槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/10/02 0:31:06|旅日記
飛鳥路 岡寺(2)
            飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)

 次に本堂を参観した。正面に如意輪観音菩薩像が鎮座し、右手を鉛直に立て(施無畏印)、左手を膝の上に乗せ、手のひらを広げて天に向けている(与願印)(写真1)。
 如意輪観音菩薩像は奈良時代中期の頃、東大寺の良弁や実忠による大規模な如意輪観音造像活動に促されて造立されたものらしい。
 良弁、実忠については司馬遼太郎著「街道をゆく:24大和散歩」に多くのページが割かれ、予備知識があったが、こんな寺の由緒にも登場するとは思いも寄らなかった。

 ついでながら岡寺の開祖は義淵であり、その義淵像は国宝となっている。義淵は白鳳時代後期から奈良時代にかけて仏教界で指導的な役割を果たした高僧で、奈良仏教の逸材で彼の指導を受けなかったものはいないと言われている。その中に良弁、行基がいた。
 良弁は聖武天皇に強い影響力を持ち、東大寺の開山であり、華厳宗の導入に力を尽くした。義淵は法相宗の確立に力を尽くしたと言われるので、良弁は法相宗から華厳宗に改宗したことになるが、塑造と同じ様に、心棒を法相宗とし、まわりに盛りつける粘土に相当するのが華厳宗の教義だったのかも知れない。
 この観音像の前のローソクたてに家族+愛犬チャピーの分の六本のローソクに点火し、ローソク立て室に取り付け、家内ともども拝礼した。
 その如意輪観音菩薩像は自分のカメラで撮った写真(写真1)、「岡寺の霊宝」という冊子に紹介された写真、そして実際に自分の目で見たそれぞれの表情の間には何故かかけ離れた印象を受けた。
 これは見ている方角による陰影の現れかたと、像の周囲に陳列された鏡等の装飾品の有無によるのかも知れない、と悟ったのはこの一文を書いている時になってである。
 また、ここの如意輪観音菩薩像は塑造の現存作品として最大級で、最古の遺例と、「岡寺の霊宝」という小冊子に紹介されているが、調べて見ると、7世紀中ごろに四天王寺塔内につくられた霊鷲山像(りょうじゅせんぞう)が塑造による最古のものと推定され、もっとも古い。
 7世紀後半以降になると、681年(天武9)ごろの当麻寺弥勒仏座像(みろくぶつざぞう)、711年(和銅4)の法隆寺五重塔塔本塑像、8世紀中ごろの東大寺法華堂諸像、新薬師寺十二神将像など数々のすぐれた作品がつくられているとのことである。
 ちなみに塑造とは、@手で粘土をこねあげてつくる製造プロセスから、A木や金属、縄などをつかった心棒の周りに粘土をもりあげてつくる製造プロセス、また、B日干しや素焼きの手法によってかたく丈夫なものとして仕上げる製造プロセス、C粘土や蝋(ろう)でつくった原形から金属を鋳造して仕上げる製造プロセスがあるが、通常は、粘土のままで完成品とするものを塑像という。
 岡寺の如意輪観音菩薩像はAのプロセスによっていることがわかっているらしい。そして白い仕上げ土を表面に塗り、彩色を施して完成させる。
 この彩色が剥落している為、光の方向や強弱によって異なる表情にみえることもあるかも知れない。

 ここで靴を脱いで本堂の中に入った。如意輪観音菩薩像の両脇と裏には様々な古物が煌びやかな照明に照らされていた。
 その中には、如意輪観音菩薩の胎内に納められたという寺伝のある塑像の菩薩半跏思惟像(奈良時代)、岡寺の開基である義淵僧正坐像(奈良時代)、釈迦涅槃像、兜髪毘沙門天立像、釈迦十六善神像、弁財天十五童子像、弁財天像、八大竜王像、弘法大師像、弘法大師絵伝などが安置されていたらしいが殆ど気がつかなかった。
 また、如意輪観音菩薩の光背には多くの飛天の躍動的な姿が描きこまれていて、鉛白、弁柄などの顔料を用いて彩色されていたことが赤外線カメラによる撮影でわかったらしい。

本堂を出て、正面少し右手の東の方に目を遣ると、どんよりとした薄暗い空を背景にし、鉛色の三重塔が雨に濡れて光沢を放ちながら浮かんでいた。
まだ飛鳥路の観光地を何箇所か巡る予定だったので、そちらの方へは向かわず、岡寺を後にすることにした。来る時と同じ石段を下りていった。
石段の途中に台風13号の雨風に吹き飛ばされたのか、表面が苔に覆われた小枝の断片がいくつか落ちていて今にも踏みそうになった。いずれ誰かに踏み潰されてしまうと思うと、勿体無さを感じた。家内がポリ袋を持っていたので、それにしまいこみ、奈良の土産として自宅に飾ることにした。この記事を書いているのは旅行二週間後であるが、いまだ、薄緑色をした苔は元気である(写真右)。

           つづく








2008/09/29 23:38:31|旅日記
飛鳥路 岡寺(1)

         (六)飛鳥路 岡寺(芙蓉)(1)

山田寺跡を後にして石舞台方向に更に南下し、さらに雨が激しく降る中、岡寺へ向かった。道路標識に従って運転してゆくうち、うまい具合に、岡寺の私設駐車場に辿り着いた。
事前の調査では、少し山の中を歩いて行く必要があり、この雨では少し無理かなと思ったが、駐車場の前に駐車場を管理?している茶店があり、そこで歩いてどのくらい時間がかかるか聞いてみたが、三分で行けるという。それなら折角だから行こうとなり、今度は家内も同行することになった。
急な石段を傘をさして登って行ったが、風が強ければ危ないことこのうえないことだが、幸い風は殆どなかった。

 通称「岡寺」正しくは東光山真珠院龍蓋寺といい、1300年ほど前に、天智天皇の勅願により創建され、西国三十三箇所観音霊場七番目の札所となっている真言宗の寺院である。その入り口の仁王門を通り抜けようとしたとき雨滴は筋を引く糸になっていた。(写真1)。
左右に並んでいた小地蔵達は、いずれも雨模様を恨むように天を見上げて、正面両脇に安置され、勇む心の仁王をなだめているように見えた。その仁王門の手前にぶどう巨峰が販売され、その値段は市価の半額近い値段であり、「帰りに買って行く」と言っていたが、その気持ちも帰りには雨にかき消されしまった様で買い忘れたことを駐車場の近くまで戻って初めて思い出した。
もう少ししたら巨峰に代わり柿が、そして冬にはミカンが、春には桃が、夏には夏野菜のナスやトマトが並ぶのではないかと想像した。仁王門を通り抜けると、正面には、ピンク色した芙蓉の花や石塔があり、その後ろには、その上辺が白壁で縁取られた石垣があり、その上に、書院が見えた(写真2)。その書院が建てられた台地に通じ、左に湾曲した昇り石段が仁王門から入って右手にあり、その石段を登り詰めると、正面に書院が、右手に左に湾曲した昇り石段があり、その石段を登り詰めた左手に開山堂が、そしてそれに対峙するように鐘楼が配置していた。
「自由におつき下さい」との案内札を見た家内は「ついて見たい。」と言い、賽銭箱に100円玉を投入し、思いっきり鐘つき棒をゆすった。
 この雨では鐘の音は雨音に消されてあまり響かないだろうし、ほかに参拝客も観光客も見えなかったので、誰憚らず思いっきりついた様であった。
 鐘楼で一突きしたあと本堂にあがる前に、前方をみると、おみくじが結びつけら枝垂れた模様が目に入った。まるで、白い「源平枝垂れ」の花が満開に咲いているようだった(写真3)。さらに
同じ方向に目を凝らすと、芙蓉の花が咲いているのが見えた。またお地蔵さんや幾重にも重なった石塔も目に入った。

              つづく








2008/09/28 22:28:17|旅日記
(五)飛鳥路 山田寺跡(曼殊沙華)

(五)飛鳥路 山田寺跡(曼殊沙華)
      
 初日は、南円堂から三条通りに戻り、その足でホテルを通り過ぎ、JR奈良駅前の大通りを右折し、国道369号線との交差点を右折し、少し行くと、ホテルアジール奈良の二階にある篝屋(かがりや)という料理店で夕食を摂る予定にしていた。ホテル併設の料理店というと、佇まいはほぼ決まっていると予想し、あまり期待していなかった。疲れて、食欲も減退している可能性を考え、コース料理ではなく単品料理をメニューを見ながらその場で注文することで予約していた。
しかし店内は奥行きがあり、とてもホテル併設の料理店という感じはせず、案内された個室は落ち着いたゆったりした感じの畳の部屋で、料理は品数が多いとは言えなかったが、味は良く、奈良の味と言えるもので、二人で7500円程度というのは納得が行くものであり、次回奈良へ来たらまた利用したい店であった。

翌日は朝8:00に出発することにした。JR奈良駅の西側すぐ近くのオリックスレンタカーで車を借りる手続きや、カーナビをセットする時間を考えると、出発時刻は9:00前後になると読んでいた。
 借用した車は日産マーチ、早速カーナビを行き先石舞台にセットし、8:40には出発できた。国道169号線を南下、天理、桜井を通過して台風13号の余波の雨中を走り、一時間ほど走って左折して県道15号へ逸れる。間もなく左手に「山田寺跡」という表示があったので左折すると細い路に入り込み、正面に寺が見えた。
右折する方が支道の様に見えたが、そちらへ入ると車を行き交うことが出来ないとの表示があり、やむを得ず左折する路に侵入した。それが幸いした。
右手に山田寺跡の石標(写真1)が、左手に駐車場が見え、路は行き止まりになっていた。雨がすでに弱からず降っていたので家内は車の中で待っているという。それならば、と傘をさし一人で雨降る山田寺跡へと向かった。
視線を高く上げると、遠くに雲がたなびく飛鳥の山並みが見え、それだけで古代への郷愁が募ってしまい、雨が降っているのもまた一興と思えた。
「山田寺」、簡単明瞭な漢字の名前であるが、あまり聞いたことのある寺ではない。普通は、地名や方角、例えば岡寺、飛鳥寺、東大寺、西大寺。あるいは仏教的な響きのする言葉、例えば円通寺、華厳寺、南禅寺、法隆寺、地蔵院などが耳に慣れているが、「山田寺」というのは何か響きが違う。「ヤマダクンちの寺」というのがぴったりと思っていたのだが、その通りで、この寺は大化の改新の功臣、蘇我倉山田石川麻呂の発願によって643年に建立された,法隆寺よりも半世紀もさかのぼる寺院跡で、現在は、中門跡、回廊、五重塔跡、金堂跡が、盛り土、あるいは礎石という形で残っているだけである。
南門、回廊の一部を兼ねる中門、五重塔、金堂、そして回廊の外に講堂と言うように南北に一直線に並ぶ伽藍配置となっている。
どこまで足を踏み込んでよいのか分からなかったが、雨水をたっぷり吸ったスポンジのように敷き詰められた芝地を傘をさしながら靴をビショビショにしながら歩を南へと進めた。
不思議なことに車に戻ろうなどとさらさら思わなかった。まるで飛鳥に眠る亡霊達が足を捕まえて離してくれない様な、足が根をはってしまったような不思議な感覚だった。

最初に目に入ったのが回廊東側の礎石で4個づつ二列に南北に向いて並んでいた(写真2)。勿論復元したもので、礎石には蓮弁が施されている。後で調べてみたら、北側にも回廊礎石が残されていて、そちらは本物らしかったが、一面芝が生え茂り、目に入らなかったのふだろう。更に歩を進めると、「史跡山田寺跡」と彫られた石標が雨霧の中に見つかり、更に歩を進めると、金堂、礼拝石と表示された石標が置かれ、その石標には、金堂、礼拝石、更には、金堂の前に石灯篭、周りには犬走りがめぐらされていたことが、配置図と共に示されていた(写真3)。

 このあたりの野にはあちらこちらに曼殊沙華が見られたが、北西に少し戻ってゆくと、群れとなって咲いている曼殊沙華(写真4)が目に入った。これを写真に撮ることにした。
 配置的には北側の回廊の外に配置していたはずの講堂あたりのところである。
 山田寺跡には曼殊沙華がよく似合う。そして黄色い小さな花をつけた名前知らずの花も目立った(写真4)。これらの花はいつの時代からこの野に咲き始めたのだろうか。
   
    つづく







2008/09/27 23:41:42|旅日記
(四)東大寺 華厳宗(その4)

            (四)東大寺 華厳宗(その4)

大仏殿に入ると正面に大仏(盧舎那仏:写真3B)、左手に大仏に向かって左隣に木像に金箔が貼られている虚空蔵菩薩坐像(写真3F)、更にその左に広目天(写真3A)、右手に如意輪観音(写真3C)、四天王のうち、増長天と持国天の像は完成しておらず、首の部分だけが残されているとのことであり、しかもこれら二像は江戸時代の作で他の像に比べると新しいとのこと。
その他、北の方角に多聞天像が鎮座している。須弥山思想では中心に如来(仏陀をはじめとした悟り人=盧舎那仏@華厳経=大日如来@密教)が、その側に、悟りを得る前段階のひとを現す菩薩、そして、時国天(須弥山を守る四天王の筆頭)、広目天(情報収集や情報分析が役割)、増長天(作物を増やし、成長させる役割)、多聞天(毘沙門天と同一、四天王の中で最強の武力を持つ)がそれぞれ仏に仕え、東西南北を守る。
最強の武力を持つ多聞天を北に配置するのは、須弥山北方の門の蔵には沢山の財宝を蔵しているという仏教の世界観に基づいている。
盧舎那仏及び四天王はいずれも1800年前後に修復されている。即ち徳川時代であり、増長天と持国天の像が他の二像の様に修復に至らなかったのは、時国天(須弥山を守る四天王の筆頭)は徳川家、そして、増長天(作物を増やし、成長させる役割)は国の民という考えから故意に完成させなかったのではないかと推理したくなるが、実際はどうだったのだろう。
また虚空蔵菩薩は、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。観音と共に阿弥陀如来の脇侍の位置づけになっていて、智慧の力が強い菩薩とされている。
ところで、この大仏殿は建立当時は東西に七重の塔を従えていたらしい。しかもその高さは相輪合わせて96mにもなったとのことである。盧舎那仏やその他の仏像そしてこれらを内容した金堂(大仏殿)を併せた全体を建立するには、建立技術はさることながら、これを建立することを決定、指示した聖武天皇の時の権力の巨大さを思い知らされる。
 大仏殿を後にする時、東の方角に若草山のなだらかな斜面を見やることができた。(写真3G)
大仏殿を後にして、大仏殿中門回廊外側の東側の通りを迂回して、次に正倉院に向かったが、ここはとっくに閉門時刻を過ぎていて拝観が叶わなかった。更に大仏殿中門回廊外側の西側の通りを迂回して帰途についた。
往きと同じ道を逆向きに歩いた。従って再び興福寺の傍らを西に向かって戻って行ったのだが、左前方に興福寺五重の塔、右前方に東金堂、そしてそれらに挟まれた空間は正面に夕焼け空をバックにした南円堂の境内に埋まる高木がシルエットとなって浮かび、台風13号が接近しているとはとても思えない美しい光景が目に入った(写真4A)。そこを通りすぎて振り返ってみると、興福寺五重の塔はライトアップされていた(写真4B)。ライトアップによって煌びやかさはかもし出されているが、古都の静寂さを打ち破る文明の利器は必ずしも有難いものとは思えなかった。
 やはり,たとえ曇天の下で映えない彩でもそのままの方が良い(写真4C)。
 そして更に西に向かって歩を進めると南円堂(写真4D)があり、その手前の石段を降り三条通りに戻った。

     つづく
     以下(一)〜(四)は同じ写真を使っている

 







2008/09/27 23:39:05|旅日記
(三)東大寺 華厳宗(その3)

               (三)東大寺 華厳宗(その3)

「東大寺が護持してきた「華厳経」の教義というのは、西域人が種を蒔き、多くの中国僧がそれを育て、巨大な華を咲かせた。」
と、華厳経の発生と伝播について、司馬遼太郎は結論付けている。このあたりの司馬遼太郎の考察は、極めて分かりやすく読者の心を捕らえ、今すぐにでもホータンを訪れてみたい気分を起こさせるのである。
 文明という灯火は未知の文化(教義)の伝来を拒絶ではなく、包容するように照らすものなのであろう。日本の古代人もまた、文明と言うおおげさなものは無かったかも知れないが、未知の文化(仏教)の伝来を拒絶するのではなく、積極的に取り入れることにした。はたしてその原動力は何だったのだろう。
 原動力が動作すれば、その反作用的な抵抗力が生まれるのは「ものの理」である。それが、日本古代史では蘇我氏と物部氏との抗争であり、殺戮戦争という舞台へと展開するが、その舞台の主役で聴衆の心を掴んだのが聖徳太子と言える。
 「華厳」という言葉の意味は、「雑華の飾り」という意味であるらしい。あるいは、「いろとりどりの華によって厳(かざ)られたもの」という意味であっても良いとのこと。
現在でも華厳経の魅力に取りつかれた日本人は多いようで、中には後の方の意味を実際に形に現してみようと試みていて、フラクタルという現象をとりいれ、「いろとりどりの華によって厳(かざ)られたもの」を模様化した世界をウェブで紹介している。NHKの大河ドラマ「篤姫」の冒頭を飾る毎回出てくる映像に、次々にランダムに咲く華々に埋もれて篤姫が佇む姿があるが、あの華の咲き方は蓮華経の世界そのもののように思えて仕方ない。あの映像をデザインした人に聞いてみたいところである。
 自分もそのような範疇にはいる一人かもしれない。中国にある「華厳寺」@大同市を来月訪れ、「雑華の飾り」に触れてこようと思っている。また「華厳経」発祥の地、 宇闐即ちホータン(和田)を1、2年内に訪れる計画を立て始めている。
2007年7月にウルムチ、トルファン、カシュガルという新疆ウィグル地区の代表的な街を訪れたが、日程の関係で、最も行きたかったホータンに行けなかったという悔悟を晴らす意味もある。
 さて、南大門を修学旅行生達と行き交う様にすれ違い、こんどは鏡池の池畔に遊ぶ鹿を右手に見ながら中門を通り抜ける。このあたりは鹿煎餅を売っている店が多い為か鹿が多い。しかもカメラのレンズを向けると、まるでポーズをとるようにじっとしてくれる鹿が多い、したがって多少暗くてもピントの合った写真が撮れる(写真2右)。東大寺境内に入り込み、大仏殿拝観を目指す。すでに17:00を過ぎていたので、拝観券を買う時に、17:30まで拝観を終わらせなくてはいけないのですか?」と尋ねてみたら、
「拝観開始が17:30であれば良い。」ということを聞き、ゆっくりと写真を撮りながら歩を進めた。
 拝観券売り場から続いている石廊下を東に進むと、左手の手をかざすくらいの位置に大仏殿の姿が見えた。また耳には心地よい風鈴の音が聞こえてきた。おそらく若草山からの山おろしの風に吹かれて音をだすの期待しているのだろう。
 大仏殿の方へ歩いてゆくと、ガラガラと金属板同士がぶつかり合う音が聞こえてきた。大仏殿屋根のひさしの先にぶら下がっている飾り板(写真3D)同士が台風の予兆的な比較的強い風によって、踊るようにぶつかりあう音であった。

     つづく
     以下(一)〜(四)は同じ写真を使っている