運河の漣(さざなみ) −1.出会い− 時おり、五月のそよ風が水面に達し、小さな漣(さざなみ)をつくる。
そよ風の強さによって、漣の出来方が違う。
強い風の方が小さな漣を作る場合があれば、逆に弱い風の方が小さな漣を作る場合もある。水量によってもこの様子は違う。
運河の河岸に植えられている槐(えんじゅ)の樹に、左手の手の平をあて、うつむきかげんに河面を見つめ、時折長い髪が頬を撫(な)でる。右手でその垂れた髪を肩の後ろに撫で送る。
そのしぐさは、運河の水を掬(すく)い取って体を清め洗っている様に見えるのであった。
また、彼女の姿は歩いている時はしなやかな青竹の様にも見えるので、この界隈(かいわい)の人の中には清竹(チンズー)ちゃんと呼ぶ人が何人かいる。しかし薄紅蓮(ボウホワンリェン)と言うのが本名である。
「清竹さん。今日は何か分かったかな?」
と、後ろから眉毛と髪の毛を白くした男が、にこやかに話かけてきた。
紅蓮(こうれん)は振り替えるまでもなく、声の主が誰か分かっていた。
――――東伝おじさんだわ。今日は何を教えてくれるのかしら。
と紅蓮は心が広がる様なうれしさを感じた。
そして、振り返えりながら、
「河の水はどうしていつも同じ方向ばかりに流れているの?坂でもないのに、いつも西から東へ流れているのはどうして?」
「面白い質問だ、だが待てよ、難しい質問だからすぐには答えられんぞ。」
この様な二人の会話はもう五年は続いているだろう。
この東伝(とうでん)おじさんの本名は呉東伝(ご・とうでん)、年は七十を少しすぎた所であろうか。
「東伝おじさん、今日は空の色きれいにかけました?」
東伝おじさんは若い時は画家だったらしい。しかし、家庭を持ったら画家ではやって行けず、三十才から五十才までは、小学校の先生を、それ以降は運河を行き交う舟で、蘇州から長江を経て南京へ、野菜、茶、酒等を運搬する船問屋の番頭をしていた。
そして、五年前に、ここ蘇州市楓橋路(ふうきょうろ)に移り住んだらしい。
「わしは千年かけてここまでやってきたんじゃよ。」
というのが東伝おじさんの口癖であった。そして、
「わしは、千年の空を漂ってきた風を描きたいんじゃ、太湖(たいこ)の空にはそれがある。」
と言って、毎週一回づつ、太湖まで二日がかりで絵を描きに行くのである。
その帰りに、この槐(えんじゅ)の樹のある運河のほとりを歩いて通る時に紅蓮(こうれん)の姿を見かけるのだった。
初めてあった時は、紅蓮はまだ十才だったが、今はもう十五才となり、自分が何者かを考える年頃になっている。
蘇州は運河の多い町で、家と運河の間に全く路地の無い白い臨水壁(りんすいへき)が立ち並んでいるところもあれば、逆に今、紅蓮と東伝おじさんが立っている所の様に路地越しに運河が接している所もある。
その様な所からは、視線を少し上方にやれば、必ずといって良いほど円弧を描く橋が見える。その円弧は殆どが半円に近く、円弧の頂点にたてば、家の屋根瓦を上から見下ろすことも出来るくらいである。また円弧の下にはその一つ先にある同じ様な形をした橋が見える。
太陽が、ちょうどその橋のあたりまで落ち、まぶしいけど、その紅く染まった夕陽に見とれ、紅蓮は手をかざしてそちらを見ていたら、その橋の下をくぐって東伝おじさんと、野菜等を乗せた烏蓬舟(うほうせん)がやってきて、この同じ場所を通りがかったのである。
紅蓮が今たたずんでいる足元にあり、路面から水面に突き出た、こぢんまりとした石段に舟を着け、東伝おじさんが舟から下りてきた。そして、
「お嬢ちゃん、何か用かな?手招きしていたみたいじゃったが。」
と言いながらその石段を上がってきた。
普通だったら見知らぬ人が近づいてきたら、十才程度の少女であれば警戒したり、おびえたりするものだが、紅蓮は杖を立てて船首に立っている白髭の老人の姿が、父から聞いた事の有る封神演義(ほうしんえんぎ)に出てくる崑崙山(こんろんさん)の仙人の様に見え、自分の方に近づいてきても、恐怖より好奇心に駈(か)られ、舟が近づいてくるのを待っていたのであった。
そして、石段を、杖をつきながら上がってきた東伝おじさんに向かって、
「おじさん誰?崑崙から来たの?」
と、か細い声で聞いてみたのだった。
「わしは千年かけてここまでやってきたんじゃよ。」
というのが答えであった。その時、紅蓮のそばに佇む槐(えんじゅ)の樹が、ざわっと、身震いするように揺れた感じがした。
それが、紅蓮が覚えている五年前の紅蓮と、呉東伝の最初の出会いであった。
呉東伝は前日、船問屋の番頭を辞めた。
妻に先立たれ、二人の息子も成長し、長男の呉蔵伝(ご・ぞうでん)は北京で、次男の呉学伝(ご・がくでん)も、四川で既に家庭を持って安定した生活を送っていた。
孝の厚い二人の息子とも自分の所へ身を寄せないかと言ってくれたが、呉東伝は絵を描きながら静かに老後を過ごしたいという夢を捨て切れず、丁寧に、二人の息子からの、その誘いを断り、自分のことは一切心配しないで欲しいことと、船問屋の番頭を辞め、若い時の夢だった絵を描いて暮らして行きたいことを告げた。
−絵を描くのにこれほど景色の美しい地はない。その景色に人々の生活がよく融和している。それを描きたい。−
と思っていたのである。
船問屋の主人は前夜、他に何人かの船頭、店の店子、主人の家族を集め送別会を開いてくれた。その席上、主人は、
「人生の船出に年齢は関係ない。かつて、戦国時代の秦(しん)に仕えた百里渓(ひゃくりけい)という宰相がいたが、その人が仕官したのは七十才の時で九十才以上になるまで、秦の宰相を務め。」
といって送ってくれた。そして、
「明日、東へ下る舟便があるので、それに乗ったらどうか、呉さんの下りたい所に舟を着けるように、船頭に言っておこう。それにわずかだが餞別(せんべつ)も積んでおくので取っておいてくれますか。」と付け加えた。
呉東伝は、すっかり気が緩み、深酒してしまった。
自分が長く世話になってきた部屋にもどり、部屋を眺めまわしているうちに眠気が急に襲ってきた。
旅立ちの準備はすっかり出来ていたので、その場で腰を落とし、横になった。
霧の中から一人の杖を右手に持った白眉(はくび)、白髪(はくはつ)、白装束(しろしょうぞく)で青銅色の皺(しわ)の深い顔をした老人が現れて、「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。ここからはお前の番だ。青い色の璧(へき)の所に舟をつけよ。そしてみつけたら同じ事を言え。そして更に東に向かうのだ。」
と言って一瞬の内に消え去った。
―青い璧なんてあるものか、皆黄緑色ではないか。
と思ったものの、いずれにしても夢の中の話、そんなに気にすることは無い。それより、これから自由気ままに生きてみよう。
と念じながら本格的な眠りについたのだった。
翌日、皆に別れを告げ、船上の人となり、運河の流れにのって東に向かっているうちに昨夜のお告げが気になり始めた。
船首に立ち、周囲の光景を見落とさない様に見回していたのである。その為には、なるべくゆっくり舟を進めなければならない。
最初に船頭にその旨告げて以来、船頭は殆ど櫂(かい)をこ漕(こ)がず、舵(かじ)だけ操っていた。
運河の流れに載っているだけの動きなので、人が歩く速度と同じ位であった。
行き先と到着時刻は成り行き任せだったので、それで良かったのだった。
最後は海に出るか、間違って北に向きを変えても長江、南に向きを変えたら知らない土地なので困るが、そんなことは先ず無いと、根拠が全くないのにそう思っていた。
顔馴染みの船頭が、
「呉さん、そろそろどこか立ち寄るところ見つけないと日が暮れてしまいますよ。」
と声をかけた。
既に太湖の湖岸の渡村(とそん)と言う所にある船問屋を出てから、十時間程たっている。
東へ東へと舟を進めているのだが、蘇州まで30km以上ある上、運河が、突然T字路となり、南か北に向きを変更する必要があり、その都度、迂回したり、運河の流れに逆らって、舟を進めたりした為であった。
複雑に絡みあって、運河が横たわる寒山寺あたりを過ぎて、京杭運河に出て東へ向かっている最中であった。
右手には蘇州のメイン通りの一つである楓橋路(ふうきょうろ)が、東西に平行して走っている。
更に東方に直進すると、蘇州の中心地になるが、そこまでは、まだ10kmはありそうな、西方郊外で、運河はくびれたり、蛇行するあたりであった。
ちょうど、円弧の形をした橋をくぐった所であったろうか、一人の少女が手を振っているように見えた。
すると、船頭もそれを見つけたのか、
「呉さん、向こう岸に手を振っている少女の姿が見えますね。手を振っているようですな。一休みするのにちょうど良い。ちょっと舟をつけてみましょう。」
と言って、少女が立っている足元あたりに、ちょうど良い石段の方に舟の舳先(へさき)を向け、少しずつ近づけていった。
呉東伝は舟から下り、石段を上がりながら、
「お嬢ちゃん、何か用かな?手招きしていた様じゃったが。」
とたずねてみた。彼女は、
「お爺さん誰?崑崙(こんろん)から来たの?」
と、問い返した。
呉東伝は紅蓮の顔をしげしげと見つめ、はっとした。
彼女の透き通る様な首肌に小さなペンダントが架かっていたのである。それに夕陽が、直射して朱色に見えた。
首肌は夕陽によって益々紅く染まり、それをみた呉東伝はいつかこの少女を描きたいものだと独りごちた。
近づくと、少女はペコリと頭を下げて挨拶した。その瞬間、そのペンダントは彼女の首元でチャリと音をたてながら踊り、三つに割れた。
もともと三枚が重なっていたのだろう。外側の二枚は、夕陽に照らされて朱色に染まっていたが、挟まれている残りの一枚は一瞬だけだが青い色をしていたのを認めたのだった。
材質も、チャリと聞こえた音や紐を通す穴のあけ方からいって、璧(へき)であることは察しがついた。
しかし、色合いからいうとラビスラズリでないとも言えなかった。
だから呉東伝は、
「わしは千年かけてここまでやってきたんじゃよ。」
と答えたのだった。
その瞬間、彼女のすぐ傍に植えてあった槐(えんじゅ)の樹が、ザワッ、と揺れ動いた様に見えた。
それを呉東伝は夢に現れた白眉、白髪、白装束で青銅色の皺の深い顔をした老人の肯きと確信した。
五年前の二人の初めての出会いは、そのように因縁的な、あるいは運命的な出会いであったのだ。
それ以来、呉東伝はその界隈に一軒間借りして、そこに住み込む様になった。
この五年間に紅蓮は呉東伝に多くのことを教わった。
呉東伝も、紅蓮が教えることを一つ一つ素直に吸収し、また、いろいろ質問してくるので教え甲斐があった。
数年前に、長男の呉蔵伝が、北京から画材の全てを送ってくれ、絵を描く準備は全て整った。
そこで、週に一度、35kmの道のりを歩いて太湖に出掛け、泊りがけでスケッチをする様になった。
宿泊は、以前働いていた舟問屋の住み込んでいた部屋を、そこの主人が年に一幅(いっぷく)、主人に、彼の画いた絵を主人に提供すれば、それで良いということになっていた。
ちょうどその帰り、紅蓮が槐(えんじゅ)の樹にもたれ、川面を覗き込んでいるところをみつけ声をかけたのだった。
既に十五才になっている薄紅蓮は大人びてきて、胸のふくらみがなければ、それこそ青竹といった感じで、しなりの強い性格も併せ持っているように誰もが感じた。
「河の水はどうしていつも同じ方向ばかりに流れているの?坂でもないのに、西から東へいつも流れているのはどうして?」
五年間の彼女の質問は、空、川の水、西の果て、東の果てに関するものが殆どであった。
この時の質問は、それまでと異なり、川の水と西の果て、東の果てが組合わさったもので、この様な質問は初めてであった。
答えかたに工夫がいるのは、単に物理現象として説明するのではなく、人間の生きざまに対比させて分かり易く説明することだった。
方角については、特に東方に興味を抱く様な話し方をしなければと注意していた。
この様に紅蓮が質問し、呉東伝が答えるという話しの仕方だったので、五年間たっても肝心なことを紅蓮に聞いていなかった。
−2.薄家− 蘇州は運河の多いことでヨーロッパにも知られ、東洋のベニスと言われるほど水運が発達している。
東西南北に運河がはりめぐらされている。十字路、T字路、Y字路、L字路と言うように全ての字型路(じがたろ)がそろっている。
少し北には東西に流れる長江が流れ、西には呉東伝(ごとうでん)のいた太湖(たいこ)がある。
運河は両岸とも臨水壁に囲まれ、踏み込む空間が全く無いところがあれば、家の中庭がそのまま運河に接している所もある。
また両岸とも数メートルの道幅の通りが造られている所もある。薄紅蓮の生まれ育った家はその様な通りに接して立っている。
その家屋の白い壁には青灰瓦(あおはいがわら)が長年の雨水で
泥奨化(でいしょうか)し、流れ落ち灰色の縦スジを描いている。
この様な自然がいたずらした落書き以外に白い壁には何の汚れもなかった。
しかし、十五年前に壁を塗り直すまでは、落書きが絶えず、紅蓮の父は人通りの多い時間帯になると、毎日必ず通りに出て見張りをしていた。
その頃のことを紅蓮の父、薄鉦渓(はく・しょうけい)は、紅蓮が小さい時によく聞かせたものである。
「ちょうど、お前が母さんの腹から出てきた年だったよ。母さんえらく難産でな。お前を生んだあとは、ぐったり疲れきって、かわいそうだったよ。」
「ということは一九四八年のことね。その年に何があったの?」
「その頃は、世の中騒がしくてね、丁度今のこの国、中華人民共和国が、出来る一年前の事だった。同時に、それまで同じこの大陸に住んできた一派が東方の海に浮かぶ所へ移り住み始めた頃だったかな。」
「その人達って悪い人?」
「お父さんも軍人だったから、その立場から言えば敵なので悪い人達ということになるが、もともと世の中には悪い人間なんていないんだよ。戦争をすると、勝った方は善人、負けた方は悪人ということになってしまうが、勝った方に悪人はいるし、負けた方にも善人はたくさんいることだってあるのだよ。」
「お父さんは人民解放軍にいたんでしょ?その中に悪人いた?」
「悪人なんかいなかったよ。もともと悪人なんて居ないのだよ、この世の中には。」
「そうしたらどうして戦争がおこるの?」
「相手が憎くなるからだよ。憎くなればやっつけてやろうと思うだろ?」
「でも力が無いと、そう思っても何も出来ないわ。それよりどうして憎くなるの?」
「紅蓮は人を憎く思ったことはないか?」
「無いわ。お母さんが人を憎いと思ってはいけないといつも言っているもの。」
「そうだよ。お母さんの言う通りだ。大切な考え方だよ。」
「でもそのお母さんが、一度だけ憎いと言った事があるんだよ。」
「へー、いつかな?」
「遼審(りょうしん)での戦いの時って言っていた。ちょうど私が生まれる三ヶ月前のことで、持っていた食べ物を全部持って行かれた時だって。」
「そう、お前が生まれる三ヶ月前の九月、あの時は、丁度父さんが、人民解放軍の軍人として、遼審へ行っていた時だ。お祖母さんも畑に行っていて家には誰もいず、母さんもお腹にお前がいたので、動き回ることが出来ず、助けを求めることも出来なかった。例の一派に、貯えていた食べ物を全て持っていかれてしまったんだよ。戦争になるとそんなこと普通のことになってしまうんだよ。」
紅蓮は背をまるめ、襟の両端を両手でつかみ、ぎゅっと襟をしめつける様な格好をして上目使いに父の話を聞くのだった。話の内容がこわくなって来ると、この様な仕草をするのが彼女の癖だった。
それが分かっていた父鉦渓は、紅蓮がその様な仕草をすると話題を変える様にしていた。そして「封神演義」(ほうしんえんぎ)のつづきををするのだった。
父、鉦渓は、最近急に、自分の娘がこの物語に強く興味を抱き始めていることに気がついていたが、その理由が分かるまでに一年はかかった。
父、鉦渓は、自分の娘が、近所の同じ年頃の子供たちと比べるとはるかに賢く、しっかりしていると感じていたが、それは「封神演義」を話してあげる時に特に感じることであった。
「封神演義」は「西遊記」、「水許伝」と並ぶ、中国の代表的な「演義物」であるが、一種の歴史小説でもあり、人間の業(ごう)、愛憎(あいぞう)、魂胆(こんたん)等をふんだんに盛り込まれていて、とても十才の少女に理解できることは多いとは言えないところが少なくはなかった。
鉦渓は自分の娘に物語を聞かせながら時折、ここは、先ず理解は出来ないだろうな、と思う所がある。
その様な時、必ずと言って良いほど紅蓮はその意味、その理由、父の意見を聞いてくるのだった。
最初は父と子、教師と生徒といった感じであったが、次第に、鉦渓は答えに窮する様になってきた。
親のメンツとして答えに窮する訳に行かず、鉦渓も少しずつ予習をする様になってきた。
おまけに、ある時を境にして、紅蓮は自分の意見まで言うようになってきたのである。こうなると、もはや「封神演義」を題材にした勉強会であった。
そのある時というのが、ちょうど、急に、自分の娘がこの物語に強く興味を抱き始めていることに気がついた頃と、一致していて、その理由が実は鉦渓は気になっていたのだった。
崑崙、仙人と言う言葉が出てくると目を輝かせ、話を中座させ、矢次ばやに質問してきた頃であった。
そして、夕刻近くになって毎日必ずといって良いほど外に出て行って運河に目を注ぎ、橋の方に手を翳(かざ)して見ている事に気がついた頃とも一致していた。
鉦渓は気になって、ある時、妻の蕾蓮(らいれん)にそのことを知っているか聞いてみた。
蕾蓮は微笑みながら、
「知っているわよ。もう一年も前からかしら。最初は、槐(えんじゅ)の樹の、幹の胴回りをはかりにゆく、と言っていたけどね。あまり毎日ゆくものだから私も気になってね。ずっと見ていたの。そうしたら通りがかったお爺さんが、あの子に話し掛けてきて、そのお爺さんも、あの子もそれは楽しそうに何かをしゃべっているの。そのお爺さんも悪い人ではなさそうだし、一時間も二人でしゃべっていることがあっても私は何も干渉していないの。」
と母親として、自分の娘のことはちゃんと把握しているつもりと言わんばかりに鉦渓に説明した。
鉦渓(しょうけい)は、
「そうか、一年も前からか、迂闊(うかつ)だったな。一体何をしゃべっているのだろう。お前の観相であれば間違いないだろうが、一体何者なのだろうな。」
と独りごちた。
妻、蕾蓮(らいれん)は思い出した様に付け加えた。
「そうそう、そう言えばそういう時、あの子ったらいつもへんな事聞くのよ。千年も生きられる人間なんて居るの、って。どういうことかしらね。」
「そうか、なんとなくつじつまが合ってきたね。」と満足げな顔をした。そして妻に、
「そう言えば、紅蓮が我が家の壁を十五年前に塗り直した理由を聞きたがっていたよ。自分の生まれた年と同じなので気になるのだろう。どうしても戦争の話が絡んでしまうので話が脱線してしまうんだ。聞かれたらうまく話しておいてくれ。」
「あなたとの話の中で出てきた話題なら、私には話さないわ。あの子はそう言う子よ。それより、没収された畑はもう返してもらえないのかと、母さん悲しんでいたわ。
大躍進(だいやくしん)て本当に言葉通りになったのかしら。去年、その政策が中止されたようだけど、何も変わらない様な気がするわ。この国はこれからどうなって行くのでしょうね。」
中国では文化大革命が起る数年前のこと、毛沢東の失政と言われる「大躍進(だいやくしん)」がすすめられた年であり、一九六三年のこと、紅蓮は話に出てきた様に十五才であった。
この年、一九六三年は、一九五三年以来進められてきた「大躍進」が、毛沢東による自己批判により、正式に停止された翌年のことであり、政策の中心地である四川省から離れた江南の地では、まだ余韻がくすぶっていた。
富国の為には鉄鋼と穀物の大増産が必要なため、鉱石からの鉄だけでは足りず、人々の家の竈(かまど)の鉄も壊されては供出させられた。
しかし実際には、それでも目標値の半分程度しか達成できず、それも中央への誇大報告を、うのみにした数値であり、実際は更に少なかったと断言出来る。
食糧は、更に深刻であり、実際の生産量は目標値の1/3程度であり、自然災害の影響もあり、栄養失調で千五百万人〜四千万人もの人が餓死している。
紅蓮らのいる江蘇省(こうそしょう)は、古代から農作物の収穫が豊富であったが、自然災害には勝てず、他省と同様人民は疲弊(ひへい)した。
国民党のメンバーは、中国大陸から既に海を渡り、残るは、中国共産党員と彼らに従属する人民である。
従って、かつての国民党と共産党との間の激烈な争いは殆どなくなり、毛沢東による完全統治が種々のスローガンの元にすすめられてきた。
「大躍進」もその一環であったが、目標が高すぎたのと、運悪く大きな飢饉に見舞われ、政策としては毛沢東自身認めざるを得ないような失敗であった。
「「大躍進」は失敗だった、と毛主席が昨年一月に発表していたよ。何もかも同時進行になって、それを遂行する人材がいなかったのが拙(まず)かったよな。科学技術発展十二ヶ年計画なんか五年も前倒しだったもんな。それに、何もかも二本足路線だったじゃないか。」、と紅蓮の父、鉦渓は母、蕾蓮に知っている全てを使って答えた。
「そうね、工業と農業、中央工業と地方工業、大型企業と中小企業、西洋技術と中国固有の技術、それら相対するものを全て同時に発展させようとしたのが無理だったのね。でも失敗を失敗と認めるなんて正直でいいわね。」
と蕾蓮は半ば独り言の様に話を合せた。
「だけど、そんな話を聞くと誰だって不安になるよな、この国はこれからどうなって行くのということに誰でもなるよな。でもおそらく次の路線をもう決めているよ、我々一般人民にとって辛い政策でなければいいんだけれどね。こないだの人民日報ではソ連との関係が問題になっているとあったね。ソ連と戦争でもして兵役にでも取られたら大変だ。」
「戦争なんてまっぴらだわ。すくなくとも紅蓮の世代までは戦争が起らないで欲しいものね。」
「そうだね、我が国は古代から戦争ばかりで、うちの家系は二千年年も前から戦争の当事者になることが多かったけど、どうしてだろうね。がんばっちゃう家系なのかな。」
「阿片戦争、清日戦争、最近では、日本統治に対する抗日戦争、朝鮮戦争、国民政府との戦争、美国(米国)とも仲が良くないし、今度は同盟関係にあったソ連と?信じられないわ。」
「呉越(ごえつ)時代からだものね。」
「そして漢の時代も、でしょ?」
「そう、うちは前漢の三代目文帝の母、薄后(はくごう)の家系の子孫だからね。」
「本当なの?」
「本当さ。なんとなく漂う気品があるし、このようにこの界隈で一目おかれるのもそういうことがあるからさ。薄后はこの地、かつての呉の国、即ち今の蘇州にあたる所が出身なんだよ。」
漢の文帝は前漢三代目の国王で、名君とされた。漢はかの劉邦が項羽との争いに勝ち得た結果、打ち立てる事の出来た国家であったが、劉邦亡き後は、妻の呂太后(りょたいごう)が国を操り、呂氏一族以外の血筋を根絶やしにしようとした。
ところが八人いた劉邦の息子のうち二人だけは、その難から逃れていた。
一人は七男准南王(わいなんおう)の劉長(りゅうちょう)と四男代王の劉恒(りゅうこう)であり、共に漢から見れば僻地(へきち)に追いやられていた。
今でこそ上海、北京と大都会になっているが、当時は僻地中の僻地で、呂太后からみれば全くの関心外で、どうでも良い劉家の
係累であった。
というより呂太后は薄夫人に全く嫉妬を感じず、息子の恒(こう)とともに代へ行く事を許したのだったが、そのまま忘れてしまったのだろう。
劉長は落ち着きがなく、驕慢(きょうまん)な所が目立ったのに対し、劉恒は慈悲深く、寛大であり、家臣や臣民から慕われる所が大きかった。
当然のことの様に、劉恒は長安に迎え入れられ帝位についたのだった。
謚(おくりな)を文帝(ぶんてい)といい、文帝と、その子景帝(けいてい)の父子の治世は人民が、安堵することの出来た四十年ということであり、次につづく漢の黄金時代である武帝(ぶてい)の時代につながる準備期間と言われる。
この様な善政は、皇帝になって初めて行えることではなく、物心ついた頃からの情操の蓄積が長じて人格となって、行動力が訓練されて初めて可能になるもので、誰もが同じ経過を辿れるものではない。
それにもっとも強く関わったのは、母親である薄(はく)夫人であった。
文帝は、宮殿内のカーテンに刺繍(ししゅう)をすることを禁止したり、自分の陵墓も、金銀銅錫といったきらびやかな金属で修飾することを禁じたりする程の倹約家であった。
常に人民が視野にあり、皇室の出費が普通に生活する人民の生活費の何倍にあたるかを、常に念頭に入れた治世をしたということで、現代でも人気のある歴史上の人物である。
何時の世も、そういった人物の母親は、賢母と謂れ、その賢母である薄夫人の出身地が、ここ呉の国、現在の蘇州あたりなのである。その蘇州で、必ずしも多くはない薄姓を持つ紅蓮一家が、その
末裔と思われるのも不思議ではないのである。
おまけに、紅蓮の父、鉦渓(しょうけい)、母、蕾蓮(らいれん)は、共に字はよく読め、計算は得意で、社会情勢に明るかったので、ますますそう思われ、周囲の人から尊敬を勝ち得ていた。
−3.隣水壁−そんな薄家の白い隣水壁(りんすいへき)に、いたずらがきがされたのは、その年の旧暦の最後の日、大晦日だった。
門をとんとんとたたく音が聞こえた。母蕾蓮が、「きっと、東伝(とうでん)さんよ。紅蓮、ちょっと開けてきて」
と、本を読んでいた紅蓮の方を向いて、半分命令調に頼んだ。
それをきいて紅蓮は嬉しそうではあるが、怪訝(けげん)な顔をして、
「七時頃来るって言っていたのに、早かったわね。まだ餃子出来ていないんでしょ?」と門を開けに行った。
中国では正月よりも春節(しゅんせつ)の方が重要で、はるかに国民的行事と言えた。家族全員で餃子をつくり、春節を祝うのである。
この春節の室内装飾に欠かせないが年画である。鯉を抱いた幼児、豊作を喜ぶ農民、歴史上の人物、民間に良く知られた物語が描かれる。ここ蘇州の桃花鵜(とうかう)は、山東省の維坊(いぼう)、天津の楊柳青(ようりゅうしょう)と共に三大産地とされていて、毎年春節の二〜三ヶ月前から、にわか工房があちらこちらに立てられて、大量に生産するのだった。
殆どが版画刷りだったが、世の中に二つと無い絵柄を注文する物好きも少なからずいた。
絵を描いて食べていけるのなら、それを仕事にして生活して行きたい、と思っていた呉東伝(ごとうでん)にもその様な話が舞い込み、ちょっとしたアルバイトと思い手伝っていたところであった。
その工房に年画の注文をしに来たのが紅蓮の父、鉦渓だった。
たまたま、受注残の年画を全て描き終えて、熱くなった頭を冷やそうと屋外に出ようとしていた呉東伝と入り口で出くわした。
鉦渓は、以前たまたま紅蓮が呉東伝と楽しそうに、運河辺りで話しているところを垣間見ており、顔を見覚えていたが、東伝は鉦渓のことを知らない。
そのため、すれ違いざまに、鉦渓は軽く呉東伝に挨拶したが、東伝は単純に工房への客と思い、「いらっしゃいませ」と返しただけで、表に出てしまいそうになった。
鉦渓は、呉東伝の背に向かって「失礼ですが呉東伝さんではありませんか?娘がいつもお世話になっています。運河辺りで。」と、話し掛けた。
それがきっかけで、顔を合せる度に挨拶だけで終わらず、いつしか一時間もの間、工房で語りあうことがあるようになった。
親子というのは似たもので、紅蓮が呉東伝の話に、異常に興味を覚えるのと同じように呉東伝の話に夢中になってしまうのであった。
紅蓮の呉東伝の話に対する異常な興味の根底に「封神演義」があり、その「封神演義」を、子守り歌代わりに話してきたのが父
鉦渓であることを考えれば当然のこととも言える。
そんな訳でもっともっと時間をかけて呉東伝の話をじっくり聞いてみたいと思っていた。
また鉦渓は、これまでの断片的な話から、呉東伝がたった一人で生活していること知っていた。
春節は、中国全土で人民の大移動が起こる。
蘇州、上海、広東の様な産業の栄えている土地に、働きに来ている人達は、この時期一斉に故郷に帰るのである。
呉東伝は、家族を持っているが、息子達は、北京や四川で家庭を持って安定した生活を送っている。
この春節も交通費はもつから自分達のところへ来ないか、と便りがあったが、趣味に忙しくて暇が無いといって、丁重に断っていたのである。
断片的な話をつなぎ合すとそういうことになり、それだったら
春節の間、自分達の家に招待して家族同然にくつろいでもらおうと計画したのである。そして七時頃、来てもらって夕食を一緒にしようと思っていたのである。
中国では、昔からお客さんが来たら、普段でも餃子を振る舞う習慣がある。
また春節には家族そろって、餃子料理の前工程を、家族団欒をしながらこなしてゆく、という習慣もある。
紅蓮の母、蕾蓮が、丁度その準備をしている時だったので」ある。
門をとんとんとたたく音が聞こえた。
紅蓮が玄関の、つっかえ棒を、はずして外を見たが誰もいなかった。
「誰もいないわ。」
と、紅蓮が言うと、
「変ね、確かに戸をたたく音がしたように思ったけど。」
と蕾蓮はよくあることとでも言うかの様に、あっと言う間にその事を忘れてしまい、また餃子作りの準備を、鼻歌を歌いながら作業を続けるのであった。
丁度七時に近づいた頃であろうか、外の通りが急に騒がしくなってきたのに気がついたのは、
紅蓮と
蕾蓮同時だった。てっきり鉦渓と呉東伝二人一緒に帰ってきたのかと思ったが、騒がしくなってからなかなか中に入ってこないのだ。
それどころか戸外の騒がしさは、益々ひどくなり、大きな声で言い合っているのが、はっきりとってくるのだった。そして戸をたたく音が聞こえた。
聞こえる声の様子から四、五人の大人が、一人の若者を、よって、たかって非難しているように聞こえた。
そしてその四、五人の大人の中に、
鉦渓がいるのを紅蓮も蕾蓮も認めた。
紅蓮も
蕾蓮も、鉦渓がそんなに怒っているのを聞いた事がない。一体何が、起こったのわからないが、紅蓮は母に、
「お母さん、外へ行っちゃだめよ。すぐ入ってくるわよ。」
と、
眉間を狭くした母に、忠告した。
案の定、程なくして、
「全く、最近の若い者は何を考えているか分からない。」
と、顔を真っ赤にして、鉦渓が扉を開けて中に入ってきた。
「何があったの?」
と先に聞いたのは紅蓮であった。
「ひどいものだ。うちの家の壁に大きな字でいたずら書きをした若者がいる。しかも時代おくれだ。」
「なんて書いてあったの?」
「
大躍進万歳と壁全体に大きな赤い字で書きよった。人の家の壁を何と思っているのか、全く。おまけに
大躍進などもう終わっているのに。」
と言っているうちに、最後まで聞かずに蕾蓮は扉を開けて外に出ていった。
紅蓮も後に続き扉の外に出ていった。
紅蓮が表に出た時、丁度、
呉東伝が、
薄家に到着した様で、呉東伝は、落書きされた壁の前にたたずみ、先程からそれを見ているようだった。
その表情は暗くて分からなかったが、肩を落とし、左手に杖、右手は呉東伝より更に背丈の小さな人間の、手首を捕まえているようだった。
時折、その手を振り解こうとするのだが、はるかに強い力で手を掴まれていたのだろう、少し、呉東伝の右肩が揺れる程度であった。その子供の様な若者が、先程父が
憤慨していた相手に違いなかった。
二人は言葉を交わす風でもなく、特に呉東伝は気持ちを落ち着かせる為に、壁の前に
佇(たたず)んでいるように見えた。
しかし、紅蓮、蕾蓮の姿に気がつくと、その子供の様な若者を従えて、紅蓮らの所へ近づいて来た。そして、
「こんばんワ。こいつがとんでもないことしよった。」
と
憤りと、申し訳ないといった感情が混じった様な、妙な表情で、すぐ傍まで近づいて来た。
近くで、その若者を見ると、ふて腐れたような態度をしていたが、反省の色が無い訳でも無さそうだった。紅蓮と視線が合うと、すぐうつむいてしまい、あとはただもじもじするのみであった。
「ほらっ、ここのご主人に丁寧に
謝るんだ。さあっ、中に入りなさい。」
一度だけ手を振り解こうとしたが、うまく行かず観念したのか、呉東伝から、背としりを押されて、抵抗せずに薄家の扉をくぐった。
驚いたのは、それを見た父、
鉦渓であった。
先程詰問している最中に逃げられてしまったあの若者を、そんなに力があるとも思えない呉東伝が抑え付けている。
「薄さん。大変申し訳ありません。わしの知っている子でのう。なぜこんな大それたことをしたのか理解できんのじゃ。それよりは、とにかく悪い事しよったんだから謝らんといかん。これ、
周瑯(しゅうろう)、手ついて、ご主人に丁寧に謝れ。」
鉦渓は、その少年の所に近づいて、その少年の顔を覗いてみた。少年の顔に一筋の涙を認めた鉦渓は、
「どうしてあんなことをしたのか訳を聞こう。こちらへ来なさい」
と
竈(かまど)の方に呉東伝ともども招き入れた。
ことが収まりつつあることを感じた
蕾蓮は、また餃子の下ごしらえを続けた。
呉東伝、
周瑯、
鉦渓、そして
紅蓮の4人が、竈に近いテーブルを囲むことになった。
「紅蓮、お茶持って行って。」
と母に言われ、お盆に載った茶碗の数が四つあったのを確認し、何故か、ほっとしながら四つの茶碗を一つ一つテーブルに載せて持って行った。
先程から紅蓮は、
周瑯をじっと観察していたのだが、とてもそんな悪い事をするように思えなかったのだ。
父、鉦渓は家の中に招きいれたということで、怒りが解けていることを知っていたが、母の感情は読み取れなかった。気性の激しい母だけに、どの様な言葉が投げつけられるか心配だったのだ。
涙と埃にまみれた顔の汚れを落としてあげればどんな風になるのだろう、と興味を感じたのだった。そしてその少年をかばう立場に立っている自分の心象が不思議でならなかった。
こんな場面では、被害をうけた主人は、犯人を
殴り、蹴り、怒鳴り散らすと言うのが普通である。
そういう展開を予想していた
呉周瑯は、逆に気味悪がった。と同時に薄一家が、人に聞いた様な利己的な人達では無い様に感じていた。呉東伝が口を開いた。
「この少年は
呉周瑯という名で、年は十五だから、紅蓮ちゃんと同じだな。わしとは親戚でもなんでもないんじゃが、
年画描きの仲間の息子なんじゃ。
その仲間が、最近亡くなっての、時々この子の様子を見にいってんじゃよ。
それに、ほれ、
周瑯の首にかけているものをみてくれ、紅蓮ちゃんが首にかけているものと同じじゃよ。青い
璧(へき)で出来たペンダントじゃよ。」
それを聞いた紅蓮は、周瑯の首周りを、周瑯は紅蓮の首周りを見てびっくりした。それ以上に驚いたのは紅蓮の両親、鉦渓、蕾蓮である。二人とも紅蓮がつけていたペンダントは、時々目にしていたが、どのように手に入れたか全く知らなかったのだ。
少なくとも両親とも買ってあげた記憶は全くなかった。器用な紅蓮であったので、その辺に落ちていた小石に小穴をあけて、糸を通しただけのものと思っていた。
太湖の湖畔に落ちている小石の中には、その様な色をしているのも有るだろう。その程度に思っていたのである。
「その二つの関係を、わしが知っているわけではないけど、二つを並べてみると何故か意味ありげに見えてくるのじゃよ。…・・、そんなことは良かったんじゃ、周瑯、素直に謝りなさい。何故あんなことをやったのか話してごらん。」
「……………」
うつむいたままで何も口を開こうとしない周瑯を見て、今度は鉦渓が言葉を継いだ。
「周瑯君、何も言わなくちゃ分からないではないか。何か訳があるのだろう。君が自分から進んでやったとは思えない。誰かに言われてやったのかね?」
「………………・」
「第一、大躍進万歳なんてのは、古いよ、君。毛沢東が、自ら大躍進は失敗だったと認めているのを知らないのかね?毛沢東が経済音痴と言っている人もいるくらいなのに。やはり、四川からここまでは距離があるんだね。」
と鉦渓が言うと、思い付いた様に呉東伝が、
「そうそう、この子の亡くなった父親の出身が、四川省成都じゃよ、確か。父親の三番目の弟が、周瑯と一緒に住んでいるのじゃったな。周瑯、そうじゃろう。違うか?」
と口を周瑯の耳元に近づけて念を押すように言った。
この念の押しかたは聞きようによっては、
「そそのかしたのは、その周瑯の父の弟じゃろが。」
と言っているようにも聞こえた。
その瞬間、周瑯の顔に変化が現れたのを、紅蓮でさえ見逃さなかった。
誰からみても図星であることが分かった。
そこまで分かれば取りあえず良いだろうと言う気持ちが鉦渓にも、呉東伝にも紅蓮にも蕾蓮にもおこり、話題を変えようという雰囲気に包まれた。
その時、呉東伝は白髭を撚りながら、
「そやつに、動機を、正さんといかんが、それとは関係無く、壁の上塗りはわしにやらせてくれんか?勿論ただでな。こやつにも手伝わせるからそれで許してくれんか?」
と鉦渓、蕾蓮、紅蓮の順に視線を移し、哀願するような目つきになった。
「 いや、少し考えさせて下さい。いずれにせよ、そろそろ壁の塗り替えを考えていた所だったから。」
と言い、先程迄鉦渓の顔に漂っていた眉間のしわも無くなってきた。
紅蓮は、その言葉を聞き、父の心の広さを感じ、心暖まる気持ちになった。そして先程から、気になっていたことを、紅蓮が口にだした。
「周瑯さん、あなたもそのペンダント、夢の里の仙人にもらったの?」
名前を呼ばれた周瑯は実は先程来他のことを考えていたのだ。
しかし、咄嗟に、
「僕の叔父さんのことだけど、悪い人では無いと思う。」
と言ってしまった為に、また話がぶり返してしまった。やはりはっきりさせておくべきだろうと鉦渓は思い、
「それは周瑯君の叔父さんが、悪い人などと思っている訳ではないのだよ。ただね、扇動されてはいけないのだよ。その運動の根底に何があるか見極めてから賛同したり、拒絶したりするべきなのだよね。
その判断をするには、多くのことを知らなくてはならないし、経験も必要だ。僕が心配するのは、その様な判断基準を持たない若者をターゲットに、過激な思想や運動が先に支持され、それが中堅年齢層の大人を、吊し上げることによって人々に浸透してゆくことなんだ。」
と、周瑯の方を見ながら忠告したが、鉦渓の気持ちとしては何も周瑯に限らず紅蓮をも含め全ての若者に奉げたい忠告であった。
それを聞いていた東伝も、いちいち肯いてはいたが、鉦渓のこの言葉を毛沢東が聞いたらなんとするだろう、というかすかな不安を感じた。
−4.階級敵人− 東伝は、かつて、太湖湖畔にある舟問屋で、番頭の様な仕事をしていて、烏蓬舟(うほうせん)に乗って蘇州から長江を経て南京を往復することがあった。
長江とは揚子江のことであり、川上に向かって舟を進めれば四川省へたどり着き、従って逆に川の流れに乗って、四川や途中の重慶の文化が江南の地にもたらされることは、なんの不思議もなかった。 四川は、毛沢東の政治活動の発信地であり、この頃、知識階級の吊し上げが始まっていた。
学校の先生、大学の教授や、作家、芸術家等の知識階級が、次から次へと吊し上げを食らい、粛正されていった。その様な知識階級の吊し上げ運動は、都市から農村部へ拡散しつつあった。
拡散は、陸路より水流に乗って拡散する速度の方が、はるかに早かった。
東伝は、舟問屋の番頭をしていたことがあり、しかもそれを辞めた今でも、太湖に絵を描きに行く時に寄宿する、その舟問屋で長江の水流にのって伝わってくる生々しいこれらの情報が、頻繁に耳に入ってきた。
「大躍進」の失敗の穴埋めに、毛沢東が何か大きなことを画策しているだろうことは東伝でも肌で感じられる。
特に最近「階級敵人」と言う言葉を耳にする事が増えはじめていて、地主や商人だけでなく学校の先生もやり玉に挙げられ、「階級敵人」にされる事もあった。
ものごとを理詰めで、批判することが出来るのは、知識階級である。地にへばりついている人間ほど批判が下手である。
誰であろうと、自分の掲げる政策や思想が万全とは思わないし、批判に晒(さら)され、不完全燃焼でおわってしまうことがあることを知っている。
完璧な思想など最初からあるはずなく、思想を周知し始めてから、修正に修正を重ねて完成されたものに仕上げて行けば良いのである。
しかし最初の段階で、鉦渓が周瑯に諭した様に、
「その運動の根底に、何があるか見極めてから賛同したり、拒絶したりするべきなんだよね。その判断をするには多くのことを知らなくてはならないし、経験も必要だ。」
とされてしまったら、思想が頓挫してしまうのは、言わずと、しれたことである。
もしその思想が権力者により創出されたものであれば、その様な発言者は危険分子と見做されるだろう。
ものごとの根底を見極めるのは知識階級の性である。
知識階級=階級敵人、という簡単な式を適用されて罪科を問われる知識人が増えてくるかも知れない。
そして、経験者=年輩も、そのひとの経験に基づいて物事を冷静に見つめ、自分が築いてきたものさしで計れない事象は、最初は受け付けないか拒絶するかである。
呉東伝は、自分がかつて、小学校の教師をしていたのは、はるか昔だし、思慮深い年齢をはるかに超えているので心配はしていなかった。またこの様な重苦しいことを考えるのは、煩わしい感じがして仕方なかった。
しかし、薄鉦渓(はくしょうけい)は、ともに該当する人種でもあり、世代でもある。
呉東伝はそのことが気になったのである。
−5.桃花弁− そんなことがあって二度程、薄紅蓮、父鉦渓、母蕾蓮、呉東伝に四季がめぐり、一九六六年の春が訪れた時のことである。
この頃、父鉦渓の心は、「階級敵人探し」の標的にされた知人のことを知り、沈む一方であった。妻の蕾蓮に対し、庭に咲いた桃の花を見つめながら、
「いつ自分が標的にされるか分からない。なぜこんな国になってしまったんだろう。
桃華の似合わない国になってもらいたくないよ。」
と何回呟いたか分からなかった。
紅蓮は、父の、そのようなしょげた姿を見るに忍ばず、最近はよく槐(えんじゅ)の木のところで佇み、西から東に涛々(とうとう)と流れる運河の水面を見つめることが多くなってきた。
時折通過して行く烏蓬舟に積まれた荷量は、ここ数年滅法減ってきているのが紅蓮にも一目瞭然で、無性に寂しくなってきた。
時折、川底に根をはっていると思われる水草が見え隠れしているのが目に入った。
―――涛々とは流れるが、濁って川底を決して見せないこの流れ
―――音をたてずに流れるが、清い水草を時折見せるこの流れ
―――さっき見えた水草と、今見えた水草は同じ水草?
―――水草が見える時と見えない時、どういう時の違い?
―――水草はどちらが嬉しいの?
季節柄か、時折桃の花びらが、流れてくる。そして水面に現れた水草と、偶然遭遇すると、まるで、挨拶するように、共に一瞬、動きを止め、まとわり付き合う。
―――私は桃の花びら?それとも水草?
―――桃の花びらの方が良いわ。
―――小石さん、水草のまとわりつきから助けてあげなさい。
と言って、紅蓮は小石を利き手の左手につかみ、花びらめがけて投げた。
小石は少し手前に落ち波紋を作り、その運動によって、桃の花びらは、水草のまとわり付きから開放され、また旅を再開した。
波紋は水面を伝わり、紅蓮の足元直下の水面まで伝播してきた。
水面は、鏡から皺のある布敷きにかわり、天の色が映らなくなった。
しかし、すぐに波紋は減衰し、もとの鏡面に戻ってきた。
驚いたことにその鏡面に東伝お爺さんの笑顔が映っていたのである。
呉東伝は、
「そうか紅蓮ちゃんは桃の花びらの方が良いか。桃の花びらになってもっと明るい所まで旅をしたいのじゃね。」
と小さく肯きながら、すこし顔を曇らせ話かけてきた。
「東伝お爺さん。さっきの桃の花びら最後に行きつくところは何処かしら?流れの果てはどうなっているの?」
東伝には紅蓮の気持ちが痛いほど分かった。
東伝自身、小学校の教諭を辞めたあと、船問屋で働くことにしたのは、運河の流れにのって東へ東へとゆけば、もっと刺激的で夢のあるユートピアにたどり着くに違いないと、漠然と思ったからであり、桃の花びらも烏蓬舟(うほうせん)も同じことだった。
「じつはな、この爺さんもこの流れの果てがどうなっているのかよく知らんのだ。ただわしが大昔学校の先生をやっていた時に、生徒達に教えた中にこういうのがあった。聞きたいかな?」
「知らないのに教えたの?」
「こら、こら、年寄りをからかうでないぞよ。」
「………・・そう、今から六百年程前はこの国は、元と言う名前じゃったが、その時代に、ヨーロッパからマルコ・ポーロという名の商人がやってきてな、ここら一帯を東洋のベニスと紹介したらしい。そして同時に、更に東方の海の果てに、ジパングと言う名の島中黄金で出来た国があると紹介しているんじゃ。事実かどうか知らんが本当かもしれんな。」
呉東伝は、その様に説明しながら、嘘をついている自分が情けなくなった。
本当はその国が、この国を侵略し、人々に危害を加え、この国の文化をも、容赦無く変えようとした鬼の住んでいる島国というのが、呉東伝にとっての真実なのを、曲げて、まるで天国の様な形容をして説明したのである。
「今のこの子に対する説明はこれで良いのだ。」
と自分に言い聞かせているうちに、又他のことが頭に浮かんできた。
かつて、舟問屋を辞する前夜夢に出てきた仙人の言葉だ。
「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。ここからはお前の番だ。青い色のへき璧の所に舟をつけよ。そしてみつけたら同じ事を言え。そして更に東に向かうのだ。」
―――更に東に向かう、とはどういうことなのだろう。わしもこの子に「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。」とすでに言ってあるが、更に東に向かう、は実行していない。
この子は、しきりに東方に対して深い好奇心を示す。その言葉と何か関係が有るのだろうか?
―――もうこの子だって十五才だ。日本と言う国を知らないはずはない。とすれば、彼女にとっての東方とはどういう意味なのだろう。理想郷と言う意味だろうか。
この時の会話が、紅蓮のその後の人生に大きな影響を及ぼすことになろうとは、紅蓮は勿論、思慮深い呉東伝にとっても予測も出来ないことだった。
「東伝お爺さん、私、お父さんの事が心配。最近いつも、じーっとして暗い顔ばかりしている。こんなこと初めて。何かお父さんの為にしてあげられること無いかしら。」
語り掛けてくる紅蓮の声によって現実に引き戻され、東伝は、
「いかん、いかん 現実から逃避してはいかん」と自分に言い聞かせた。それを聞いた紅蓮は、
「何がいけないの?お父さんは現実から逃避する様な人間じゃないわ」
とムッとした表情で目を吊り上げた。
「そう、現実から逃避しないから、深刻な悩みに襲われているんじゃ。」と言いそうになったが、危うく息を飲み込んだ。
そんなことを言っても、紅蓮にとっての心の解決には、一切結びつかないのが分かっていたからであった。
「お父さんにしたら、紅蓮ちゃんのそう言う親孝行の気持ちと笑顔が、一番の薬だよ。そうだ良い事がある。こんどは紅蓮ちゃんがお父さんに「封神演義」を聞かせてあげたらどう?」
それが父鉦渓の気を紛らわすことに役立つかも知れないということが瞬時に理解でき、
「ちょうど良い場面無いかしら?何でも良く知っている東伝お爺さん教えてちょうだい。」
そんな話をしている所を、母、蕾蓮がみつけ、
「あら、呉さんご機嫌如何?いつも紅蓮の話し相手になっていただいて申し訳ありません。これから夕食ですが、ご一緒に如何?主人も喜ぶと思います。紅蓮お連れして。」
と呼びかけてきた。
「いえ、折角ですが、今夜は周瑯(しゅうろう)と一緒に夕食する約束になっていましてな。又の時に取っておきましょう。」
と言いながら、薄家の門前を通り過ぎて去っていった。
−6.憂談− 時代は更に暗くなり、いよいよ文革時代に突入してゆくのである。
時代が暗くなってゆくのか、明るくなって行くのかは受け取る人間の立場によって大きく異なる。
暗くなってゆくと、とったのは知識階級、明るくなって行くと、とったのは学生、農民、労働者だった。
この物語に登場する人物はどの様に分類されるだろうか。
呉東伝は、運河の上を高々と跨った半円の橋のふもとで、運河の水面をまじまじと見つめながら、先程の紅蓮との会話を思い出していた。
紅蓮の質問になんと答えてやったら良いか考えていたのである。
来るはずの周瑯がなかなか来ないので、その間考える時間が出来た為である。若者が二人、三人と、何人かづつ、橋を急ぎ足で渡ってゆくのを見ながら考えていたのだった。
運河の対岸にある、臨水街をなす民家の窓から、灯かりが、ちらつき水面で反射し、所々きらきらと明るく見える。
民家の青灰瓦(せいはいがわら)の青白色は、暗くて既に分からなくなっている。
その代り、青灰瓦の上に大きな真円の月が、民家の窓灯かり以上に明るい光を落としていて、わずかに瓦の色が分かるようであった。
「東伝おじさん。東伝おじさん。」
と背後から呼びかけている声に気がつくと、周瑯が他の若者三人と立っていた。
「やっと来たか、友達も一緒かな。」
「叔父さん、悪いけど今夜一緒に食事出来ないんだ。」
「なんだ楽しみにしていたのに。急用でも出来たのかね?」
「うん、これから解放軍に学ぶ集会があるんだ。」
片手に赤い小さな本を持って、目を輝かせて、当然のことをするんだ、と言わんばかりの勢いである。他の若者三人も、全く同じ目つきで、うなずいていた。
「そうか。じゃあ、又の機会にするか。急いでいるんだろう。行きなさい。紅蓮ちゃんのお父さんの言っていたこと、忘れんでな。」
立ち去った若者達の後ろ姿をみつめながら、
――――あれが噂に聞く毛沢東語録か、と一人ごちながら、つい最近、紅蓮の父である薄鉦渓との会話を思い出した。
「呉さん、いらっしゃいますか?お久しぶりです。家内が扇子の柄について相談してきてくれ、と言うもので、お邪魔しました。」
工房の奥の方で作業をしていた東伝は、工房の入り口にやや猫背にしてつっ立っていた人が、薄鉦渓ということが分かる迄に間があった。
それは鉦渓の背後が明るすぎる為だけではなく、いつもは背筋をピンと伸ばしていた鉦渓にしては似つかわしくない風情だった為であった。
しかし、声と言葉遣いの丁寧さからそれが鉦渓であることが分かると、
「丁度今刺繍のまとまった仕事が、一段落したところですよ。どーぞ、こちらへ。」
と言って、その刺繍を背の方にしまい、代りに、先程まで作業台と思わしき台板を裏返した。そして、
「一昨日じゃったかな、わしが舟問屋の番頭をやっていた時の知り合いが、竜井茶(ろんじんちゃ)の出来立てを持ってきよった。一服如何かな、それともとっておきの老酒(ラオチュー)の方が良いかな?」
東伝は、紅蓮の心配そうな顔を思い出し、少し気晴らしの相手になって見ようと思ったのだ。
扇子の柄の相談というのが鉦渓の奥さん、蕾蓮の気遣いということも分かったし、先日は、夕食への誘いを周瑯と食事をするという理由で断っていたので、なお更、多少無理槍にでも、話し相手になろうと思っていた。
話に誘い込む為に、
「最近の若いものは、何を考えているのか分からん。徒党を組んで右往左往しておる。赤い小さな本を抱えてのう。何が面白いんじゃろう、あんな本。」
その言葉に誘われ、鉦渓は、工房に彼ら以外に誰も居ないのを確認し、堰(せき)を切ったように、
「結局、毛沢東と劉(りゅう)、ケ(とう) との間の政治闘争だと思いませんか?」
「最近、徐々に、林彪(りんぴょう)を引き込んでいるから毛林(もう・りん)とケ劉(りゅう・とう)との政治闘争だね。」
「若い人達が、その道具に使われているのを見ていられませんよ。全く。」
と、しばらく鉦渓と東伝の憂談(ゆうだん)が続くのであった。
「海瑞(かいずい)精神に学べ、と言い始めたのは当の毛主席なのにねえ。訳が分かりませんな。」
と、呉東伝が言えば、
「最近は、文芸が、政治論争に利用され、作者は、今ごろどう思っていますかね。」
と鉦渓が答えた。
明の時代、海瑞(かいずい)と言う名の、清廉潔白な官吏が、時の官吏の不正や悪行を見かね、断固とした態度で処置をした結果、逆に皇帝から罷免され、故郷に帰る、という筋書きで、七年ほど前に、毛沢東は「海瑞精神に学べ」と民衆に呼びかけたのだった。
中国五千年の歴史に於いて、官吏の不正と、それを正す立場の官吏との間の物語はどれほど多かったか分からない。二十世紀に入ってからも阿片戦争における林則徐(りんそくじょ)の活躍の舞台は目と鼻の先である上海であった。
その「海瑞免官」という歴史劇がブルジョア、地主、富農の復活、毛沢東の政敵である膨徳懐(ほうとくかい)の名誉回復を狙った政治的陰謀を狙ったものだ、と毛沢東は激しく非難したのだった。
「私などは、毛沢東が何を考えているのか分かりませんよ、文芸批判はあっても良いが、それを政治的陰謀等に何故結びつけなくてはいけないのか、中華の誇りは何処へ行ったのか暗い雲がたちこめる様な気分になって来ましたよ。」
と、鉦渓は、天を仰いだ。
「薄(はく)さん、そう悲観的になりなさるな。この国は、古来この様な政治闘争が繰り返されてきたが、じき元に戻るて。」
と、呉東伝は言ってはみたが、呉東伝にしてもこんな世の中は初めてだった。
仙人の様な風体をした呉東伝だったが、例の夢に現れた白眉、白髪、白装束で、青銅色の皺の深い顔をした老人、西方から千年の時をかけてやってきた、と夢枕で語り掛けた老人に、これからの中国を占ってもらいたい所だった。
「薄さん、そう言えば竜井茶(ろんじんちゃ)をこないだ、昔の船問屋時代の仲間からもらっての。一杯飲んで行きなさい。なんとも言えんいい風味じゃよ。それを呑んだら、そろそろ奥さんが心配している頃じゃろ、この話はまた日を改めてやろうじゃないか。」
と、東伝は鉦渓にやんわりと帰宅を促した。
−7.拉致− しかし、これを最後に二度と二人の憂談はなかった。
鉦渓は、東伝との気のあった話で気分を少し軽くし、東伝の工房を出ようとした時であった。
紅蓮が走って工房の方へ向かってきているのが分かった。近づくにつれ、何を言っているのが分かってきた。
「お父さん、大変、お母さんが連れて行かれてしまった。お母さんを助けて。」
びっくりして、顔をのぞかせた東伝にも、
「東伝お爺さん、お母さんを一緒に助けて。」
と、泣きながら訴えるのであった。
すでに鉦渓は、全速力で自宅の方へ走りはじめていて、それを追うように、紅蓮と東伝が続く様な感じになった。
既に夕暮れ時をとっくに過ぎており、暗闇と化した運河に沿ったその道に殆ど人は居なかった。
自宅の五十メートル程手前で、鉦渓は近所に住む何人かの人とすれ違ったが、皆、気の毒そうな表情を鉦渓に向けた。
鉦渓は走りながら、誰が、何故へ妻を連れて行った、と何度も何度も繰り返し自問してみたが、その原因が自分にあるようにしか思えなかった。
自宅に辿りついてみたら、白壁に赤く染まった、大きく書かれた落書きが目にとまった。
「造反有理」と大書されていた。
鉦渓にとっては初めて見た言葉だが、その意味を考えているゆとりはなかった。
戸を開き、中へ入ろうとした時、近所に住み親しくしている陳顛倍(ちんがんばい)夫婦が興奮しながら、
「東伝さん。奥さんが、最近よくこの辺をごろついていた若い者四人に無理やり連れて行かれたよ、奥さんが落書きを咎めたら、逆に「階級敵人」等と罵倒され、両腕を掴まれ連れて行かれたんだよ。」
「何処へ連れて行かれたか分かりませんか?」
「運河沿いの集会所に連れてゆく、と主人に言っておけ、とそいつらが言っていましたよ。迂闊にやつらの罠にはまってはいかんよ。」
と忠告してきれたのだろうが、最後まで聞く前に、鉦渓は、集会所の方へ走り始めていた。
途中、息を次いで追いかけてきた紅蓮、東伝に気がつき、
「蕾蓮が集会所に連れて行かれた。これから行ってくる。紅蓮は家で待っていなさい。東伝さん、娘と一緒にいてやってくれませんか、お願いします。」
と顔を強張らせ走っていった。
〜〜〜 つづく〜〜〜