槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/05/06 22:23:40|物語
西方流雲(68)
                      西方流雲(68)

                    <<< 59. 厄年 >>>

                         (四)

 晃一は損な性分だとつくづく思ってしまうのである。どうしても治療効果について、納得ゆく根拠がないと、効果を疑い始めてしまい、その為に効果が出てこないこともあるのではないかと思うのであった。
 治療効果が実感できるというのが最も好ましい治療だが、難しいことである。治療効果を定量化でき、それを患者が認識できれば、リハビリに取り組む姿勢が増長され、またどういう種類のリハビリが最も効果的か、即ちリハビリの指導者や介添え者や医師にとっても貴重なデータになるはずである。
 効果の無いリハビリをすることは、医療費、時間の無駄使いという点で好ましくないはずである。とは言うもののどの様な指標を定量化するかを具体化するだけでも大変な研究が必要と思われる。

 リハビリをしながら晃一が考えたリハビリ効果診断装置は以下の様なものだった。
 手足の動き、言葉、字体特に手足の動きのギクシャクした感じは信号波形にしてみれば、どこをとってもスムーズで丸やかなサイン波ではなくて、あちらこちらに急激な変化を伴う角形波で表すことが出来るように感じた。
 そのような時間変化信号波形はフーリエ変換して、スペクトルを見ると差異が明らかになると思われ、例えば健常な側、晃一の場合右手、右足だが、右手の動きの周波数特性をリファレンスとして、問題となる側(晃一の場合左手)の動きの周波数特性をとり、たとえば、スペクトルのピークレベルに対して半分の値になる周波数を数値化する。あるいはスペクトルのピークレベルを示す周波数を数値化する。
 健常な側の値に近づくほどリハビリの成果が表れていることになる。それならどの様な装置構成であれば良いか。
 ここまで考えて、これがいけないことなのだ、考え詰めることは思いつめることにつながる。これがストレスというものかも知れない。この癖を止めねば、また再発するかも知れない。
 もっと仕事から遠ざからないと、程よく無責任に、程よく遊ばないと。そう晃一は胸に言い含める様に独りごちた。
 三日目頃から見舞いの為に職場の仲間、かつて一緒に仕事をした人が次々にやってきた。テニス仲間、親戚、兄弟、宗さんが来たときは丁度リハビリの最中で会うことは出来なかったが、ありがたいと思った。

 結局、四十三歳の誕生日は病院で迎えた。そしてかろうじて年内に退院出来た。早速年賀状の作成を開始したが、あて先が思うように書けず、みな手が寒さでかじかんだ時の様な字になってしまった。
 左手が硬直してしまった様な感覚なのであった。明らかに他人の字体であった。小学校に入学し、最初に文字を書いた時から三十六年間かけて作り上げた自分の字体を失ってしまったのである。
 母の達筆な字体を真似、妻の父の実直なバランスの取れた文字等、多くの人の字体を参考に取り上げ、あの様な文字を書きたいと思いつつ作り上げた自分の字体である。
 言ってみれば自分の字体もここまで来るまでに歴史を持っていたのだが、その歴史もろとも失ってしまったのだ。晃一は左利きであったが、自分の字体が決して下手とは思っていなかった。むしろ上手な部類に属すと考えていた。それが仕事で大量の報告書を作成することに対して後押ししていた。病気によって失ったものの大きさを痛感しはじめた。
 字体を失う。文字を書くことが異常に疲れるのであった。
晃一は自分の脳梗塞の後遺症について、正しい知識を身につけようと思い、医学書を購入し勉強を始めた。

【失書症】agraphia とは、
 知能的には何の異常もなく、手を動かす機能にも何の問題もないのに文字を書くことができなくなる症状。
を言うのだそうだ。
 晃一の場合、そこまでひどくないが、文字を書くことに、かつて感じたことのない違和感を感じ始めていた。
 晃一にとって運が良かったのは、パソコンの普及が凄まじく、ワープロ風に使いこなすことによって、ひとさし指さえ健全であれば、殆どの場合、文字を書くことが不要になってきたのである。
 入院中ベッドの傍らに、小学生用の大きな升目の国語のノートを置いて、手を動かす気になったらいつでも字を書けるようにしてみた。
 字を書くことに関して言えば、正に小学一年生からの再出発と言え、気が滅入る感覚を覚えた。そしてその感覚は容易にコントロールできるものではないというものであった。

【失読症】alexiaとは、
 脳に損傷を受け文字や文章を読めない症状を示す一種の言語障害である。失読症には先天性と後天性があり、先天性の場合は発達に対して言語の習得が遅れた場合や、先天的な脳疾患の場合に発生する。しかしほとんどの場合はリハビリテーションや訓練を行うことで回復することが多い。それに対し後天性の失読症は、後天的に脳梗塞や脳内出血などにより、脳機能が低下または一部分が停止した状態によって引き起こされる。
 健常者は単語を認識する場合、単語の中心の文字を見るだけで単語全体を認識することがわかった。これは視覚情報処理システムの周辺視を利用しているからと考えられる。それに対して、失読症患者は単語を文字単位に細分化し、一文字ずつを読む傾向にある。これは周辺視の利用がうまく利用できないため、中心視を利用していると考えられる。また同様の結果が短文においても見られる。
 以上の様な機能を完全に失った訳ではないが、晃一の意識の中ではそれに近い状況であり、これからの人生が悲観的にならざる得ないほど落ち込んで行くのは、病院を退院し、会社へ出社したり、テニスを再開し始めてからのことであった。

                    <<< つづく >>>







2008/05/06 22:05:54|物語
西方流雲(67)
                       西方流雲(67)

                     <<< 59. 厄年 >>>

                          (三)

 病院の起床時間だったのだ。目が覚めてみると、やつれた表情の晃一の母の顔があった。一晩中心配で眠れず付き添った、という顔であった。申し訳ないという気持ちが大いにあったが、自分のことで精一杯だった。
 右手にはひっきりなしに点滴の針がささっている。そんな程度はまだましで、温痛感が殆ど無いことが気になって仕方なかった。入院して最初の朝は食欲が全くなかった。おも湯と梅干とにんじんとを擦り潰したもので、まるで離乳食だった。
 利き手がきかず、鉛筆を握りしめるにも、その意志が湧いてこないのだ。声も出す元気が無かった。いくら眠っても寝足りないという疲れを感じた。その割りに意識は清澄であり、意識と実際の動作、感覚とのミスマッチを強く感じた。
 このミスマッチ感は回復するに従い大きくなってゆき、いつしか絶望感に変わってゆくのである。そして晃一が病院を退院し、約十年間に亘り持ち続け悩まされる感覚となるのである。

 脳梗塞の罹患原因、先ず生活習慣、そして遺伝。既往症。遺伝は仕方ない。既往症もなってしまったものは仕方ない。問題は生活習慣で、会社での生活、休日の過ごし方、食生活、ストレス。
 これらを見直すことが必要、というのが医者の言い分だが、最初の処方は、仕事をしすぎないこと、無責任と思う程度に仕事に向き合うこと、である。まじめすぎる性格を修正することが重要とのことだった。
 天知る、地知る、人知る、我知る。
 天は何もかも知る存在である。
 実際の晃一の行状の全てを知る天はその医者の処方をなんと聞いただろうか。
 アルコールを飲み飲み土日もなく一日中テニスに興じ、家族の方を見つめる暇を作ろうとしなかった姿勢を知っていた天。
 あざ笑っているかも知れない。

 その代役を務めたのが晃一の妻だった。退院後、精神的に打ちのめされた状態の晃一に対し、妻の弥須子は厳しい言葉を晃一に投げかけ続ける。
 そのことの腹いせもあって、晃一の人生は退院後暫くして大きく脱線し始めるのであるが、それは少し先のことである

 検査が一通り終わると、検査データを元にした、治療とリハビリが始まった。
 担当医の最初の回診時、晃一は、少し上体を起こそうとした。その時、晃一の母がベッドの折り曲げ用のクランクを回して介添えしようとした。それを見た担当医は、
「何をしているのですか、そんなことをしては駄目です。」
と容赦ない言葉を浴びせてきた。
 その時、母はそれほど容態が回復していないのか、と暗澹とした気持ちになった、と後に述懐している。
 それほど容赦ない言葉であった。しかし、その言葉の投げかけが如何に重要だったかということを、十年もたって後遺症に悩みつづけなくてはいけない状態になって、痛感するのである。

 入院して三日目から具体的なリハビリと、治療が始まった。リハビリと言っても、先ずは病室の前の廊下を、何往復かするだけであった。
 それでも足が前に自由に持ちあがらないし、左足の一歩の踏み出しが思うように出来ないのである。またつま先が先に着地してしまうので、連続して歩がすすまないのである。
 おまけに急激に体重を落としているので、体がふらふらいていて、とても一人で歩ける状態でなく、妻の誘導を頼りに歩行練習をせざるを得なかった。
 廊下を歩行リハビリで歩いていると、前方から若い看護婦さんに付き添われて歩行練習をしている人と出合った。
 若い看護婦さんの肩を借りて歩行練習しているなんて有りかな、と独りごちていたら、その人は、すれ違い様、晃一に話かけてきた。
「僕はこれで二度目なのですよ。今度は長いかも知れないなア。あと一月はかかるかも知れない。今度こそ駄目かもしれないと思いました。」と、其の割には明るく話しかけてきた。
 晃一は、「お大事に。」と言って微笑みかけようとしたが、言葉も、微笑みの表情も作れない自分に気がつき愕然とした。
 後で知ったのだが、その若い看護婦さんは、その人の実の娘ということだった。

 きっと、この様なことだったのだろうと想像を巡らしてみた。
初回の父親の入院で、その娘さんはびっくりしてしまい、また愛する父親を二度とこのような目には合わせられない、その為には自分が医療知識を身につけて注意しなければならない。その為に看護婦になろう。それで看護婦になったのだが、不幸にも再度同じ病気に罹ってしまった。
 しかし、この廊下の歩行リハビリは自主トレの様なもので、本格的なリハビリはきちんとメニューにしたがって、道具を使うものであった。
 晃一のメニューはそれほど厳しいものではなかったが、人によっては医師の監視のもと、悲鳴をあげながら厳しい毎日であった。
 脳の機能が低下すると、関節がかたまって来て動けなくなってしまうことがあるので、それを防止するために、関節を普段以上に曲げている様に見えた。
 リハビリ室でリハビリしているのは、晃一のように脳梗塞で入院している患者だけでなく、交通事故で脳挫傷を起こした患者もいた。
 しかし、晃一の場合、後遺症が重度では無いと判断されているので、それほど厳しいリハビリ科目は無かった。そのせいか、リハビリの効果を全く感じられなかった。この様にリハビリを軽視したつけが後になって回ってくるのである。
 何事もそうであるが、物事が進行している時点では事の重要さに気がつかず、後になりその重要さが認識され後悔することがままあるが、晃一にとってのリハビリは正にそれであった。直後であるからこそ効果的なリハビリがある。それを手にせず通り過ぎてしまったのであった。
 一方、治療に関しては、最も、“らしきもの”は、高圧酸素治療というのがあった。高圧の環境(通常は密封タンク内)で高濃度の酸素を吸入すると、血漿や組織の酸素濃度を著しく高めることができ、これにより、全身・局所の低酸素状態 の改善(虚血性疾患など)が可能というもので、最初は一人用に入り、一人で歩けるようになってからは十人前後が一度に入れる大きな高圧酸素室で治療を行うことになった。
 入室前には腕時計など、身につけている全ての金属を取り外してから入室しなければならなかった。
 この治療も晃一にとってどのくらい効果があるか分からない感じであった。大人数用高圧酸素室には複数の人間が入るので様々な人がいる。殆どの人が脳疾患なので、これらの人の共通項を見出そうとした。
 中には治療効果を実感できる人もいるらしく、治療後、心から感謝して病室に戻る人もいた。
 しかし晃一は高圧酸素室で時間を過ごすのが苦痛以外の何物でもなかった。そこで、その時間を読書に費やすことにした。
 暫く高圧酸素治療が続くというので、長編小説を読むことにし、妻に言って、その本の第一巻を買ってきてくれる様に頼んだ。

                  <<< つづく >>>







2008/05/05 22:45:56|物語
西方流雲(66)
                        西方流雲(66)

                       <<< 59. 厄年 >>> 

                                 (二)

 大きく頑丈で、あちらこちらに鋲打ちされた装甲車の様な車であった。運転席で晃一は垂直に立っているのではなく、うつ伏せになって、頭を持ち上げて前方を見据えハンドルを掴んでいる。
 まるで戦場で銃でも構えている様な体勢である。フロントガラスは狭く、たとえ襲撃されても、破滅しそうにもないつくりである。
 車には晃一が占めている運転席の他、無線機を操作する情報室、更に車が故障した時、修理用機器を格納したメカニクス室と、三名が休息をとれる、リラックス室がある。
 情報室には菟新明初子が、濃紺でマイクのついたヘルメットを被り、常時通信出来る体勢で直立不動で無表情に立っている。もう一人の乗組員は別所の予定であったが、到着に遅れている。あと五分で出発の予定である。既に冬に入っているので服装は防寒服である。
 これから向かうコースは、北陸、東北である。目的は薄の里の薄紅蓮姫を救う為という。何故東北か、何故薄紅蓮姫か、何故救うのか検討がつかなかったが、詮索する意味も必要性も感じられず、ただ義務感だけが感じられていた。
 車窓の外に別所の姿が見えた。
「薄さん、薄さん、準備は万端ですか?見送りにきました。気をつけて。」
「なんだ、同行するのではなかったのか」と晃一は独りごちた。
そして、エンジンを掛け、アクセルを踏んだ。
 不思議なことに、車は前方に進むのではなくて、上昇を始めた。地上には母、妻、三人の息子たち、晃一の姉弟、別所、そして尾崎、戸津、斉田らが、上方を見上げながら手を振っている。彼らが殆ど点にしか見えなくなったところで車は上昇を停止し、水平方向へ移動し始め、時に急降下、時に上昇を繰り返し、一路北陸方面へ北上した。
 この様な急降下はかって何度も夢で経験したことがあった。高い崖淵から羽ばたく様に飛跳し、いつしか鳥の様に水平に高速で空を移動しているものである。これまでのものとの違いは、これまでのものが、眼下に映る光景は緑豊かな田園であり、丘であり、水量豊かな滔滔と流れる河であったのに対し、今回は、眼下に映る光景が雪原であり、ところどころに黒く点線の様に道路が露出している。河は凍りつき、河であることは、その凹凸からわかるが注意しないと雪原との境界は見分けられない。
 不思議なことに、この様な寒々とした光景にも拘わらず、晃一の身体は全く寒さを感じなかった。またハンドルを握ってはいるが、車だったその飛行物体は、ハンドル操作とは関係なく、晃一の意向を優先しているようだった。
 雪原に未確認物体を発見した時は、それに近づいて確認したい気になれば、その気持ちを満たすべく、急降下し、地表ぎりぎりのところを飛行してゆき、起伏のある丘にさしかかると、急上昇する。一方頭上の空はどんよりとした鉛色をしていて、その一部に閃光らしきが見えた時、首を持ち上げて天を仰ぐと、天に向かって急上昇するのであった。
 やがて新潟あたりにやってきたのであろうか、前方に日本海の海原が見える様になった。雪雲の下の海は鉛色をしている。岸壁近くでは波がはじけて鉛の粒となって飛び散っている。その光景から風も強いように思えるのだが、晃一の肌は全く風の流れを感じていない。
 どこを見ても、雪雲ばかりだったが、視野を北の方角へ変える瞬間、視野の中に一部だけだったが、青空が見えた気がした。その方角に目を遣ったが、何も特別なものは見なかった。
 もっと高いところへ登れば見えるかも知れない、と思った瞬間、晃一の体は急上昇し、一層目の雲を突き抜け、二層目の雲の直下まで昇っていった。そこから西の方角、即ち中国大陸の方角に雲海に浮かぶ冠雪した山並みを小さいがはっきりと目にすることが出来た。
 これまでに晃一が診たことのない姿であった。あえて思い出すとしたら。サイクリングで東京から青森まで旅したとき、磐梯山の中腹からはるかかなたの鳥海山を一望した時の記憶が蘇った。
 あの時は季節が全く逆の真夏であった。高校時代の友人。舛本、巖川、野海、爾志見、それに晃一の五人で各人各様の自転車で、十一日をかけて青森に至ったのである。
 その頃のことを色で表すなら、まさしく緑または青であった。すでに二十五年近く昔のことである。しかし、今は銀白色のみである。
 その中に見つけた貴重な有彩色の世界である。
はるかかなた数千キロはあるだろう。中国大陸の数千キロ西に行った所、即ち天山山脈か崑崙山脈かと想像される。
 ともに山脈の長さが三千キロメートルもあり、本州がすっぽり納まってしまうという巨大な山脈である。
 晃一の視線は再び北上した。左手に日本海を配し、右手に奥羽山脈を臨み一路国道七号線に沿って運転していった。
 新潟から山形、更に秋田と、薄の里を目的地として冬の日本海に沿って、北上していった。
 薄の里などと言っても、晃一の脳内でのロケーションははっきりしていたが、実際の地図上でのロケーションは、全く定かではなく、多分北の方にあるのだろう言った程度でしかなかった。
 その不明確さを補うかの様に、晃一が乗っている装甲車ライクの車は、躊躇せずに進むべき方向を定めている様であった。
 同乗していた菟新明初子は、彼女の故郷近くの新潟で、すでに下車していた。したがって、この時点で晃一にとって唯一の仲間は、この装甲車ライクの車だけとなった。

 すでに下北半島の突端部を過ぎ、間もなく南下を始めた頃、雪が猛烈な勢いで降り始めた。しかも純白ではなく、灰色がかった針の様な雪粒である。五メートル先も見えなくなってきた。
 晃一は天を仰ぎ見た。その針の様な雪粒は天の一箇所から放射状に落下して来ている様にみえた。
 しばらくその一点を見ているうちに、晃一は自分の体が浮いて行くような感覚に囚われた。その一点が強引に晃一の身体を呼び寄せているかのようだった。
 
 天に昇ってゆくのとも同じかも知れなかった。下を見ていないので分からないが、恐らく地上一キロメートルは上昇しているだろうと思いつつ、その一点が何か、その真相を確認しよう、という意識が強くなっていた。
 しかし、その意識を強めることが晃一にとって後戻りの出来ない川の向こう側の存在になることを意味している様であり、なんとかこの状況を打破しないといけないと、自分に言い聞かすのだが相変わらず、その一点に向かって晃一の存在が上昇移動している。このままではいけないと思っても、あの一点が作り出す引力場の中ではどうにもならないのである。      
 晃一は純白の雪原の中で焦り始めた。ゴーゴー、という晃一が運転している装甲車風の車の音だけが聞える。この音が消えない限りあの一点に吸い込まれるしかないのだ。あの一点が晃一にとってのエンドポイントなのかターニングポイントなのか何も分からないというか、考えられないのだ。
 もしかしたら何もかも受容してくれる楽園かも知れない。
 花が一面に咲き誇る花園かもしれない。
 もしかしたら、丁度良い気温で清々しい空気に満ち満ちているかもしれない。
 次第にその一点を受容する気分になりはじめた。あの一点に到達したら二度と戻れないかも知れない。しかし、その後はまた異次元世界となり、あの一点を起点とした世界が始まるのかも知れない。
 そんな意識に浸り始めた時、突然、晃一の背後から緑色をした粘度の高い液粒が、その一点を目指してまるで弾丸のように、あるいは細い針の様な姿をして、後から後から晃一の傍らを高速で飛び過ぎてゆく。その勢いが増すごとに、その一点からの吸引力は弱まり、晃一のその一点に向かうスピードが弱まっていた。
 その緑色をした液粒の軌跡から、液滴の起点がどうやら後方の三箇所らしく、しかも徐々にその起点が晃一の背後に迫ってきたことが分かってきた。
 そして、その起点が晃一を捕らえたと思われた瞬間、吸引力はなくなり、その起点とともに晃一の魂はその一点から遠ざかり始めたのであった。
 程なくしてその起点の実体が認識できるようになってきた。三人の息子たちがそれぞれ緑色した歯磨きペーストを思い思いに機関銃を抱える様に抱えていて、ペーストを内容したチューブの腹を突っついては緑色のペーストを放射しているのであった。
 片手にチューブ、片手に装甲車のハンドルを握ったり、晃一の腕を捕ったりしながら、下降しつつあった。
 そしてついに着地して前方に歩きはじめた。着地時のショックや歩き始めた時の加速度や慣性力は全く感じなかった。
 また、先ほどのゴーゴーという音に変わって、なにやらチャイムの音がしていて、周りがガヤついていることが意識できた。

                      <<< つづく >>>







2008/05/05 22:26:46|物語
西方流雲(65)
                   西方流雲(65)

                   <<< 59. 厄年 >>>

                       (1)

 それは月曜日の朝だった。
 いつもの通り朝六時に目が覚めた。ベッドから体を起こそうとした時だった。バランスを崩してどうしても立ち上がれないのである。それでも気を落ち着かせ、また洋服箪笥の取っ手につかまりながら、なんとか、階下の居間にたどりついた。
 明らかに体調に異常を来たしているのが感じとられるが、それを認めたくない気分が横溢していた。認めたくなくても、認めざるを得ない数日前の出来事が頭を掠めた。
 その前の週の土曜日、体調の異変を感じ、市内でも大きな病院の原田病院へ行き、診察してもらった。その時の診断は、筋肉痛なので心配ない、というものであった。
 患者というのは、医師の診断に疑問を感じても、心配ない、という診断結果に安堵してしまう。後で考えると日焼けした顔つきと、スポーツで鍛えあげた体格を見ると、誰でもそう思ってしまうだろうし、病気一つしたことがなく、病気の症状を訴える言葉をもたない患者の発する言葉をつなぎ合わせても、その若い医師からみたら重篤な病気という結論を出すことは出来なかったのであろう。
 ましてや晃一本人にとっても脳卒中などという病気には無関心で、場合によっては命に関わる病気ということくらいは知識があっても、それが自分に降り掛かるなどということは夢にも思わなかったのであった。
 妻の弥須子が、晃一のベッドから立ち上がる時の異常さに気がつき、間もなく階下に下りてきて、しんどそうにしている晃一に、
「今、救急車呼ぶからそこでじっとしていて。サイレン鳴らさないで来てもらうからいいでしょ?」
 晃一はかって経験したことがない圧迫感とだるさを感じていたので、もはや、いやとは言えなかった。
 長男の武蔵に、「救急車が来たら家まで誘導して。」と言っている妻の声が僅かに聞えるのだが、次第に眠くて仕方なくなっていた。
 しばらくして、二人の白衣を身につけた救急員が担架を持って部屋に上がりこんで来たことに気がついた。救急車のサイレンが聞えなかったので、突然、救急員の顔が眼前に現れたという感じであった。
 後で聞いた近所の人の話では、救急車のサイレンの音が、すぐ側で鳴り止ったので、何事かと外に飛び出てみた、と言っているので、この時点では、サイレンの音を聞き取る程のしっかりした意識がなかったのかも知れない。
 晃一は気持ちを建て直し、自分で立ち上がろうとしたが、救急員に制止させられ、二人の救急員に抱きかかえられて、担架に乗せられ救急車に乗せられた。
 救急員は症状を見てすぐ病状が分かったと見え、市内では脳神経外科病院で名の通った原田病院に妻の付き添いで、急行した。
 病院では救急患者として運び込まれ、少し待ってから、診断が始まった。

 頭上の医療装置は晃一にとっていまだかって診たことが無い大がかりな装置であり、病状の重さを推測させるのに十分であった。先ずCTというX線を使った装置、RI、MRIと続いた。
 カテーテルを頚動脈から挿入し、造影剤を流し頭部の血管のつまる状態の診断も行った。
 この時点で中大脳動脈血栓症という病名が与えられ、医師からは、「長くかかりますよ。」という宣告を受けた。
 入院する病室が決まり、次から次へと検査や治療が続く、検査のうち最も異様な感覚を受けたのが、カテーテル検査で、二回目のカテーテル検査は脳動脈を梗塞させた血栓がどこから来たかということを知る為、心臓の冠状動脈の検査も行った。カテーテルを大腿部から挿入し、医師が少しづつ手繰り上げながら挿入するテンポに同期して目から火花が出る感覚に陥った。少しづつ挿入する毎に血圧が上がるのか、気持ちの悪い感覚であった。
 一方で目から火花が出る感覚になるのは、血管が圧電性を持っているに違いない。カテーテルの先端が血管を押圧する毎に圧電効果で電圧が発生し、その電圧が神経を経て脳に至り、そういう感覚にさせているのだろうと、妙な推理を始めた。
 ということは、少しは体調が安定してきて、精神的にも平静を取り戻しつつあったのかも知れなかった。
 検査がほぼ終わり、病室に戻ったところ、妻が缶コーヒーを持ってきた。缶を手にして驚いたのは、熱いはずの缶コーヒーなのに温かさを全く感じないのである。
 それどころか手に持っていると、気分が悪くなるのであった。温感を正常に伝達しようとする神経と、それを拒もうとする神経とが合戦をしているようであり、合戦の疲れが気持ち悪さに結びついているようである。
 夕方になって母がやってきた。担当医が回診で病室にやってきた時、母が医師に尋ねているのが枕元で聞えた。
「大丈夫でしょうか?」
「今夜の状況次第でしょう。」
それを耳元で聞いた晃一は、「病状が一人歩きしているみたいだ。」、と呟いた。この時のことを晃一はいつまでも覚えていた。何故、自分の母親に心配をかけてしまっていることを、最初に申し訳ないと謝れなかったのか。
 申し訳ないという気持ちを湧出させるに至らなかったのであった。この後三年後に晃一の母が他界するのだが、これを思い出すにつけ胸が締め付けられる様な気持ちになるのである。
 晃一の腕には点滴用の針が、間断なく、刺入されていた、液袋が空になる頃に看護婦が顔を出して交換してゆく。点滴は右腕に施されていたので、針が刺される時の痛みは正常に感じられた。
 晃一の左半身、特に手は温痛覚をやられていて、つねったり、突っついたりしても痛くないのである。
 右中大脳動脈梗塞であり、右脳であるため左半身に影響が出るのである。その晩は母が付き添いをしてくれることになった。
 これまで、幾度となく昏倒したり、意識を瞬時だが失うことがあった。それらの集大成がこれだったのか、そういえば自分は幼い頃から、視点が定まらず頭の中がモヤモヤっとした感じになることがあり、頭の片隅に思考回路の障害物が立ちはだかる感覚に陥ることがあった。
 先程医師の言葉の中にモヤモヤ病という病名が出てきていたが、もしかしたら脳梗塞なんかではなくその病気なのではないか。悪いほう悪いほうに憶測してしまうのであった。

                 <<< つづく >>>







2008/05/04 14:55:43|物語
西方流雲(64)
                 西方流雲(64)

             <<< 58. 技術の市民権獲得 >>>

                   (2)

ところで、
  晃一は新規アイデアを出すことにかけては人一倍関心があり、実際にアイデア提案制度を有効に使い、小遣い稼ぎを兼ねて頻繁に提案した。そんな中に、圧電セラミクス板を金属板に接着したユニモルフという非常に簡単な構成のデバイスを爪形をしたバネ形金属端子に挟み、このバネ形金属端子間にユニモルフの共振周波数に相当する交流信号を入力すると、このユニモルフが高速で回転することを発見していた。
 これをアイデア提案するとともにグループのリーダーに見せると、「未だにこんな物理現象が残っていたか」と感心されるとともに、提案の最高賞であるアイデア賞をいただき一時的であったが、懐が暖まったことを記憶している。
 そんなことをして遊んでいた頃、超音波モータという新しいコンセプトのモータが新生工業という小さな会社で開発され、学会発表やカメラ用に有効という新聞発表もあり、社長のトップダウンで開発に着手することになった。即ち医療機器市場相手からカメラ市場相手の技術開発に担当が変更になったわけである。
 このテーマを独りで進めるのは至難の業と思い、人探しを本格的にやらねばならない状況に迫られて来た。
 触角を伸ばし、人情報が耳に入ってくるように努めた。その結果鮒窪君という人材が目に映った。学生時代は強誘電体を研究している研究室の所属だったという。強誘電体は必ず圧電性を兼ね持つが、圧電体が必ずしも強誘電性を持つとは限らない関係にあるが、技術の近さはこの上なく近い。
「この男だ。」と思い込み、早速彼の上長に転籍を相談した。そして、運の良いことに、丁度テーマの切れ目だったらしく、快く彼の転籍を応諾してくれた。

 彼に最初に伝えたことは。
「圧電技術が社内で市民権を持てるようにしてゆこう。」
「いずれは開発したものが、社内融通で使われるだけでなく、社外に売れる
レベルのものを開発してゆこう」
の二点であった。
 また彼の美徳として物事を根本のところにかえって考えることが出来る、ということも分かり、この会社の風土に染まらないでいられる可能性があるということも有り難い気持ちになれた。
 自分の目の前に現れる事象をモデル化し、組み立てることは重要で、目の前に起る事象が正常か、異常かの判断が出来るということである。実験結果を鵜呑みにしたり、人の言うことを抵抗も無く、なんでも受け入れてしまうことは本来避けるべきことであって、自分なりの、事象にたいするモデルつくりは、長じて自分の腹となり、腹芸という最も効率の良い、決断・判断が出来ることにつながるのである。そういうことの出来る人材が管理職に多いほど、その会社の技術開発効率が良いということに繋がってゆく。一時この会社では開発期間が長すぎるということがやかましく言われた時期があった。この理由は簡単で、腹芸で決断・判断が出来る上部の人材が少ないためで、腹芸が出来ないのは、技術面だけでないが、関連した技術に関しての道理のあるモデルを持っていないからで、そのモデルが長期に亘り、新しい情報のつけこみによる修築が行われていれば、腹芸で判断・決断が出来るはずである。この会社を退職した人達の話では、
 「これほど優秀な人材が豊富な会社は少ない。」となるが、その若い優秀な人材が、関連した技術に関しての道理のあるモデルを持てるまで成長出来ないのは何故か。」
ということを晃一は考えたことがあった。
 それによると結論は、上長の方から積極的にメンバーが提示するアイデアなり報告なりを理解しようとしない。報告会なり、会議を頻繁に開かせ、そこで最大公約数的な考え方を採択する。メンバーは会議のための資料を、なるべく上長が理解しやすい様にまとめることが求められ、「こんなこと示しても理解出来ないからもっと分かり易く。」と、書き直しを中間管理職に求められる。
 当初メンバーから出された報告書は学会に発表してもおかしくない位のレベルであっても、もっと分かり易いものに、という要求で化けに化け、たしかに高校生にも分かる報告にはなるが、その様な報告にする労力、時間が勿体無い、その様な報告が出来る様になるまで待つ、会議室が取れるまで待つ、メンバーが揃うまで待つ。その様に待つの重ね合わせで開かれる会議など、どの程度価値があるのであろうか。
 それはさておき、
 晃一の仕事に積層圧電アクチュエータのテーマが間もなく加わった。これは圧電体の基礎を理解するのにもっとも近道のテーマであったが、困ったのは、超音波モータとどちらに重点を置くかということであり、さんざん迷った挙句、
 自分は、超音波振動子の技術開発で、自信をつけた。今度は鮒窪君に積層圧電アクチュエータの開発で自信をつけてもらおう。
 目先の技術開発より人の成長を伴う技術開発が、会社にとっても、本人にとっても重要なはずだという結論づけをした。この方針を是とするか、非とするかは人によって見方が異なるだろうし、本人にとっても本位では無いかも知れないが、鮒窪君には将来に亘ってこの様な方向に本人が舵を取りやすいように協力しようと決めたのであった。
 そのように考えてから、「これも圧電技術の市民権を得ることに繋がる。」と独りごちたのであった。
 そして、間もなく晃一にとって大波が襲ってくるのだが、まだそんな予感も持たず仕事に邁進していた。
 晃一等の積層圧電アクチュエータには数百枚の圧電セラミクスの板を積層接着して製造する。この圧電セラミクスを自社供給してみようと思い立ち、プレス機、炉、分極装置などを買い込んでいた。
 折りしもその頃、新しい研究棟を主体とした事業場が同じ市内に設立され、そこに部ごと移動することになり、圧電セラミクスの製造装置も移設されることになった。新居からは多摩川を階下に見下ろすことが出来、快適な実験室が確保できることになった。
 積層圧電アクチュエータの具体的な用途は、「微細表面形状検査顕微鏡」と決まっていて、コスト面も無視することは出来なかった。コスト計算すると、圧電セラミクスメーカーから購入する場合に比較して10倍くらいの額になってしまうことが分った。これでは苦労する価値が無い、ということで、セラミクス製造は途中で諦めてしまった。

 業界というのは面白いもので、同じ業界の競合会社が、その業界にしては異質の製品を上市して軌道に乗りはじめるのを知ると、同じ業界なので、自分のところでも可能性があると思い込むのか、後追いで似たようなことを始める企業が出てくる。晃一が勤務している会社も然りで、同じ業界の競合会社と同様人工歯科材料の開発を始めたのだ。その開発に必要な設備のユーティリティが晃一のテーマで使用している設備のユーティリティに近いということで、晃一のテーマは空中分解してしまった。それだけではなく、折角初めての同志になると期待していた鮒窪君も取られてしまったのである。

 晃一はと言えば、以下の通りであった..
 その頃、強誘電体メモリーという探索テーマが進められていた。カメラをはじめとした映像機器の将来の有望な不揮発性メモリーという位置づけで、米国で開発が進められていた。その情報を検知したのは、自分の振動子技術とこの男の回路技術をもってすれば、どの様な超音波診断装置でも開発できるのではないかという気持ちになったことのある那賀崎氏であった。晃一はもともとは強誘電体が本職で、人脈も知名人を知っていた。
 とくに晃一が結婚する時の仲人をしてくれた人も強誘電体の分野では世界的に知られた人で、晃一の卒論では産総研の前身の電気試験所時代に世話になった人物であった。そんな自意識もあり、強誘電体メモリーという探索テーマが進められているということを耳にした時は、そのテーマには自分が一番の適任者で、そのテーマに関わることができれば、どんなに有り難いか、という気持ちを持っていた。
 そんな気持ちを持っていた時だったので、それまでのテーマが空中分解してしまった時、他のメンバーには申し訳ない気持ちを持っていたが自身はそれほど悲観的な気持ちには陥らなかった。
 そして、自然の成行きかの様に晃一は、強誘電体メモリーという探索テーマの主要メンバーとなった。その時点で、「圧電技術の社内における市民権獲得」という自分に誓った言葉が霧散してしまった。
 強誘電体メモリーテーマの最初の目標は、強誘電体メモリーの実用化検討で、最先端を行っていた米国のメーカと共同研究する道を作るということで、その為に、晃一は那賀崎氏とともにコロラド州にあるそのメーカが所在するコロラド大学に何回か足を運んだ。
打ち合わせ回数を重ねる毎に共同研究の話はエスカレートして行き、強誘電薄膜の製造技術を技術導入することになり、1990年春から共同研究が開始されることになった。そして晃一は主要メンバーとして、また第一陣として、コロラドに長期出張することになった。英会話は達者とはいえないが、技術関連の会話であれば、意志を通じさせることは出来るだろうと思っていた。一般の生活で多少不自由するかも知れないが、慣れればなんとかなるだろう、と軽く考えていた。食事のスタイルを変える必要性を感じ、脂っこい料理にも耐性を持たねばと思い、会社での昼食は、必ずフライを副食に添えることにした。
また、もともと体力に過大な自信をもっていた晃一は、テニスに過大と思えるほどの時間を割き、毎週土日は朝から晩までテニスクラブに通い、汗をかいては昼ビールを飲み、午後プレイをして汗を流してはまた帰り際にビールを飲み、一休みして帰宅する、ということを繰り返していた。
そして、その年の九月に晃一らは再度訪米し、共同研究の更なる整合の打ち合わせを行った。経路はいつもと同じ、成田−シアトル−コロラドスプリングスで、シアトル−コロラドスプリングスは、小さな国内便の小さな飛行機であり、結構揺れることがある。帰りに、この飛行機に乗っていて、それまで、経験したことのない乗り物酔いを感じたのであった。子供の頃は乗り物には敏感で、バスを使った遠足などで、酔ってしまい、折角の遠足を楽しめないことがよくあったが、年とともにそういうことが無くなり、前の会社に勤務していた時にも海外出張で国内出張地間の移動に国内便を使うことは何度かあったが、飛行機に酔うということは経験が無かった。
年齢は、その年の十二月に42歳を迎えようとしていた。

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