西方流雲(10)
<<< 13. 戸津君の退職 >>>
高橋課長の存在は晃一にとって追い風である。しかし、だからといって他の人にとっても追い風になるとは限らない。むしろ、逆風になる場合の方が多いかもしれない。 晃一は最近、職場での戸津と高橋課長のやりとりで、戸津が、 「課長!僕はそうは思いませんけど」 とか 「課長!それは違うんじゃないですか?」 と言っている事が多い様に感じ、気になっていた。 晃一は高橋課長より戸津との付き合いの方が長いことや、常々、戸津の優秀さを認めていたので、戸津の言っている事の方が正しいように思えて仕方ないのだが、見方によっては、唯物論と唯心論の違いの様でもあり、性善説と性悪説との違いのようでもあるようで、アクションガイド を持たない晃一には、話に割り込むきっかけがつかめず、戸津に加勢したくてもどうしようもなかった。 しかし一方では高橋課長から仕事以外のいろんな話を聞くにつれて高橋課長の言っていることも、一理有るように思えることがあり、しっかりした自分の考え方を持てない自分が情けなくなるのだった。
2月25日木曜日であった。 会社から戻って給料袋をあけてみたら、28000円の手取りであった。 ドアをノックする音が聞こえた。尾崎かなと思ったら、戸津の声で、 「薄、外に食事に行きへん?」 との誘いだった。晃一は、 「いいよ、連中にも声かける?」 といったが、 「連中は何時に帰ってくるかわからないし、帰る途中何処かによってくるか分からないから、今日は二人だけでいいよ。」 戸津にしては珍しい事だった。薄がどちらかと言うと小人数で密度の高い話をする方が味があると思っている傾向があるのに対し、戸津は逆に大勢で、がやがややるのが良いとするタイプだった。 それだけに、なにか特別の話があるな、と感じた。 寮を出ると、何故かオリオン座だけが雲に邪魔されず頭上にはっきりと見えた。 はく息は白く、ジャンパーに腕を突っ込み前かがみ気味に、寒さをかき分けて坂道を上り、産業通りを突っ切り、路地みたいな細い道をぬけてアーケードとなった商店街に出た。 給料日とあって、福よかな顔をした人たちが同じような格好をして行き交った。 その中に、石井さんら女子寮に住む人たちの姿もあったが、戸津は軽くうなずくような格好をして、 「又ね。」 と言って、すれ違った。これも戸津にしては非常に珍しいことで、いつもだったら、 「付き合わない?」 と言うはずなのだ。この様子をみた晃一は何か思いつめているな、と確信した。 アーケードが終わる少し手前に、向かって右手に小さな路地があり、そのつきあたり近くに、小さなお好み焼き屋があり、二人の足はそちらに向かっていた。 その店は前の年の11月、戸津と晃一が二人で偶然見つけた店で、他の連中には教えないことにしていた。 後で、その店を切り盛りしているおばさんが、晃一らの会社に勤めている女子社員のお母さんということが分かったのだが、そんなことは知らなかったその時はその娘(こ)もごく普通に晃一らのテーブルで手際よくお好み焼きを焼いてくれたのだった。 会社では作業服と作業帽を着ている為、また晃一らの職場からは事業部も異なり、普段は全くと言ってよいほど交流が無いので目立たず、晃一らの仲間がふざけて、女子社員の品定めをする時にも一度も話題に上がった事の無い娘(こ)だった。 その店に初めて入って、お好み焼きをつくってもらった時は、同じ会社の社員だと言う事はお互いに分からなかった。 ところが、ある日、仕事で、ある治具を作る為に必要な工作装置が手元になく、その装置があると聞いた紡績事業部に足を運んだ。 思ったより屋根が高く、沢山並んでいる機械が、同期して動いているわけではないので、全体としてザーっという音がするのだが、機械のそばを通り過ぎる時は、かたかたと早いリズムで糸を送る音が聞こえる。 また紡績の独特の、もやっとした頬をなでるような香りのする中をくぐり抜けて、薄暗いその建屋のすみまでくると、事務机の前に座っていた、めがねをかけた初老の社員が、晃一の方に向いて、 「薄はんかいな?」 とにこやかに声をかけてきた。 めがねの奥のまなざしはやさしげであった。晃一は、 「はい。先ほど電話させていただいた薄です。お忙しいところすいません。沢井さんですね。」 「そや。あの機械は、最近いれたばかりだけど、まだ殆ど使ってないんや。沢山つかってやってや。」 「何に使う予定なんですか?」 「言って良いのか、分からへんけど、社長の話では、もう、繊維事業をやめるんやて。それで旋盤の扱いくらい勉強しておきと社長に言われ買うたんや。わしはこの工場の責任者だから、わしが先ず率先して新しい機械を操作しているところを若い者に見せ、意識の改革を促せと言うんや。あんたみたいに新しい技術持ってる者はいいけど、うちらみたいに繊維しか知らん者にはしんどいことや。 あそこの間仕切りしてある一角に置いてあるんや。あとで使いかた教えてや。」 と寂しそうに言った。 晃一は学生時代に工作実験で旋盤は扱ったことがあるので、その機械を使う作業は難なく終わり、沢井工場長にお礼を言いに行った。工場長は何故か一点をじっと見たままで、晃一が近づいたのに気が付かなかった。 「どうも、有り難うございました。終わりました。」 と声をかけると、 「さよか、うまくいきはったかいな?」 と、言い終わる頃やっと、晃一の方をむいた。そして先ほどと同じまなこで、 「薄はん、あそこで立ち働いている若い女子工員みえるやろ。あの子を、色で喩えるとどんな色だと思うやろか。」 晃一は、なるほどじっとみていたのはあの娘か、とわかり、 「少し遠いのと薄暗いのとでよく見えません。」 と正直にいった。 沢井工場長は「そうやな。」で会話は終わるかと思ったが、 「ほんなら、近くによって何気なく見てきなはれ。」 と言った。 晃一はそろそろ自分の職場に戻らなくてはいけないと思いつつも、興味にかられ、 「それなら、戻るついでに、なにげなく見て、後で報告します。だけど大切なことなんですか、これは?」 「多分そうやな。そう思っときなはれ。」 晃一はもう一度、沢井工場長にお礼を言い、自分の職場へ戻るついでに、まじまじとその子の顔をみて驚いた。なんと、例のお好み焼き屋さんの娘だったのである。その娘も気が付いたらしく、一瞬視線があった時、相手も微笑んだ様な気がした。職場に戻った晃一は沢井工場長に電話をかけ、「先ほどは大変有り難う御座いました。ところで色の話ですが藍色でどうでしょうか。ところで彼女、名前はなんと言う人ですか?」 「そうか、藍色か、それもいいな。あの子は坂本幸子というんだよ。夕鶴みたいな子でな、時々ふわっといなくなる様な気がする時があるんや、ほんまに。…・暇なときにまたこちらに来なはれ。」
そんなことがあり、お好み焼き屋のその娘(こ)の名が坂本幸子ということが分かったのである。 その店の暖簾を二人でくぐり、狭い店内を見回してみたが、彼女の姿は見えず、お母さんの方が忙しそうに立ち働いていた。 六つある四人がけで、調理台に最も近いテーブルに晃一と戸津は対向するように座った。 「おいでやす。」 「すみません、ビール中ビン二本」と晃一が注文すると、 「さっちゃん。こちらのお客さんに、おビール二本お願いね。」と奥に向かって呼びかけた。 いつもであれば、このへんでウキウキしてくるのだが、戸津の様子が少しおかしいので少し抑えて、戸津の方を正視し、晃一から切り出した。 「さざえが帰ってしまって寂しくなったよな。」 「…………………」 「さっちゃん、毎日ここで手伝ってんのかな。」 「…………………」 「戸津、どうしたんだよ、元気ないぜ」 「……・・、会社辞めようと思うんだよ。」 「突然、驚かすなよ。冗談だろ、決心しちゃったわけではないだろうな。」 「薄はあの課長と気が合うようだけど、俺はだめだ。うまくやっていけそうにないよ。」 「なんだ、そんな単純な理由か。戸津らしくないな。」 そこへビールを運んできたさっちゃんが、にこやかに、 「いらっしゃいませ。何か他にご注文はあります?」と聞いた。 「さっちゃん、て言うんだよね。ほら、こいつも同じ会社だよ。戸津って言うんだよ。なんか今日元気ないんだよこいつ。だから、こいつの元気が出るものならなんでもいいよ。何かある?」 「うちはあまり品数がないんです。この中から選んでくれはる? ほな戸津はんの為にうちのおごりにしますから。他にまだお客さんいないから大丈夫やわ。」 「いいんだよ、そんなに気をつかわなくて。」 「折角だよ。何か頼めよ。戸津」 戸津は、思いつめた様な形相で、 「そう、そしたら、さっちゃん握手してくれへん? それを伊丹の思い出にするよ。」 そっと差し出したさっちゃんの透き通る様な肌の左手を戸津は両手で包むようにして握った。二人はどんな気持ちで握手をしているのだろう、と考えていると、 一部始終を 見ていた彼女のお母さんは、 「あらまー、戸津はん。その子気に入ったら、お嫁さんにしてやっておくれやす。」 と冷やかした。 「いややわ。お母さん。助けて薄さん。」と晃一の方を見つめて助けを求める様な声を出した。しかし、 「でも戸津さんの手は温かくてやさしい。元気だして戸津さん。」と付け加えることを忘れなかった。その一言で、戸津はすっかり明るさを取り戻し、会社をやめることなど忘れてくれたかなと思わせるような冗談を言い合った。 お好み焼きを二人で五枚、ビールも二人で五本あけた頃には店も混んできたので帰ることにした。 さっちゃんは店のそとまで見送ってくれて、 「おおきに、また来てね。それに戸津さん、元気出してね。」 と、今度は彼女から握手を二人に求めてきた。 冬の夜空は出掛ける時より、はるかに晴れていて、オリオン座だけでなく、それを取り囲む多くの星達もはっきりと見えていた。 身震いをしながらその下をくぐりぬけて早足だったが、寮に着いたのは夜十一時半を過ぎていた。 晃一は早速布団を敷き、掛け布団を頭まで被って、先ず戸津が考えを撤回したかどうか、自分の胸に問いただしてみた。 そして次にさっちゃんの透き通る様な肌の左手を思い出していた。 何故左手だったのだろう。 自分と同じ左利きだったのだろうか。 それより薄という自分の名前を何故知っていたのだろう。 戸津は一度もあそこでは自分の名前を呼んでいなかったはずだ。 沢井工場長から聞いたのだろうか。 そう言えば彼女がエプロンの下に着ていた服の色は藍色だったような気がする。いや、それとも古代紫色だったかな。 等と自分の胸に問うのであった。 しかし、それ以上に胸に深く刻まれたのは、紡糸工場で働く姿と、今日の晃一らに対応する俊敏な機転の効いた対応をする彼女の姿のギャップの大きい事に驚かざるをえないことだった。 まるで目立たない様に黙々と作業をこなしている会社での彼女と、店の看板娘とでも言える、明るく、機転が効く明るい声で晃一等に応対する彼女が同一人物とはとても思えなかった。 きっと何かしっかりとした生き方の指針を持っているのだろう。 それに比べ自分はどうだろうとまともや情けなくなる晃一であった。
しかし、戸津は翌日辞表を高橋課長に出したらしいのであった。
何かを求めていると一見して見えても 当の本人にしてみれば細い糸をたぐりたぐり、 その糸の端にたどり着こうとしているのだ 糸の端など人生にはあろうはずも無いのに
戸津の決心は固く、撤回の余地など全くない事が分かってきた。晃一は説得不可能とみて、戸津の為に同期の仲の良い仲間で送別会を開く事にし、尾崎、斉田と打ち合わせ始めた。 一年後輩の別所と倉井、更に一緒に京都や神戸に出掛けた石井さんや内村さんも誘うことにした。
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