槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/06/21 17:10:40|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(4)
(8)八坂神社、円山公園
 清水寺から東大路通りを北に歩き、八坂神社から円山公園、そして知恩院と巡歩した。知恩院はMM氏ともどもM製作所時代の麻雀やパチンコ仲間だったYK氏が奈良大和国分寺の住職に着任する前に、修行をした寺と聞いていた。
そんな話をMM氏としながら知恩院山門石段で写真を撮ったあと、青蓮院前に通りかかった。その時点で、万歩計は2万歩をカウントしていて歩き疲れていた。また、喉が渇ききっていた。そこで、丁度眼に入った喫茶店に入り、一休みすることにした。

(9)知恩院、青蓮院
 そこで、デジカメのモニタに、その時点でまだ名前の分からなかった金糸梅の花を写し、花の名称を最初に店の店員に、しかし店員には分からなかったので、次に、たまたま、隣に座った中年の婦人グループに、花の名称を尋ねてみた。その中の一人が「自分の実家の玄関にある。自分は名前を知らないが、実家の者が知っているかも知れない。」と言って、携帯電話をかけて確認してくれた。しかし結局「名前までは分からなかった。」とのことだった。
 旅先ではこの様な触れ合いが良いのである。
花の名前を知ることは諦め、彼等に礼を言って、その店を後にした。そして、東山神宮道の最初の十字路を右折し、槐の大きな木が植えられた白川小学校前を東に向かって歩き、【仏光寺】の前でその山道に沿って左折し、三条通りへ出て、さらに【都ホテル】の前を通り過ぎて、蹴上げのY字路を左折して、南禅寺前の山道入り口に至った。この山道の左手には湯豆腐料理で有名な店が幾つかあるが、自分にとって見逃していけないのが、「かしく」という宿であった。 事前にウェブで検索したところ、現在は宿ではなくて仏蘭西風京料理の店「カシク・コルドンブルー南禅寺店」になっていた。
「かしく」という宿は、京都在住時に両親や親戚が京都に来たときに案内した宿であり、ここで、両親とともに食事をしたことがあり、思い出深い宿であり、京都を離れてから後、幾度と無く夢に出てきて、夢の中で葛藤する気持ち
を和らげてくれたものだ。
 変った名前の宿だったので、その名の謂れを聞いたことがある。「カシュク」即ち「仮宿」という意味だったらしい。しかし、ウェブのどれを開いても、そのような話は書かれていない。

(10)南禅寺
【南禅寺】ほど足を運んだ回数の多い寺院はないといっても過言ではない。昨年も一昨年も来訪している。いずれも晩秋で紅葉が終わりかけた頃であり、この季節に来たのは初めてであった。
堂内は季節外れということもあり、拝観者は少なく、本坊をゆったりと拝観できた。坊内に足を踏み入れた途端に足元からキュッ、キュッという床が鳴くのが耳に入る。
MM氏曰く、「鶯張りかな?」
     「有名なのは【二条城】だけど同じつくりかも」
と会話を交わしながら、先ずは方丈庭園へ、そして、本坊を囲む四つの庭園、方丈庭園、如心庭、六道庭、中庭と順に進み、廊下の内側にある狩野某による襖絵とを交互に見ながら本坊を一周した。
如心、六道という言葉の仏教的意味が看板に表示されていた(組写真)。

『【如心庭】が解脱した心を示す庭であるのに対し、【六道庭】は六道輪廻の戒めの庭である。六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観を言う。一面の杉苔の中に配石された景色を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃の境地に達することなく、六道を輪廻する我々凡夫のはかなさを想う』
と書かれている。

 最近、六道という言葉に接する機会が増えているように感じているところであった。京都東山近くに【六道珍皇寺】という寺があり、今年の冬、非公開寺院特別公開に合わせて訪問した。また今年のゴールデンウィークの一日、狭山丘陵の野山歩きを中学時代の友人達と楽しんだが、そこにも六道山公園というところがあったり、自宅界隈にも、六道という名の交差点があるが、仏子という地名なので、あってもしかるべきと以前から想っていたところである。

         つづく







2008/06/21 16:16:30|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(3)

(5)おいしんぼう祇園ぽっぽ亭
 その日の夕食はMM氏がウェブで見つけたという『おいしんぼう祇園ぽっぽ亭』に予約をいれていた。湯豆腐や湯葉をモチーフにした創作料理が名物ということで楽しみにしていた。店は非常に分かりにくいところにあった。
 建仁寺から祇園花見小路を、舞妓さんのショットを撮ろうとして手ぐすね引いてカメラ片手にその瞬間を待ち受けている、にわかカメラマン達の群を横目に見て通りすぎ、更に四条通りとの交差点を直進し、最初の信号を右折したが、みつからない。
 埒があかないので、近くの喫茶店に入り、店主に尋ねたところ、親切にも、地域の店の名前が細かく掲載されている地図を見て、探してくれた。ほぼ場所が分かり、先ほどの信号を同じ様に右折して、先ほどより先まで歩を進めたが相変わらず分からない。
 また信号の方へ戻り始めたところで、やっと巴状の路地の様な通りの最初に右折した右手に。見過ごしてしまいそうな小さな字で、【祇園ぽっぽ亭】と店名が表示されているのに、かろうじて気がついたのだ。
 入り口はどこにでもある小さな寺の門という感じで、その門をくぐると小さな四角い庭があり、四角の四辺のうちの一辺を位置するような配置構えの店が眼に入った。
 店長(組写真1)は三十代後半から四十代前半と思われる元気の良さそうな人で、終始我々の前で相手をしてくれた。最初に、「店の場所が分かりにくく探し回ってしまった。」という苦情めいた言にも、耳を傾け、「改善しないと。」と申し訳なさそうな顔をしていた。
 東京から予約を入れるもの好きな客は珍しく、殆どの客が、地理を良く知った地元の客なので、そこまで気を回さなくて良いのだろう。
 隣に女性客が座ったが、店長と親しく言葉を交わしていたので、きっと地元の常連客なのであろう。二時間ほどでその店を後にし宿泊予定のホテルに歩いて帰った。「出し焼き」という料理がおいしく値段も手ごろであり、味を堪能できた。

(6)清水三年坂美術館(その2) 
その日はM製作所の先輩達、同僚だった人達との懇親会があり、また学会の講演内容も自分の仕事に関係するものが無かったので、午後は再びMM氏ともども東山そぞろ歩きをすることにした。最初に、MM氏の提案で、『清水三年坂美術館』へ行ってみようということになった。初日と同様、二年坂経由で、清水三年坂美術館を見学してみようということになった。
 東京に戻ってウェブで調べると、『清水三年坂美術館は幕末、明治の金工、七宝、蒔絵、薩摩焼を常設展示する日本で初めての美術館です。』との紹介が最初に出てきた。館長は村田理如という名前で、確かに見覚えのある名前で、M製作所の創業者の弟氏である。
 丁度、明治時代の七宝焼き師、並河靖之の特別展をやっていて、工芸品ではなく芸術品としての気品溢れる七宝焼きに触れることが出来た。

(7)清水寺 美術館を後にして、【清水寺】を訪れることにした。ここには電通大の鎌倉教授考案のパラメトリックスピーカが設置されていることを聞いていたので、これを見学することが目的となった。ここもMM氏同様中学の修学旅行以来の見学となった。
 舞台の方へ行く前に、中学の修学旅行の時に写真を撮ったのと同じアングルで写真を撮って(組写真2)、入場券を買い、入場門から入る時、門頭に設置されたパラメトリックスピーカが眼に入った(写真3)。入場券の裏面には、♪松風や音羽の滝の清水を結ぶ心はすずしかるらん♪との歌がかかれている。舞台から京都の街並みを眺める景色は絶景といえる。
 京都北部花背にある峰定寺の舞台とは、陰に対する陽と言える。ただ眼下の風景は峰定寺の舞台の方がはるかに神々しさを感じる。神は華やかなところには住まないだろうし、華やかなところに神は不要なのだろう。
 清水寺は外国人観光客や現代っ子観光客の観賞に耐える様に、造形美や先進性を洗練させた結果、神々しさを削りおとしてしまった感がある。
 パラメトリックスピーカという最先端スピーカを設置しているなんて、先進性そのものである。京都人のよく云々される気質は進取の気であり、京都にはユニークで、市場の牽引役と評価される企業が少なくないが、この京都人気質である旺盛な進取の気風に育てられたと言っても良いのだろう。
 ところで、パラメトリックスピーカとは超音波の非線形効果を利用した音源で、例えば、48kHzの超音波と50kHzの超音波を同時に送信すると、差音の2kHzが音声として強い指向性をもって伝搬する。その指向角内に入った時のみ聞える、というものである。
 入場者を案内している人に、「ここに立つと人の声が聞こえますね。」と話しかけたら、「人を検知するとスピーカーのスイッチが入るのですよ。」との説明だった。
 この人は人を検知して照明が点灯する防犯装置を使っているのかも知れない、と思ってしまっているようだ。舞台を後にして出口に向かうとき、石垣の足元に花が、遠慮がちにさいていた(組写真4)

        つづく








2008/06/21 12:54:33|その他
京都東山と近江路めぐり2008(2)

(2)金糸梅(きんしばい)と紫陽花

 京都では2泊の予定だったがホテルを連泊で予約できず、特に、二泊目は学会会場からやや離れた河原町四条から五条方向へしばらく歩いたところにあるホテルサンルート京都で、学会会場までちょっとしたウォーキングとなる。
 朝、学会会場へ向かう河原町通りの植え込みに見たことのない黄色い花と着色し始めた紫陽花の花が眼に入った(組写真1)。後日調べてみて、この花の名前が『金糸梅(きんしばい)』ということが分かったが、見たことのない花だったので、ついつい京都固有の花かと思い込み、はしゃいだ気持ちになってしまった。学会はその日の午後は座を外し、訪洛初日には時間が遅く閉館したあとで、参観できなかった【清水三年坂美術館】を訪れることにした。

 その訪洛初日は、京都駅乗り越しというハプニングはあったものの、その後は極めて順調であった。初日の宿泊先であるホテルオークス京都四条にチェックインしたあと、先ず最初の行き先として【高台寺】を選んだ。
 以前訪問したことがあったが、その時の印象とは随分異なる寺の佇まいを感じた(組写真2)が、MM氏も同様だったようであった。1/4世紀以上も経てば当然かもしれない。
 しかし、その“当然”の内訳を考えると、整備された観光ルートとして再開発されたという印象が強く、特に高台寺から【八坂の塔】を西方に見て、【二年坂】、【産寧坂】をへて【清水寺】へ至る道は、観光地として整備されていて外国人観光客を眼にする機会が多かった。八坂の塔を背景に、舞妓さんや芸妓さんを乗せた人力車が下ってくる風景は絶妙のシャッターアングルと思っているが、まだ写真に撮れたことは無い。しかし、今回は、人力車と八坂の塔が揃った光景を写真に収めることが出来た。また別途舞妓さんの歩く姿を撮れたのでセットで目標達成ということにした(組写真3)。

 約40年ほど前に、初めて社会人となって勤務した会社の社長が、新入社員達を、この近辺にある【京大和】という立派な料亭に招待してくれて、舞妓さん、芸妓さんと触れ合う機会を与。
 その時、真っ赤に染まった夕焼けに浮かぶ八坂の塔が真っ黒なシルエットになって浮かび上がり、なんと美しかったことか。40年経て、未だにあの時の光景と、人を退屈させない芸妓さんの所作がまぶたと胸に残っている。

 高台寺では京うちわの展示会が開催されていた。うちわや扇子は京都が良く似合うと思っていたが、うちわは庶民、扇子は公家の持ち物という根拠のない認識があり、いくらか違和感を感じたが、うちわに描かれた絵図はきれいで、実用ではなく、飾り用に作られたことが一目瞭然で、それであれば、こういうところでの展示会もおかしくはないと納得した。

(3)二年坂、産寧坂
 寧々と秀吉とが祀られている【霊屋(おたまや)】を拝観後、雲居庵の横を通り、高台寺を後にした。西の方角に【法観寺八坂の塔】を眺めながら、二年坂、産寧坂の方へ向かった。
 何度となく京都へ来て寺院巡りはして来ているが、この通りは中学時代の修学旅行以来で、踏みしめる地面の傾斜と感触は変わらないが、両側に並ぶ店々はこぎれいになっていて、中には修学旅行生風情では入りにくい、格式が高い店構えもいくつかあった。
 しかし、自分達の様な歳を重ねた連中にとってはかえって入り易い。二年坂では漂う香りに誘われて『二井三(にいみ)』という店に足を踏み入れた。お香、におい袋、香立て、宮人水香、香炉などが陳列されていた。この店は、元々文化人が 好む旅館であり、特に、竹久夢二とは関わりの深い因縁があるとのことで、その後、文化人の助言を受け、二井三というお香店としてその名を馳せているらしい。同行のMM氏は何か購入したようであったが、自分は、目移りならぬ鼻移りしてしまい、どれにするか決断できず、買わずに店を後にした。

(4)清水三年坂美術館(1)
次に入った店は、清水焼老舗の店であった。店舗の名前は覚えていない。雰囲気は陶磁器博物館という感じがして、清水焼のみならず、青磁など中国製陶磁器や、現代作家による焼き物も展示してあった。店に入ると、右手奥におかみの様な中年の女性が鎮座(店番というより女番頭さん風体を)していて、商品を眺めまわしている自分達に語りかけてきた。「気にいったのがありますか?」とか「お安くしておきます。」といった商売口上ではなく、「今の店主は三代目でしてな。息子は今はちょうど海外に出かけている最中なんどす。」そして、同行のMM氏が店の片隅に展示されている焼き物に近づき、「これは青磁ではないか。清水焼の生地は何色だっけ。」と呟くと、
「ここの当主は時々中国に出かけて陶磁器の指導をすることもあるんどすえ。」
と京都弁で教えてくれた。
 そして、ここ二年坂、産寧坂には東山麓の斜面を利用した登り窯が沢山あり、工房もあったが、今は山科の『清水焼団地』に工房があることなど教えてくれた。
 そして、こんどはこちらから、「我々が勤務していた会社もルーツは清水焼だったらしいのですよ。」と言ったところ、「京セラさんですか?」というので、「いえ、M製作所ですよ。」と答えた。 すると、「あら、すぐこの先のところにある『清水三年坂美術館』は、M製作所の社長さんの弟氏が私財をなげうって開館した美術館のはずや。」と初めて耳にする話が聞けた。
 その店を後にして早速産寧坂に足を延ばし、すぐ『清水三年坂美術館』の前に来たが、残念ながら閉館したあとらしく、門扉が閉じられていた(写真)。

 清水寺に向かっても閉門時間に間に合わないだろうということで、元来た道を通って、東山通りを突っ切り【建仁寺】へと向かった。ここは四条河原町界隈まで来て時間の余裕があるときは必ず時間潰しする寺で、この時も時間つぶしの感が強かった。またかってはM製作所の文化祭の会場となったことがあるという話が記憶にあったので、なんとなく親近感のある寺なのである。



         つづく







2008/06/21 12:38:17|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(1)
京都東山と近江路めぐり

毎年五月末は強誘電体応用会議という学会があり、京都を訪問する。以前勤務していたことのある会社の本社が京都にあり、その頃の先輩達、同僚だった人達との懇親会も楽しみの一つであり、時間を巻き戻した雰囲気に触れてリフレッシュするのである。
 前年は、宇治神社、平等院、万福寺、興聖寺を訪問、更に前々年は山科勧修寺、隋心院、醍醐寺を訪れている。この時期の勧修寺は、睡蓮が咲き誇り、その風情を写真に収めないで東京に帰ると何か忘れものをした気分になるのである。しかし今回は行き先を変えた。

 前々年からは、そのM製作所時代の同僚で、心友でもあるOB会関東支部(?)の主要メンバーの、と言っても二人しかいないが、MM氏と京都そぞろ歩きを共有し、学会の内容の反芻や超音波振動子の話などを杖に京都名所巡りをしている。
 ついでながらMM氏とはM製作所勤務時代から、珍道中、無茶をしでかしたことは数え切れず、思い出話に花が咲くときに必ず珍道中、無鉄砲道中が話題になる仲である。それらは、精神的にも肉体的にも若く活気のあった四半世紀前の自分達を思い出す格好の話題となる。

 今回は、事前の準備からメールで相談しあい、京都の訪問先から始まって行き先、夕食の食事先の決定も計画的にすすめた。その結果、今回の旅を東山+近江路湖東三山の旅と位置づけ、東山は高台寺、南禅寺、建仁寺、知恩院、清水寺あたりを、湖東三山は、宿泊地の草津から自分達も一時勤務していたことのあるM製作所八日市工場の前を通り、永源寺と湖東三山の百済寺、金剛輪寺、西明寺、そして最後に彦根城に寄り米原に至り、米原を停車する新幹線ひかりで帰ることになった。

(1) 乗り越し 新幹線で、京都で降車すべきところを乗り越してしまい、気がついたら新大阪であった。話に熱中して京都についたのに気がつかなかったのだ。
 最初から珍道中になってしまった。幸い新大阪の新幹線ホームで事情を説明したら、たまたまガラガラ状態で発車真近の東京行き新幹線があり、それに乗って京都まで戻って良いということになり、時間のロスだけで、事なきを得た。
 熱中していた話題は事前に、新幹線内で退屈をしない様に、『メイソンの等価回路』についてのディスカッションをしようということになっていて、基本の基のところから、とことん議論をしようということになっていた。
 出だしは予定通りであったが、最初からとんでもない珍道中となったわけである。

      つづく







2008/06/09 21:28:26|物語
西方流雲(74)
                      西方流雲(74)

                   <<< 61. 絶望と葛藤 >>>

                          (二)

 毎年5月末に京都で強誘電体応用会議が開かれ、ほぼ毎年晃一はそれに出席していた。開催日が必ず週末にかかっていたので、日曜日も余分に滞在し、その会議の最終日である土曜日を午後半日を欠席として、レンタカーを借りて、思い出深い花背峰定寺を訪問することにした。
 京都駅前のトヨタレンタカーで普段乗っているのと同じ車種の車を初日午後プラス翌日午前の一泊6000円コースで借り、早速北に向かって車を運転し始めた。
 河原町通りを北上し、鞍馬経由のコースで、案内によると鞍馬から車で30分程度だというので、鞍馬まで一時間以上かかるとしても二時間まではかからないだろうという見込みをしていた。
 時間は充分あるので、京都の路地裏のようなところをゆっくりドライブしてゆくことにした。烏丸通りから河原町通りに抜ける道に路地裏の様な小路が沢山あり、そこを歩くと京都の息吹きを感じることを、京都在住時に経験していたので、今回も車の中からであったが、その京都の息吹きを感じたくなり、その様な雰囲気がしそうな小路が烏丸通りに交叉する地点で右折した。
 五条通りと四条通りの間にある小路ではあったが、京都の息吹きを感じるほどの通りではなかった。その通りを直進しているうちに河原町通りを通り越してしまった。

 即座に二回左折すれば河原町通りに戻ると気づき、細い道同士が直交する最初の交差点を左折した時、やや派手な服装をした女性が笑顔で手を振りながら何かを話しかけようとしている。
 なんとなく見かけたことのある女性の様に見えたので、そんなことあるはずが無いが、もしかしたら、京都の会社勤務時代の知り合いかも知れないと思い、車を停め、助手席側のフロントウィンドウを下げた。
 するとその女性は、突然左手を開いたフロントウィンドウに手をすべりこませ、助手席のドアロックに手を伸ばし、ロックを解除し、ドアを開け、車に乗り込んでしまった。
 晃一はなんらかの事件に巻き込まれてしまったのかと一瞬想ったが、次の一言で、そうではなくて水商売の女であることがわかった。
「お兄さん、これからホテルに行って一休みしない?」という。
 晃一はこの種の女とドライブすると、どんな話題のドライブになるのだろう、という好奇心が芽生え、そのまま助手席にその女を乗せ車を動かし始めた。
晃一は、
「これから峰定寺というところまでドライブするのだけれど付き合う?」
とその女に話しかけて見た。その女は、一瞬躊躇したようだが、頷いて、
「レッツ・ゴー」
と明るく号令をかけた。そして間もなく、ハンドバックから煙草とライターを取り出し、煙草を吸い始めようとした。晃一はすかさず、
「煙草の煙きらいなんだけどなー。」と禁煙を求めた。
 不思議なことにその女はいらだった顔もせず、煙草とライターをハンドバックにしまいこみ、へんな人、とでも言いたげな顔を晃一の方へ向けた。晃一は運転しながらもその表情を感じ取り、
「降りる?」
と話しかけて見た。
 もしここで首を横に振れば、水商売のキャリアの短い女で、自分のやっていることを完全に肯定しきっているのでは無い、と晃一は予感するのであった。
 自分のやっていることを完全に肯定しきり、完全に生活の糧と位置づけているのなら、少しも時間を無駄にしたくない筈であり、首を縦に振り「なんだ、時間を無駄にさせやがって。」という言葉の一つぐらいはき捨てて下車して行くはずと読んだのである。
 果たしてその女は首をどちらにも振らなかったが、車から降りてゆくこともしなかった。今度は晃一が、
「レッツ・ゴー」と明るく号令をかけた。
 それを聞いたその女は、陰鬱さを漂わせた笑みを晃一に向け、助手席に深く座りなおした。信号で停車している時、その顔を盗み見すると、顔のあちこちに苦労皺があり、それが目立たなくなるように厚化粧しているが、睫毛は上向きに長く、あごは張り、鼻は高く、唇は薄い。目は一重で左目の下に小さな泣きボクロがあった。整形手術をしたようでも無い。どちらかというと晃一好みの顔をした女であった。晃一は、
「峰定寺って知ってんの?」
と話かけてみた。
「場所は知らないけど、・・・・」
とボソボソと何か言っているのだが、晃一の耳には車の騒音やカーラジオの音量で良く聞えない。そこで晃一は、カーラジオのスイッチをオフにして、
「峰定寺に行ったことある?京都出身の人?」
と同時に二つの質問を投げかけた。
「京都の人間でないから知らん。」という答が予想できたからである。
果たして答えは、予想を裏切り、
「うち京都市内から一歩も外に出たことあらへん。でもお母さんは出身が花背で、時々耳にしたことのある寺やで。」
「実家が花背ということね。これまた偶然だね。」
「そうではなくて、うちを置いてくれた店のおかみさんのことや。」
というものであった。
そして、更になにかを言いいかけた時、操作をしていないのに、突然カーラジオにザーっと言うホワイトノイズと、それに混じった中年女性の落ち着いた声が聞えた。その声は、
「どんなに切ろうとしても切れないのは親子の絆である。・・・・・」
「夫婦の絆は、切ろうと思えば容易に切れる。それに比べ親子の絆は切ろうと思っても決して切れるものではない。親の都合で、子に辛くあたっても、それを肯定的に受け入れないと、子はやっていけない。・・・、また、子の欲求が親にぶつけられた時、親は何事にも優先して実現してあげようと思う。」
 「「廻乾就湿の恩」。母親は子供を乾いたところに廻し、自らは湿ったところに就いて寝る、という意味ですが、子供がおねしょをした時のことです。寝小便をした子が、隣に寝ている母親を起こせば、親は子供の下着を替えさせ、それまで自分の寝ていた乾いた場所へ子供を回し、自分は、子供がおねしょしたばかりの湿ったところへ、新聞紙をあてたり、他のものを重ねて、その上に寝るのです。母親は子供を乾いたところに廻し、自らは湿ったところに就いて寝る、という意味です。釈尊はこれを、『父母恩重経』にこうおっしゃいます。「水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁にも、乾ける処に子を廻し、湿りし処に己臥す」。
 「「洗潅不浄の恩」とは親が子供を育てるために、おむつや衣服、子供の出した汚いものをも労苦いとわず洗濯して、常に清潔なものを着せてくれる恩です。子供は母親の愛情がなければ養育されることがない。子供が乳母車を離れるほどに成長するころは、おむつを洗濯する折に両手の爪の間に子供の便を含み、それを知らず知らずのうちに、台所での調理の時などに口へ運んでしまうのである」
「子供が小便をして自分の着物がぬれても、また子供の服が汚れても、決して臭いとか汚いと嫌うことなく、自らの手で洗濯し、洗い清めてくれるのである。子供が成長して自らトイレに行き、用をたすようになるまで、洗潅不浄の恩は絶えないのです。」
 「「嚥苦吐甘の恩」とは、食味を口に含みて、これを子に哺わしむるにあたりては、苦き物は自ら嚥み、甘き物は吐きて与う。自分は食べなくとも、子を飢えさせる親はない。おいしいものはみな子供に与え、自分はまずいもの、残り物を片付ける母の姿を思い出します。
 子供の成長を願う母親が、魚の身ばかりほぐし子供に与え、自らは骨をしゃぶって食事するのを見て、何も知らない子供は尋ねます。 「お母ちゃんはお魚の骨が好きなの?」 めずらしいもの、おいしいものは、 「お腹がいっぱいだから、お前が食べなさい」 と言うのが親心です。子は親から、幾度この言葉を聞いたことでしょう。
 子供が吐き出したものでさえ、平気でわが口に入れるのが母です。「父母外に出でて他の座席に往き、美味珍羞を得ることあらば、自ら之れを喫うに忍びず、懐に收めて持ち帰り、喚び来りて子に与う」 ・・・・・・

 相変わらず、ザーと言うホワイト・ノイズの音が大きい割りに言葉が明瞭に聞える。
「多分、どこかのお寺が提供している放送が混信したのだろう。この女性はこんな放送興味が無いに違いない」
と思い、カー・ラジオのスイッチを切ろうとしたら、マニキュアが派手に塗られた女の指がスーっと伸び、晃一がスイッチを切ろうとするのを押し留めた。
 よくよくその女性の顔をみると眼が濡れているのが分かった。そして、
「自分はそうしてもらってこなかったので、自分の子には出来ないヨ。やりかたが解からへんもん。」というのであった。

 ラジオの混信は更に続く。
 「「為造悪業の恩」。「弱き者、汝の名は女なり」といわれますが、この女が母になるとすこぶる強くなります。
 子供を愛するあまり、わが身を犠牲にしても、いかなる強きものにも対抗して子供を守ろうとします。 ことに子供が餓死しようとする場合には、前後を忘れて子供を助けようとして盗みをし、刑務所に入ることもあります。 「若し、それ子のために止むを得ざる事あらば、 自ら悪業を造りて悪趣に堕つることを甘んず」
とあります。子供が欲しいといえば、悪いこととは知りつつも、つい他人の花をも手折ってしまう、親の悲しさです。
洋の東西、古今を問わず、変わりなきは子を思う親心です。」

 車は河原町通りを北上し、すでに四条交差点、三条交差点を通り過ぎ、柳町あたりに差し掛かっている。車の中は、相変わらずホワイトノイズに混信してはいるものの言葉が明瞭に聞えるその放送は続いていた。
 その女性の頬には、目から溢れ出た涙で厚化粧に一筋の線が描かれていた。姿勢もまさに正座に近い座りかただった。混信放送は更につづいた。

 「「遠行憶念の恩」。子供が遠くへ行けば行くほど、親の心配は募ります。衣・食・住のことから、友だちの心配、学業のこと、仕事のこと、健康のこと、そして経済状態。とにかく身の回りのことすべてが気になります。若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之れを憶い、寝ても寤めても之れを憂う、 というのが遠行憶念の恩。
 「若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之れを憶い、寝ても寤めても之れを憂う」
 「最後は、「究竟憐愍の恩」。親は七十、八十の老境に入っても子供をあわれみ、慈しむ。その情は終生絶える間もなく、あたかも影の形に添うがごとく、親の心は子供から離れることはないのです。
 「己生ある間は、子の身に代らんことを念い、己死に去りて後には、子の身を護らんことを願う。」なのです。ところが、このような大恩を受けておりながら、私たちはどんなご恩返しが出来ているでしょうか。
「事ありて子を呼べば、目を瞋らして怒り罵る。嫁も兒も之れを見て共に罵り共に辱しめば、頭を垂れて笑いを含む。嫁も亦た不孝、兒も亦た不順、夫婦和合して五逆罪を造る」
 用事があって息子を呼ぶと、目をむいて怒る。妻子も罵倒し辱め、頭を垂れ薄笑いをうかべる。妻子ともに不孝であり、夫妻ともに大罪を造っています。
 急用で呼んでも、子は10回中9回までは無視します。来ても頼み事を引き受けないどころか、そんな言葉を聞いて、両親は、
「ああ汝幼少の時、吾れに非ざれば養われざりき。吾に非ざれば育てられざりき。而して今に至れば則ち却って是の如し。ああ吾れ汝を生みしは本より無きに如かざりけり」
「お前は誰のおかげで大きくなったと思っているのか。こんなことなら産まねばよかった。育てねばよかった」
と恨み悲しみ、涙を流すのだと説かれているのです。これは、2600年前のインドだけの話ではない。今日もまったく変わらぬ浅間しい我々の姿ではないでしょう。」・・・・・・・・・・・・・。

 ここまで来て急にホワイトノイズが消え、代わりに最初にセットしたはずのFM放送局から、吉田拓郎の落陽というメロディーが流れてきた。そして彼女は、
「帰らないと。どこでも良いから下ろして。」と晃一にすまなそうな眼を向けて懇願した。晃一は、
「いいよ、先ほどのところへ戻るからね。」
「いいの?」
「まだ充分時間があるから、大丈夫。」
そして、晃一は元のところに彼女を見送り、またUターンして河原町通りを北に向かった。
 晃一が不思議に思ったのは、その女性の車に乗り込んでくる前に見かけた姿と、先ほど車から下車した後の彼女の姿がまるで別人の様に見えたことである。
 晃一は、彼女の心は本当は誰よりも澄んでいて、それだけに汚れやすく、また清澄に戻り易い。ただ、自分の気持ちを善に導く考え方を所有していなかったに違いない。
 自分にとっても、随分心に滲みる言葉だったな。お袋には、もう亡くなってしまったので無理だが、親父には出来るだけの恩返しはしようと、この時心に誓ったのであった。

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