槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/10/08 23:43:45|旅日記
(十二)薬師寺(萩)<白鳳伽藍>

         (十二)薬師寺(萩)<白鳳伽藍>

 朝8:00少し前にホテルを出発した。昼食を京都のレストランで摂る予定にして予約していたので、10:40JR奈良発の「みやこ路快速列車」に乗る必要があった。
 8:30に薬師寺に到着するとして、レンタカーへのガソリン満タン給油、返車を10:00には完了したいところであった。9:30には薬師寺を出る必要があり、そうすると拝観時間は1時間と短い。薬師寺の駐車場前の道路に車を停車すること15分の8:30に駐車場開門し、一番に入場した。

 駐車上から薬師寺に向かう路地に萩がピンクの花をたわわに咲かせ、その上に乗っかる様に、薬師寺西塔の上半分が目に入った(写真1)。司馬遼太郎の「街道を行く 24近江散歩、奈良散歩」には東大寺や興福寺には多くのページが割かれているが、薬師寺については殆ど触れられていず、唯一「五重塔」の節で、この薬師寺西塔が再建された経過が記述されている。
 再建に際し、高田好胤管長の名前と宮大工西岡常一氏のことが書かれている。両名ともTVや週刊誌の対談記事などで知っていたが、その西岡氏が法隆寺金堂、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、西塔(五重塔)を手がけた経験から、法隆寺が中国様式の寺院の建築技術が百済、新羅を経て伝播されたのに対し、薬師寺は直接中国から伝播したのではないか、ということを宮大工の勘として説を立てている。

 百済経由で伝播した伽藍配置は飛鳥寺の伽藍配置がそうであった様に、伽藍の中心に仏舎利を納めた塔が在り、その周りを金堂が位置する。しかし、薬師寺は中心に金堂があり、その両脇に東塔と西塔が配置する。
 伽藍の基本配置は、正方形または正方形の内庭を囲む様に回廊が廻らされ、その一部に内庭と外部とを結ぶ中門や山門があり、内庭には仏舎利を納める塔と仏像を納める仏殿があり、回廊の外側に講堂、法堂、庫裏や経堂および鐘楼や総門が配置する。
 金堂や仏殿は礼拝の目的のための建物であり、インド・中国の祠堂と同様の意味を持つ。講堂は中国から伝来したもので、研究を目的とした建物であり、回廊上に配置されたのか、回廊外に配置されたのかで研究がどの程度重要視されたのかに関わってくる。とのことである。

 日本のこれらの伽藍配置の手本とされた中国寺院の伽藍配置は、初期の伽藍は、仏陀を供養する建物を中心に構成されていたが、仏舎利信仰が盛んになるにつれて、仏舎利をまつる仏塔と仏を安置する仏殿が独立分離して、仏塔を中心とする伽藍から、しだいに仏殿を中心とする伽藍へと変化したと考えられている。
 さらに、南北時代には貴族が住宅を喜捨して、そのまま寺院となったものが多く現れた。ここでは、仏殿と講堂が前後に配置され、仏塔を配置しない形態の伽藍が多かった。

 また中国では、上記のような中国的な寺院建築だけでなく、インドの形態をまねた石窟寺院も造られた。
 雲岡・敦煌・龍門などの遺構がある。とのことを後で知った。 以上今後の寺院訪問時の楽しみを残す為にウェブ情報(ウィキペディア)を詳しく載せた。

 薬師寺の境内に入る前に薬師神社(正式名:休が岡八幡宮)があったので、そこに瞬時立ち寄り賽銭を投入した。次に小川に沿って、車の行き交う幅4mほどの公道が現れ、それをわたる前に左前方上方を見上げると西塔の上半身がくっきりと認められる様になった(写真2)。その通りを渡り、南受付で入場券を買い南門から白鳳伽藍と呼ばれる寺域に入った。
 正面に中門があり、その両脇に仁王像が立ち(写真3左右)、右翼に東回廊が左翼に西回廊が配置し、その裏あたりにそれぞれ東塔と西塔が上半分を快晴の空を背景に輝いていた。
 そして正面に金堂が現れた(写真4)順路は中門から金堂へとなっていたらしいが、その日第一号の拝観者の様で、前途に拝観者の流れがなく、足のむくまま東塔側の東回廊に向かい、まざまざと東塔(写真5)を眺めることにした。

 薬師寺の塔は分かりにくい。一見六重に見えるが、実は三重塔である。これは各層に裳階[もこし]と言われる小さい屋根があるため(写真6)で、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出している、と薬師寺公式サイトに紹介されている。
 更にそのサイトには、塔の上層部を相輪[そうりん]といい、その更に上部に尊い塔が火災にあわぬようにとの願いをこめて、「水煙」が祀られていて、水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で、晴れ渡った大空にみ仏を讃えている、とある。しかし、どう見ても、24人ではなく、12人である(写真7)。
 それはともかく薬師寺には飛天が良く似合う感じがする。しかも、金堂や回廊、鐘楼などに似合うのではなく塔に似合う感じがする。
 飛天というのは地上(胎蔵界)と天(金剛界)の両界の間を漂い、両界の縁を取り持つ存在のように思えてならないからだ。
 薬師寺で唯一創建当時より現存している建物で、1300年の悠久の時を重ねてきた歴史をその姿に映しているといわれる東塔の全身像(写真8)は木の表面にうすく炭化した層があるのではないか思われる、くすんだ色が歴史を感じさせ、東塔の庇越しに西塔を見て両者を比較すると、現代という時代の浅はかさを感じざるを得ない(写真9)。
 また「温故知新」という言葉が念頭に浮かび、現在の薬師寺伽藍を思うに、“新しき”の象徴である西塔が支点たる金堂を中心に“古き”の象徴である東塔とバランス良く対峙しているように思うのである。“新しき”は“古き”の延長線上にあり、“古き”を思ってこそ“新しき”が生きる。
 “古き”は“新しき”の存在があって初めて認識される。次に足を向けた「玄奘三蔵院伽藍」も足踏み込んだ途端その様な感慨を強くもった。

 白鳳伽藍を後にする刹那後ろを振り返ると、萩の花の向こうに東僧坊の瓦葺き屋根が見え、そのうえにちょこんと載っかるように、東塔の最上階の屋根瓦と相輪が見えた(写真10)。

              つづく








2008/10/06 23:00:53|槐ウォッチング
(十一)飛鳥寺(芙蓉)

(十一)飛鳥寺(芙蓉)

飛鳥路最後の訪問先の飛鳥寺についた時は、雨が相変わらず降っていた。駐車場は有料だったが、誰も徴収に来ないので、暫くして門をくぐって行った。
目に入ったお堂はどこの町にもある普通のお寺の雰囲気で、よくも日本を代表する古寺と言ったものだ、というのが第一印象の寺であった。飛鳥寺は今回の大和路の旅で、東大寺、薬師寺と並び、目玉としていた寺であった。
この雨の中、さすがに観光客の姿は他に見あたらなかった。拝観料を払ってビショビショに濡れた靴を脱ぎ、傘を傘立てに突っ込み、左手のそれほど大きさを感じない堂宇に入って行くと、有名な釈迦如来坐像の姿が目に入った。
他に観光客の姿が見えなかったので、釈迦如来の正面から眺め上げていると、説明員が近づいてきて、かつての飛鳥寺は今の地域の二十倍もの広さがあったが、度重なる兵火や落雷によって伽藍の殆どが焼けてしまったこと、しかし、この釈迦如来坐像だけは銅造りだったため焼失を免れ現在に至っていること、この寺は日本最古の寺であり、大勢の渡来人達の技術者集団によってこの寺が建造されたこと、かつての飛鳥寺伽藍は、南に中門を構えた回廊で囲まれた方庭のほぼ中心に塔が建てられ、その塔を囲む様に三つの金堂が配置するという他に例を見ない伽藍様式であることなどを説明してくれた。
金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天皇が止利仏師(とりぶっし−鞍作鳥・鞍作止利 くらつくりのとりともよばれるように,もともとは馬具製作に携わっていた百済からの渡来系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏。605年に造り始め,606年に完成した、ということ、釈迦如来像が焼失を免れたのは目の前の釈迦如来像のほんの一部で、顔面のところだけ、そのお顔は左右非対象で、見る方角によって、表情が違うように見えるということが事前の予習でわかっていたことだが、その様なことはじ〜っとまん前に10分くらい佇んでいないと感じられないことなのだろう。

 説明を受けている最中に、数十名の団体観光客がなだれ込んで来た。よく見ると皆自分以上の年配の様で、一部にお遍路さんのような格好の人も混じっている。
 この寺は飛鳥寺という古代への郷愁を掻き立てられる観光名所だが、一方で、新西国33観音霊場第9番札所、聖徳太子御遺跡霊場第11番札所 鳥形山・真言宗豊山派・安居院( あんごいん)という名の現在に生きている寺でもあるのだ。その札所巡りの一行なのであろう。
 多勢に無勢である。説明員は申し訳ない、という素振りを見せながら、その団体客の方へ行き、説明を始めた。あとで、その説明員はここの住職なのだという推測が強まった。というのは、自分達が一通り種々の古物を見学し終わったころにもまだ説明が続いていたからである。単なる観光案内ではなく、講話も含めて話をしているのだろう。そういう話が出来るのは観光説明員ではなく、寺の住職であるはずと思ったからだ。

 飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院で、法興寺・元興寺ともよばれた。
 創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だった。 寺域は東西約200m,南北約300mあった。
 百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わった。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。
 さらに,これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり,各地の寺院造営に関わるようになる、ということも事前予習で得られていた情報である。

 飛鳥寺の訪問で、飛鳥路の旅は終わった。そこで、飛鳥路訪問の総括として復習した結果と所感をメモっておくことにする。
 残念ながら司馬遼太郎の「街道をゆく 24:近江散歩、奈良散歩」では飛鳥寺に触れられていない。一方最近(旅行に出る一週間前)発刊されたばかりの五木寛之著の「百寺巡礼 第一巻 奈良」講談社文庫刊では飛鳥寺を取り上げると同時に、飛鳥京を、“渡来人の里”と位置づけ、「だから日本発の本格的寺院建立の場所に選んだ」となり、「飛鳥寺は次第に国家の威信をかけた大事業に発展した」ということにもなる。
 また、最初に瓦ぶきの建物が出現したのはこの地であり、その技術は渡来人たちによってもたらされたのでありそれが用いられたのが、飛鳥寺であった。それまで家屋をはじめとした建造物の屋根は茅葺か藁葺であったところに突然日の光を浴び燦然と輝く甍の波、空高く聳える仏塔。それを見た飛鳥の人達は驚いたに違いない。
 そして、仏教というニューカルチャーの先進性を強烈に印象づけられたに違いないと記述している。そして五木寛之の目に留まった案内板には「視野を遠く放つべし、ここに立ちて見ゆる風景は古代朝鮮半島、新羅の古都慶州、百済の古都扶余の地と酷似しており。・・・・・日本文化のふるさとである古都飛鳥のこの風景には古代百済や新羅の人々の望郷の念を禁じえない」とあったことが紹介されている。
 二度と帰れない故郷を思い、出来るだけ故郷に似せて町造りをするという行動は納得ゆく。
 それにしても一体誰がこの案内板を作ったのだろう。川原寺跡で、ず〜っと遠い南の方角の空に、まるで背伸びするように視線を送っていた「あんたか、台風を連れて来たのは」といっていた人物だったら、その様な口調の案内板を作ってもおかしくない感じが今はしている。
 そして、復習の中で思ったことは、(飛鳥寺は)仏教というニューカルチャーの先進性を強烈に印象づけられたに違いないという五木寛之の記述である。
 仏教というところを○○に変え、「××は○○というニューカルチャーの先進性を強烈に印象づけ国の進むべき道を示した」、と置き換えて、現代版の××や○○に入る人名や言葉を充てるとしたらどうなるのだろうと思わず考えてしまった。
 ××に麻生太郎や小沢一郎を充てたとしても○○に当てはまる言葉がみつからない。××に小泉純一郎を入れると、○○に当てはまる言葉がみつかる様な感じがする。

                つづく







2008/10/05 23:26:00|旅日記
(十)川原寺跡


(十)川原寺跡

  川原寺跡を訪れるというより、その隣にある「花つばき」というレストラン?で昼食を摂る目的で寄ることが目的であった。川原バス停そばの細い道を入って行って、右折し、更に細い路に入って行くことが必要で、実はまさかそのようなところにあるとは思わなかったので、二度目に同じ場所に来て、今度はやっと確信を持って入ることになったのである。
  店の入り口かお寺の入り口かは分かりかねたが、そこに一人のこれから老境に入るかと思われる人が高下駄を履いていて突っ立っていたので、「やっているのですか?」と尋ねてみた。すると、「寺の拝観か?食事か?」と逆に問われた。「食事です。」と答えると、「それなら、ここが入り口や。」とぶっきらぼうな応答この上ない。そして、追い討ちをかけるように、「あんたか、台風を連れて来たのは」と言う始末。
  しかし、それには取り合わず家内を促し、中に入っていった。和風レストランという予想でここを利用しようと思っていたのだが、少なくともレストランという洋風の呼び名は相応しくないことがすぐ分かったが、店と呼ぶのもおかしいと思うほどごく普通の居間を使っているのである。
  畳の上に敷かれた座布団に腰掛け、おもむろに窓の外を見ると、雑草茂る原っぱが続き、その向こうに目をこらすと飛鳥寺の甍が見える。十五分位かかって注文した麦トロ御膳を持ってきたここの人に、「飛鳥寺はどちらの方角ですか?」と尋ねたところ、指をさして教えてくれた。
  その指の指す方角は野原に浮かぶ、黒い屋根瓦のところで予想があたっていた。ついでに「甘樫の丘はどちらの方角ですか?」と尋ねてみたら、予想したところとは距離も方角も異なっていて、この天気ではよした方が良いかもと、家内と意見が合い、そこでゆっくりと食事をすることにした。

  川原寺跡といっても、どこからどこまでをいうのかピンとこない、また傍らで料理店を営んでいる弘福寺の正体が良くわからない。弘福寺についてはもう少し調べてくれば良かったと反省した。

 後でウェブで調べてみると、川原寺跡は国の史跡に指定されており、現在はかつての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ真言宗豊山派の寺院・弘福寺(ぐふくじ)が建つとのことで、川原寺の別名が弘福寺とも書かれている。あとで考えてみると、あの入り口に突っ立っていた人物は、あの面構えと頭頂の形からして、その弘福寺(ぐふくじ)の住職だったのかも知れない。
 だとすると、「あんたか、台風を連れて来たのは」というのは「禅問答だったか、しまった。」という気持ちである。禅問答だったらなんと答えればよかったのか。「そうだ。」というのが最適の答えだったかも知れない、などと考えても後の祭りである。
さらに、ウェブには、以下の様に紹介されていた。

  川原寺(かわらでら)は古代日本の政治文化の中心であった飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に所在した仏教寺院。別名を弘福寺(ぐふくじ)。飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰微した。

 食事を終え、弘福寺を参観せず、先ほどの門をくぐり、正面を見ると遠くに東西に整った伽藍配置の寺が見える(写真1)。それが橘寺であるということを旅から帰って暫くして気がついた。
 橘寺の手前の畑の畦には曼殊沙華の華列が数条、そしてその手前に県道155線が東西に走り、その手前の広大な草燃える広場には川原寺の礎石が見える。そして、更に視線を近づけてみると、青い幟に麦飯とろろと書いてあるのに気がついた(写真2)。
 そして目を東に向けると、ステージの様に高台に作られた礎石がみられた。そのず〜っとかなたには、なだらかな稜線の音羽山と思われる山が見える。そして、更に目を凝らすと高台の縁線に接する様に、飛鳥の現代人の住む家並みがかすかに見えた(写真3)。
 更に目を背部に移すと、「弘法大師ゆかりの寺」と彫られた石碑が目にはいり、その更に背部には、弘福寺の瓦を被った白塗りの土塀が東西に走り、その向こうにはお堂がひとつ見えた(写真4)。またその石碑の周りにはコスモス、曼殊沙華、芙蓉が曇天に色を添えていた。

つづく












2008/10/04 21:08:40|旅日記
(九)橘寺(芙蓉)

                (九)橘寺(芙蓉)
石舞台の駐車場を出て、その前の道を左手へ進むと間もなくT字路にぶつかり、そこを右折し、県道155号線を10分もしないうちに左折し、細い路をすすむと右手に小さな駐車場があった。そこに車をおき、石段を登ってゆくと、正面に拝観券売り場があり、そのすぐ右手に両脇に一対の狛犬を従える東門(写真1)があった。それをくぐると先ず眼に入ったのは都忘れの花であった。 都忘れの花の向こうに鐘楼が見えている(写真2)が、その由緒が書かれているものは少ない。

 明日香村を東西に横切る県道155線を挟んで川原寺と対峙するようにたたずむ寺院がある。川原寺跡から見ると、仏頭山を背景にして白壁の築地塀を巡らした橘寺の姿がまるで羽を大きく開いた鶴のように見えた(写真3)。
 太子建立の7寺の一つで、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺といい、橘樹寺、橘尼寺とも称する。現在の寺地には、東面する四天王寺式伽藍配置の跡が残っている。しかし、橘寺の存在を示す最も古い文献は『日本書紀』で、680年(天武9)に橘尼寺で出火し10坊を失ったことが記録されている。     
 この寺から出土する瓦は7世紀後半のものが多いが、7世紀前半に使われたとされる素弁蓮華門軒丸瓦も発見されていて、創建はその頃まで遡ると考えられている。
 寺伝では、橘寺は聖徳太子(=厩戸皇子)出生の地と伝える。出生地とされる伝承では、この地に欽明天皇の別宮があり、太子は574年(敏達3)にここで誕生したと言われている。
 厩戸皇子は太子の本名であるが、その名の由来は母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)が宮中の見回りの際にちょうど厩戸に来たところで産気づき太子を生んだため、とされている。
 東門から本堂まで歩いてゆく途中、芙蓉の花が雨空に映えていた(写真4)。お堂の中を拝観し、東門へと戻るとき、右手に少し歩いたところに、二面石(写真5)が、そして振り返ると、白雲たなびく大和の山並みを従えたお堂を水面に映す放生池が見えた(写真6)。
 更に東門に戻るとき巨大なセンダンの木が、そしてその向こうに、紫色をした○○の花に囲まれて、見逃されてしまうような佇まいの池が認められる。梵字の「あ」を模って聖徳太子が造成し
た池とのことであった(写真7)。

 今回、橘寺を訪れ、聖徳太子という人物の大きさを感じた。しかし一方で仏教を国の統治に巧みに利用したという感じがしないでもない。聖徳太子がここで推古天皇に対して、勝鬘経を講じたということになっている。
 それを、高貴な女性の理想的な姿とした在家佛教の代表的な大乗経典でコーサラ国(舎衛国)の王姫でアヨーデイヤー王妃すなわち勝鬘夫人が釈尊の前で説いて承認されたとされる教典であり、推古天皇にも勝鬘夫人のようであって欲しいという願いが在ったのだろう。
 勝鬘夫人が釈迦の前で説いた「十大受章・三大願」とは、己を戒め悟りに至るまでの十の戒(十大受章)であり、1、世尊、菩薩に至るまで犯心を起こさず、2、・・・・・慢心を起こさず 3、・・・・・恚心を起こさず、4、・・・・・嫉心を起こさず、5、・・・・・慳心を起こさず、・・・・・蓄財せず、等 6〜10以下略。一方、三大願 (三大願章)は高邁な哲学で、1.善根を持ち一切生で正法智、2.無厭心を持って衆生を説く、3、身命財を捨て正法を護持することとあるが、(三大願章)というのは難しい。













2008/10/03 21:13:56|旅日記
(八)石舞台(萩)

           (八)石舞台

岡寺を後にして、その先にある石舞台に向かった。岡寺の駐車場から前を通る県道を左方向へレンタカーのハンドルを切り、南の方角に向かう、道路は曲がりくねり、起伏も多くなってきたが、道なりに暫く行くとT字路に出会い、左折すると石舞台、右折するとその駐車場が、ともにすぐのところあり、駐車場の方にむかい、車を止めた。
雨は先ほどに比べ全然小降りになったが、傘なしでは無理で、傘をさしながらの拝観となった。自分も、家内も二度目で、家内は学生時代、自分は以前勤務した会社で、同僚だったK氏に案内してもらったことがあるが、それ以来15年はたっている。

ついでながら、K氏は八木市で大和国分寺の住職をしているはずであり、今回の奈良旅行でも、旧交をあらためようと、電話を何度かしたが、連絡がとれず諦めた経過があったのだ。M氏、K氏、そして自分は滋賀県八日市市在住時代、ともに飲み、パチンコをし、マージャン卓を囲み、ジュークボックスでリリーの歌に酔いしれた仲であった。そのK氏に自転車で案内してもらったところが石舞台だった。

石舞台は自分と家内共にかっての記憶からは、大きくかけ離れ、額縁の中に押し込められてしまった様な光景になっていた。以前来たときは、周りに何も無く、ただポツネンと藪原に佇んでいたという記憶があり、拝観料は取られることはなく、歳月とか、古代の息吹きを感じることができた。
今は観光地として整備され、こじんまりと、時を刻んで、今に生きているモニュメントという感じになってしまっている。

正式には石舞台古墳といい、曽我馬子または蘇我稲目の墓と言われている。封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという(写真1)。
確かにやや遠方から見ると、確かに盛り上がった地面の上に巨石が乗っかっていること、空濠がその盛り上がった一体を取り囲んでいるのが分かる。
巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、玄室(写真5)は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道(写真4)は長さ約11m、幅2.5m。
石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。玄室内側から石積みの様子を見ると、隙間無く積み上げられているのが分かる(写真5)。
石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた、とのことである。一体どの様に運んできたのか古代人の底力を感じる。
冬野川は今とあまり変わらないとすれば、この巨石がどんなことしても浮くだけの、水量や川の深さは無い。いかし浮かばないとしても川底の石の上を移動させられるうちに底面は研削され平面に近くなるのではないか。

もうひとつ古墳を見ていつも思うのは、「この古墳が何故ここになくてはいけないのか?」ということである。ついでながら、多武峰は司馬遼太郎の「街道をゆく 24 奈良散歩」では一番最初に登場する地名である。

今は丁度曼殊紗華の季節である。盛り土された表土には、白曼殊紗華の花が一番きれいな時期である(写真6)、そして、視線を高く上げると、東の方に雲のたなびく飛鳥の山並みが見えた。

  石舞台の周辺の路には秋萩の花が咲き誇る。曇天の下では映えず、写真の被写体になり得なかった。この稿を書いている今、奈良の萩の花を写真に撮らなかったことを、忘れ物をしたかの様な気持ちになっている。
  路の両側に路側に倒れこむ様に枝は傾き、そこに可憐なピンク色の花をつける。同時に路面には落下した萩の花がピンク色に染める。
  万葉集には非常に多く、141首に登場する、まさにこの季節大和路を彩る花の代表といえる。空しく咲いては散ってゆくという人生のはかなさを歌っている歌が多いようだ。花弁の形は同じ豆科の為かなんとなく槐の花弁に似ている。その槐は翌日訪れた薬師寺で眼にすることが出来た。