槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/09/27 23:36:03|旅日記
(二)東大寺 華厳宗(その2)

          (二)東大寺 華厳宗(その2)

 京都で新幹線からJR奈良線(快速)に乗り継ぎ、JR奈良に到着したのは、15:32。ホテルで10分程度一服した後、興福寺、東大寺、正倉院を目指すことにした。
 運良く雨はまだ降っていないが、傘を持って出かけた。ホテルは奈良駅前では最もみやげ物屋やレストランが密集している三条通り(写真1)を東へ向かう。平城京も平安京同様、北から南に行くにつれて、東西に伸びる道路名が○条通りとなずけられ、○に入る数字が増えてゆく。
 10分も歩かないうち、その東南の方角に猿沢の池、東北の方角で、石段を登る方角に、興福寺五重の塔が見えた。この方角から見た猿沢の池には五重の塔が映し出されることもなく、ごく平凡な普通の池のように見える。猿沢の池は興福寺五重の塔とセットになって初めて風情を醸し出すのであろう。
 石段を上り、更に五重の塔を横に見て通りすぎ、拝観時間が17:30までとなっている東大寺の方向へ歩を進めた。国道169号線を通り越す横断歩道で信号待ちしていると、それまで芝地で身繕いをしていた数頭の鹿が背後に近づいてきた。
 奈良では国道24号線、369号線に次いで交通量の多い通り、鹿も「人と渡れば怖くない。」とでも思ったのであろうか。あるいは赤信号で渡ってはいけないという交通ルールを知っているのか、人間の傍らで暫く待っていた。
 ところが赤信号が変わる前に、その数頭の鹿が車のわずかな切れ目をみつけ、駆け足で横断し始めた。接近していた車は幸いそれに気づき速度を停止に近い速度まで緩めたので事なきを得た。
 きっと車の運転手は、この様な状況は予知していたのだろう。あるいは、「鹿の横断に注意」、という標識があるのかも知れない。
 赤信号を走り抜けた鹿たちは駆け足から緩やかな速度の歩行に戻り、何事もなかったかの様に、平然と東へ向かって行った。
 国道169号線を渡り、すでに奈良公園となっている鹿の群れが佇む一角を通りすぎると、その日の閉館時刻を過ぎた奈良国立博物館の前に出た。更に東の方角に歩を向けると、東大寺山道に交わる交差点に差し掛かり、そこを左折すると、正面に南大門が見えた。門には右から左へ、大華厳寺と大書されている(写真2左)。
 東大寺は華厳宗大本山である。
 司馬遼太郎は「街道を行く 24 大和散歩」の中で、この華厳経の発生と日本への伝来の道筋、その教義について多くのページを割いて詳細に紹介している。
司馬遼太郎の言葉によると、仏教の伝播というのは、伝播そのものがロマンティックなのである。」
となり、華厳経という教義が出来上がるのは、インドではなく、中央アジアの一角で、そこが具体的にどこかは分からないことになっているが、実際には、宇闐(うてん)、即ち今の、新疆ウィグル地区にあるホータンであるということがほぼ分かっているらしい。
 再度、司馬遼太郎の言葉を借りると、「宇闐国こそ、東西文明が合流した夢のような国であったのではないか。」
となり、更に、「仏教が中国に入ったのは人類文明にとって劇的なことだった。」
とも表現している。それは仏教が伝播する以前に中国には紀元前に思弁性の高い文明が存在していて、「老子」や「荘子」に代表される老荘思想なるものがあったが、宗教ではなく、思弁性の高い思想を育む素地があった。即ち、仏教が中国に伝播する時には、中国人は物事を突き詰めて考えることに慣れていたし、これを体系化することに習熟していたのだ。

     つづく
     以下(一)〜(四)は同じ写真を使っている
 
 







2008/09/27 23:04:18|旅日記
大和路の旅、旅日記

              大和路の旅、旅日記

              (一)東大寺 華厳宗

2008年9/18(木)から二泊三日の家内同伴の旅行をしてきた。中国が往き先の旅行には決して同行を同意しない家内が珍しく奈良へ行ってみたいと言い出したからであった。その理由は京都に住んでいた時以来25年間ほど新幹線に乗っていない。行き先が奈良であれば、必ず京都で一時下車して、なつかしき京都の吐息に久しぶりに浸れるという単純な動機からであった。
 一方、自分は、この5月末に近江路散歩と称し、滋賀県八日市市在住時代に訪問を多く重ねた永源寺、湖東三山、彦根城を親友のM氏とともに巡り、「『司馬遼太郎の街道を行く』を行く」風のチョッと旅を行った。
この時の旅案内に使った、『司馬遼太郎の街道を行く:第24巻』がたまたま前半が近江散歩、後半が奈良散歩となっていて、この後半の奈良散歩を次いで読むに及んで、すっかり魅力を感じてしまい、中学・高校時代に修学旅行で訪問した奈良のエージングによる変貌を確認して見たい気持ちや、自分自身のエージングによる精神の変貌によって、同じ建造物や風景の見え方がどの様に変わったかを確認して見たい気持ち、そしてそれよりも何よりもシルクロードの終端の地としての魅力を以前から感じていたのでなんとかしてこの奈良旅行を成功したいと思っていたのだ。
 また、途中下車して立ち寄る京都に関しては以前から行ってみたいところがあったが、口実がなく、封印していたが、家内が同伴となると、後述するように、その口実の手掛かりを手繰り寄せることが可能になるという理由もあった。
その京都途中下車を最終日に設定し、初日は一挙に奈良まで足を伸ばし、奈良着後、ホテル近在で、徒歩で行けそうな東大寺、興福寺界隈を、二日目は丸一日をレンタカードライブの飛鳥路散策、三日目の午前中は、やはり大和路で車で短時間に往復できそうな薬師寺界隈を、そして三日目午後は京都散策と前記した”以前から行ってみたいところ”とその前後の時間を使って清水寺界隈と南禅寺界隈を訪れることにした。
 旅費を抑える為、「ゆったりお値打ち!JR新幹線!選べる!ひかり&のぞみ号指定席で行く!【ホテルフジタ奈良】●奈良3日間!なんとTABIX特典付&1ドリンク券付!+ 一泊二日のレンタカーセットで二名で65000円のツアー」を利用した。★列車:往路 09/18(木) ひかり 411号 東京11:33発京都14:14着 禁煙 普通車指定席、★列車:復路09/20(土) ひかり 384号 京都18:56発東京21:40着 禁煙 普通車指定席、※京都〜奈良は在来線の利用のセットツアーであった。
 おりしも台風13号接近中で、新幹線の運行が気になり、このセットツアーの販売店である株式会社タビックスジャパン町田支店 に、新幹線の運行が台風で中止になった時の対応方法について問い合わせをしたところ、「事前に運休が分かり、出発前に旅行を中止される場合はご旅行代金のご返金となります。また、事前に分からない場合は現地での駅員による指示に従って頂く様になります。」との回答がメール返信されてきた。
 出発時点で、まだ九州地方に接近中で、かなりの迷走を繰り返し、中心気圧も徐々に上昇し、最大風速も徐々に低下、また衛星写真では台風の目が認められない、ということで、家内には、「熱帯性低気圧に変身してくれるかも知れないよ。新幹線が運行中止となることは無いだろう。」と、楽観的な予測を伝えていた。
       つづく
     以下(一)〜(四)は同じ写真を使っている

 







2008/09/21 17:49:48|物語
西方流雲(75) ---63. 疫病神、リウマチ、狭心症 その一---
                西方流雲(75)

                   <<< 63. 疫病神、リウマチ、狭心症 その一>>>

 病は気から、とは昔からよく言ったもので、そのころの晃一の精神状態から言えば何らかの病気に罹っても仕方の無い状態と言えたであろう。
 疫病神が晃一の身の周りを漂っているとも思えた。厄年に脳梗塞を患ってから、急激に運動量が減った。そして、その翌年の人間ドックの受診では、糖尿病の再検査を受けた。
 血糖値が異常に高いということではなかったが、人間ドック時の健康状態等の事前申告で、叔母等の親戚縁者に糖尿病がもとでなくなっている人がいると申告していた為、再検査となったものだ。
 「糖尿病」に関する知識が乏しかった晃一は、てっきり薬で治すものと思い込み、かかりつけのOクリニックのO医師に相談したところ、
 「先ず運動して減量することが一番最初にやることで、薬に最初から頼ることを考えるな。」
という忠告をされた。
 このため、晃一が住んでいる地元の市が運営しているトレーニングセンターに通い始めたのだった。

 トレーニング専用の運動靴を持ち、入り口の受付に、チケットを見せ、開始時刻の刻印を押してもらい、入室後、先ず最初に血圧を測定する。大体上が135から140、下が70から90といった場合が多い。
  そして部屋の隅の方にある牽引棒を使って、その上部の横棒をつかんでぶら下がり、体を伸ばす。次いで、上部の横棒をつかんで、体を上下に屈伸させたり、足を後方へ突っ張って、足首の関節を折り曲げたり、伸ばしたり、回転させて足首の関節をほぐす。そして、ランニングマシンの順番待ちがいなくなるまで、そこで待機する。
 そのトレーニングジム内で最も人気があるのは、このランニングマシンで、六台装置が窓に向かって配置されているが、使われていない時は殆どない。その他、バイクマシーンやローイングマシーン、ステップマシン、ケーブルクロスオーバー、チェストプレス、ベルトトレーナー(振動式マッサージ機)などのトレーニング機器が配備されている。

 ランニングマシンは走行スピードをウォーキング速度に落とすことも可能なので、若者から高齢者にまで広く人気があり、順番待ちをしないときがない。
 晃一はトレーニング用シューズを新調し、靴下を二足重ねて着用し、なるべく足が着地衝撃を受けない様に工夫した。
  目標設定はさまざまだが、晃一は歩数でマイルストーンを決めた。マイルストーンは100歩、200歩、500歩、1000歩で、平均速度を8m/hrとした。
もちろん初速を0から徐々に増やし、最速で12m/hr程度とした。最初の頃は、500歩程度は楽にクリアー出来、多少ぜいぜい言いながらも1000歩はクリア出来た。

 晃一は以前脳梗塞をわずらった時の後遺症が左足に残っていて、普通に歩行しているときは本人以外に、その後遺症に気づく者は居ないが、疲れてくると,着地時にパタンパタンという音が左足から聞こえるようになる。
 この音をさせない走り方が好ましいと思い、様々な着地法を工夫してみるが、疲れてくると、その様な制御が全く出来なくなってしまうのだった。
 これは晃一にとって後遺症を自覚する時であり、前途を悲観する材料になってしまうことも少なからずあった。
 また、隣でトレーニングする人のペースに影響されることも多く、開始時刻が同じであったり、速度設定が同じであったり、歩数が同じであったりすると、ついつい隣の人のペースに合わせたくなってしまう。
 更に、着地する拍子が同じであった隣の人がペースを上げたり、緩めたりすると、ついつい競争心理が芽生え、隣の人のペース以上のペースにしたり、隣の人がペースを落としてもそのままのスピードを持続させたりしていた。
 また、時に隣に若い女性が隣のランニングマシンでトレーニングしていることがあり、美容と健康のためにやっているのだなと思っていると、次から次へとスピードアップし、晃一にはとてもついて行けない走りで長時間走り続けている女性もいたりする。

 ランニングマシンでのトレーニングを30分ほど行い、それが終了すると、チェストプレスに移り、呼吸を整える。そして、その次はベルトトレーナーで腹部のマッサージで腹部の贅肉を内部摩擦させ、燃焼させ、消耗させ、最後に血圧測定をして、最初に測定した値と比較する。運動後は血管が膨張しているのか、殆どの場合10〜20低下する。場合によっては上が100を下回ることもあり、心配になることもあった。

 そんなトレーニングを二ヶ月も続けた頃、ランニングマシンを使う度に左足の親指の付け根あたりが痛み始めた。
  はじめは、履いていた靴が小さすぎて、親指の先の爪の付け根に血豆が出来ていたので、これが原因かと思っていたが、血豆がなくなっても、痛みは解消せず、通風の疑いが濃くなり、H病院の整形外科に行ったところ、尿酸値が7.5を示し、通風と診断された。
 しかし、その後尿酸値が正常値に戻っても関節の痛みは解消しないところか、胸のあたりがちくちくする感じが出始めた。

 通風と診断されたときの血液検査では、リュウマチ因子は陰性で、リュウマチではなく膠原病かも知れないという疑いがもたれ始めた。

 会社で、膠原病科があるS医大を紹介され、かかりつけの病院であるOクリニックで紹介状を書いてもらい、それを持って、S医大へ行き、精密検査をすることとなった。
  放射線元素を使ったシンチレータ等検査をしても、具体的な病気の診断はされなかった。
  ただし、朝、手がこわばるなどのリュウマチ特有の症状から、消去法で、正式にリュウマチの診断が下され、薬物による治療が始まった。 
  服用する薬の強さを加減するなどしているうちに、次第に症状は改善されて痛みが少しづつなくなり、手のこわばりも弱くなってきた。

  晃一は超音波関連技術者であり、毎年11月に開催される、超音波エレクトロニクスに関する基礎と応用の会議、通称USE、に出席のため岩手に出向いたときのことであった。
  会場に向かって歩いているうちに、胸が締め付けられる様な気分に襲われた。しかし、気にしながらも会場に到着し、しばらくする内にその気分にも開放され、忘れてしまった。

  その会議も終わり、いつもの通りの通勤生活に戻ったある日、会社のある北八王子駅を下車し、まもなく会社の入り口に近づいた頃また胸を締め付けられる気分に襲われた。
会社に着く直前にその気分がはじまり、会社に到着して、数分後にはケロっとその症状がなくなるのだが、次第にその症状が強くなり、ひどい時は冷や汗をかくほどになってしまった。

           つづく


                          







2008/08/31 13:25:52|物語
関東大震災物語
              関東大震災物語

 九十二歳になった今でも、大正十二年九月一日は、父為治にとって忘れようとしても忘れられない日であった。

 その前年、安達家一家は仙台から浅草吉野町に引っ越してきた。借家ではあったが、近くには、立会川が流れ、その川を跨ぐように涙橋が架っていた。現在は浜川橋という名に変わっているが、現在でも涙橋という方が多く使われている。もともと、その界隈は刑場として有名であり、ここで処刑される者とその家族・縁者が別れを惜しんだということでこの名前がついたとのことであった。
 父為治の母きねは、仙台でも有名な任侠の家、斉藤長五郎の次女であり、十八才の時に、為治の父為蔵のところに稼いで来た。為治の祖父、為吉は、もともとが最上川の船問屋を家業としていて、一時期かなりの財をなすことが出来、それをもって仙台に居を移すという経歴を持っていた。
仙台でも当初は極めて羽振りがよく、良く言えば金融業、卑賤な言葉では、金貸しの様なことをしていた。
 本材木町に大きな屋敷を構え、小作人も抱えていた。
屋敷の中央には大きな柿の木があり、それを目指して金を借りに来る者が多かった。

 父為治は、小学校から帰宅し、竹刀を家から持ち出し、いつもの様に近所の子供たちとちゃんばらごっこをしていた。お互いに小走りに追いかけっこをしていたが、突然足を踏み外し、穴ぼこへ足を転落させる様な感覚を感じ、次の一瞬には、強力なゴム膜の様なもので反動的に宙に放り投げられるような奇妙な感覚に陥った。関東大震災の一撃であった。

一体何が起こったのか、子供の知恵では理解できないことで、ましてや、それに続く阿鼻叫喚など予測はつかなかった。道を歩いていた人達の多くは道路にしゃがみこんだり、木に掴まって、体勢を維持させていた。そうしている多くの人が、あまりの驚愕で、腰を抜かし立ち上がれないのだった。
 しばらくすると、母親たちが自分の子供の名を呼ぶ声があちこちに上がり始めた。そんな中に、母きねの声を聞くことが出来、内心ホッとするものがあった。

 かって、誰も経験したこともない大地震が、こともあろうに日本で最も人口密度の高い東京で起こったのだ。そのことを少しづつ、人々は理解し始め、自らの生命の保安の為に挙げていた阿鼻叫喚が、形を変え、これからどうしたら良いか、途方に暮れる人たちで溢れかえってきた。絶望感、厭世感、脱力感を表す悲鳴や、溜息がいたるところから聞えてきた。

 そして、そうでない者達、即ちそれまで、比較的日陰の生活に甘んじて来た人たちは、何憚ることなく悪事を働くものである。
近所に豊国銀行があり、崩壊して瓦礫と化したその一角には、子供大人を問わず、我先に瓦礫を掘り起こし、埋もれた貯蔵金を求めているのである。

 為治の父、為蔵は、その界隈で草履を製造販売して生計をたてていた。そして扶養されている家族は、妻=きね、長女=きよ、長男=為明、次女=貞代、三女=和久里、次男=為治、三男=為也で、四女となる陽子はこの頃まだ生まれていなかった。このうち、きよは浅草から目と鼻の先の千住に別居していて、貞代は、この時刻、丸の内に有る水道局に勤務していた。
 時刻的にどの家でも昼食の炊げの最中であったが、安達家でも例外ではなかった。
 家はつぶれてしまっているが、この様な場合大事なのは、食料と水を確保することである。この様なことに関しては、為治の母きねはしっかり者であり、ご飯をお櫃にいっぱい詰め込んで、足波を浅草の観音様に向けた。観音様のところに噴水があることを知っている人達は皆ここを目指した為、人でごった返していた。
 ここで、多くの他の避難者ともども一晩を過ごした。為治はここへ避難して来る途中目にした悲惨な光景を思い出し、容易には寝付かれなかった。

 兄の為明と弟の為也は、その直前まで自宅にいて、父の草履つくりの手伝いをしていたが、すぐに自宅から飛び出し、全壊した自宅の前に、父為蔵とともに待機していた。
 姉貞代は丸の内にある水道局に勤めていて、全く連絡がとれなかった。火の手があちこちに上がり始め、一刻の猶予も出来なかったので、姉のきよと和久里の二人が住んでいた荒川近くの北千住に向かうことにした。安達家は、仙台から一家全員で上京してきたが、二人の姉は最初から浅草ではなく北千住に住んでいたのだ。
 とりあえず、そこが一番安全そうだということになり、そこを目指すことにした。それまで住んでいた浅草の家から距離で××キロメートル、道のりでその倍、歩いて○○時間のところであった。(××、○○は父、為治の記憶があいまい)
 一家は固まって移動し始めたが、すでに火の海と言った方が良いだろう。建物から火達磨になって飛び出してきて、そのまま悲鳴をあげながら立会川に飛び込むものもいた。
 その阿鼻叫喚は、強烈に為治の脳裏に焼きつき、いつまでも忘れることが出来なかった。
 その日はちょうど二百十日の前日であった。東京地方は午前九時頃、やや激しい風雨を催したので、農家の厄日を気づかい始めたが、夜が明けてみるとカラリと晴れて、さわやかな初秋の朝日を見せた。
 以下は後で聞いたことであるが、身の毛よだつ光景である。為治は直接その光景を目にしないで良かったと振り返った。
 浅草では、十二階が倒れたのが最初であった。長く東京名物であった高塔が、六階目から無惨に折れて、千束町へ落ち込んだ。 下敷きになった者が数知れず、付属の十二階劇場では、折から演技中であったが、地響きとともにベチャッと潰れて、登場俳優は全部即死した。観客にもあまたの死傷者を出した。火はほとんど同時に発したので、救い出す暇がなかったらしい。
 
 この辺は浅草花柳界の中心なので、女子供の逃げまどう姿がいっそう惨めであった。土曜日の一日というので、人の出盛る時間だった。大歓楽境はたちまち大叫喚、大修羅の焦熱地獄となった。
 火事とともに、恐ろしいつむじ風が起こった。つむじ風が更に火勢を刺激し、それによる温度差は、更に強いつむじ風をあちらこちらに発生させ、その風によって飛び散った火の粉が、他の建物にまとわり着く。観音堂裏で巻き上げられた人間が、加速度的に空から落ちてくると、ひきがえるのように大地へ叩きつけられて、うんとも言わず即死を遂げた。
 樫の木の大枝が、すさまじい音を立てて裂け落ちたと見ると、風をおそれて幹にすがりついていた女が、額を打たれて悶絶した。
 銅像前に、十二階のけが人が十余人、戸板に載せて救い出されてあったのが、追いかける火に包まれて、枕を並べたまま焼死していた。
 寄席の付近では、空から椅子やテーブルが降ってきた。何者のいたずらかと仰いで見ると、恐ろしい旋風にあおられて、かなり大きな家具のたぐいが、木の葉のように飛んでいたという。

 夜が明けて、すぐ、長女きよが住んでいる千住へと向かった。
着いてみたら、きよの住居も潰れていてとても住める状態ではなかった。そこで、早速借家探しを始めた。幸い、貸家はいくらでもあり、三部屋ほどの家を借りることができた。

 そして、一週間ほどして貞代が現れた。貞代は丸の内から徒歩で浅草の家を目指したのだが、すでにそこは瓦礫に化しているのを見た。幸い誰の命にも別状は無なさそうということが、瓦礫を片付けていた近所の人の話で分かり、それなら、行き先は姉きよのところしか無い、と断定して来たのだと言っていた。そして、きよの隣家の人に偶然出会わせ、新たに賃借りした三部屋ほどの家の在りかが分かったのだそうだ。

 その夜、貞代は、疲れを癒すが如く、まるで死んでしまったかの様に身動き一つせず睡眠をむさぼったとのことであった。そして、その夜見た夢は、貞代にとって生涯忘れることの出来ない内容であったと、後年貞代が亡くなる前に原稿用紙五枚に書き綴った回顧録に書き残されている・・・ 貞代はその夢を見ることによって経験したことのない肉体的、精神的ストレスが癒されたのであろう。

 時代は明らかに江戸時代、髷を結った侍が行き交う。享保年間か、あるいはそれ以前の光景であった。時折、馬を曳いた百姓が肩に鍬を背負ってのんびりと、追分を口ずさみながら歩いて行く。
「本材木町通り」に面して、安達家一家が居を構えていた屋敷がぼんやりと夢に現れた。当時の地番で、本材木町五十九番地であり、その屋敷の表門は北側に向かい、左手に四、五間、今の単位で言うなら、八メートル程度、右手三、四間、六.五メートル程度そして、奥行きは、南面した裏門が元柳町通りに面していて、敷地は四、五百坪はあった。
 裏門のそばに大きな胡桃の木と、さいかちの大木があった。「さいかち」は針槐のことであり、槐とは原産地も樹の特徴も異なるが、後年貞代の没後、甥の日出夫が槐に異常なほどに興味を覚え、その発芽を趣味にしたことも安達家の祖先が毎日脳裏に焼き付けた視覚情報が遺伝子に刷り込まれ、その遺伝子が受け継がれたのかも知れない。
 このあたり一体は、伊達政宗開府の折、御譜代町といって、大町、立町、肴町、元柳町の四町からなる、非常に伝統ある地域だった。
 さいかちの大木は高さ二、三十メートルはあり、柿の木とともに安達家への目印になっていた。本材木町は、現在は青葉区立町の一部となり、地名は残っていないが、仙台の玄関口から青葉山につながる「杜の都」の象徴的空間とする運動が進められている。
 貞代の母、きねの実家は、肴町で肴問屋を生業とした伊達家の御用商人として財をなした斉藤長エ衛という町人であった。ちなみに、この斉藤長エ衛は侠客として仙台史にその名が刻まれているらしい。

 為蔵は、父為吉が遺してくれた財産と自身で精励することによって蓄財した財をもとに、貸金業を初め、発展させて信託銀行の代表者となったが、大口の債権が戻ってこず、止む無く銀行をたたみ、上京して浅草界隈に一家で住むことになったのだ。
 屋敷の表門から裏門に一直線に繫がる路には大きな樹が二間おきに、そして梨の樹が四、五本植えてあり、この梨の樹からは、秋になって家族や親戚では食べきれない程の収穫があり、商人が買いに来て、母、きね が、粋の良い声を出して売りさばく姿や声も、その夜の夢に走馬灯の様に貞代の夢枕に幻出した。
 またその木々の間には貸家が数件建てられ、他人に貸してあった。
 祖父為吉の姿も夢に現れた。父為蔵は十六歳の時、祖父為吉三十二歳の時に、祖母サダは、それより四年前、母十九歳の時に失っていて、猫を唯一の家族としての生活が始まりかけたが、「浜の叔父さん」という人がすぐに後見人になってくれ、その人の機縁で肴問屋の娘のきねと一緒になれたのだそうだ。
 祖父為吉は山形の菅原家から安達家に養子に入った人で、菅原きよを母とする。為治の妻薫の実家であり、後、関東大震災当時まだ生まれていなかった、貞代の妹、陽子が入嫁することになる片桐家の何代か昔に片桐家に嫁いだ、おばあさんという人の兄か弟にあたる人であった。
 その様に見ると、現在の安達家も片桐家もルーツを辿れば同じ山形の菅原家となることになる。一方貞代の父方の祖母さだは十九歳の若さで没しているが、父を安達八蔵、母をちんとし、父安達八蔵の父は最上西道の治郎作、母を志ちといい、江戸時代、享保、嘉永、慶応の時代を生き抜いた、本姓を隠した百姓であったのだろう。この時代、各地で農民一揆が起っており、八十歳近くまで生き延びた治郎作は一揆の旗振りをする長老として活躍していたものと思われている。

 貞代は、その夢の中に、屋敷の姿だけでなく安達家が所有していた山林で、自身が動植物達と遊び戯れている光景をも再現することが出来た。その山林のおかげで一生働かずとも食べて行けることが誰の目にも明らかだったので、肴町の斉藤の叔父さん、即ち斉藤長エ衛の可愛い次女を、為蔵の嫁に女中を連れて嫁がせてくれた。きねの姉は婿をもらって屋敷内に住まわせていたと、貞代は母きねから聞いたことがあった。
為蔵十六歳、きね十八歳の結婚であった。

その後夫婦精励し、所有地を増やし、蓄財を順調に増やしていった。所有できた広大な田畑は、雇った小作達によって農作物を実らせ収穫していた。

 秋の収穫時になると、赤く染めなずんだ空の下を、米俵を積んだ荷馬車が「豊作」と書かれた旗をたなびかせながら、何台も何台も運ばれてくる。ギシギシという荷馬車のきしむ音が懐かしく貞代の脳裏を刺激した。
 運んできた米俵を、黒い瓦を被った白壁の倉に、人々が掛け声を掛けながら、為蔵の指示通りに手渡しでしまいこんでゆく躍動感溢れる光景もはっきりと夢の中に浮かんできた。米俵を荷馬車から手渡しする人のシルエットが、赤く染めなずんだ空を背景に、黒く浮かび綺麗であった。

 小作人達が、彼らの才覚で工面した畑で栽培した野菜などを届けてくる光景も浮かびあがってきた。
  
 貞代の父、為蔵は何でも新しいものに人より先に飛びつく方で、仙台に瓦斯灯がひかれると、町内で一番最初に瓦斯灯をつけ、電気も電話も同じ様に最初で、町の人たちを驚かし続けた。
 またラッパ式の蓄音機も、どこの家にもない時に、いち早く家に備えつけたので、近所の人たちがよく音楽を聴きに来たものであった。

 この物語りの主人公為治、そして回顧録を遺した貞代、この物語「関東大震災」を書き纏めている為治の長男、日出夫も無類の音楽好きだが、為蔵の血を受け継いでいることは明らかである。

 この様に他人に先んじて新しいものや装置を導入できるのは、それだけの蓄財があった為で、そのうち、この財産を元手に事業に手を出すようになる。先ず、信託銀行、ついで皮革会社等思い付き次第事業を広げていった。この皮革製造業は上京したあと、履物製造業へと形を変え継続した。

 事業を興したは良いが、最後までうまく行ったというのは一つも無く、おまけに、親戚同士とても仲良く、皆家族の様な親しさであった。
 その為、何の疑いもせず、互いに負債の保証人になりあったりしたり、何の疑問も無く、請われるままに、捺印をしていた。
 しかしこの様なことが仇となり、やがて窮乏の嵐に襲われることになる。
 親戚の一つがおかしくなると、バタバタと皆共倒れになり、母方の親戚にも火の粉が飛び、安達家とその親戚全体が身動きが取れなくなり、とりあえず安達家だけ東京に引き上げてきたのだった。

 一家で上京した当時は、慣れないことばかりで、苦労の連続であった。しかし、次第に落ち着くことが出来始めたばかりのその時に関東大震災が起きたのであり、上京してコツコツと、生活に困らない程度に蓄えた持ち物を全て失ってしまったのであった。

 以上が、貞代が残した回顧録であり、最後に、原稿用紙の一行分空白行とした後、一行、「母の実家、斉藤家のことについて」で絶筆となっている。
尚、この回顧録の冒頭に書き遺されたことを以下に記載しておく。

 『享保年間か、あるいはそれ以降か、安達のご先祖様達が、生まれ、育ち、暮らして何代か過ぎた。死して又仙台の称念寺に皆安らかに眠り、我々子孫のことを見守ってくれたことだろう。
子供の頃から、よく母に連れられてお墓参りに出かけたことを思い出す。今の大学病院から称念寺までの道は、狭くて両側は田んぼで、実った稲の穂は道端側に倒れ、歩くのがやっとだった。
そこにイナゴが飛んでいて、また道端にも止まり、羽が日の光を反射させ、まるで青白く、光沢のある小石を敷き詰めて見えるほどであった。そんな風景が大好きだったので、お寺参りには喜んで連れて行ってもらった。
成人して皆東京に住む様になり、一年に一、二度しかお墓参りに行くことが出来なくなり、称念寺に行くのが何よりの楽しみだった。
 今度、お骨をお墓ごと東京に移すことになり、先祖の霊も感無量であろう。子や孫達の側に来られ安堵したこととは思うが、故郷を永遠に去らねばならない寂しさ、私とて、あの懐かしい仙台、生まれ育った十八年間自分自身でもあった、あの故郷がなくなってしまうのかと思うと、言い知れぬ寂しさと悲しさで、胸が一杯になるほどである。
 このたびは、為治夫妻と、甥たちのお骨折りで、立派に父親の三十七回忌と母親の二十七回忌の法要が出来たことに本当にあり難いと感謝しているが、誰よりも父母が、特に父など、「俺一人から子や孫がこんなにも大勢になった」と涙を流して喜んでいるに違いないのである。
 これからは親類皆仲良く平和な楽しい毎日を送ってくれと願っているに違いない。もう少し親密なお付き合いが出来たらと願って止まない。』

 しかし子供達も学校を卒業してから就職出来たので、現在の基礎が出来たのである。親の天国と地獄を、まのあたりに見て育った息子達、即ち為治の兄弟、姉妹達は皆実直で親思いであった。
 為治は、給料が入ると、ほぼその全額を母に預け、自分のために使った金額はなく、少々の預金程度だった。親孝行とも言えるし、人が困っている姿を見逃すことが出来ない性格とも言えるし、人が良いとも言える。

 これまでの安達家の系譜を見ると、その様な性格が遺伝子に刷り込まれ、受け継がれてきたのに違いないのである。

                       終わり







2008/07/20 1:14:07|旅日記
京都東山と近江路めぐり2008(完)

京都東山と近江路めぐり2008(10)

 いよいよ、京都東山と近江路めぐり2008最後の訪問先彦根城である。彦根城は八日市在住時何度か訪れ、桜とのコントラスト、紅葉に染まる陰影が記憶に残っているが、名勝庭園として名高い、玄宮園の中に入ったことは無かった。川越城喜多院とここは何故か訪れたいお思いながら果たすことの出来なかった庭園である。いずれも街中の入り組んだ通りを行く必要があり、車だと駐車場を見つけているうちに、時間がたってしまう恐れをもっていたからである。
 しかしながらこういう時のカーナビの存在は大助かりである。彦根城の南側にある、お堀端の駐車場に車をとめ、大手橋を渡り、天守閣の方に向かう。
彦根城は今年築城400年と、開国150年を迎えるということと、世界遺産登録を目指した活動があり、催し物が活発に繰り広げられているようである。また折りしも、NHK大河ドラマ「天樟院篤姫」の主要人物井伊直弼が登場することもあり、盛り上がりを感じた。
 天守閣の最上階まで急階段を上がり、琵琶湖を眺望した。竹生島がうっすらと見えた。八日市在住時代にMM氏ともども先輩のヨットに乗せてもらい、竹生島まで行き、帰りは、土砂降り、強風の中、必死になって湖岸にたどりついたことや、琵琶湖の水質を守るために滋賀県知事の武村正義、後のさきがけ党首の話を思い出した。武村正義の琵琶湖水質保全の話は、司馬遼太郎「街道を行く24近江散歩」にも取り上げられていて、司馬遼太郎の武村氏に対する期待の強さが伺い知れた。
 話はやや脱線するが、MM氏と自分との共通項は、ともに圧電材料の研究開発に携わったことで、その場がM製作所の八日市事業場だったことである。
 この圧電材料として最も特性が良く、どの応用分野にも使われているのが、略称PZT、ジルコンチタン酸鉛というセラミクスである。主成分に鉛が入っているので本来ROHS規制に引っかかるが、代替材料が無いというだけの理由で規制の対象から外されている。 しかし、この対象外とされる処置も、その業界において少なくても2社が代替デバイスを導入出来た暁には、その業界にROHS規制が適用されることになる。
 従って、世界中の圧電材料メーカや大学によって、凌ぎを削った研究開発が進められている。その一例として、鉛が入っていなければ良いのだろう、という観点でビスマス系の圧電材料を研究対象とした企業や大学研究者がいたが、ビスマスと言えども蒼鉛と言われる様に鉛にこよなく近い毒性のある元素である、鉛の様に使用量が多くない為、規制の対象になっていないが、鉛の代替材料として大量に使われ始めたら規制の対象になることは目に見えて明らかである。更に同じようにROHS規制の対象になりうる材料としてアンチモンがある。
 アンチモンは、かってヨーロッパの飢餓時代に、栄養剤として注目されたことがあった。わずかな量を摂取するだけで人々がまるで栄養を摂ったように肥満化したからである。しかし、いつしかそれを栄養剤として摂取した人たちが次々に死亡することに直面し、アンチモンが毒性の極めて高い材料だということに気がついたのである。
 琵琶湖条例では、全国に先駆けて、このアンチモンを規制の対象にしていて、琵琶湖領域ではこの材料が使えないようになっている。この様な条例は全国の湖沼、河川にも適用されてしかるべきと強く思うのである。
 さて旅物語に戻る。
 さまざまなアングルから彦根城をデジカメに収め(写真)、次に向かったのは玄宮園である。彦根城の天秤櫓、表門を経てお堀の外側に出て、お堀に沿ってしばらく歩くと、玄宮園入り口に行き着いた。時刻が4:30を過ぎていて閉門間じかということと、彦根城拝観で購入したチケットがそのまま使えるかという心配があったが、どちらもOKであった。この庭園はすばらしかった。池に映った逆さ富士ならぬ逆さ城が見事で、その池畔にかしこまった聚楽第の様な茶室が見える(写真)。出来すぎではないかと思うほどであった。
 池の周りを一周し、玄宮園を後にして、新幹線米原駅に向かった。
               

 尚、今回の旅物語の後半に使ったデジカメ写真はMM氏撮影のものを使わせてもらった。ここで厚くお礼する。自分が摂った写真をセーブしたHDがトラブルに見舞われ、もろとも散失してしまったためである。