西方流雲(20)
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冬の古都は冷え込む。 雪は積もらないが、北山の方では毎日少しづつ降り、解ける前にまた降るものだからいつしか根雪になってしまう。 道路上の雪は、踏み潰されて路面が見える筈だろうが、つい先程まで少し降っていたのだろうか、足跡や轍がうっすらと白いベールで覆われている。 杉林の根元でベルト状に根雪を両側に携えたとなった白帯に挟まれたその小道は、急な上り道となって右手に急カーブして途中から見えなくなっているが、玄琢方面へ至っている筈である。 「これでは、フィルムがすぐなくなってしまいよるで。さっきの茶店の所だけで十枚も撮ってしもた。」 と、尾崎が白い息をはきながら深閑な雰囲気を壊した。 「雪の白、茶店の黒、茶店の前に配置された縁台の上に立てられた朱塗りの唐傘、そして、白川女風もんぺ姿の小さな女の子、絵になったよな。カメラ持ってこないで失敗したよ。」 と、晃一は応じた。 「 一つ不足しても絵にならない、ひとつ余分でも絵にならないとはこのことだなあ。」 と、尾崎はいかにも満足げに呟いた。
その日は年も改まり一月も十五日、成人の日である。 「京都に写真撮りに行くんやが付合わへん?」 と誘ったのは尾崎だった。 その前日、噂されていた希望退職募集の話が正式に会社から発表されたのだ。そして十八日には、これに関する労使協議会を開くことになっていた。 その夜晃一は尾崎の部屋を訪れ自分の情けない気持ちを聞いてもらったのだ。 「尾崎、自分の未熟さに愛想をつかしたくなったよ。希望退職募集の話が正式に会社から発表されたのだが、こうなって、何もかも透き通る様にはっきりしたよ。組合合併の後押し、与那嶺副人事部長の引き抜き、淵田書記長の暴力沙汰事件をきっかけとした退職への追い込み、その他細かい事を挙げたらきりがないけど、皆、このことの為の準備だったんだよな。そこまで読めなくて情けないよ。」 「薄、それは無理や。誰だってそんなこと無理や。」 「それにもう一つ情けないのは、労働組合長と言うのにピンと来ないんだよね、希望退職募集と言うのが。中にはこれを境に大幅な人生設計のやり直しをするはめになる人がいるというのにね。その人の立場になって考えることが出来ないんだよな、情けないけど。」 「我々は、既婚者ではないし、紡績関係の仕事をしてきたわけでもないし、そういう立場になれと言う方が酷や。今回は旧紡績労組の執行委員に任せてしまえばいいんやないか、あまり深刻に考えん方がいいんやないか? 薄は労組の将来にとってというより、会社の将来にとって重要な人材と思われているんやから、当たらず触らずでいいんとちゃうか。会社だって、将来の人材には若い時になるべく多くの経験積まさせてやろ、というのが本音やないか。」 「それでは、他の組合員に申し訳ないよ。」 「そんなことあらへん。薄自身が納得のゆく待遇を獲得出来る様にする、と言う事が他の組合員の待遇向上につながるんや。だからあいまいな妥協をするというのが一番まずいこっちゃ。」 晃一は、尾崎の言いたい事が良く分かっていたが、何故か明るい気持ちになれなかった。 沢井工場長のやさしいまなざしや、明るく微笑みかける坂本幸子のまなこに寂しそうな影がさす様子が頭にちらついたからかも知れない。 晃一は視線を畳の上に深く落としながらも、 「自分はなんて友に恵まれることよ。」 と友との巡り合いをありがたく思うのであった。すると尾崎は、 「薄は今年になってもう京都へ行きはった?さっき京都北山の方では雪がちらつく、と天気予報で言いよったで、雪の京都の写真を撮りに行こうと思うんやけど、暇やったら付合わへん?」 と、無理にでも連れてゆくと言わんばかりの誘いかたをした。 晃一は自分の気を安らげるというより尾崎の好意に答えようと言う気持ちで、答えた。 「今年初めてだよ。光悦寺や円通寺の雪なんてのは素晴らしいだろうね。行こう、行こう。」 「よし決まり。最近高感度フィルムを買ったばかりやどんな写真が撮れるか楽しみやな。車を北山通りの市営駐車場に置いてそこから歩くことにしよう。…・、所で薄、彼女は連れて行かなくていいんか?」 晃一は、 「いいんだよ。じゃ明日な。八時頃寮の玄関前で待っているよ。」 と言って、尾崎の部屋を辞した。 晃一は自分の部屋に戻る途中、ふと光悦寺の側にある玄啄源光庵での不思議な経験と、彼女と尾崎に言われて、菟新明初子と一緒に三千院に行った時の不思議な出来事とが、ちらっと脳裏をかすめたが、気にするほどではなかった。 尾崎も晃一が部屋を出ていったあと、菟新明初子との間がこじれてなさそうなのを感じ取って安心した。 何故なら、晃一があの日帰ってきた時、晃一に 「なんだかえらく顔色が悪いよって、何かあったんかと思うたで。ところで昼間彼女が来て手編みのマフラーを薄に渡してくれ言われて、預かっといたで。これや、確かに渡したで。」 というだけにしておく積もりが、 「菟新明初子さんや。知らんとは言わせへんで。」 とまで言ってしまったことに後悔し続けていたのだった。 そこまで言わなければ真実なのだが、その一言を付け加えてしまった為に、好意からとは言え嘘をついてしまったことになるからである。 事実はマフラを実際に届けに来たのは菟新明初子本人ではなく、彼女の仲の良い友人だったのである。 「本人が」と言えば喜ぶと最初は思ってそう言ったものの、本人が直接晃一に手渡すと言うのが本筋であって、下手な嘘をついてしまった、と後悔していたのだ。 「第一、後で薄が彼女に会えばばれてしまうではないか、そう言えばあの時、薄はへんな顔しておったもんな。」 そんな気まずさもあり、今年になって晃一と話をしたのは初めてだったのである。 尾崎はあの時の晃一の変な表情がそんな理由によるのではなく、もっと奥深い、晃一のその後の性格に深く影を落とすことになる理由によるものだとは夢にも感ずいていない。 ましてやその原因になる出来事が、彼女と二人で京都に行った時の出来事によるものとは全く知る由も無いのだ。
この時、晃一も、尾崎も翌日の訪洛で更に不可解な出来事が晃一を襲うなど夢にも思わなかった。
「全く雪山みたいな急坂だったな。砂利道の上の雪だから良かったけど、これが舗装の上の雪だった大変だったぜ、薄。」 「全く、あと二百メートル程行った右側にあるはずだよ、光悦寺が。尾崎、フィルムあと何枚位ある?」 晃一と尾崎は右へ大きくカーブした急坂道を滑らない様に、注意深く歩ききった。そこからは舗装になっていて、雪も舗装の上ではすぐ解けてしまうのか、雪で滑るという心配は全く無かった。 「三十六枚撮りだからまだ二十枚は残っているよ。それにポケットにまだ一本持ってるで。光悦寺ではぼんぼんとるで。」 と、尾崎は心をわくわくさせているようだった。 吐く息は白く、天を仰ぐと、どんよりと重い雲が垂れ下がっている。だからいいんだと尾崎は言わんばかりに足取り軽く晃一の前を歩いて行く。そして、少し行ったところで、突然、 「ここや、ここや、薄、やっと着いたで、…、なんや観光客なんて居そうもないで、寺も拝観させとらんかも知れへんで。」 「大丈夫だよきっと。このへんではこんな天気珍しい事ではないんじゃないかな。だとすれば休みにする事はないよ、よほど特別なことが無い限り。」 尾崎はどんどん先に入ってゆき、既に木製の拝観料入れにお金をほうりこんでいる。
光悦寺は大きな山門がある訳でもなく、寺院と言うより光悦の別荘という感じで、太虚庵という茶室と光悦垣というのが有名で、遠方に眺望できる比叡の山並を借景とした閑静な寺で、熊笹が一面に生い茂っている。 その熊笹はそれほど厚みがある訳でない雪の重みに耐えかねて、笹の葉が地面に接するように撓んでいる。 そして、熊笹の絨毯の丁度切れ目あたりに、上辺が白くなった光悦垣がゆったりと配置され、光悦垣の向こうには太虚庵がみえ、その縁台には薄っすらと、その半分が染め分けられている。
突然、青い閃光が、晃一の網膜に焼き付いてきた。 そして少しして、次にピンクの閃光が晃一の目に飛び込んできた。 「一度、これをやってみたかったんや。」 と、尾崎がストロボから赤いストロボ用フィルターをはずしながら、深閑とした雰囲気に向かって素っ頓狂な声を上げた。 次のフィルタをとりつけるのに躍起となっている。
すると、その時、晃一の背後から、 「ちちちっ。」 と鳥の鳴き声がしたので晃一が後ろを振り返ったら、先程晃一らがくぐって入ってきた本堂と別堂を結ぶ渡り廊下の下のくぐり口を出て行く人の姿が見えた。 深い青紫色のロングのビロード服を身に纏い、頭には黒い淵の大きな帽子を被っていた。 晃一は咄嗟に渡り廊下の下のくぐり口に走り寄っていったが、その人の姿は既に見えなかった。それどころか、うっすらと積もった雪の上に残された足跡は、先程晃一と尾崎が残したものだけで、どう見ても他の足跡は認められなかった。それが分かった瞬間、天地がぐらぐらと揺れる様な感じがした。 そして暗黒の視界の先に、透き通る様な白い肌にピンクの薄絹を纏った女性が躍動し、何か舞っているようだ。注意してみると、それは飛天が宙に浮かび晃一の方に近づいたり、遠ざかっているのだった。 「ちょっと待ってください。もし。」 と一生懸命声を出そうとするのだが、全く声が出ないのだ。 ・ ・・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・・
「薄、薄、薄 大丈夫か?どうしたんだ?」 「ご迷惑かけて申し訳ありません。」 「いいえ、それより救急車呼びましょうか? でもこの天気じゃここに着くまで一時間かかるかもしれへん、そうや、お医者さんに来てもらいまひょ。いま電話してくるよってに、見ていてくれはりますか?」 「お世話になります。こんなこと初めてですよ。一体こいつどうしたんやろな。薄、薄、しっかりしろ。」
「電話してきました。お医者さん、すぐに来てくれはりますよ。はい、おぶをお飲みよし。お医者さん、すぐ来てくれはるえ。落ち着きなはれ。」 尾崎は、一服すすると少し落ち着いた。落ち着いてみると、面倒みてくれている人が、光悦寺の尼さんだということ、そして自分達がいる所がお堂の中であることが分かった。 「すみません。」 と尾崎は小さな声でぼそぼそ言って途方に暮れていた。 労働組合の合併の問題で疲れていたのかな。それとも彼女との交際で何か問題が起っているのかな、などとあれこれ考えているうちに、玄関の方から、 「何処に居てはるんやろ。まだ息してはるかな。じゃ上がらせてもらうで、薫尼(くんに)さん。薫尼さんは相変わらず元気そうやな。精神が出来てる為やろな。」 「うちのことやあらへん。早う診てあげなはれ。相変わらずやな、恒(つね)さんは」 恒さんと呼ばれる医者は部屋に入ってくるなり、尾崎の腕を手にとり脈をとり始め、おもむろに、 「なんとも無いやないか、顔色もいいし、」 と言ったものだから、尾崎はきょとんとしていたが、薫尼さんは我慢しきれず、けらけら笑い出し、 「恒さん、間違うたらあかへん。みてあげにゃならんのはその人ではあらしません。」 と言ったものだから、つい尾崎もげらげら笑い出した。 二人の笑い声に刺激されたのか、それまで閉じたままの晃一のまなこが開き、きょとんとして、 「尾崎、こんな所で何やってんだよ。」 と小さな声で呟いた。 すると、その医者は、自慢するように、 「ほれ見い。ちらっと見ただけで、気絶しているだけだと分かった。人と言う動物はな、他人の自然な笑い声が聞こえると目が覚めるのや、反対に回りの人間が心配ばかりして沈んだ声で話しをすると、なかなか目が覚めへんのや、そこで笑い声を誘う為にわざとあんたの脈を診たんや。この薫尼さんに感謝せんとあかんで、もし彼女が笑わなかったら、あんたも笑えなかったやろ。あんたも薫尼さんも笑わんかったら君の友達は正気に戻れたか分からへんで。じゃ正式に診てみようか、脈をとらせてもらおうかな。………大丈夫や。全く問題あらへん。ところで何歳かな?そして名前は?」 「僕は薄晃一と申します。年は二十五歳です。そこにいるのは尾崎繁利といって会社の友人です。」 と何事も無かったかの様にしゃべった。すると尾崎は、 「尾崎繁利といいます。薫尼さん?、すみません馴れ馴れしい呼び方して、そして先生、世話になり本当に有り難う御座いました。診療代おいくらでしょうか? 薄、まさか健康保険証持ってへんやろ?」 と、晃一の方に向かって聞いた。すると、その医者は、 「診療代なんていいのや、丁度患者も誰一人来ておらんかったし、だれか話相手おらへんかなと思ってたところや、そうしたら、光悦のマドンナからの電話や、あんたら キューピットや。」 医者から光悦のマドンナと言われ、尾崎から薫尼さんと呼ばれたその尼僧は、ほんのりと顔を赤らめ、 「いややわ、恒さん。うちも息子が亡くなって、こんなけらけら笑ったのは久しぶりや、堪忍え、薄さんとやら、笑ったりして。二十五才と言えば息子も生きていれば同じ歳やわ。」 と言いおわるや否や、恒さんは、 「あの時は大変やったな、薫江さんの髪が急に白くなって急にふけてしまったものな。わしはかわいそうで見ておれんかったよ。その髪を下ろして僧籍に入ったと聞いた時は、涙がでたよ。薄君、尾崎君、結婚後の別れ話と後遺症つきの病は母親の命を十年は縮めてしまうもんやで、まだ君たちは二十才の半ば、体力と精神力を今のうち大いに鍛えて親を心配させるようなことはせんようにな。」 「はい、分かりました。いろいろと本当に有り難う御座いました。」 と、晃一と尾崎は同時に頭を下げた。そして、晃一は、何かこのまま一期一会で終わらせてしまうのが勿体無いような気がして、 「すみません、後でお便りを出したいと思います。住所とお名前教えていただけるでしょうか?」と言い、その宛先として、 京都市北区鷹峯光悦寺町二十九という住所と尼僧である小村薫恵こむらけいえ)さん、彼女の幼馴染みの医師、里村恒爾(さとむらつねじ)の名を聞いた。宛先は光悦寺気付にしてくださいとのことであった。 すっかり落ち着きを取り戻しゆとりの出てきた晃一に向かって、里村は、お堂の中の太い柱にかかった柱時計がまだ午後二時なのを確認してから、 「薫恵さん、悪いけど、いつものお茶たててくれんかね、この人達にも。」 「そうやわ、何かの縁かもしれへん。ここのお茶は特別なんえ。飲んで暖まってからお帰りよし。すぐ用意しますやさかい少し待っててくれはりますか。」 と言って六畳程度の部屋を出ていった。 「ところで、薄君とやら、そこの襖に何か書いてあるかね? 襖絵に特別の興味があるようだね。」 と里村は、さっきから襖絵の一点を凝視している晃一を見て話し掛けてきた。尾崎もそのことが気になっていたと見えて、 「そうだよ、又気分でも悪くなったとちがうんか?」 「いや、そうでなくて、この絵の構図をみるのはこれで三回目なんだよ。最初にこの構図を目にした時のことを思い出していたんだよ。」 と晃一は答えた。尾崎は晃一が変人ではないことをPRしようとして、 「実は、薄は今、会社の労働組合の委員長やっていて、つい最近まで会社から人員削減の提案が出され、その対策に振り回され、少し疲れ気味の様で、根っから京都好き人間なので、気分転換させてやろ思うて、私が誘い出したんです。」 晃一はそれを聞いて、またもや、 ―――――「自分はなんて友に恵まれることよ。」 と友との巡り合いをありがたく思うのであった。 「友とは良いものだな。良い話を聞かせてもろた。有り難う。…、所で薄君、意識をなくす前のことを聞こうと思っていたのだけれど、……」 と晃一の顔色を伺いながら話し掛け、そして続けた。 「どうやろその襖絵の構図のこと話してくれへんやろか。最初にその構図を見たというのは何時頃のことやろか?」 「ほんとに小さい時のことで、小さい時はよく熱を出し、うなされることがよくあり、熱にうなされ、ふと襖に目をやると、襖の模様が、次第に歪んできてついには丁度そこの襖絵の山水画の様な風景になってゆくんです。すると墨で描かれた高い急峻な峰峰が動き始め何時の間にか恐い顔をした閻魔さんの顔になるんです。それに指をさして、「あっ、あっ、」と弱々しい声をだすものだからお袋が心配して、「この子の運命はどうなっているのかしら」、「長生き出来るのかしら」と心配したらしいです。すると親父がある日、「音楽物語」と言う本を買ってきて、モーツアルトの魔王という一節に似たような場面がある。将来大音楽家になるかも知れないよ、と言ってお袋を安心させたとのことです。そんなことをふと思い出していたんです。」 「そういうことだったのか。ところで先程三回その襖絵の構図をみたことがあると言ってはったな。2回目のことを聞いてもよろしいか?」 と言った所で、薫恵さんがお茶を持って部屋に入ってきて、 「このお医者さんは答えにくいこと平気で聞くやさかい大変でっしゃろね。さあこれすすって体暖めておくれやす。お茶菓子もどうぞ。」 とやさしく語り掛けてくれた。すると里村は、 「わしゃ、医者やで、何故この薄君が気絶したか聞き取ろうと思たんや。薫恵さん。 分かっとるくせに。……さ、折角や、このお菓子頂こうや。どうや薄君話せるかいな。 思いだせんかったらいいけど。」 「いえ、忘れるはずありません。おととしの事ですから。あれは社会人になったばかりの年で五月の連休のことでした。そこにいる尾崎と一緒に那智の滝に行った時のことです。 滝壷に向かう途中に中国風の寺院があるんですが、そこに巫女さんがいて、その巫女さんが後を付いてきて、と言うものだから、後に従っていったら、寺の中にある廊下を従って行くうちに、廊下の突き当たりになったんです。すると、その巫女さん、突き当たりに飾ってあった壁絵の中に吸い込まれる様に絵に描かれた飛天と一体化してしまったんです。 そんなこと現実にあるはず無いので、意識の逸脱を起こしただけだと忘れる事にしたんです。その壁絵に描かれていたのが、その襖絵と全く同じ構図だったのです。」 そこまで晃一が言い終わると、尾崎が、 「そう言えば、そういう事あったな。でもあの時は気を失うことなんか無かったよな。」 と和菓子を口に入れながら言った。 それをトリガーにして今まで晃一の身の回りに起った数々の不思議な出来事や、つい最近、菟新明初子と三千院に行き、そこでも今日と同じような気の失いかたをした事を一気に披露した。
尾崎は目を丸くして聞いていたが、里村と、薫恵尼は晃一の話の中に源光庵の話が出てきた事に格別興味を持ったみたいで、そのことを更に聞いてきた。
里村は手に取った茶碗と和菓子を交互に見つめながら、ぼそぼそと話し始めたが、その顔は医師の顔というより、歴史学者または文学者の顔だった。
「京都というと、最近は観光都市としての一面ばかりが強調されて 日本人の歴史の故郷ともいわれるが、京都を舞台として、歴史を作ったと言われる人たちの陰に、彼らと戦って敗者となって落人と呼ばれ、京都に住んでいる人たちやその子孫がいることを忘れる事は出来ない。平家の落人と言えば有名だが、それ以前にも、壬申の乱、その後の承久の乱、天慶の乱、保元の乱など大小問わず戦乱の世で敗者になった人達は多い。 とりわけ、保元の乱での敗者となった崇徳院(すうとくいん)の怨霊は有名だが、崇徳院に長く付き従っていた人達は崇徳院が島流しにあった後も京都にとどまり、崇徳院の怨霊を継承すべく代々京都の奥深い所に住んでいて、 災いを及ぼすべき対象を探し続けているという言い伝があるんや。しかし、その怨霊も京都の中心地まではおりて行けず、京都盆地の切れる東山、北山、西山の麓あたりに徘徊していると言う話なんや。関ヶ原の戦いの頃にはその言い伝えも消えかかっていたのやけれど、関東側が伏見城に立てこもり、鳥居元忠以下全員が場内で切腹、斬首して絶えた時の血塗れた床を天井の板材として用いた寺院が、京都中心部の周辺に建立された。
南部の三十三間堂近くの養源院、東北部三千院近くの宝泉院、洛北正伝寺、源光庵、西北の妙心寺天球院がそうなのだが、取り分け北部に建立された正伝寺と源光庵は比較的近隣に建立されており、意味ありげと言われている。崇徳院の怨霊が居付き易くなっているのがこのあたりだと言える。 西南部に血天井の寺院がないのは、崇徳院が島流しにされた讃岐の方角だからや。その怨霊は、日本の近代にも影響を及ぼし、明治天皇が即位する時に、わざわざ四国讃岐の崇徳院の霊が祭られている白峯御陵に勅使を送り、崇徳院の命日にあたる八月二十六日に宣旨を読み上げ怨霊を鎮めることと天皇の加護を祈願したとのことである。 この様にこの当たりには怨霊が明治まで住み続けたと言われた。ところが明治天皇の崩御とともに、怨霊は再び活動をはじめたというんじゃよ。」 そこまで神妙に聞いていた晃一がやおら声を出し、 「その怨霊はどんなことをするのですか?それに何故再び活動を始めたということが分かるのですか?」 と、里村と薫恵尼の方を交互に見ながら真剣な顔をして尋ねた。尾崎も晃一ほど真剣ではないが、晃一の問いに何度もうなずいた。 「崇徳院というのは、自分の出生の秘密を知らない、一途に思いつめるタイプの、天皇になりそこなった人間で、皇位継承のクーデターを起こし、讃岐に流罪された。 彼は反省の証として頭をまるめ、流罪地で五部大乗経の写経を行い、これを京都の寺社に収めようとした。しかし、朝廷にこれを拒否され、五部大乗経の写経は流罪地へ返された。これを知った崇徳院は激怒し、写経の大功徳を全て悪行に使う、と宣言したのだ。崇徳院の霊は讃岐にあったまま、以前の家来やその子孫達が、京都の町々で悪行をしては崇徳院の怨霊と言いふらして、怨霊のすさまじさを喧伝したのだった。 崇徳院は写経によって、反省の気持ちを認めてもらうことを一途に念じ、裏切られ、復習の気持ちを抱いた。そやし、その怨霊は人に認められたい、認められたい、と一生懸命になっている人の心に住み着き、それがかなわないということが分かった時に活動を開始するということなんや。 京都大学の学園紛争のすさまじかったこと、あれもそやなかったかな。……・、何故再び活動を始めたということが分かるかと? それはな、我々代々ここ鷹が峰に住む人間がひしひしと感じていることが何よりの証拠や。本阿弥光悦は徳川家に代々仕えた家柄で、徳川家の庇護のもとに全国各地をスパイのごとく歩き回り、ここを発祥の地とする種々の芸術品を売り歩いたと言われているが、徳川家に仕える前までは家系を辿ると、かって崇徳院の姻戚だった秦(はた)の甕悦(かめむつ)という人物の末裔ということらしいで。 今この辺、鷹が峰、に住んでる住民殆どがさらにその末裔ということになっているんや。」 ここまで言って、里村は薫恵尼に目配せをするように、 「大分、話し込んでしもた。もう四時や、源光庵の前からバスが出ておる。気分はなんともないやろ。確か16時13分や、今から行けば間に合う。ではまた尋ねて来なはれ。体に気いつけてな。」 「バスではなくて車できたのですが、いずれにしても帰ることにします。本当にお世話になり有り難う御座いました。また面白い話をしていただき有り難う御座いました。そのうち続きをじっくりお聞きしたいと思います。その時はよろしくお願いします。」と晃一と尾崎は深々と頭を下げ、光悦寺を後にした。 駐車場に向かう途中、行き先が京都駅になっている市バスに出会った。 バスは晃一らが乗り込むものと思ったのだろうか、しばらく止まっていたが、晃一らが乗車する意思がないことが分かったのか、一度短く警笛を鳴らし、走りだした。 駐車場に到着し、二人は黙って車に乗り込んだ。 車の中は冷え冷えとし、彼らの吐く白い吐息がタイヤに巻いたシャーン、シャーンと規則正しく道路をうつチェーンの音によって乱されて行くようだった。 繰り返しかれらの鼻口から吐かれる白い吐息が同じ様に繰り返し繰り返しチェーンの音によって消されてゆく度に、光悦寺での体験と見聞が御伽噺のなかの出来事だった様に思われるのだった。 尾崎にとってはその程度ですんだが、晃一にとってはその程度で済まされない話であった。彼らの白い吐息も、次第に透明になっていた。 それまでおしだまっていた尾崎が先に口を開いた。 「薄、本当にもう大丈夫やろな。今日のことは多分忘れた方がいいやろ。あの二人、親切にしてくれはって、世話になったけど、なんや気味悪うて仕方あらへん。自分達は崇徳院とりまきの末裔で、怨霊を誰かに植え付けてやる、とでも言わんばかりの言い草で、早く退散したかったで。だけど、薄は魂を抜かれるように一生懸命聞いてはるので仕方なく付き合っていたんや。」 と晃一に恨みでも有るような口振りで話し掛けて来た。 尾崎は今日の出来事を反芻し、彼なりのけじめをつけたのだろう。 そう思った晃一はと言えば、いまだ光悦寺での出来事を反芻している最中で、とても簡単には気持ちの整理が出来るような状態ではなかった。 里村の話の中で気になっていた崇徳院の怨霊と血天井の関係、そして光悦寺で気を失う直前に横切った鮮烈な光景、 そして連鎖的に、源光庵での体験、三千院に菟新明初子と一緒に出掛けた時におきた出来事、考えて見ればいずれも血天井に関係している。 では那智での出来事は一体何だったのか。そして自分は一体何者なのだ。 この時以来、晃一は自分の身の回りに対し、もう少し敏感になり、懐疑的にならねばならないという、基本的な人格作りを意識しはじめたと言ってよい。 そしてこの人格はこれからの晃一にとって、数々の難問を晃一のそばに手繰り寄せることに役立ってしまうのだった。 しかし、晃一の口からは、いかにも優等生的な言葉が出てきて、尾崎の杞憂を払拭するものであった。 「尾崎、光悦寺での里村医師の話だけど、お医者さんだけあってよくしっていたね。 崇徳院の例をだして人生訓を話してくれたりして、ああいう閑静な所に住んでいるとゆとりをもって、もの事を分析し、自分の人格に組み込めてゆくんだろうね。あの人はもしかしたら鷹が峰の仙人かも知れないよ。」 尾崎もそれに同意し、 「全くその通りだね。鷹が峰の仙人とはいいね。しばらくしたらお礼の手紙出すんやろ。もし、俺の今日の写真が間に合ったら、それも同封させてくれるやろか?」 と言ったが尾崎の本心は何となくさっきの二人を気持ち悪く思っていて、これ以上あの二人に深入りすることが、薄の為に良い事ではなく、晃一の行動を知っておく必要がある為と感じたからであった。 晃一と尾崎は雪の中を伊丹に帰りついた。途中阪急伊丹駅近くで食事をしたこともあり、二人が寮にたどりついたのは八時すぎであった。晃一は自分の部屋の自分の座布団に腰を落とした時にはもう翌日のことを考えていた。晃一にとって、この日起った事はもう忘却のかなたの事になっていた。 そして、何故か自分の身が根無し草に似た存在であるような感じがしてならなかった。
―――根無し草付き合う寒夜に寝床なし。―――――
光悦寺ショックも少しづつ記憶が希薄となり、特に尾崎の撮影した写真を数枚添えてあの時の礼状を出したあとは、全くと言って良いほど忘れているのだった。 晃一は会社からの希望退職の募集提案の対策におおわらわであったし、尾崎は4月以降ソニーからの半導体製造技術の導入準備に忙殺されていた。 労組は、昨年年末に紡績と晃一の電工労組が合併され、したがって、労使協議会の一切に旧両労組の執行委員が出席することになっていた。 紡績側労組はプロの活動家といっても良く、三井三池争議の経験のある人が二名で民社党員、また共産党員一名が執行委員のメンバーとなっている。 年齢的にも殆どが四十才台、油ののったばりばりの人達で、組合活動に掛けているという感じの人達である。 晃一の周りの殆どが、、 「今回の希望退職の募集提案は繊維事業部対象のようなものだよ。彼らに任せておけばいいんだよ。」 といったものだった。 晃一が希望退職の募集提案を考える時の原点は、沢井工場長と坂本幸子がどうなるだろう、というもので、もしこれが無かったら恐らく執行委員といっても、彼の周囲の人達の声にすぐ染まっていただろう。 晃一は繊維出身執行委員と同じ様に退職者が少しでも良い条件を獲得出来るように、と言う気持ちで一杯だったが、なにぶん、晃一は妻子を養う身分ではないので、実感出来ないのであった。 しかし、旧繊維労組はこの難局を乗り切る為というより、少しでも良い条件を獲得する為に、上部団体である全繊同盟の助力を得ながら会社との交渉に臨むことが決まっている。 労組は既に合併しており、晃一も旧電工労組の執行委員長ということで、全て同席しなくてはいけないことになっていた。 晃一から積極的に発言するという場面は無いと思われたが、晃一なりに、この合理化案にたいする基本的な考え方を持っておく必要があるだろうと思い、先程から、畳の上に横たわり、天井の板の木目を追いながら考えていたのであった。 ――――少し眠くなってきたな。 と思っていたところに、ドアをノックする音が聞こえた。 「薄さん。いてはる? ちょっとええですか?」 と別所の声であった。 晃一がドアを開けると、右手にレッドを抱えてかっかとして別所が突っ立っていた。 「入れよ。なんかあったの?」 と、晃一は枕を隅にどけて別所が座れるスペースを作った。 「彼女に別の男がいよった。そんなこと一度も何も言わんかったんよ。」 「誰かから聞いたの?」 「彼女が言いよった。」 「なんだ、別所との仲が進展している証拠じゃないの。羨ましいな。今回は壁に穴をあけることもしていないようだし、甘えているんじゃないの? ゴールまで時間の問題じゃないの?」 と感じたことを正直に言ってあげた。 「そうなれば良いんですが、何考えているか分からん様になることがあるんです。」 「水割りでいい?。氷がないもんでね。」 「ええです。薄さんは何してはったんですか?」 「会社から出てきた合理化対策案、どう考えたら良いものか、天井とにらめっこしながら考えていたんだよ。」 「希望退職の募集の話ですね。繊維労組が相手の様なもんやから、静観してて、いいんやないですか?」 「そうも言ってられないんだよ。だって、今まで紡績やってた人が、大勢、電工の仕事に移ってくるんだよ。片方の器にあった水を他方の器に一挙に移してしまおうというんだよ。当然他方の器の容量はそれ程大きくないのでこぼれる水がある。こぼれない様に無理して入れると容器がこわれてしまう。いずれにしても他方の容器に何かがおこることになる。他方の容器に入っていた水の温度が五十度だったとする。新たに移された水の温度が四十度だったら、混合された水は何度になると思う?」 「水の温度というのは給料を始めとした労働条件ですね。」 「そう。会社も新たな容器を用意しようとしているけどね。それだけで良いはずが無いよ。こちらの容器の容量も少しでも大きくして行かないといけない。」 「ソニーからの半導体製造技術の導入ですね。尾崎さんも行くらしいですよ。だけど本当に繊維の生き残る道はないんやろか。」 「全繊同盟上部役員の話では、ファッションや、特殊な繊維製品を開発することによって、十分国内で、新規需要を喚起することが可能で、通産にもそう言って繊維業界生き残りの為の金融面の優遇施策の実施の陳情をしているんだよ。 先週は東京へ皆で行って、陳情書を渡して来たんだよ。だけど現実は厳しそうで、最初の予定通りになってしまうんと違うかな。何分、日米の国家間の取り決めがことの発端だからね。」 「じゃ、社長ばかり責めても可哀相とちゃいますか?」 「ある意味ではそうだろね。だけど、ここでお互い安易に妥協すると、希望退職に応募する人だけでなく、会社に残る人にとっても、会社にとってでさえ、後に禍根を残すことになると思うんだよ。だから、観点を変えて、会社に残る我々労使にとっての 労働条件を向上させる為の課題を明らかにして、課題解決の為の施策実施の約束を取り付けるんだよ。」 「そこまで考えてはったんですか? ところで労働条件を向上させる為の課題って、薄さん、具体的に何か思い付きはりましたか?」 「具体的にと言われると困るんだけど、水を入れる容器の大きさを大きくするか、容器の数を増やすしか無いと思ってるんだよ。ソニーからの半導体製造技術の導入もそれにあたるけど、やはり、一番重要なのは新製品の開発だね。
新製品の開発と言うのは既存製品の中でのコストダウンや高品質、高機能化をもった新製品の開発という場合と、既存製品の範疇から外れる新製品、例えば、太陽電池やICみたいなものの場合の新製品、更には全くジャンルの異なる商品、例えばエレクトロニクス分野ではなく、薬品や健康機器みたいなもの。 なんでも良いんだよ新しい器になったり、器の容量を増やすものであれば。」 「何か有りますやろか?何かを発明するということに為る訳ですね。」 「そうだけど、何か無いか、と言われてもすぐ出てくるものではないよね。そこでね、先程の課題というのは、まず新しいものを開発する為のシステムがあるか、と言うのが第一の課題と思うんだよ。」 「そやけど、いくらシステムが有っても、その気が無いと意味無いと違うんですか?」 と、別所は三杯目を飲み干して四杯目をつぎながら核心を突いてきた。」 「そうなんだよ。それが一番重要だよ。そこでね、この機会を利用して器を大きくしたり、器の数を増やすことが、我が社の労使全体にとって最も差し迫った重要な問題だと位置づけた上で、社長に繊維事業部で長年貯えた技術を生かしてなんとか新製品を開発して行こうと言う情熱があるか、聞いてみようと思うんだよ。まず社長が全社員に対し、新製品開発が如何に大切か、会社の大きな課題として取り組んでゆくことを熱く表明し、社員に新製品開発の情熱を持つ事を期待する。即ち、提案の風土を醸成してゆくことだよ。問題は労組がそれにどう関わるかだよ。どう思う?」 と、晃一も三杯目を飲み干して、四杯目をグラスに作りながら続けた。晃一はすぐ顔に出る方で、既に真っ赤である。しかし、言う事は全く脱線していなかった。晃一にそう問われて一瞬困った顔をした別所は顔色一つ変えていない。強いのだ。そして、 「そう言うシステムを運営するのは職制でいいのではないんやろか。労組としては、 当社の課題を突き付けて、それに対し具体的な施策を会社にとらせ、あとはその施策運営が順調にいているか時々チェックするということをやってゆけば良いと思いますけど。」 「そうだね。その通りだと思うね。ところで、その新しい施策に従って運営することになった当の担当者はそれをどう感じるかなあ?業務が増えて面倒くさくなったり、無視することだって起りうるんじゃないかな。そこが問題なんだよ。単に情熱で済まされると思う?」 「直面する本来の業務で手一杯でそれどころでは無いかもしれませんね、きっと。」 「だから職制が絡むのは最後の最後にすればどうかな、というのが僕の考えなんだよ。」 「どういうことですか?」 「新製品の開発と言うのは、はまずは誰かの提案から始まると思うんだよね。提案制度を設け、誰でも職制を超えて提案出来る。提案制度事務局を設置し、ここへ提案書を提出する。事務局はこれを受理し、内容を評価し、内容が優れていれば、関連する職制にフィードバックし、提案内容を検討させる。 ここで採用されれば、提案者に賞金を出す。こんな感じだと賞金も出るし、職制も提案を採用するかどうかの判断がまかされているし、運営しやすいとちがうかな、と思ってんだよ。」 「グッドアイデアですわ。さあて、遅くなりましたので失礼します。」 「うん。冷えてきたね。じゃ彼女によろしく。おやすみ。」 この晩の別所との雑談は晃一の考えをまとめるのに大いに役立った。 しかし、翌日の労使交渉ではそのような事を発言するチャンスは全く無かった。退職者の条件をどうするかの議論で、全ての時間が費やされてしまったのだ。 最近なけなしのお金をはたいてステレオセットを購入した。最近のお気に入りの曲がピンクフロイドの「吹けよ風、呼べよ嵐」 なんとなく今の自分の情況にマッチしている。
既に今年も2月中旬いまだ希望退職募集の件は収まらず、それどころか対象を広げるという話が出てきている。 この様な話は希望退職の話が出る時のお決まりの話なのだそうだが、 「益々解決が遅くなる。」 と晃一は、少し面倒臭くなって来ていて、逃げ出したい気分になってきている。 そんな気分の中にわずかに咲いた花が、菟新明初子からのバレンタインデーのチョコレートの贈り物だった。 晃一は時が時だけに、嬉しい感じがした。 彼女ももう二十三才、晃一より一つ下であり、既に適齢期に入っている。あまり無責任な交際のしかたは出来ない、と思いつつも、現状をどの様な方向に持っていって良いのか分からなかった。彼女のことがどうも見えてこないと言うのが最大の原因であった。それに昨年年末一緒に三千院へ行った時のことが鮮明に記憶に残っているので、 なんとなく、前に進みにくくなってきているのであった。
真冬の冷たい風が隙間風になって心のひだに触れて来る。 その様な気分に陥ることが最近は増えて来たように思われて仕方が無かった。 その日の朝も会社行く途中、まるで脳細胞が分裂して行くような、 自分ではない誰かの 心中の光景が晃一の胸中をよぎった。 自分にとっての幕引きとは一体だれであろうか。 親、姉弟、友人、恋人、小鳥、目的?希望? 幕引きが希望退職を願い出ているのかも知れない。 いや、自分にとっての幕引きなどと言うのはもう居ないのかも知れない。 彼に対する俸給の必要は無くなり、今は自分の心は安堵に満ちているのだ。 普通の人が生の最後に求めるもの、それを自分は偶然体験したのだが、もしこの安堵が永遠に続くとするなら、本当に死であろう。 かって私が話したことのあるクラスメートのノートを覗きこんだらこうあった。
魂と言うのは永久に終わりのない道を往来する。 その道には所々関門があり、門前で最大の願いが、 門をくぐれば手にすることが出来る。 しかし、一度門をくぐってしまえば、その魂は自分が門をくぐったことと 門前での光景を全て忘れてしまう。 その様にして魂というのは永久に終わりの無い道をうろつくことになる。 だから、だから 魂は常に現世を生きていると言う 感覚しか持てないのだ。 だから、時々夜の夢の中に浮かぶ光景は、 実は、かって何度か通りくぐってきた門前の出来事なのだ。 しかし、ノートの筆者は、もし私と同じ体験をしていたら、 恐らく自ら否定するだろう。 自分の手にするものが生ぬるく、又白いベールに包まれた混沌とした空間に居る自分を知れば、 やはり生と死の大きなギャップを肯定せざるを得ないだろう。 その友のノートの最後に、前世、現世、来世と言う言葉が書かれていた。
何時の間にか晃一は会社にいつものように着いていた。いつもの守衛がいて、いつもの様に会社の正門の植栽の陰を映そうとする池に噴水の水が重たげに宙に飛び出し、一番高い所まで行くと池に落ち水面をかき乱す。 それでも、明日は日曜で会社が休み、と思うと曇った空に、青空の占める面積が広がってゆくのが分かる。ミニスカートをはいてコツコツと地面を打つ音が絶え間無く続く。
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