西方流雲(68)
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(四)
晃一は損な性分だとつくづく思ってしまうのである。どうしても治療効果について、納得ゆく根拠がないと、効果を疑い始めてしまい、その為に効果が出てこないこともあるのではないかと思うのであった。 治療効果が実感できるというのが最も好ましい治療だが、難しいことである。治療効果を定量化でき、それを患者が認識できれば、リハビリに取り組む姿勢が増長され、またどういう種類のリハビリが最も効果的か、即ちリハビリの指導者や介添え者や医師にとっても貴重なデータになるはずである。 効果の無いリハビリをすることは、医療費、時間の無駄使いという点で好ましくないはずである。とは言うもののどの様な指標を定量化するかを具体化するだけでも大変な研究が必要と思われる。
リハビリをしながら晃一が考えたリハビリ効果診断装置は以下の様なものだった。 手足の動き、言葉、字体特に手足の動きのギクシャクした感じは信号波形にしてみれば、どこをとってもスムーズで丸やかなサイン波ではなくて、あちらこちらに急激な変化を伴う角形波で表すことが出来るように感じた。 そのような時間変化信号波形はフーリエ変換して、スペクトルを見ると差異が明らかになると思われ、例えば健常な側、晃一の場合右手、右足だが、右手の動きの周波数特性をリファレンスとして、問題となる側(晃一の場合左手)の動きの周波数特性をとり、たとえば、スペクトルのピークレベルに対して半分の値になる周波数を数値化する。あるいはスペクトルのピークレベルを示す周波数を数値化する。 健常な側の値に近づくほどリハビリの成果が表れていることになる。それならどの様な装置構成であれば良いか。 ここまで考えて、これがいけないことなのだ、考え詰めることは思いつめることにつながる。これがストレスというものかも知れない。この癖を止めねば、また再発するかも知れない。 もっと仕事から遠ざからないと、程よく無責任に、程よく遊ばないと。そう晃一は胸に言い含める様に独りごちた。 三日目頃から見舞いの為に職場の仲間、かつて一緒に仕事をした人が次々にやってきた。テニス仲間、親戚、兄弟、宗さんが来たときは丁度リハビリの最中で会うことは出来なかったが、ありがたいと思った。
結局、四十三歳の誕生日は病院で迎えた。そしてかろうじて年内に退院出来た。早速年賀状の作成を開始したが、あて先が思うように書けず、みな手が寒さでかじかんだ時の様な字になってしまった。 左手が硬直してしまった様な感覚なのであった。明らかに他人の字体であった。小学校に入学し、最初に文字を書いた時から三十六年間かけて作り上げた自分の字体を失ってしまったのである。 母の達筆な字体を真似、妻の父の実直なバランスの取れた文字等、多くの人の字体を参考に取り上げ、あの様な文字を書きたいと思いつつ作り上げた自分の字体である。 言ってみれば自分の字体もここまで来るまでに歴史を持っていたのだが、その歴史もろとも失ってしまったのだ。晃一は左利きであったが、自分の字体が決して下手とは思っていなかった。むしろ上手な部類に属すと考えていた。それが仕事で大量の報告書を作成することに対して後押ししていた。病気によって失ったものの大きさを痛感しはじめた。 字体を失う。文字を書くことが異常に疲れるのであった。 晃一は自分の脳梗塞の後遺症について、正しい知識を身につけようと思い、医学書を購入し勉強を始めた。
【失書症】agraphia とは、 知能的には何の異常もなく、手を動かす機能にも何の問題もないのに文字を書くことができなくなる症状。 を言うのだそうだ。 晃一の場合、そこまでひどくないが、文字を書くことに、かつて感じたことのない違和感を感じ始めていた。 晃一にとって運が良かったのは、パソコンの普及が凄まじく、ワープロ風に使いこなすことによって、ひとさし指さえ健全であれば、殆どの場合、文字を書くことが不要になってきたのである。 入院中ベッドの傍らに、小学生用の大きな升目の国語のノートを置いて、手を動かす気になったらいつでも字を書けるようにしてみた。 字を書くことに関して言えば、正に小学一年生からの再出発と言え、気が滅入る感覚を覚えた。そしてその感覚は容易にコントロールできるものではないというものであった。
【失読症】alexiaとは、 脳に損傷を受け文字や文章を読めない症状を示す一種の言語障害である。失読症には先天性と後天性があり、先天性の場合は発達に対して言語の習得が遅れた場合や、先天的な脳疾患の場合に発生する。しかしほとんどの場合はリハビリテーションや訓練を行うことで回復することが多い。それに対し後天性の失読症は、後天的に脳梗塞や脳内出血などにより、脳機能が低下または一部分が停止した状態によって引き起こされる。 健常者は単語を認識する場合、単語の中心の文字を見るだけで単語全体を認識することがわかった。これは視覚情報処理システムの周辺視を利用しているからと考えられる。それに対して、失読症患者は単語を文字単位に細分化し、一文字ずつを読む傾向にある。これは周辺視の利用がうまく利用できないため、中心視を利用していると考えられる。また同様の結果が短文においても見られる。 以上の様な機能を完全に失った訳ではないが、晃一の意識の中ではそれに近い状況であり、これからの人生が悲観的にならざる得ないほど落ち込んで行くのは、病院を退院し、会社へ出社したり、テニスを再開し始めてからのことであった。
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