槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/04/29 1:04:32|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」                6. 4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)

6. 4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)

 ガンジス河の日の出を観るということで、日の出前(5:00前)にホテルを出て、車で、目的地に向かった。ファイブ・スター・クラブ社の旅程表には、「早朝、ボートに乗り、ガンガの沐浴風景観光」とあるそのガンガが目的地なのであろう。

 ブログ「釈迦の生涯を訪ねて」の表現を使わせてもらうと、「ガンジス河(ガンガ)は、インドで最も聖なる河で、全ヒンドゥー世界の神聖な水の源流で、母なる女神として崇められています。ヒンドゥー教徒が等しく信じている玉条のひとつに「ガンガの聖なる水で沐浴すれば、あらゆる罪業は清められて消滅し、ヴァーラースィーで死んで遺灰を流せば、苦しい輪廻から解脱することができる」があり、年間百万人を超す巡礼者の中には、この地で死ぬことのみを目的とする人も珍しくありません。」となる。

 ここは沐浴をする人たちだけでなく、死者を荼毘に伏す場(火葬場)があったり、河に遺灰だけでなく遺体そのものが流れてくることもある、と聞いていただけに、薄気味悪い印象があった。しかし、ガンジス河の川べりに出た時、その意識は無くなり、むしろ,何故か、厳粛な気持ちになれた。

 まだ、日の出前で、就寝中の橙色の袈裟を身に着けた俗界とは無縁そうなヒンズー教徒とおもわれる人の姿(写真4.28-1-1、時刻:5:13)を目にしたためかも知れない。川面にはボートが沢山浮かび、岸に係留されている。日の出とともに川の上から日の出を拝む人たちが載るボートだ。自分たちも勿論同じだ。

 岸辺の高台の方は、まだ街燈が点いていて、ヒンズー教の守護神シヴァ神の絵(写真4.28-1-2、時刻:5:13)を照らしていた。シヴァの姿が人間的に描かれる時には、皮膚の色は青黒い色で、三日月の髪飾りをした髪の毛は長く頭の上に巻いてあり、裸に短い腰巻だけを纏った苦行者の姿で、片手に先が3つに分かれた鉾を持っている。ここにその絵がある理由は分からない。

 また横に長い階段(ガート)があったが、ここで宗教的な儀式を催行する時の観覧席となるのだろう。ガートはこの一帯に80箇所以上もあるが、なんという名前かは分からなかった。

 河の方に目を遣ると、薪を一杯に載せたボートよりは大きな舟が移動している(写真4.28-1-3、時刻:5:13)。恐らく、火葬に使う薪であろう。火葬は日が出てから行うのだろう。まだ煙はどこからも上がっていない。火葬は後で分かるのだが、薪の上に遺体を乗せ薪を燃やす、という単純なやり方のようである。

 日の出はまだだが空は白けてきたので、日の出観賞用のボートに乗り込むことにした(写真4.28-1-4、時刻:5:22)。ガイドは日の出の時刻を知っているに違いない。あらかじめ手配していたのだろう。手際良くボートに乗れた。

 カメラをズーム・アップして河岸の向こうにそびえ立つ建造物を映してみると、レストラン・サンライズと英文字でかかれた建物が見えた。そういえば、日の出観覧用のホテルやレストランという感じであった(写真4.28-1-5、時刻:5:29)。

 間もなく、待ちに待った日の出(写真4.28-1-6、時刻:5:30)である。それから、約30分の間、太陽が昇りゆくさまを見続けた(写真4.28-1-6〜4.28-1-15)が、空の色や水面の色が刻々と変わり見飽きなかった。

 多くの観光ボートが思い思いに場所取りをして、あちらこちらから、間断なくシャッターを切る音がする。とても神秘的な光景だが、ここがガンジス河の聖なる沐浴場所であったり、河岸での火葬場であったりする以外にも、この様な神秘的な光景を醸し出す科学的な根拠があるはず、とついつい考え込んでしまう。デジカメの写真は2次元平面的だが、実際にその場にいる環境は3次元立体的である。首を回せば全く異なる光景があり、その異なる光景も同じ時間軸上で推移している。

 その様にして河岸を眺めていて目に留まったのが、ヒンズー教かジャイナ教の集会所らしき建物で、その屋根上には、小さな4つの祠と、その中に納まっている異なる神々?が鎮座している姿である(写真4.28-1-16)。神々は、いずれも両手に何かをささげ持ち、上半身は皆同じ姿勢をしていて、両側にヤギ?を侍らしたり、人または位の低い神を従えている。

 そして、いずれもヤギ?に跨って座っている。そしてこれら祠が並んだ脇には、牛を従え、左手にアヒル?を手にした神?が屋根の上に腰をおろしている。この神はいかにもインド人風であり、恐らく土地神であろう。腹が出ていて恰幅が良いので、弥勒菩薩の前身神かも知れないという、全く根拠の無い妄想を抱いた。

 ヒンズー教は信者の数では、キリスト教、イスラム教に次いで多い。仏教はどうしたかというと、始祖である釈迦は、ヒンズー教の三大神の一つであるヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。

 インド憲法25条には、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。そういうことであれば、仏教徒よりもヒンズー教徒の方が圧倒的に信者の数が多くなるのも当然である。

 ヒンズー教の三大神というのは、世界維持の神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗るヴィシュヌ神、創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディンのシヴァ神、そして、世界創造の神、水鳥ハンサに乗った老人の姿で表されるブラフマー神である。三大神いずれも化身や分身を持つ。

 仏教で吉祥天と称されるラクシュミーは、釈迦と同様、ヴィシュヌ神の化身であり、仏教で、大黒天と称されるマハーカーラは、シヴァ神の化身、弁財天と称されるサラスヴァティーは、ブラフマー神(梵天)の神妃である。

 更に、歓喜天(聖天)は、シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司るガネーシャ、仏教では帝釈天と称されるインドラなど、仏教で〇〇天と称される仏は、殆どヒンズー教の三大神やその神妃、および、それらの分身、化身、更には。3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神などに対応している。

 また、身体の大きさを自由に変えられ、外見が猿で、ヴィシュヌ神の化身であるラーマを助ける孫悟空の元になったと考えられるハヌマーンもヒンズー神の一員であるが、これに対応する仏教の〇〇天は聞いたことはない。

 〇〇天と言うように、“天”の文字のつく仏は、如来や菩薩と異なり、人に直接作用するのではなく、如来や菩薩の活動を助ける存在なのだそうだ。ヒンズ−教に於いて、ヴィシュヌ神の9番目の化身とされている釈迦の活動を邪魔する相手とは戦う必要もある。従って、〇〇天の元祖は多くの場合、鎧を身に着け、手には武器を持っている場合が多いのだろう。

 しかしながら、以上の情報だけでは、写真4.28-1-16に映った神々は相変わらず分からなかった。 

 日の出から約30分、この時刻になると、沐浴する人、ボートで日の出を拝んで戻ってきた人などで、ごった返しはじめている。沐浴する人はガートに佇み(写真4.28-1-20)。思い思いの装いで河に入ろうとしている(写真4.28-1-17)。写真に写っている一団は、まだ沐浴初心者かも。入水するのをためらっている様にも見える。男性は上半身裸だが女性はどうするのだろうか。
 
 少し目を転じると、こちらは沐浴の熟練者?と思われる高齢者(写真4.28-1-18)。さすが貫禄があり、ガンジス河に溶け込んでいる。

 そして、更に目を転じて、川面を見ると、河を行き交う欧米人観光客の乗ったボートが多数あった(写真4.28-1-19)。そして更に河岸の他の場所に目をやると、火葬の炎と煙が立ち込めている。そして、写真には写っていないが、近くに炎と煙の方に向かい合っていた一団があったことを記憶している。

 川面には、ガンジス河の魚を捕る漁船だろうか(写真4.28-1-21)、ボートにはカワウと思われる鳥がとまっていた。
少し前には、カワセミが同じ船の舳先に留まっているのが見られ、日本のカワセミと異なり、暑さのせいか、動きが緩慢に見えた。しかし、羽毛の色彩の鮮やかさは日本のカワセミに比べ優れている様に見えた。

 ガンジス河の日の出の次は、ペナレス市内観光で、道路沿いに歩きながら路店を主に観てまわった。変わった品物として目についたのは、直径5mm程度の樹の枝から切り取った長さ15cmほどの棒キレであった。ガイドのDeenaさんに聞いたら、「歯ブラシ」とのこと、確かに棒の片端はとんがっていて、歯と歯の間に残った歯垢を除去するのに使えるのかも知れない、と思った。

 そして、色鮮やかな海藻の様なものを売っている路店もあり(写真4.28-2-1)、高齢の夫人が店番をしているすぐ隣で、小学生くらいの男の子が店番をしていた。売っている品物の内容は同じであった。

 ガンジス河の日の出見学した観光客を目当てとしているのは明らかで、早朝なので、朝食も摂らずにやってきた人も多いに違いなく、直ぐ口に入れて食べることの出来るパンの様な食べ物を売っていた路店もあった。

 特に買うものも無く、その場を後にして、次の目的地ヴィシュヴァナート寺院に向かった。向かう途中の大通りで、これこそがインドという驚愕のシーンを移動車の中から目にできた。

 反対車線の向こう側から、次第に近づいてくる♪ドスンドスン♪というリズミカルな音がしてきたのだ。そして、間もなく、きらびやかな装いをした一団が低速で移動しているのである。Deenaさんに聞くと、結婚式パレードで、時折ある光景だそうだ。

 驚いたのは、何台かの車の列の後から、背に御者を載せた象が速足(時速20km程度)で、舗装通りを行進しているのであった。♪ドスンドスン♪という音の源がこれだったのである。ちょうど行き交う時には、音とともに大きな地響を体で感じることができた。そしてその後ろから、又数台のきらびやかに化粧した乗用車が続いていた。

 日本でこの様な光景があれば、一斉にTVや新聞のニュースになるのだが、ここインドでは日常の光景なのだろう。道端で見学する人も、シャッターを切っている人も見当たらなかった。道路に一服しているノラ牛がいないで良かった。
自分にとっては、滅多に観ることのできない貴重な光景で、興奮がなかなか覚めなかった。

 暫くすると、まるで林の中を通り抜けている感覚に陥る道路(写真4.28-2-2)を走っていることに気がついた。道路の両脇を歩行しているのは、いづれも片手に、本やノートを持っている学生風男女の若者であった。
 
 それもそのはず、目的地のヴィシュヴァナート寺院は、バラナシ・ヒンズー大学の広大な構内にあるのである。従って、寺院に向かう途中、寺院に近づくにつれて、大学へ登下校(時刻は現地時間午前7時なので、学内の移動?)する学生と行き交うことになったのだ。

 間もなく、車から降りて、正面の入り口門(写真4.28-2-3)に向かった。門は赤砂岩製で、正面の門の向こうに時計がその側胴にはめ込まれた塔が見えた。中を歩いていると豆袋をぶら下げた奇妙な樹木(写真4-28-2-4)を見つけた。日本では見たことがない樹木であった。

 更に奥に進むと、ヴィシュヴァナート寺院と思われる白い塔(写真4.28-2-5)が見えた。これまでイスラム寺院を多く見て来たが、それとは異なりミナレットもアーチ状ドームもない建造物で、何故かホッとする印象を与えてくれた。そして、立像(写真4.28-2-6)はこの大学の創立者と思われるが、石碑にはヒンズー語でのみ書かれていて、写真を拡大しても結局分からなかった。

 ここを見学し終わっても、現地時間で午前8時少し前で、この日の観光予定は以上で終わりあった。現地時間16:40ベナレス発の夜行列車に乗ることになっていて、大分時間的余裕があったので、宿泊ホテルに戻って、一休みすることになった。

 1時間ほどまどろんでから、部屋の前の踊り廊下から少し、外に出ることが出来たので、そこからガンジス河の方を眺めた。河岸に、人の姿はまばらであった(写真4.28-3-1)。

 インコがひっきりなしに河のほうからこちらの方へ飛び交ってくる。早朝に沐浴、日の出見学、礼拝に多くの人が集まった場所とは思えないほどであった(写真4.28-3-2、写真4.28-3-3)。

 一羽の色あざやかな鳥が飛んできて、近くの樹に留まった。朝船の舳先に留まり河の小魚を狙っていたカワセミであった。日本でもカワセミの写真が撮れたためしがない。こちらのカワセミはそれほど俊敏ではないので、撮れるかも知れないと思い最大にズームアップして、シャッターを切った。

 嘴の形、色、容姿いずれも、はっきりわかり、カワセミに間違いないが、羽毛の色が鮮やかすぎる青であった(写真4.28-3-4)。ズームアップするまでは分からなかったが、カワセミがとまっている樹には釣り糸が沢山絡まっていた。おそらく巣作りの為にくわえて来た釣り糸が樹に絡まったのだろう(写真4.28-3-5)。

 昼食は、ホテルの近くの屋外ですることになった。木製のステージの上にテーブルが置いてあり、四方が網で囲まれていた。猿がいて食べ物が失敬されるのを防ぐためだろう。

 もう一人見知らぬ日本人客、自分と同じくらいの年恰好の人がいて、話しかけてきた。新宿で薬局を経営していて、一年中海外旅行しているのだそうだ。ここが気に入って、何度もここに来ているのだそうだ。網のそとでは、猿が数匹こちらをうかがっていた。結局ここでの昼食は何を食べたか全く思いだせなかった。

 暫くして、ガイドさんが迎えに来て、ホテルを後にして、途中相棒の若者と合流してベナレス駅に向かった。この駅での待ち時間は長かった。待合室は、冷房が入っている様だが、殆ど、ききめがなく、蒸し暑い。こういう環境にいて、イライラするのはどこの国も同じ、近くのベンチで夫婦喧嘩が始まった。ヒンズー語であるので、全く話の内容が分からないが、食べ物のことで言い争っている様なのと、奥さん側の方が口調(剣幕)が強いことは分かった。待合室の壁面にはコンセントが備えてあり、ビジネスマン風の人たちが間断なくスマホやノートPCの充電をおこなっている。

 大分待った様に記憶しているが、予定の列車に乗り込んだ。ガイドに切符(写真4.28-4-1)を見せてもらったが、ヒンズー語で書かれていて、数字以外、観ても何が書かれているのか分からなかった。右下には、DEP28-04 16:40-ARR 29-04 05:45とあるので、ベナレス16:40発、4/29 5:45アグラ着なのだろう。単純計算では計12時間少しの車中の旅であった。車外はまだ明るく、田園風景が車窓に映った。ムービーと静止画とを交互に撮った(写真4.28-4-2〜写真4.28-4-6)。

 この車中旅では、ガイドのDeenaさんから身の上話を聞かされた。彼は高校時代に医学の道に進むことを志していたが、父親が急逝し、教育資金を融通できず医大進学を諦めた、という話であり、今でも医学の道を志す気持ちは残っている、という話であったが、後々の彼の言動から推測すると、お情け頂戴して、支援金を乞うための演技としか受け取りようがないのだった。

 ただし、その時は本当に気の毒で可哀そうな身の上だと思ったことは確かであった。車内での夕食は、カレー弁当と言おうか、正直言って、あまりおいしいものではなかった。
4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)の稿 完








2016/04/23 21:48:05|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」(その5:4/27(土)ペナレス ガンジス河(その1)

5. 4/27(土)ペナレス ガンジス河(その1)

 4/26(金)の19:10デリー発の寝台特急に乗車の予定であった。駅にはとにかく人が多い。ガイドに付きしたがって、駅陸橋を渡り、やっと目的のプラットホームに降り立った。

 驚いたのはホームには、”のら犬”ならぬ“のら牛”が寝そべって微動もしないのである。ホームには屋根があり、直射日光を遮ることが出来るということを知った牛が人の往来を憚ることなくホームにのし上がり、しばしの涼をとっているのだろう。

 列車の中は、コンパートメントに配置された二段ベッドが向かい合っている。また、それと廊下を隔てて走行方向に沿って、ベッドが一つ配置していた

 相棒の若者は異なる車両に席(ベッド)が確保されていたようだが、大きなベッドだったので、しばらく同じベッドでおしゃべりをしながら時を過ごした。列車が動き始めてしばらくして、夕食が運ばれてきた。味は殆ど覚えていなかったがカレーライスの様な料理だった。

 列車の中は冷房が効き、深夜になると、少し寒さを感じるほどであった。昼間の疲れが有り、少しは眠れたようだった。列車は駅でもないところで、時々停車する。とても特急とは思えない。

 案の定、ペナレスの停車駅ムガー・サライ駅(写真4.27-1-1)についたのは、予定の6:30に遅れること、4時間近くのAM10:20頃であった。それでも乗客の誰一人文句がましい顔をしている人はいなかった。これぞインドなのだろう。

 駅舎は真っ赤に塗られ、ケバケバしい。暑い国の人は赤、青、黄、緑といった純色系の色を好むと聞くが、駅舎まで、純色、しかも赤とは驚いてしまったが、インド人にとっては、ごく普通のことなのだろう。

 ホームを出ると、その地での移動車の運転手らしきが、待っていた。この人も4時間近く到着を待ち続けていたのだろう。

 駅の近くで目にはいったのは、果物を売っている屋台であった(写真4.27-1-2、写真4.27-1-3、写真4.27-1-4)。どの屋台も同じようなものを売っていて、その主役はマンゴー系、とウリ系で、スイカは見られなかった。

 しばらくゆくと、枝にたわわに赤い花をつけた大きな樹が目にはいった(写真4.27-1-5)。幹の伸び方は桜に似ていて、その後もみる機会が多かったので、インドを代表するシンボル的な花樹なのかも知れない。

 日本では見られない樹であることは確かである。花の名をガイドに聞いたが覚えていない。夜行列車の乗り疲れと酷暑でグロッキー気味だったので、観光地の歴史を知ろうという好奇心がやや影を潜めていたのだろう。

 最初に見学した建造物は、当初PMの観光予定だったガンジス河を見下ろすラームナガル砦であった。降車駅のムガー・サライ駅(写真4.27-1-1)と同様赤色だった(写真4.27-2-1)。

 中は、博物館になっていて、マハラジャ(英国植民地時代の諸侯)が使っていた車とか、剣とか、いろいろ展示してあるという話だったが、ここは、建物の内部には入らず、建物の外回りを眺めただけであった(写真4.27-2-2、写真4.27-2-3、写真4.27-2-4)。

 ちなみに当時のマハラジャは英国の植民地統治の代理役を務めていたので、莫大な財をなすことができ、城みたいな砦を気づいたり、贅沢な調度品、車などを買い集めた者が出た。歩行路と庭園の境目には緑色の杭とそれにつながった鎖があった。

 更に進むと、ガンジス河に突き出たような、見晴らし台にも観望台にもなりそうなタラップ(写真4.27-2-5)があり、その傍で川風にあたり、気持ち良さそうに休んでいるインド人観光客家族がいた。カメラを向けたら、一斉にこちらを向いてくれ、微笑んでくれた(写真4.27-2-6)。あまりにもタイミングが良かったので、ここの所属の“ほほえみ隊”と思ったほどであった。

 タラップにはアーチ状ドーム(写真4.27-2-7)も見られ、イスラム教信者の便宜が図られているのであろう。再び緑色の杭のある広場(写真4.27-2-8)に戻り砦門から外へ出た。

 砦外には、果物を売る屋台(写真4.27-2-9)があった。この屋台で売り物の果物の積み上げかたに感心した。専門用語を使うと、“六方細密充填”状に積み上げられているのだ。

 果物が、ほぼ球形をして、かつその径がほぼ揃っていることが条件なのだが、その条件がきれいに満たすように積み上げられている。一介の果物売りが、売ることよりも、“六方細密充填”状に積み上げることの方にご執心の様であり、見せびらかしている様にも見えた。

 最も痛みが無く、おいしそうな果物が積み上げの下の方にあっても、それを取り上げたら、崩れ落ち、落下して転がり散ってしまうので、だれでも積み上げられた秩序を守るために充填の天辺にある品物を取り上げるであろう。これこそ一般市民のインド模様と言うのだろう。

 午前中の観光を終え、ひとまずその夜の宿泊予定のホテルで一休みすることになった。ガンジス河河畔にある「パレス・オン・ステップ」であった。

 高台にあるホテルであり、車道で移動車を降り、ホテルに至るまでが大変であった。犬や牛の糞が細い通路に落ちていて、踏んだら大変。し尿の匂いもプンプン、野良犬、野良牛が道端に平気で横たわっているのである。不潔極まりない。

 犬に噛まれない様に、蚊に刺されないように、注意をしながら、また汗を拭き拭き、クネクネした坂道をガイドの案内で、登ってゆく。

 路の両側には民家が並んでいて、ところどころに生活用品や土産物を売る店もある。きっと、この路は生活道路なのであろう。

 間もなく、目指すホテル「パレス・オン・ステップ」に到着した。中に入ると冷房が効いてきて、別天地である。時刻は現地時間で、13:30で最も暑い時間帯である。

 寝台特急の疲れもあるということで、暫く休憩することになった。相棒の若者は別のホテルをキープしたらしく、移動車は自分たちが降りてから、そのホテルに向かっている。

 部屋は居間と寝室の二部屋からなり(写真4.27-3-1)、トイレ(写真4.27-3-2、シャワー室(写真4.27-3-3)も清潔そうである。室内に蚊もいない。これだったら安心して寝られる。

 窓からのガンジス河を臨んだ眺望も素晴らしい。ズームアップを最大(×40)にして、ガンジス河と対岸の様子を写真に収めた。(写真4.27-3-4)、(写真4.27-3-5)。ズームアップを最大にして、ガンジス河と対岸の様子を写真に収めた。

 1時間ほどうたた寝をして、再度、ガンジス河と対岸の様子を写真に収めた。テントを張り河水浴をしている人たちが見えた(写真4.27-3-6)。対岸側の方が人が少なく、水がきれいなのだろう。

 間もなく午後の部のスタートである。ガイドのDeenaさんが迎えに来た。また不潔感極まりない通路を降りて行き、車が行き交う道路まで行くと、相棒の若者が乗った移動車がやってきた。それに乗車し、向かった先は、AM中に観光する予定だった仏教の聖地サルナート(ダメーク大塔とムルガンダ・クティ寺院であった。

 この日のメインイベントはガンジス河、という固定観念が強すぎ、サルナート観光こそ、今回のインド旅行で、唯一釈迦が足跡を残した地として知られている地なのだから、大きな関心をもって観光すべきだったのだ。

 サルナートは「ベナレスの北方約10kmに位置する。釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる。初転法輪(釈迦が初めて仏教の教義(法輪)を人びとに説いた出来事を指す。)の地。

 仏教の四大聖地のひとつ。鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも表される。」とWikipediaに紹介されている。“鹿野苑”の“鹿”と“苑”の字を使って命名された日本の寺こそ、足利義光によって創建された鹿苑寺、即ち金閣寺である。

 先ず、ダメーク大塔である。現地時間の16:30頃に着いた。遺跡公園になっていて、その入り口に園内の案内図(写真4.27-4-1)があった。

 入ってすぐ右手に僧院があり、その奥隣にジャイナ教寺院があり、更に少し歩いたところにダメーク大塔(写真4.27-4-2)があることになっている。

 (株)トラベル・サライのHP「仏跡巡拝の旅」には、「ダメーク大塔と僧院跡について、「サルナートは遺跡公園として整備されていて、その中心となるのが広さ約一万六千坪の広さを持つサルナート僧院跡である。

 僧院跡には9世紀頃に建立されたとするサルナート寺院の跡や紀元前3世紀に建立され、その後2回に亘って拡張された跡を見ることができる仏塔跡、そして、多くの奉献仏塔が並ぶ参道などが発掘されており、当時の様子を窺い知ることができる。」と紹介している。

 更に、「遺跡の南東角に位置する高さ34mのダメーク大塔は印象的。ダメーク大塔(写真4.27-4-2)は5世紀に栄えたグプタ王朝時代の大仏塔だとされ、この地でお釈迦様が五人の修行仲間に初めて説法をされた場所。」と紹介している。

 時折現れるレンガ塀は表面に金箔が貼られていた形跡があり(写真4.27-4-5、写真4.27-4-8)、また、レンガに複雑な模様が彫られているものもあった(写真4.27-4-4)。蔓草模様が多い様だが、何を意味しているか不明である。

 次の観光予定のムルガンダ・クティ寺院は、何故か、ガイドの裁量で省略されてしまった。ダメーク大塔、ムルガンダ・クティ寺院とも時間をたっぷり使ってガイドしてもらいたかった。日本の旅行代理店と、現地ガイドとの連携の悪さが暴露された感じである。       
 4/27(土)ペナレス ガンジス河(その1)の項  完







2016/04/23 20:39:04|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」(その4:4/26(金)PM ニュー・デリー見学)

4.4/26(金)PM ニュー・デリー見学

 昼食として、タンドリ―。チキンを食したあと、午後の観光の最初は、ニューデリー地区にあるフマユーン廟である。

 途中インド門を遠望した後、観光したこの廟(墓所)は、「ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの墓所であり、フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃で信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーグム(ハージー・ベーグム)は、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令した。時代は、アクバル大帝治世の前半にあたっていた。」とWikipediaに紹介されている。

 更には、「霊廟は上下の二層構造をとっており、東西南北の四面それぞれは同じ立面(ファサード)をもっている。」、「それぞれのファサード(正面)は、赤色の砂岩に白色の大理石を組み合わせて幾何学的な文様が華やかにデザインされている(写真4.26-4-1)。ここではまた、象嵌の手法も採り入れられている。」、「墓廟には、すべて合わせると計150人の死者が埋葬されている。」

 フマーユーン、王妃ベーグム、王子ダーラー・シコー、そして、重きをなしたムガル朝の宮廷人たちの遺体である。」、「ここの建築様式は、第5代皇帝シャー・ジャハーンが第一王妃ムムターズ・マハルのためにアーグラに建てた墓廟「タージ・マハル」では再び採用されることとなった。…。インドの歴史において、フマーユーン廟は、奇しくもムガル帝国終焉の舞台となった。」と、Wikipediaは詳細に紹介している。

 ジャーマ・マスジットにあったマスジデ・ジャハーン・ヌマーを迂闊にもタージマハールの小型版と言っても良いほど威風堂々としたモスクであり、美しい。と表現してしまったが、このフマユーン廟はその上をゆく威風と美しさであった。また、風通しと採光を良くするためか、複雑な模様の格子窓アラベスク(写真4.26-4-2、写真4.26-4-3、写真4.26-4-9)が多く配設され、その格子模様から規則性を見出すのが難しいが、規則性が無いわけではない。

 アラベスクについて、Wikipediaは「アラベスク(arabesque)は、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派のイスラム的世界観に基づいている(シーア派ではムハンマドを除いて描くことは認められている)。ムスリムにとってこれらの文様は、可視的物質世界を超えて広がる無限のパターンを構成している。イスラム世界の多くの人々にとって、これらの文様はまさに無限の(したがって遍在する)、唯一神アラー(イスラムで言う無明時代では「アラート」という女神)の創造のありのままを象徴する。さらに言うなら、イスラムのアラベスク芸術家は、キリスト教美術の主要な技法であるイコンを用いずに、明確な精神性を表現しているとも言えよう。」と紹介している。

 これを嵌め込む枠が直線だけからなる場合は良いが曲線の場合はどうするのであろう。写真4.26-4-2、写真4.26-4-3、写真4.26-4-9の枠の様に曲線を含む場合、曲線近傍のメッシュを小さくするのだろうか、思わず有限要素法のメッシュサイズ設定を思い出してしまった。

 霊廟周囲の庭園は、ペルシア的なチャハルバーグ(四分庭園)(写真4.26-4-4)となっている。「四分庭園とは、四面同等の意匠をもち、4つの区画に分けられた正方形の庭園であり、庭園には水路や園路が格子状に走向して中形ないし小形の正方形をつくり、それぞれの交点には小空間や露壇、池泉などが設けられている。」とWikipediaに紹介されている。

 廟側から、遠望すると、赤砂岩の外回廊とアラベスク模様の欄干、そして、その向こうには、庭園、そして更に遠望すると、白いモスクが見えた(写真4.26-4-5)。

 霊廟は、赤砂岩色と白のツー・トーン・カラーがここの建造物の色彩となっているが、外壁側は赤砂岩色を下地として、その上に白で模様を配したようになっている(写真4.26-4-6)のに対し、内壁側は、逆に白地に赤砂岩色で模様を配した様に見える(写真4.26-4-7)。

 霊廟となる建造物の庭園に向いた壁面には、アーチ状の天井をもつアーケード(イーワーン)が配置され、それが出入り口になっていない場合は、アラベスク模様の格子が嵌められている。霊廟は墓所となっていて床には大理石製の石棺(写真4.26-4-8)が置かれている。ただし、これは模棺であり、本棺は地下にあるのだそうだ。フマユーン本人ではなく、前記した一族か、重臣の棺かも知れない。

 霊廟外の庭園に奇妙な樹木(写真4.26-4-10)があるのに気が付いた。葉が全く付いていず、枝はギザギザに伸びているが、枯れている様子でもない。とにかくその樹は、そこにだけ植えられていてほかのどこにも同じ様な樹は見えなかった、そして霊廟である建造物に似合っていた。

 そして、霊廟から少し離れて、木々の間から霊廟の写真(写真4.26-4-11)を撮ったが、これらの木々の一方は楷の樹、他方は紫色の花をつけた見たことのない樹であった。

 楷の樹は日本では稀にしか見ることが出来ない樹で、東京では、お茶の水にある孔子を祀った湯島聖堂、大宰府天満宮、滋賀佐々貴神社、角館にあることが知られ、特に角館の楷の樹には、「これが北限」と表示されていたのを記憶している。中国では山東省曲阜にある孔子廟の山道両側にあることが知ら有れているがそれほどポピュラーではないようだ。霊廟に似合う樹なのだろうか。

 再度、フマユーン廟の全景を写真(写真4.26-4-12)に収めたが、アーチ状ドームが大中小がることに改めて気がついた。大:1基、中:4基(内2基は隠れている)、小:8基(内4基は隠れている)が、まるでフマユーンを中心に、子、孫が囲み護衛をしているようにも見えた。

 そしてこの日最後に訪問したのが、クトゥブ・ミナーレで当初の予定に対しフマユーン廟見学と順序が入れ替わっている。先ず最初に目に映ったのは、巨大な円柱状をした塔であり、最初に見たのは西方に向かって撮ったためか、写真は逆光で撮れてしまい、黒い影となっている(写真4.26-5-1)。反対側の東側に向かって順光で撮ると、見事な凹凸の輪郭を持った赤砂岩色の塔が鮮明に見えた(写真4.26-5-2)。

 高さが72.5mあり、世界で最も高いミナレットであるそうだが、写真に写っている人の小ささから、いかに巨大なミナレットかがわかる。「これでも地震や落雷などで先端が崩れた後に修復してあり、当初は100mほどの高さがあったという。直径は、基底部14.3mに対して先端部2.75mであり、文字どおりの尖塔である。」とWikipediaに紹介されていて、また、「1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。」とも紹介されている。

 ミナレットは通常モスクの付属物として偶数個建造されるが、ここに見えるのは1本だけであった(この後の見学で、2本建造しようとしていたことが分かったのだが=写真4.26-5-17)。

 これだけ巨大だと、主はミナレット(尖塔)で、周りのモスクを含んだ建造物が付属物(写真4.26-5-2)として見えてしまう。ミナレットは1日に5度行われる礼拝の呼びかけ(アザーン)の場となるほか、要人の死を知らせるためにも使われていた。」とのことである。更にはモスクの入り口がどこにあるかを遠方から分かる様にする為でもあったらしい。

 外壁模様の複雑さと、近くで見れば見るほど複雑な模様が、新たな模様として浮かび上がってくる(写真4.26-5-3、写真4.26-5-4)
しかし、これほど巨大にする必要がるのかと疑問に思ってしまう。むしろ建設者の威容を誇示するためではないかと思ってしまう。礼拝に訪れた信者がこの威容を見て恐縮し、建設者(王)への従順を確かなものにさせる、という狙いがあったのではないかと思ってしまう。

 更に遠ざかってこのミナレットを見上げると、大きな建造物の、アーチ状の天井をもつアーケード(イーワーン)で筒抜けタイプが現れ、その筒抜け部にミナレットがすっぽりおさまる構図に出会い、写真を撮った(写真4.26-5-5)。またアーケードの天井部分が崩れ落ちたところにミナレットが収まった構図もあった(写真4.26-5-6)。

 この様なアーケードを、その一部として残した巨大モスク址が眼前に現れた(写真4.26-5-7)。楷の樹の向こう側に、まるで、起源前に建設され、長期に亘る風食によってレンガの表面が丸みを帯びた廃墟の様な建造物であった(写真4.26-5-8)。

 これら崩れ落ちた廃墟の様な建造物にあって、特徴的なのは、崩れ落ちないで元の構造で残っているのは、殆どがアーケードの部分(写真4.26-5-9)である。その部分に用いている建材が、隣接した建材の面同志が隙間なくピッタリ接触して、面同志の接触圧が高く、重力方向の力に対して耐荷重が大きい、半円筒構造をしている為であろう(写真4.26-5-10)。

 この巨大ミナレットを眺める方向によって、さまざまな建造物が重なって見えるのだ(写真4.26-5-11、写真4.26-5-12)。また巨大ミナレットを視野に入れずアーケード部分が連結して残っている建造物残骸を逆光で撮ると面白い構図の写真が撮れた(写真4.26-5-13)。

 更に周囲の建造物として配置している石づくりの回廊の柱と柱の間に巨大ミナレットを嵌め込んだアングル(写真4.26-5-14)や、石柱とのツー・ショット(写真4.26-5-15)や櫂の樹とのツー・ショット(写真4.26-5-16)の写真を撮った。

 次に巨大ミナレットとは異なる方向に目を移すと、巨大な円筒形をした凱側面がザラザラした感じの高さは無い建造物(写真4.26-5-17)が目に入った。側壁に貫通穴が開いているので円筒形をしているのが分かるのだ。これが何であるか、後日ウェブで調べて分かったのだが、一対のミナレットにするために、後で建造しはじめたミナレットの未完成の構造物であることが分かった。

 この建造物のことを、Wikipediaは「クトゥブ・ミナールから北に150mほど離れた場所に、未完のミナレットであるアライ・ミナールがある(写真4.26-5-18)。財政難で工事が中断し、現在は直径25mの巨大な基底部を見ることができる。完成していればクトゥブ・ミナールを超え、100mを大きく超える塔になっていたとされる。」と紹介されている。クトゥブ・ミナールの基底部が直径14.3mなので、これより75%も大きい。

 そして、最後に出口近くに来ると、遺跡群の配置図が置かれていた(写真4.26-5-18)。ということは、こちらが、遺跡群への入り口かも知れないと思えるようになってきた。そこに咲いていた濃いピンク色したブーゲンビリアの花が咲き誇っていた(写真4.26-5-19)。実に遺跡らしい遺跡であり、東南アジアとは異なる中央アジアの香りがする遺跡であった。
   4/26(金)PM ニュー・デリー見学 の項 完







2016/04/23 19:54:00|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」(その3.4/26(金)AM オールド・デリー見学

3. 4/26(金)AM オールド・デリー見学

 朝起きて、部屋のベッド廻り(写真4.26-1-1)と、トイレ、洗面台等水回りの写真(写真4.26-1-2)を撮った。部屋は冷房が効き快適な一夜だったが、冷房用の電源ボックスの様な装置(写真4.26-1-3)が部屋の隅にデンと据えられているが、温度調整の制御盤が見当たらない。

 暫くして朝食(写真4.26-1-4)をルームサービスで持ってきた。チップの手渡しが面倒だ。トースト、サラダ、コーヒー(ポットごと)ヨーグルト(写真4.26-1-4)で、日本での普段の朝食と変わらない。サラダ、フルーツは十分洗浄されているか分からないので要注意、ということを食べ終わってから思いだした。

 ガイドと待ち合わせの時間になったので、階下に降りてゆく途中、ホテルの従業員らしきが、部屋の鍵を預かるというので、迂闊にも渡してしまった。ガイドにその話をしたら、血相を変えてその鍵を取り返しに行った。幸いにも鍵が取り戻せたが、旅行中は性悪説で臨まないといけないということを胆に命じた。

 専用車で移動するのだが、もう一人ツアー同行者がいるとのガイドの説明。顔を合わせてみると、まだ30歳前後の青年男子である。車の中で互いに自己紹介。彼は日大芸術学部のOBで、現在はテニス・スクールのインストラクターの仕事をしていて、前日までネパール観光をしてきたとのこと。若いのと、スポーツすることが仕事なのでタフなのであろう。

 車は、移動をはじめ、車窓からはボチボチと朝のインドの街並みがうかがえる。最初に印象的に映ったのは“リキシャ”と呼ばれる人力車であった。自転車に、足置き台のついた二輪車が接続されただけのリキシャ(写真4.26-1-5)、更に陽射しよけの幌付きのリキシャ、色も様々であるが、原色に近い(写真4.26-1-6)。少し行くとバス通りに緑色のバスが発車したばかりのバス停(写真4.26-1-7)が目に入った。

 専用車で移動中、窓外に目をやると。気になるのは街路樹や道路脇の植栽である。中国旅行では大体分かるようになったが、インドで最初に目に映った街路樹は豆がぶら下がった樹木で、初めて見た木であった(写真4.26-1-8)。

 一般に、枝にぶら下がった、まだ青く鞘袋付きの豆は、枯れて、落下して、鞘袋が裂けて、中の豆が弾けだして種になるというのが、四季による変化であるが、殆ど年間を通して暑いこの地ではどうなるのかという疑問が湧いたが、ガイドに尋ねても分からないだろうと思い疑念を閉じた。

 そして、ホテルを出発して10分程経っただろうか、右手に、いかにも観光地と言えそうな建造物(写真4.26-1-9)が見えてきた。レッド・フォートである。

 さて、その前に簡単な前置きである。
北インドの主要観光地を表すのに、“インドのトライアングル”という表現があり。デリー、アグラ、ジャイプールの三地点を結ぶとそうなるからだ。初日はデリー見学だ。

 デリーは、北部にあるオールドデリーと南部にあるニューデリーと言う様に新旧のデリーに分かれている。この日の午前中はオールド・デリーにあるジャーマ・マスジット、チャンドニー・チョーク通り、レッド・フォート城、ラージ・ガードを見学し、午後は、インド門から、フマユーン廟、クトゥブ・ミナーレを見学する予定になっている。旅行会社から配布されたパンフレットには以上の順に見学コースが組まれていたが、実際にはガイドの裁量で、見学順序は多少変更されるものだ。

 先ずは、世界遺産レッド・フォート城である。(写真4.26-2-1)。Wikipediaには、「ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラから遷都し、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバード (Shahjahanabad) における居城として築いた。1639年から9年をかけて1648年に完成。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。」とある。

 更に補足すると、赤砂岩の赤は鉄イオンの色であり。鉄イオンの存在により、強固な建材となる。古代文明の発祥の地の多くは赤れんがが建造物の建材として使われることが多いが、材料に鉄イオンが含まれて赤色を帯びていることが共通している。

 ラールキラー(ヒンズー語で“赤い城”)とかデリー城と呼ばれることもある。西側にある正門の“ラホール門” (写真4.26-2-1)の色は赤茶色であり、ラホール門以外の城郭をなす建造物は皆赤茶色である(写真4.26-2-2〜写真4.26-2-5)。そして、塔の上空ではトンビが旋回しているのが見えた(写真4.26-2-5)。

 また、この城の中には種々の建造物があり、純白の建物ばかりである。これは、1857年のインド大反乱(第一次インド独立戦争)のとき、イギリスはこの建造物を軍の駐屯地として接収した。兵舎が建設されるなど、城内は大きく造り替えられたことの名残りが多少なりともあるからかも知れない。

 ラホール門に通じる道路(チャンドニー・チョウク)は庶民の広場であり、マーケットを兼ねている(写真4.26-2-6〜写真4.26-2-7)。リスまで参加しているのには驚いた(写真4.26-2-8)。マーケットでの落下物や残余品をあてに住んでいる小動物の代表者か。カラスよりは、はるかにましだ。

 次いで、いくつかの建造物を見学(写真4.26-2-9〜写真4.26-2-14)して次の目的地。ジャーマ・マスジットへ向かった。途中中学生ぐらいの観光団体(写真4.26-2-14)にすれ違った。引率の女性の先生以外は皆白いシャツと白いトレパン姿で20人ほどの団体であった。オールド・デリーは若い時からインドのナショナリズムを肌で感じさせるにちょうど良い地域なのであろう。将来、この中からインドを代表する著名人が出てくるかも知れない。
生徒達の眼は輝いているように見えた。

(写真4.26-2-16)ジャーマ・マスジットに向かう途中、またチャンドニー・チョウク(写真4.26-2-15)を歩いた。まだAM11時前であり、予想したほどの賑わいにはなっていなかったが、野菜、果物を路上で販売しているところを数か所で目にした。果物は、リンゴ、ウリ、ブドウ、マンゴー(写真4.26-2-16)等が、野菜は、カボチャ、キウリ、トウモロコシ、大根(?)等(写真4.26-2-17)で。キャベツ、レタス等の葉っぱ系は販売されてなかった(写真4.26-2-17)。

 次の訪問先、ジャーマ・マスジットは、いわゆる“金曜モスク”であり、イスラム教徒の礼拝場所である。インド最大のイスラム教寺院と言うだけあって、スケールは半端ではない大きさ。フルに見学すると、その都度高額拝観料や、案内人に高額チップを要求されるというので、建物の入り口から内部を見上げるだけという見学のしかたをした。

 「正式にはマスジデ・ジャハーン・ヌマー、つまり「世界を見渡す(ことができるほど大きな)モスク」という名称である」とWikipediaに紹介されている。

 また、建造物配置を、以下の様に紹介している。「モスクの中庭部分へは、かつて王族専用の入場口だった正面の東側、および東西の両側面にある門から入ることができる。各門には赤砂岩の大きな踊り階段がそびえており、それぞれ北側39段、南側33段、東側35段である。 これら階段部分はかつて屋台や大道芸人のスペースともなっていた。」

 正面入場門(写真4.26-3-1)から中庭に入ると、広大な広場に敷物が規則正しく並べられていて、一部はテントが張られ陽射しを避ける様になっている(写真4.26-3-2)。各建造物の配置に関してWikipediaには更に詳しく、「各辺の中央部分にはそびえ立つような形の入場門が設置されている。

 長さ約80メートル、幅約27メートルあり、屋根部分には白と黒の大理石で覆われた3つのドーム(写真4.26-3-4)を冠し、さらにドームの各頂上部分には黄金が用いられている。その両翼部分には高さ41メートルのミナレットが2棟あり、内部には130段の階段がある」と紹介されている。この建物(写真4.26-3-3)は正面入場門から入場して左手にある(写真4.26-3-8)。

この建造物(写真4.26-3-3)は、タージマハールの小型版と言っても良いほど威風堂々としたモスクであり、美しい。これに向かい合う様に信者は座り拝礼する。建物の中にも拝礼する空間があり、その天蓋(写真4.26-3-9)は、傘の様な凹球面をしていて、その中心から、シャンデリアが吊るされていた。この下に座するのは信者のうち位の高い人だろう。
 そして敷物が敷かれた位置から離れた中庭では、ハトが地面をつついていた(写真4.26-3-10)。

 この中庭を囲む様に回廊があり、回廊に上がり、回廊の外側を見下ろすと、人波溢れ、マーケットが群がるチャンドニー・チョウク(写真4.26-3-7)が見えた。
 
 そして、次にAM中最後の訪問地ラージ・ガートを目指した。ここは、1948年、暗殺されたインド独立運動の指導者ガンジーが火葬された場所であり、黒い大理石が安置されているところである(写真4.26-3-11、写真4.26-3-12)。

 ガンジーと言えば、映画「ガンジー」が「ET」と競ってアカデミー賞を受賞したことを思い出す。今から40年以上も前のことだが、両映画とも観る機会があっただけに、どちらが受賞するか興味深々であった。人道主義か、娯楽主義か、これでアメリカ人の素性が分かると思っていて、結果として映画「ガンジー」が受賞し、なんとなく安心したことを覚えている。そのガンジーが、不幸にも暗殺された場所であり、荼毘に付された場所である。
   4/26(金)AM オールド・デリー見学の項 完

  







2016/04/23 19:30:12|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」(その2.4/25(木)渡航(往き)
2. 4/25(木)渡航(往き)(写真なし)

 エアー・インディア 成田発AI307便(11:30発)に対し、集合時刻が9:30で、無理すれば当日自宅から出かけることも可能だったが、不意の鉄道トラブルがあった場合のことも配慮し、成田空港近くのホテル日航成田に前泊し、渡航日には余裕をもって搭乗できる様にした。空港の指定の集合場所に集合したのは、予想通り、自分一人だった。

 現地時間で16:55にデリー空港へ着いた。時差が3.5時間あるので、8時間55分のフライトであった。入国手続きをした後、荷物は機内持ち込みをしたリュック一つだったので、空港到着ロビーに直接向かうと、肌が茶色のいかにもインド人といった感じの青年が自分の名前が記載されたプラカードを捧げ持っていた。

 現地日本語スルーガイドのDeena Nath Guptaさんであった。年齢は30台前半といった感じであった。”Nath”はRaman Nathというインド出身の音響エレクトロニクスで有名、“Gupta”はChandra Gupta といったインドの歴史上の人物の名ということで、記憶に残っていたので、親近感を抱くことが出来た。旅行メモに、ガイドの自筆の名前の下に、Raman Nathと筆者の字で書いてあるので、「この人達の名前を知っているか?」と訪ねてみたのだろう。その答えが「インド人には、Nath、やGuptaがついている場合は多い。」との答えであったことを記憶している。

 空港の建屋内は冷房が効いているのでまだマシだったが、一歩建屋からでると、うだる様な暑さで、熱気に包まれ、頭がボーっとするのである。専用車でホテルへ直行した。ホテルに着くとすぐにポーターが半ば強制的に荷物を運ぼうとする。チップ狙いであることはすぐに分かった。案内された部屋は冷房がガンガン効いていて一息つけたが、これだと毎日強烈なヒート・サイクルの洗礼を受けることになり、体調維持に注意が必要だ。
  4/25(木)渡航(往き)の稿 完