槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/04/13 16:13:09|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(20)

   中国 雲南の旅 昆明(20)

18)大観楼
  昆明市内から6キロ西南に位置する面積約0.5ヘクタールの庭園式公園。園内の木造3階建ての城楼は1690年に創建されたが火事で焼失し、1866年に再建されたものだ。城楼の上から池の全景や西山も一望することができる。城楼内部には歴史的文人、墨客の題字が多く残されており、中でも特に有名なものは、清代の孫髯翁が詠んだ180文字の長聯(家の門などに飾る細長い紙に文字を書いたもの)で、「天下第一長聯」と称えられている。この180文字で雲南省の数千年の歴史及び園内の池周辺の景色を余すことなく表現していることから各界の絶賛をあびている。年間を通じ大勢の観光客がこの公園を目指してやってくるが、その主な目的はこの長聯にあるといっても過言ではない。
以上がウェブ情報である。

 前日、西山に向かう途中、行き交うバスの多くが、「大観楼ゆき」という表示となっていて、観光客だけでなく地元の人達にとっても、いこいの空間、公園になっているのだと予想できた。大観楼大門に行き着くまでは、花がたっぷりあり(写真上2〜上4)、池や休憩所があり、思い思いの楽しみかたをしている。
 今回観光した先々で、一線を退いたと思われる初老の人達が麻雀、合唱、二胡の演奏などに興じる姿を目にしてきたが、ここ大観楼でも、同じで、バイオリン、ギター、タンバリン、葫芦絲の合奏、それに合わせて朗々と歌う人、更にそのリズムに合わせて軽快な足運びでステップを踏む女性。
 きっといつものメンバーなのであろう、うまく調和している(写真上4〜上6)。観客も多少だがいる。きっと常連なのだろう。奏でる人も、歌う人も、踊る人も、往時はプロとまでゆかなくとも、他人の前で、腕前を披露していたに違いない。しばし足を止めて聞いていたが、彼らの持っている時間に自分の気持ちがシンクロし、心地良い気分に浸れた。
 ガイドの安さんに、「かなりの腕前ですね」と言ったら、「あの程度の人達はどこにでもいる。」とのこと。日本では面前で歌ったり、演奏したりする場所といえば、カラオケやちょっとした防音環境の整った室内である。練習しても、公園の様な開けた空間でやることは殆ど無い。

 安さんにしたがって歩を進めてゆくうちに、望楼の様な建物が現れた。これこそが、大観楼そのものであった。

 正門に掲げられた“拔浪千層”という扁額は乙卯年(1855)に皇帝が書き、下賜されたものといわれる。中国雲南省昆明大観楼大門の両辺には中国最長の180字の大観楼長詩が懸かっている。
 180字の連詩は上部は中国昆明美しい自然景色を描写し賛美し、 下部は雲南の歴史を述べ、感懐している。基の長聯は中国雲南省昆明の、有名な書道家の陸樹堂氏によって彫刻されたが、1857年、戦火に焼失され、今のものは光緒14年(1888年)、ペー族詩人の?藩氏よって書かれたものであるとのこと。

  以下に、写真に撮った180字(数えると178文字であった)を、いささかあやふやなところもあるが、読み取った漢字を書き下してみる。なんとなく断片的に意味の分かるところもあるが殆ど分からない。但し、簡体字が使われていないので、wordの手書き入力が役に立った。またデジカメなので、画像をいくらでも拡大出来たり、コントラストを変化できるのが有り難い。

右聯:90文字
     
  五百里滇池奔束眼底枝襟岸情喜茫菠空潤
  無邊看来駿神駿西者霊儀北走蜿蜒南翔縞
  素高人韻士何妨選勝登臨趁蟹嶼螺洲梳裏
  就風髪霧鬢更煩天葦地點綴些翠羽丹霞莫
  狐負四圍香稲萬頃晴沙九夏芙蓉三春楊柳


左聯:87文字
     
  得我杵疎鐘半江漁火雨行秋雁一杭清霜
  r烈豊功費盡移山心力儘珠簾書棟巻不乃
  暮雨朝雲使断碣残硨都付輿蒼煙落照只
  千年往事注到心頭把洒淩虚歎滾滾英雄誰
  在想漢習棲船唐標鐵柱宋揮玉斧元跨革


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2008/04/12 18:55:14|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(19)

          中国 雲南の旅 昆明(19)
      
17) 華亭寺
 雲南省で最大規模を誇り900年以上の歴史がある。何度も再建を繰り返し、現存する物は1923年虚雲大和尚が再建したもの。寺院内には200あまりの建築物がある。寺院内に鐘楼、天王宝殿、大雄宝殿及び数個の花園がある。ここの仏像と五百羅漢に特色があり、歴代の対聯、扁額は意味深長である。山門は雄大な三層の中式楼閣、反り返った軒先で、力強くそびえている古木と肩を並べる。また、園内には椿、犬槙(いぬまき)等珍しい植物を植えている。
  以上がウェブ情報である。

  中国の仏教寺院の名前と同じ名の寺院は日本に多く、翌日訪問予定の円通寺もそうだ。しかし、この華亭寺というのは日本の寺としては聞いたことがない。“華亭”という言葉を勝手に想像すると“花園”ということになり、その名に相応しい花の豊富な寺である。900年以上の歴史があるということだが、度重なる火災で、最後の再建は85年前というから、古刹というには、新しい。

 山門(写真上1)をくぐると目の前に天王殿(写真上7)が建っていて弥勒菩薩、四天王(写真上3、写真上6)などが祀られている。その先には大雄宝殿(写真上2)があり、三世仏が祀られている。大雄宝殿の脇には明の時代に作られた500羅漢を収めたお堂がある(写真撮影禁止)。
羅漢たちは彩色され、嬉そうな顔、悲しそうな顔、心配そうな顔など1つ1つ違う顔をしている。どれか一つ適当に羅漢を決め、どの方向でも良いので、自分の年齢に等しい数を数えてゆき、その数になったところで止めると、その羅漢の表情が自分のこの一年の生き様を表象している、というのだ。嬉そうな顔をした羅漢に当たれば、そういう一年を、悲しそうな顔をした羅漢にあたれば、そういう一年を、心配そうな顔をした羅漢にあたれば、そういう一年を過ごすことになる。その様に地元の人は毎年羅漢の顔を見て運勢を占うそうだ。中庭の周りの建物の扉には西遊記の場面(写真上4)が彫られている。
 何故、西遊記なのか。仏教寺院で、仏教の教えが篭められた西遊記が仏教寺院として分かり易く、教材として説きやすさを持っているためなのだろうか。人参果の場面を探そうともしたが、安さんが急いでいるように思えたので、遠慮して次に向かった。


 その回廊を横切ると、僧達の宿舎だろうか、講堂だろうか、そんな感じの建物があり、そこと棟つづきとなった館に案内された。そこには、絵や巻物を展示してあり、それらはその寺院の文化財とは関係無い様に見えた。となれば、これは土産物売り場館ということが、容易に推察でき、散財しないよう気持ちを引き締めた。何気なく絵を観ていると、いつのまにか背後に日本語の上手な説明員が近づいてきて、絵の説明を始めた。絵には全く興味がない、と言うと、隣の館に案内され、なんでも良いから、土産としてどうか、という。
 華亭寺は国や市からの援助は一切受けていず、陳列した展示品を販売して得た浄財を、寺の維持費や修学僧の修学費として援助しているとのこと。
 そう言われたからではないが、家内から餞別を受け取り、倍返しなどと言う家内からの言葉を思い出し、宝飾品を眺めていたら、ショーケースの中から大き目の翡翠のネックレスを取り出し、80,000円だと言う。とんでも無い、半額程度だろうと思い、20,000円という指値を出した。相手も首を縦にふらないので、それなら要らない、と言ったら、それでも良いということになり、家内への土産ということになった。一体誰が一番得したのだろうか。そんなことを思いながらその館を後にした。

 もう一度、一周り見回して、写真映りの良さそうな場面を探し写真を撮った。椿咲く、華亭寺(写真上7)他三枚(写真上8〜上10)撮った。

 日本にも京都に花の寺というのがある。しかし、これは俗称で勝持寺という本名がある。華亭寺もそうなのではないかと、中国語と英語で書かれたパンフレットを読むと、建立当初(1320年)は“大円覚寺”、1462年に“華亭山大円覚寺”1552年に“華亭寺”となったのだそうだ。

【華亭寺の簡単な紹介】パンフレットの中文と英文を和訳
    “華亭”という名は昆明西山の碧鶏山華亭峰から取られている。この寺の旧址は宗王朝の大理国時代の鄯闡(現昆明)の貴族高智が開いた別荘であった。1320年に、雲南で第一の高僧である玄峰法師がここを寺として、大円覚寺と名づけた。明代1453年には駐雲南太監の黎義(リー・イー)が修復、1462年には明の英宗によって、”華亭山大円覚寺”と名づけられた。1552年には”華亭寺”と改名されたが、その後、明、清時代の相次ぐ戦乱によって、破壊、修復、火災が繰り返されてきた。
     1920年、錫鶏足山祝圣寺の高僧虚雲(シュウウン)老和尚が雲南省省長の唐継堯(タン・イーヤオ)に “華亭寺”の住職に招聘された。虚雲がやって来るまでは、この寺は大層荒れ果て、財政的にも疲弊して外国人クラブに売りに出され、省政府によって認可されるところだった。虚雲はこれを嘆き、寺の将来を心配して、唐にそうならない様に嘆願した。そして
   虚雲は省政府の支持のもと、寺の再建と良好な状態に運用することを引き受けた。修復の過程で、雲栖と書かれた石碑が発掘され、かって、この寺が雲栖と称されていることが分かった。後に唐省長はこの寺を”靖国雲栖禅寺”と呼ぶことにした。その後資金が無くなり、虚雲は多くの考えうる困難に遭遇したが、ついに彼は半分の資金で、寺を再建し、10年の努力を結実させた。現在の寺の全体の配置はこの虚雲が再建した時と同じである。
     華亭寺は1949年以降(解放後)数回に亘り修復されている。特に第11期第三次中国共産党大会で、宗教政策がより具体的に定められ、その結果、宗教事務部門の支持と敬虔な教徒の支持のもとに、より多くの再構築が確立した。例えば、1970年台に取り壊された原蔵経楼の元の形への再建が行われた。また方丈室の修復も行われた。
1995年2月14日大雄宝殿が不注意で火災に遇ったが、後、昆明市の仏教協会副会長の心明回寺の住持によって、各界の協力を得て、大雄宝殿は再建された。この時仏像は金色塗装され、全寺は面貌一新となった。
華亭寺に現存する文物古跡は、
・ ミャンマー仏教徒から贈られた玉仏両尊
・ タイ仏教徒から寄贈された鍍金仏
・ 方丈室保存の銅鋳鎏金(りゅうきん)三目十八臂准提菩薩
・ 虚雲禅師舎利塔
・ 林則徐、郭沫若 詩碑
華亭寺干 1983年4月 国務院によって、全国漢族地区仏教重点寺院に批准される。

寺の由緒を簡単に紹介する(簡介)パンフレットを読んで分かったのは、写真上5で山門に"雲棲"とかかれた扁額がかかっている理由だった。"雲栖"の栖は棲と同義語で、"雲栖"ではなく"雲棲”となっているのであろう。また、このパンフレットで若干気になったのは、最後の行記載の"全国漢族地区仏教重点寺院"というところでで、漢族は少数民族とは線引きされているのかナア!?。

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2008/04/12 0:06:53|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(18)
中国 雲南の旅 昆明(18)

写真左列:1〜7、右列:8〜15 クリック拡大可
16)西山龍門
 司馬遼太郎の「街道をゆく−雲南のみち」には、女性が仰向けに寝そべっていて、その人の髪の毛がなびいたまま滇池(テンチ)に浸っている姿に見えると紹介している。その西山が昆明のあちらこちから観ることが出来、雲南民族村からもそのシルエットを拝むことが出来ている(写真上1)。その西山の山肌には、修験の為の道がつくられていて、いくつかの石窟が掘られていたり、堂宇が建てられている。

 2200m余りある山を登って行くのは、年齢的に厳しいだろうという配慮をしてくれて、登りはケーブルカーを使い、帰りは歩くというコース設定にしてくれた。車を降りて、ケーブル乗り場に行き着いたところで、岸壁にへばりつくように咲いている山吹き色の花が目に入った(写真上12)。雲南つつじと教えてくれたが出任せという感じがしないでもなかった。
ケーブルカーはかなり長く、途中左手に目を遣れば昆明池(滇池)が一望出来、右手には斜面に尖った石が飛び出して、チョッとした石林という光景、小さな鳥がさえずりながら右往左往して時々姿を見せるが写真を撮らせてくれる程じっとしていない。

 ところで、一望できる昆明池(滇池)はかってはもっと大きかったが、かなりの部分が埋め立てられたらしく、民族村あたりも埋め立て地らしい。
      
 ケーブルカーを降りて少し行くと、西山で最高地点の標識に出会う(写真上9)。ここから下山である。岸壁に細く削り込んだウネウネした通路を下って行くが、所々に龍門と書かれた狭き門が現れたり(写真10)、石窟のトンネル(写真11)をくぐる。くぐり抜ける龍門には道教風の反り返った屋根がついていて、その色は金殿同様、くすんだやまぶき色で、岸壁等に掘られた文字に付与された色は赤、青、緑のいずれかの場合が殆どである。

 “登龍門”の語源である龍門は、門の一部を触ると科挙に合格するとか、出世すると言われているらしく、その門をくぐり抜ける人がこぞって、触ってゆくので、自分も触ってみた(写真上10)。
 とっくに人生のピークを過ぎ、精々山道を安全に下って行こうという心境の自分にとって、ご利益など何も期待していないし、合格を目指す試験も無い。

 通路のところどころに道教石窟寺院がつくられていて、誰を祀っているのか分からないが、カラフルな聖像が立ち並んでいるところに遭遇する。日本の仏教寺院には有り得ないカラフルさで、配色の豊かさを見ているだけで楽しめる。

 雲南省=世界中の花の原産地ということで、山道に咲いている原種の香りのする花樹を目にするのも期待した楽しみの一つであったが、君子蘭、椿など日本でも普通に見られる花が多く、ここ西山でも君子蘭(写真上15)や桜(写真上13)といった花樹が目に入った。ところがたった一つ見たことの無い花を見つけた。花はコスモスそっくりだが、茎や葉は全く異なる(写真上14)。

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2008/04/11 16:38:36|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(17)
             中国 雲南の旅 昆明(17)

15)普洱茶
今回の楽しみの一つに、本場の普洱茶(プーアル)を喫することである。中国を観光旅行して、必ずあるのがお茶の博物館を訪れ、若い女性による上手な日本語の説明を聞き、いつの間にか、高価なお茶を買ってしまう、というイベントである。今回は、「雲南民族茶道館」を訪れた。
張宇 と言う名の彝族(イ)の30前後の娘さん(写真上1)がお茶の説明をしてくれたり、試飲させてくれた。彝族は雲南省で最もシェアの大きい少数民族で、今回の旅で唯一、少数民族と直接会話が出来たひとときであった。

説明を受けたお茶は、普洱茶を中心に、烏龍茶、茹苦茶の三種であり、雲南にある300種以上のお茶の中で代表的なお茶が、健康志向ブームにのって注目されている普洱茶で、言わば黒茶に分類される。レンガの様に圧縮成型し、常温で長期に亘って熟成したお茶は、カフェインを含まず、したがっ て、就寝まえに飲んで、眠れなくなあることはなく、非常に健康的なお茶との説明。
雲南省は茶樹そのものの原産地とされるが、プーアル茶も雲南省南部の少数民族ハニ族などの間で古くから伝わっていた。普洱市寧洱ハニ族イ族自治県の1500メートル以上の山間部を原産地とし、雲南省最南部のシーサンパンナタイ族自治州でも栽培されている。なお、普洱市は2007年4月8日に思茅市から改名された。脂肪分解作用があるので、脂っこい中華料理を食べた後に飲むのがよいとされる。
天然サポニンとミネラル類を豊富に含み、肥満、脂肪の溶解、ダイエット効果、消化促進、整腸作用、二日酔い、胃のむかつき改善、血糖値の上昇を抑制、血行促進に効果があるとされる。さらに、増強免疫力(免疫力を強める効果)、抗老化(老化予防)、癌予防、歯を強くする効果もあるとされる。
唐代には南詔の銀生城(現・普洱市)付近の山地で取れる茶として中国にも知られていた。中国が雲南を領有した明代には普洱茶として広く知られるようになり、清代には雲南からの進貢品に指定され、朝廷でも愛飲された。愛新覚羅溥儀も愛好したという歴史がある。
しかし、文化大革命によってその手間のかかる製造方法が『大躍進政策』にそぐわないと否定され、一時は中国本土での生産が断絶するほどであった。このとき、多くのプーアル茶が香港、台湾に持ち出された歴史も持っている。
現在もビンテージものと呼ばれるプーアル茶の多くは台湾に存在している。現在では中国でも生産が再開されており、東南アジア、欧米、日本などにも輸出されている。近年、プーアル茶の生産が中国国営企業の手を離れて、極めて高品質な茶葉が個人単位でも生産されるようになった。そうしたプーアル茶を、将来の熟成を見越し、投資目的に購入する愛好家も少なくないとのことであった。
張さんから聞いた普洱茶のおいしい飲み方
1) 湯の温度は高いほど良い
2) 3回目の湯注ぎで飲むのが良い
3) お茶を口に含んだら、口をすぼめるようにして、かつ舌うちするようにして飲むと、苦味を感じないですむ。

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2008/04/11 13:47:45|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(16)
             中国 雲南の旅 昆明(16)

14) 雲南料理
 四川の近く、と言っても600kmほど離れているが、だけに料理は平均して辛い。激辛の料理が次から次へと出てくる。この地方特有の味を滇味(てんみ)と言うのだそうだ。雲南の少数民族は日本人のルーツと考えても良いのではないか、と言うのが司馬遼太郎の言い分の様だが、その様なDNA的なことを考えると、住居だけでなく食の嗜好も似ている可能性がある。この地方では、刺身を食べる習慣があると「街道を行く−雲南の道−」に書かれている。

 いずれにしてもその様な食文化があれば、きっと出てくる料理も抵抗なく口に出来るだろう、と期待した。先ず、ホテルでの最初の朝食(写真上1)で占える。結果は、”良し”であり、辛さを除けば全く抵抗なく食べられる。
 では、今回は出てきた料理を極力写真に撮り振り返ることが出来る様にしようと意気込んだ。しかし、そうは問屋が卸さない。次から次へと出てくる料理に目移りして写真をとることを忘れ、料理の名前もメモするところではなかった。
 しかし全くそれが出来なかったわけでもなく、料理の名前を出来るだけメモ用紙に書いてもらった。それらを羅列すると、過橋米線(ガオチンベーセン)、涼拌核桃(リャンバンファイタオ)、蓮藕緑豆湯(レングオルートウタン)、○非魚(ルオフェイイェ:○は四の下に夕)、荸莽(ビーチ)がメモされた。このうち、緑豆は血圧を下げるのに良い豆ということで、血圧に気をつけなくてはいけない安さんは、この豆を常食していて沢山もっているので20粒ほど分けてくれた。豆=種=発芽、という連想がすぐ頭を駆け巡り、鉢植えで、発芽させてみようと思い、帰国後、早速豆を植えてみたら間もなく発芽した(写真上3)。豆=種が取れるということは花が咲くはず。そこまで、生育できるかどうか分からないが出来るところまで生育させてみることにした。

 尚、それ程薬効があり味にも癖のないこの穀物が何故注目されないのだろうと思いウェブで調べてみると、この穀物に注目した日本人がいない訳ではなく、この穀物に取り付かれ、情熱をもって、育成に
努力した人がいるのが分かった。
      関連ウェブ: http://www.ueharaen.co.jp/corp/ryokutou.html

 滇味(てんみ)の辛さのもとは、唐辛子であるが、最近の食品ブームの中では健康に良い食材になっている。今回だされた料理でも辛さのレベルが違い、それは唐辛子の量が違うのか、唐辛子の種類が違うのか、今後何度か中国旅行するうちに分かってくるであろう。

 過橋米線は雲南を代表する料理で、麺や具を、油を張った100度を超えるアツアツのスープに入れ、シャブシャブのように温めて食べる、いわばつけ麺。米線は米で作った麺で、細めのうどんという感じ。「過橋」は橋を渡るという意味で、湖の中の小島で科挙試験の勉強中の夫に温かい料理を食べさせようとスープに油を張った故事によるとの安さんの説明。

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