槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/07/20 1:04:22|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(9)
京都東山と近江路めぐり2008(9)

湖東三山締めくくりは西明寺である。
記憶に残っているのは名神高速道路を行き交う車の音が間断なく聞こえ、車の排気ガスによる温暖さで冬に咲く桜、不断桜である。ここは湖東三山の中で最も八日市に遠いということがあり、八日市在住時の訪問回数は最も少ない。
ここには、黒門、赤門、白門という色つき門は無いが、二天門、三重塔(写真2)、名勝庭園、本堂(写真3)の配置は他の二山と似ている。
ここには、十二天画像や十二神将という塑像があり、特に後者は種々の武器を持った十二の神が、各々七千の家来をひきつれて、薬師如来を守護する。十二神であることから、十二支と結びつき、十二神それぞれ頭上にえとの動物を乗せ、それぞれ自分の生まれ年のえとの守り本尊とされている。ということで面白さがある。ちなみに自分の干支の犬は、招杜羅大将( しょうとらたいしょう)というのだそうだ(写真4)。







2008/07/19 22:17:46|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(8)
京都東山と近江路めぐり2008(8)

 金剛輪寺は八日市に住んでいたころからのお気に入りの寺であり、今まで撮った写真の傑作といえるものが、ここで撮ったもの
で、池に半分沈んだ朽ちた木船を撮ったものである。紅葉の秋に撮ったこの光景の写真をみると、ついまた訪れたいという気持ちになる。
 また2003年には8月のお盆の時期にここを訪れたことがあり、その頃は紫陽花の花が真っ盛りで、うっそうとした石段の両側にはカラフルな千体地蔵が連なっているのを目にしたのは記憶に新しい。
 金剛輪寺の諸堂宇の配置や名前は同じ天台宗の山腹寺院ということもあろうが百済寺に良く似ている。
 駐車場から、大きな提灯のかかっている黒門をくぐり、受付で拝観料を支払い、赤門をくぐり、更に白門をくぐって、なつかしき水雲閣のある名勝庭園へ、その名称が、明寿院であったかどうか定かではないが、目の前に現れた池は、まさしく嘗ては朽ちた木船、今は石船の浮かぶ池であり、秋には燃えるようなもみじが水面に触れるが如く赤く覆いかぶさる光景は別世界にいるような感じになった池であった。

 M製作所を退職し、東京の光学機器メーカに転職する際、関西の地を後にする時、金沢から山中温泉で一泊し、北陸自動車道、名神を経て、八日市のMM氏宅で一泊させてもらい、そして、更に、金剛輪寺にも寄り、東京に車で帰ったのが、38北陸豪雪の時で、その時の金剛輪寺の雪景色もいまだに心に焼き付いている。
 2003年には真夏、そして今回は春でも晩春になってしまったが、これで四季の金剛輪寺を観たことになる。
 この季節の池面には睡蓮の花が咲いていた(写真中)。
その名勝庭園を後にして、その両側に整列した千体地蔵が並んだ階段状の坂道を登って行くと、なんどかうねうねと登っていった先に、百済寺と似た、こちらは二天門があり、そこをくぐってゆくと、正面に、国宝大悲閣本堂があり、その左手の少し高台となった処に三重の塔が現れた。
 この本堂には、木造阿弥陀如来坐像(2躯)、木造十一面観音立像、木造不動明王立像、木造毘沙門天立像、木造慈恵大師坐像(2躯)、木造四天王像、木造大黒天(日本最古)、銅磬 などが安置され、ヴォランティアか寺僧か分からないが、丁寧に説明してくれる案内人がいて、ちょっとした質問にも、待ってました、とばかりに面白おかしく説明してくれた。
 春になると、庭のそばにある護摩堂のカキツバタやシャクナゲが鮮やかに咲き、華やかになるとのことなので、その頃にまた訪問してみたいところである。

 
 







2008/07/17 17:27:46|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(7)
京都東山と近江路めぐり2008(7)

永源寺を後にして向かう先はいよいよ湖東三山であった。自分は2003年にも、最初に勤務した同僚との30年ぶりの再会の期にここを目指したが金剛輪寺のみ訪問し、その他は時間切れとなっったばかりではなく、徒歩だったので、危うく帰りの最終バスに間に合わなくなりそうだったところである。今回はMM氏と一緒だったし、車だったのでゆとりのある行程であった。
 最初に訪問したのは永源寺に最も近い百済寺であった。八日市に在住した頃、ここへは、金剛輪寺と同じ位の回数訪問している。その頃は単純に「なぜ”くだらじ”といわずに、”ひゃくさいじ”と読むのだ?」と単純な疑問を持っていたが、そのときは特に、その答えを知ろうとも思わなかったし、その答えを知る手段も持っていなかった。現在はインターネット検索という便利な道具があり、これを使ってその答えに結びつくような情報に容易に接することが可能である。

 それによると、「近江の最古級寺院で、今から1400年の昔、推古14年(606年)に、聖徳太子が百済人のために押立山(771.8m)の中腹に百済国の「龍雲寺」を模して創建された。」とある。即ち意味は同じで、日本語読みか原語に近い読みかの違いだけで、朝鮮半島の百済(国名)なのだ。

 さらに同じサイトを見て行くと、「近江のこの一帯には、韓半島から日本海・若狭を経由して主に百済からの人々が当時の先進文化と先端技術(灌漑・農耕・土木・建築など)を招来し、愛知(エチ)川を中心に湖東平野を肥沃な大地に変えていきました。 その中心は依智(エチ)秦公で一族の氏寺としてひときわ高い山中に百済寺が建立されました。秦河勝が山城(京都)の太秦(ウズマサ)を開き広隆寺を建立したように・・・・ 」とある。

 司馬遼太郎著「街道を行く24近江散歩に、近江人気質を、国友村の鉄砲鍛冶の項で、近江商人発生の由来を書いていて、「その一郷(国友村)で傑出したものが出、成功することによって、一族、一郷がまねをした、ということである。ただ、絶えず大小の傑出者が出、独創的なことを始めねば、近江商人全体の興隆現象が持続しない。つまりは独創者を押さえつけずに、逆に誉めそやす気分が風土としてあったのだろう。」とあるが、鉄砲鍛冶の時代を遥かに遡って先端技術を導入、創案するDNAが近江土人に受け継がれてきたのだろう。
 
 自分が今の会社に転職したばかりの時の社長は近江出身だったし、自分の母方の祖父は西武の開祖堤康次郎氏とは学生時代の友人で、近江出身の人であり、関心が高い。

 西武文化がこの地に根づいている証拠が近江鉄道で、今はどうか知らないが東京埼玉を走っている西武線の古い車両を使っていたし、関連会社の近江バスのデザインは東京を走っているバス同様レオのデザインが見られる。

 彼らは皆、百済人のDNAを受け継いでいるのかも知れない。

 雨足がやや強くなってきた。駐車場から最も近い、庭園本坊に表門をくぐって入り、雨の雫が突き刺す池面に目を遣りながら、肩幅も無い浮橋をまたぎ、雨にくすぶる中に生える睡蓮を見ながら、行けるところまで行った。
 そしてまたもとの浮橋をいくつか踏み越しながら表門の外に出て、なだら坂を傘をさしながら上ってゆくと、さらさらという小川のせせらぎが雨音に混じり、石段を踏み滑りそうになる。
 注意深く足元を見ていると、MM氏が、一匹の赤い腹のいもりが石段のくぼみの水溜りでのた打ち回っている姿をみつけた。ドロっとした粘液に包まれている様でもあり、やはり地方の寺という趣を感じた。ヤモリは見ることがあっても、場所によっては天然記念物となっているイモリを見る機会は滅多に無い。
 そして更に歩を進めるうちに登る石段の先に、仁王門が見えた(写真左)。更に仁王門に近づくと、目印の巨大な草履が目に入った(写真中)。これこそ記憶に残っていた百済寺であった。
 三間二間で一対の金剛力士像が向きあっていて、その正面につり下げられた一対の大草鞋に触れると、身体健康・無病長寿のご利益があると昔から言い伝えられているのだそうだ。
最近では、「百寺巡礼」で有名な五木寛之氏が第35番目の百済寺参拝時に、この大草鞋に触れて、百済寺満願を達成されてから大変な脚光を浴び始めているとのことである。 そんなことが登り石段の中腹に、道標の様に書かれていた。
 何故ここに巨大草履が、という疑問が八日市在住時代にここを訪れて持った疑問であったが、今回もその疑問が失せることは無かった。
 そして仁王門をくぐり、本堂に至り、更に左手にあった千年菩提樹(せんねんぼだいじゅ)の横を通り、鐘楼に向かい、MM氏が鐘をつき、ついで自分が鐘を突いた(写真)。勿論二人とも浄財
を缶に投入してからであり、後ろめたい子持ちは無かった。
 本堂は、室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年1573)全山焼失し、その後天正12年に堀秀政により仮本堂が建立されたとのことであった。
 また、6月半ば頃には芳香を放つ萌黄色の花が咲くとのこと。タイミングが少しズレた様だ。
 本堂横の小さい池には、白い花が水面に着水するが如くに、垂れ下がり、近づいてよくみると、アワフキムシの巣のようだった。アワフキムシの巣の物理学を思わず思い出してしまった。
 それはさておき、また登り来た石段を今度は下って行き、駐車場に戻り、百済寺を後にした。

               つづき










2008/07/14 21:56:34|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(6)
京都東山と近江路めぐり2008(6)

八日市は独身時代最後を過ごした土地であり、世帯を持って初めて生活をした地でもあり、仕事の面でも多くの経験をして思い出多い地となっていた。

自分も、MM氏も八日市にある会社の社宅に住んでいたことがあり、八日市市内(現東近江市)に入ってからは、その社宅があったと思われるあたりに目を遣るのだが、いかんせん歳月には勝てず、その位置を確認できないままにゆるゆると通りすぎさることになった。
 そして八風街道を更に進み沖野町、野村町あたりに差し掛かり、かってともに働いたM製作所八日市工場が目に入った。八風街道に面していた駐車場やテニスコートはなく、そばにあった社宅や寮も無くなっていた。その代わり、広い社員用駐車場があり、ここでかって同じ職場で働いたことのあるK氏と25年振りの再会をした。 
 MM氏が連絡しておいてくれたのだ。少し雨がパラついて来た。15分程度の再会を果たした後は、一路永源寺に向かうことになっていた。
 M製作所から車で20分あまり八風街道を行くと、愛知川沿いに川の流れる方向または川の流に面して堂宇が整然と立ち並んでいた。
 観光客が少なく、寺前のみやげ物屋も開店していない店がいくつかあり、どこに駐車してよいか迷ったくらいであった。八日市に住んでいた頃はよく行ったのは永源寺ダムの方で、寺の境内に足を踏み入れるのは初めてだったかも知れない。
 羅漢坂という石段を登って行くと、十六羅漢が左手にあり、少し行くと、井伊家墓、というのがあった。
 井伊家は関が原前後、多くの戦功を挙げ、徳川家康にもっとも信頼された旗本のひとつとなった。近江の守護だった佐々木六角氏が上洛の妨げになるという理由で信長に滅ぼされ、一時浅井の所領となったが、その浅井も信長に滅ぼされ、少し後に、井伊家が所領を受け継いでいる。  
 その佐々木六角氏頼が最初に伽藍を建てた(1361年)この寺に墓所を設けるということは、井伊家には融和の精神に基づいた外交があったのではないかと思われる。
 この融和の精神はDNA的に受け継がれ、それが井伊直弼の開国論に結びついて行ったのではないだろうか。

 更に登って行くと、総門に至り、そこにある受付で拝観料500円を支払い、先に進むと、山門、鐘楼、本堂、禅堂等の堂宇群が整然と愛知川の流れにそって、あるいは流れに対面するように、立ち並んでいる。そして、それらの堂宇のほとんどが回廊で結ばれ、それらの堂宇に覆いかぶさる様にもみじを主体とした木々が鬱蒼と覆い、紅葉のシーズンの賑わいを推測させた。

 しばらく静まり返った境内をMM氏と右歩左歩したあと。元来た道を下り、下のみやげもの屋で自分は永源寺こんにゃくと永源寺茶(緑茶)を土産に買い永源寺を後にした。

          つづく







2008/06/30 21:31:50|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(5)
京都東山と近江路めぐり2008(5)

 司馬遼太郎の「街道を行く24 近江散歩、奈良散歩」には、「このシリーズは14年前、近江から始まった。」とある。そして、「私はどうにも近江が好きである。」とも書かれている。
 しかし、自分にとっては独身最後の時をすごした地であり、また結婚してから最初に生活をした地でもある。独身時代に住んでいた独身寮の裏には小さな古墳があったし、細い街道の基点には「阿育王」などと記された小さな道標があったりした。社宅の庭には、前のスイカ畑のツルが社宅の庭まで伸びてきて大きなスイカの実を結び、それをどう処理したら良いかと迷っていたら、畑の持ち主が、「遠慮なく食べてください」と言われほっとしたり、縁側の上をチョロチョロと小さな蛇が這いまわり家の中に入ってきそうだったのをあわてて追い出したりと思い出深いエピソードは山ほどあった。

 MM氏とは、後に奈良の寺の住職となったYK氏と3人で八日市の飲み屋、パチンコ屋、ジュークボックスのある喫茶店を、時間があればはしごをしたり、リリーの歌うハスキーな声に酔いしれた。
 今になってみれば、そんな思い出がたっぷり詰まった懐かしい生活の場であった。であるから、MM氏から「ついでに近江路を旅してみない?」と提案されたとき、即答で賛成したのも当然といえる。

 更には2003年には、最初に勤務した会社で同じ独身寮でともに過ごした友人3名と32年ぶりの再会を果たしに伊丹に向かう途中、湖東三山を目指したが、時間切れで百済寺、西明寺には行きそびれ、以来いずれは再チャレンジしたいと思っていたこともあった。

 「...、かっての日本国の主要部分を縦断する主要道路として、第一に東海道があり、その裏街道として、中仙道があった。...、草津から近江路の宿場を南から順次あげると、草津、守山、武佐、愛知川、高宮、鳥居本、番場、醒ヶ井、柏原、今須となる、と「街道を行く24 近江散歩、奈良散歩」に観光案内風に書かれている。
 自分たちは、かっての宿場町草津を起点とし、守山、武佐に至り、そこから国道421号線、所謂八風街道に入り八日市を経て、永源寺を手はじめに、百済寺、金剛輪寺、西明寺の湖東三山、そして、最後に彦根城を訪れることにした。

 草津駅近くの日産レンタカーで、1500ccの車を借りる手配を事前にMM氏がやってくれていたので、朝9時に、草津を後にすることができた。
 しかし順調なすべり出しとはお世辞にも言えないスタートとなった。カーナビの案内にあまりにも従順すぎたため、いつしか中山道とは反対方向の、琵琶湖湖岸の方に向かっていたのであった。 最終目的地を米原とセットしたためそういうルートをカーナビは案内したいのだろう。しかし、最初の目的地の八日市に行き着くためには、カーナビの案内を無視する必要が出てきたことを感じ、カーナビから勘ナビに切り替えた。
 やっと中山道との交差点に戻れた地点は守山あたりであった。交差点を左折し、しばらく走ると右手に三上山が現れた。別名近江富士と呼ばれ、古代朝鮮半島からの渡来人は敦賀に上陸し、しばらく内陸目指すと琵琶湖に出くわし、その対岸を見ると、ひときわ目立つ山があり、それが三上山で、渡来人たちの目印となった地点と言える。そこが彼らにとってのターミナルだとすると、そこに留まって彼らなりの祭祀を催した可能性は充分ある。

 ここ三上山一帯は、日本でも有数の銅鐸発見数の多い地とのことである。日本で発見された400個のうち24個がここで発見されたのだそうだ。多くの銅鐸が発見される地はそこが製造拠点の場合があるそうだ。だとすると、製造拠点がなぜここでなくてはならない?材料をどのように融通した?何の目的で?と疑問が果てしなく湧いてくる。
 臼田篤伸氏による「銅鐸民族のなぞ」には珍説含めていくつかの説が紹介されているが、情報伝達用音響装置という説と、祈りを捧げる対象
説が分かり易い。

 銅鐸には鰭という部分があるが、鰭は飾りであると同時に共鳴板の役割を果たし、音響効果を一層高めた。
『青銅器の考古学』(学生社、1999年)を著した久野邦雄さんは、上記型持孔の意味について復元銅鐸を使って音響工学的実験を行った。 孔を全く有しないものから多数持つものまでの銅鐸を打ち鳴らして比較検討したところ、6個の孔と4個の切り欠き孔を持つ銅鐸が余韻のある最良の音を発することを発見した。 したがって型持孔の役割は鋳造のためもあろうが、音響性にも重要な意味が存在していた。
と考察している。

 そして渡来人たちはそこを拠点に更に南下、東行、西行し、先住民族の縄文人を駆逐しながら勢力を拡大していったのであろう。拡大するときに、先行しるものと、後続するものとの間の銃砲交換は重要で、その情報交換に銅鐸が使われたのかも知れない。また移住する時に都合が良いのは水運を使うことで、その第一候補としては野洲川遡上であろう。 古代から野洲川流域には弥生時代の遺跡が点在していて稲作地帯でもあったらしい。現在の江州米のDNAには弥生時代、しかもこの地一帯に移植された稲、更に古くは、中国大陸の長江に沿って源流を求め、四川省の三星堆遺跡の稲にも求められるかも知れない、という古代のロマンを掻き立てられる。三上山考はこの程度にして先を急ぐ。

 そして武佐を右折して八風街道に沿って、八日市を経て永源寺に向かう。

             つづく