(十二)薬師寺(萩)<白鳳伽藍> 朝8:00少し前にホテルを出発した。昼食を京都のレストランで摂る予定にして予約していたので、10:40JR奈良発の「みやこ路快速列車」に乗る必要があった。
8:30に薬師寺に到着するとして、レンタカーへのガソリン満タン給油、返車を10:00には完了したいところであった。9:30には薬師寺を出る必要があり、そうすると拝観時間は1時間と短い。薬師寺の駐車場前の道路に車を停車すること15分の8:30に駐車場開門し、一番に入場した。
駐車上から薬師寺に向かう路地に萩がピンクの花をたわわに咲かせ、その上に乗っかる様に、薬師寺西塔の上半分が目に入った(写真1)。司馬遼太郎の「街道を行く 24近江散歩、奈良散歩」には東大寺や興福寺には多くのページが割かれているが、薬師寺については殆ど触れられていず、唯一「五重塔」の節で、この薬師寺西塔が再建された経過が記述されている。
再建に際し、高田好胤管長の名前と宮大工西岡常一氏のことが書かれている。両名ともTVや週刊誌の対談記事などで知っていたが、その西岡氏が法隆寺金堂、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、西塔(五重塔)を手がけた経験から、法隆寺が中国様式の寺院の建築技術が百済、新羅を経て伝播されたのに対し、薬師寺は直接中国から伝播したのではないか、ということを宮大工の勘として説を立てている。
百済経由で伝播した伽藍配置は飛鳥寺の伽藍配置がそうであった様に、伽藍の中心に仏舎利を納めた塔が在り、その周りを金堂が位置する。しかし、薬師寺は中心に金堂があり、その両脇に東塔と西塔が配置する。
伽藍の基本配置は、正方形または正方形の内庭を囲む様に回廊が廻らされ、その一部に内庭と外部とを結ぶ中門や山門があり、内庭には仏舎利を納める塔と仏像を納める仏殿があり、回廊の外側に講堂、法堂、庫裏や経堂および鐘楼や総門が配置する。
金堂や仏殿は礼拝の目的のための建物であり、インド・中国の祠堂と同様の意味を持つ。講堂は中国から伝来したもので、研究を目的とした建物であり、回廊上に配置されたのか、回廊外に配置されたのかで研究がどの程度重要視されたのかに関わってくる。とのことである。
日本のこれらの伽藍配置の手本とされた中国寺院の伽藍配置は、初期の伽藍は、仏陀を供養する建物を中心に構成されていたが、仏舎利信仰が盛んになるにつれて、仏舎利をまつる仏塔と仏を安置する仏殿が独立分離して、仏塔を中心とする伽藍から、しだいに仏殿を中心とする伽藍へと変化したと考えられている。
さらに、南北時代には貴族が住宅を喜捨して、そのまま寺院となったものが多く現れた。ここでは、仏殿と講堂が前後に配置され、仏塔を配置しない形態の伽藍が多かった。
また中国では、上記のような中国的な寺院建築だけでなく、インドの形態をまねた石窟寺院も造られた。
雲岡・敦煌・龍門などの遺構がある。とのことを後で知った。 以上今後の寺院訪問時の楽しみを残す為にウェブ情報(ウィキペディア)を詳しく載せた。
薬師寺の境内に入る前に薬師神社(正式名:休が岡八幡宮)があったので、そこに瞬時立ち寄り賽銭を投入した。次に小川に沿って、車の行き交う幅4mほどの公道が現れ、それをわたる前に左前方上方を見上げると西塔の上半身がくっきりと認められる様になった(写真2)。その通りを渡り、南受付で入場券を買い南門から白鳳伽藍と呼ばれる寺域に入った。
正面に中門があり、その両脇に仁王像が立ち(写真3左右)、右翼に東回廊が左翼に西回廊が配置し、その裏あたりにそれぞれ東塔と西塔が上半分を快晴の空を背景に輝いていた。
そして正面に金堂が現れた(写真4)順路は中門から金堂へとなっていたらしいが、その日第一号の拝観者の様で、前途に拝観者の流れがなく、足のむくまま東塔側の東回廊に向かい、まざまざと東塔(写真5)を眺めることにした。
薬師寺の塔は分かりにくい。一見六重に見えるが、実は三重塔である。これは各層に裳階[もこし]と言われる小さい屋根があるため(写真6)で、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出している、と薬師寺公式サイトに紹介されている。
更にそのサイトには、塔の上層部を相輪[そうりん]といい、その更に上部に尊い塔が火災にあわぬようにとの願いをこめて、「水煙」が祀られていて、水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で、晴れ渡った大空にみ仏を讃えている、とある。しかし、どう見ても、24人ではなく、12人である(写真7)。
それはともかく薬師寺には飛天が良く似合う感じがする。しかも、金堂や回廊、鐘楼などに似合うのではなく塔に似合う感じがする。
飛天というのは地上(胎蔵界)と天(金剛界)の両界の間を漂い、両界の縁を取り持つ存在のように思えてならないからだ。
薬師寺で唯一創建当時より現存している建物で、1300年の悠久の時を重ねてきた歴史をその姿に映しているといわれる東塔の全身像(写真8)は木の表面にうすく炭化した層があるのではないか思われる、くすんだ色が歴史を感じさせ、東塔の庇越しに西塔を見て両者を比較すると、現代という時代の浅はかさを感じざるを得ない(写真9)。
また「温故知新」という言葉が念頭に浮かび、現在の薬師寺伽藍を思うに、“新しき”の象徴である西塔が支点たる金堂を中心に“古き”の象徴である東塔とバランス良く対峙しているように思うのである。“新しき”は“古き”の延長線上にあり、“古き”を思ってこそ“新しき”が生きる。
“古き”は“新しき”の存在があって初めて認識される。次に足を向けた「玄奘三蔵院伽藍」も足踏み込んだ途端その様な感慨を強くもった。
白鳳伽藍を後にする刹那後ろを振り返ると、萩の花の向こうに東僧坊の瓦葺き屋根が見え、そのうえにちょこんと載っかるように、東塔の最上階の屋根瓦と相輪が見えた(写真10)。
つづく