槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/11/04 20:55:53|旅日記
大同・北京の旅 (1)大同という地 (2)大同と平城(地名の由来)
                          大同・北京の旅

(一)大同という地

 大同市は山西省の省都太原の北352kmにある都市で、北は内モンゴル自治区に隣接している。自分の胸中にある中国地図には特に興味の対象になるようなランク付けがされていない地名であった。
 何故、急にそこへ行ってみたい気持ちになったのか、その気持ちの根源には、またしても司馬遼太郎の「街道を行く」があった。
 今年の5月、湖東三山等の近江観光をする直前に読み始めた「24.近江散歩・奈良散歩」に旅心を刺激する記載内容があったのだと思う。
 前半の「近江散歩」を読み終えた後に、惰性で、あるいは慣性の勢いで、後半の「奈良散歩」の記事に惹きつけられ、9月には、台風13号接近の中、家内と奈良旅行をしたのである。
 「奈良散歩」の記事では、取り上げられていたのは、殆どが東大寺と興福寺であり、華厳宗東大寺に関しては、「華厳宗の発祥」に、興福寺に関しては「廃仏毀釈にたいする対応のしかた」に興味を持った。

 華厳宗(経)の発祥は崑崙山の麓の、于闐(うてん)、今のホータン(和田)あたりとあった。07年七月に酷暑のシルクロードを旅したが、一番行ってみたいホータンに行けなかったので、そのホータンを益々魅力的な地にしてくれた。
 「華厳宗の発祥」があれば、次に「華厳宗の伝播」がある、と考えるのは自然である。
 司馬遼太郎は、「仏教の伝播というのは、伝播そのものがロマンティックなのである。」と同書に書いている。
 何故ホータンという地に華厳経という教えが芽生えたのか、またそもそも華厳とはどの様な意味なのか気になり始めた。
 それらの答えは華厳経の伝来の経路にあるはずで、その経路には華厳寺という名の中国寺院があるに違いないと思い、早速ウェブで検索して出てきたのが大同市にある華厳寺だった。
 そんな浅薄な理由で大同市を旅してみようと思い立ったのである。少しでも訪問意義を高めるために、大同についてウェブで調べはじめ、ウェブ検索ですぐ分かったことは、華厳寺の他に雲崗石窟という中国の三大石窟のひとつがあること、懸空寺、木塔寺、九龍壁、善化寺などがあることであった。
         
(二)大同と平城(地名の由来)

 浅薄さを少しでも低減させるために、「大同」という地名の由来を知ろうとした。その手始めに、今回の旅行の手配等で世話になった桂林中国国際旅行社の沈慧香さんに、
「大同という地名について最初に頭に浮かぶものは?」
と尋ねてみた。答えは、
 「大同の地名の件について調べると、古文の意味表示されますので、私もよく分かりません。(多分「和」の意味が多いです。人と人の信頼が深い、古代、その地に住む人々の最高の理念です。中国古代の呼び方は-大同です。今まで使い続いていると思います)」とのことだった。
 ちなみに、この沈慧香さん、実に色彩豊かな文章を絵文字つきメールにして送ってくる。若々しい女性ということが想像されたが、間違ったら失礼と思い、
 「沈慧香さんのことですが、どの様に読むのですか?日本風に読むと、男性でも女性でもおかしくない名前ですが。」、
その他血液型等の質問を添え、さぐりを入れてみた。その答えは、
「私は地元の桂林人で女性です。1986年に生まれました。ただ1年くらい勤めているばかりですので、これからも宜しくお願いします。(*^_^*) ♥私は漢民族で、血液型はO型です。小説も読みます、金庸の小説は大部分はテレビドラマで見ました。民歌なら、「韓紅」と呼ばれる歌手のが好きです。」とのことであった。 
 
 さて話を戻す。
 今回は該当する、「街道を行く」が無かったので、代わりに、講談社学術文庫「東アジア世界の歴史」堀 敏一著(2008.9.10第一刷刊)を買い求めた。
 そこから「大同」という地名の由来、即ち、この地にどうして大同という地名がつけられたかを知ろうとしたのである。

つづく








2008/10/16 20:27:35|物語
西方流雲(75) ---63. 疫病神、リウマチ、狭心症 その二---
    西方流雲(75) ---63. 疫病神、リウマチ、狭心症 その二---

  リウマチの診断治療のためこまめに血液検査をしていたが、GOTやγ−GPTが上限値を超えてはいないが、急変していることに気がつき、そのことをリウマチ科の医師に相談したが、心配ないとのこと。
  しかし、気になったので、脳梗塞以来かかりつけの医師として世話になっていたO医師に相談したところ、
 「これからすぐに、脳梗塞を患っていたときに世話になっていたH病院の循環器科に行き。恩田医師に診てもらうように」
と言われ、急遽その病院の循環器科に急行し、診断を受けた。

  超音波診断や血液検査の結果、および症状から、担当の恩田医者は即座に、不安定性狭心症に疑いないと診断し、翌週にも検査入院するように勧められた。
 しかし、超音波研究会での発表が控えていたので、異常があれば、恩田医師にメールを入れ、指示を仰ぐことを条件に、超音波研究会の後の検査入院にしてもらうことにした。

  検査入院は、恩田医師の本拠とも言うべき恵比寿にある中央厚生病院というところですることになった。入院した日に、再び、血液検査、心電図、超音波エコー診断を行い、検査内容の詳しい説明をしてくれた。
  診断・治療は、恩田医師と、目のくりっとした小柄な女性美人医師とがペアで担当してくれることになった。
  検査内容の詳しい説明は、その女性医師によってなされた、大腿部からカテーテルを挿入し、造影剤を冠状動脈に流し込み、狭窄部位を同定し、狭窄部をバルーンで押し広げ、そこにステントを留置するという診断・治療になる可能性が高いとの説明であった。
  治療室に入ってびっくりした。両医師の他3〜4名の人が目に入った。治療室に運ばれるまでは、恐怖感や緊張感は全く無かったが、治療室にいる全スタッフの姿を見るとさすがに緊張する。  治療台の近くに、次々と医療機器が運ばれてくる。血圧計、心電図、バルーンを膨らませる為の加圧機、そして造影剤を観察するためのアンジオグラフィー。配置が終わると、やおら年配の看護婦さんらしきが、顔を覗き込み「少しでも気分が悪くなったら言って下さいね。」と緊張を解いてあげようとの配慮が分かる。
  また晃一の視線の先にTVモニターが置かれた。これはアンジオ画像を患者に見せて、狭窄箇所があるので、ここを治療する、ということを確認させる為であることが後で分かった。
  大腿部からカテーテルを挿入し、造影剤を散布する。造影剤は冠状動脈に流れ狭窄部があればそこが狭まっているような影が映し出される。
  造影剤の観察はX線を使っている。カテーテルには、最初からバルーンとステントが装着されている。狭窄部が必ずある、という前提である。アンジオ画像を指差しながら、「こことこことここ」と三箇所を指さした。そして
 「ここが一番危険なので、今からここをバルーンで拡げてステントを留置します。他の二箇所は緊急を要さない場所なので、ここを処置します。」
  そう言うや否や、女医さんから、ポンプの圧力値を読む声が聞こえ始めた。そして、しばらくすると、その声が収まり、恩田医師の表情に緊張が走った。
  「おそらくステントを留置している最中なのだろう。まもなく再度造影剤が散布され、恩田医師が、
「ステント留置が完了しました。ホラ、先ほどくびれていたところが拡がって、正常に血液が流れるようになりましたよ。」
と教えてくれた。晃一は、
「なるほど、確かに先ほどとは明らかに違っている、あの胸が圧迫されるような気分から開放されることになるのだな。」
と、独りごちた。しかし、安堵するのは早すぎた。その後、術後の処置に苦しめられることになるのだ。

  治療室から出て行って、戻ってきたのは、術前に居た自分の病室ではなく、看護婦の詰め所のすぐ隣の部屋であった。圧迫止血という処置のためだった。
  カテーテルによるステント留置の治療が終わり、大腿部にあけたカテーテル挿入口から今度は抜き去るのだが、その穴を塞ぐ必要がある。
  その穴は直接動脈につながっているので、大きな血圧がかかっている。その血圧に見合う圧迫をして止血する必要がある。しかも完全無菌で行う必要がある。これをマンパワーもしくはウーマンパワーでするのである。
  もう一人の担当医師であったI先生の圧迫止血の時は、まるで全体重を圧迫している手の平を交差しているところに集中しているように見えた。
  また再狭窄を起こさない様にしなくてはならない。血液凝固を効率よく起こさせるには傷口を動かしてはならない。寝返りをうってはいけないのである。従ってトイレにも行けないのである。これが術後六時間ほど続く。
  このつらさは看護婦さんにも理解されていて、頻繁に看護婦さんが様子を見に来るが、その度ごとに気の毒そうな顔をして戻って行く。
  あとで、この治療を晃一は次の様に振り返った。素晴らしい点は診断治療がつながっていること。よくあるケースは、診断したあと診断結果を分析して治療方針を決めて治療というプロセスで、診断と治療の間に時間がかかり、患者は診断を受けてから日を改めて登院し治療を受けるというものである。
  ところが今回は診断の直後に連続して治療に移るのであった。これが患者の負担をどれほど和らげるか分からない。一方で、造影剤診断で狭窄部が見つけられなかったら、装着した、バルーンとステントは不要となり、‘使い捨て’ではなく、‘使わず捨て’となる。この場合、バルーンとステントの代金はどうするのであろうか。
  或いはアンジオの目的は狭窄部の有無の診断ではなく、バルーンとステントを留置する位置を確認するためのものなのかもしれない。
  一方改善を必要とするのは、治療後の圧迫止血、治療後の体位の自由化であろう。ちなみに後日晃一は心臓の構造のおさらいと心臓病の種類を調べてみたが、あまりにも沢山の心臓病があるのでびっくりした。

  名目は検査入院だったが、三日の予定が結局五日になった。それでも一週間もかからず退院した。治療後初めて出勤した時、胸を締め付ける様な感覚は全く起こらず、本当に詰まっていたものがなくなったということを実感できた。

              つづく







2008/10/10 15:18:07|旅日記
(十五)清水寺、南禅寺界隈(曼殊沙華)

(十五)清水寺、南禅寺界隈(曼殊沙華)

奈良を最終日半日めぐりにしたのは、“ゴルドン・ブルーかしく”という京風フランス料理店を立ち寄ることにしていたためであった。予約してあったのだ。
最近、京都へ来るたびに、寄ってみようと思いながら寄れず、気になっていたのである。“ゴルドン・ブルーかしく”の前身は“かしく”という旅館で、自分が京都在住の時、今から30年ほど前だったが、自分の父親が還暦を迎えた時、その記念に母親と訪洛したとき、宿泊した旅館だったし、自分が婚約していた時、婚約者とそのお母さんが訪洛した時にも宿泊した旅館であった。 その他親戚のいとこがその友人と訪洛した時にも宿泊に利用してもらった旅館であった。

 その後、南禅寺を訪れたことは数え切れないほどあったが、その山道沿いにある“かしく”には見向きもしなかったのである。 その旅館のおかみは如何にも洗練されたものごしの感じの良い人で、話しているのを聞くと、やすらぎを感じるほどで、夢にも何度か旅館とともにそのおかみが出てきたことがあった。
 そのおかみに、“かしく”の意味を聞いたことがあった。「仮の宿という意味どす。」という京訛の返事を今でも覚えている。

 そのとき、「人生で、その時々にわが身をおく場所は、常に仮の宿、カシュクなのかも知れない。」などと思ったりしたのを覚えている。そして今度は自分の父ではなく自分が一昨年還暦を迎えたが
“還暦”という自分史上の記念すべき年でさえ、時間軸上の“仮の宿、カシュク”なのだ。
 小椋 圭の最近の歌に、♪「もう」と言ったら下り坂、「まだ」と言ったら上り坂という中高年への応援歌があるが、“仮の宿、カシュク”の存在そのものが、“還暦”を迎えた人への応援歌のように思えてならなかったのである。
 「小次郎敗れたり」という巌流島の決闘で宮本武蔵が吐き出した有名な言葉があるが、小次郎が決闘の直前に自分の刀の鞘を投げ捨てた。それを見た武蔵が小次郎に浴びせかけた言葉で、「決闘の後も、勝利すれば刀だけでなく、その鞘も必要なわけで、その鞘を小次郎が捨てたということは、決闘後、小次郎が刀を使うことは無い、即ち、小次郎がこの決闘で敗死する運命なのだ。」という意味とされている。
 鞘を自分の妻、刀を自分自身とすると、鞘を捨てることは、刀を納めるところが無くなり、生きることも出来なくなる、と例えることも出来る。
 そんな連想をおこさせる“仮の宿、カシュク”の存在だったのであった。JR奈良には予定より30分ほど早くつき、予定より一本早い快速列車に乗ることが出来た。従って、京都についたのも11:00前だった。予約の時刻は13:00だったので、十分時間があったので、清水寺を訪問することにした。重い荷物を京都駅の地下ロッカーに預け、タクシーで三年坂に向かった。

 今年5月末M氏とともに歩いたコースと同じ道を歩いてみようと思ったのである。土曜日だったのでもの凄い混雑である。修学旅行生、団体外人観光客、特に中国語やハングル語が氾濫している。奈良にも外国人観光客は多かったが、欧米人が多く、ここ京都は圧倒的に中国人、韓国人が多いように感じた。暑いので、ソフトクリームが大売れのようだ。
 仁王門(写真1左)をくぐり、鐘楼を左手に、右手に三重塔(写真1右)を遣り過し、更に轟門(とどろきもん)、回廊を経て本堂へと向かう。
 回廊に入る入り口に、電気通信大 鎌倉教授考案で有名なパラメトリックスピーカーなるものが天井から下に向けて吊るされている。
 今回は何故かパラメトリック音声を背後から聞くような向きに変わってしまっている。M氏にこの原理を理解してもらうのも一苦労したのに、家内に説明などしても理解できるはずは無い、と思い、「あれがそうだ。」と指を指し示しただけで説明は、省略した。
 本堂は清水の舞台と呼ばれて有名であるが、そこは長居はせず、すぐ石段を折り始めた。舞台を支える総檜(ひのき)張りの懸造り(かけづくり)に構築された柱と競う様に朱色の曼殊沙華が咲いていた(写真2)。
 奈良には白い曼殊沙華をあちらこちらで見たが、ここは朱色のみである。その石段の降りきった更に先に、飲むと(右から)長寿、金運、勉学に効くと謂われている音羽の滝があるが、本堂の舞台から望遠で(ズームアップして)撮った写真がこの三本の滝を映していた(写真3)。
 予約時間が気になる、というよりもう一箇所家内を案内したいところがあり、そそくさと清水寺を後にして三年坂を下って行った。次に目指すところは、「清水三年坂美術館」で、ここもM氏と訪問したところであった(写真4左)。
 ここは昔勤務していたM製作所の先々代の社長の弟氏のコレクションをもとに創られた美術館で、M製作所勤務時に結婚した家内にとっても知っておいて損はないと思ったからだ。
 館内を一通り見学し、そこを後にして、少し行ったところでタクシーを捕まえ、目指す“ゴルドン・ブルーかしく”を目指した。

 南禅寺山道左脇にあるその店はすぐ分かった。入り口から入ると、少し奥に入ると、白い台板に“ゴルドン・ブルーかしく”と書かれた店の案内板が目に入った(写真4右)。
 靴を脱いで、テーブルが並んだ部屋に入って行くと、奥にドラムやギターなどの楽器がおいてあった。ごく普通の家を改造しているだけの店のように見えた。空席が二つほどあり、そのうちの窓際に近い方を選んで座った。必ずしも若い人達に好まれるつくりではない。
 座ったテーブルは、昔の一階の和室には普通についていた廊下と和室に跨いで敷かれているカーペットの上に配置されていたが、この廊下の佇まいは、まさしく夢に何度となく出てきた造りであり、夢では、“かしく”のおかみが、その廊下ごしに話しかけてくるところだったりした。
 その頃、50前後として、今80歳前後、お会い出来る可能性があると少なからず期待していたが、店の人に尋ねたところ、“かしく”の先代のおかみはすでに他界されていて、その後、引き継いだ人も宿の経営を間もなく手放し、20年ほど前からこの様なレストランになっているとのことであった。
 間もなく、コース料理が運ばれてきた。3150円のコース料理である(写真5)。食事を終え外に出た、30年前の手がかりは何も掴むことは出来なかった。
 店を出たところ、かってのかしく旅館で、その二階で両親と食事をした記憶のあるところは、京風宝飾店となっていた。なにか手がかりを掴もうと店内に闖入し、売り物の京風宝飾品を家内と眺めまわしていたら、店の人が出てきた。「昔、ここはかしくという店であったはずなのだけど」と切り出してみたが、先ほどの“ゴルドン・ブルーかしく”のウェイトレスと全く同じ答え。
 そこで手がかりを掴むことは諦め、新幹線に乗る時間までは十分過ぎるほどの時間があったので、南禅寺の境内を少し歩くことにした。最初に出会ったのは、“水路閣”でその名が全てを語っている、そのものずばりの建造物である(写真6)。水路閣は琵琶湖疎水という、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山々をぶちぬいて流れる長大な運河にしつらえられた水道橋である。
 それからはそろそろ京都駅に向かうことにした。山門をくぐり、“ゴルドン・ブルーかしく”を再度見つめ遣り、一路平安神宮方向へ歩を進めた。

 途中何度か家族で食事に来たことのある今昔(こんじゃく)を家内ともども懐かしげな目つきで眺めやり、平安神宮鳥居の正面の通りを南に出て、三条通りを渡り、粟田口方面へ。青蓮院の前を通り、更に、知恩院石段(写真7)を左にながめ、丸山公園をつき抜け、八坂神社(写真7)を通り過ぎ、四条通りを烏丸方向へ歩を進めた。
 途中右折して新京極に入り、更に左折し、錦小路に入り、買い物客の雑踏を掻き分け、そして帰りの新幹線内で夕食代わりに食べるための弁当として、「栗おこわ」と「おばんざい」併せて1050円を二セット買って、錦小路買い物市場を抜け出し、地下鉄烏丸駅に向かった。京都駅地下でロッカーから荷物を取り出してなお、相変わらず出発まで一時間以上あり、駅でみやげ物を時間をかけてたっぷり買い、それでも時間が余ったが、時間をなんとかつぶして、予定通り、ひかり 384号 京都18:56発にのり、無事東京21:40着となった。

 以下後日談である。家内に、「京都ではよく文句も言わず、疲れたとも謂わず歩きとおせたね。」
「勿論よ、バレエ・ダンサーよ。普段鍛えているから」
「奈良で購入した土産の一部が入っていた袋を池袋のトイレに忘れてきてしまったことも書いてくれなくてはね。」

 今年で95歳の親父に、「昔、お父さんが還暦の時に、お母さんと一緒に京都に行って、“かしく”という旅館に泊まったの覚えている?」
「全然覚えていない。」
「その時、僕が撮った写真今度持ってくるからね。」

           ===== 完 =====







2008/10/10 12:36:39|旅日記
(十四)薬師寺の槐(えんじゅ)

  (十四)薬師寺の槐(えんじゅ)

駐車場への帰りも順路に沿って戻る。今度は東塔、金堂などを北側から見ることになる。鐘楼が目に入り、鐘楼の鐘と楼枠を窓枠として東塔を臨んだり(写真1)、東塔、金堂、回廊などを背景に自身の写真を家内にとってもらった(写真2)。

 薬師寺は東大寺などと異なり、回廊によって四方が囲まれているのではなく、北側には回廊が無い伽藍配置となっているのだ。北側回廊があれば、丁度そこにつながっていると思える位置に大講堂が配置されている。
 大講堂が金堂より大きいのは、古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためであるとのこと。
 大講堂の中には、弥勒三尊像や釈迦十大弟子像、仏足石などが安置されていて、棟方志功の版画「釈迦十大弟子」を思い出す。彫刻家中村晋也師の作とか。
 この釈迦十大弟子像を見ると、全員スリムで、メタボな風体は一人もいない。日々厳しい修行をし、苦行の末、中でも優れた十人が釈迦十大弟子となったためであろう。
 「仏足石」は釈迦が無くなった直後は、仏像などの祈る対象がなく、そのかわりに、仏の足跡を石に彫ったり、菩提樹[ぼだいじゅ]や法輪に祈りを捧げてきたのだそうだ。この仏足石は側面に記される銘文により、インドの鹿野苑[ろくやおん](釈迦が初めて説法した所)のをもとに、天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石とのことである。

 再度、東塔、金堂を中心にした風景を写真にとり、帰りの順路にある東院堂に寄り、南門を経て、駐車場に戻った。
 途中、南門を渡り、休ケ岡八幡宮から逸れて、西向きに向かう小道の右手にある建造物を囲う壁の向こうに、その上半身を覗かせた比較的大きな槐の樹が目にはいった(写真4)。
 背が高くなりすぎたためか、枝が伐採されていて、葉が一切見られない。しかし樹皮模様から明らかに槐の樹と分かる。伐採されていなければ、10メートル近い高さにはなっていよう。

 9:30を少しすぎていたが、ほぼ予定通りに薬師寺を後にした。
 駆け足の、しかも台風に祟られた奈良路だったが、奈良の吐息に十分触れることの出来た旅であった。また近いうちに、ゆっくりと訪問したいと思った。

     つづく







2008/10/10 10:52:02|旅日記
(十三)薬師寺(萩)<玄奘三蔵院伽藍>

 (十三)薬師寺(萩)<玄奘三蔵院伽藍>

白鳳伽藍を後にして薬師寺のもうひとつの目玉、「玄奘三蔵院伽藍」に向かった。その手前に白萩の花の咲く名前知らずの山門(写真1、2)をくぐると、両側に芝が一面絨毯のように敷き詰められた通路が現れ(写真3)、まるで西洋の庭園のような雰囲気の空間に出会う。
こちらは、「白鳳伽藍」とは異なり、対比する“古き”ものが見当たらず、「白鳳伽藍」の姿を想起することによって始めて時代感覚が、呼び起こされる。

「玄奘三蔵院伽藍」は平成3年(1991)に建立された平成の伽藍である。そして、平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯によって玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿に入魂されている。

「大唐西域壁画」を見ることが今回の奈良の旅の楽しみのひとつであった。殿内に入ると、三面の壁に高さ2,2メートル、長さ49メートルの巨大な壁画が飾られている。
 天井は、75センチ角の天井板が248枚ならぶ天井になっているが、この天井もすべて平山画伯の手による画と彩色が施された。この彩色が濃紺に金粉を散りばめられた模様で、濃紺は空を、金粉は星を表しているのではないか。
 そして、その彩色は、ラビスラズリという鉱石を溶かした顔料で満点の星空が描かれているとのこと。
 床は砂漠の砂の色。玄奘三蔵院では、この絵が本尊で、右の天には太陽、左の天には月。仏様はないが、日光菩薩、月光菩薩をあらわすそうである。その満天の星空を見ているうちに、家内がおもむろに財布からネックレスを取り出し、天井とそれを相互に見つめ比べている。
 そのネックレスは昨年シルクロードの旅をしたとき、ウルムチで家内へのみやげとして買い求めたものである。
 中国では金粉が混入したラビスラズリを青金石と言っている。ラビスラズリを小玉に加工し、細い穴を空け、そこに糸を通した首飾りがインダス、メソポタミヤ、エジプトの遺跡から見つかっている。この鉱石の持っている不思議な魅力にとりつかれる人はどの時代にもいたのだろう。自分もその一人なのである。

 家内のその様子を見ていた、説明員らしき人が近づいてきたので、思わず、
「この壁画は素晴らしいですね。平山画伯って凄いひとですね。」
と語りかけてしまった。すると、その人は、
「自分はシルクロードへ行ったことがないので、どんなところかは知らないのですが、毎日この絵を見ていると雰囲気はなんとなく伝わってくるのですよ。」、
「一度行ってみたらどうですか?」
「ここを訪れる人の多くがシルクロードへ行ったことがあり、逆に解説してもらうのですよ。」
「そうでしょうね。私も去年行ってきたのですよ。あの壁画に描かれた高昌古城にも行きましたよ。」
 説明員は聞き上手だ。
「家内が持っているのは、あの天井の彩色に使われているラビスラズリなのですよ。去年シルクロードへ行った時に買ったのです。」
「あの天井の色と同じですね。奥さんは素晴らしいものをお持ちですね」。
 まだ早朝だった為か、他に殆ど拝観者の姿は見えなかったが、9:30までに拝観を終えねばならないので、先にすすみ、拝観順路の最後にみやげ物屋があったので、壁画の絵はがきを購入し、大唐西域壁画殿を後にした。

 「白鳳伽藍」と「玄奘三蔵院伽藍」の共通項は当然ながら「仏教」であり、しかも法相宗[ほっそうしゅう]である。
 玄奘は、のちに法相宗が、継承することになる「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]という教えを極めることに腐心した。その流れが薬師寺にはあるとのこと。
 現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たるとしているのだそうだ。薬師寺の管主をはじめとした僧侶の名は殆どが最後に”胤”か”奘”という文字が入っている。拝観を終え、再び両側に芝が一面絨毯のように敷き詰められた通路が現れ、遠方に「白鳳伽藍」の東塔と西塔の相輪が見えた(写真4)。そして再び手前に白萩の花の咲く名前知らずの山門をくぐり、振り返ると、何故か、この門が歪んで見えたのである(写真5)。"新しき”から古き"の門をくぐる時、人は"歪み"を感ずるものかも知れない。その逆も真なり、か。

              つづく