6. 4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)
ガンジス河の日の出を観るということで、日の出前(5:00前)にホテルを出て、車で、目的地に向かった。ファイブ・スター・クラブ社の旅程表には、「早朝、ボートに乗り、ガンガの沐浴風景観光」とあるそのガンガが目的地なのであろう。
ブログ「釈迦の生涯を訪ねて」の表現を使わせてもらうと、「ガンジス河(ガンガ)は、インドで最も聖なる河で、全ヒンドゥー世界の神聖な水の源流で、母なる女神として崇められています。ヒンドゥー教徒が等しく信じている玉条のひとつに「ガンガの聖なる水で沐浴すれば、あらゆる罪業は清められて消滅し、ヴァーラースィーで死んで遺灰を流せば、苦しい輪廻から解脱することができる」があり、年間百万人を超す巡礼者の中には、この地で死ぬことのみを目的とする人も珍しくありません。」となる。
ここは沐浴をする人たちだけでなく、死者を荼毘に伏す場(火葬場)があったり、河に遺灰だけでなく遺体そのものが流れてくることもある、と聞いていただけに、薄気味悪い印象があった。しかし、ガンジス河の川べりに出た時、その意識は無くなり、むしろ,何故か、厳粛な気持ちになれた。
まだ、日の出前で、就寝中の橙色の袈裟を身に着けた俗界とは無縁そうなヒンズー教徒とおもわれる人の姿(写真4.28-1-1、時刻:5:13)を目にしたためかも知れない。川面にはボートが沢山浮かび、岸に係留されている。日の出とともに川の上から日の出を拝む人たちが載るボートだ。自分たちも勿論同じだ。
岸辺の高台の方は、まだ街燈が点いていて、ヒンズー教の守護神シヴァ神の絵(写真4.28-1-2、時刻:5:13)を照らしていた。シヴァの姿が人間的に描かれる時には、皮膚の色は青黒い色で、三日月の髪飾りをした髪の毛は長く頭の上に巻いてあり、裸に短い腰巻だけを纏った苦行者の姿で、片手に先が3つに分かれた鉾を持っている。ここにその絵がある理由は分からない。
また横に長い階段(ガート)があったが、ここで宗教的な儀式を催行する時の観覧席となるのだろう。ガートはこの一帯に80箇所以上もあるが、なんという名前かは分からなかった。
河の方に目を遣ると、薪を一杯に載せたボートよりは大きな舟が移動している(写真4.28-1-3、時刻:5:13)。恐らく、火葬に使う薪であろう。火葬は日が出てから行うのだろう。まだ煙はどこからも上がっていない。火葬は後で分かるのだが、薪の上に遺体を乗せ薪を燃やす、という単純なやり方のようである。
日の出はまだだが空は白けてきたので、日の出観賞用のボートに乗り込むことにした(写真4.28-1-4、時刻:5:22)。ガイドは日の出の時刻を知っているに違いない。あらかじめ手配していたのだろう。手際良くボートに乗れた。
カメラをズーム・アップして河岸の向こうにそびえ立つ建造物を映してみると、レストラン・サンライズと英文字でかかれた建物が見えた。そういえば、日の出観覧用のホテルやレストランという感じであった(写真4.28-1-5、時刻:5:29)。
間もなく、待ちに待った日の出(写真4.28-1-6、時刻:5:30)である。それから、約30分の間、太陽が昇りゆくさまを見続けた(写真4.28-1-6〜4.28-1-15)が、空の色や水面の色が刻々と変わり見飽きなかった。
多くの観光ボートが思い思いに場所取りをして、あちらこちらから、間断なくシャッターを切る音がする。とても神秘的な光景だが、ここがガンジス河の聖なる沐浴場所であったり、河岸での火葬場であったりする以外にも、この様な神秘的な光景を醸し出す科学的な根拠があるはず、とついつい考え込んでしまう。デジカメの写真は2次元平面的だが、実際にその場にいる環境は3次元立体的である。首を回せば全く異なる光景があり、その異なる光景も同じ時間軸上で推移している。
その様にして河岸を眺めていて目に留まったのが、ヒンズー教かジャイナ教の集会所らしき建物で、その屋根上には、小さな4つの祠と、その中に納まっている異なる神々?が鎮座している姿である(写真4.28-1-16)。神々は、いずれも両手に何かをささげ持ち、上半身は皆同じ姿勢をしていて、両側にヤギ?を侍らしたり、人または位の低い神を従えている。
そして、いずれもヤギ?に跨って座っている。そしてこれら祠が並んだ脇には、牛を従え、左手にアヒル?を手にした神?が屋根の上に腰をおろしている。この神はいかにもインド人風であり、恐らく土地神であろう。腹が出ていて恰幅が良いので、弥勒菩薩の前身神かも知れないという、全く根拠の無い妄想を抱いた。
ヒンズー教は信者の数では、キリスト教、イスラム教に次いで多い。仏教はどうしたかというと、始祖である釈迦は、ヒンズー教の三大神の一つであるヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。
インド憲法25条には、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。そういうことであれば、仏教徒よりもヒンズー教徒の方が圧倒的に信者の数が多くなるのも当然である。
ヒンズー教の三大神というのは、世界維持の神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗るヴィシュヌ神、創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディンのシヴァ神、そして、世界創造の神、水鳥ハンサに乗った老人の姿で表されるブラフマー神である。三大神いずれも化身や分身を持つ。
仏教で吉祥天と称されるラクシュミーは、釈迦と同様、ヴィシュヌ神の化身であり、仏教で、大黒天と称されるマハーカーラは、シヴァ神の化身、弁財天と称されるサラスヴァティーは、ブラフマー神(梵天)の神妃である。
更に、歓喜天(聖天)は、シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司るガネーシャ、仏教では帝釈天と称されるインドラなど、仏教で〇〇天と称される仏は、殆どヒンズー教の三大神やその神妃、および、それらの分身、化身、更には。3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神などに対応している。
また、身体の大きさを自由に変えられ、外見が猿で、ヴィシュヌ神の化身であるラーマを助ける孫悟空の元になったと考えられるハヌマーンもヒンズー神の一員であるが、これに対応する仏教の〇〇天は聞いたことはない。
〇〇天と言うように、“天”の文字のつく仏は、如来や菩薩と異なり、人に直接作用するのではなく、如来や菩薩の活動を助ける存在なのだそうだ。ヒンズ−教に於いて、ヴィシュヌ神の9番目の化身とされている釈迦の活動を邪魔する相手とは戦う必要もある。従って、〇〇天の元祖は多くの場合、鎧を身に着け、手には武器を持っている場合が多いのだろう。
しかしながら、以上の情報だけでは、写真4.28-1-16に映った神々は相変わらず分からなかった。
日の出から約30分、この時刻になると、沐浴する人、ボートで日の出を拝んで戻ってきた人などで、ごった返しはじめている。沐浴する人はガートに佇み(写真4.28-1-20)。思い思いの装いで河に入ろうとしている(写真4.28-1-17)。写真に写っている一団は、まだ沐浴初心者かも。入水するのをためらっている様にも見える。男性は上半身裸だが女性はどうするのだろうか。 少し目を転じると、こちらは沐浴の熟練者?と思われる高齢者(写真4.28-1-18)。さすが貫禄があり、ガンジス河に溶け込んでいる。
そして、更に目を転じて、川面を見ると、河を行き交う欧米人観光客の乗ったボートが多数あった(写真4.28-1-19)。そして更に河岸の他の場所に目をやると、火葬の炎と煙が立ち込めている。そして、写真には写っていないが、近くに炎と煙の方に向かい合っていた一団があったことを記憶している。
川面には、ガンジス河の魚を捕る漁船だろうか(写真4.28-1-21)、ボートにはカワウと思われる鳥がとまっていた。 少し前には、カワセミが同じ船の舳先に留まっているのが見られ、日本のカワセミと異なり、暑さのせいか、動きが緩慢に見えた。しかし、羽毛の色彩の鮮やかさは日本のカワセミに比べ優れている様に見えた。
ガンジス河の日の出の次は、ペナレス市内観光で、道路沿いに歩きながら路店を主に観てまわった。変わった品物として目についたのは、直径5mm程度の樹の枝から切り取った長さ15cmほどの棒キレであった。ガイドのDeenaさんに聞いたら、「歯ブラシ」とのこと、確かに棒の片端はとんがっていて、歯と歯の間に残った歯垢を除去するのに使えるのかも知れない、と思った。
そして、色鮮やかな海藻の様なものを売っている路店もあり(写真4.28-2-1)、高齢の夫人が店番をしているすぐ隣で、小学生くらいの男の子が店番をしていた。売っている品物の内容は同じであった。
ガンジス河の日の出見学した観光客を目当てとしているのは明らかで、早朝なので、朝食も摂らずにやってきた人も多いに違いなく、直ぐ口に入れて食べることの出来るパンの様な食べ物を売っていた路店もあった。
特に買うものも無く、その場を後にして、次の目的地ヴィシュヴァナート寺院に向かった。向かう途中の大通りで、これこそがインドという驚愕のシーンを移動車の中から目にできた。
反対車線の向こう側から、次第に近づいてくる♪ドスンドスン♪というリズミカルな音がしてきたのだ。そして、間もなく、きらびやかな装いをした一団が低速で移動しているのである。Deenaさんに聞くと、結婚式パレードで、時折ある光景だそうだ。
驚いたのは、何台かの車の列の後から、背に御者を載せた象が速足(時速20km程度)で、舗装通りを行進しているのであった。♪ドスンドスン♪という音の源がこれだったのである。ちょうど行き交う時には、音とともに大きな地響を体で感じることができた。そしてその後ろから、又数台のきらびやかに化粧した乗用車が続いていた。
日本でこの様な光景があれば、一斉にTVや新聞のニュースになるのだが、ここインドでは日常の光景なのだろう。道端で見学する人も、シャッターを切っている人も見当たらなかった。道路に一服しているノラ牛がいないで良かった。 自分にとっては、滅多に観ることのできない貴重な光景で、興奮がなかなか覚めなかった。
暫くすると、まるで林の中を通り抜けている感覚に陥る道路(写真4.28-2-2)を走っていることに気がついた。道路の両脇を歩行しているのは、いづれも片手に、本やノートを持っている学生風男女の若者であった。 それもそのはず、目的地のヴィシュヴァナート寺院は、バラナシ・ヒンズー大学の広大な構内にあるのである。従って、寺院に向かう途中、寺院に近づくにつれて、大学へ登下校(時刻は現地時間午前7時なので、学内の移動?)する学生と行き交うことになったのだ。
間もなく、車から降りて、正面の入り口門(写真4.28-2-3)に向かった。門は赤砂岩製で、正面の門の向こうに時計がその側胴にはめ込まれた塔が見えた。中を歩いていると豆袋をぶら下げた奇妙な樹木(写真4-28-2-4)を見つけた。日本では見たことがない樹木であった。
更に奥に進むと、ヴィシュヴァナート寺院と思われる白い塔(写真4.28-2-5)が見えた。これまでイスラム寺院を多く見て来たが、それとは異なりミナレットもアーチ状ドームもない建造物で、何故かホッとする印象を与えてくれた。そして、立像(写真4.28-2-6)はこの大学の創立者と思われるが、石碑にはヒンズー語でのみ書かれていて、写真を拡大しても結局分からなかった。
ここを見学し終わっても、現地時間で午前8時少し前で、この日の観光予定は以上で終わりあった。現地時間16:40ベナレス発の夜行列車に乗ることになっていて、大分時間的余裕があったので、宿泊ホテルに戻って、一休みすることになった。
1時間ほどまどろんでから、部屋の前の踊り廊下から少し、外に出ることが出来たので、そこからガンジス河の方を眺めた。河岸に、人の姿はまばらであった(写真4.28-3-1)。
インコがひっきりなしに河のほうからこちらの方へ飛び交ってくる。早朝に沐浴、日の出見学、礼拝に多くの人が集まった場所とは思えないほどであった(写真4.28-3-2、写真4.28-3-3)。
一羽の色あざやかな鳥が飛んできて、近くの樹に留まった。朝船の舳先に留まり河の小魚を狙っていたカワセミであった。日本でもカワセミの写真が撮れたためしがない。こちらのカワセミはそれほど俊敏ではないので、撮れるかも知れないと思い最大にズームアップして、シャッターを切った。
嘴の形、色、容姿いずれも、はっきりわかり、カワセミに間違いないが、羽毛の色が鮮やかすぎる青であった(写真4.28-3-4)。ズームアップするまでは分からなかったが、カワセミがとまっている樹には釣り糸が沢山絡まっていた。おそらく巣作りの為にくわえて来た釣り糸が樹に絡まったのだろう(写真4.28-3-5)。
昼食は、ホテルの近くの屋外ですることになった。木製のステージの上にテーブルが置いてあり、四方が網で囲まれていた。猿がいて食べ物が失敬されるのを防ぐためだろう。
もう一人見知らぬ日本人客、自分と同じくらいの年恰好の人がいて、話しかけてきた。新宿で薬局を経営していて、一年中海外旅行しているのだそうだ。ここが気に入って、何度もここに来ているのだそうだ。網のそとでは、猿が数匹こちらをうかがっていた。結局ここでの昼食は何を食べたか全く思いだせなかった。
暫くして、ガイドさんが迎えに来て、ホテルを後にして、途中相棒の若者と合流してベナレス駅に向かった。この駅での待ち時間は長かった。待合室は、冷房が入っている様だが、殆ど、ききめがなく、蒸し暑い。こういう環境にいて、イライラするのはどこの国も同じ、近くのベンチで夫婦喧嘩が始まった。ヒンズー語であるので、全く話の内容が分からないが、食べ物のことで言い争っている様なのと、奥さん側の方が口調(剣幕)が強いことは分かった。待合室の壁面にはコンセントが備えてあり、ビジネスマン風の人たちが間断なくスマホやノートPCの充電をおこなっている。
大分待った様に記憶しているが、予定の列車に乗り込んだ。ガイドに切符(写真4.28-4-1)を見せてもらったが、ヒンズー語で書かれていて、数字以外、観ても何が書かれているのか分からなかった。右下には、DEP28-04 16:40-ARR 29-04 05:45とあるので、ベナレス16:40発、4/29 5:45アグラ着なのだろう。単純計算では計12時間少しの車中の旅であった。車外はまだ明るく、田園風景が車窓に映った。ムービーと静止画とを交互に撮った(写真4.28-4-2〜写真4.28-4-6)。
この車中旅では、ガイドのDeenaさんから身の上話を聞かされた。彼は高校時代に医学の道に進むことを志していたが、父親が急逝し、教育資金を融通できず医大進学を諦めた、という話であり、今でも医学の道を志す気持ちは残っている、という話であったが、後々の彼の言動から推測すると、お情け頂戴して、支援金を乞うための演技としか受け取りようがないのだった。
ただし、その時は本当に気の毒で可哀そうな身の上だと思ったことは確かであった。車内での夕食は、カレー弁当と言おうか、正直言って、あまりおいしいものではなかった。 4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)の稿 完
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