| 中国 雲南の旅 昆明(19) 17) 華亭寺 雲南省で最大規模を誇り900年以上の歴史がある。何度も再建を繰り返し、現存する物は1923年虚雲大和尚が再建したもの。寺院内には200あまりの建築物がある。寺院内に鐘楼、天王宝殿、大雄宝殿及び数個の花園がある。ここの仏像と五百羅漢に特色があり、歴代の対聯、扁額は意味深長である。山門は雄大な三層の中式楼閣、反り返った軒先で、力強くそびえている古木と肩を並べる。また、園内には椿、犬槙(いぬまき)等珍しい植物を植えている。 以上がウェブ情報である。
中国の仏教寺院の名前と同じ名の寺院は日本に多く、翌日訪問予定の円通寺もそうだ。しかし、この華亭寺というのは日本の寺としては聞いたことがない。“華亭”という言葉を勝手に想像すると“花園”ということになり、その名に相応しい花の豊富な寺である。900年以上の歴史があるということだが、度重なる火災で、最後の再建は85年前というから、古刹というには、新しい。
山門(写真上1)をくぐると目の前に天王殿(写真上7)が建っていて弥勒菩薩、四天王(写真上3、写真上6)などが祀られている。その先には大雄宝殿(写真上2)があり、三世仏が祀られている。大雄宝殿の脇には明の時代に作られた500羅漢を収めたお堂がある(写真撮影禁止)。 羅漢たちは彩色され、嬉そうな顔、悲しそうな顔、心配そうな顔など1つ1つ違う顔をしている。どれか一つ適当に羅漢を決め、どの方向でも良いので、自分の年齢に等しい数を数えてゆき、その数になったところで止めると、その羅漢の表情が自分のこの一年の生き様を表象している、というのだ。嬉そうな顔をした羅漢に当たれば、そういう一年を、悲しそうな顔をした羅漢にあたれば、そういう一年を、心配そうな顔をした羅漢にあたれば、そういう一年を過ごすことになる。その様に地元の人は毎年羅漢の顔を見て運勢を占うそうだ。中庭の周りの建物の扉には西遊記の場面(写真上4)が彫られている。 何故、西遊記なのか。仏教寺院で、仏教の教えが篭められた西遊記が仏教寺院として分かり易く、教材として説きやすさを持っているためなのだろうか。人参果の場面を探そうともしたが、安さんが急いでいるように思えたので、遠慮して次に向かった。
その回廊を横切ると、僧達の宿舎だろうか、講堂だろうか、そんな感じの建物があり、そこと棟つづきとなった館に案内された。そこには、絵や巻物を展示してあり、それらはその寺院の文化財とは関係無い様に見えた。となれば、これは土産物売り場館ということが、容易に推察でき、散財しないよう気持ちを引き締めた。何気なく絵を観ていると、いつのまにか背後に日本語の上手な説明員が近づいてきて、絵の説明を始めた。絵には全く興味がない、と言うと、隣の館に案内され、なんでも良いから、土産としてどうか、という。 華亭寺は国や市からの援助は一切受けていず、陳列した展示品を販売して得た浄財を、寺の維持費や修学僧の修学費として援助しているとのこと。 そう言われたからではないが、家内から餞別を受け取り、倍返しなどと言う家内からの言葉を思い出し、宝飾品を眺めていたら、ショーケースの中から大き目の翡翠のネックレスを取り出し、80,000円だと言う。とんでも無い、半額程度だろうと思い、20,000円という指値を出した。相手も首を縦にふらないので、それなら要らない、と言ったら、それでも良いということになり、家内への土産ということになった。一体誰が一番得したのだろうか。そんなことを思いながらその館を後にした。
もう一度、一周り見回して、写真映りの良さそうな場面を探し写真を撮った。椿咲く、華亭寺(写真上7)他三枚(写真上8〜上10)撮った。
日本にも京都に花の寺というのがある。しかし、これは俗称で勝持寺という本名がある。華亭寺もそうなのではないかと、中国語と英語で書かれたパンフレットを読むと、建立当初(1320年)は“大円覚寺”、1462年に“華亭山大円覚寺”1552年に“華亭寺”となったのだそうだ。
【華亭寺の簡単な紹介】パンフレットの中文と英文を和訳 “華亭”という名は昆明西山の碧鶏山華亭峰から取られている。この寺の旧址は宗王朝の大理国時代の鄯闡(現昆明)の貴族高智が開いた別荘であった。1320年に、雲南で第一の高僧である玄峰法師がここを寺として、大円覚寺と名づけた。明代1453年には駐雲南太監の黎義(リー・イー)が修復、1462年には明の英宗によって、”華亭山大円覚寺”と名づけられた。1552年には”華亭寺”と改名されたが、その後、明、清時代の相次ぐ戦乱によって、破壊、修復、火災が繰り返されてきた。 1920年、錫鶏足山祝圣寺の高僧虚雲(シュウウン)老和尚が雲南省省長の唐継堯(タン・イーヤオ)に “華亭寺”の住職に招聘された。虚雲がやって来るまでは、この寺は大層荒れ果て、財政的にも疲弊して外国人クラブに売りに出され、省政府によって認可されるところだった。虚雲はこれを嘆き、寺の将来を心配して、唐にそうならない様に嘆願した。そして 虚雲は省政府の支持のもと、寺の再建と良好な状態に運用することを引き受けた。修復の過程で、雲栖と書かれた石碑が発掘され、かって、この寺が雲栖と称されていることが分かった。後に唐省長はこの寺を”靖国雲栖禅寺”と呼ぶことにした。その後資金が無くなり、虚雲は多くの考えうる困難に遭遇したが、ついに彼は半分の資金で、寺を再建し、10年の努力を結実させた。現在の寺の全体の配置はこの虚雲が再建した時と同じである。 華亭寺は1949年以降(解放後)数回に亘り修復されている。特に第11期第三次中国共産党大会で、宗教政策がより具体的に定められ、その結果、宗教事務部門の支持と敬虔な教徒の支持のもとに、より多くの再構築が確立した。例えば、1970年台に取り壊された原蔵経楼の元の形への再建が行われた。また方丈室の修復も行われた。 1995年2月14日大雄宝殿が不注意で火災に遇ったが、後、昆明市の仏教協会副会長の心明回寺の住持によって、各界の協力を得て、大雄宝殿は再建された。この時仏像は金色塗装され、全寺は面貌一新となった。 華亭寺に現存する文物古跡は、 ・ ミャンマー仏教徒から贈られた玉仏両尊 ・ タイ仏教徒から寄贈された鍍金仏 ・ 方丈室保存の銅鋳鎏金(りゅうきん)三目十八臂准提菩薩 ・ 虚雲禅師舎利塔 ・ 林則徐、郭沫若 詩碑 華亭寺干 1983年4月 国務院によって、全国漢族地区仏教重点寺院に批准される。
寺の由緒を簡単に紹介する(簡介)パンフレットを読んで分かったのは、写真上5で山門に"雲棲"とかかれた扁額がかかっている理由だった。"雲栖"の栖は棲と同義語で、"雲栖"ではなく"雲棲”となっているのであろう。また、このパンフレットで若干気になったのは、最後の行記載の"全国漢族地区仏教重点寺院"というところでで、漢族は少数民族とは線引きされているのかナア!?。
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