槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/06/09 21:24:32|物語
西方流雲(73)
                   西方流雲(73)

                <<< 61. 絶望と葛藤 >>>

                       (一)

 母の死去は、晃一の気持ちをどれほど暗くしたか知れない。
自分のことを全て理解してくれていた宇宙的存在であった。
勿論、姉にとっても、二人の弟にとっても、かけがえのない存在であったに違いなかったが、晃一は特別母親としての恩愛を受けていたのではないか。

 親元を離れて、関西の地にいた頃、仕事や自分自身に嫌気がさした時は、その様な状況を知るはずもないのに電話がよくかかってきたものだ。
 さだまさしの歌に“かかし”というのがあるが、遠くにいる子を思う親の気持ちをうたった、あの詩そのものの母だった。
 会社の上司や同僚、友人達に母の死を告げるときに自然に目頭が熱くなってしまう自分を抑えるのにしばらく苦労した。
 そして、亡くなるまでは、母親としか見ることができなかったが、少し気持ちがおちついて来ると、一人の女性として、一人の人間として悔いのない生涯であったろうか、父を、親戚を、子供達を、世の中を、どの様な目で見てきたのだろうか、ということが気になってきた。
 晃一は他人をそれまで、その人と出会ったときの印象だけから観ていたが、この時以来、その人にはそれまで生きて来た歴史、生きてきた環境、立場があり、それを含めてその人物の人格なので、なるべくそこまで観たうえで、その人を論じるようになるのであった。
 晃一は自分で分かる程、他人を観る目線が変わってきたと感じるのであった。
 晃一が脳梗塞に罹ってしまったことと、母の死は、晃一の人格を大きく変えることになったのである。
 他人のそれまで生きて来た歴史、生きてきた環境、立場を推量するということは、自分自身についても、自分がこれまで生きて来た歴史、生きてきた環境を振り返ってみるということに繋がる。
 しかしながら自分自身が生きて来た歴史を振り返って見ても花となる様なものはどこにも見えない。
 脳梗塞を患ったのが良くて人生の折り返し点で、悪ければ、60%から70%を過ぎたところかも知れない。
 更に悪ければ、朝に紅顔、夕べに白骨ということも全く無いことでもないかもしれない。この残された時間に一体自分は何をしないといけないのか、その答がなかなか出ないのであった。
 その様に思い悶えることの多くなった晃一の心の風景であった。 その心の風景の中心にあったのは、テニスと仕事であったが、テニスは殆どやらなくなった。これによって、テニスを通じての近所の人との付き合いが途絶えてしまった。

 そして仕事も、停滞し、力が入らなくなり、自分より下にいた若い人達に追い抜かれて行くという気がして、仕事に身が入らなくなってきた。その様に、自分の心の風景の中心にあったテニスと仕事が影を潜めると、代わりに見えてくるのは家族の姿、とりわけ妻の姿である。
 朝起きるのは遅く、夜寝るのも遅い、その間、家事をきちんとこなしているかと言うと、食事の時刻が不規則であったり、洗濯にしても、洗濯機にかけてすぐ干さない。干しても屋外ではなく、窓際にカーテンの様に吊るして干すのである。
 したがって、天気の良い日でも、室内に太陽光が差し込まない。梅雨の時は大変である。
 洗濯機にかけてすぐ干さないので、ドブの臭いがすることもある。乾いた洗濯物を畳まずにソファーの上に置きっぱなしにしたり、畳んだとしても、テーブルの上に置きっぱなしにするのである。
 その様なアラが次から次へと見えてきて、晃一の心の風景の中心にドカッと腰を据えてくるのであった。これが自分が妻として選んだ人間の実像かと思うと情けなくなって涙が出てくるほどであった。
 晃一は、これは「もっと不真面目に生きよ。」という天の啓示かも知れないと考えた。それと同時にこれまで野放しにしてきた妻の態度をここに来て問題視し始めた自分の変心が情けなくなるのである。
 どこかに新たな心の風景を創りださねばと思いつめはじめるのである。
 賭け事でも、浮気でもなんでも良いのだ。

 手はじめに、池袋や新宿の歓楽街を歩き回ることにした。先ずパチンコ屋めぐりをした。まだ独身で滋賀県八日市にいた頃よくパチンコ屋通いをやったが、あのころのうきうきしたり、次から次へと玉が溜まり楽しくて仕方なかったワクワク気分には全くなれず、単なる、時間潰しという感じしかしなかった。
 そしてパチンコ屋通いは一ヶ月も続かなかった。
次に、風俗店めぐりであった。キャバクラ巡りを始めた。気にいった女の子をみつけ、たわいの無い話をするだけなのだが、相手は人の心をとろけさせる術を身につけたサービス精神旺盛なプロである。
 気持ちの悪い筈が無い。おまけに、店によってはお色気満点で、体を晃一の体に押し付けてきて、胸の谷間をわざと覗かせたりする。また晃一の手を自分の乳房に導き、いつしか、もっこりした晃一の股間を触ってくるキャバクラ嬢に出会うこともあった。
 しかし彼女等は守るべき一線はどんなにアルコールがはいっていても踏み外すことはなく、その分晃一の満たされない欲求が鬱積してゆくのである。
 次第に、店から出た直後、彼女らのサービスと支払い代金とを天秤にかけ、今日のサービスは支払い代金とバランスがとれていず、支払い代金側が沈み込んでいたな、とか、今日のサービスは天秤のサービスの方が沈みこんでいたなとソロバン勘定をする様になって行った。
 そしていつしか一線を越えたサービスを天秤の片側に載せたときに、それにつりあう代金はどの程度になるのだろうという好奇心が芽生え始め、日刊紙の風俗店舗案内の欄に目を通すようになってきた。
 この当時、テレクラと呼ばれる店があちこちで繁盛し、一度体験してみようなどと思うこともあった。また援助交際などという言葉も大衆紙や週刊誌で頻繁に目にすることがあり、これらにも好奇心を抱くようになってくるのであった。
 一方で、これらの水商売に従事している女性がどうしてこの様な仕事をすることになったのだろう、この女性にはこれまで、どの様な環境が取り囲んでいたのだろう、どの様な人間に接してきたのだろうという、その女性のこれまでの生き様に想いを馳せてしまうということも無意識のうちにやってしまうこともあった。
 その様な想いを馳せているうちに昂ぶっていた気持ちは落ち着き、自分が今やっていることは一体なんだ。と反省の念に駆られることもあった。
 そしていつかはその一線を越えてみようという想いは、潜在的な意識となってなって晃一の心の片隅を占める様になるのである。
 その想いが潜在から顕在へと変貌するのは、アルコールが入り、出張先などで開放感を単独で味わっているとき、妻としっくりいっていない時などで、その様な状態が重なり、居合わせた場所が風俗街であり、多少、懐に余裕がある状態であれば、間違いなくその一線を越える行動に出るだろうことは自信を持って言える様になってきた晃一の精神状態であった。

                   << つづく >>







2008/05/15 23:23:48|物語
西方流雲(72)
                     西方流雲(72)

                  <<< 60. アイスクリーム >>>
 
                          (二)

 そして、次に母に対面したのは四月四日で、冷たくなった母の姿であった。
 その日、平成三年四月四日は、伯母の四十九日の法事で、会場等の手配は生前の母がやっていたものの、当日の法事の細かい手続きは晃一が担当していた。

 その伯母の葬儀にも母は出られる様な状態ではなかった。
 関係者が集まり、法事を済ませ、会食を始めた頃であった。その店から晃一に電話がかかっているというので、出てみたら弟からの電話で、母が危篤と言う連絡で、杏林大病院からかけているとのことであった。その場に居た者のうち、晃一、晃一の父、そして母の弟、晃一の姉が、急遽タクシーで杏林大病院に向かった。
 晃一の妻弥須子の父が心筋梗塞で亡くなったのも杏林大病院で、何回も、杏林大病院に足を運んだことがあったので、道順には精通していた。
 丁度桜が満開の時期で、桜並木の下をくぐり抜ける様に、タクシーが走行するが、晃一は、
「よりによって、こんな時に桜が満開とは。」
と独りごちた。
 かってのグリーンパークのところの桜はライトアップされていて人出も多く、夜桜見物に興じている人達の姿に違和感を感じざるを得なかった。
 なんとか間に合って欲しいと念じる気持ちはタクシーに乗り込んでいる全員が思っているに違いなかったが、あちらこちらで夜桜見物の人の波は絶えることなく続き、タクシーは徐行を繰り返し、なかなか病院に辿りつかない。三鷹の前を通り過ぎる時には絶望的な気持ちになっていた。そんな気持ちの中に、ふと母はこの日に死ぬことを決めていたのではないか、という憶測が去来した。

 母はことあることに、伯母のことを気の毒がっていた。
伯母は早くに連れ添いを亡くし、それ以降三十年以上もやもめ暮らしをしていて、本来連れ添いの眠る墓へ葬られるのが筋だったが、三十年もの歳月は、亡くなった連れ添いの実家との敷居も高くして、同じ墓に納められるべきところを遠慮せざるを得ない立場に追いやられ、結局のところ薄家の墓を頼らざるを得ない状態であった。また、晃一の中学時代に英会話教室に通うための学資を援助してくれたり、経済的に困っている母を助けてくれたこともあるらしい。
 したがって、母にとって、薄家の親類の中では最も気を許せる存在であったに違いない。だとすれば、どうせこの先短い命であれば、この伯母の冥界に於ける介添えをしてあげようと思うくらいのことは考えていたであろう、と晃一は心底思った。

 もともと晃一の母は、ただでも任侠じみたところがあって、近所に惨めな思いをしている人があれば、声をかけたり、自分のところの状況も省みず、出来る範囲の経済的な援助を施してしまう気質を持っていた。その気質から言えば、伯母の気の毒な立場を憐れみ、伯母の法事に合わせて、伯母の死後の冥界での介助のために、命をまっとうするくらいのことはするのではないかと思った。
 杏林大病院に着いた時、その場に晃一の一番下の弟が待っていて、晃一らに向かって、
「死んだ。」
と、一言ポツリと言って、晃一らを母の亡骸のある病室に案内した。
 晃一は、母の亡骸を見て、何故あの時アイスクリームをあげられなかったのかと後悔するのであった。自分の器量の小ささに嫌気がさすのであった。

                  <<< つづく >>>








2008/05/15 22:51:31|物語
西方流雲(71)
                     西方流雲(71)

                <<< 60. アイスクリーム >>>

                          (一)

「モルヒネを使っているみたい?」
「よく解からない。」
 ベッドの手摺にもたれかかり、口からは緑っぽい唾を嘔吐してはティッシュで拭く、ということを繰り返していて、如何にもしんどそうに見える母の姿であった。
 恐らく痛みを通り越した感覚になっているので、モルヒネ云々の言葉が出てきたのだろう。
 二日前に、急に異常を感じ、救急車を呼び、ここ滝山病院に、姉の付き添いで入院したとのことであった。病室はナース室の真ん前で、常に容態を確認できる位置にあった。
 それだけ重篤な状態であることは察知できたが、当の本人はじっとうつろな目であるが、ベッドに座っていて、ベッドに伏せている体勢ではなかった。
 嘔吐して出てくる緑っぽい液体は胆汁であろうことは解かったが、それを間断なく嘔吐することが、どの様な異常を体の中に呈しているかは、晃一の乏しい医療知識では推測もおぼつかなかった。

その母が突然、
「晃一、晃一の名刺があればもらえない?」
と口走った。晃一は、その理由を聞かず、たまたま財布に忍ばせておいた最後の一枚の名刺を母に手渡した。
 受け取った母は他の名刺にそれを重ねて、枕の下に忍ばせた。他の名刺は弟のものだった。
 晃一は、名刺の肩書きが課長代理であり、もっと偉い肩書きであれば、母はどれだけ安らかな気持ちになれただろう、と申し訳ない気持ちになった。
 また、以前、母の前で表明した博士号の称号さえ名刺には記載されていない。晃一は自分のふがいなさに、やるせない気持ちになった。それに見合う親孝行をしてきたかというと、それにも首を横に振らずにいられない、心配ばかりかけてきたのだ。
 晃一が、一戸建ての家を購入する時、資金が足りず、母に300万円ほどの融資を頼ろうとした時、母は、融通できる額になることを期待して、わずかな自分のへそくりを元手にして、競馬に投資していることを弟から聞いたこともある。
 それを聞いて、申し訳ないと思うと同時に、母親の息子に架ける愛情の深さに圧倒された。
 母親の子供達にかける行為はそのことが、良い事か悪いことか、危険なことかどうか、損しないかどうか、よりは、子供達にとって有益かどうかが最も重要な関心ごとなのであって、それらの結果が悪く転んだ時はその時点で対処すれば良い、と言う考え方なのである。
 晃一は、その様な母の行為を思うにつけ、必ず思い出すことがあった。
 晃一が小学校三年の時、母の姉である伯母さんが住んでいる長岡に夏休みを利用して遊びにゆくことになった。上野から上越本線に乗って行くのだが、上野駅に着いてみると、ホームは既にごった返し、とても姉弟の小学生二人だけで、座席を取れる状態ではなかった。それを観た母は、困ったという顔をしながら、晃一らに、
「お母さんが、先に席を取ってくるので、ここで待っていなさい。」
と言い、汽車がホームに入って来て、客車のドアが開いた途端、すべり込む様に、前に並んでいた人を掻き分け入って行き、二つの座席を確保して、荷物を置くと、その直後にその前の座席を確保した乗客に、何かを渡しながら、確保した座席に荷物を置き、何回も頭を下げ、そして、あっという間に晃一らの所に戻ってきて、二人の手を引き、その座席まで誘導して座らせた。そして面前のその乗客に何回も頭を下げ、
「よろしくお願いします。」
と言い残して、再び車外に下りて行き、晃一等の座席のある車窓の下に来て、
「気をつけてね。」
と言葉を掛け、次いで、その様子を見つめていた、五十歳前後の対面の乗客に再び、
「よろしくお願いします。」
と頭を下げた。
 晃一はここまでやってくれた母に感謝するより、ルール破りの乗り込み方をしたり、お金を見知らぬ人に渡して行為を達成するという母のやり方を恥ずかしく思う方が先だった。
 しかし、晃一は歳を重ねるごとに、この母の恩愛が理解出来る様になるのであったが、時遅しの感があった。
 ついでながら、このような母が晃一にとっての母親像の基準となり、自分の妻が子供達に接する態度を評価することになり、妻を精神的に圧迫することになってしまうのであった。

 そして、晃一が脳梗塞に倒れた時は、入院したその日に駆けつけてくれ、その晩は一睡もしないで、傍に付き添ってくれたとの話であった。きっと、母は時折晃一の寝息を確認しながら、晃一が生まれる時から今日までの晃一との関わりについて回顧していただろうし、その回顧の中で、晃一に、母親として何をしてあげられたかとと思いつめていたに違いないだろう。この回顧がその先長く続けば良いが、数秒後、または数日後、または後遺症に悩まされ、それを悲観して、自らの命を絶ってしまう事だってあるかも知れない、・・・・。そんなことを際限なく考え、心を痛めるに充分な時間であったに違いない。
 また、自分自身が関わらなくても、夫婦間がうまく行っているのだろうかということにも心を痛めたであろう。
 晃一が滋賀県八日市の工場勤務だったころ、高いヘンスから飛びおりて腰を痛め、立ち上がれなくなってしまったことがあるが、その時、妻の弥須子は実家に帰っていた。
 また金沢に転勤となり、その時長期に亘り、実家に帰り、晃一と別居生活同然となっていた時期があること、それらのことを知っている母にとっては、夫婦関係がうまく行かず、周囲に心配をかけることが出来ないので離婚を留まっているのではないか、学生時代の明るく健康的であった晃一と、今のベッドに横たわっている晃一の姿を比較すると、その間にあったことは、晃一にとって辛いことの連続であったに違いないのではないか。
 親元を離れて何の身寄りも無い関西の小さな会社に就職した時の気持ちは?
 二つ目の会社に転職する時にはどんなに心を迷わせただろうか?そして今勤務している会社に転職する時、本当に自分の意志に忠実に決断したのだろうか、妻や子供のことで不本意に転職を決したのではなかろうか?
 初めて結婚の意志を示されたとき、相手が学歴が無いということで反対してしまったことがあったが、そのことと、その相手の女性のことを忘れられないままに、今の妻と結婚してしまったのではないだろうか、そんなことは母自身が関わり知っていることだが、その他社会人として、仕事上や対人関係で悩んだこともあろう。
 きっと母は、枕辺の晃一の寝息を耳にしながら、そんなことを回想しながら心配な気持ちに耐えていたのではないか。

 そんな母が、苦痛を通り越した様子で晃一や姉に向かい合っている。その母が突然、
「先ほど、そこの部屋の入口に観音さまの姿が見えた。」
と口に出した。そして次に、
「晃一、悪いけどアイスクリームを三つ買ってきてくれない?」
と言った。晃一はこのような状態で、アイスクリームなどというのはもしかしたら致死的な猛毒と化してしまうかも知れない、と思ったが、看護婦は問題ないと言うかも知れないと思い、だめもとで聞いてみた。
 案の定、看護婦は止めた方が良い、と強くはないが反対した。それでも、買うだけ、買っておこうかと病院を出て、売っていそうなところを一回りした。
 しかし、結局看護婦の意見を思い出して買わないで戻ってきてしまった。後々、母の没後、その時のことを想い出すことがあるが、何故あの時アイスクリームを買ってきてあげなかったのか、と悔やまれてしかたがないのだ。あのアイスクリームは、単に喉を潤し、熱ぼったい身体を冷ます食べ物ではなく、最後の晩餐の積もりだったのかも知れなかった。

                  <<< つづく >>>







2008/05/06 23:02:14|物語
西方流雲(70)
                      西方流雲(70)

                     <<< 59. 厄年 >>>

                       ( 六 )

 仕事の方は、もし病気になっていなければ、共同研究の為、コロラドへ長期出張する予定であったが、それが無くなり、代役として後輩の一人が行くことになった。
 これも晃一を意気消沈させる出来事になったが、その代わり共同研究の進捗を確認する為に他の数名とともにコロラドへの出張があった。これが晃一にとって心身ともに極度に疲労させる原因となってしまった。
 出張から帰り、テニスコートに顔を出したとき、仲間たちからは、
「前に比べ悪化した様な感じがするが大丈夫か。」
と言われた。自覚症状はそれほど感じなかったが、負荷が加わったプレー中の仕草には他人の目に感じ取られる程の変化があったのかも知れない。
 その頃を期にテニスコートに足を運ぶ回数はめっきり減った。
その回数を補うかのようにテニスを普通にプレーをしている夢を見る機会が増えてきた。
 夢は願望の現われというが、正にその通りだと思った。
晃一にとってテニスをするということは、思い切り自己主張する場でもあった。その自己主張をする場を少しづつ失われてゆく様に感じ始めていた。
 そして、近所付き合いの場でもあった。それも失ってしまったという気持ちに襲われた。

 この様な気持ちが鬱積するとともに運動量が激減してきた。
それが原因だろうと思われたが、人間ドックで境界領域の糖尿病と診断されてしまった。
 血糖値が多少高かったということと、家系をみると父方も母方も糖尿病の気があり、それが原因で伯母が亡くなっていることから、再検査となり、百八十ccほどのショ糖液を摂取して、三十分ごとに血糖値を測定し、血糖値の時間変化を調べるという検査法であった。
 正常であれば、直ぐに回復するのだが、糖尿病だとインシュリンの分泌が不十分であり、なかなか血糖値が回復しないのである。晃一の場合三回目でやっと血糖値が低下し始めたのであった。

 晃一のかかりつけの医師に話をすると、先ず運動することが肝要であると、運動して減量することを強く奨められた。
 そこで、隣町の狭山市にあるサピオという健康センターのトレーニングルームに毎週通うことにした。
 ランニングマシーン、自転車、漕艇マシーン、エキスパンダー、屈伸、ペダル等が配置してあり、更にリハビリ用機器が数機種並んでいた。
 最初の頃は主に自転車やエキスパンダーを使ったトレーニングを一時間半程度やっていたが、途中からランニング主体のトレーニングに変わってきた、二十分の使用が終わったら次の人が使う決まりになっているので、時間を目安にするべきなのだが、晃一は調子が取り易く、呼吸と同期させやすい歩数を目安にした。
 先ずスピードレベルを五〜六にセットして早足で始め百歩、次いでスピードレベルを八〜十に合わせて走り三百歩、調子が良ければスピードレベルを十〜十一に合わせて、ぎりぎりの最早足で二百歩というペースで一回目をやり、一休みしてからまた同じペースで繰り返すというのが日課となった。
 汗をかいたあとは、シャワーを浴び、同じ階でテレビや埼玉新聞が配架されているロビーで、アイスクリームを食べ、健康飲料を飲みテレビを見たり新聞を読んだりして過ごす。
 そして一楷にある小さなレストランで、本を読みながらスパゲティカルボナーラを食べる習慣になっていた。
 スパゲティカルボナーラにはたっぷりタバスコと粉チーズを食べそれを昼食とした。
 そのレストランには料理を客のところまで運ぶ役割のやや知恵遅れのハイティーンと思われる男女数名とボランティアと思われる中年の女性、その知恵遅れのハイティーンと思われる男女の母親かも知れないが、が数名で料理と勘定を担当しているようだった。

                    <<< つづく >>>







2008/05/06 22:47:45|物語
西方流雲(69)
                     西方流雲(69)

                    <<< 59. 厄年 >>> 
                
                        (五)

 大晦日に近い二十七日、晃一は年賀状を出す準備に入った。
 年賀はがきは既に例年通り妻弥須子によって準備されていたが、図案や宛名書きは全く着手していなかった。
 まだコンピュータやコンピュータソフトが入手しやすい時代ではなかったので、図柄は不本意であったが市販のコンビニで販売されているものを使い、宛名のみ自分で書くことにした。
 しかし案の定、文字は最初の文字こそ、フォントサイズで言って、十六ポイント程度でかけるものの、徐々に字体が小さくしかも利き手ではない手で書いた時の様なゲジゲジの六ポイント程度の字になってしまった。
 これでは郵便配達人は住所を読めないだろうと思い、長男の武蔵に住所録を渡し、代書してもらうことにした。
 しかし既に書いてしまったものについては葉書が勿体無いと思い投函した。これを受け取った人は、異常な事態が起っていると察知するであろう。
 本来、この様な晃一の身に起った事態を積極的に知らせて理解してもらうべきか、普段通り平然としているべきか、分からなかったが、なるようになるしかないと考えることにした。

 年が明けて、正月明けの出勤は、他の正常の出勤と同じ経路と時間帯であった。八高線の小宮駅から徒歩で十五分ほどである。
 偶然、那賀崎氏と出会い、同じペースで会社に向かったが、一歩一歩の足の運びに抵抗感を感じた。多分入院しているうちに足の関節が錆付いたのであろう。
 それに、着地時につま先から着地する状況は変わらなかった。これらの症状が回復するのか不安であった。
 しかし、那賀崎氏と会話しながら歩を進めたこともあって、その時はそれ程悲観的な気持ちにならなくて済んだ。

 次に、会社の建物にたどり着き、上履きの入っているロッカーの番号を思い出すのに苦労した。更には建物の中では廊下で行き交う顔に見覚えが有るのだが誰だか思い出せないのだった。
 晃一の勤務する会社の事業場にはハーフタイムコーナーというコーナーがあり、一息入れたり、ロビーサイエンスの情報交換の場として使われていた。
 病気になる前には、一息入れるなんてことは殆ど考えられないことであった。しかし、病後仕事の合間に一息いれることが多くなった。
 そのコーナーを暖める晃一より先輩の常連がいて、話の中心にいた、定年が数年先に控えた越屋さんというその人が、時に、人生論的な話をしているところへ晃一が一息入れに来た。
 越屋さんは、「太く短く生きる人生と、細く長く生きる人生と、どちらを取るかと問われれば、自分は太く短く生きる人生をとるね。」
と、たまたま、居合わせた数名の人の前で熱弁をふるっていた。
 晃一は、「自分の場合は、この様な後遺症のある健康状態では、太く短く生きることイコール目標未達成を意味し、したがって、細く長く生きる人生を選ぶしかない。」と独りごちた。    
 自分の肉体と精神が、ともに外界との間にオブラートの様な薄い膜で仕切られている様な感覚がいまだ除かれていないことを感じている晃一にとって、自分の人生のスタイルは、生きながらえるとすれば、細く長くという生き方を選択する以外に無いと感じていた。
 テニス狂の晃一にとって、テニスのラケットを握るということはいずれの人生のスタイルを選ぼうと、組み込まざるを得ないコースであると位置づけていた。

 ある日、晃一が関与していたプロジェクトで共同研究相手となっている大学の先生が、テニスをやらないかと、プロジェクトメンバーに申し入れをしてきた。その先生は晃一の結婚式の仲人をしてくれた先生と友人であった。
 その先生からもしかしたら晃一がテニス狂で、テニスを一緒にすることが、病気によって頑なになった晃一の気持ちをほぐす格好の手段ということを耳に入れてのことかも知れない。
 そう思って、一緒にプレーすることを何度考えたか分からなかったが、一月前に行きつけのテニスクラブへ行った時のことを思い出すと、ついついひるんでしまうのであった。
 退院後、晃一は初めて自宅近くにあるアプリコットテニスクラブへ出かけた。病気になる前は休みという休みは、朝十時頃から夏は夜七時頃までプレーをしていた常連である。
 晃一の顔を見た常連の仲間達は、皆歓迎してくれた。練習の仲間にも以前と同じ様に加わることが出来た。しかし、試合になるとサービスは空振り、フットワークはまるで追いつかず、レシーブでも空振りを多発してしまう有様だった。
 試合となると相手は病気前の晃一のつもりで容赦のないサービスをしてくるのであった。気の毒に思う視線を感じ晃一は居たたまれない気持ちになった。
 この様にテニスをすることが結局のところ自信喪失につながることになり、テニスコートの敷居が次第に高くなり始めていた。石田先生とのテニスは丁度そんなことがあった一月後のことであった。
結局、晃一はテニスをしなかった。

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