槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/12/21 1:45:56|旅日記
D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊 〜前編〜

◆D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊
   〜前編〜

 朝食は、この日も駱さんに部屋のドアをノックしてもらって、食堂まで一緒に向かうことになっていた。ただ食堂のオープンは7;00で、食後の薬の服用と休憩の時間に少しゆとりがあった。バイキング方式の朝食(写真11.3–1-1)であったが、ここも味に違和感が全くなく、美味しく食べられた。食後部屋に戻って、外の景色を眺めたが、霧が濃く、高層ビルもよく見えなかった(写真11.3–1-2)。四川省は霧が多いことで有名と、司馬遼太郎
の「街道をゆく 蜀の道」に書かれている。

 足元に目をやると、手入れの行き届いた、屋上庭園が見える(写真11.3–1-3)。庭園の何カ所かにはブーゲンビリアの深紅の花が興を添えていた(写真11.3–1-4)。ホテルの裏側で、この様な光景が見られるということは、中国では稀である。ホテル経営者の客に対する、おもてなしの精神が感じられる。

 そして8:30にホテルを出て、蒋さん運転の日産車に乗り込み、一路三星碓遺跡を目指した。出発して25分経ち、そろそろ高速道路入り口ちかくで、大渋滞、というより全く動かない。これ以上待っても動く気配は全くない、と蒋さんは、強く感じとったのだろう。高速道路に並行して走っている国道を利用し、いくつか先のインターチェンジから高速道路に入ることにした。結果的にはこれが大正解であった。

 国道は山道にもなり、畑に囲まれるところもあるが、いづれにしても、濃霧というか靄がもの凄い。二つほど先のインターチェンジから高速道路に入った。この時、大渋滞の理由が分かった。濃霧による大型車の交通規制をしているのだ。小型車は規制をしていないが、大型車がインター入り口で立ち往生して邪魔しているので、小型車も移動できなくなっているのだった。インターから高速本線に入ってしばらくすると、成都まで100kmの道路標識があった。三星碓は成都の少し先なので、途中休憩しても2時間程度の道のりである。

 しかし、相変わらずの濃霧(写真11.3–1-5)である。インターチェンジから高速本線に入って10分弱のところにあるサービスエリア(爽江=ジャージャン)でトイレ休憩をとることにした。ついでに、そこで包装が如何にも中国っぽい土産を購入した。「玫瑰牌=メイグイパイ」という名前で、金釵爽心米花糖という菓子であった。後で味見をしたら日本のおこしと同じであった。釵はかんざしのことであり、花というのはバラのことだろう。

 後日袋に記載のホームページにアクセスしたら、重庆市にある江津米花糖有限责任公司という1926年に設立された老舗の企業の菓子製品であることが分かった。この菓子は小袋包装のデザインは極めて中国っぽいが中身は おこし そのものであり、味も日本のものと変わらない。土産にしたつもりだったが、結局すべて自分で食べてしまった。

 高速(成楽高速公路)を走っていると、行き先表示が次々に現れる。その中に眉山という地名があった。日本にも徳島県にある地名で、さだまさしの小説名でもあるが、行き先表示に現れた 眉山 はそれとは全く関係が無い。楽山市と成都市のほぼ中間点にある市で、楽山市にも流れていた岷江沿いにある地級市である。

 眉山市は駱さんとのちょっとした接点がある。駱さん曰く、「杭州市西湖に蘇提という橋+堤があるが、蘇というのは北宋時代の詩人蘇東坡(蘇軾)のことであり、眉山はその蘇東坡の出身地で、眉山から優秀な進士が多く出ている」とのことだった。自分もこの人物について調べてみたが、驚いたことに水滸伝で最大の敵とされた高俅が一時蘇東坡の配下だったことがあり、その時受けた恩を返すために、蘇東坡の死後、遺族を秘かに支援していたという。人は異なる角度からみると美談の主になっていることもあるのだ。

 その後、車中で居眠りっをしていたようだ。気が付いた時は成都にかなり近いところまできていて、またサービスエリアで休憩である。時刻は現地時間で11:45頃である。霧も晴れて太陽が顔を出し始めた様である。但し薄曇りと言った方が正しいだろう。三星碓まで15kmと案内板に記されていた(写真11.3–1-6)。このサービスエリア(写真11.3–1-7)に人は少ない。トラックの駐車が見られないのは、楽山での交通規制の影響か。

 そして、三星碓遺跡に最も近い外環高速路の分岐路出口から普通道路に向かった。町なかに入ったのは、恐らく広漢市の中心地(写真11.3–1-8)と思われる。交通量も人も増えて来た。ほぼ正午という時刻なので三星碓遺跡見学前に昼食を済ませることにした。

 店は清潔感があり、壁面にメニューが貼られている(写真11.3–1-9)。運転手の蒋さん(写真11.3–1-10)は、チャーハンを発注した。どれもおいしそうだったがワンタンは残念ながら無かったので、ネギとほうれん草を載せた醤油ラーメンとワカメ入りスープ、それに豚足だった(写真11.3–1-11)。

 価格は一部の特色料理を除いて、小盛6元(約75円)、中盛7元(約105円)、大盛8元(約90円)で格安である。街なかの店は中国全土似たようなものである。

 これまでの中国旅行では、グルメには余り興味はなかったが、駱さんにガイドを依頼する様になってから、店に、トウガラシや山椒を好みの味になる様に調整することを頼んでくれるので、違和感を感じる味にはならず、中国グルメに興味が持てるようになってきたのである。

 さて、いよいよ三星碓遺跡見学が始まる。
三星碓出土品を見ることができたのは2回目である。1998年春から初夏にかけて東京・世田谷美術館で「三星碓〜中国5000年の謎・驚異の下面王国〜」という陳列展があり、それを見学したことがあったからである。これまで見たことの無い出土品にどきもを抜かれ、これは地上に降臨した異星人が作り上げた文化に違いないと本気に思ったほどであった。特に目が飛び出た青銅仮面は異様で、眼が飛び出ている理由を知りたくなった。

『紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである[1]。本遺跡は東城壁跡約1100m(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180m・西城壁跡約600mが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。

三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、延2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4800〜4000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。

 第2・3期は4000〜3200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。

 第4期は3200〜2800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5〜6000m・南に2〜3000mに広がり、総面積約12km2で、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6km2である。』

とWikipediaに紹介され、更に

『三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3、4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を有力に証明してくれる。』と続く。

 展示館の前にはとっくに収穫が終わった麦畑が広がっている(写真11.3–2-1)。そして目を遺跡側に移すと遺跡の案内板(写真11.3–2-2)があり、そこに簡単な説明と二号坑発掘現場写真と地図が書かれている。

 更に進むと、「20世紀80年代三星碓城墻」というタイトルの看板(地図)(写真11.3–2-3)が建てられていた。この地図を見ると、北に鴨子江という河が配置していて、東西と南にそれぞれ城墻を配置し、それらに囲まれる位置に、三星碓城墻と亮湾城墻の計5つの城墻がある。そして三星碓城墻のすぐそばに、一号祭祀坑と二号祭祀坑がある。

 看板のタイトルが、「20世紀80年代三星碓城墻」とあるのは、今後の発掘によってまだ新しい遺構が出てきたり紀元前2000年以前の遺構が発掘される可能性があるという示唆を与えたいのだろう。

 この案内板をもう少ししっかり見ておけばよかったと後悔したのは、このあと三星碓城墻のすぐそばの一号祭祀坑と二号祭祀坑を見学した後、博物館に向かうのだが、二通りの道があり、少し遠周りだが、亮湾城墻と西城墻を経て、更に鴨子江河岸を東に向かって博物館に至る路があったのだ。そちらの道から時間をかけても行けばよかったと後悔したのだ。

 そして、いかにも祭祀場と思わせる階段があり、登ってゆくと天に近づくことが出来ると、思わせぶりの建造物が現れた(写真11.3–2-4)。無論現代人が最近(20世紀末)建造したものだ。その周りには、たくさんの金盞花(または百日草)らしき花が咲いている。

 その階段を上がってゆくと、壇上には、厚いガラス越しに坑が二つ見え、片方には、青銅製の銅器の断片が折り重なるように散在している。故意に破壊しない限りこの様な壊れ方はしないであろうし、この無秩序な散在の仕方は墳墓に埋められる俑とは異なり、悪意を持って捨てられたに違いない。一号坑(写真11.3–2-8、11.3–2-9)に比較して二号坑(写真11.3–2-5、11.3–2-6)の方が沢山の青銅器の断片が折り重なって捨てられている。

 二号坑は深さ方向が三層に分かれていて、最上層には象牙が坑全面を覆う様に敷き詰められ、その下に大型の青銅製器物、立人像、人頭像、や尊、罍(ライ)などが置かれ、最下層には、小型の青銅製の部品や樹木。玉石器、子安貝が大量の草木の灰と共に投げ込まれていた、とのことである。

 一方、一号坑には、純金を打ち延ばしたもので、長さ143cm、重さ463grの杖があった。杖には精巧な模様が形成されているらしいが、写真に撮ったものには模様はなく、単なるひん曲がった青銅製ではない棒で、面白くない。模造品ということは分かるが、もう少し、らしさ が欲しいものだ。出土された時の状況は、『約4.5m×3.4m、深さ1.5mの坑で、異物の大部分は坑の南半分に集中し、北半部には少なかった。・・・・・。玉石器や黄金の杖に続いて、人頭像や罍(ライ),尊などの大型の青銅器を投入し、次に焼けた動物の骨滓を入れ、最後に土器などを投じたものと推測される。』と朝日新聞社版 「三星碓」に記載されている。

 三星碓に関する更に詳細な紹介は割愛するが、今回遺跡のある地に立って(写真11.3–2-7、11.3–2-10)、本著の読み進みが早くなったように感じる。

 本稿の最初に、博物館に向かう二通りの道があることを記したが、近い方の道を使って20分ほどで博物館入り口(写真11.3–3-1)に到着した。入館して最初に目に入ったのは「蜀世系表」と書かれたポスター(写真11.3–3-4)である。

 ここで、中国の古代文化について年代別、地域別に整理してみる。
【紀元前8000年以前】
 黄河(−)、長江上流(−)中流(玉蟾岩遺跡、仙人洞・呂桶環 遺跡)、下流(−)、
【紀元前7000年〜】
 黄河(−)、長江上流(−)中流(彭頭山文化)、下流(−)、
【紀元前6000年〜】
 黄河(−)、長江上流(−)中流(湯家崗文化、城背渓文化)、 下流(−)、
【紀元前5000年〜】
 黄河(仰韶文化)、長江上流(−)中流(湯家崗文化、城背渓文 化)、下流(馬家浜文化)、【紀元前4000年〜】
 黄河(仰韶文化)、長江上流(−)中流(大渓文化)、下流(ッ 沢文化)、
【紀元前3000年〜】
 黄河(仰韶文化)、長江上流(宝墩遺跡(龍馬古城))中流(屈 家嶺文化)、下流(良渚文化)、
【紀元前2000年〜】
 黄河(二里頭文化(夏?)⇒二里岡文化(殷遷都前)⇒殷遷都  後)、長江上流(三星堆遺跡)中流(石家河文化⇒二里頭文化(夏?)⇒二里岡文化(殷遷都前)⇒殷、呉城文化)、下流(馬橋 文化⇒湖熟文化)、
 そして、周へと続く。

 以上(Wikipedia参照)の内、長江上流の地域に栄えた文化を総称して古蜀文明あるいは四川文明と呼ばれていて、具体的には宝墩遺跡と三星堆遺跡、および金沙・十二橋文化(BC1200〜500年、商後期〜春秋後期)、晩期蜀文化(BC500〜316年、春秋晩期〜戦国期)を指している。

 四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていたから、あえて文明という呼び方をしている。そして、三星堆遺跡から出土した青銅縦目仮面(中国語名:青铜纵目面具)が蚕叢の記述に合致したことから、古蜀が現実に存在したと考えられるようになった。

 その文明を担った古蜀王朝は、蚕陵⇒柏灌⇒魚烏⇒杜宇⇒開明氏の各世代によって受け継がれた(写真11.3–3-4)のであった。ポスターには各世代に該当する遺跡の写真や記紀も示されていて、現実味が確かにある。

 以降は三星碓遺跡からの出土品の内、玉や陶器などである。この内、陶器は構造、模様などによって類別されている。三星碓第二期と三星碓第三期における豆、盆、罐、盉、瓮、器柄など(写真11.3–3-5)である。これらのうち盉と器柄は他と異なり、360度回転対称構造を持っていない複雑な肉厚構造である。また展示されているこの時期の出土品のほとんどが。壊れていて石膏で修復されていた。

 そして、次にはこれら陶器の表面に彫られた図柄をポスター展示していた(写真11.3–3-6)。7つの符号があるが、これらの意味はよくわからないが、古蜀文字の原型か?とコメントされていた。

 次の写真は大きな盉(酒を入れる容器)とそれを囲む様に同じ形をした杯が展示されていた(写真11.3–3-7)。この盉には注ぎ口と取っ手がついていて、前記したいくつかの符号が彫られている。

 次の展示品(写真11.3–3-8)は虎の牙で、装飾に使われたものらしい。端部に小穴があいているので、紐を通し、身につけ、強さの象徴としたのであろう。それにしても妖色である。

 そして次の写真は(写真11.3–3-9)は陶三足炊器で下半分は盉と同じ形をしていて、上半分には皿と容器が乗っている調理用具である。三足の間から火をあて煮炊きや炙りをしたのであろうが、どのような食べ物を調理したのだろうか。

 他にも多くの写真を撮ったが、紙面の都合上割愛して、使われた道具や陶器以外の出土品のいくつかの写真を示す。陶器以外の材料と言えば石材である。その代表的なものは玉である。玉は陶器に比較して圧倒的に硬いので加工が大変であるがひとたび加工できてしまえば、耐熱性、耐衝撃、鋭利性を実現できるし、うまく加工できれば装飾性も確保できる。j(ソウ)、瑗(エン)、戈(カ)、管(カン)はそれらの特徴を生かした器物である。

 先ずは大きな玉石から板状やブロック状に加工することが必要であるが、その加工の痕跡を残した大きな玉石原石の展示(写真11.3–3-10)であった。加工方法は、現代の装置でいえばワイヤソーである。容易には断線しない糸または紐に油に溶いた研磨粉をまぶし、その糸または紐を左右に何度も往復させて、切り溝を垂直方向に深めてゆく工法である。

 筆者もかつて電子セラミクスの裁断に用いた経験があるが、切り溝を前後方向にも入れてゆく必要性があったため、ダイシングソーという回転型の刃を用いる加工装置に変更した経験を持っている。

 先ずは玉j(写真11.3–3-11)である。高さ7.2cm、口径7.1cmの玉製品で、それほど大きなものではない。祭祀用に使われた玉器で、多くは軟玉から作られた。「軟玉とはネフライト(nephrite)、透閃石-緑閃石系角閃石、化学式Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2で表されるようにCa、Mg、Feを主成分とする鉱物からなる、黄緑、茶色は鉄イオンの色である。

 外形は方柱状で、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており、jは天地の結合のシンボルであると一般に考えられている。」とWikipediaに記載されている。

 次の玉器は玉璋(写真11.3–3-12)である。木材や土器などを削るときに使われた工具であろう。玉璋は三星堆独特の型式である、先端が戈のように尖ったタイプの玉璋を原型とし、さらにその先端部に透かし彫りで鳥が飾られた精緻な玉璋など多彩であるが、写真のは、この玉璋の両面には刻線で玉璋の図像が描かれており、三星堆出土の玉璋のなかでも非常に珍しいものである。

 描かれた玉璋には、実物の玉璋にもあけられる孔が実際にあけられており、造形的にも興味深い。三星堆の社会では、玉璋は重要な役割を担っていたと推測されるが、実物の玉璋のなかにさらに玉璋を描きこんで、その力を倍加しようとするかのような玉璋の存在は、三星堆の人々の玉璋への特別な思いを示すものといえよう。

 次の写真は玉管(写真11.3–3-13)で、言わずと知れた装身具である。祭祀に携わった人々の腕や足首に飾ったものであろう。これらのほとんどが紐を通す構造になっているが、紐通し孔をどの様にして穿けたか興味ある謎である。

 錐を用いてドリルの様にして孔をあけたことは確からしいが、玉よりも硬い錐材が当時あったのだろうか。Wikipediaに、日本の縄文時代の管玉の場合だが、穿孔の方法について三つの方法があると紹介している。日本にある玉造という地名は穿孔の技術も持っている技術者がいた地域ということで地名が残っているのだそうだ。更に、ドリルの回転の際には摩擦材として硬く微細な砂をまくなどの工夫が施された。
以上本稿前編 完  本稿後編へ続く








2016/12/08 16:43:05|旅日記
◆D2(11/2=水)楽山市まで専用車で約3時間40分の移動、午後楽山大仏観光

◆D2(11/2=水)楽山市まで専用車で約3時間40分の移動、午後楽山大仏観光

朝食は駱さんに部屋のドアをノックしてもらって、食堂まで一緒に向かうことになっていた。10分ほどフライイングしたので、客は皆無だったが、バイキング風の朝食を味合うことになった。山椒や香辛料を多用する土地柄、ホテルの朝食が口に合うか心配だったが、思いのほか癖の無い、おいしい料理(写真11.2-1-1)であった。

 部屋に戻り、窓外の景色(写真11.2-1-2)を眺めると、高層ビルと、その後ろかなたに山並みが見える。重慶市は、かつて山城市と言われるほど山に囲まれた地域なのだそうだ。

 8:45蒋さんの車(車種は聞き忘れたが日産車)に乗りこむ。D2の始まりである。乗り込む前に、今回の旅のスルー運転手の蒋さんに手土産を渡した。むろん左ハンドルであり、助手席に駱さん。後部座席右に自分が座った(写真11.2-1-3)。道路は少し靄がかかっている様だ。これが一般的なこの辺りの空模様らしい。高速道路G85をまっしぐら。

 重慶を出発して約一時間後、最初の休憩をとるためにサービスエリアに入り一服することになった。エリアからすぐ傍に野菜畑(写真11.2-1-4)が見えた。ところどころにため池が見える。なので、これを水田というのだそうだ。

 水田というと野菜の水耕栽培を連想するが、そうではないのであり、野菜が植えられているのは水泥田ではなく赤土である。日本で見られる赤土に比べ赤が濃い。赤の正体は鉄分であり、この鉄分が野菜に吸収され、それを人が食すれば、酸欠とは無縁のヘモグロビンを形成し、酸素量たっぷりの健康人が出来るのであろうか。

 サービスエリアの上空は、雲が垂れ下がり、薄暗い。平日ということでもあり、駐車している車も少ない(写真11.2-1-5)。

 再び車中に戻ると、駱さんから柚を手渡された。無論、日本の柚とは全く異なり、巨大サイズのグレープ・フルーツ(ルビー)である。一年前の貴州省観光で高鐵(新幹線)で初めて食し、以来病みつきになったのだ。

 日本には持ち込めないので、せめて種でもと、今回は食する前に種を回収しようと考えていたのだ。長さ11cmの携帯がすっぽりおさまってしまい(写真11.2-1-6)、その2倍近くの直径20cmである。ちょうど今が旬であり、中国のどこに行っても販売されているのだそうだ。

 これが何故日本に輸入されないのか不思議だが、安価な上、食感が良いので、日本のグレープ・フルーツ栽培農家に打撃を与えること間違いない。この種をプロ並みの野菜、果物栽培をしている友人に発芽できるか頼んでみうという計画を旅行前から計画していたので、丹念に食前に種の回収を試みた。

 そして、重慶を出発して約3時間後に2回目の休憩である。Rongxian Service Area(長山)と案内板(写真11.2-1-7)にあり、これを見ると、2つほど前の自貢パーキング・エリアは自貢市にあり、種々の名勝地があり、かつては中国一の良質の塩が取れ、これで設けた富裕な商人が多かったらしい。

 長山パーキング・エリアを後にして、楽山市を目指した。車窓から見える高速道路沿いの景色で、繰り返し現れるのは、まるでお辞儀をしている様な高さのある竹の木(写真11.2-1-8)である。高さのある竹の先端近くで垂れる様に枝垂れていて、いかにも高速道路を通行する車に、「ようこそ、いらっしゃいませ。」と挨拶しているかの様に枝垂れているのである。

 間もなく(現地時間:12:50頃)、楽山市に入り楽山大仏観光地域に入った。楽山大仏観光をする前に、先ずは腹ごしらえである。最初に覗いた店は、駱さんの見立てでは不可で、良い店を探すことにした。自分には可、不可の見極めはつかないが、プロのガイドの駱さんには分かるのだろう。またもや、「ワンタンを食べたい。」と駄々をこねたことが不可の理由になったわけでないことは明白だった。

 そして今度は可と見なしたのだろう。店の目でワンタンの皮にひき肉を詰めるデモをしている(写真11.2-2-1)店があったので、その店の前の野天のテーブルに腰をおろした。まもなく隣の空席には中高年の女性グループが座り、談笑を始めた。

 客の循環が良い=サービスも味も良い、ということで、先ほどの店に比べ格段によさそうなことが自分にもわかった。店の前には肉まんとそれを蒸すセイロが置かれていて(写真11.2-2-2)、寒ければすぐにでも手が伸びそうである。

 そして、予定通りワンタンと豆腐牛肉料理を駱さんと共に食した。通常は、汁に山椒もトウガラシも入れるのだろうが自分の分は共に抜いてもらった(写真11.2-2-3)。味は極上であった。

 時刻は、13:00、いよいよ楽山大仏見学である。まもなく観光案内板(写真11.2-2-4)が見えた。嬉しいことに中国語、英語の他、日本語が書かれた案内板である。それを見ると、今いるところが、長江の支流岷江の南岸に位置している様である。同じ側にある船着き場から観光船に乗り、水上から大仏を拝すことになる。

 観光船に乗って暫くすると、河の東のかなたに楽山市の市街地(写真11.2-2-5)が臨めた。先ほどの案内板には300mとあったが、もっとあるように感じた。船にはライフベストを付けた人で混雑し、殆どの人が甲板の上に上がりカメラを構えている。

 そして、更に進むと三つの島というより岬だろうか、その並び方が、釈迦の涅槃の姿に似ていると言い出した人がいて、その人は、よくぞうまいこと言い当てた、ということで、賞金20万元(約300万円)をもらった、と現地ガイドの さんが説明してくれた。この現地ガイドさんは、なんとなく中国人らしくない面構えだ。少数民族かもしれないが快活さを感じた(写真11.2-2-6)。

そして、間もなく、少しオーバーランした位置になり、赤砂岩に彫られた巨大な大仏の姿が隠れてしまったが(写真11.2-2-7)、その右側の赤砂岩壁彫刻が見えた。赤砂岩に彫られた像の造形が印象的であった。

 楽山大仏の見学の仕方は二通りあり、一つは自分たちがしている様に、岷江の川面に浮かんだ観光船から見学する方法。もう一つは、河岸に沿って歩き、陸から大仏脇の石段を登りながら横顔を拝す見学の仕方である。

『楽山大仏(写真11.2-2-9)は峨眉山地域内の長江の支流、岷江(びん-こう)、大渡河、青衣江が合流する地点にある。
近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像である[1]。顔(写真11.2-2-10)は100畳分、岩山を掘り、90年かけて造られた。高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍にも及ぶ。当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られた。

 楽山大仏は、後述の韋皐(い-こう)が編ませた『嘉州凌雲寺大像記』の伝えるところによれば、開元元年(713年)、楽山周辺では塩が大量に取れ、年間の生産高は現在の価格に換算すると1千億円以上でその成功を仏様に感謝したいという気運が高まったことと、当時頻繁に起こっていた塩を運ぶ大動脈である岷江の水害を大仏の力で治めてもらおうという願いから、僧の海通が民衆の布施の下に寺院・凌雲寺に隣接する崖に石像を彫り始めた。

 天宝2年(743年)、海通は大仏が完成する前に亡くなったが、剣南西川節度使であった韋皐が建設を受け継ぎ貞元19年(803年)に完成した。 川の合流地点に工事で出た大量の土砂を投入することにより、川底が浅くなり、海通の意図通りに水害は大幅に減ることとなった。

 完成当時、大仏は「大仏像閣」と称する13層の木造の建造物に覆われ、法衣には金箔、胴には朱色が塗られていた。 さらに、湧水を外に逃がすための排水溝、そして雨水を効率よく逃す溝が掘られていた。 しかし、明代末期に建物は焼失、大仏も風雨に晒されて色が落ち、雑草に覆われていった。』とWikipediaに紹介されている。』と、Wikipediaに紹介されている。

 更に寸法をつけ加えると、肩幅 28.0m、中指(写真11.2-2-8)の長さ 8.3m、脚の長さ 10.5m、眼(写真11.2-2-11)の大きさは7mといづれも巨大である。目に入った巨大な大仏の横の階段から見学している人々が米粒の様に小さく見えた。川の色は、赤砂岩の影響でか緑に乳白色を混合した様な色を呈していた(写真11.2-2-12)。

 水上からの楽山大仏の見学が終り、岸に戻り、東の方向に歩いて行く。目指すは楽山博物館である。道路は蛇が乗っかった様な、しかもいろいろな形状の孔の開いた塀壁を右手に配した赤茶に彩色された舗装道路(写真11.2-3-1)を行く。途中キノコが切り株に生えた榕樹(写真11.2-3-2)が目に入った。キノコの生え方が山水画の様で眼を奪われた。

 先ほどの塀壁の隣には幅広の道路があり、更に先に進むと、その幅広の道路を跨ぐように建っている巨大な赤砂岩製で複雑な彫刻が施された門(写真11.2-3-3)が現れた。通り過ぎて振り返ると、門には、「弥勒世界」、「龍厳国土」の二語が掲げられていた。後者は意味が全く分からない。

 そして、楽山博物館(写真11.2-3-4)に着いた。赤砂岩色の立派な建物であった。建物の前の広場の際にブーゲンビリアの赤い花(写真11.2-3-5)が咲いていた。

 最初に目に入ったのは、赤砂岩の岸壁と、岩肌のところどころに生えたシダの様な草であった。はじめは人工的に造られた造形かと思っていたが、接近して観ると自然の岸壁(写真11.2-3-6)を博物館の壁としてはめ込んでいることが分かった。降雨時の防水は問題ないのだろうかと気になったが、赤砂岩の岩肌を利用しているので問題ないのだろう。

 早速、陳列館へ足を運んだ。他の入館者は一人もいなかった。最初に目に入ったのは、「成世南安」というタイトルの楽山市の地史であり、『現在の楽山市区は漢の時代には南安と呼ばれ.蜀の中でも経済、文化が最も栄えた地区の一つであった。・・・、楽山には、漢代、崖に造られた墓は規模が大きく、数も多かった。出土された文物は、精美であり、全中国でも最前列に挙げられるものであり、人々の裕福で多彩な生活がおくられていたことが伺われる。』とあった。

 そして、陳列品で最初に目に入ったのは、二階建ての建物の副葬品(写真11.2-3-7)であり、被埋葬者が死後も住まいに困ることなく生活できるように、との願望が見える。絢爛豪華な住居というより、静かに安穏に暮らせる住まいという感じである。

 そして、次は、白磁に青い花が描かれた罐と呼ばれる蓋つき容器であった(写真11.2-3-8)。普通は罐は金属製の蓋つき容器で、湯を沸かすやかんなのだが陶磁器でも用は足せる。陶磁器であれば割れやすいが、色彩豊かな模様をつけることができ装飾品としての価値も上がる。

 そして、白磁椀(写真11.2-3-9)等の陶磁器が続き、次に彩釉陶女侍俑(写真11.2-3-10)で、青色釉が施され、唐三彩を連想させる俑である。全員が同じユニフォームを着て、髪型もそろっている。手にしたものはぞれぞれ異なるが、いずれも身の周りの世話に必要な用具を持っていて、何不自由のない生活が死後においてもできることを願望したもので、全員が同じ台座に乗っている。

 以上が屋内での何不自由のない生活を願望したものとすれば、次は、彩釉陶侍俑(写真11.2-3-11)で、屋外の生活に侍る人物俑であり、こちらは全員が帽子を被り、手には何も持っていない。全員が同じ台座に乗っているのは同じである。他にも多くの陳列品が展示されていたが、紙面の都合で割愛する。

 次に向かったのはホテルのある街なかであり、10分程度の処に赤れんが造りの城壁が現れた。城壁の近くに親子で将棋をしているブロンズ像(写真11.2-4-1)があった。近くに母親らしき恰幅の良い女性がにこやかに見守っている。家族の理想的な在り方を描いている様だ。

 更に20分ほど歩いたところに、露店や屋台の食堂が現れた。野菜を売っている露店が延々と続く(写真11.2-4-2)。売られているのは、白菜、チンゲン菜、キウリ、キャベツ、とうがらし、ナスなどで、なんでも揃っている。街路樹は、どこも榕樹(写真11.2-4-3)であり、根っこ以外にも独特の風情がある。

 街なかには雀荘(写真11.2-4-4)もあった。雀卓が3、4台あり、中高年の客ばかりで、女性が半数以上である。民家での麻雀は紙麻雀を見かけるが、さすが雀荘、使われているのは皆、れっきとした雀牌である。

 そして、当然あるべき露店の果物屋(写真11.2-4-5)が現れた。旬の柚(ゆず)、といっても日本で言う柚とはまるで異なり、巨大グレープ・フルーツと言う方が当たっている。特にルビーは乙な味で、すっかり気に入ってしまった。それを知ったガイドの駱さんは、この旅行中絶え間なく、この果物を買い続けてくれる。

 その日の観光予定をすべて終え、ホテル(尚錦翡翠ホテル)に16:30頃チェックイン(写真11.2-4-6)できた。ホテルの部屋(写真11.2-4-7)をチェックし、荷物を置いて、暫く休んでから、夕食を摂りに外へ出た。

 部屋は特別なベッドメイクで歓迎ムードを演出している。トンボと菊(?)の花がタオルを用いて造形されている。このような宿泊者への歓迎は初めてであった。

 食べたい料理はワンタンと決めているので、駱さんはウェブ情報から、該当する店を定めていると見え、躊躇なく決めた方向に歩を向けることが出来た。

 ホテル前の広場(写真11.2-4-8)には車が2台のみで閑散としているが、それが、落ち着いた街の雰囲気を醸し出していた。まだ現地時間17:00前なので空は明るい。振り返りホテル正面の写真(写真11.2-4-9)を撮った。

 なんとホテルの名称に翡翠(カワセミ)の文字がある。無論、バードウォッチングという文化が無い中国においては、宝石の翡翠(ヒスイ)のことである。最近、自宅からのウォーキングで入間川沿いをカメラを持って歩いているが、目的は川沿いに棲息する翡翠(カワセミ)の写真をとることであり、なんとなく縁を感じた。

 そして歩いているうちに目指す料理店に到着した。店内に入ると、壁面にこの店の看板料理の簡単な説明がき(写真11.2-4-10)がされているのが目に入った。そして出てきたのは、たっぷり野菜ワンタン(写真11.2-4-11) であった。ワンタンの具がキャベツに隠れてしまっている。

 これでは味が薄すぎると思ったのか、トウガラシや山椒の混じった香辛料をつけてもらい、それと看板料理の肉料理と、こんにゃくレバーのようなものが出てきた。

 こういう自慢料理のある店に入って看板料理を食さないというのはいかがなものか、と駱さんは思ったのであろう。賛成である。さすがに、こんにゃくレバーは口に合わなかったが、その他の料理はおいしかった。

 そのレストランを出て、ホテル前まで来たら、多くの人が、ダンスをし、歌を歌い、リズム感のある大音声とライトアップが交錯し、賑やかだった。川の方を少し歩いてみよう、ということになり、喧騒の一角とホテルの前を通り過ぎて、岷江に架かる橋の方に向かった。

 橋(写真11.2-4-12)は、カラフルにライトアップされてきれいであった。その割には橋を渡る人も、通行する車も少ない。橋を端から端まで往復し、帰途についたが、橋ではない街路を店舗らしい家屋一軒一軒にライトアップ(写真11.2-4-13)が施され、魅惑的だった。しかし、舗装された歩道には人影が殆ど見かけられなかった。ホテルもしっかり光の化粧をしていた(写真11.2-4-14)。
     D2 完  D3につづく







2016/12/04 23:47:42|旅日記
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7) D1(11/1=火)上海経由重慶へ、重慶Haifu社訪問 重慶宿泊

◆D1(11/1=火)上海経由重慶へ、重慶Haifu社訪問 重慶宿泊

 今回利用する航空便は、東京成田08:55発上海経由重慶15:35着の中国国際航空CA158便である。

 今回も又PC持参で、その為中国専用のワイヤレスルータをグローバルWiFIに予約して、成田の第一ターミナル4F南ウィングで受け取ることになっていた。

 その為、手順として、京成成田⇒成田第一ターミナル下車⇒成田第一ターミナル4F⇒グローバルWiFI受取所⇒中国国際航空カウンターにてチケット入手⇒手荷物安全チェック⇒出国検査⇒デューティフリーで土産購入⇒搭乗ゲートロビーへ、と予定していた。

 ところが、グローバルWiFI受取所のオープンが7:30で搭乗予定時刻8:15まで45分しかなく、土産を買う時間があるか心配になってきた。結局土産を選んでいる時間がなく、同じもの5箱+他の同じものとした。それと家内のお母さん作のハンドクラフトの小物10個程となった。

 今回の旅行では、直前に、重慶にあるHaifu Medical Technology社を訪問することになり、土産を沢山購入することになったのだ。搭乗時刻が少し遅れたので、少し余裕が出来、空港の外の様子を見て、写真を撮った。あいにくの雨で路面は濡れていた(写真11.1-1-1)。

 搭乗してから離陸までは順調で、早起きしたため間もなく睡魔に襲われ飲み物いかが?の巡回に気が付かなかった様で、いきなり機内食という感じだった。

 窓外を見下ろしても、雲海のみで山や海は全く見えなかった。無論上空は快晴であった。食事は最近利用する機会の多いANAに比較すると落ちる(写真11.1-1-2)。食後暫くして、あと30分ほどで経由地の上海浦東空港に到着するというアナウンスがあった。

 間もなく上海浦東空港(写真11.1-1-3)に着陸した。雨は降っていない(写真11.1-1-4)。一度全員荷物をすべて持って降りるのだ。重慶まで行く人はワッペンをつけることになっていて、降機したらすぐのところに係員がいて、そこに一時集合し、点呼をとり、別の航空券をもらい重慶行きの同じ航空機に案内されるのだ。

  その間入国手続きや危険物チェックもあり、途中トイレに行く以外はまったく余裕がなかった。搭乗口が分かっているからトイレに行けるのであって、分かっていなければ係員を見失うことになりパニックになるのが推測された。

  機内に入ると、すでに上海から重慶に行く乗客が乗り込んでいて、成田―上海間の乗客より多い様だ。上海は晴れであるが、快晴とは言えない天気だ(写真11.1-2-1)。待機時間は殆ど無く、間もなく離陸し、一路重慶に向かった。

 離陸後まもなく窓外を見下ろすと、長江と思える大河が流れている(写真11.1-2-2)。長江の蛇行によって眼下に見えなくなることもあるが平均的には長江に沿って、川上の方向に向かう筈である。

  現地時間で14:00を少し回った頃、機内食(昼食)があった(写真11.1-2-3)。機内食(朝食)と似たりよったりであった。ANAに比較すると落ちる、というのが正直な感想である。運賃が低価格なので仕方がないのだろうか。

  そして約20分遅れの15:50に重慶国際空港(写真11.1-2-4)に到着した。なんとなくどんよりした重い雰囲気の空港であった。駐機ターミナルの屋根には重慶の文字が浮かび上がっていたが、全体に褐色がかった雰囲気がした。

  あとで分かったことだが、四川省や接する重慶市は空には深い霧または靄、地には赤土が象徴的な特徴なのだそうだ。入国手続きは既に上海で済ましているので、ここでの入国手続きは簡単で、混雑もしてなかったので、短時間で到着ゲートの出迎え口に至ることが出来た。

  すぐ駱さんの笑顔と運転手の姿を確認できた。運転手の蒋さんは若干28歳。今回の旅のスルー運転手であり、約1000kmの移動を駱さんとともにすべて付き合ってくれるのだ。すぐ手荷物を持ってくれて、専用車へ案内してくれた。

 先ず向かう先は、Haifu Medical Technology社であり、そこの技術者に面談することになっていた。面談することになった経緯は省略するが、旅の疲れが蓄積する前に訪問し、なるべくすっきりした気分で面談したい気持ちがあり、重慶到着日の最初に訪問することにしたのだ。約束は、この日の17:00と決めさせてもらっていた。

 この会社はHIFU治療の医療技術では世界でも先端を行く会社で、胡錦濤や習近平さんも視察に来たことがある企業で、専門病院が同じ敷地内にあり、「中国国立超音波医療研究センター」も同社内にある中国でも先端の医療機器会社なのだそうだ。
 URL:http://www.haifumedical.com/

 受付に面談相手のまずMs. Jenny Zhang(張玲)さんを呼んでもらった。彼女は面談に先立って会社案内をしてもらうことにしていた。入り口ロビーの壁面には壁いっぱいに電光画が模様されていて(写真11.1-番外-1)、「これは何かわかるか?」と聞かれたが、「生命誕生の瞬間」との正解をすぐ思い浮かべることが出来た。

 ちなみにここの社長がこの電光画の前で、何やら話している(写真11.1-番外-2)のも、この電光画が起業コンセプトに関連していると言える。

 ここで製造販売している治療装置は前立腺癌、子宮癌、乳癌の治療を経皮(体を切り開くことなく)非侵襲で治療できる装置なのだ。

 慢性鼻炎(写真11.1-番外-3)や骨髄癌、他の臓器の治療にも有効で、英国やロシアなどの国々でも癌の先端治療装置として導入されているのだそうだ。
  英国BBC放送ビデオURL:   http://www.haifumedical.com/Press%20Release/Video/2013-08-29/104.html

 そして、同社のvice president in charge of technology development and innovation,の林涛さんと約1時間面談し、最後に張玲さん、林涛さんと自分の3名で、スリーショット写真を撮り(写真11.1-番外-4)、別れを告げ、宿泊予定のホテルに向かった。

 ホテルは、重庆市北部新区にある重慶颐和幸福酒店である。受付ロビーには大きな書棚と沢山の書籍が配架されていた(写真11.1-3-1)。何を意味しているのだろうか?チェックイン手続きを駱さんに全て任せ、ソファーに浅くかけてチェックインが終わるのを待った。

 そして、一度部屋に荷物を置き、ホテル内レストランで夕食を駱さんとともにすることになった。雲吞を食べたいと駱さんに希望していたので、他に客の姿が見えないレストランのウェイトレスに有無を聞いたところ、幸い有るとのことだったので、そこで夕食を摂ることにした。

 既に20:30近くであり、丁度良い腹具合だったので、美味しく食べた。写真(写真11.1-3-2)は、駱さんとの二人分を一堂に並べたところである。メニューは最近の中国旅行の定番の雲吞+本場のマーボ豆腐であり、極上のおいしさだった。駱さんは更に香辛料を必要とした。

 そして、部屋に戻り、部屋を点検した。浴槽は無いが洒落て落ち着いた雰囲気の部屋であった(写真11.1-3-3、写真11.1-3-4)。
 本稿完  つづく







2016/12/01 19:28:00|旅日記
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7) ◆はじめに
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7)
◆はじめに
今回の中国旅行の目玉は三星碓遺跡であり、成田からの直行便のある成都市を拠点に、都江堰や三国志ゆかりの地、白帝城を訪問できればと思っていた。

しかし、白帝城は成都から遥かに遠く、武漢に近いことがわかり、車で移動するとしたら、殆ど車漬けの旅行となってしまう。また、重慶市はここ数年、中国旅行で連続してガイドを依頼している駱さんの実家があるところであり、お父さんが今でも暮らしている地であること。表敬して挨拶したかった。
 
 更には、永年研究開発分野の仕事をしてきて、興味を持つ医療機器の企業が重慶市にあることが分かり、そこを訪問するアポが取れたこともあり、更には経由便であるが、成田⇔重慶直行便があることが分かったのである。そこで、今回の旅行の拠点を重慶市とし、重慶市と三星堆遺跡の間にある観光地を訪問することにしたのである。

【旅程】
 D0(10/31=月) 成田にて前泊
 D1(11/1=火) 成田⇒重慶、着後Haifu Medical Technology社訪問 重慶市泊
 D2(11/2=水) 重慶から楽山市へ(約3時間40分) 楽山大仏見学 楽山市泊
 D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓(約2時間30分) 広漢市泊
 D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺 遂寧市泊
 D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊
 D6 (11/7=日) 重慶市⇒上海経由成田へ
(濃霧で上海空港から離陸できず、上海で一泊、成田へは11/8=月の着となった。)







2016/09/20 9:41:51|旅日記
龍泉青磁の旅  10.D6(5月29日) 杭州市から帰国の途へ

10.D6(5月29日) 杭州市から帰国の途へ

 まずは、前日の稿で、書ききれなかった分について記載する。
予定通り杭州東駅に到着し、前回同様地下鉄で、西湖近傍の駅で降車して、ホテル「杭州華僑飯店」に行き着く前に、駱さんに付き合ってもらって、夕食をとることにした。ワンタンが食べたいと言ったら、ワンタン専門店に案内してくれた。

 日本では漢字で“雲吞”と書くが、その店では、“錕鈍”という漢字を用いていた。店(「周素珍」)の入り口には「湖州大錕鈍、南潯鹵煮錕鈍」と表示され(写真5.28-4-2)、店内の壁面メニュー(写真5.28-4-1)には計12種の錕鈍料理名が掲示してあった。値段は12元から19元で、平均では14元、日本円で250円足らずの安さであった。

 反対側の壁面にはメ―ニュー記載の一品、一品の写真が貼られていた(写真5.28-4-3)が、どれも同じように見えてしまった。

 また他の壁面には、「珍鮮錕鈍」と右から筆書きされた紙片が貼られていた(写真5.28-4-4)。本稿をかくに当たり、“周素珍湖州錕鈍店”でホームページ検索したところ、インスタグラムに一件だけ投稿されていた。錕鈍の写真と、次の様な紹介がされていた。

 https://www.instagram.com/p/BBUGEjVPMmY/
 「火腿乾貝餛飩這家餛飩店雖是連鎖店,但水準不錯,而且寫明現包現煮,經我觀察,的確言行合一。這裏的餛飩是湖州南潯水鄉口味,不放麻油與糖,只求鮮味。餛飩有十幾種,鮮味最突出的要數火腿乾貝餛飩,以七成五花肉,三成前腿瘦肉為餡,混入火腿碎和乾貝絲,為一粒普通的餛飩搗N不少。這裏的餛飩皮也與眾不同,較厚較韌,口感一流」。

 旅の途中に立ち寄った客の感想だろうが、最後の「口感一流」なる一文は意味が分かった。同感である。

 食べたのは写真5.28-4-5の写真のもので、メニューのどれに該当しているのかは覚えていないが、値段にしては、極上のおいしさだった。
 日本では最近は単独のワンタンというのは無く、ワンタン麺になってしまい、ワンタンだけというのは殆ど食べることが出来ない。中国のワンタンが病みつきになりそうである。

 少し前日分の書き残し分が長くなってしまったが、ここから旅の最終日、即ち帰国日ついての稿とする。

 最終泊したホテルは、杭州を起点とした中国旅行の時には毎度利用する「杭州華僑飯店」であった。ホテルロビーの佇まい(写真5.29-1-1)や、部屋からの景色(写真5.29-1-2)はおなじみになった。

 いつも通り朝食を摂った後。駱さんが迎えに来てくれるまでの間、ホテルの外にある西湖の小雨降る光景を写真に撮ろうとしたが、少し先は雨に煙ってよく見えなかった(写真5.29-1-3、5.29-1-4)。

 そして、約束の時刻AM11:00に、ご主人の張さんともども迎えに来てくれた。杭州市職員の張さんは、最近の平日は、9月はじめに杭州市で開催予定のG20首脳会議の準備で休む暇もないが、日曜日なので空港まで、車の運転の労をとってくれたのだ。

 明るく開放的な張さんは、ともに血液型がB型ということもあるかも知れないが、年齢の差を越えて。一緒にいると楽しい存在である。空港までの車の中で多少でも会話が出来たのは良かった。

 空港に着き、彼らと再会を約し、別れ、所定の搭乗手続きをしてANA NH930(杭州13:40発)の機上の人間となった。東京成田17:50着の予定である。

 杭州空港は、北京空港や上海空港等に比較して喧騒さがなく落ち着いた搭乗が出来るので気持ちが良い。復路は、17Aあたりの座席なので、夕陽に浮かぶ富士山が拝めるはずである。

 離陸すると、あっという間に空港と周辺の家並みは乳白色のベールのかなたに去り(写真5.29-1-5)、間もなく水平飛行に変わり、ベルト着用のサインも解除された。

 なんとなくウトウトし始めた頃、おしぼり、軽いスナック、飲み物の順で出され始め、ついで機内食が運ばれてきた。機内食(写真5.29-1-6)は往きの便と同じ、糖尿病食である。
糖尿病食は特別食で、全てのディッシュに”DBml”とメモされた紙片がつけられている。無論Diabetic mealの略である。隣席は空席なので、通常食との比較はできなかったが、往便の時の比較では大きな差異は無かったように記憶している。

 特別食だからと言って、運賃が高くなるわけではなく、スチュワーデスに特別に親切にされている様で、なんとなく心地よいのである。

 窓の外には高密度の雲海の上をすべるようにして飛行する航空機の翼が見えた。航空機の上空に雲は皆無であり、紺碧の空が心地よく目を刺激する。この飛行高度であれば、到着にはまだ時間はかかると思うと、またウトウトする気分になってきた。

 眼がさめたのは、あと30分ほどで、着陸態勢に入るというアナウンスが耳に入ってきた時で、窓外には高密度の雲海ははるか上空となり、また天気も悪く、残念ながら雲海に浮かぶ富士山の影を目にすることはできなかった。

 その代わり夕陽に染まる、三浦半島あたりや房総半島あたりの景色、あるいは海面を行く舟の姿を見ることが出来た。(写真5.29-1-9〜5.29-1-12)

 そして、間もなく着陸態勢に入り、成田空港に無事着陸した。。

  全編 完