槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/06/09 0:22:21|旅日記
龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29) D1、5月24日西溪天堂、花市場 

3. 龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29)D1、5月24日 NH929、東京成田10:10−杭州12:50到着、杭州空港へ迎え
     泊:杭州西溪天堂布鲁克酒店
     住所:杭州市紫金港路21番

 前泊先の日航ホテル成田に夜21時30分頃到着した頃は、部屋の窓から満月がくっきり見える(写真5.23-1-1)ほどの好天で、翌日からの杭州の悪天候の天気予報は信じられないほどであった。このホテルは最近の前泊の定宿となっている。最近通い始めた陶芸教室から帰宅し、夕刻、食事前に、出発しているので、夕食はホテル内のコンビニで購入した弁当であった。前泊、コンビニ弁当による夕食、翌朝の朝食(おにぎり、菓子パン+牛乳)は毎度のコースとなっている。

 翌5/24(火)は、ホテルからの6:50発のシャトルバスに乗り、第二ターミナル経由で第一ターミナルへ向かう。おりしも先進7か国首脳会議(G7)の開催期間にあたるので、いつものバス内でのパスポートチェックは、いつもより厳しいのではないかと予測したが、チェックそのものが無かった。

 第一ターミナル到着後、すぐやることは、現地で使用可能なWiFiルータの借用だった。いつもなら「テレコムスクエア」での借用のつもりだったが、ウェブ事前借用登録時に、割安感のあるワイホー・ネットに申し込みをしてしまった為、QLライナーというコーナーでの借用となり、対応も笑顔がなく、あまり感じの良いものではなかった。ちなみに、借用代は、あんしん保険料、モバイル・バッテリー借用料込みで、6日間で、6,396円(税込み)だったが、以上の両者(計2,692円:課税前)は不要なので、3,264円(課税前)で済ませばよかったのだ。それよりも、ノートPCを持参しないことにすれば、この金額も不要で、バッグ内のスペースも重量も軽くなり、良いことばかりなのだ。次回はそうしよう。

 成田発10:10のNH929便(座席18K)に乗り込み、約3時間の空の旅を経て杭州空港に予定の約30分前に到着した。機内食は糖尿病食(写真5.24-1-1)で、それほどうまくはなかった。糖尿病食を予約している人は、座席シートの背もたれ部に目印となるシールを貼り、配食する客室乗務員に目立つようにする。すると周囲の座席の人からは奇異の目でみられることになる。

 久しぶりに早起きをしたので、居眠りをしているところへ差し出されたので、暫し気がつかなく、客室乗務員に迷惑をかけたかも知れない。食事後再び居眠りをしているうちに、着陸30分前のアナウンスがあった。雲間を抜けて高度を下げていってるので、杭州は雨か、良くて曇りだろうことが分かった。

 先ほどのアナウンスで、予定より30分ほど前に着陸したようだ。いつもの様に、入国手続きをして、最後に安全チェックをして、到着ロビーに至ると、今回もスルーガイドを務めてくれるお馴染み駱暁蘇さんが笑顔で手を振って迎えてくれた。

 現地でのD1が始まった。雨は降っていない。今回は、D2で良緒遺跡を観光する予定になっていたので、そこに比較的近い、西湖の北西にある商業施設“西溪天堂”内にある杭州西溪天堂布鲁克酒店を目指し、駱さん運転の自家用車三菱パジェロで向かった。途中そのパジェロの窓越しに駱さんのご主人の張さんが勤務している杭州市の市役所(写真5.24-1-2)が見えた。

 途中、「左折すると“古墩路”」という交通標識(写真5.24-1-4)に出会った。駱さん、張さんの住むマンションが面している道路である。前々回の中国旅行では、夕食の焼肉パーティまでの待機時間のひと時を彼らのマンションでくつろがせてもらったところだ。古墩路を挟んだ反対側に生鮮食料品スーパーがあり、旬の野菜、果物、鮮魚がどの様なものか見学させてもらっている。

 話を戻す。
 走行している道路の両側の建物には商店、民家を問わず、道路に面したところに足場となる櫓が延々とつながっている。駱さん曰く、「9月に先進20か国首脳会議G20が開催予定で、出席メンバーの移動に使われる道路に面したすべての建造物の一斉化粧直し工事をする。」のだそうだ。道路そのものも工事中の処があり、特に交差点近くの道路工事は運転者泣かせで、地元の駱さんも、途中で、間違えてしまった。

 事前に、D1の宿泊予定ホテル杭州西溪天堂布鲁克酒店(布鲁克はBrook(ブルーク))とその周囲の地図をwebで調べると、すぐ傍に天目山通りがあることに気づき、事前に駱さんに、あの有名な曜変天目の天目と関係ありか、という質問をしている。それに対し以下の返答をメールでもらっていた。

 質問2. 「D1宿泊ホテルの周辺地図を調べてみると、“天目山通り”という通りがあることに気がつきました。この「天目山」は、天目釉に関係していると推測していますが、このホテルの近傍に、窯があるのでしょうか?情報だけでも入手できないかと思いますが、可能でしょうか?」

 答え2:「天目山は杭州の西側、80キロ離れたところですが、宋の時代から窯で焼き物を作っていて、「天目茶碗」と言った、具体的な窯遺跡についての詳しい説明は有りません。今年の年末頃、天目山が属している臨安市の博物館が完成する予定であります。館内では天目窯による焼き物などが展示されることになると思います。」

 筆者からの質問(追加質問):「窯変天目(ようへんてんもく)という、世にも稀な陶磁器が世界に4個だけあり、そのうち3個が日本にあるのだそうです。それを誰も再現できていないことでも有名で、陶芸をやっている人にとっては、7不思議の一つなのです。今年の年末頃に、天目山が属している臨安市の博物館完成し、館内に焼き物「天目」が展示されるなら見学したいですね。今年の年末頃というのならば、11、12月ころに次回の中国観光を計画したくなりますね。また相談させて下さい。」

 その後、曜変天目の再現性については、「曜変天目は、岐阜県の研究所が研究され、再現できるようになったというTV番組を見たことがあります。10年くらい前のことでしょうか。」と、40年来の付き合いで窯業に詳しいT.T氏が教えてくれた。情報が氾濫するネット社会では、一か所からのみでは信頼性に欠けるのである。

 最終的な駱さんからの答え:「今後、調べてから相談させて下さい。」

 以上のやり取りを思い出し、駱さんに、以上の話題をメールではなく、会話で蒸し返してみた。それに対し、駱さん曰く、「今、通行しているこの通りが天目山通りです。」確かにその通り、道路標識(写真5.24-1-3)からそれが確認できた。

 そして、途中、「左折すると“古墩路”」という交通標識(写真5.24-1-4)に出会った。駱さん、張さんの住むマンションが面している道路である。前々回の中国旅行では、夕食の焼肉パーティまでの待機時間のひと時を彼らのマンションでくつろがせてもらったところだ。古墩路を挟んだ反対側に生鮮食料品スーパーがあり、旬の野菜、果物、鮮魚がどの様なものか見学させてもらっている

 途中G20対応の道路工事の為、駱さんも運転しにくいところがあったようだが、間もなくホテルに着いた。ホテル名は、“杭州西溪天堂布鲁克酒店”で、西溪湿地公園(写真4.24-2-1)という、観光地として将来性を見込んだ国内外資本が集中的に建設した商業(娯楽)センター(写真5.24-2-2)内にあった。

 そのホテルに現地時間14:00前後にチェックインした。パスポートを駱さんに渡すと、チェックインの手続き(写真5.24-1-5)全てを駱さんがやってくれるのだ。ロビー(写真5.24-1-6)は狭いが、清潔感とおちついた感じの雰囲気を受けた。

 30分ほど休んだあと、500m程離れたところにある花市場を見学することにした。駱さんは家庭菜園をしていて、時々自転車でここへ買い物に来ると言う。「西溪花市」(写真5.24-2-3)という花果樹園芸関連製品と、何故か金魚を売っている店(写真5.24-2-6)が集う市場(写真5.24-2-5)であり、販売している花種として多かったのは、ブーゲンビリア、蘭、サボテン類、バラ類が、果樹では、ビワ、山桃、ブルーベリー、リンゴ、ブドーなどが販売されていた。中にはサボテン専門店(写真5.24-2-7)もあった。

 果樹等の一連のカタログ/パンフレットをもらってみているうちに、日本で言う「紫陽花」は中国では「綉球(シュウキュウ)」ということが分かった。同じものを異なる言葉で表現するのは言語の異なる国同志では普通のことであるが、同じ言葉が異なるものを表す場合、誤解が生じやすい。特に同じ漢字を使う国同志の場合に混乱する。

 例えば“手紙”と書くと、日本語ではレターであるのに対し、中国語ではトイレット・ペーパを指す、また中国語で“柏”と書くものが、日本語では“檜”のことであり、柏とは異なる樹である。また、習近平氏が自分の奥方の彭麗媛さんを、「これは私の愛人」と日本人に紹介したらどうなるか、“妻”という意味の“愛人”が、日本では不倫の相手、ということになってしまい、「愛人を伴って公式の場に現れるとはなんと失礼な。」、となり、外交問題に発展する恐れが出てくる。彭麗媛さんが美貌、美声であるだけに、まともに愛人と受け取ってしまう日本人もいるかも知れない。

 中国人が、「これは柏である。」というのに対し、日本人が「いや、そうではなく檜である。」という双方のすれ違いが起きた場合、中国では神樹として、寺社や著名人の墳墓に植えられることの多い神聖な柏(日本語では檜)なので、それを否定されたら良い気分ではいられないであろう。日中間の政治的スレ違いの原因に、このような、言葉のスレ違いが無ければ良いが。

 さて、花市場を後にして、ホテルのある西溪天堂へ戻ることにした。紫金路は地下道(写真5.24-3-1)で渡る。振り返ってみると、高さが100mもなさそうな山(写真5.24-3-2)が見えた。駱さんに。「アレって古墳ですか?」と聞いたが。「杭州には、あのような、小高い山が沢山ある。」との返事だった。

 そして、西溪湿地へ続いていると思われる川(写真5.24-3-3)を渡る手前の道へ左折し、散策路を進む、途中、この季節(梅雨)には、日本でもよくお目にかかる黄色い金糸梅の花(写真5.24-3-4)を見て心をなごませた。金糸梅は紫陽花同様、梅雨に映える花と知られる中国が原産地の花である。また枝垂れ槐の樹(5.24-3-5)にも遭遇し、ボートを楽しむ人(写真5.24-3-6)、釣りを楽しむ人(写真5.24-3-7)など様々である。

 右折すると出会う橋を渡る。そこから見た川(写真5.24-3-8)は、まさに湿地行きを思わせる。橋を渡り終わると、「西溪国家湿地公園」・「中国湿地博物館」と書かれた案内板(写真5.24-4-1)が現れた。おそらく、ここが商業娯楽センター側から公園や博物館への入り口なのであろう。その傍に、「杭州西溪国家湿地公園全景図」と書かれた案内板(写真5.24-4-2)があり、よく見ると、中国語の他、英語、日本語、ハングル語の説明書きもあった。これから多くの海外観光客を呼び込もうとの算段であろう。

 自分たちは、逆に商業娯楽センター側へ、入ってゆくことになる。その証拠に屋外喫茶コーナー(写真5.24-4-3)が現れ、更に進むと北朝鮮レストラン(写真5.24-4-4)や、陶磁器を販売する“雅窯”という名の店舗(写真5.24-4-5)が現れた。陶磁器は青磁(写真5.24-4-6)がメインだった。棚に陳列しているのは青さが特徴の越州青磁(写真5.24-4-5)、テーブルに陳列されているのは黄緑色が特徴の龍泉青磁(写真5.24-4-6)欲しいと思ったが、龍泉では、はるかに安価に同等のものが手に入るに違いないと予想し、購入はやめた。ここの店員に、「(自分は)北朝鮮人か?」と聞かれたらしい。

 そして更に歩くと、麺類を扱うレストランがあったので、そこで夕食を摂ることにした。
客は殆ど居ず、閉店直前の雰囲気であった。今回の中国旅行グルメの目玉にしている雲吞と、白ごまをふりかけた焼パンをセット(写真5.24-4-7)で注文し、食べた。そして、翌朝の出発時刻を8:10と約束し、自分はホテルに、駱さんは自宅に戻った。

 尚、書きもらしたが、商業娯楽施設だけに、地下映画館街、フィットネス・クラブなど娯楽施設も通路から見学したが、設備は充実していて、休日には杭州市民で大賑わいすることが容易に想像できた。
     本稿 完  つづく







2016/06/01 23:32:46|旅日記
龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29) 1.プロローグ 及び 2.初期日程
龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29)

1.プロローグ 及び 2.初期日程

 龍泉青磁窯訪問のきっかけとなったのは、「親戚の知り合いに、龍泉で青磁窯をやっている人がいる。」との駱さんの“つぶやき”からはじまったことであった。

 これまで、中国観光で、南宋官窯(浙江省、駱さんのガイド)、唐三彩、汝窯、欽窯(河南省、牛路さんのガイド)、の地元を訪問し、本場の陶磁器を鑑賞して来た。中国観光をしていながらCHINA(陶磁器)に無関心でいられるわけがないのである。

 それだけではない。青磁は日本の陶磁器に大きな影響を及ぼしていて、日本の多くの窯が、そのルーツを辿ると、須恵器経由で中国の青磁につながる。

 例えば、日本六古窯の一つに数えられる岡山の備前焼、釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出される一つとして同じものがない模様が特徴で、そのルーツは須恵器と言われている。

 そして更に、須恵器の源流は、中国古代(殷代)に生まれた灰陶(かいとう)の系譜を継承する陶質土器で、その技法は朝鮮半島を経由して、おそらくは渡来人により、機織り、鉄製品などとともに日本に伝わったと思われる。

 灰陶とは中国、新石器時代から殷 (いん) 代に盛行した灰青色の土器なので、その意味では備前焼のルーツを大きく辿ると中国の新石器時代から殷 (いん) 代に遡るのである。

 一方、青磁(せいじ)とは、青磁釉を施した磁器(Porcelain)またはb器(Stoneware)のことで、殷の時代に遡る灰釉から発展したと言われている。即ち、備前焼も青磁もルーツは同じで、ともに灰陶ということになる。

 青磁と呼ぶことのできる釉が現れるのは、後漢〜西晋時代の江南地方であり、越州窯(浙江省)の青磁が有名である。

 宋が華北(白色や茶、褐色などの赤系色の磁器が主)を失陥し、青磁の産地だった江南へ中心が遷った南宋時代が最盛期で、耀州窯(陝西省)、南宋官窯(浙江省)や北宋後期官窯の汝窯(河南省)などが名窯として知られている。

 また、名窯程ではないが評判が高く生産量の多かった龍泉窯(浙江省)の物は秘色と呼ばれた。魏晋時代から明中期まで生産を続けているが、元以降は輸出用の容器に用いる大型製品が多くなり、良質の原料が枯渇し始める。

 著名な景徳鎮は宋代には主要な産地ではなかったが、青磁が好まれた元代以降隆盛となり、清代には磁器胎の青磁が生産されている

 更に、筆者の学術的専門は、材料科学であり、とりわけ電子部品に使われているエレクトロニック・セラミクスは、セラミクスの製造プロセス全般と、それらを応用した音響エレクトロニクス製品をそれらのトップ企業で研究開発を経験してきている。

 すでにこれらの企業を定年でリタイアし、10年を経た現在、エレクトロニクスからアートなセラミクスへと、興味の対象が移行するのも、似たような経歴を持つ親友M.M氏をみても頷けることである。と自分への言い訳を成り立たせてもいる。

 以上の様に、今回の中国旅行「龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29)」は、決して突発的なものではなく、これまでの中国旅行の自然の流れということが出来る。

 尚、今回の中国旅行のもう一つの目玉としていた良緒遺跡訪問は、工事中の為、良緒遺跡博物院が閉館中で院内見学は出来ず、周囲の公園散策のみに留まった。

 そのかわり、杭州西溪天堂、花市場(以上杭州市)、龍泉古鎮、源底古鎮、中国畲族の村、安仁の永和橋など、一般のツアー旅行では滅多にゆくことが出来ない観光地を訪れることが出来た。



2.初期日程(その時々の、天候、交通事情、体調、その他の理由により、急遽変更されることもあるので、初期とした。)

D1、5月24日NH929、東京成田10:10−杭州12:50到着、杭州空港へ迎え。                                  
   泊:杭州西溪天堂布鲁克酒店
   住所:杭州市紫金港路21番
   TEL:0571-85863333

D2、5月25日午前中良渚博物館を見学。午後高鉄G7591便(杭州東13:07発ー麗水14:43到着)、到着後専用車で龍泉へ1時間半ぐらいかかる。途中安仁鎮三百年歴史の永和橋を観光する。                                                               泊:龍泉大酒店
    住所:龍泉市新華街83番
    TEL:0578-7220168
       
D3、5月26日専用車で龍泉博物館、龍泉青磁博物館、龍泉宝剣博物館見学                            
     泊:龍泉大酒店
    住所:龍泉市新華街83番
    TEL:0578-7220168
                                    
D4 、5月27日専用車で四十分ぐらい小梅鎮へ龍泉青磁古窯遺跡を見学。見学後中国青磁小鎮へ観光、知合いの窯を見学。       
      泊:龍泉披雲青瓷主题酒店
    住所:龍泉市上垟鎮披雲青瓷文化园景区
    TEL:0578-7322000
                
D5、5月28日専用車で1時間ぐらい景寧県へ中国畲族の村を観光する。午後高鉄G7622便(麗水15:33発ー杭州東17:07到着)で杭州へ戻る。                           

     泊:杭州華僑飯店
     住所:杭州市湖濱路39番
     TEL:0571-87685555

D6、5月29日午前中自由行動、11時ごろ迎えに空港へNH930杭州13:40ー東京成田17:50
     帰国。

 本稿 終わり。 つづく








2016/05/11 23:25:46|その他
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」  10. 5/1(水)ジャイプール アンベール城、 帰国の途

10. 5/1(水)ジャイプール アンベール城、 帰国の途

 いよいよ、「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」の最終日である。

 この日の午前中は「象のタクシーに乗ってアンバー城見学」とファイブ・スター・クラブの旅行日程表に書いてあった観光である。なんとなく遊園地的なキャッチフレーズであり、子供じみている。できたら、その時間は休んでいたい、という気持ちが脳裏をかすめてしまった。

 しかし、相棒がいるので、そうもゆかず、予定通り、朝8時頃ホテルを出て目的地に向かった。そして、9時少し前に、アンバー城全貌(写真5.1-1-2)が見上げられるところ、即ちアンバー城がある小山のふもとあたり(写真5.1-1-1)に着いた。いかにも砦という感じであった。

 「アンベールは、ラージプート族のカチワーハ家の王国・アンベール王国の首都であった。ムガル帝国の第3代君主アクバル1世は、1562年にアンベール王の娘と結婚してアンベール王国と同盟したのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合して傘下に加えていった もともと城砦があった所に1592年から、ラージャ・マーン・シングによる大規模な築城が始められた。 1727年、アンベール王ジャイ・シング2世はアンベールから自らの名を冠したジャイプルへと遷都するまで、改築が続けられた。」とWikipediaに紹介されている。

 この、ジャイ・シング2世は前稿で、趣味の天文学が昂じて天文台を建造した、と紹介した人物である。地名ジャイプールの“ジャイ”はジャイ・シングの“ジャイ”なのだそうだ。

 山のふもとから、少し坂を上り、象のタクシーが待機している停留所(写真5.1-1-に至った。順番待ちの象を含めて4,5頭がたむろしていた。

 ここは緑豊かで、視線を回転させると白い花をつけた樹(写真5.1-1-4)が目に入った。しかし、山の上にある城は、荒涼とした砂漠に浮かんでいる様に見えた(写真5.1-1-3)。やがて、自分たちの順番が来て、象の背にくくりつけられたボックスに相棒の若者N君とガイドで、乗車ではなく乗象した。3名で200kgは有るだろう。「象さん、ご苦労さん」としか言いようがない。

 城門に至る通路には、隊列をなした5,6頭の象がグループをなし、いくつかのグループが延々と続いている。象の背に揺られながら、下の方を見下ろすと、水面に浮かぶ方丈庭園、ケサール・カイアリ・バーグ水上庭園の姿が目に飛び込んできた(写真5.1-1-5)。

 城門に近づくにつれて、アンベール城の輪郭がはっきり見える様になってきた(写真5.1-1-6)。城門は3つあり、第一と第二の城門の間の城壁の屋根上にはアーチ状丸屋根がいくつか載っている。山のふもとから見た時、最も高く見えた構造物である。更にその向こうの煙突の様なのが見えるところが、更に高いところにあるジャイガル城砦であり、宮殿とは、隠れた通路でつながっているそうである。

 象の背には、まず黄色で縁取りされた赤いシートが掛けられ、その上に人が載る箱が固定され、その箱の、前の象の首根っこのところに象の御者がのり、歩を早めさせたり、弱めさせたりしている(写真5.1-1-7)。時々、空の箱を載せた象とすれ違う。ということは帰りは徒歩か。

 チップを500ルピ-(日本円で約750円)渡した。相棒は持ち合わせが無かったのか、100ルピーを渡したら、足りないと言われた。チップ社会ではない日本人はチップ相場が分からず困ることが多い。中国旅行はその点有難い。

最初の城門をくぐったあたりで、下車、ではなく下象し、城門の中に入ってゆく。先ずは見晴らし台の様な場所(写真5.1-1-8)に案内された。山の麓から見て、最も高いところに見えた複数のアーチ状ドームが下方に見えるので、そこよりも高い位置にあることになる。

 ここは、見学した範囲ではアンベール“城”というよりは、確かにアンベール“宮殿”である。内装の装飾や、格子窓の模様の素晴らしさには圧倒される。内装の装飾や、格子窓の模様は名称がついているのだろうが、それが分からない。ただ分かることは、赤砂岩という建築材料が、加工しやすい材料で、しかも精細な加工に耐える材料だというこことである。

 しかし、注意してみると、ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)の屋根を支える支柱は全てが赤砂岩でなく、一部は白大理石のようでもある(写真5.1-2-1〜写真5.1-2-3)。大理石はカルシウムを40%含む石灰岩であり、加工しやすい材料である。

 屋上がベランダになっているところも複数あり、ベランダからの見晴らしも素晴らしく、かなりの遠望が出来た(写真5.1-2-4)。

 そして、ディワニ・アーム(一般謁見の間) のすぐ横にガネーシャ門(写真5.1-2-5)である。横にグリーンのベルト模様があるところが珍しいが、それが有っても、無くても博物館や美術館の構えに似た豪勢な構えであった。

 建築はムガール帝国のイスラム様式の影響を受けており、アラベスク模様や植物をモチーフとした装飾が一面に施されている。正面中央にガネーシャ神が描かれており、ヒンドゥー教とイスラム教の折衷様式になっている。ガネーシャ神は、インドでは現世利益をもたらす神とされ、非常に人気があるとのこと。

 「富の神様」として商人などから絶大な信仰を集めているのだそうだ。象の姿をしている。

 太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、事業開始と商業の神・学問の神とされる。

 天台宗・真言宗ではガネーシャを起源に持つ歓喜天(聖天)が天部の護法神として信仰される。なるほど、象のタクシーとここで接点をもつことになるのだろう。そして、再び、水面に浮かぶ方丈庭園、ケサール・カイアリ・バーグ水上庭園を見下ろした(写真5.1-2-6)。

 ガネーシャ門を入るとイスラム様式の中庭を囲むように建物が広がっている。大理石の柱が並ぶ廻廊を反時計回りに進むと、王の私室とその両側には王妃の部屋が並んでいる。王の私室の壁には独特なヒンドゥー系のラージプート様式とイスラム様式が融合した装飾が一面に施されている。

 そして、次は鏡の間(シーシュ・マハール)を見学(写真5.1- 3-1、写真5.1-3-2)。“鏡”というのは壁面に鏡(ガラス)の破片を埋め込んでいる状況(写真5.1-3-4)を言っているらしく、それがキラキラして美しい、ということらしい。

 日本の伝統工芸品の螺鈿が頭をかすめた。螺鈿(らでん)は、主に漆器や帯などの伝統工芸に用いられる装飾技法のひとつ。貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠層の部分を切り出した板状の素材を、漆地や木地の彫刻された表面にはめ込む手法であり、鏡の間(シーシュ・マハール)の鏡の破片の代わりに貝の真珠光沢面、そして壁面の代わりに漆地や木地の彫刻された表面という対応を考えると分かりやすい。

 その室内壁や天井の模様や装飾、それに、繰り返し規則性が見事な格子窓、いくら見ても見飽きない(写真5.1-3-1〜写真5.1- 3-4)。天井や内壁一杯に、その連続性が繰り返し展開され、曲面でも模様の展開が乱れることはない。こういうことが出来るようになるための学問は、やはり幾何学なのだろうか。

 鏡の間がある建造物(写真5.1-3-5)の正面入り口の屋根はシリンドリカル構造で一般的なアーチ状丸屋根に比べ珍らしい。今回のインド旅行で初めて見た様式であった。建物の外観は内側と比較し、豪奢とは言えない。

 アラベスク模様が美しい格子窓(写真5.1-3-6、写真5.1-3-7)は大分見慣れてきたが、何度見ても、いつみても飽きない。どの様にしてつくったのかが気になって仕方がないが、壁面の修飾については製法が推測出来る壁面(写真5.1-3-8)があった。

 壁面の一部が剥落しているのだ。剥落はタイルが剥げ落ちている。即ちタイル片を貼り足してゆき、全体を作ってゆく方法である。

ただし、この方法だと一枚のタイルの寸法誤差が累積され、うまく総寸法に納まらなくなることがあり、一枚のタイルの寸法誤差を相当厳密に管理する必要が出てくる。

 アンベール城を見下ろすような位置にジャイガル要塞がある。
建造物の多くが、その外壁にススけた黒ズミ模様がある(写真5.1-3-9)。
 建造物の外観は、時間が経つにつれて、壁面の黒化が起こってくる様だ。そのような建造物はいくつかあった(写真5.1-4-1)。

 長い城壁の一部に望楼の様な建物が立っている(写真5.1-4 -2)。また野生の猿が建物のあちらこちらに出没する。とりわけ、窓辺に腰かけている姿によく出くわす(写真5.1-4-3)。というより、猿が先に、そこでくつろいでいるところへ、人が出没したと言った方が正確かも知れない。

 この高さからは、アンベール城を見下ろせるだけでなく、アンベールの街並みを一望することが出来る(写真5.1-4-4)。

 以上で、アンベール城の観光を終え、昼食(写真5.1-4-5)を食し、帰国の途の為、一路デリー空港へ向かった。帰国便は、21:10発のAI306で相棒の若者N君は別便で一足先に離陸するので、3人そろったところで、写真を撮った(写真5.1-4-6)。

 この時点で現地時間で15:45.自分が乗る予定の時刻まで5時間30分程度もある。そこで、デリーのホテルでゆっくり休養できる時間と空間を準備してもらった。

 しかし、これは電子チケットを紛失し、Deenaさんのオフィスの社長(?)さんとの相談の結果で、電子チケットを準備できるまで時間がかかるので、一時ホテルで待機という意味合いがあった。

 これはDeenaさんにとっては想定外のことで、そのホテルへ行くまでの足はタクシーで向かうことになった。

 デリー空港と言うインドを代表する空港のタクシーでありながら、運転手は競争して客取り合戦の為、目つきが険しくなっている。Deenaさんの説明では、タクシーの運転手は、車の持ち主に車を借り、借り賃を支払うので、乗客からのタクシー代の殆どが借り賃に消えてしまうので、純粋に自分の収入とすることができるのはチップのみだ、とのこと。それで血眼になって客を求めている理由が分かった。

 スルーガイドをしてくれたDeenaさん自身もそれに近いのだろうか。そのタクシーの中で、「日本人観光客の中にお礼として11万円もくれた人がいた」との話があった。さすがに、同じようにして欲しいとは言ってなかったが、その様な期待をされたかも知れない。
 
 寝台特急の中で、身の上話をしたのもその布石だったのか、と思うと後味悪い気持ちが残ってしまった。デリー空港近くには多くの先端企業のビルがあったが、そこで勤務して経済的な恩恵を受けている人は、全インド人の1%にも満たないのではないか。BRICSの一員とされ、急激な経済発展を遂げている国との評判が高いが、その評判に直面する場面には旅行中一度も遭遇出来なかった。

 5/1(水)ジャイプール アンベール城、 帰国の途の稿、および「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」 終わり







2016/05/07 0:41:36|旅日記
9.4/30(火) アグラ ファテーブル・シクリ と  ジャイプール 風の宮殿、シティパレス、天文台

9.4/30(火) アグラ ファテブール・シクリ と 
ジャイプール 風の宮殿、シティパレス、天文台

 旅行最終日の前日である。ホテルの窓外に目を遣ると、一羽の名前知らずの鳥が、屋上に無造作に置かれた赤れんがの上に留まっていた(写真4.30-1-1)。アグラの宿泊ホテルのCRYSTAL INNを朝8:00頃出発し、アグラから西に40kmの処にあるファティブール・シクリまで高速道路(写真4.30-1-2)を利用して向かった。ファテープル・シクリは、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設された都市の名前である。

 「当時アクバルは跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談したところ、息子を授かるだろうとの予言を授けられた。そのおかげで王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アグラから遷都した。しかし、慢性的な水不足と猛暑のため、わずか14年間(1574年〜1588年)しか使用されず廃墟となった。」とWikipediaに紹介されている。

 この間に、築造された建造物が現在は遺跡群となって、アグラ第三の世界遺産となっている。更に、Wikipediaには、「台地の上に建設されており、直交するグリッドに則した幾何学的な都市計画が実施されており、その中心部は、宮廷地区とモスク地区とに分けられている。ほとんどの建築物が赤砂岩によって建設された、土着の建築文化とイスラーム建築の融合がなされた都市遺跡である。」と遺跡群の分布について説明している。

 この内、宮廷地区にあるパーンチ・マハルとディーワーネ・ハースを見学した。入場門(写真4.30-1-3)から入ると、広大な赤砂岩台地の上の離れたところに、両建造物がそれらの正面が互いに直交した配置で立っている(写真4.30-1-15)。後者(写真4.30-1-4、写真4.30-1-5)が正面に在り、左手に、前者(写真4.30-1-6)が在った。パーンチ・マハルは、五層の建築物(写真4.30-1-6)で、壁がない建築物のため、遊戯、納涼、展望のための施設であったと考えられる。

 また後者(写真4.30-1-5)は、皇帝の私的な謁見のための建物であり、2階の吹き抜けに対角状のブリッジを掛け渡した。ブリッジの交差部分(写真4.30-1-7)にアクバルが腰掛け、1階で諸派の賢人知者が議論するのを見ていたのだそうだ。交差部を支える支柱も、赤砂岩で出来ていて装飾がボリューム感豊かで、いかにもアクバル大帝専用の観覧席という風であった。

 その外側にはテラスがあり、テラスからは周囲が展望できる(写真4.30-1-8)。現在見える景色は、のどかな田園風景であるが、当時もそうだったのだろうか。

 この地は、王子誕生記念として遷都されたらしく、アグラ城の様に戦がおこることを想定した建都ではないので、建造物は優雅であるが、脆弱という感じがした。
 
 テラスから少し視線を移すと、プールまたは浴場の様な設備が見えた(写真4.30-1-9)。このプールに、どのように給水したのだろう。現在は黄緑色に染まってしまっているが、慢性的な水不足と猛暑のため、わずか14年間(1574年〜1588年)しか使用されず廃墟となったくらいの猛暑の連続、プールの水はすぐ干上がってしまい、頻繁に給水の必要があっただろう。

 納涼の為、壁をなくすという発想の、その先には水浴び場を設けることを誰でも考える。しかし、さすがのアクバル大帝も慢性的な水不足が起きやすい地とは夢にも思わなかったのだろう。

 全く壁が無いわけではなく、格子窓で風通しを良くする工夫も当然している(写真4.30-1-10)。この格子模様は、六方格子模様で、六角形の各辺に垂直に平行線が60度の角度で交差した幾何学模様で、3セットの平行線が交差する六角形の中心部に星形が出来る幾何学模様で、割と見かける格子模様である。

 パーンチ・マハルの前面には、赤砂岩製でステージ付きで高床式の建造物(写真4.30-1-11)が二棟建てられているが何に使うのであろうか?納涼演芸大会でもやるのだろうか。それとも高床式の建造物なので、倉庫として使ったのだろうか。

 5層の最上層(写真4.30-1-12)には欄干付きのテラスがあるので、明らかに展望台である。ここファテブール・シクリで最も見晴らしの良いところかも知れない。昼間は酷暑であっても、テラスの欄干に手を置き、夜は満天の星を眺め、己の小ささを顧みた人たちも居たに違いない。

 二棟の高床式建造物に近づいてみると、周囲に池がめぐらされている(写真4.30 -1-13)。というより、ステージ(?)が池に浮いている様に見えた建造物は外壁も内壁も赤砂岩製であった(写真4.30-1-14)。天井を支える列柱が並ぶ回廊も全て赤砂岩で出来ていた(写真4.30-1-16)。

 ファテブール・シクリには、他にも、皇帝と国民が接する開放的な建築物であるディーワーネ・アーム(公謁殿)、アクバルの宮殿であり、ペルシア式の中庭建築でありながら、イーワーンを伴わないインド建築の要素を持っているジョーダー・バーイー殿などがある。

 また、モスク地区には、デリーに80年後に建設される金曜モスクとほぼ等しい面積を持つ“ジャーマー・マスジド(金曜モスク)、モスク地区の南側に建設され、1573年に、グジャラート地方の征服を完了させたことを記念した凱旋門的性格を持つ“ブランド・ダルワーザー(壮麗門)”、聖者サリーム・チシュティーの廟建築であり、ファテープル・シークリー内のほかの建物と異なり、白大理石によって建設されている“サリーム・チシュティー廟”、ほかのファテープル・シークリーの建物と同様に、赤砂岩で建設されており、大勢のスーフィーの墓を納める廟建築であるイスラーム・ハーン廟などがある。

 次の4枚の写真(写真4.30-2-1〜4.30-2-4)は記憶が曖昧で、上記のどの建造物に属すのか、あるいはそれら以外の建造物か明確でない。写真4.30-2-2〜写真4.30-2-4は、モスクの雰囲気をたたえているので、モスク地区のいづれの建造物の可能性がある。

 ウェブ検索した限りでは、同じ建造物が写っている写真は無かった。暑さと疲労で、脳内メモリが揮発性メモリーと化し、記憶が無くなっているのかも知れない。

 ファテープル・シークリの見学を終え、移動車で、一路ジャイプールへ向かった。

 筆者の自宅のある入間市に、ジャイプールという名前のインド料理店があり、家内と何回か食事をしたことがあり、地名に対する親近感は多大であった。

 しかしながら、ここでの観光予定先の“風の宮殿”、”シティパレス“、”天文台“ は全く予備知識が無かった。尤も、ファイブ・スター・クラブの事前配布の「ご旅行日程表」には、風の宮殿<下車>とあったにも拘わらず、“風の宮殿”は、ガイドの裁量で、割愛されたか、素通りにされたようだ。従って、入場して観光できたのは、“天文台”と“シティパレス”であった。

 先ず天文台(写真4.30-3-1〜写真4.30-3-3)であるが、正式名をジャンタル・マンタルという名称がついていて、天文学者でもあったムガル帝国のラージプート、マハラジャ・ジャイ・シング2世によって、1728年から1734年にマハラジャの居城「シティ・パレス」(写真4.30-3-4、写真4.30-3-5)の一角に建てられたのだそうだ。

 ジャイ・シング2世は、デリーやヴァーラーナシーなど計5箇所に天文台を建設しているが、それらのうちでジャイプルのものが最も規模が大きい。

 マハラジャは英国の植民地統治の代理(間接統治)役を務めていたので、莫大な財をなすことができ、城みたいな砦を築いたり、贅沢な調度品、車などを買い集めた者が出た。と4/27(土)ペナレス ガンジス河(その1)に記載したが、それらの物品を買い集める代わりに、ジャイ・シング2世は趣味の天文学が昂じて天文台を建造することになったのだろう。

 ちなみに、日本ではもっと古く、1685年に天文方(てんもんかた)が、江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関として設けられていて、貞享元年(1684年)に渋川春海が貞享暦を作成して以来、渋川家が代々世襲で天文方を務めてきた。

 「渋川春海が天文方に任じられた翌貞享2年(1685年)に牛込藁町の地に司天台を設置した。元禄2年(1689年)に本所、同14年(1701年)に神田駿河台に移転する。

 春海の没後、延享3年(1746年)に神田佐久間町、明和2年(1765年)に牛込袋町に移り、天明2年(1782年)に浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。」とWikipediaに紹介されている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%96%B9)

 そして、その後、シティパレスを見学し、ジャイプールでの宿泊先のREDFOX HOTELに向かった。時刻は、午後4:00を少し回ったところであった。

 4/30(火) アグラ ファテブール・シクリ と
ジャイプール 風の宮殿、シティパレス、天文台の稿 完







2016/05/04 10:27:00|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」 7. 4/29(月)アグラ タージマハールとアグラ城砦

7. 4/29(月)アグラ タージマハール

 今回のインド旅行のタイトルは「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」という様に、旅のハイライトは、「ガンジス河」と「タージマハール」であることには間違いない。

 今から55年ほど前の中学時代に「田島」という姓の、ひょうきんで面白いやつがいた。中学時代の社会科の授業で初めてこの名前を知った時、その様な関連付けして覚えていたのである。

 また高校時代の東洋史でも、その名は頻繁に耳にしたが、特に「ムガール帝国」と切っても切れないつながりがあるということで記憶していた。

 また、世界旅行経験者による投票で、世界でもっとも美しい建造物となると、イコール、タージマハールとなることも頻繁に耳にしていた。「一体、自分の目でみたらどうなのか、興味深々であったのだ。

 ベナレスで乗車した寝台特急の車窓の外が明るくなってきたのに気がついたのは、朝6時くらいであった。登ったばかりの太陽の陽光が車内に飛び込んできた(写真4.29-1-1)。アグラ到着予定時刻の5:45を少し過ぎているが、コトコト、コトコトと単調な音を立てて走っている列車は、「まだまだ着かないよ。」とでも言っている様だ。列車の窓外には早朝の田園風景が映る(写真4.29-1-2、写真4.29-1-4)が、あまり変り映えがしない。

 結局アグラへ着いたのは、予定より3,4時間遅れであった。この日の予定はAMだけなので、この程度の遅れは織り込み済ということだろうか、列車の大幅な遅れは、日常茶飯事、というところか。同じBRICS仲間の中国とは大分様子が異なる。

 アグラ駅に迎えに来ていた移動車に乗り込み、途中宿泊予定のホテルで暫し一休みしたあと、大きな荷物は置いて、一路タージ・マハルに向かった。タージ・マハルに近づくにつれて、道路がきれいになってゆき、行き交う現地の人の数も減ってきた。

 これまで見慣れた道路脇にたむろする人が見えなくなってきたのだ。観光環境の保全を保つ為、カーストの最下級の人たちは近寄れない規制を敷いているのではないだろうか。

 入場する前に検問があり、荷物を改めさせられた。大きな旅行ケースは持ち込めないのだそうだ。インド/パキスタン紛争があった頃、パキスタン側に最初に標的にされるのは、タージ・マハルという想定のもと、テロや空爆に神経を使っているそうである。そうでなくても、ゴロゴロと騒がしいキャスターの転がる音や、歩行の妨げになるキャリーバックは大いに迷惑である。ホテルに大きな荷物を置いてきたので、ウェスト・バッグのチャックを少し開けた程度で済んだ。

 タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。これらの敷地全体が赤砂岩製の外壁(写真4.29-1-4)で囲まれている。

 また、大楼門の南には、車だまりおよび従者が控える建物(写真4.29-1-4の左手の建物)があり、それらの建物にもアラベスク模様が施されている。全く見事と言うしかない模様である(写真4.29-1-5〜写真4.29-1-7)。

 タージ。マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟である。外壁沿いに歩くと大楼門(写真4.29-1-8)に出会う。

 大楼門(写真4.29-2-1)も赤砂岩づくりで、高さ約30m。イスラム建築で多用される大きなアーチを持つイーワーンであり、両側には八角形の太い塔がある。イーワーンの上には、白い鍾乳石の11個の丸屋根がある。イーワーンの通り抜け通路の向こうに、白亜の墓廟が見えた(写真4.29-2-2)。月曜日ということもあり、観光客でごった返しているというほどではなく、かといって閑散としている程でもなかった。

 大楼門をくぐった先に広がる庭園には天井の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天井の泉を表す池が配置されている。

 白亜の墓廟についてWikipediaは、「庭園奥には中央に高さ5.5mの基壇の上に立つ白亜の墓廟があり、四隅には4本のミナレットが建っている。向かって左(西)にモスク、右(東)に集会場がある。基壇を昇る階段は庭側から見えない場所に設置されている。ムガール帝国の霊廟では、この基壇周囲にはアーチ状の列柱とその後ろに小部屋が据えられ、一族や縁者の墓石を置く例が主だが、タージ・マハルの基壇にあるアーチは単なる浮き彫りであり小部屋も無い。これは、タージ・マハルがあくまでムムターズ・マハルだけのために建設されたことを表している。」と紹介している。

 大楼門をくぐったところはステージになっていて、そこから白亜の墓廟までの距離は、100m足らず、白亜の墓廟は、ステージ上に立つ人の位置取りによって、ドームの天辺を指でつまむようなポーズの写真が撮れる(写真4.29-2-4)。これは決してオリジナルではなく、いろいろな人がいろいろなポーズで人と墓廟とのコラボレーションを試み楽しんでいる。そのうちのひとつがそのポーズなのだ。それほど白亜の墓廟は素晴らしいということである。

 墓廟を載せている基台の四隅には巨大なミナレットがそれぞれ位置していて、これら4本のミナレットは、万が一、内側に倒れ墓廟を傷つけてはいけないので若干外側に傾いているとのこと。確かにそう見えないこともない(写真4.29-2-5〜写真4.29-2-8)。ただし、他説として、地下水の過度な汲み上げにより地盤が沈下し、4本の尖塔が外側に傾きつつあるとの報告もあるらしい。いづれにしても少し傾いているのは確からしい。

 建物の壁面には、様々な模様が施されている。中には、模様としての対称性や周期性が全くなく、イーワーンの外表面側を縁取る様に矩形に配されている模様は何を意味するか全く分からなかった。

 後日ウェブを使って調べてみたらコーラン章句、即ちイスラム教経典ということが判明した。今回のインド旅行で、いくつかイスラム建築を観てきたが、コーランが壁面に施されているのを見たのは初めてであった。多分タージ・マハルが霊廟だからであろう。

 前庭には、水路が十字に廻らされている。庭園の植栽に水を供給するためのものらしいが、視界に水が見えるのは、炎天下に於いて、一服の清涼剤となる(写真4.29-2-9)。その水路によって前庭は4等分されている。このアングルで霊廟全景が見える。

 一方、廟側から大楼門(写真4.29-2-10)を見ると、建築材料が、白の大理石(霊廟)と赤砂岩の相違はあるものの、中心部近くの模様はよく似ていて、コーランが模様の様に刻み込まれているデザインや、アーチを持つイーワーンの配置は同じである。

 ただ、大楼門のミナレットは4本全てが赤砂岩でつくられた八角柱が、一体的に構成されているところや、上に乗っかっているのが、アーチ状ドームではなく、11個の丸屋根が配列していることが大きく異なっている。

 ところで、前庭で気まずいこともあった。
 大楼門をくぐり抜けた直後から、自由行動となり、相棒の若者N君とも別行動で思い思いの見学、思い思いのアングル探しをすることにした。既にその若者N君の姿も、ガイドの姿も見えなくなっている。

 とにかく良いアングルで墓廟の写真を撮ろうと思い、近景に花を配して写真を撮ろうとしていた時(写真4.29-2-13)、突然話しかけてきた人がいた。「もっと良いアングルが有るので、教えてあげよう。」と英語で言っている様だった。ついて行くと、人も少なく、確かに樹枝の間から見える墓廟(写真4.29-2-14、写真4.29-2-15、写真4.29-2-16)は、良い構図である。落ち着いて最適のアングルで撮れそうだ、と一生懸命写真を撮っていると、「もっと良いところを教えよう」と更に奥の方に案内された。周りを見ると人は殆ど居ない。今度は赤い花をつけた樹木を前景にした構図(写真4.29-2-17、写真4.29-2-18)であった。

 そろそろ、元のところに戻ろうとしたところ、「ガイドフィーとして100ルピーくれ」と言うのだった。頭の中で、「150円相当か、たいしたことない。一種のチップダナ。」と100ルピーを渡したところ、「あと200ルピーよこせ」という。きりがないので、仕方なく100ルピー渡して退散した。チップをせがまれているのか、ゆすられているのか、分からなかった。

 北側はヤムナー川に接し、かつてはアグラ城塞から船でタージ・マハルの北から廟内に入っていたが、現在では訪問客(観光客)は南から大楼門をくぐって訪れる。ヤムナー川は、タージ・マハルのあたりでU字状に大きくカーブしている。従って、対岸にあるように見えても、実際は同じ河岸側にある場合が多い。アグラ城はその良い例である。

 墓廟を載せている基台は広く、そこからは墓廟の東西にある集会場、モスクや、北側にある河川敷の様子が良く分かる。基台の墓廟に近いところは日陰になっているが、基台の縁に近いところは照り返しもあり、灼熱地獄である。しかし、なんとなく川風が吹いてくるようなのと、遮るものが無い爽快さからそれ程の熱さは感じなかった。

 一方、その反対側は太陽を遮るものが無く、日陰は全くない。観光客の歩みは、殆どが廟内に吸い込まれる。単に廟内を見学するというだけではなく、涼を求める気分も加味されているのに違いない。時刻は現地時間で午前11時少し前であった。

 自分もその流れに乗っていたが、墓廟の門をくぐる前に、西の方に目をやると。霊廟とミナレットの間に赤砂岩で出来たモスク(写真4.29-3-1)が見えた。この写真を見ているうちに、ミナレットが傾いて見える謎の答えが少し見えてきた様に思えた。

 遠近感というのは、遠方の視野の中点に向かって、距離と共に寸法が小さくみえる現象である。対象物が、二つの高い建造物の場合、遠方の視野の中心は二体の中間点となる。その点を中心として同じ高さの2点は距離を狭くする様に見える。高さ0、即ち地上での距離に比べ。高さが高くなる程その高さにおける二点間距離は小さくなる様に見えるのである。直角三角形の底辺の長さよりも斜辺の長さが長いという数学的原理に基づいているのだ。従って見上げる程、観測点からの距離が長くなり、見上げるほど2点間距離が小さくなる。即ち傾いて見えるのだ。

 しかし、この現象によると、必ず建物側へ傾いている様に見える筈なので、ミナレットが外側に傾いているという理由とはなっていない。しかし、実際に傾いているほど傾いては見えない理由にはなっているかも知れない。

 墓廟内に入ると白一色であり、白い内壁には、唐草模様やコーラン模様が施されている(写真4.29-3-2)。またアーチ型格子窓は方形格子で、枠は曲線からなるが、その内側は縦線と横線の直線からなる方形格子であり、最も単純なこの形はインドで初めて目にした。(写真4.29-3-3)。

 そうかと思うと、方形格子の次に、光の透過面積率の大きな六角形(六方)格子もある。その格子から東側の集会場の方を透観してみた(写真4.29-3-4、写真4.29-3-5)。

 また墓廟から外に出て、基台に立ち北東隅に立つミナレットを眺めてみた(写真4.29-3-6)。

 ヤムナー川は、タージ・マハルのあたりでU字状に大きくカーブしていて、ヤムナー川のU字の右半分が良く見える。。また視線を左側に移すと、基台の西北部隅に位置するミナレットとヤムナー川のU字の左半分が見えた(写真4.29-3-7)。そして、少し日向に出て左横を眺めると、ミナレットと、その向こう(西)にあるモスクが見えた(写真4.29-3-8)。ミナレットと墓廟は先ほどの原理に基づいて、互いに内側に傾いて見えるのが顕著であった。

そして、基台の外壁に沿って、墓廟の西側の壁面の前に立つとモスクの正面全貌が見えた(写真4.29-3-9)。左右に小さな白いドーム屋根を持った隔室があるが、右手にある隔室は川岸に突き出しているように配置していた(写真4.29-3-10)。まるで、河に沿って。あるいは対岸からやってくる訪問者を見張る見張り台の様にも見えるし、前方の眺望がすばらしいので見晴らし台として使われたのかも知れない。

 時刻は現地時間で11時10分、太陽はまだ中天には達していないが。東北に位置するミナレットの先端部の東側にかかっていた(写真4.29-3-12)。また、その位置から西北方向隅に立つミナレットを観てみたら、それほど傾いている様には見えない(写真4.29-3-11)。その理由は、直角三角形の底辺の長さと斜辺の長さとの比が1に近づいてきているからと考えれば良い。

 東北川にあるミナレットの付け根には日陰が出来ていて、その日陰でささやかな涼をとっている人たちが見えた。この日陰は日時計の針とおなじであり、時計周りに回るとすると、
人々の腰を下ろしている位置が針の中央からヅレているので、腰を下ろしてから数分経過しているのだろう。

 そんなことを考えながら墓廟の周りを時計回りに一周し、基台から石段に沿って前庭の方に降りた。そして前庭の東側の通路を使って、集合場所である大楼門の方へ向かった。

 この通路からは墓廟を正方形の芝生越しに斜め右から見ることになる(写真4.29-3-13、写真4.29-3-14)。これらの写真からはいづれのミナレットも傾いている様には見えない。

 この通路を歩いていると、全身真黒なカラスの様な鳥が芝生の上をヒョコヒョコあるいたり、木の枝に留まっているのが見えた、インドの鳥は暑さのせいか動作が緩慢でカメラのレンズを向けても逃げないでくれる(写真4.29-3-15)。

 最後に、ズームアップして、墓廟と東南側のミナレットの写真(写真4.29-3-16)を撮った。その後、集合場所に3人集合したところで、大楼門の門をくぐり、次の目的地アグラ城に向かった。

8. 4/29(月)アグラ アグラ城塞

 「アグラ タージマハール」の稿に既に記載した様に、アグラ城はナムール河の同じ河岸に、タージマハール築廟後に築城された名城である。インド人にとっては、タージマハール以上に重要で人気のある観光地として、訪問者が多いのだそうだ。

 アグラは地名であり、150万人以上の人が住む都市で、タージマハール、ムガル帝国3代皇帝のアクバルが建てたアグラ城塞、ファテープル・シークリーと3つのユネスコ世界遺産に登録された遺跡がある。

 「アーグラ城塞 は ムガル帝国の栄光と権力を象徴する美しい城塞。ムガル帝国3代皇帝のアクバルが建設開始し、その後18世紀初頭まで建設が続けられた。赤砂岩で囲まれた城塞‘写真4.29-4-の中には、宮殿などの諸施設が建てられた。タージ・マハルの建設を命じたシャー・ジャハーンが7年間幽閉されていた囚われの塔(ムサンマン・ブルジ)(写真4.29-4-9、写真4.39-4-10)も、城壁の中にある。世界遺産に登録されている。」とWikipediaに紹介されている。

 アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)(写真4.29-4-9、写真4.39-4-10=「囚われの塔」からタージ・マハールを臨む)に幽閉してデリーに移った。

 外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」(写真4.29-4-1〜写真4.29-4-3)であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。父親を幽閉した息子も多少は気兼ねして、タージマハールと同じ白の大理石を内装に用いたのかも知れない。

 城門は三重になっていて強固である。第一の門(写真4.29-4-1)から第二の門(写真4.29-4-14)、第二の門から第三の門(=アマエリシン門、写真4.29-4-2)へと移動して行ったが、城内に侵入しようとする敵に対し、堀や、その上に跳ね橋があったり、石落としや矢狭間の仕掛けがふんだんに配築されていて、如何にも城砦という感じであった。

 城砦の内部に立ち入ると、ジャハンギール宮殿が正面に見えた(写真4.29-4-4)。宮殿は外装こそ赤砂岩つくりであるが、宮殿の内側は白大理石造りになっていた(写真4.29-4-5、〜写真4.29-7)又、宮殿内側には緑豊かな方形の庭園(=アングリ庭園、写真4.29-4-8)があり、ここに至るまで、赤砂岩の色を見慣れた賓客にとって、一服の清涼剤になったに違いない。

 アグラ城塞から戻る時、通路の両側には赤砂岩の城砦建造物(写真4.29-4-11〜写真4.29-4-16)が迫りきて、迫力を感じた。城砦から外にでた一般道路には、アウラングゼーブの乗馬像が、据えられていた(写真4.29-4-17)。

 陳舜臣著「インド三国志」は、300年を越えるムガル王朝が滅亡に至る歴史を物語的に著されているが、その主役的存在のアウラングゼーブにまつわる物語が詳しく述べられているが、以下のURLにも、アウラングゼーブの生涯が詳しく述べられていて、参考になる。
  URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 以上で、その日のメイン・イベントのタージ・マハールとアグラ城砦の観光を終え、ホテルに戻ることになるが、そのあと自由時間があり、オプショナル・ツアーとして。「民族劇鑑賞」と「足裏マッサージ」の二つが提示されたが、自分は前者を、相棒の若者M君は後者を選択した。前者は、タージ・マハールにまつわるシャー・ジャハーンと王妃ムムタージ・マハルの物語であり、良く知られている物語を劇にしたものである。

 4/29(月)アグラ タージマハールの稿 及びアグラ城砦の稿  完