西方流雲(63)
<<< 58. 技術の市民権獲得 >>> (1)
晃一は技術屋であって、更に詳しく言うと、エレクトロニック・セラミックエンジニアであり、更に詳しく言うと、圧電セラミクス材料技術者であり、少しはみ出して圧電デバイスや焦電デバイスの商品開発を、そして仕事のミッションと言う点でも、研究開発から商品開発へ、更に営業と得意先まわりをするセールス・エンジニア的な仕事へと、はみ出して行った。 そしてオリンピック光学へ転職したきっかけは、技術に関しては、圧電デバイスの経験を買われて、圧電セラミクスを使った超音波振動子を開発することであった。 そして、その用途は超音波内視鏡であった。研究開発環境としては、超音波医療機器のメーカーであるアリカから先に転職してきた優秀な回路技術者がいて、振動子が完成したらそれを接続して超音波画像を描出できる状態にあったことである。
超音波画像を得るには超音波ビームを走査することが必要だが、最初はその走査を機械的に行う機械走査用を、次いで、走査を電子的に行う電子走査用を開発することになった。 ともに超音波内視鏡であり、医療用であったが、前者は消化器用、後者は循環器用、更に具体的に言うと心臓用であった。前者はアロック社製のモデルがあり、それよりも良い特性のものを開発すれば良いという程度の技術開発であり、モチベーションはそれほど高揚しなかった。 しかし、後者の技術開発は、海外の専門メーカーに依頼して技術的難度を理由に委託開発を断られていたという話を聞いていただけに、モチベーションは上がり、全研究開発者魂を注ぐことの出来た 晃一にとっては幸せな期間であった。 しかし、完成した振動子を評価する環境があっても、実際に超音波振動子を製作する環境は殆ど何も揃っていず、何もかも一人でやらなくてはならなかった。また、企業に根ついた技術的な風土というのがあって、それを打ち崩さないとうまく行かないだろう、と思ったことが多々あった。 最初に直面したのが、圧電セラミクスの研磨精度で、 「このセラミクスの板を±2μmの仕上がり精度で研磨して欲しい」 と加工部門に依頼したところ、 「そんな細かい精度で加工できない。」 との返事であり、これにはビックリしてしまった。 「前の会社ではパートのおばさんが、この程度の精度は普通に実現しているのに。」 と思わず口ずさんでしまった。 また大きな装置を開発するには人手がかかり、小さなデバイスの開発には人手がかからない、と思う傾向があることもやりにくいことであった。 しかも大きな装置の開発といっても、機能的な面、あるいはコンセプト的な面というより構造、構成と言った機械技術者の活躍する技術開発であるように思えた。 エレクトロニクスメーカーで進取の気風盛んな京都のメーカーに在籍していたことのある晃一にとって異様にも見える風土であった。 「「圧電」という言葉や技術内容、何が出来るかなどと言うことを知っている人間など、上にも、下にも居そうにない。自分が仕事をしやすい環境を作るには、この技術がこの会社で市民権を得るようにすることだ。」 と晃一は独りごち、先ずは協力者を発掘することだ、と決心した。 しかし、これは人を探し出すことであり、すぐには無理だろう、ということにして、チャンスを伺うことにした。
二年で、機械走査用の振動子は、完成した。その前半は深さ方向の分解能の改善、後半は横方向の分解能の改善に費やした。この間、超音波振動子の設計ツールとしてメイソンの等価回路計算プログラムを作成し、その有効性をつぶさに感じることが出来た。 晃一は偶然出来てしまった、ということを嫌ってきたが、実験結果を理屈で説明できるツールを身近に配備することが出来る様になり、自分の持つ血肉が増えた感じがした。 この頃、丁度電算機部門に木村井さんという近い年齢の同朋が入社してきていて、その人の協力無しにはうまく行かなかっただろう。なにしろパソコンなどという便利なものがあった時代ではなく、かといって手計算するには膨大すぎる量の計算で、コンピュータの存在が不可欠だったが、社内にあったIBMのコンピュータを使いこなして良い結果を出してくれたのであった。 話は余談になるが、後年、晃一が脳梗塞に倒れ、その後の精神的に悶々としていた頃、この木村井氏から癒しの対象となる犬を譲り受けることになるが、これもこの時の計算依頼を通して互いに知己となったことがなければ有りえないことだったかも知れない。この犬が晃一夫婦にどの位大きな潤いを与えてくれたか分らない。 三年目から、電子走査用超音波振動子の開発を手がける様になった。これにはダイシングという加工技術が重きをなした。この装置を使って一枚の圧電セラミクス板をダイシングして48本や128本の短冊状エレメントに分割する作業だが、47本目まで無事で、最後の一本が飛んでいってしまったということが何回もあり、その度ごとに直後に猛烈な眠気に襲われるのだった。 しかし工夫に工夫を重ねなんとか48本目まで無事にダイシング加工できる様になり、完成した超音波振動子を観測装置に接続して超音波像を出せる様になった。 自分の胸を露出させ、超音波カプラーを塗り、肋骨の隙間に自作の振動子を当てて、自分の心臓の僧房弁の開閉する様が見えたときの感動は一生忘れない記憶になった。 同時に、試作した超音波振動子よりも、この観測装置を設計開発した那賀崎という男は凄い、という気持ちも芽生え、自分の振動子技術とこの男の回路技術をもってすれば、どの様な超音波診断装置でも開発できるのではないかという気持ちになったことを、後々懐かしい想い出として振り返ることがあった。 しかしながら、この循環器分野を想定した超音波内視鏡の開発は、この会社がもともと循環器分野を目指していないこと、消化器向けには機械走査式で充分なこと、循環器分野向けとして必是となっているドップラーモード観測のハード技術の開発が未完成であったことなどを理由に、研究開発テーマとしての継続を停止されたのであった。 尚この電子スキャン用超音波振動子を開発するにあたり、また電算機グループの木村井氏に依頼して、今度は有限要素法というコンピュータを用いた数値計算をした。クロストークという現象を計算対象としたのだったが、実測結果を上手く説明できないデータが出てきて、メイソンの等価回路計算を用いても結果を出せない複雑な構造だったため、少しかじっていた有限要素法を使ってみようと思ったのである。 その結果、まんまとその手法を使って。その実測結果を説明できることが分かり、将来有限要素法を使いこなすことが出来ることが、超音波振動子開発技術者にとって不可欠の能力になるだろう、という気になった。因みに晃一はそれから20年後くらいに、論文投稿をして、博士号を取得するのだが、その時の算定論文の一つにしたくらいであった。 晃一が、超音波振動子を開発する技術者にとって、メイソンの等価回路計算という解析的な解法と、有限要素法という数値解法は圧電技術、超音波技術を将来に向けて運搬する車の両輪となるだろうという見通しをつけた。 そして圧電技術の市民権を得るということに向かう車の両輪にもなるだろうということ感じ、若い人達にこの両輪を使いこなせるようになることが重要であることを訴えた。
<<< つづく >>>
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