏は圧巻だったが、日本でも観賞できるレベルであり、いくらか物足りなさを感じた。むしろ、雲南の象徴的な鳥、孔雀に因んだ出し物は叙情的で良かった(上記ウェブより)。

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2008/04/09 22:44:16|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(14)

          中国 雲南の旅 昆明(14)

12) 雲南民族村
 雲南民族村は昆明市内から8キロ南にあるテン池(面積83ヘクタール)の北岸に位置する比較的新しい観光地で、雲南省に住む25の少数民族の文化、風俗を展示、紹介している。敷地内には各少数民族の村が作られ、民具や衣装が展示されている。また園内では定期的に各民族の伝統儀式や民族舞踊が行われている。大理三塔寺や、タイ族の仏塔の模型などもある。現地に行ってもなかなか見られない歌や踊りが鑑賞できるのが魅力だ。
民族団結広場、民族歌舞ホール、風味レストラン、宿営娯楽エリア、遊覧船の埠頭、遊覧車等観光、娯楽、食事などを集めた総合施設もある。
以上がウェブ情報である。

 民族村入り口広場(写真上1)は広々とし、圧迫感が全くない。入り口を入ると、種々の少数民族ガイドが待機している。好みの少数民族を選んでガイドしてもらうようになっているのだが残念ながら日本語を話せる人はいないということで写真だけ撮らせてもらい(写真上2、上3)、そこを通過して先に歩を進めた。

 最初に目に入ったのは台湾族のコーナーで建物があるだけで、特に目を惹くものは無かった。それより、何故台湾人が少数民族なのか不思議な感じがした。台湾に住んでいる年寄りの殆どが中国大陸からの移住者で、もとを辿れば殆どが漢民族なのではないのか。その子孫達が台湾に生まれ育ったからといって、少数民族になるのだろうか。それとも台湾の高砂族の様な人達を言うのだろうか。

 もし複数の日本人が中国に帰化し、子孫を多く残し、ひとまとまりの人口にまとまると、倭族とでも言われ、少数民族の仲間になるのだろうか。漢族との混血の子孫が出来てくると、どの様に呼ばれるのだろうか、そんなことを考えながら台湾館を横目に見て通り過ぎ、少し歩くとタイ族の民族村に差し掛かった。

 以下に写真を沢山添付するが、すべての写真について説明するのは難しい。沢山の民族村を巡ったので、写真と説明との関係が交錯してしまっていて説明に自信がないからである。民族村では写真を200枚ほど撮ったが、それから、20枚を掲載する。

 先ず、民族衣装、いずれも極めてカラフルで、頭飾りや帽子に特徴がある。写真上2の真ん中と右端が白族(ペー族)であり、最初に雲南省に来たくなった理由となった葫芦絲の演奏が入ったビデオCDにも納められている。白族の人相学的特徴は”おでこ”がひろいということで、写真の一番右側の女性の顔である。八千草薫や吉永小百合はひょっとして雲南省白族の末裔でないか思うくらい、”おでこ”の広さがチャーミングさに結びついている。

 民族村には多くの樹木が植えられている。綿帽子の様な白いフワフワしたものが、気流にのり、右往左往しながら多くはないが肩越しに通り過ぎてゆく。柳蕠(りゅうじょ)である。柳は中国の風情には欠かせない樹木で、一昨年、杭州の西湖を訪れた時にそれを確信したものだ。西湖湖岸に植えられた柳は、枝垂れる柳の枝は湖面に着水するくらいに伸び、すだれの様に眼前にひろがる。一陣の軽やかな風が来ると、すだれは左右に掻き分けられ、そこに落陽によって曳かれたまっすぐな幅広の輝線が湖面を分ける。そしてその輝線を黒いシルエットになった船がゆっくりと横切る。そんな光景を思い出した。その柳が柳蕠を作り出す。写真が撮れるほど次から次へというほどではなく、残念ながらこの光景を記録に残すことは出来なかった。

 今の季節は雲南省のどこにも桜が咲いている。民族村にも多くの桜が植えられていて、色は日本のソメイヨシノよりもはるかに濃い。また横への広がりが小さく天に向かって伸びているものが多い。
 てっきりそう思っていたが、ここに咲いている桜は珍しく枝を水平に展開し、もう少しすると池の水面に接するが如く咲いていた(写真上5)。そして、著莪 (しゃが、別名胡蝶花)が一面に咲いているところもあった(写真上6)。そして山茶花(さざんか)。中国では、椿も山茶花と呼び、区別しないのだそうだ。真紅の山茶花が瓦屋根に実にマッチする(写真上7)。そして、芍薬(写真上8)。樹木の風体をしているのが牡丹、草の風体をしているのが芍薬という分類をするなら牡丹かも知れない。

 民族村には、いろいろ珍しい展示品を目にした。先ず民族名が怒族(どぞく)で、この少数民族名の食品加工工場であることを表示している(写真上9左上)。少数民族は象形文字をよく使う。特にトンバ文字(写真上9右上)は有名で、この文字を使って文章を作っていたのかと思うと、けだるさを感じてしまうとともに、漢字との関連も分かってくる。

 もの好きな自分はトンバ文字で自分の苗字の印鑑を作成依頼し、土産にすることにした。しかし二文字の漢字に対応するトンバ文字は無いということで、二文字の漢字のそれぞれが持つ意味に対応するトンバ文字を二文字並べることで代替した。

 酒は少数民族の貴重な嗜好品、展示しているだけでなく試飲させてくれる村があったので、中に入ったらとうもろこしから作った酒を呑ませてくれた。アルコール度50度の酒(写真上9左中、右中)をウィスキーグラスでストレートで呑むのだ。ロックでも、水割りでもないストレートだ。中国人にロックとか水割りでのむ習慣はないのだそうだ。日本で飲むときはストレートで飲む機会は殆ど無いので気が付かなかったが少量であればストレートの味も良いものだ、という印象を受けた。ただし、いつぶっ倒れるか分からないという恐怖もあり、ここだけの話である。

 そして叩くとご利益があるという平鐘(写真上9左下)で、ひっきり無しに叩いて写真を撮ってゆく人がいるが、賽銭には無関心の人が多いようだった。
 少数民族の比較的上流の家屋には、面が東に向いた飾り塀があり、造形美を感じた。この塀の建設目的は朝東からの太陽の光を反射させて西向きの部屋を照らすことだそうだ。純白の壁の一部に模様が施されていてこの模様は転写されて西向きの部屋のスクリーンに映し出されるのかも知れない。その壁の前には山茶花や芍薬の花がある場合が多く、その姿を部屋の中に投影させて楽しむのかも知れない。中国人であれば、その程度のことをやりそうだ。

 各民族村の入り口には、鳥居の様な独特の門構えがあり、その門に少数民族名が記されている。気づかないで門をくぐっていてじっくり観賞できないケースも多々あったが、記憶にある対照的な二つである。写真上10左上は納西族(ナシ族)のもので寺院風、写真上右は白族のもので、どちらかというと、神社の鳥居風である。また写真10左中は神社風の鳥居が幾重にも連なっていて京都の吉田神社風である。これらが本当に伝統的な構造なのかは分からないが、伝統的構造をベースにしていることは間違いないだろう。写真10左下は、気に入った建屋構造でなんとなく昭和20、30年代頃の日本にもあちこちにあった家屋の構造のようだった。通りに面した家の構えは皆こんな感じだったような気がして、懐かしさを感じさせて気に入った。

 雲南民族村を観光して、少数民族とは何か、少数民族という区分けすることが中華人民にとって良い事なのか感じさせられた。婚姻によって少数民族の純血性が失われるが、個人の自由と言う面ではむしろ好ましいことで、まるで、”観光ツール”の様な存在に押しやられているということは無いのだろうか。漢民族の発展のための道具の様な見方があれば、今回の様なチベット争乱は起こるべくして起ったと言わざるを得ない。

 それと中華民族と大きくくくった時の民族性について安さんとしゃべったことがあった。
「中国人は外国語習得能力が日本人よりはるかに高いのではないか。日本人は中学一年から大学四年まで英語を勉強するが、しゃべれるようになるのは殆どいない」
「中国も同じ。ただ中国人は一度外国語を使う仕事に携わることを決心すると、その後の頑張りが凄いのではないか。日本人は恵まれすぎて、必要なガンバリズムが薄れてきている。また本気になって頑張ってみようとする対象がみつかりにくくなっている。ゲームや漫画に熱中しすぎて、その様な対象を見つける暇をなくしてしまっている。」
「中国も富裕階級が増えてきて、かっての、がむしゃらなガンバリズムの精神は薄れてきている。大学でもお金さえあれば入学できる時代になっている。」
「恵まれすぎると堕落してしまうんだよね。」・・・・・。

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2008/04/07 19:52:09|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(13)
中国 雲南の旅 昆明(13)

11) 人参果
 時間を戻すが、前日、石林を訪問した時に、入場券で入園する前に、ちょっとした広場があって、そこで、野菜、果物、穀物が朝市のように売られていたが、その中に『人参果』という果物があることに気づき、帰りに1kg程購入した。20元もしなかったと思う。これが、まさか実在の果物とは思っていなかったから、珍しさ故の購入で、味はどうでも良かった。安さんの話ではビワににて果皮は容易に剥けるとのことだったので、果物ナイフがないながら、ホテルに戻ったらゆっくりと食べよう考えたのだ。

『人参果』という果物は、愛読書で三回目の読み返しに入っている【西遊記】(小野忍訳 岩波文庫)の第二十四回、「万寿山にて大仙 故友を留め 五荘観にて行き 人参を盗む」という場面に出て来る。
 三蔵法師ら一行は、根は崑崙の脈に接する万寿山という山の頂きにある五荘観という道教の寺を通りがかる。天下四大部州のうち、ただひとつ西牛貨州(さいごけしゅう)の五荘観だけから採れ、その名を「草還丹」またの名を「人参果」といい、三千年に一度花が咲き、三千年に一度実を結び、それから三千年たって熟す。少なくても一万年たたないと食べられない、しかもその一万年の間に三十個の実しか結ばない代物で、実の形は生まれたての赤ん坊そっくりで、五官も備え、四肢も揃っていて、もし、縁あって、臭いをかぐことができれば、360歳まで生き、もし一つ食べれば、47,000年生きられるといわれている。

 この道観の鎮元大仙は、不在中に三蔵法師がここを立ち寄ることを予知し、立ち寄ったら、人参果を二つとり、丁重にもてなす様、留守番の二人の童子達に命じた。二人は言われたままに、人参果を二つ採ってきて、三蔵に差し出した。
 ところが三蔵は、これを赤ん坊と間違え食べようとしない。そこで、二人の童子はそれを食べてしまう。それを隣の部屋で聞いてしまった八戒は悟空にいいつける。
 それを聞いた悟空、「師匠が食べないのなら弟子の自分達に差し出すべきなのに。」、と騒ぎ出し、門を開けて外に出てみると、人間第一の仙景、西方一番の花園が目に入る。
 もう一つの門を開けると、今度は菜園が目に入る。そこには四季の野菜が栽培されている。更にもう一つ門が見えたので、そこを開くと、その真ん中に大きな木があって芭蕉の形をした緑の葉をつけた青い枝をつけ、木はまっすぐに天に伸び、その高さは千尺に及び、根回りは七、八丈ある。隣の部屋からひそかに持ち出した金のたたき棒で人参果をたたき落とす。ここから大騒動が始まる。

 この果物は五行(木火土金水)を忌む、即ち、金に会えば落ち、木に会えば枯れ、水に会えば溶け、土に遇えば土の中に潜り込んでしまう性質を持つ。
 悟空は三人分の『人参果』をその庭園から採って食べてしまうだけでなく、『人参果』の樹を根こそぎ,倒してし、枯らしてしまった。
 戻って来て、これを知った鎮元大仙は大いに怒り、師匠の三蔵を含めて鞭で叩こうとする。そこで悟空が身代わりになって叩かれるのだが、悟空は分身の計を使って逃げ出す。逃げてはつかまり、逃げては掴まることを繰り返し、ついに悟空は、枯れて倒れた『人参果』の樹を生き返らすことを約束させられる。
 独力では再生させる薬が見つからず、結局菩薩と三星の力を借りることになり、生き返らす薬を貰って、人参果の樹を再生させ、鎮元大仙と三蔵一行、特に悟空、とは仲直りして、菩薩、三星、三蔵、悟空、八戒、悟浄が一つづつ、さらに鎮元も一つ、そして仙人たちも一つを分け合って人参果を食べた。また、鎮元大仙と悟空とは兄弟の約束をしたという物語になっている。

 以上の物語が第24回〜第26回にかけて、延々95ページに亘り記載されている。
 この部分は、第23回で猪八戒が、色欲と財産欲に負けて恥をかくことになる物語と同様、心の外にいる外敵を相手にするのではなく、食欲という自分の心の中に潜む敵を相手にするという物語になっている。

 斛斗雲を繰り出し、宙返りする間に十万八千里飛べ、松、三面六臂、雀、蜂などに変化でき、八万四千本の体毛を小猿、催眠虫に化けられる身外身の法を使えたり、他の存在を吸引したり、狂風を起こす摂法が使えたり、隠身の法が使えたり、水を分けて道を作る閉水の法を使えたり、敵の動きを封じる定身の法が使えても、それらの法を合わせ持った巨大な腕力を持っていても、心の中の敵に打ち克つことは出来ず、菩薩の力を借りることになる。
 西遊記は、他を頼りにせず、自ら悟り、自己と法のみをよりどころとするように、という小乗的な考え方に囚われず、ブッダの教え(小乗)を比較的自由にとらえ、仏や菩薩の救済によって悟りを開くのも認めるという大乗の教えの方を肯定している。

 尚、他の売店に陳列されていた人参果を観ると、写真よりももっと大きく、形状もウリのようであった。産地によっては、更に大きく、本当に赤ん坊のようなサイズのものもあるかも知れない。

 玄奘は西遊記の旅に出る前に、成都まで仏教の勉強をしにきていると言われている。更に足を南に延ばし、雲南まで来ている可能性があるのではないだろうか。そして雲南でおいしい果物『人参果』にめぐり合い、それを口述で、弟子たちに伝えたところ、『大唐西域記』を弟子達がまとめる時に、それに組み込んでしまった。憶測は自由と思い、『人参果』を軸にして脱線してみた。「旅は憶測を描くキャンバスである」と言いたい。

 そのキャンパスにもう一つの憶測を描いてみると、その絵は次のようになる。

玄奘が成都に行ったのは、実は成都から雲南を経てベトナム経由で天竺(インド)へ向かうのが目的で、何らかの理由でそれを諦めて西安に戻ったのではにだろうか。地図を見てみると西安-成都-雲南-ミャンマー-天竺(インド)のコースの方が、シルクロードコースに比べてはるかに距離が短く、高い山は雲南省にある横断山脈くらいである。何故か不思議でならない。

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2008/04/05 12:26:38|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(12)

          中国 雲南の旅 昆明(12)
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10)金殿公園
 石林から途中国際園芸博会場の脇を抜けて、昆明北東にある金殿に向かう。鳴鳳山の上の方にあるので、はあはあ、息を弾ませながら急坂を上ってゆく。
 中国雲南省昆明北部から8kmの鳴鳳山は美しい自然景観に恵まれ、明、清朝時代より中国昆明有名な景勝地として昆明勝景の一つ。昆明金殿の太和宮(写真上1)は道教寺院群であり、迎仙門、三つの山門、真武殿、雷神殿、銅瓦殿(金殿)などからなる。其のうち雲南省昆明金殿は中国では銅製の大殿中。昆明金殿は雲南軍門の陳用賓が明朝の万歴年間(1601年)に、武当山の真武山の太和廟を摸して鳴鳳山で初建し、その後、清康熙十年、呉三桂が重建したものと言われる。
 金殿は高さが7m、重さが約200トン。二重のそり上がった軒持、木造建築を真似って作られた廟。中国雲南省昆明金殿の瓦、垂木から梁、門、窓、屋根、門の両辺掛けたもの及び内部に安置された神像など至るまですべてに銅を鋳造し組み立てられている。金殿の周囲には白大理石に石彫りの欄干がめぐらされ、荘厳かつ重厚な雰囲気に包まれています。三百年前築造技術の精粋を呈している。中国旅行昆明金殿山頂の鐘楼には明大永楽年21年(1423年)作られ、重さ14トンの鐘掛かっている。中国雲南省昆明金殿の鐘声は数十キロ離れでも聞こえるとのこと。

  以上がウェブ観光案内に紹介されている内容である。太和宮(写真上1)の最初の山門をくぐると、間もなく第二の山門(写真上2)をくぐることになる。山道の両側には、立派な君子蘭の鉢が等間隔に配置され、開花して垂れ下がっている隣同士の花が接する様で、オレンジ色のベルトに挟まれて歩いているようである。頭上には雲南桜が覆い、途中から登り階段となったが、道教寺院のカラフルで荘重な佇まいに気を呑まれ、急な登り階段を上っていることを忘れるくらいだった。階段を登りきり、後ろを振り返ると、期待したほどの景色ではなかった(写真上3)。日本の桜が日頃から如何に良く手入れされているか分かる。更に階段をのぼってゆくと、最後に金殿が現れ、『金殿朝輝』という案内板が目に入った(写真上4)。帰りに買った絵葉書では、反対側に朝日があたり、その反射光が周りの木々を黄金色に染めている景色のものがあったので、建物は銅製だけど、黄銅に近く、朝陽を受け金色っぽく輝くので、そういう名となったのではないかと思った。ここには欧米人観光客がいて、盛んにカメラのシャッターを切っていた。

 そのあたりで、安さんに何枚か写真を撮ってもらい(写真上5、写真上6)、それから山道を逸れる方向に歩を向けた。歩いているうちに、様々な銅製のモニュメントや金印のモニュメントが目に入った。金印は、日本で見つかった金印とデザインが似ていて、時代も同じころのものだそうだ。ともに、方一寸で、印を掴むつまみは共に蛇であった。紀元前後の漢の時代に、東の果てに、倭の国があり、南西の地に.テンの国がある。そんな内容が司馬遼太郎の『街道をゆく—雲南のみち』に書かれていた。更に歩を進めると桜の回廊といった感じの光景に出くわした。桜は満開で、すばらしい景色で、すぐ2枚ほど写真を撮った(写真上7、写真上8、写真上9は金殿近傍の写真)。

 また少し歩くと、公園らしい空間が拡がり、仲間と麻雀に興ずる中高年の人達(写真上10)、水煙草をくゆらす老人(写真上11)、花が観れるのは暫く先と思わせる藤棚の下で二胡を練習している父娘(?)の姿があった。その藤棚に、リスが戯れている姿も見えた(写真上12)。中国では、公園で緑陰マージャンを楽しむ中高年の姿をよく見る。それが羨ましくて仕方がない。先ず、四人の仲間が集まれること、次に、その様な空間、時間を持っているのが羨ましい。
 日本の中高年より、はるかにゆとりがあるのだろうか、「麻雀は賭けているのか?」と安さんに聞いてみたら「少しは賭けている。」との答え、「写真は撮っても良いだろうか?」との問いには、「遠くからなら。」との答え。人の楽しみを覗き見すべきではない、ということか。更に「定年というのはあるのか、あるとしたら何歳で?」と聞いてみたら、「ある。定年は60歳だが、場合によっては55歳。」との答え。日本と同じだ。更に、「年金は貰っているの?」に対して「貰っている人は殆どいない。」「そうしたら、どうやって生活しているの?」「子供達に面倒をみてもらう。」「子供のいない人はどうする?最低二人いないと面倒見切れないことになるのでは?また一人っ子政策では子供達に面倒をみてもらう、という考え方が破綻するのではないか?」「一人っ子政策の対象になるのは漢民族だけで、少数民族には適用されない。」結局、結婚したら、子供をつくり、親子の絆をきちんと正しく作っておかないと、老後の保障は無いということだ。年金制度の原点がここにあるような感じがした。

 戻りの下り坂の道辺に土産物を売っている店が沢山並んでいて、そこから葫芦絲の演奏曲である、聞きなれた、そして雲南への魅力を掻きたてられた一因となった『月光下的凰尾竹』が間断なく耳に入る。また知人からいただいたのと同じCDもあり、この楽器を買ってしまった。雲南ではどこでも売っているが、もっと高価という安さんの声を聞いて決心したのだが、たったの40元で、安すぎて申し訳ない気持ちになり、30元の二枚組CDを併せて購入した。店子が、自分で吹いてみていて、これが実にうまい。完全に吹きこなしている。購入した葫芦絲で『月光下的凰尾竹』を吹いてもらった。お金を払うとき。その店子が下肢の身体障害者があることが分かった。 障害に対する精神的なよりどころとしてこの楽器にのめり込んだのだのかも知れない。この楽器による楽曲の素晴らしさを伝え、自分と同じ様に、この楽器に触れて演奏する機会を持ってもらって、精神的な安楽を感じてもらう。そんな気持ちで店子をやっているのではないかという憶測をして、この店子の人生と葫芦絲との関わりについて興味をもった。

 帰国後、自分で吹いてみたが、どう孔を抑えてみても音階が出ないが、やはり教則本を一緒に買えば良かったと後悔した。全部中国語なので分からないだろうという安さんの忠告で辞めたのだが、図示されていたら分かったかも知れないと後悔したのだ。

尚、知人からもらった葫芦絲の演奏家の○徳全さん(○は限のヘンが行人偏)は葫芦絲の演奏の第一人者であること。翌日訪れた、雲南民族村のタイ族のところでも間断なくこの曲が流されていて、この曲が如何に人々の心を捉える音楽かということがわかる。以上余話。

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2008/04/04 15:58:18|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(11)写真のつづき

中国 雲南の旅 昆明(11)
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9)大石林と小石林


 大石林に入ってすぐの「石林勝景」には、大きく『天下第一奇観』、『石林』の文字が彫られた石の壁がそびえ立っており(前記事写真上4)、雄大な剣峰池、スリルに富んだ蓮花峰、いろいろ珍しい形をした石峰など。例えば、“孔雀梳翼”、“象踞石台”、“双鳥渡食”などはその形がそれぞれ鳥や象によく似ている(本記事写真上1)。

 石林の中に入ってゆくと、天に向かって聳え立つ刃物の様な岩(本記事写真上2)。両側から岩が迫り、僅かな隙間を縫って行く歩行路(本記事写真上3)。そして岩がシルエットとして浮かび、様々な動物の姿に見える(本記事写真上1)。

 奥には「望峰亭」という展望台(本記事写真上3)も設けられており、ここからは大自然の奇観の石の森を一望でき大自然を満喫できるというので足をそちらの方へ向けたが、幾筋も合流しながら展望台に向かうので、もの凄い混雑、押しくら饅頭そのもの。地元の人が観光することはなく、中国全土から曜日に関係なくツアーとして来るので、いつもこうであるとのこと。たまたま近くに日本人がいて、曰く、「中国人は譲りあうことを知らない。」。したがって、日本人はどんどん流れに遅れてゆく。礼の精神を重視した孔子も”謙譲”という精神の重要さは説かなかったのかも知れない。日本人が多々持っている譲り合いの精神は欧米から移入したものなのだろうか。

 中国雲南石林の大石林隣の小石林は険しくないが、有名な“アシマ(阿詩瑪)”と呼ばれる巨石はここに聳えている。大石林がZ軸方向に展開されているとすると、小石林は面に展開されていて、造園されているという印象を受けた。(本記事写真上4)

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