店の外はしとしとと雨が降っていた。
記者は傘の縁からしたたり落ちる雨滴を見ながら、
「あの犬は傘を持たない人間と同じ、そこに傘を差し伸べたのが、あの学生だったのだろうな」
と、自分に言い聞かすようにつぶやきながら、小走りに社に帰って行った。
午後になって雨がやみ、空が明るくなって、行き交う山手線の車窓に映る空の色が青白くなってきた。
午後の取材は、例の喫茶店のとなりのマダムの店と決めていた記者は、記事の構成をノートにメモし、それを机に置き、代わりにカメラを持ち出し、また山手線沿いの坂道を登って行った。
木目が浮きあがり、しんく深紅に彩られた西洋風の扉を開けると、隣の喫茶店とはうって変わって、全体にきらびやかで、上を山手線の電車がはしっているとはとても思えなかった。
天井には四方を鳳凰、亀、竜、虎の頭が長く突き出たシャンデリアが四体ぶら下がっていて、その上を電車が通過しても揺れはなかった。奥の方にこはくいろ琥珀色に輝くカウンターがあり、その奥に厨房があるようであった。
記者はカウンターに指先を触れ、二、三度左右にこすりながら高さのある腰掛に腰をおろしながら、厨房の奥の方に聞こえるように、
「雨が上がった途端に、急にお腹がすいてしまった。劇辛のカレーライスいただけますか?」
と呼びかけた。
すると、奥から、マダムの声で、
「お客さんよ。お冷や差し上げて、紅蓮ちゃん。」とあり、
またしばらくして、「あーいけない、紅連ちゃん、今日は午前中だけだったわ。」
といい、エプロンで、手をぬぐいながら、片手に水の入ったコップを手にして厨房から出てきた。「劇辛のカレーライスですね?
何かトッピングつけますか? 今日はエビフライ、牡蠣フライ、鯵のフライがありますが。」
「いや、何もいりません。コーヒーもお願いします。」
「今、すぐですか?それともカレーライスのあとですか?」
「コーヒーはお代わりありですか?ありであれば、今すぐ、無ければ、後で持ってきてください。」
「お代わりは何回でも結構ですよ。ではすぐ持ってきますね。」
といって、電話をかけに行った。
どうやら隣の喫茶店からの出前のようだった。
電話から戻ってきて、カウンターの内側で、食器をタオルで磨き始めた。
そして、
「お客さん。ひょっとして隣のマスターが言っていた記者さん?」
「そうです。マスターから連絡がありましたか。」
「あの学生さんと犬の話ね。いいわよ、話してあげる。」
と言いながら、タオルで拭いていた皿に、ご飯をのせ、更に店自慢の、とっておきのカレー汁をかけて持ってきた。
そして今度はコーヒーミルでコーヒー豆をひ挽きはじめた。
なぜかもったいぶっている様に感じた記者は、
「例の学生さん、毎日ここに来るのですか?」
と、話の緒をきった。
「日曜以外は毎日きます。」
「よくお金が続きますね。決して安くはないんでしょ、ここは。学生の身でぜいたく贅沢だなあ。」
と言い訳を期待して、記者はふっかけてみた。
挽いたばかりのコーヒーの粉を、ろ紙ごしにロートに乗せ、同時にコーヒーカップとサイホンをカウンターに置き、熱湯を注いだ。
そのコーヒーを記者に差し出し、不本意な顔をしながら、その問いに答えようとした。
ここは大事な部分と思ったのだろう、言葉を選びながらまじめな顔をしている。
「あの学生さんは、贅沢するほど裕福ではないわ。むしろ極貧といったことばが当たっているわ。だって、たった三畳の部屋を借り、部屋には一切暖房がなく、毛布もなく薄い布団だけだって。そんな状態で、あの黒い野良犬に出くわしたらしいの。あの傷ついた犬を背負って自分の部屋に運び込み、大学を休んで介抱したんですって。雑巾に温かい湯をしみ込ませて、体中丁寧に拭いてあげたのよ、きっと。それで、二、三日するうちに犬の方も快方に向かい、さすがのあのゴロツキ犬も感謝したのね。こんどはあの学生さんを守るように、付き従うようになったのよね。」
「なんだ、その程度のことか」
という記者の顔色でも読み取ったのだろうか、あわてて、
「そこまでが序の口の話なのよ。これからが本番。聞きたい?」
記者はそこで初めてコーヒーに手を伸ばし、
「聞いても良いですよ。」
と相手に話の面白さを促す為、突っぱねる様な言い方をした。
そして、「では本番に移りましょう。続きを話してください。」
食べ終わったカレーの皿を洗い場に運んでゆき、しばらくして戻ってきたマダムは、
「あの学生さん、またもや自転車で事故を起こしてしまったんですよ。こんどは雨も降っていないし、交通量も多いわけでなかったのにネ。しかも相手が悪かったのよ。ごろつき風のお兄さんでね、あとで分かったんだけど当たり屋だったんだって。」
「でも当たり屋って、車を相手にするんだよね、普通。」
「普通はネ。その当たり屋は駆け出しのチンピラらしく、兄貴分から命令されて、車相手だと、失敗すると大怪我するかも知れないといって、自転車にしたらしいの。だらしないチンピラですよね。」
「どうも、犬のごろつきと言い、人間のごろつきと言い、あの学生さんの出会いの宿命なのかなア。」
「話を続けますね。....」
「まだ続きがあるのですか。」
「そーなんです。....そのチンピラさんすぐ言いがかりをつけ、自分の家で話あいたいと言って、チンピラの親分の家に連れて行ったんですよ。そこまでは筋書き通りというところだったんでしょうね。」
「ところが?」
「ところが、チンピラの親分はチンピラと学生さんの顔をかわるがわる見ているうちに、チンピラを叱り飛ばしたんだって。」
「どうしてなんでしょうね。」
「その学生さんの真剣な目つきに何かを感じたらしいんですよ。」
そこまで聞いて、
「コーヒーお代わりよろしいですか?」
記者は一息いれ、先ほど来不思議に思っていたことを、マダムに尋ねてみた。
−つづく−