槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/11/05 22:55:13|旅日記
大同・北京の旅 (八)恒山懸空寺

              大同・北京の旅 

(八)恒山懸空寺

 そして、程なく懸空寺に到着した。北魏時代後期に建設され、現在までに1400年以上の歴史を持ち、今回訪問した寺院のなかでは最も古い。「恒山」のもっとも険しい場所にある金龍渓谷の絶壁に天峰嶺に向かい合って建つ。
 絶壁の隙間にある空間で寺院が雲に乗って飛んでいるようである(写真1)。現存する懸空寺は楼閣47余り、絶壁にぴったりと張り付くように建造物が並んでいる。
 楼閣は上下に階層のある造りで、楼閣同士つながってはいるものの建築条件により高さがずれている。
屋根瓦が黄色いのが特徴(写真2-1〜2-4)で日本の寺院の屋根瓦の色と大きな特徴である。黄土色(おうどいろ)というよりコウドイロというのだろう。この様な色彩の瓦は北京でもあちらこちらで見られる。黄色、青、緑、赤は多くの中国寺院で用いられているが、元時代以降黄色い屋根瓦が用いられたり、黄色く上塗りされたということもガイドさんに聞いたことがある。
 もっとも高い建造物はふもとから50m、楼閣や仏殿はすべて曲がりくねって廊下でつながっている。
 懸空寺は北魏の時代の僧侶「了然和尚」が創建、その後仏教、道教、儒教すべてが共存する寺院群となった。釈迦、老子、孔子が一緒に祀られている楼もあった。勿論釈迦像や菩薩像がけが祭られている楼屋もある(写真3-1、3-2)仏像等はいずれも彫像ではなく塑像という感じで白塗りしたあと金粉や青赤緑黄色が塗布された感じだったが実際のところは分からない。
 とにかく冷たい風が肌を刺す。
 楼閣を上にあがるほど寒さと高さにブルブルと震えてしまう。その寒さから身を護るため暖かそうなコートを着ている人が目立った。しかも少人数の団体に多かった。異様な感じがしたので、ガイドの田さんに、
「あの人達は皆同じコートを着てどんな人達なのですか?」
と聞いてみた。すると、
「貸しコートを着ているのですよ。」
とのことだった。
 尚、冒頭でてきた「恒山」というところは、金庸の武侠小説ファンでれば、すぐピンとくる。例えば「笑傲江湖」には武林勢力として、少林派、峨嵋派、崑崙派、崆峒派などと共に五嶽剣派という山岳を根拠とした剣派があり、崇山派、華山派、衝山派、泰山派と並んで、恒山派というのがあり、それがここ懸空寺のある恒山に本拠をおいている設定になっている。
 恒山派はこの物語の主人公である令狐冲が強い関係を持ち、一時的にこの恒山派の総師となる。恒山派は尼僧の集合した教団であり、剣派でもある。
 令狐冲が、恒山派と関わって、恒山派の総師になるまでの過程が実に面白い。
 そして、作者金庸はこの恒山派をことの他暖かく扱っている。
 金庸の小説は漢民族と異民族と対比させ、中華の地に侵入してきた異民族とくにモンゴル族を怨恨し、漢民族を援護するする立場をとる物語が多いが、モンゴル族を祖とする異民族が建国した北魏に因んでいることが容易に推理できる恒山派を暖かく扱っているのが、金庸の小説の底流に流れる基本思想と趣を異にしている感じがした。
 「笑傲江湖」は金庸の小説のなかでは全七巻という長編だったがあっという間に読み終えてしまった。
 その恒山にいるとその舞台にいるようで楽しかった。今春の昆明の旅では石林で「崆峒」という文字に触れた。そして今回は意図せず「恒山」に出会うこととなった訳(写真4-1,4-2)である。次は少林寺にでも行ってみようか。
 金庸の武侠小説には中国各地が登場するので、その土地に出会うのも楽しみになってきていて、徳間文庫本の金庸の小説を欠かさず読んでいる。
 従って、司馬遼太郎の「街道をゆく」と、この金庸の武侠小説とが旅心を刺激し、旅がこの両書籍の読書熱を刺激するという循環が出来てきたように思い始めている。
 寒風厳しい懸空寺を後にして、昼食をとったあと木塔寺に向かうことになった。

つづく







2008/11/04 23:42:30|旅日記
大同・北京の旅 (七)石窟に棲む現代版仙人

大同・北京の旅

(七)石窟に棲む現代版仙人


 10月22日(水)の成田発夜便(CA167)で、雨の北京に現地時間22:30につき、ガイドさんの案内で、三ツ星ホテル「北京香江戴斯酒店」に向かい、ここで一泊し、翌日7:30発のCA1119-便で大同に向かう。
 8:20に着いた晴天の大同空港(写真1)には、大同での日本語ガイドの田建明さんが待ちうけてくれていて、朝の最低気温が−3℃と寒さ厳しい中、早速最初の訪問先の懸空寺に向かった。
 途中休憩のため車を降り景色を眺めていると、田さんが、後を指さし、
 「あの岩山に横穴が見えるでしょう。あそこに人が住んでいるのですよ。あの人がそうですよ。」
と語りかけてきた。
 たしかに岩穴近く(写真2上)で人らしきが動いているのが分かる。すかさず
 「側に行ってみることが出来ますか?」
とたずねると、OKの返事、住人の老人は誇らしげに内部を案内してくれた。そこは、大同市渾源県東圪垞鋪村という住所で、張徳華という名前の人であると、ガイドの田さんがメモにして見せてくれた。
 内部は寒さを全く感じず、清潔で、TVまであるのには驚いた。壁にはブロマイドやポスターなどが貼られていて、床にはカーペットまで敷かれていて(写真4上)、現代版仙人という感じがして、このような生活に満足していて楽しんでいるようにも見えた。

 穴の外にはとうもろこしや野菜が乾燥され、冬の食料の準備中という感じであった(写真3上,写真3下)。また箒のようにたなびいた姿をした箒梅という鮮やかな紫の草や、マリーゴールドの花が寒風に曝されてなびいていた(写真2中、下)。
 仙人とのツー・ショット(写真4下)などは一人旅ならではの面白い体験であった。外が寒いだけに石窟の中の暖かさが有難かった。またガイドの田さんに感謝であった。
 その田さんから、
 「大同に旅行に来た目的は何ですか?」
と最初に尋ねられ、どこから話したら良いか迷ったが、
 「華厳寺と雲崗石窟寺院」
と答えた。「歴史と仏教」というにはまだまだ知識と教養が浅薄であり、きざっぽく感じたからであった。
 田さんのガイド暦をあとで聞いて、「あ〜、「歴史と仏教」となんか言わなくて良かった。」と振り返ったのであった。日本の有名な寺院の僧侶たちをガイドしたこともあり、特に奈良には詳しかった。中国人をツアーで日本に案内したこともあり、日本の歴史にも詳しく、安心して話を聞けた。
 仙人と別れを告げ、縣空寺へ向かう車中で大同、山西省の歴史や有名な出身者などの話を一通り聞いた。その話の途中、春秋戦国時代の五人の話が出た時に、
 「中国の皇帝や国王の名は、諸国の文帝、襄王、武帝、霊王など異なる国に同じ名の人が現れることが多いがどうしてか」と聞いてみた。それに対し、
「自分の息子に同じことを聞かれて困ったことのある質問で、どこそこの文帝、というように、”どこそこの”をつけて区別する。それを覚えるためのトランプを北京へ遠足に行った時に買った。」
 きっと日本でも同じだが、これら皇帝や王の名前は後の人達が忌み名としてつけるので、後の人達から見たこれら皇帝や王の治績や特徴をいくつかに類別すると、そうなるのであろうということに自分の中で結論づけた。
 この様な話をガイドさんとさしで出来るのも独り旅の大きなメリットであろう。だから独り旅は止められない。
 

つづく







2008/11/04 21:41:31|旅日記
大同・北京の旅 (六)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
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(六)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)

 ここで、胡族が何故熱心な仏教信者だったかということだが、それには西域亀茲(庫車)出身の仏図澄の功が大きかった、と言っても良いだろう。彼は儒家の反感を乗り越え、石氏支配下の華北に入り、大衆の支持を得て、華北各地に八百九十三の仏寺を建て戦乱に苦しむ民衆の帰依を得た。
 その弟子道安は仏教教団の戒律を確立し、また仏者は皆釈迦の弟子なので、釈を姓とすることを主張した。現代の日本で浄土真宗の戒名に“釈”という文字を頭につけるのはここからきているのだろう。
 この華北で北魏が栄えた頃、西域では亀茲から後に玄奘三蔵が立ち寄ったことで有名な高昌国に遷り代わり、遼東半島では高句麗、新羅、百済の時代、また日本は倭国(邪馬台国)の時代であった。
 中国は南北朝時代であり、北朝は隋の時代に至るまで北魏を初めとした東魏、西魏、北斉、北周が、また南朝は隋の時代に至るまで東晋、宋、斉、梁、陳の順に主に江南の地に栄えた。
 これら大陸の国々のうち倭国が接触したのは、遼東半島の国家としては百済、新羅で、北朝との接触は殆どなく、南朝では、東晋、宋との接触があったが、斉、梁、陳との接触はなかった。また高句麗、新羅は北朝とのコンタクトがあったが、百済は最初は北魏に朝貢したものの、目的の高句麗攻撃の申請をしたことがあったものの、それが不成功に終わって以来接触が無くなった。
 従って仏教伝来のルートは北朝、遼東半島経由というより、南朝のあった江南の地経由で伝来したというのが考え易い。その裏づけとなるのが、仏図澄の弟子道安の存在がありそうだ。
 道安は、北魏から襄陽(湖北)に活動の場を移し、江南の仏教に影響を与えた。その江南を訪問した倭国の使者が持ち帰った。或いは百済人も同行していたかも知れない。

つづく







2008/11/04 21:34:04|旅日記
大同・北京の旅 (四)平城から大同へ(民族融和)、(五)仏教の伝播(廃仏稀釈と再興)
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(四)平城から大同へ(民族融和)

 中原に進出するためには、自分達非漢民族と漢民族とを融合(大同)させる必要がある。精神的に大同させるためにはイデオロギーに結びつきやすい宗教が最もよく、非漢民族にも漢民族にも等しく仏教という宗教に目を向けさせることによって大同を図ろうとしたのではないだろうか。
 もともと鮮卑族拓跋部は漢文化などの先進的な文化を吸収することに長けており、民族の融和と文化交流を提唱していたが、孝文帝拓跋珪のように、開拓的で創造的な精神を持った人物によって国が運営されたことも大きかったものと思われる。
 「平城」という地名が「大同」に変わったのが後の時代であったにせよ、過去(北魏時代)の闊達な民族の融和と文化交流を想起してつけられたのだろう。
 あるいは、モンゴル族や女真族等の異民族が漢民族の中華を統一しようとしたときに改名されたのかも知れない。
 「民族の融和(または協和)や文化交流」と言う言葉は侵入民族が被侵入民族を同和させるのに都合の良いスローガンで、近代では倭族(大和民族)という侵入民族が主に満州において、被侵入民族の漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族、さらにはロシア民族をも交えて、「民族協和」、「無我至純」、「挺身赴難」のスローガンを国家理念として統治を試みている。
 その理念を実現する人材養成機関の名称が「大同学院」となっていることは、「大同」という名が「国家統治」との関係で象徴的な言葉として地名や学校につけられた良い例であろう。
 今日の日本では企業名として多く使われていることは興味深いことである。

(五)仏教の伝播(廃仏稀釈と再興)

 于闐(うてん)に発祥した華厳経がどの様に中国を伝播し、日本に伝来したか。邪推してみる。
 仏教は漢代に中国に伝播、民衆の間に広まるようになったのは五胡時代と言われている。これに寄与したのが、西域出身の仏図澄で、胡族出身の君主の支持を得て、仏教を広めただけではなく、軍政にも参加して信頼を得た。
 しかし日本に仏教が伝来した時の曽我氏(受け入れ派)と物部氏(拒絶派)との争いと同じように、儒家による排斥にあった。外国人である胡族君主からの庇護は受けやすく、この時代山西東南部に拠っていて西域胡の要素が色濃く含まれている羯族君主の石氏の庇護を受け、漢人の出家を公認した。
 仏図澄は、華北各地に八百九十三の仏寺を建立し戦乱に苦しむ民衆の帰依を得た。しかしながら、北魏時代になると、北魏開国の皇帝達はいずれも道教と仏教を共に信奉していたが、統治者たちの奨励のもと仏教寺院が建立され、僧侶の急増や、兵器や財物の隠諾が進み、国家の軍事的拡充を妨げるほどになった。
 さらに仏教と道教の対立が激化するに及んで、太武帝の時(446年)、ついに中国史上初めての、「廃仏」が行われ、「土木の宮塔は声教の及ぶところ、畢く毀たれざるもの莫し」という詔を出して、仏法を壊滅させた。
 次の文成帝の時に仏法を復活させ、以前に増して仏教は発展した。そして、復興のシンボルとして武周山に雲崗石窟寺院を造営したのだった。
 一方、興福寺に関しての「廃仏毀釈にたいする僧侶達の対応のしかた」である。司馬遼太郎の「奈良散歩」には、「溌剌とした精神からは程遠い」、伝説だがとことわった上で、「・・・仏像たちの魂ぬきをしておいてからたたき割って薪にして、風呂を焚いて「ホトケ風呂だ」と言って喜んだという。・・・・」と紹介されている。同じ「廃仏毀釈」であっても、僧侶の対応には大きな隔たりを感じる。
 ところで、四世紀初めの中国は五胡十六国時代であった。五胡とはモンゴル系異民族の匈奴、羯、鮮卑、およびチベット系の羌、氐で、漢民族からみたら異民族であるこれらの民族は、それまで漢民族の中心的居住地であった華北に移住定着するようになっていた。
 大同は、かつては平城という名の北魏の都であった。五胡十六国を統一し北魏王朝を建てたのは、鮮卑族の拓跋氏で四世紀後半のことだった。三代目の世祖太武帝のとき華北を統一し、以来北魏は種々の文化政策を施したが、とりわけ仏教政策はめまぐるしく変遷した。
 北魏最初の道武帝は沙門法果を道人統という官に任命して仏教教団に率いさせ、法果は「太祖は・・・・・当今の如来なり。沙門よろしく礼を尽くすべし」と述べた。即ち、仏教は王権に依存して広まったが、慧遠という江南の僧は、「僧侶は塵外の人」と主張し、仏法の政治権力からの独立を護った。
 しかしこの様な仏教に対し、中国伝統の儒学を学んだ士大夫が反感を持ち、太武帝の政治を担当した崔浩もその一人で、道教の教義を改修し、太武帝を熱心な道教信者に導いた寇謙之と結んで、仏教の排撃を企て、廃仏の詔を勝ち得た。
 即ち、太武帝の廃仏令であった。ところが、熱心な仏教信者であった胡族の反撃を受けることになった。廃仏の詔が出て数年後に、崔浩も寇謙之も死に、高宗文成帝即位の年、仏教復興の詔が出された。そして国家仏教の色彩を強めて行く。
 雲崗石窟の彫仏はその顕著な出来事と言える。その中の五屈の大仏(雲曜5窟と呼ばれる第16〜20窟)は、北魏開国以来の五人の皇帝にかたどられており、まさに国家仏教の本質を如実に現している。そして、石窟は高祖孝文帝の時の洛陽遷都後、洛陽郊外の龍門石窟に継承されることになる。

つづく







2008/11/04 21:18:40|旅日記
大同・北京の旅 (3)北魏時代
                         大同・北京の旅

(三)北魏時代

 先ず分かったことは、この地は北魏の時代にはその首都で「平城」という地名であった。「北魏」という国名は、これまで中国を旅していて、度々耳や目にする名であった。
 中学、高校時代に学習した世界史、東洋史では中国の歴代の国家を<A>、殷、周、<B>、秦、漢-三国時代、<C>、隋、唐、<D>、宋、遼、金、元、明、清、と受験用に記憶していたが<A>と<B>に相当する時代、または国家の名前がいつになっても覚えられない。
 その後、宮城谷昌光による中国春秋戦国を扱った小説を読むにつれて、殷が商とも呼ばれたこと、<A>として夏という国家があったらしいことが分かった。
 また、金庸の武侠小説の時代背景として金、元、明、清が取り上げられ漢民族と異民族、特にモンゴルとの鬩ぎ合いが描写されていることから、その時代の雰囲気が多少分かっていた気になっていた。
 しかし、<C>と<D>については馴染みが薄く、これまで読んだ、「十八史略」、「史記」には触れられてもいず、またこの時代の中国の歴史を扱った小説も目に触れたことはなかった。
 しかし、最近中国を訪問し、仏教寺院や石窟寺院を訪れると「北魏時代」、「五代時代」という名称が目に飛び込んでくることが多くなり、これらが<C>と<D>に対応することが少しずつ分かってきたところだった。ところが、北魏というのが、中国のどのあたりに位置していた国家ということを知る機会がなかった。
 北魏は五胡十六国時代に続く南北朝時代の北朝となる国家であり、魏呉蜀三国時代と隋時代に挟まれた時代に栄えた国である。 五胡とはモンゴル族の匈奴、鮮卑、羯、チベット族の氐、羌の五国家であり、中国華北の地に五胡諸民族国家の興亡が繰り広げられた。
 このうち、匈奴は後漢時代に分裂し、北匈奴と南匈奴になり、後者は漢の援助を受けて、内モンゴル、陝西、山西、河北に分布した。そして、その後次第に南下して漢民族と雑居したが、特に山西中部に多くが定着したとのことである。
 これらの異民族が離合集散するうちに鮮卑族の拓跋氏が、最初に「代」を建国した(386年)後、国号を「魏」と改めた。
 これが北魏である。
 国の統治と中原への進出を目的に、398年に、もともと遊牧民族である五胡と漢民族とは生活様式が異なり、北魏はそれらを共に統治する必要があり、「代」時代の都、盛楽から平城(今の大同)に遷した。

つづく