槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/08/31 13:20:39|旅日記
龍泉青磁の旅 D5(5月28日) 景寧県へ中国畲族の村を観光、杭州市へ戻る

9.D5(5月28日) 景寧県へ中国畲族の村を観光、杭州市へ

最初に、前日の分の書き残しについて記す。

 前日最後の龍泉観光は、現在施工中で来年(2017年)オープン予定の「龍泉青瓷文化園」と呼ばれる陶芸技術センターである。

 ここには、中国各地にある著名な青磁窯を、その窯場の代表的技術者ともども招聘し、青磁の拠点とするのだそうだ。見学中、浙江省の役人の視察に行き交った。

 「龍泉青瓷文化園」には、すでに作陶実地体験できるところ(写真5.27-7-1)があり、その入り口には、“青磁体験区”とか、“質量教育社会実践基地”とか、“標準化服務示意○(○は口構えの中に冬の文字)”と、物々しい名称が表示され、そこはすでに先行オープンしているようで、陳さんの案内で、覗いた時は一部の観光客や、おそらく正式オープン後、一般観光客に作陶を手ほどきするインストラクター養成中(写真5.27-7-2)の様だった。

 駱さんから、「やってみたら!」と言われたが、まだ陶芸を始めたばかりの自分にとってはうまくできないだろうと思い、遠慮した。

 この遠慮は後で後悔することになった。青磁用の土だけでも自分の手で触っておけばよかった。

 青磁土は海外持ち出し禁止なのである。青磁用の土を触ってみることなどここでしか、できないのである。

 ところで、日本の窯場は、清水焼、有田焼、益子焼、備前焼、九谷焼、伊賀焼、瀬戸焼など、殆どが地名で表わされるが、中国窯は、青磁、白磁、唐三彩などと陶磁器の製法や特徴別(例:王朝ご用達で“官窯”)いう種別で呼ばれることが多い。

 勿論中国窯のなかにも、越州窯、景徳鎮。天目窯という様に、生産地で表される窯もあるが、地名で表されるのは少ないように思う。この様に地名で表すと、拠点化した時の呼び名に困る。

 したがって日本にその様な拠点づくりをするには、“須恵器系”、“土師器系”とでも呼んで集約するしか無さそうである。

 見学中、目についた箇所を写真に撮った(写真5.27-7-3〜5.27-7-5)。

 壁のてっぺんの縁に陶磁器を並べて配置している光景(写真5.27-7-5)は陶磁器の製作所でよく見かける。このように塀のてっぺんに据えられる陶磁器は壺、花器等の場合より、このようなオブジェの場合の方が多い様に感じる。

 中国の寺院等の屋根の稜線に、天災からの守護神としての神獣を配置した光景を見かけることが多々あるが、それと同じ感覚が入っているように感じた。塀の外からの被災を防ぐ意味合いがあるのだろうか。

 そして、振り返ると大きな煙突が一本(写真5.27-7-6)、そして大きな水車(写真5.27-7-7)が一基「龍泉青瓷文化園」内にあった。水車の動力を何に使うのであろうか?

 「龍泉青瓷文化園」の見学後、陳さんの店で夕食(写真5.27-7-8)を摂り、ホテルに戻った。汗だくだくで、服も汗で湿っていたので、ホテルの部屋に設置されていた大きな扇風機の風を送り、最も湿ったランニングヤツとハンケチを乾かすことにした。

 そして以降はD5(5月28日)の分であり、龍泉市の観光最終日である。宿泊ホテルは朝食つきであったが、そこでは摂らず、駱さんと一緒に町なか(街道沿い)にある食堂で摂ることにした。

 陳さんは青磁の工場を持っている(青磁加工)だけでなく、奥さんの頼朝媚さんと餐炊(食堂)、住宿(旅館)、青磁販売、もやっている。要は、陳さんは街道沿いの宿場町の将来有望な若手事業家と言ったところだろうか。

 ホテルを後にして(写真5.28-1-1、5.28-1-2)、最初に向かったのは、街道(岱垟路)に面した餐炊(食堂)で、そこで駱さんともども朝食を摂ることになった。

 朝食として食した麺(写真5.28-1-3)は中華麺というよりは“うどん”に近いものだった。中国料理、とくに、四川料理や雲南料理に特有な、いまだになじめない風味もなく、おいしく食べることができた。

 そして最後の目標観光地、景寧県にある中国畲族の村に向かう、乗り物は黄さん運転のVW車である。

 途中、往きに通りがかった竹藪の異様な光景が見られるところで、車を止めてもらい、じっくり静止写真を撮らしてもらった(写真5.28-1-4〜5.28-1-7)。

 これほど広範にビニール袋が被されているのは、何か具体的な目的がある筈である。その答えとなるような写真(写真5.28-1-5)が偶然にも撮れていた。ビニール袋に蝗と思われるバッタがまとわりついているのである。

 このビニール袋がなければ、成長中の竹の先端の若葉は柔らかく、しかも味が良いので蝗の絶好のえさとなるのであろう。駱さんも盛んにスマホ写真を撮っていたので、中国でも珍しい光景と言えるのかも知れない。

 再び車に戻り、景寧県にある中国畲族(シェー族)の村に向かう。相変わらず前述の奇景は続いた(写真5.28-1-6、5.28-1-7)。

 途中、いかにも里山風の村(写真5.28-1-8)や、少しばかり街っぽい地点(写真5.28-1-9)も通過し、いかにも山間(やまあい)ののどかな光景(写真5.28-1-10、5.28-1-11)を車窓から見上げながら、なおも先に進む。

 車窓から見上げた光景は、満天の青空とは言えないが、青空に千切れ雲が浮かんだ光景で、いかにも気が休まる光景であった。

 そして竹を見るために小休止してから1.5時間ほど経った、10時半少し前に、目的地の景寧県にある畲族(シェー族)の村のゲート(写真5.28-2-1)にたどり着いた。

 8本の朱塗りの支柱の上に瓦屋根が載っただけのゲートで、壁とか塀という感じが全くない開放感溢れるゲートであった。このような意匠の建造物を現代の少数民族は好むようだ。風雨橋を連想させる。

 ゲートをくぐると、広庭が現れ、その中央に何かを縫っている、あるいは何かを織っている女性のブロンズ像が現れた(写真5.28-2-2)。

 眼を左手に移すと立派な水洗トイレが目に入った。以前の中国では考えられない光景である。大小一対の水洗便座が一つのトイレ室に収まっている(写真5.28-2-3)。

 これでは、大勢が一度に用が足せない。欧米観光客用で、滅多に来ないので、一室で問題ない、と言いたげのトイレ室の佇まいであった。

 そして、今度は、入園チケットを販売している受付口のあるゲートがあり、その前に村内の案内図が表記されている案内看板(写真5.28-2-4)が目に入った。

 よく見ると、中国語の他、英語と日本語(写真5.28-2-5)で説明書きされている。日本文は、以下の通りである。

 『「畲郷の窓」の観光地区は、景寧県大均村、県都まで12kmのところにある。
 景寧唯一のショオ族自治県は、浙江省畲民発祥の地で、古来“浙江省のシーサンバンナ”とか、“華東のシャングリラ”と呼ばれた。
 「畲郷の窓」の観光地区は、大きな均古村と欧江小川を母体として、ショオ族風情を中心に、畲郷に入っては山水、ショオ族風情を体験するのが最良の窓口である。
 観光地区の主要な三つのプレートがある。
 一つ目は参加、鑑賞、ショオ族風情演技、
 二つ目は、たくさんの展覧、ラオカイ風貌を味わって、千年の古樟、龍崗区叠翠浮山祠、ショオ族風情館などの人文の景観を感じる風情演技。
 三つめは「浙江第一流」と呼ばれた浮き傘漂流、その中には「ショオ族風情演技」、最の具特色は、「畲賽受付大」、「畲山火の神祭り」、「畲族の伝統」、「洗濯し水かけ祭り」や「キャンプファイヤ」の五つの項目で構成されて、昼夜通して開催される。』

 この日本語翻訳は意味が分かりにくいところもあるが、大体分かる。

 最初のゲートに戻って、案内看板のあった建屋の全景を背景に駱さんの写真(写真5.28-2-6)と、青空が雲間から覗いた空を入れた全景写真(写真5.28-2-7)を撮った。

 白壁の大きな建物は何かわからなかった。そして少し歩くと大きな樟樹(写真5.28-2-8)が見えた。

 樟は大きく成長するので、少数民族の郷においてはシンボル的な樹になることが多い。この樹もそうだろうか、枝から縄が放射状に垂れ下がって取り付けられているのは何のおまじないだろうか。

 反対側に視線を移動させると、階段状のステージ(写真5.28-2-9)が見えた。多分畲族の民族舞踏でもやるのだろう。残念ながら、何もやっていなかった。

 階段には様々な模様や文言が描かれているが、特に目を引いたのは、鳳凰の絵(写真5.28-2-10)であり、色彩が綺麗だった。鳳凰の絵は異なるスタイルでも描かれている(写真5.28-2-11)ので、畲族の伝説に鳳凰が現れることがしばしばあるのかも知れない。

 そして、この郷内の主な建物の配置図と案内が、中国語、英語、日本語で書かれている(写真5.28-2-12)。その日本語では、以下の様に記されていた。

 『畲族は山の傍に住んで、狩猟、采薪、焼畑農法で生活している民族であり、主に福建、浙江、広東、江西、安徽等の省に分布している。
 景寧県は畲族が浙江省に最初に滞在した地であり、唐代の永泰2年(766年)に雷進裕は族人を連れて福建省の羅源から景寧県に移住してきて以来1200年の歴史を持っている。
 景寧県は中国唯一の畲族自治県で、民族文化は豊富で、多彩である。師から伝承することを通じて、畲族民謡、畲族の三月三日、畲族医薬は、国家級非物質文化遺産と、評定され、畲族の彩帯編み工法、畲族の結婚風俗、畲族服装は、省級非物質文化遺産と評定されている。
 陳列館は、畲族服装区、織物彩帯区、畲族居住区、しいたけと茶の葉区、農耕展示区、生活文化区等の六つの文化展示区に分けられていて、多視点から畲族の文化を展示している。』

 この陳列館(写真5.28-2-13)は“うだつ”で分けられていて、畲族の女性用の色彩豊かな民族衣装(写真5.28-2-14、5.28-2-15)や、織機(写真5.28-2-16)や、農機具(写真5-28-2-17)等の展示を写真に収めている。

 そして、生活文化区と思われる家並(写真5.28-3-1)が目に入った。白壁の上に載っている屋根は中国独特の大きな反りのある屋根ではなく、日本の民家で一般的な、反りのない灰色瓦でできている。

 少数民族には、この形式が多い。そして、干されているのはシイタケであろう。敷面一面に展開されている。

 そして、更に、先に進むと、現在の畲族が生活していると思われる住居が、狭い通路を挟んで高い壁で向かい合って建っている。この家屋と通路の形式は、最近訪問した中国、特に浙江省杭州市近辺の観光地で多く見かけられる。

 その形式に従うとすると、これらの細い通路は、いづれ、小石が敷き詰められた通路に改修されるはずである。

 その一帯から抜き出ると、眼前に川の流れが飛び込んできた。川の色は青緑であり、背面には小高い山が控えている。山間の川にしては、流れが緩やかで、水量も十分で滔々と流れる感じだった(写真5.28-3-8〜5.28-3-10)。

 川の向こうの山を川面に映し出せるほど、川面には波が立っていず、穏やかである。まるで湖沼のようであった。

 少し、奥に進むと、やはり風雨橋(写真5.28-3-11)が現れた。まだ建造したばかりの様な新しさで、生活臭が全くしない。地元住民の両岸をつなぐ通行の利便性や、社交/憩いの場、商いの場ではなさそうである。

 橋を利用している人の姿は、地元民というより、観光客目当ての設備という感じがした。屋根は三層の瓦葺きで、橋には屋根を支える支柱と橋の両端部に欄干と椅子があるだけで、風をしのぐ壁や塀は見当たらなかった(写真5.28-3-13、5.28-3-14)。

 自分の様な風雨橋好みは、風雨橋という設備だけでなく、そこに漂う生活臭をセットで触れ合いたいのだ。この橋から、写真5.28-3-9と同じ方角の写真を撮った(写真5.28-3-12)。少し遠望になったので、川面には山の稜線までがくっきりと映っていた。

 風雨橋の屋根を支える梁に“輂”の文字がブラさがっていた。この文字は陳列館(写真5.28-3-13)の2階の窓枠にも見られた漢字であり、気になっていたのだ。

 読みと意味を調べてみたら、読みは“じゅ”で、意味は、「古代の地球の移動装置」とある。確かに両岸の間を移動するための装置と言えなくないが、もっと深い意味があるように思って止まない。

 橋から反対側の景色を見ると、山並みと住居の様な建物(写真5.28-3-15)がチラっと見えた。この地は山に囲まれた盆地なのだ。確かに夏は暑く、冬は寒くなりそうな地形である。現に6月前なのに夏の様に暑い。

 風雨橋を渡り、少し歩くと自動車道になり、自動車道をまたぐ風雨橋の様な建造物(写真5.28-3-16、5.28-3-17)が現れた。川の上だろうが、道路の上だろうが、そこに佇める屋根を作りたくなるのは畲族の、あるいは畲族にとどまらず中国の少数民族の、あるいは少数民族にとどまらず、中国人全般の潜在的な欲望かも知れない。

 筆者の自宅近くの国道299号線バイパスを跨ぐ橋“あおぞら橋”の下を通行する車の走行を見るとき、この橋に屋根があるとしたらどの様な気分になるだろう。

 特に嬉しい気分になるとは思えない。しかし、橋の下を川が流れているとしたら、屋根付きの橋から一日中川面を眺めていても飽きないかも知れない。

 時刻は昼を過ぎていたので昼食を摂ることにした。最初に歩いた高い塀に挟まれた細い路地に食堂があることを駱さんは調べていたのだろう。その路地に面していた食堂のうち、比較的清潔そうで、料理もなじめそうな店に入り、メニューは駱さんに任せた。

 料理は4品で、おかずはすべて野菜で、トマト、インゲン豆、ホウレンソウを刻んだもの、主食は粥であった(写真5.28-3-18)。

 そして、再び大きな樟樹の前(写真5.28-3-19)に戻り、黄さんと落合い、一路、高鐵の“麗水駅”に向かった。その途中、立派な構えの風雨橋(写真5.28-3-20)があったので、車を止めてもらい写真を撮らせてもらった。地元民用というより観光目当てであることが明確である。

 麗水駅に着き黄さんに別れを告げ、ホームに着いたが、列車は若干遅れているということだったので、待合室(写真5.28-3-21)でしばらく待つことになった。

 しばらく時間があるということで、駱さんがおもむろにリュックから取り出したのは、駱さんに、「中国語で書かれている畲族の民話「天眼重開」に書かれていることを教えて欲しい。」と頼んでいたコピーであった。

 原典は。かつて(前々回の杭州旅行の時)、杭州市の本屋で購入した中国語で書かれた「世界少年文学経典文庫―中国民間故事」のp172〜p180に掲載されたもので、スキャナーでコピーしたものをPDFに変換し、駱さんに添付送信していたものである。

 駱さんは忙しい人なので、この宿題は覚えていないに違いないと期待していなかったのだが、そのコピーを見ながら日本語に分かりやすく意訳してくれた。さすがに義理堅い駱さんである。

 そして、間もなく入線のアナウンスがありホームに向かった(写真5.28-3-22)。そして間もなく高鐵(中国版新幹線)が入線し(写真5.28-3-23)、乗り込んだ。本稿では写真をこれ以上掲載できないので、この続きは、帰国日5月29日の稿の最初に記述することにする。
  本稿 完    次の稿(中国旅行最終日)につづく







2016/08/05 0:02:36|旅日記
龍泉青磁の旅 8.D4(5月27日)中国青磁小鎮観光

8.D4(5月27日)中国青磁小鎮観光

 黄さん運転で、駱さんを助手席、自分を後部座席に乗せた車は、午前10時前後に、龍泉市内の龍泉宝剣博物館を出発し、舗装はされているが、かなりの田舎道を中国青磁小鎮に向かって走行している。空は、雲ひとつ無いとは言えないが、良い天気で、車窓からであるが、緑が映える(写真5.27-4-1、5.27-4-2)。

 山には竹林が多く見られ、窯を炊くときに使う燃料として竹を使うこともあるのかという妙な疑問が湧いてきた。「窯の燃料としての薪に使われるのは、松、杉、栗、クヌギ、楢、桜等であり、竹を使うという話は聞いたことがないなあ、」などと、ひとりごちていると、竹林に白いものが、見え隠れし始めた(写真5.27-4-3)。

 竹のてっぺんに白い袋のようなものが被せられているのだ。すべての竹にではなく、一部の竹に点々と被せられているのである。竹林が続く限り、そのような光景が延々と続いた。

 「何を目的に? またどのように?」というのがひらめいた疑問であった。帰りにも同じ道を通ると思われたので、この疑問は帰りに晴らそう、車を止めてもらいじっくり見せてもらおう、ということにして先を急いだ。

 そして、更に先に進み、宝剣博物館を出て約1時間後に、この日宿泊する予定のホテルのあるゾーンに到着した。ホテルのチェックインロビー(写真5.27-4-4、5.27-4-5)はおよそロビーらしくなかったが、椅子に座って少し待ってほしいとのこと。後で分かったのだが、駱さんの旦那の弟さんの娘さん(刘 思芬さん)の知り合いという人とはここで待ち合わせることになっていたらしい。

 広い空間に巨大な樟(くすのき)の枯木が展示されていた、この枯木は芯の方が空洞状態になっていて人が2、3人は入れるくらいの太い枯木である。この枯木の説明(写真5.27-4-6)があった。英語、ハングルにも訳されているので、英語の部分から、以下のような説明となる。

 「この木、随樟(または香樟)は。もともとは江西省のとある景区にあった。それが落雷の被害を受け倒木し、1800年の間、地中に埋もれて化石化していたが、披雲会社机縁巧合が貴重で珍しい遺物と考え、地中から掘り起こし、当地へ移設した。倒木前は、樹齢1100年以上で、直径2.5m、高さ50mの大木だった、地中に埋もれている間に、木の中心部は朽ち果て、3〜5cmの厚さの樹皮のみが残った。」

 『この樟(クスノキ)は全体から樟脳の香りがする。なので、別称“香樟”。樟脳とはすなわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、防虫剤や医薬品等に使用される。』とWikipediaに紹介されている。

 もともとこの木は大木になりやすく、幹周りが20m(直径換算で、6.37m)を越える大木は日本、台湾、中国の各地に多く知られていて、神社仏閣にある樟の大木は神樹とされ、人々から崇愛されている。尚、“楠”と書くクスノキは中国では異なる樹のことである。

 暫くして、刘 思芬さんの知り合いで、龍泉小鎮で龍泉青磁を製造販売している陳越青さんという人が現れた。まだ40歳台の若い人(写真は後出)だった。

 名刺交換をした後、改札口の様なゲートを通り抜け、宿舎(ホテルという雰囲気ではないぞ!)に案内してもらった。途中いろいろな建物があり、青磁の陳列館などいくつかの展示館があった。おそらく先ほどの改札口の様なゲートはこれらの展示館見学者にとっての入り口ゲートだったのであろう。

 部屋は小ぎれいで、水回りも良く、またベランダに出ることもでき、目の前に見える山(写真5.27-4-8)からの風も心地良かった。快適なホテルと言える(写真5.27-4-7)。服が汗でびしょびしょだが、すぐ乾きそうである。30分ほど休憩したら、また呼びに来るとのことだった。

 陳さんの販売店や製造工場は、ここから歩いても行ける距離にあるらしい。ちなみにこの一帯は通称“青磁小鎮”、正式には龍泉市上垟鎮岱垟路という地名である。

 30分の休憩の間、ベッドに横たわる代りに、ベランダに出て、心地よい微風にあたりながら、外の様子を眺めた。先ほどから鳥の大きな鳴き声が聞こえていたので、その鳥の写真を撮ろうと思ってベランダに出てみたが、姿は見えなかった。

 しかし、目の前を飛び交う鳥はひっきり無しで、黒と白のツートーンカラーの鳥(多分カケス)が多かった。そしてTVのアンテナに留まっている鳥(写真5.27-4-9)と、民家の屋根に留まっている二羽の鳥(写真5.27-4-10)の写真が撮れたが、地元に住む運転手の黄さんにも鳥の名前は分からなかった。

 間もなく、駱さんが、運転手の黄さんとともに迎えにきた。僅かな距離だが車で陳さんの店に向かうが、その前に、現在も使われている登り窯の正面(写真5.27-5-1)と、両側通路(写真5.27-5-2、写真5.27-5-3)の写真を撮った。

 正面には、この窯の名称の「龍泉伝統焼成龍窯」の表示があった。窯の手前には、テーブルが置かれ、その上には、ほぼ同じ大きさのリンゴ、オレンジ、桃が行儀よく並べられていた。また、正面の通風口の左上には小さな磁器づくりの祠が供えられ、その中に青磁が一つ収められていた。

 このときは、自分と駱さんと、黄さんとで、何の説明もなく、見たのみであったが、後で陳さんの案内で、他の登り窯の内部まで見せてもらうことになる。

 そして、登り窯の傍には失敗作と思われる作品が石碑の足元に置かれていた(写真5.27-5-4)。

 しかし、よく見ると、釉がかけてある所と、かけられていないところがあり、胎と釉の色が明確に分かる。この写真から、胎は2種類あることが分かる。また、匣鉢や、その蓋と思われる磁器も供えられていた。

 そして、時刻が正午ちかくになったので、陳さんの店(写真5.27-5-6)の真ん前にあるレストランで昼食を摂ることにした。最近は、雲吞が口に会うことが分かってきたので、ここでも雲吞(写真5.27-5-5)を所望した。やはりおいしかった。

 食後、真ん前にある陳さんの店に行き、陳さんにはPMの案内を同行してもらうことになっていた。陳越青さんは、名刺には、奥さんの頼朝媚さんと「青磁小鎮農家東」を共同経営して、主営(営業内容):餐飲、住宿、青磁加工、批発(卸売り)、来垟定倣とある。

 行き先は、登り窯と陳さんの工房、そして上垟鎮源底村の予定である。先ず最初は本題の登り窯の見学である。工房の入り口で、陳さんと駱さん(写真5.27-5-7)、陳さんと自分(写真5.27-5-8)の二つのツーショット写真を撮った。

 最初に現れたのは、入り口の石標(写真5.27-5-10)に「浙江省文物保護単位 龍泉窑製瓷作坊 (木岱口 曽芹記古窑坊)」と刻まれたレンガと木造で出来た建物(写真5.27-5-9)であった。

 そして、石段を踏み上がってゆくと、登り窯の正面(写真5.27-5-11)に向かい合う位置に至る。窑の上部には右から群〇〇〇と大きな板に翠書されているが文字が読み取れないし、従って意味が分からない。

 この泉窑登り窯は造られてから100年程度経っていて、現在は年に二回使われ、一回につき昇温から降温まで72時間かけ焼成する。焼成温度は1300℃。今年の第一回目が終わったばかりで、焼成中は炉の周りは大わらわだったが、「今はその直後で、製品を窯出ししたあとなので、窯内部を見てもらっても構わない。

 「運が良いですね。」との陳さんの言葉で、窯門を開けてもらい、内部観察をさせてもらった。

 内部は真っ暗であったが、通風孔からの明かりと、炉壁にはところどころ温度観察用の覗き孔があり、そこからの明かりで、かろうじて写真が撮れた(写真5.27-5-12、5.27-5-13)。

 炉壁はガラス質の釉が気化付着していてツルツルであった。炉底部は地面が露出しているのではなく石段となっていた。窯出しされず、匣鉢ごと残されているものも多かった。恐らく匣鉢同士がくっついてしまい取り出せないのだろう。歩留まりは30%程度とのことで、良いとは言えない。

 温度コントロールをどの様にしているか聞いたが、「長年経験を積んだ職人の視覚と勘に頼っている。その視覚と勘に従って、薪の投入の仕方を決めている」とのことであった。

 窯外の両側には薪が目いっぱい積み上げられていて、これらが、次から次へと職人たちの手で投入される様は、まるで、祭りと同じ賑やかさなのではないだろうか?

 この窯で焼成する製品は中国全土から応募があり、順番待ちだそうだ。なかには焼成のみこの龍窯で行い、他の工程は他でやるという客もいるそうだ。

 焼成する製品数は万のオーダーということであり、セットや取り出し作業だけでも大変である。どれが誰から焼成依頼されたものか、間違える訳に行かない。歩留まりが30%では、うまく焼けなかったものの数の方が多いことになる。依頼者にどの様に詫びるのだろうか。

 この登り窯の周りには、様々な光景が見られた。未使用と思われる匣鉢が山積みされている様子(写真5.27-5-14)。なかには焼成前の製品がところどころに無造作に置かれて様子も見られた(写真5.27-5-15)。

 更に、敷板等の焼成器具の他、何に使うのか竹が置かれていた(写真5.27-5-16)。浙江省は至る処に竹林がある。とりわけ龍泉市には多いように感じていたので、窯焚き用の燃料として使われることはないのか、自問したが、無いというのが自分なりの結論だった。

 竹は割らない限り、燃焼に寄与しない空洞が内部にあるので燃焼効率が悪い。割ったとしても、組織に樹液成分を殆ど持たず、やはり燃焼効率が悪いと思ったからである。ただし、

「木炭と竹炭をミネラル成分で比較すると、いずれの木炭にも Ca および Sr が竹炭より多く含まれていた。とくに紫檀炭および黒檀炭においては Ca の含有率は2%程度であって、スギ炭お よびウバメガシ炭の3倍〜8倍、竹炭の 35 倍〜80 倍と高い値であった。

 また、福井県産および千葉県産の竹炭に おいては共通して K、Mg、Na、Si、MnおよびZn が木炭類より多量に含まれていた。」と京都大学木質化学研究所の研究グルーが報告している。

 これらの成分は、釉に混じりあい微妙な色加減を呈し独特の風合いを醸し出す可能性がある。しかしながら、竹はあったものの燃料に出来るほどの量は見られなかった。

 そして、その後、歩いて数分のところにある陳さんの工房(写真5.27-5-17)を案内してもらった。成型、乾燥後の削り工程(写真5.27-5-18)、素焼き後の製品(写真5.27-5-19)、本焼成電気窯、焼成後開扉したところ(5.27-5-20)、完成品陳列棚(写真5.27-5-21)などの工程を見学させてもらった。

 その後、運よく、「曽芹記古窑坊」第七代当主の曽世平さんと面談出来るチャンスが訪れた。曽さんの店内の片隅にある茶席に誘われ、駱さんの通訳で会見が始まった。

 最初は50歳すぎかと思ったが、話の途中で、“ねずみ歳”というが分かり、陳さんと友達どうし、ということから考えると、若干44歳ということになるが本当だろうか。

 中国の活躍世代は日本に比べ、はるかに若いということは以前から認識していたが、このような伝統工芸分野でも然りということは、予想もしていなかった。

 工房の片隅みにあった椅子席に誘われて。そこに座り、駱さんの通訳で話を始めた。自らお茶を入れてくれて、飲み干すとまた、そそいでくれる、の繰り返しが5サイクルほどあった。

 「自分は営業活動があまり好きでない。」という話から始まり、「日本で青磁の販売代理店をやらないか」とか、「後継ぎは既に居る(息子)」の話など、60分近く懇談させてもらった。自分にとっては大変有意義な経験とひと時を持てたのである。

 そして、「曽芹記古窑坊」(写真.27-5-22)を後にして、また陳さんの案内で、次の観光地に向かうことになった。

 「曽芹記古窑坊」の工房入出門から出た大通りには、通行を邪魔しない様に大きな青磁が据えられていた(写真.27-5-23)。本当に焼成したものか、他の方法で作成されたモニュメントかは分からないが、「曽芹記古窑坊」を訪問する時の目印としてもらっているのだろう。

 次の観光地は、車でそれほど遠くない古い歴史のある村であるということである。事前の駱さんからもらった最終の旅日程には、「中国青磁小鎮へ観光、知合いの窯を見学」とだけあり、その詳細については触れられていなかったので、自分としては、想定外が有難かった。

 何故、この地に龍泉青磁を代表するような窯場、特に登り窯が造られて現存しているのかの答えがあるかも知れないと思ったからである。

 これまで黄さんが運転していた車を、今度は陳さんが運転し、そこへ案内してくれるのだ。

 運転している車から薪を大量に運搬している車が見えた(写真.27-6-1)。多分窯炊き用の燃料にする薪であろうと思い、運転中の陳さんに聞いてみたら、「そうではなく、このあたり一帯は、シイタケ栽培が盛んで、シイタケの植菌用の薪にする木材を運んでいるのです。」とのことであった。

 シイタケの植菌用の薪として適しているのは、主にクヌギ、コナラ、ミズナラになる。カシ、シイ類などもOKと一般的に言われている。、これらは、窯炊き用の薪としても使われる木材である。そこにわずかながら接点がありそうだ。

 そして、後日ウェブで調べたところ、植菌用の薪の必要条件として、「乾燥が不十分だと、しいたけ菌糸の成長が抑えられてしまう。その後、管理しやすいように約1mの長さに切断(玉切り)し、約1ヶ月程植菌場所で直射日光を当てないように注意して管理することが必要」らしいので、窯炊き用の木材の条件にも近い。

 場合によったら、青磁の焼成に余った木材を転用することも可能であろう。しかし、決定的な接点は見つからなかった。龍泉宝剣と龍泉青磁の接点は、高温の火の管理と鉄である。

 暫くして、案内してくれる予定の古い村落の入り口と思われるところに到着した。そこに立っているお堂の白壁には、見出しが「源底賦」と長々とした文章が記載されている(写真5.27-6-2)。

 五言絶句でも七言絶句でもない四文字熟語である。おそらく、この古い村落の特徴のいくつかをPRするキャッチフレーズを端的に四文字熟語に託そうとしているのだろう。

 お堂の傍らを通って、中に入って行くと、最初に出くわしたのは、路上にうずくまった6羽前後のアヒルの群れ(写真5.27-6-3)であった。

 おそらくはまだ雛であろう。涼んでいるのか、温まっているのか、天敵から身を守るために身を寄せ合い大きく見せかけているのか、よく分からない。

 そして、朽ちかけた屋根、壁からなる家屋の合間の路地(写真5.27-6-4)を陳さんに先導してもらい入ってゆくことになった。

 白い漆喰壁が剥げ落ち、下地の泥壁が露出している(写真5.27-6-5)。補修してしまうと観光資源の価値が減殺し、そのままだと、さらに朽ちて崩壊の運命を辿ることは明らかだ。

 後で聞いた話では、この源底村は細い路地通路を観光用に小石を敷き詰めた通路に改修される予定とのことだった。

 更に進むと、往時の繁栄を想わせる黒い瓦屋根を載せた土塀に囲まれた路地(写真5.27-6-5)が現れた。「源底賦」に、この村には陳姓の人が多いというようなことが書かれていた。

 案内をしてくれている陳さん(写真5.27-6-5)も同姓である。中国では玄奘三蔵の本名が陳江流であるように、陳姓は古代から名門である、と亡き小説家陳舜臣氏が言っていた。

 本人が陳姓なので怪しいと思っていたが、調べてみると、確かに周の時代からあったらしい。ちなみにアグネス・チャンも陳美齢が本名である。

 そして間もなく風格のある木造家屋が現れた(写真5.27-6-6)。土塀ではなく格子模様の外壁を両側に配した木造の門である。そこから中に入り進んでゆくと祠堂(写真5.27-6-7)が現れた。

 龍泉青磁の始祖を祀っているのであろうか(写真5.27-6-8)。飾られている青磁は、最近の黄緑色をしている青磁とは異なり、本当に青色をした青磁である。祠堂を出ると、ここの住民だろうか、数人が談笑している姿が見られた。洗濯物も干されていた(写真5.27-6-9)。

 白い漆喰が剥げ落ちた下に土塀ではなく、レンガ製の壁を持った人家も見受けられ、更にはそのような壁に浮彫されたレリーフがきれいに残っている(写真5.27-6-10)ところもあった。模様は松や鶴が表現されていて、縁起の良いものとなっている。

 村には小川も流れている(写真5.27-6-11)が汚くはない。生活排水は流れ込んでいないようであった。そして更に先に進むと、これぞ古い村と言える景観が次々に現れる。

 先ずは再び祠堂の様な建物である。入り口上部の外壁には、様々なモニュメントが配されていて、「東海〇家」という文字が見える(写真5.27-6-12、5.27-6-13)。

 祠堂の中は特に祀られている人物像はなく、喜と書かれた赤い貼り紙が貼られているだけであった(5.27-6-14)。特にこの村の繁栄に寄与した人物も居なかったのだろうか。

 そして、その後は、これまで全く補修されず、今日まで来てしまった感の漆喰が見事に禿落ち、土が露出した土塀を傍らに配した細い通路で、歴史を感じさせるものだった(写真5.27-6-15〜5.27-6-20)。
   本稿 完  つづく







2016/08/03 21:47:00|旅日記
龍泉青磁の旅 D4(5月27日)龍泉宝剣博物館見学。見学後中国青磁小鎮へ

7. D4(5月27日)龍泉宝剣博物館見学。見学後中国青磁小鎮へ

泊:龍泉披雲青瓷主题酒店               住所:龍泉市上垟鎮披雲青瓷文化园景区             TEL:0578-7322000>

「朝食に行きましょう。」との駱さんのドアノックがあり、ホテル食堂に向かった。ここの料理はバイキング方式であり、違和感のあるものはなく、おいしく食べることが出来た(写真5.27-1-1)。

 この日の予定は、最初に龍泉宝剣博物館を見学することになっている。黄さんの運転する車は、次第に山道を登ってゆく。山道と言っても、前日の小梅鎮の様な山道ではなく、市街地近くの小高い山の中腹(九姑山公園)といった感じであった。
 
 まもなく(8:30少し前頃)、博物館(写真5.27-1-2)に到着した。博物館正面前には一対の鐘(写真5.27-1-3、5.27-1-4)が展示されていた。鐘が南宋時代の銅鐘ということは分かるが、どの様な理由で、ここに置かれているのかは分からなかった。鐘と宝剣との接点が思いつかなかったのである。

 入館して最初に目に入ったのは、欧冶子という人物(後述)の人物像(写真5.27-1-6)である。金庸の武侠小説に登場する武具が展示されているかも知れないという程度の興味があったが、刀剣に対する興味は、殆どなく、予備知識も殆ど無かったので、館内を通り抜けるという感じの見学であった。

 それでも、いつ役に立つ情報に様変わりするか分からないので写真だけはこまめに撮った。中国語パンフレットと、館内案内(写真5.27-1-7)によると、この博物館は、皇甫江古代兵器コレクション、周正武捐贈刀剣コレクション、宝剣歴史展示、宝剣鍛製技術展示の各コーナーを1,2階に分けて展示しているとある。

 宝剣歴史展示では、最初に、中国歴代王朝に関わる剣の歴史を、“前言”として中国語と英語で、以下の様に紹介している。中国語➡英語➡日本語である、

 「前言:中国に於いて、100以上存在する武器の中で、剣は特別で、卓越した地位を占めている。剣は武器として最初に現れたもので、自分の身を守る為の長さの短い武器として現れた。
 しかし、剣が持つ機能は、より美しく、また所有する人の好みによって時代とともに変わってきた。「黄帝本行紀」に、「軒轅帝は銅剣を作り、そこに文字を刻みつけるために、采首山の銅を採掘した。」とあるが、これはただの伝説であり、最古の剣は、骨と石で作られている。
 しかし武器としての剣が最初に造られたのは銅(青銅)であった。商王朝の中期から末期に於いて現れた青銅からなる剣はアーク状をしているが、これは、北方の遊牧民族が武器としてではなく、牛や羊を屠殺するのに用いられた、と何人かの専門家は考えている。
 そして周王朝では、剣の先端部が鋭利となり、武器へと進化した。これが本当の意味での早期の剣の形態と言うことが出来る。そして春秋戦国時代になると、“呉越青銅剣”あるいは“越式剣”と呼ばれる本格的な青銅剣が現れ(戦国策、越策)、武器としての最盛期を迎えた。
 戦国時代の秦の剣は長さが長くなり、相手を先に倒すことを可能にした。同時に柄の部分も長くなって、両手で剣を支えることが可能になってきた。
 これらは剣の製造技術が向上した賜物であった。これが、青銅剣の最盛期であり、その後鉄剣の登場とともに、青銅剣はすたれてゆくことになる。剣は、西周王朝から春秋戦国時代にかけて、青銅剣から鉄剣への変革を経験することになる。鉄剣に関しては、西漢の時に大量に使われ、青銅剣から完全に置き換わってゆく。以降、剣は武器という本来の使い方から、その機能(役割)の変化とともに、垢ぬけてゆき、華美となっていった。」

 皇甫江古代兵器コレクションに属する刀剣を、写真5.27-1-7〜写真5.27-1-20に示す。中には、なぎなたの様な剣(?)(写真5.27-1-16)もあった。

 皇甫江についての紹介がパネル展示されていた。それによると、「1968年の生まれで(ということはまだ40歳台?)、北京大学で法学を学んだ。自らを抜刀斎と号した刀剣収集家で、「中国刀剣」という著書がある。龍泉宝剣博物館の名誉館長である。

 収蔵している古宝剣は5000本に達する。・・・・。」とあるが、その若さで、コレクションの資金はどうしているのだろうか?

 宋の司徒に、皇父充石という人がいて、この皇父充石の子孫が皇父氏を名乗り、前漢のときに皇父を皇甫に改めたといわれているらしいので、もともと皇室に連なる家系であり、コレクションに情熱を傾けるだけの財産のあった人なのだろう。

 また、龍泉剣の歴史について紹介されているポスター・パネルには、「龍泉剣の歴史は春秋戦国時代の末期に始まる。据<<越絶本>>に、次の様な記載がある。

 『欧冶子と干将は、龍淵、泰阿、工布と呼ばれる三本の鉄剣を作るために山へ鉄を採りに行った。(龍泉の原名は龍淵で、鉄剣を得て以降、唐の時代までは淵が用いられていて、そののち龍泉に改名された。)
 欧冶子と干将が秦渓山の麓で剣を鍛造したのが中国鉄剣製造の始まりとされている。それ故、龍泉の地名が広く知れ渡り、“龍泉”が鉄剣の代名詞となった。

 そして、欧冶子が剣を鍛造した秦渓山の麓にある湖は“剣冶湖”と言う名前が付けられ、宋の時代には湖畔に“剣子閣”があり、清の時代には“剣池閣”、“七星井”があったが、惜しくも毀された。
 北宋の翰林学士兼史観修撰担当の楊〇(〇は人偏に乙)は、<<金沙塔院記>>に、以下の様に記している。
 『縉雲の西方に龍泉という邑があり、そこは、かつて欧冶子(入り口に銅像があった人物)が鉄剣を鋳造した地である。』とあり、昔の人たちは龍泉剣を宝剣とも、壁に吊るして飾る装飾品とも考えていた。
 

 三国時代の曹植は、「盤石から生ずる翡翠のような宝剣は龍淵から生ずる。帝王が朝服を着る時に、この宝剣を佩くと尊厳が増して見える。」と言い、北周の庾信は、「龍淵剣の輝きは他のどの様なものよりも輝いている。」と言った。
 更に清代の秋謹は、「休言女子非英物、夜夜龍泉壁上鳴」と言ったらしい。

 意味がわからなかったので、後日、駱さんに尋ねたところ、「この句は、は1877-1907年浙江省紹興で生まれた秋瑾と言う女性が書いた詩の中の言葉です。
 彼女はその時代にあっては、進歩的な考え方をする人で、日本に留学したこともある。
 「休言女子非英物」は彼女の気持ちが、女性は弱いものではなく、強い人にもなりうる。「夜夜龍泉壁上鳴」は一つの伝説で、戦国時代に、仙人王子乔の墓の中にあった唯一の剣を盗もうとしたところ、剣は虎の啼き声をして龍の体に化身したという伝説。

 人は雄心壮志を持って、はじめて大事業が出来る、との喩えです。」とのことだった。
 「壁に架かる長剣をわが物にしようとする女子に対し、ヒロイン(女子)のやることではない、と言うべからず。」と言った、と言う意味なのであろう。

  龍泉剣の製造技術は、2006年6月中国国務院国家級無形遺産として登録されている。

 周正武捐贈刀剣コレクションのところでは、歴代の中国首席達が授与された剣の展示があった(写真5.27-3-5〜5.27-3-18)。

 被贈与者として、毛沢東、蒋介石、ケ小平、胡錦濤、習近平の名前を始め、ニクソン、レーガン、クリントン米国元大統領やロシアプーチン大統領の名前と剣の展示があった。

 贈与剣は一対、即ちフタ振りあり、一本は被贈与者へ、他の一本がここに展示されているのだそうだ。これら贈与剣として共通の特徴は、
1) 曲線部の無い直線剣。
2) つばの形が皆同じ。
3) 柄の先端に、紫、赤、黄色、白などの房が付いている。
4) 鞘つきである。
5) 刃の唾にちかい部分に装飾が施されている。

尚、ここのコレクションコーナーには金庸所蔵の剣(写真5.27-3-14)が展示してあったが、上記1)、2)、3)の特徴は無かった。

 また珍しい剣として杖剣(写真5.27-3-8)や乾剣(写真5.27-3-11)という剣の展示あった。これは運を天に任せるという乾坤一擲の“乾坤”を象徴していて、水平に架けられているのではなく剣先を天に向けて縦掛けられていた。

 更には、卑南族や泰雅族と言った台湾原住民が伝え持つ剣(写真5.27-3-18)の展示もあった。

 また宝剣の製造プロセスについては、作業者像が展示されていた(写真5.27-3-1〜5.27-3-5)が、鉄を高温で溶融し、これを砂型などの型に流し込み、ある程度冷えたところで離型し、熱いうちにたたきながら鍛造し、再び。火の中にいれ焼きなまし靭性を強くすることを繰り返す。そして刃の部分を研ぐ、と言う工程は、どこで製造しても共通のプロセスである。

 以上専門の館内説明員も居なかったので、詳しいQ&Aもなく、展示品とパネルに書かれている解説文(中国語、英語)を頼りにした、約1.5時間の見学であった。

10時前後に、再び黄さんの運転で中国青磁小鎮に向かうことになった。

   本稿 完 つづく







2016/06/21 14:42:03|旅日記
龍泉青磁の旅 6. D3、5月26日 龍泉青磁博物館、龍泉宝剣博物館見学

龍泉青磁の旅 6. D3、5月26日 龍泉青磁博物館、龍泉宝剣博物館見学
          泊:龍泉大酒店
         住所:龍泉市新華街83番
         TEL:0578-7220168

 龍泉博物館と龍泉青磁博物館とは合体して龍泉青磁博物館となった。その副館長の周 光貴 氏が案内してくれることになったが、氏の都合でD3のAMに変更された。

 朝食を朝7:00に摂り、8:00にホテル出発となっている。朝食は駱さんが、部屋をノックしてくれて、合図のもと、一緒に食堂(写真5.26-1-1)に向かった。食事(写真5.26-1-2)はバイキング形式で、味に違和感はなく、おいしかった。

 運転手の黄さんとは8:00にきてもらう約束だったが、まだ現れていなかったので、ホテル前の蓮池の写真を撮ることにした。龍を象った白い像(写真5.26-1-3、5.26-1-4)が蓮の葉に囲まれて寝そべっていた。池ではなく泉であり、これで“龍泉”と言いたいのだろう。

 間もなく、黄さんが現れ、出発である。最初の訪問地は、龍泉市小梅鎮にある龍泉青磁古窯遺跡で、そこへの、案内と説明は、龍泉青磁博物館の副館長(駱駝さんは館長と呼んでいた。)で、この日のAM中なら都合がつくということで、駱さんが、うまく頼み込んだ様だ。

 この様なネゴをやってのける駱さんは中国旅行ガイドとして大変頼もしく有難い。おまけに、事前に自分はそのことを知らなかったので、館長へのみやげを準備してこなかった。そうしたら、駱さん向けに準備した最もサイズが大きくずっしりした感じの菓子折りを館長さん用にし、彼女は、予備にもっていった小さ目の菓子折りで良いと言ってくれたのだった。この様な機転も有難いことだった。

 館長との待ち合わせ場所は、館長をやっている龍泉青磁博物館の入館ゲートの近くの駐車場で、先に自分たちが到着し、館長を待つ格好となった。その駐車場はなだらかな山の斜面中腹にあり、緩斜面の下った方には黄緑色の大きな龍泉青磁モニュメントが道路の中央分離帯に据えられているのが見える(写真5.26-1-5)。この様な光景は龍泉市内至る処で見られるのである。

 ここからは眺望がひらけ、おまけに晴天だったので、気持ちの良い周囲の光景であった(写真5.26-1-6〜写真5.26-1-9)。

 入館ゲートをフリーパスで通り抜けた白い乗用車を見た駱さんが、「あれが館長に違いない。」と声を発した。

 間もなく、博物館(写真5.26-1-6、5.26-1-9)の方から徒歩で降りてくる人が見えた(写真5.26-1-10)。館長というので、高齢で、どっしりした人かと予想していたが、その歩いて近づいてくる姿を見た時、「もしかして30歳前後?」と、駱さんと一緒につぶやいてしまったほどであった。しかし、更に近づいてくると、「やはり40歳は超えていそう。」と館長までの距離に反比例して、推定年齢が高くなってゆく。

 龍泉青磁古窯遺跡までは、黄さんの運転する車に同席して向かうこととなり、後部座席で自分とは互いに隣席位置となった館長の横顔を見ると、「やはり50歳は超えているかも」との見え方になった。

 後部座席に納まったところで、駱さんが預かっていてくれた手土産を渡した。「謝々」、「不謝」と言葉を交わし、ついで、名刺交換をした。龍泉青磁博物館(LONGQUAN CELADON MUSEUM) 副館長 周 光貴 (龍泉市 大窯 龍泉窯遺址 文物保護所)とあった。

 駱さんの通訳で、龍泉青磁の簡単な車内講義が始まった。殆どQ&A方式であったが、自分としての最大の興味は、同じ浙江省にある越州窯との関係で、龍泉青磁は越州窯をひきついだとされているが、殆どの作陶技術を受け継いでいながら、色は黄緑っぽく変化している。

 特に現代窯は完全と言ってよいほど黄緑である。何か特別な事情があったのか?ということだ。また事前の調べでは、80m近い長さの登り窯(龍泉大窯杉樹達山2号窯)があるとのこと。これから周さんに案内してもらうのは南宋時代の登り窯址で、そことは異なる。

 龍泉市小梅鎮にある龍泉青磁古窯遺跡であった。山間のクネクネとした山道を進んでゆくと、博物館から40分ほどして龍泉青磁古窯遺跡に着いた。

 駱さんが、「ここまで来て思いだしたが、以前京都で陶芸をやっている日本人観光客をここへ案内したことがあることを思い出した。」とつぶやいた。そういえば車の中で、周館長が「最近、日本人を案内した。」と言って写真を見せてくれた。

 京都、産寧坂あたりには、何件もの陶磁器販売店があり、清水焼だけではなく、青磁を販売していたり、轆轤の実習が出来るショップもある。そういうところの関係者か。あるいは京都の北山あたりで、ひっそり閑と、陶芸道を突き進んでいる人達か。

 いずれにしても青磁は日本の古窯のルーツと重要な接点を持ち、龍泉は古来より越州、景徳鎮とともに代表的な産地であり、そこの登り窯や登り窯址を知ることは、自分のルーツを知ることとも重なり合うところがあるのではなかろうか。

 日本人は、そのような感懐にデリケートで、越州青磁、龍泉青磁、景徳鎮青磁に親近感を抱き、観光を思い立つ人も多いのであろう。

 龍泉青磁古窯遺跡の入り口は、施錠されていたので、開錠されるまでの間、掲示されていた配置図(写真5.26-2-1)を見た。この配置図(楓洞岩遺跡景区案内図)によると、拝観ルートは二つあり、一つは直接登り窯址中腹部へ至り、登り窯址の周りを反時計回りに移動するコース、もう一つは、従事していた作業員の住居址、工作室址、排水溜等を見てまわり、登り窯址の下端に至り、登り窯址の周りを“反時計回り”に移動するコース(写真5.26-2-2)である。

 いずれでもないコース、即ち、登り窯址の下端に至るまでは第二のコースと同じであったが、登り窯址の周りを“時計回り”に移動する案内をしてくれた。他に見学者が居なかったからできたことであり、車を駐車している所へ戻る必要があったためであったが、磁器が完成するまでのプロセス通りに移動したので分かり易かった。最初に目に入ったのは、地表に埋まったおびただしい数の匣鉢であった(写真5.26-2-3、5.26-2-4)。

 匣鉢は、その中に焼成する成型体(グリーン体)を収納して、隣同志くっついてしまうのを防いだり、成型体周りの温度やガスの安定制御に不可欠である。匣鉢内に木くずなどの有機燃焼物を一緒にいれると、匣鉢内が還元雰囲気気味となり、いわゆる還元焼成が可能となる。木くずが不完全燃焼し、還元力の強い一酸化炭素(CO)濃度が匣鉢内で高くなるからである。

 また木くずに含まれる亜鉛、マグネシウム、カリウムなどの鉱物元素が酸化物または亜酸化物として焼成品の釉に付着、拡散し、微妙な風合いの、世界に一つしかない焼成品が出来る可能性もある。しかし、これは同じものが再現できないことにもつながり歩留まり低下の原因になる。

 この匣鉢の形状はサイズは異なるが、皆円筒状をしていることに気付いた。このことは、成型が全て轆轤を使って行われたことを意味し、唐三彩の様に人物や動物の像は対象にしていないことが分かる。

 第二のコースに沿って移動してゆくと、排水溝やレンガ造りの貯蔵庫(写真5.26-2-5)や部屋間を隔離する壁跡(写真5.26-2-6)が現れたりで、どちらかと言うと生活空間に近い。

 そして、登り窯の最下端部に至り、登り窯址を緩やかに見上げる形となる(写真5.26-2-7)。所謂、窯の入り口部であり、登り窯の寸法は幅2.2m、高さは2m、長さは39.5mで傾斜角は15°程度とのこと。高さが2mということは、人が屈まずに中に入り、セッティングが出来るということである。

 窯の入り口部には通風溝が形成されている。そして、入り口部から少し視線を上にずらすと、窯内部に匣鉢を多数並べて焼成する様子(写真5.26-2-8)が目に入る。よく見ると、匣鉢は数段きちんと重ねてあるが、隣接した匣鉢間は接触させず離間させてセットされている。最下部の匣鉢は直接土の上に置くのか、敷き板の上に載せるのか、また、積み重ねた最上部の匣鉢には蓋をするのかは、これを見ただけでは分からない。

 この登り窯址には見学者の為に、焼成するのに必要な諸構成の名称が表示されている。それらを記すと、下から@通風道、A窯前工作面、B火膛(写真5.26-2-9)、C窯壁、D匣鉢、E不同時期窯炉圧調整面、F窯室(写真5.26-2-16)、G窯門(写真5.26-2-13)、H投柴孔(写真5.26-2-14)、I排煙室となっているが、A、Eは何のことか分からなかった。

 そして、窯の入り口部から順路を逆に(時計回りに)移動すると、登り窯の手前に、焼成前の工程を作業する作業空間が現れた。

 成型工程の轆轤作業土間跡(写真5.26-2-10)、乾燥やその後の素焼きの場所跡や、施釉する場所跡、これらの作業に伴って発生する残土を廃棄したり、使った水を排水する排水溝などの跡があった場所が示されている。ここから登り窯全体(写真5.26-2-11)を眺めると、登り窯の傾斜度が分かる。後日、写真に分度器をあてて図ったところ15°であった。

 そして、時計まわりに進むと、登り窯の最奥部(写真5.26-2-12)に至り、窯内部の様子が分かる。半円弧棒は、この様に炉の天井部が被さっていたとのマークである。また、窯内底部に表面が凹面で中央に穴の開いたものが写っている。

 これが何かは分からないが、地面と匣鉢との間に置く下敷き部材かも知れない。凹面は匣鉢との接触が面で起きず、周縁部のみで接触させ、匣鉢とのくっつきが 運悪く起こったとしても、中央部の丸穴を通して、軽く突っつくだけで、くっつきが解消されることになる。以上は推測である。

 窯門(写真5.26-2-13)は、炉内に、または炉内から、焼成前の品を運び込んだり、焼成後の品を運び出すための出入り口である。投柴孔(写真5.26-2-14)は燃料としての薪をくべる為の孔である。薪の材料としては、杉、栗、楢、クヌギが多い。龍泉には竹が多く自生しているので、竹を使うことがあるか、聞いてみたが、あるとのことだった。

 窯室(写真5.26-2-15)は炉室のことであり、火膛(写真5.26-2-9)と排煙室との間に配設されていて、窯壁、匣鉢、窯門(写真5.26-2-13)、投柴孔(写真5.26-2-14)窯底からなっている。窯底が、露出した地面なのか、磁製敷板を敷いているのかは良く分からなかった。

 窯室(写真5.26-2-15)を示す写真の隅に写っているのは、匣鉢と地面との間に置いて使う、前述した下敷き部材であり、窯底の断熱部材としているのかも知れない。

 これで登り窯全体を見学したことになり、順路を時計まわりに移動し、最初の入り口近くまで戻ってきた。

 そこには赤い芙蓉の花(写真5.26-2-16)が咲いているのに気付いた。芙蓉の花は古都や遺跡に似合う。そう思って見とれていると、管理人の中年のおばさんが、「お茶を如何が?」、と笑顔で近づいてきた。

 それを喫し、周館長含めて、黄さん運転の車に乗車し、龍泉青磁古窯遺跡(楓洞岩遺跡)を後にした。帰りの車の中で周館長から、「質問があれば何でもどーぞ。」と言われたが分からないことが多すぎて、整理がつかず的確な質問が出来なかった。

 周館長は用事があるということで、途中で下車し、また元の3人のクルーとなった。時刻は、まだ10時を少し回ったところであり、一度ホテルへ戻り、暫し休憩をとることになった。

 そして、再び龍泉青磁博物館へ。駱さんは、館内ガイドを依頼していたらしいが、なかなか現れず、暫く博物館ロビーで待った。その間にロビー正面(写真5.26-3-1)、天井(写真5.26-3-2)等(写真5.26-3-3)の写真を撮って時間を費やしたが、それでも現れないので、駱さんが、周館長に確認の電話を入れた所、間もなく、館内ガイドが現れた。

 先ず、この館内ガイドに館内の展示を概説してもらい、そのあと自分達(自分+駱さん+黄さん)だけで、ゆっくり写真を撮りながら見学するとの駱さんの提案に賛成した。

 館内ガイドによる館内展示の説明が一通り終わった後、館内ガイドと駱さんと自分とでスリー・ショット記念写真(写真5.26-3-4)を撮らせてもらった。

 この時初めて、その館内ガイドが周館長の奥方であることが分かった。先ほど確認の電話をした相手は、周館長ではなく、周館長の奥方だったのかも知れない。恐縮至極であった。

 さて、これからが見学本番である。最初に、床に描かれた龍泉青磁窯の分布地図(写真5.26-3-5)を見た。緑が基調のコントラストの強い地図で、文字を読み取りにくかった。

 そこにはAM中に周館長の案内で見学した小梅鎮の楓洞岩遺跡や、事前調査で知った龍泉大窯杉樹達山もあったのだろうが、位置の確認は出来なかった。

 先ず、龍泉青磁の製造プロセスフロー(写真5.26-3-6)である。胎を形成するための磁土の“取土”から“施釉”の工程まで計13工程と、釉土の採取から始まって施釉の工程までの9工程と、施釉後から完成までの7工程の合計28工程からなっている。これらの作業工程ごとに、作業風景を作業姿の像を用いて分かり易く立体展示されている。

 一番目の工程は“取土”(写真5.26-3-7)であり、龍泉地域には良質の土が豊富に採れる場所、例えば、大窑、金村、渓口、上垟、木岱、宝渓、道太、安仁があり、取土地によって組成が微妙に異なっている。

 これらの取土地に近接して、窯場が築造されることが多い。龍泉青磁とは、これらの地域で採取された土を使って製造された磁器の総称である。工人たちは、ニーズに応じて、どこの土を使うか選択する。

 青磁に用いられる磁土(5.26-3-9)は、長石や石英からなり、主成分の酸化ケイ素(SiO2)に微量混合物として、酸化鉄、酸化鈦(チタン)、酸化鈣(亜鉛)、酸化鏷(マグネシウム)、酸化ナ(酸化カリウム)、酸化鈉(ナトリウム)が含まれる場合がある。

 尚、磁土の中に“紫金土”(写真5.26-3-10)と呼ばれる特別な土がある。これは、長石と鉄鉱物からなる赭(あかつち)色をした磁土で、成型後に、形が崩れにくく、特に大型の磁器や薄い皿を作るときに用いられることが多く、大窑や渓口に産出する土である。

 次の工程は“粉砕”である。採取した土の塊には草根や、その他の有機物、砂利、鉱物、等の磁土としての不要物が混じっている可能性がある。それらを除去するには土の塊を粉砕して塊全体を粉にする必要がある。

 その次の工程は“淘洗” (写真5.26-3-8)である。粉砕した粗粒は、篩にかけ、砂粒や、小石を除去した後、水に溶かし、槽に沈殿させ、軽量の細かい草根や、虫や、その他、有機物は水面に浮かせて除去し、砂粒や小石は重いので先に沈殿し、堆積物の底部に溜まる。上澄み液を除去し、表層近くの沈殿物を採取すると、不要物が除去された、即ち“淘洗”された、細かい粒子からなる精製磁土(粘土)が出来上がる。

 4番目の工程は、“成型”(写真5.26-3-12)で、土を手で混錬し(写真5.26-3-13)、精製磁土が、ムラが無く、空気の巻き込みが無いように丹念に練ったものを使い、手回し、または足回し轆轤(写真5.26-3-12)を使って、食器、皿、花器、壺などに成型する。

 次の工程は、“乾燥”後、“整形(装飾)”(“削り”、“接合”など)(写真5.26-3-14)で、成型時に目的形状との差異がある部分を修正する工程で肉厚の均一化修正や、傷や汚れの修正であり、素焼き前なので、柔らかく削り等の修正がしやすい。

 この工程で、修正というより、装飾することもある。装飾は、“堆貼”、“〇雕(〇は楼の木ヘンの代わりに金ヘン)”、“捏塑”などであり、“堆貼”は、花びら、貝、縄などを、成型後に表面に押し付けて模様をつける方法、“〇雕”は乾燥後で成型時よりは少し硬くなった表面を、彫ったり、削り取って模様をつくったり、透かし彫り、や表面に立体感を持たせる成型方法、“捏塑”は、轆轤によらず、人物像や動植物、龍の像の様な立体像や、“堆貼”で本体にとりつける耳やリングなどの飾り等を作る工程である。

 そして、 “素焼き”(写真5.26-3-15)、“装飾”(写真5.26-3-16)と続く。装飾は、前記の通り素焼き前に行うこともあるが、捏塑工程で耳やリング等の取り付け部品を別途作り、別々に素焼きして、変形しにくくなったものを、高温でガラス質となる釉剤などを用いて接着するなどの方法である(写真5.26-3-16の左端の花器)。

 次いで“施釉”(写真5.26-3-17)である。釉は最初に釉土の取土から始まる。写真5.26-3-11は、釉土の原石、粉砕後の粉末、粉末に加水し、固めたものの写真である。釉の製造工程に、成型、素焼き工程、修飾工程は無く、泥漿工程は胎づくりにはないが、基本的に磁土の製造工程とほぼ同じと言えるようだ。

 施釉したあと、乾燥し、焼成に入る。焼成窯は、最近はガス窯や電気窯が使われる様になったが、それ以前は、かつては龍窯と呼ばれた登り窯(写真5.26-3-18)が使われていた。

 登り窯の基本構造や各部位の名称は、小梅鎮の楓洞岩遺跡の見学で把握できていたが、この写真の登り窯図で窯の入り口の“窯頭”、出口の“窯尾”の名称は無かったが意味は分かる。

 窯室の部分を拡大した図を示す(写真5.26-3-19)。この図から匣鉢の形状が円筒だけでなく。角筒形状もあり、それぞれ異なる寸法のものがあることが分かる。

 また匣鉢は直接地面に置くのではなく、磁器製と思われる敷板の上に載せたり、敷板の上に、更に窯具(スペーサ―)(写真5.26-3-20)を介して匣鉢を積み重ねていることも見てとれる。

 またパネル説明(写真5.26-3-21)によると、窯内温度は1260℃〜1300℃に保たれ、温度が高く安定している窯室の中央部には、大きな匣鉢を、温度が低めで、不安定なところがあるその両側に、小さな匣鉢をセットすること。また青磁釉は冷却時の温度やガス圧制御が重要で、職人の長年の経験や勘による高度な技術に頼っていたことが紹介されている。

 そして最後に出荷である。運送するのには舟便が都合が良く、船着き場では、出荷内容を帳簿につける係と、それを見張る係がいた(写真5.26-3-22)のであろう。

 以上の様な工程を経て作られた、各時代ごとの龍泉窯の特徴や分類が、以下の各項目ごとに現物とパネル展示がされていている。

1)南宋龍泉青磁(写真5.26-3-23)
青磁のルーツは、紀元前14世紀頃の中国(殷)に遡る。後漢代に流行し、以後次第に普及した。 製造技術は日本や高麗にも伝播している。

2)元代龍泉青磁(写真5.26-3-24)
龍泉青磁は元王朝時に繁栄を極め、生産量は増加した。現在見つかっている窯の数は300箇所以上に達している。尤も重要なことは、この時代に焼成技術の改良がおこなわれたことであり、例えば高さ1m直径30cmの花瓶の様に大きなサイズの青磁が生産できるようになったことである。また、青磁以外の磁器の影響もあり、装飾に工夫を凝らしたものが数多く生産された。

3)明代龍泉青磁(写真5.26-3-25)
明代中期以前は、180箇所前後の青磁窯がみつかり、相変わらずの繁栄を見せた。この時代も大きな龍泉青磁の生産は続けられた。王宮用の磁器(官窯)も生産された。

 著名な願仕成の作品は特に名高く、花紋を削り彫りする新技術は明代早期に官窯として注目された。大窯楓洞岩遺跡からこの当時の官窯青磁が発見されている。精緻な紋飾技術と厚い青翠色の釉の技術とが融合した精美が支持された。しかし明代晩期には粗製乱造で人気は低落し、徐々に衰退しはじめた。

4)清代龍泉青磁以降(写真5.26-3-26)
清王朝における龍泉青磁は、釉を厚く、付け、黄緑色を呈し、表面に、不意に出来る小さなヒビ模様(貫入)の入った青磁があったが、一部の花器製品を除いて、衰退し、青磁の中心が、他地域(景徳鎮)に移っていった。そして、1970年代になって周恩来の尽力もあって再興され、往時の盛況を取り戻しつつある。

5)兄窯と弟窯(写真5.26-3-27)
龍泉青磁は主に、クラックの入った黒胎青磁と、クラックの入っていない白胎青磁からなり、前者は兄窯、後者が弟窯と呼ばれている。前者は南宋時代中期に、龍泉大窯杉樹連山、亭後山、渓口瓦窯垟 等の諸窯址から見つかっている。

 これらの青磁は、王宮や宮廷向けに生産された。黒胎青磁の主な特徴は、足の部分と淵の部分が紫っぽい黒色を呈すること、薄い胎と、厚い釉とからできていることである。

 足の部分と淵の部分は釉が薄くなる部分であり、胎の色と薄い釉の色が混じった紫っぽい黒色となる。兄窯は宋代五大名窯の一つに数えられ、龍泉大窯で焼成していた章生一と章生二の兄弟の兄の方が開発したものである。一方弟窯は白胎や朱砂胎の上に青磁釉を厚く形成し、梅の実の様な黄緑色を呈した磁器である。

 以上、青磁についての紹介を龍泉青磁博物館の展示パネル資料、周館長とのQ&A、それと若干のウェブ検索情報を主な情報源として、まとめた。

 以降は、実際に目にした様々な龍泉青磁について撮った写真をもとに、説明や感想が可能なものについてはコメントをつけて紹介することにする。

 写真5.26-4-1〜5.26-4-5は、“瓶”と呼ばれるもので、皆、轆轤を使って成型しているもの、写真5.26-4-6、5.26-4-7は非常に精巧につくられていて、四角柱や八角形の多層の建造物を模して造られている。

 また、写真5.26-4-4とその頭部拡大写真の写真5.26-4-5から分かる様に、ガラス化して曇りガラスの様に半透明に見える部分がある。

 よく成型と焼成が出来たと感心する。ちなみにこの青磁は博物館の代表的な磁器の一つで、“五管瓶”と言い五代時代(807〜960)に造られたものである。

 以上の様に、上から見た形状が円、四角形、八角形の回転対称性の良い形の“瓶”が多かったが、写真5.26-4-8や写真5.26-4-9の様に人や、動物の形をした青磁も展示されていた。人の顔の部分や蛙の目の部分が、異なる色になってる。唐三彩の磁器胎に青磁釉をかけた青磁もありうると感じた。

 そして、瓶に龍や鳥がまとわりついた青磁(写真5.26-4-10〜5.26-4-13)も各時代ごとにあり、その色も多彩であるが、それらがまとわりついていない青磁に比べ色彩のバリエーションは少ない様に感じた。

 また、青磁全体の重心が、鉛直に立った中心線上からずれて、安定感に欠く様にも見えるが、作者の意図はそれ以上のものがあったのだろう。 

 更には、クラック模様(貫入)が施された椀(写真5.26-4-14)、内面に著名人(李白)の名前が刻された椀(写真5.26-4-15)、外側面に八卦模様が配された盤(写真5.26-4-16、“八卦紋水盤”)、縦方向にのみクラック模様の入った椀(写真5.26-4-17)など時代を越えて多彩な青磁の展示であった。

 また、本稿に写真の紹介は行わなかったが、破片として収集されたものも多く展示されていた。

 2012年1月に愛知県陶磁美術館で開催された「日本人の愛した中国陶磁 龍泉窯青磁展」での展示品目録情報を参考にすると、青磁の分類は、瓶、盆、香炉、壺、盤、豆、鼎、鉢、水注、椀、杯、尊などがあり、更に細分類すると、例えば瓶について言うと、牡丹紋、唐草紋、芙蓉紋、蓮唐草紋、霊芝唐草紋のいずれかの紋が付いているが、圧倒的に多いのが中国の国華の牡丹紋であった。

 また芙蓉紋青磁が、周館長に案内してもらった楓洞岩窯址から複数生産されている。牡丹紋は他の龍泉窯でも生産されていた様だが、芙蓉紋は楓洞岩窯のみのようである。咲いていた芙蓉の花(写真5.26-2-16)は、楓洞岩窯の象徴だったのかも知れない。
     本稿 完    つづく







2016/06/13 21:51:01|旅日記
龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29) 5(つづき)5月25日 龍泉市街地
龍泉青磁の旅(2016.5.24〜5/29) 5(つづき)5月25日 安仁鎮永和橋から専用車で1時間半ぐらいかかる龍泉市街地へ。
                           
          泊:龍泉大酒店
          住所:龍泉市新華街83番


【龍泉大酒店のある龍泉市街地】
 16:00頃には永和橋を後にして、D2、D3の宿泊予定ホテルの龍泉大酒店のある龍泉市の中心地に向かった。約40分後に市街地に入ると、道路は広く、整備が行き届いていた(写真5.25-7-1)。

 又、雨がパラついていたのか、ところどころに水たまりがあり、面白い恰好の傘をさして自転車を運転している人も居た(写真5.25-7-2)。

 そして、間もなく龍泉大酒店(写真5.25-7-3)に到着した。ホテル内はロビー(写真5.25-7-4)と言い、部屋(写真5.25-7-5)と言い、青磁、しかも龍泉青磁の黄緑色一色(写真5.25-7-6)であり、まさに青磁の中心地にいる実感がした。

【夕食は海鮮米粉(ビーフン)麺】
 チェックイン後30分ほど休憩させてもらったあと、夕食の為、レストランを求めて市街地を歩きまわることにした。

 事前に駱さんが調べていた海鮮レストランを探すのである。そのレストランの所在が駱さんのスマホ地図には表示されていても、その地点に来ても現実には現れないので、相当の時間あちこちを探し回り、何回か道を尋ねているうちに、やっと店が見つかり、夕食にありつけた。

 「雲吞(ワンタン)が食べたい。」と、希望を言ったが、その店には無く、仕方なく、米粉(ビーフン)麺に海鮮素材をミックスした麺を、写真メニュー(写真5.25-7-7)には無かったが、注文してくれた。

 この米粉(ビーフン)麺(写真5.25-7-8)は美味であった。駱さんは日本人、強いては筆者の舌を知り尽くしているように感じた。

【16000歩の龍泉市街地散歩】 
さすがに歩き疲れた。駱さんのスマホ万歩計で、その日の歩数を診てもらうと、なんと16000歩を越えていた。一歩0.5mとすると8km歩いたことになる。

 ホテルに戻る途中スーパーで、夜食と飲み物を買い、部屋に戻った。50個以上ある山桃の1/2程と夜食を食べて、疲労が困憊していたせいか、また、同じホテルに2泊連泊となる安堵感からか、直ぐに眠れた。
  本稿 完  つづく