槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/01/03 20:42:35|物語
西方流雲(30)
           西方流雲(30)

           <<< 31. 紫陽花 >>>

 中華料理のメニューが貼られているやや煤(すす)けた感じの壁に、えんじ色に染まった、漆塗りの釣瓶の形をした花瓶が掛けられ、そこに一輪の紫陽花の花が生けられている。
 それは紅蓮(こうれん)らが神戸に着いた日、芦屋市在住の斉藤英爾(さいとうえいじ)と言う名の、七十歳前後のいかにも温厚そうにみえる人物が港まで出迎えてくれ、目印として持っていたものであった。目印として、紫陽花の花を持っているということになっていたのである。
 しかし、紅蓮、東伝(とうでん)ともその花を一度も見たことがなく、途方にくれていたが、運良く出迎えの人たちの中で花を持っていたのは一人だけであった。
 その用を果たすと、今度は歓迎の花と化し、紅蓮の手に渡った。
 紅蓮は、「謝々。」と言いながら東伝とともに頭を下げた。
 斎藤英爾は平手を左右に振りながら、
「これは、お嬢さんにお似合いだ。」
と、にこやかに、語りかけた。親子だと思っているのであった。
 そして一週間経った今日でも花瓶の中で元気良く精彩を放っているのである。

 その紫陽花の花に、接する様に貼られたはがき大の日めくりカレンダーを一枚づつ毎朝最初にめくるのが紅蓮の仕事になった。
 このカレンダはページを一枚破りとる毎に、昨日と今日との境界を感じ取り、紅蓮は新しい日の始まりに胸を膨らませることが出来るのである。
「神戸に来て、日めくりするのが早くも七回目になったわ。
つい十日ほど前には。この手指が触れるものは、今とは全く別世界で、運河の河岸に植えられている槐(えんじゅ)の樹に、この手の平をあて、うつむきかげんに河面を見つめていたのである。
 父 鉦渓、母 蕾蓮は今頃どうしているのだろうか?
 そう思わない日はなかったが、なるべく考えないようにした。
考えたら世話になっているこの家の女主人に申し訳ないと思ったからである。
 彼らが神戸埠頭 に着いたのは、1967年7月29日午前8時30分であった。
 そして彼らの落ち着き先として用意されていたこの店に着いたのは、その日の夕刻であった。途中、取りあえず必要な身の回り品を買ってきたからである。
 紅蓮には、なにもかもきらびやかで、珍しいものであった。
 これまで紅蓮が育ってきた江南の地に比較し、空の色は同じだが、光の色、空気の香り、地面の踏みしめた時の弾力性、鳥のさえずりかた、….何もかも珍しく、その様な物、光景を、目にする度にたちどまり、先にたって案内をしてくれている斉藤氏に、東伝を通して尋ねた。

 当然のことながら紅蓮は全く日本語を知らない。
 そこで何故だかわからないが、日本語の達者な東伝を通して、通訳をせがんだのである。
 紅蓮の聞きたいことを中国語で東伝へ、その中国語を日本語で東伝が斉藤英爾に訳し、斉藤英爾がしばらく考えて思いついたことを日本語で東伝へ、そして東伝は中国語で紅蓮へ伝達するというきわめて手間のかかる作業であった。
 しかし、時折斉藤英爾から呉東伝への説明だけで、東伝から彼女への中訳の前に彼女は理解してしまっている様なことがあり、斉藤は、
「この子は頭の良い子だ。この国にすぐ順応し、活躍してゆくに違いない。」と感じた。

 薄紅蓮が、斉藤英爾からもらった紫陽花の花を、珍しく思ったのも当然で、多くの花の原種が中国で、そこから世界中に広がって行ったというのが、一般的であるのに対し、
 この紫陽花こそは、原産地が日本で、中国を経てヨーロッパに広がり品種改良されたという、日本の花の代表選手なのである。
 斉藤英爾が、そのことを知っていたというよりは、この季節、日本のどこでも、最もきれいに、且つ普通に咲いている日本らしい花と思っていたのである。

 紅蓮がまず知りたいことは、
「この花を、少しでもこの状態のままにしておくには、どうしたら良いか」、
ということであった。
 紅蓮は首にぶら下げている首飾りを握りしめながら、この花に魅かれるものがあった。また魅かれる理由がその色にあることに気がついていた。
 その仕草を見つめていた呉東伝は初めて薄紅蓮に出会った時のことを思い出していた。
 そして、太湖のほとりにあった船宿を辞める時の送別会で見た夢を思い出していた。
 あの時、夢に現れた白眉、白髪、白装束で、青銅色の皺の深い顔をした老人は、
「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。ここからはお前の番だ。青い色の璧の所に舟をつけよ。そしてみつけたら同じ事を言え。そして更に東に向かうのだ。」

 この日本という国が、あの夢に出てきた老人が言っていた東の地になる訳だが、
「この地でわしは何をせねばならんのか」
と独りこちた。また、
「これから、どの様なところで生活することになるのか?」
ということだった。

 紅蓮は神戸の町は同じ港町の上海と似ていると感じた。
また、「これから運河を遡って、蘇州の様なところまで行くことになるの?」
と東伝に、斉藤英爾に質問してくれ、とでも言うような目つきを東伝に向けた。

 東伝は先ほどから紅蓮の仕草を観察していた。

「この子は自分が連れてきてしまった様なものだ。確かに文革の嵐が吹きつけ身の安全を確保する為という、これまでの経過を知っている者なら誰でも納得する理由はあるが、それはあくまでも表向きであり、実は、自分が崑崙山の一老人の代理人であり、天のお告げにしたがって東方へ赴き、途中から太湖を経て運河を下り、天命を実行するのにちょうど良い相棒をみつけ、更に東方の国、日本で、大願成就させるつもりであることを、誰が知ろうか?その使命を背負っているので、勉強を一度たりともしたことがない日本語を通訳できるほど使いこなせているのだ。」
と神戸の地を踏んで以来ずーっと思っていた。
「この子は、ある意味で、その犠牲者かも知れない。」という哀れみと、
「これからがんばって働いてもらわないといけない。」という期待とで、紅蓮を見守っていたのだ。

「まず日本語を教え込もう。」
と思いつき、そのためには頻繁に人が出入るする店、料理店が好ましいと思いつき、上海を離れる前から神戸の上海料理店に世話になる手筈を整えていたのだ。
 神戸には中華街南京町があり、春節、重陽節等の節分には中国本土並みの賑やかな催しがあるのだ。

 紅蓮は小さな日めくりカレンダーを一日分めくり、そのあと紫陽花の花を見つめては、その紫色の神秘さの中に引き込まれてゆくのであった。その花の色が次第に青から赤っぽい紫に変わってゆくような気がして仕方なかった。
 紅蓮は、本当は藍色と青の中間の色が好きだったが、それは彼女が蘇州を離れる時、母、蕾蓮から形見としてもらった服の色そのものだった。更には彼女が身に着けている首飾りも青紫色をしていて太陽の光が射すと青紫色の光を発するのであった。

 その日は店の定休日であったので、少し店の界隈を散歩しようと決めていた。
 紫陽花の花が、山の手の方へ歩いていったところに咲いているという話を聞いていたからであった。
まだ、日本語が殆ど話せない状況であったが、前向き指向の彼女にとって臆するという言葉など持ち合わせていなかった。

 まだ朝九時を少し過ぎた程度であった。
 少し雲が広がっていたが雨の心配はなかった。
 店の前の道を左手に歩いて行き、左折することを四回繰り返せば、ほぼ同じ場所へ戻れる、という彼女なりの算段だった。
 前日、紅蓮が世話になっている店の女主人である何秀麗からも、
「明日は店が休みなので、店の周辺を独りで散策してきたら?」と言われ同時に簡単な何秀麗が書いてくれた地図を渡されていた。
 地図には一本の赤い線が道路に沿って描かれていて、紅蓮の算段に合う様に、店を出発点として店の前の道を左手に十分歩いたところで左折し、更に二十分歩いたところで左折し、三十分ほど歩いたところで左折、更に二十分程度歩いて、店の前の道との交差点に出会ったところでその交差点を左折し、二十分ほど歩いて店に戻るという計二時間弱の行程であった。
 交差点には分かり易い目印と地名が漢字で書かれ、読み方が中国文字で当てられていた。そして地図が書かれた紙片の下辺に店の名前と電話番号がかかれていた。
 地図にかかれた漢字は、皆見たことのある字ばかりで読み方が異なるだけであった。

 この時期は盛夏であり、うだる様な暑さであり、クーラーなど無い時代で、店の天井にぶら下がっているプロペラみたいな大きな扇風機以外に厚さを凌ぐ手段は何も無かった。
 しかし戸外に出ると頭上に広がる青空を感じるだけで、室内にいるよりましであった。
 気温はそれほど苦にならなかったが、湿気には閉口した。最初の交差点を左折するあたりに来ると、中華街の雰囲気は全くなくなり、やはり異国という感じがした。
 人の行き交う速度、車の量、人々の動き、どれをみても中国、といっても紅蓮の住んでいた蘇州界隈の話だが、そこよりは活気があった。
 また文革で殺気だった若者の姿も全く見られなかった。若者たちは皆上を向いているような感じがして、それも紅蓮にとって心地良い印象で、この国に来て良かった。落ち着いたら両親を呼び寄せようなどと考えながらひたすら山の見える方角に歩いていた。

 山の見える方角に歩き始めてから、十五分ほど経っただろうか、背後から呼びかけるような声がした。
「もし、あのう、...。」
 日本語が分からないだけでなく、自分のことを知っている日本人がいるはずがないと考えていたので、背後からその様な声がしても、振り返ることなく歩いていた。
ところが又、
「もし、あのう、...。」
という声がした。少なくとも前方に歩いている人はいなく、背後にも他に足音は聞こえなかった。もしかしたらと思って、背後を振り返ってみた。
 そこにはちょうど紅蓮と同じ位の女性の姿が見えた。そしてその女性が手を上げ、微笑みながら駆け寄ってきた。
「こんにちは。紅蓮さん。私同じ店で働いている中村恵美子。」
紅蓮は見覚えのあるその顔を見て安心したが、日本語を理解できないで、どうやって意思を通わそうかと躊躇した。しかし何も言わないよりは中国語でもと思い、中国語で、
「ニーザオ、ミンパイウオ―マ?」と返した。
 それでも挨拶を交わしていることがお互いに理解できた。またお互いに同世代だということもなんとなく分かった。
しかし、その後は肩を並べながら、お互いに身振り手振りで話を始めた。
 そして、やがて彼女が紅蓮に神戸の町を案内してあげる、と言っていることがわかった。しかし、彼女は、
「自宅の庭に大きな紫陽花の花が咲いているので見にこない?」
と言っていたのだ。中村恵美子は、店に飾ってある紫陽花を紅蓮が毎日世話をしている姿を見ていたのであった。
 紅蓮は大きくうなずき、相手の手を取りながら、
「シェーシェ、シェーシェ」と嬉しさを体一杯に表現した。
 こうして中村恵美子は紅蓮にとって日本人の最初の友人となった。
 このことは紅蓮にとって日本に来て最初の喜びであったが、まもなくこのことが日本に来て最初の悲しみにつながるとは夢にも思わなかった。

 二人は、紅蓮が左折することになっていた二つ目の交差点を曲がらずに六甲山に向かって直進していった。
 中村恵美子は正面の山を指差しながら、
「ロッコー。」と口にした。
 紅蓮も真似して、
 「ロッコー。」と口に出してみた。
 なんとなく響きの良い言葉であった。
 緩やかな上り坂になって来た。

 まもなく、こじんまりとした黒い瓦屋根の家に着き、その家の庭に導かれていった。
 庭には青紫から赤紫へかけてまるで連続して色が変わってゆくような配列で紫陽花の花が咲いている。
「ここが私の家。」
と中村恵美子が言っているだろうことは、日本語の分からない紅蓮にもすぐに分かった。
 必ずしも大きいとは言えない庭だったが、庭全体が紫陽花で埋め尽くされていた。
 しばらく、庭に置かれた石椅子に座って空を見上げて見ると、蘇州にいた時と同じ色の空であった。そして急に身の回りから締め付けていたものから解放された気分になってきた。
 また、しばらくして、一度屋内に姿を消していた中村恵美子が一人の小柄で、背中が大きく曲がった老婆の手を取りながら紅蓮の方に近寄ってきた。
 紅蓮は、精一杯の笑顔で頭を下げた。
 しかし、相手の老婆は微笑みもせず、一切表情を変えずにじっと紅蓮の顔を上げるばかりであり、この突然の訪問者を迷惑がっているように見えた。
 老婆は、紫陽花に向かって二、三度頭を上げ下げして、また紅蓮の方を相変わらず迷惑がっているかの様に見つめてからまた家の中に消えていった。
 そしてしばらくしてまた中村恵美子が出てきたが、なんとなく悲しげであった。
 明らかに申し訳なさそうな表情であった。
 彼女は、「さっきのは、年とって見えるが自分の母で、最近はもの忘れが激しく、家の外に一度でも出ると、帰ってこれなくなってしまう。だから、日に一度、私が庭に連れ出し、外の空気に当たらせているの。家には他に家族がいず、二人だけで生活しているの。」ということのようだった。
 この時代、痴呆症という病名は一般的でなく、せいぜい精神病という病名でかたづけられていた。中村恵美子の母はその病にかかっていて、恵美子は一生自分の母の面倒をみてゆく覚悟を決めていた。
 それが自分の運命だと断じていたのであった。

「母は、若い時から紫陽花が大好きで、庭を紫陽花で一杯にすることが夢だったらしいの。
 母が病気になってから、紫陽花の苗を埋めはじめ、もう十年が経っている。」
 もし、互いに言葉が通じれば、この様に言い訳できるのに、と思って気分が落ち込むのだが、同じ店で働いている以上、いずれ意思を通わせ会うことが出来るだろう。そう思って自らを慰めた。

 紅蓮は、恵美子の母が眺めやったのと同じ方向を眺めてみた。紫陽花の青い花の向こうに、まるで、紫陽花に接するように神戸港がゆらゆらと見えた。
 まるで海から湯気が昇っているようだ。毎日毎日、彼女の母はこの景色を見ているのだ。あの海につながったところに上海があり、揚子江を上れば蘇州がある。
 今頃、父と母はどうしているのだろう。病苦に苛まれるのと、迫害に悩ませられるのと、どちらが過酷か。
 その先に夢を持てないのなら、同じことかも知れない。紅蓮の父母は、その夢を紅蓮に託し、紅蓮を異国に追いやったのだ。そのことを十分わきまえている自分はこれから何をしなくてはいけないのだろうか?
 その様に思い巡らすことが出来るのは、まだ幸せといえるかも知れない。
 しかし、中村恵美子の母は、その年齢からいって、夢を思い巡らすことなど到底出来ないだろう。たとえ母といえども、その様な状態の人間をサポートしている中村恵美子は偉いという他ないのである。
 紅蓮は中村恵美子の手をとって、「謝々。再来。」と言って紫陽花の家を後にした。

 紅蓮がその店の新入りの住み込み店員となってから、はや三ヶ月たった。必要に迫られたこともあるが、紅蓮の日本語はめきめき上達し、通常の日常会話であれば、殆ど不自由しなくなった。また店主のはからいで、六甲山のふもとにある日本語学校に通い始め、日本語の読み書きも少しづつ習熟して、新聞の見出し程度てあれば、意味を理解できるようになってきた。

 紅蓮の朝の最初の仕事は、相変わらず、花が生けてある花瓶の水を取替え、花の様子をみて、しおれかけていれば、花を取り替えるというものだった。
 紅蓮が来るまでは、この仕事は店員の当番制であったが、毎朝あまりにも紅蓮が嬉しそうに、この仕事をやるので、いつのまにか紅蓮が専任になってしまったのである。
 三ヶ月たった今も、紫陽花の花がいけてあった。紫陽花は二,三日すると中村恵美子が自宅から持ってきてくれた。十月末なのにまだ元気良く咲いているとのことだった。
 彼女の母も、店で紫陽花の花を生け続けている、という話をすると喜んでくれるとのことだった。その話を聞いて紅蓮は紫陽花を通して彼女の母と会話をしている気持ちになった。

 最初に中村恵美子の自宅を訪れた日、店に帰ってから、中国語を話せる店主から、どこへ行ったかと尋ねられ、その旨、説明したところ、
「あら、中村さんのお母さんにお会いしたの。お元気だったかしら?」
「暗い表情をしていて、挨拶もしてくれなかった。」
と紅蓮は正直に話した。
「でも仕方ないのよ。病気だから。いくら歓迎する気持ちがあっても、それを表情に表せない病気なのよ。許してあげてね。昔は、この界隈でも評判の気立て良しでね。おまけに美人だったものだから、彼女が通るだけで周りが明るくなったものよ。」
あの日の中村恵美子の母の表情にはそういう事情があったのか、もしかしたら本当は歓迎していてくれたのかも知れないと、気分が少し晴れてきた。そして、知識欲旺盛な紅蓮は更に、
「奥さんは中村さんのお母さん知っているの?」と聞いてみた。
「よく知っているわ。だって同級生だったもの。成績はいつもトップクラスだった。クラスのだれもが彼女をまぶしく感じ、近寄りがたかったのだけれど、どういうわけかクラスで劣等生だった私とは気があって、よくおしゃべりしていたわ。そういうきっかけになった話を未だに覚えているわ。」
「そういう関係だったのですか。知りませんでした。そのきっかけというのを聞いてもいいですか?」
「いいわ。それはね・・・・。私はクラスで劣等生でおまけに中国人だったものだから先生も難しいこと聞いても答えられないと思っていたのか、どちらかというと自分流に答えられることしか質問してこなかったのね。ある授業で、先生がだれでも答えられる質問だ、と前置きして私に質問してきたの。ところが私が答えられなかったので、その先生が、『こんなこと知らないなんて一番恥だぞ』と怒鳴り散らすので、私もかっときて、『一番恥なのは、知らないことを知らないことです。』と言い返したわ。そしたら普段『すいません。』のひとことであとずさりする私が、そんなこと言ったものだから、先生もクラスメートも唖然としたのだけれど、その授業のあとの休み時間に、彼女がちかよってきて、『素晴らしい言葉だった』と褒めてくれたの。
 そして、その後、彼女の家に遊びに行くことが増えてきて、いろいろなおしゃべりをした。
 その中に、知らないことを、知らない状態から知らないことを知る状態にするのにはどうしたら良いか、ということと、知らないことを知らない状態のままだと、どういうことがおこるか、ということを話あったわ。
 後の方の答えは“戦争になる”だったわ確か。知らないことを知らない状態のままだと行き着くところは結局は戦争ということで二人の考えが一致したの。
 あんな優等生の彼女の考えと、劣等生の私の考えが一致するなんて、自分もすてたものではない、なんて思ったものよ。
 それ以上に、信じることの出来る極上の友達が出来たことが嬉しくてたまらなかったな〜。まるで昨日のことのよう。紅蓮ちゃんも早く心の許せる親友が出来るといいわね。

 そんな中村美恵子の母に関する話を聞き、それまで暗然としていた、恵美子の母にたいする印象が急変した。また彼女の母のことについて、知らなかったことを知ることが出来た喜びも、このとき初めて味あうことが出来た。そして、そのうちまた彼女の家を訪れることにしようと決めた。

         <<< つづく >>>







2008/01/03 0:24:32|物語
西方流雲(29)
         西方流雲(29) 

            <<< 30. 金剛輪寺 >>>

 晃一は高校時代の大学受験の時期に、よく夢をみて、その内容をメモしていた。
特に総天然色の夢をみたときには確実にメモしていたが、まもなく夢をコントロール出来る様になり、夢を操ることも出来るようになっていた。


現実の夢は、希望、期待、などと言う言葉に置き換えることが出来る。夜見る夢と、実際自分がこの様になりたい。かく在りたいという現実の夢との間には大きな隔たりがある。
隔たりの間にあるのは、現実の夢には他人が必ず登場し、その他人も自分の意のままに動いてくれないのが普通だからであろう。
人の合意、賛意、同意、好意を得ることは自分の現実の夢を実現するのに必要不可欠な活動と言える。
しかし、これらは晃一にとって、あまり得意な行動ではなかった。特に人というのが女性の場合、得意でないというより、むしろ苦手であった。
向上心は人一倍強いのだが、それを夢に結びつける手段、環境がいまだ整っていないという現実を感じはじめていた。
しかし、それ以上に問題なのは、いまだ確固たる将来の夢を持っているとは言えないことであった。
この頃の晃一はテニス三昧の生活と言えた。

 金剛という言葉の意味を晃一はよく知らなかった。
空海が開いた金剛峰寺は歴史で学んで知っていたが、その本当の意味はこの時期の晃一にとってどうでも良いことであり、また、この寺を含めた近隣の寺々が、同じ叡山一派ということで信長の焼き討ちに遭ったということも、脳梗塞を患って以降、精神の置き場所を探し続けるようになってから空海に興味を持った結果知りえたことであった。それはかなり先のことである。

 従って、この時期の晃一にとって、金剛輪寺は写真撮影の対象であっても、叡山焼き討ちといった歴史的出来事、金剛界、胎蔵界、曼荼羅といった宗教的な意味合いには全く関心が無かった。
 したがって、この日は写真を撮りに行ったのだが、もう一つの目的があった。
それはある夜、夢に見た白いまばゆい光がこれらの寺の方からやってきたように思えてならなかったからである。そこに何があるか分からなかったが、行って見なければならないものがあるような気がしてならなかったからである。
一体何なのだろう。それを探し出すというより、それを造り出すという方が近いかも知れないが、年齢的にそれが必要だったとも言える。

季節は初秋であった。
広い駐車場に車を置き、黒門をくぐって、両側には、後に血染めの紅葉と言われる紅葉の覆い被さる山道を少し歩いてから、左に折れ曲がり、水雲閣という茶室のある庭園にたどりついた。
茶室へ入るにはその上を全面苔で覆われ、石で出来た小さな円弧状の太鼓橋を渡る必要があるが、先端が根元に比べやや茶色がかった苔は全く踏み倒された形跡がなかった。
その茶室を右手に見て、まるで、粘土を水に完全に溶かし、粘度の高いスラリーとして、凹みのある型に流しこんだような風情の池の前に晃一はかがみこみ、池の表面に反射して見える先ほどの茶室を眺めやった。
完全な全景の反射像を邪魔するようにその視野の途中に蓮の葉が数葉浮かんでいた。そしてその佇まいをカメラに納めた。

視線を九十度左に回転させると、その舳先(へさき)を池辺に接触させ、その胴体の半分以上を水面下に没した朽ちかけた一艘の舟が目に入った。

その佇まいは、つい直前に誰かが舟から岸に降り立ち、その直後にその舟が、重大な責任を果たして、没したかの様に晃一には見えた。
 まだ紅葉には早いとは言え、もみじの葉の一部が心なしか変色している様にも見えた。
 その変色したもみじの葉の先端が、頭を垂れ、今にも水面に接するようで、その反射映像の方は全く何にも邪魔されず、晃一の視界にダイレクトに飛び込んできた。
 
 耳を澄ますと背後からカチンカチン、カーン、カーンと風の流れに同期する様に響きのある音が聞こえてくる。竹林の竹の幹が風に揺らされ互いにぶつかり合う時に音を発していたのである。  
 この様な音を出すには幹の中の空洞共鳴器がある程度大きい必要がある。
 おそらくこの太さになるには、それなりの時間が必要であっただろう。

 五百年、千年という長さでは無いだろうが、三十年という年月でも鉄筋コンクリートつくりのビルが老朽化するのに充分な長さである。
 人生でも三十年という長さは人間の性格、精神、人格を変えるのに十分の長さである。
 今はまだ寮住まいであるが、三十年後の自分には、妻も子も居るだろう。
 少し疲労を感じたので、平坦な面をもった石いすに腰を下ろした。

 この寺は晃一にとって、人生というキャンバスに絵を描くのに格好の環境であったのかも知れない。

 その金剛輪寺で竹のぶつかり合う音をじっと聞いていると、かすかに歌を歌っている女性の声が聞こえてきた。
 しかし、振り返ってみたが誰の姿も見えなかった。
 竹の埋まっている地面には苔が絨毯の様に敷き詰められていて、その上に身を沈めたら、きっと安らぎが得られるに違いないという気分に浸った。
 その絨毯の様な苔面を見ていると、何か模様が浮かび上がってくる様である。
 どうやら人影の様であった。
 そしてその背景には雪を冠った山並みが見えた。よく見ると、その人影はその山のいただきから雲にのって晃一のそばに降りて来るようであった。
 誰か分からないが、右手に杖を持ち、左手は親指と一刺し指で輪をつくり、残りの三本の指は真っ直ぐそろえて垂直にたて、真っ白な長い髭の奥に緑青色の彫の深い小さな顔を埋め、目はいくらか微笑んでいる様であった。手にした杖は紫色の光彩を放っている。
 目に微笑みを浮かべながら、晃一に向かって、
「こちらへ来なさい。」
と話しかけているようであり、晃一もそれに答えて話かけようと思うのだが、いくら力んでも声が出ないのである。
 初めて逢った筈なのに、その老人は晃一の全てを知っているように思えた。
 晃一の過去、現在だけでなく、晃一の将来、運命までも知っているのではないかと思わせる雰囲気があった。
 ブラックホールの様に、晃一に関する全てのことを吸収し、それらをもとに、天の摂理に従って醸成し、晃一の未来を紫色の光彩に乗せて、純白なスクリーンに映写することをいとも簡単に成し遂げてしまうのではないかいう感じがした。

 過去にもその様な雰囲気に包まれたことがあるような気がした。
そして、その反作用とでも言うのだろうか、晃一もその老人が何故晃一の前に現れたかを知っている様な感覚に陥った。
 老人は更に近づいて来た。そしてその容貌がはっきり見えるようになるにつれて、目には喜怒哀楽全ての光があり、その口には現在、過去、未来全ての時空を言い表す気宇が感じられた。
 そうだ、これが人間の至上の姿なのだ、と晃一は独りごちた。
 老人の手にある杖の紫色の輝きはラビスラズリの石から出来ていた。
 その石から一閃の光が晃一に向かって発せられたので、その光を被らない様に体をのけぞった。
 そして再び老人の居た方向を見ると、老人の代わりに一人の娘が、紅い蓮の花を片手に、微笑み掛けている。
 その姿は正に那智の滝の近くの中国風寺院で見かけたあの女性の姿そのものであった。
  顔を覚えていたわけではない。
  声を覚えていた訳ではない。
  動作を覚えていた訳ではない。
 それなのに、そう思い込んでしまったのは何故か?
 そのような自分自身への問い掛けに対し、回答を得る術を持たない晃一は何故か、
 万福寺の境内で出くわした老人連れの女性のことをも思い出した。
 出くわした場所、服装は異なるが晃一の胸に刻み込まれる印象は同じであった。

 この人たちは自分にとって一体どういう存在なのだろう。
 金剛輪寺の境内で静かに考えてみることにした。

        <<< つづく >>>







2008/01/01 21:40:39|物語
西方流雲(28)

    西方流雲(28)

      <<< 29. 湖東三山 >>>

晃一が勤務している村多製作所には名神高速で四十分ほどのところに八日市工場がある。
ここのところニクソンショックで、景気が悪くなり、晃一の職場もまるごとその工場に移動することになった。
その日はその打ち合わせのため、メンバーそろって八日市工場を訪問し、その下見をすることになっていた。
車には、生涯の友となる同じ年の宗 睦夫が同乗していた。

その彼がおもむろに、
「薄さんは、器用貧乏にならないように、気をつけた方が良いと思うけどね。」
といった。
晃一はどの様な意味の忠告か全く分からなかったので、返答のしようが無かった。
そして、
「・・・、ということは器用と見られているのだろうか。・・・・」
と感じた程度であった。
晃一は生来、他人から自分への、好意、批判、羨望、悪意、尊敬、感謝といった働きかけを即座に認識することに疎かった。
しかし、その様なことを即座に忘れてしまうのではなく、必ずといって良いほど何かの折にそれらをはんすう反芻する機会に恵まれるのである。
このことほど、晃一の性格を得にしているものは無いのであるが、その様なことを本人が認識できるはずは無かった。
 晃一は村多製作所に転職するまで、半導体セラミックスの技術開発を担当していた。村多製作所社に転職したきっかけもその技術開発を通してであった。
しかし、村多製作所社に転職後半年もしないうちに、圧電セラミクスの技術開発の担当に変更となった。
晃一にとって、これが、その後の彼の人生を決めることになる。
何故なら、圧電セラミクスからなる圧電振動子は医療超音波診断装置の心臓部である超音波トランスデューサに用いられるからであり、新たに医療超音波診断分野に参入しようとしていたオリンピック光学に採用され実家のある東京に帰ることになるからである。
とは言っても、単身であれば事は簡単だが、所帯を持っているとそうは行かないのが普通だが、晃一の場合は、妻が東京出身だったので、事は簡単に進行した。
 しかし、それは今の時点、すなわち八日市工場に向かった日から五年ほど後のことである。
 その八日市に転勤になったのは昭和四十九年の春のことだった。晃一にとって、この地は全く初めてのことではなく、前の会社にいた時の五月の連休に、戸津、斉田、尾崎らとドライブで信楽を訪れた時、彦根から国道307号線を走った。
八日市は、その国道307号線にある町で、かっては宿場町であった。
国道307号線の八日市あたりを通ったときは夕刻で、少し高台となった道路脇に車を止め、水田に移る夕陽をみたとき、その素晴らしさにうたれ、一度でも良いからこんなところに住んでみたいものだと思ったものだった。

京都にいた時と同様、寮生活であったが、借り上げアパートではなく鉄筋二階建ての、寮らしい寮といえた。
住んでみると、あのドライブで受けたものとは異なった感じがした。
 会社とは目と鼻の先である。また、寮のすぐ後ろには未発掘の小さな古墳があった。
また、少し八日市駅の方へ行くと、“伊勢へ“と書かれた道標がその道の入り口にあったり、 "阿育王" と無造作に書かれた道標が横たわっている道があったりするのである。
 それらの道は整備された国道ではなく、どちらかというと小道と言った方が当てはまるようなものであった。

どこを向いても歴史の香りがする土地で、なんとなく、背中が温かくなる様な感じがした。日本人先祖の息遣いが聞こえる様であった。
 ある日の夜、何故か無性に外の空気の中で大きく深呼吸がしたくなり、寮の外へ出てみた。
空は満天の星というには程遠いが、雲にすけて満月の位置は確かめることが出来た。
場所によっては星がはっきり見える雲の切れ目も認められた。
鈴鹿山脈の山並みも夜中であったが、その稜線は、はっきり認めることが出来た。
その稜線近くの一点に、白い斑点のようなものが小刻みにゆらゆらしているのが目に入った。
じっと凝視していたら、その直径が次第に大きくなってきて、自分の方へ近づいてきているのがわかった。明らかに自分をめがけて近づいてきている。
真っ白で、晃一を丸々包みこんでしまうような大きさである。透明のような乳白色のような実体がまるで掴めない。
かといって恐怖感を感じるわけでなく、また圧倒的な心地よさを感じるものでもない。
自分の所を通過したはずのそのまばゆい光を振り返ってみたが、そこにも、かなたにも何も見えなかった。
 またもとに視線を戻してみると、今度は一対の繭(まゆ)が、左右に一定のリズムにのって揺れながらゆっくりと近づいてくる。それは暗黒の中にぽっかりと浮かぶ蛍光を発する繭玉のようだった。
 一対の繭玉は、歌を歌っているようである。歌詞はなくメロディーとリズムだけを持っていて、きれいなハーモニーのデュエットである。それに気がつくと同時にラジオをつけっ放しで寝入ってしまったことに気がついた。
 晃一にとって初めてみた種類の夢であった。
「あの真っ白で晃一を丸々包みこんでしまうようなものは、一体自分にとって何を意味しているのだろうか?」
と思うと同時に、頭が少し冴えはじめてしまい、晃一が過去見た記憶のある夢を次から次へと思い出すのであった。

 最も幼いときに見た夢でいまだに覚えているのは、熱にうなされて見た夢であった。
 熱を出して寝込んで、正面を見ていると板で出来た天井が目に入る。じっと見ていると、その天井が少しづつ晃一の方に降りてきて、板の一部にあった渦を巻いたような節目が、急速に回転し始め、その渦の中心に大きな目玉が現れ、瞬きもしないで晃一のことを凝視していた。
 怖くなって横向きになると今度は障子の模様が目に入る。そして、その模様が動き出し形を変えて鍾軌(しょうき)さまの顔になる。
 そのころ親戚から鍾軌さまの人形をもらっていたので、それとダブって夢に出てきたものと言えるが、幼いころはその簡単な結びつきが出来ないのだった。
 二つ目のやはり幼いころに見た夢でいまだに覚えているのは、地面いっぱいに敷き詰められた花々に囲まれて、そこを歩き回っていた夢である。
 なぜそんな夢をいまだに覚えているかというと、天国というのは一面に花が咲き乱れて、心地よい香りのするところという固定概念を作り挙げている為かも知れなかった。
 比較的身近な人が亡くなって行き着くところというのは、そのようなところだと、晃一は無邪気に思いつめていたのであった。
 そして、幼い頃から四十歳近く、正確には、物語のこの時期から十五年後にあたる厄年に脳卒中にかかる迄、見続けてきた夢があった。
 といっても夜見る夢であるが。
 それは、天を舞い飛ぶ夢であった。
 右足が着地する前に左足を前に繰り出し、左足が着地する前に右足を繰り出す。そうこうする内に体が浮遊してゆき、家々の屋根より高いところまで浮かびあがり、今度は体を水平にして、まるで鉄腕アトムの様に空を飛行するというものであった。
 それを世の中で自分ひとりだけが出来るというもので、地上で危険に曝されたり、いやなものに遭遇すると、この様になるのである。
 脳梗塞にかかった後に、この夢を見なくなるというのは、不可能に近いことでも挑戦してみようと思い続けてきた気持ちの支えとなってきた体力的自信を失ってしまったということのように思えるが、そのことは物語が進行中の今からまだ先のことである。

 晃一は目をあけて白いコンクリートの天井を見上げながら、先ほどの白いまばゆい光の夢を思い出し、
「運命とはこの様にやってくるのかもしれないと」と独りごち、ラジオのスイッチを切ってまたふとんを被って暗黒の夢世界の中に沈んでいった。
 朝、目が覚めてからも、澄んだ女性デュエットのハーモニーが頭に残っていたが、歯を磨き、顔を洗っているころには忘れていた。

 この頃、晃一が住んでいた滋賀県の八日市市は湖東と呼ばれ、近くに湖東三山と呼ばれる、西明寺(さいみょうじ)、金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひゃくさいじ)という有名な寺があった。
 いずれも京都の寺院とは少し赴きが異なり、当然ながら世俗的な感じがせず、重厚な印象を受けた。金剛輪寺の池には、半分水没した浮き船がなんとも言えない風情を醸し出し、この光景を何枚も写真に収めた。
 写真をとることは、晃一にとって大きな趣味となっていた。カメラのことを良く知っている訳ではなかったが、気に入った景色をスナップに収め、写真をみながら、その景色から得られた第一印象を思い起こすことが好きだった。
 そのため、会社が休みの土日はほとんど、湖東三山と永源寺のいずれかに行くことにしていた。
 しかし、これらの寺に行くのは必ずしも、写真を撮りにゆくことだけが目的ではなく、もうひとつ目的があった。
 それはある夜、夢に見た白いまばゆい光がこれらの寺の方からやってきたように思えてならなかったからである。
 そこに何があるか分からなかったが、行って見なければならないものがあるような気がしてならなかったからである。
 一体なんなのだろう。それを探し出すというより、それを造り出すという方が近いかも知れないが、年齢的にそれが必要だったとも言える。

         <<< つづく >>>







2008/01/01 1:04:02|物語
西方流雲(27)
          西方流雲(27)

        <<< 27. 心の中の風 >>>

「結婚」という言葉はいつでも何処にでも転がっている言葉であり、晃一にとっては、他の特に意味の無い言葉同様ノイズの一つであった。それがこの夏の出来事をきっかけに単なるノイズではなくなってきた。
一つの理由に諦めがあると言う。
結婚というのはそんなものかも知れない。
人は誰でも理想を持ち、それにアプローチするチャンスを掴もうとする。それはちょうどいっぱしの知識を身につけたと自負し、世間のことも分からない学生時代が最も強い。
その最たるものが、晃一自身の親元を離れて名も知られていない会社に就職したことではないか。それが実際に社会に出て、いつしか実社会の意味、内容が分かってくるに従い、理想も浅薄となり、また僅かな諦めも出てくる。それがちょうど年齢的には婚期に重なるのかも知れない。しかし、その様な形をお互いに嫌った。
晃一にとっての夏季休暇はその様に位置づけしていた。しかし、そうしてみると晃一の心に、旋風が舞っていることを意識せざるをえなくなっていた。

     心の中に風が吹く
     一方向に吹くのでなくて
     一方向から吹くのでなくて
     つむじの様に旋回し
     心の中に風が吹く

     風吹く源に目を向けりゃ
     そこには風の源は無い
     風吹く先に目を向けりゃ
     そこには風の先は無い
     ただ散りただ舞うそぞろ風

     風吹く源に問いかける
     いつから何処から旅立った
     風吹く源に問いかける
     いつ迄何処へと旅去るか
     心の中で旋回し、「私」を宿にいつ迄も

     心を宿に風が吹く
     枯れ葉を枝から地に落とし
     若葉の出るのを助立ちし
     心のモヤもいずこへか
     吹き散らされるを、そに望む

     心の中を吹く風はいつしか「私」を虜にし
     ただ今のみを吹きつづく
     ただここのみで吹き続け
     その今こそが全てだと
     心は宿を風に貸す

     心の中に吹く風に愛の香りを問い掛けりゃ
     いつしか春に咲く花の
     花粉の香りを風に載せ
     予約の宿に着かんとす

     そを虚構の風をばと、人は心に病んで言う
     そを実構の風をばと、人は心に喜して言う
     いずれの構が姿かと
     ただ暗闇で問い掛けりゃ

     心の中に風が吹く
     一方向に吹くのでなくて
     一方向から吹くのでなくて
     つむじの様に旋回し
     心の中に風が吹く


 車を自分で運転しているようでもあり、いないようでもあるのだ。運転席は、檻の中の様に身動きが取れないのである。その檻の中で前後左右落ち尽きなく揺れ動く。視線は落ち尽きなく、助手席に注がれる。その檻の中に熱い風が吹き込む。かって車の免許が欲しくて仕方ない時に見た夢とは全く異なって、無我夢中でハンドルを握っているのは同じでも、体を前後左右落ち尽きなく体を揺れ動かし、今にも発散しそうな気持ちを檻の中に閉じ込めているようなものであった。
視線は、前はあまり見ず、落着かなく助手席に注がれていた。
踏み切りを通過したり、ドライブインに入り、涼んだりして、所々で停車し、その都度助手席を見つめる。
しかし、常に期待したものは乗っていない。
車はいつしか、四方が黄土色で囲まれた路地に迷い込み、正面にその求める人の姿が真っ黒い陰として認められた。
いつしか晃一も車から降りていて、その黄土色の閉じた空間には晃一と、その黒い陰とだけになった。
晃一は問い詰めていた。
「他に好きな男の人がいるの?」
「います。」
「どんな人?」
「優勝カップを沢山持っている人。」
これを聞いて、晃一の気持ちが全く動揺もせず、なぜか人ごとの様な感じがした。予測した結論だったからであろうか。

晃一は目が覚めたあとも、この部分だけは覚えていたのだ。
夜、「国盗り物語」を見た。
おりしも雑賀孫一と小みちの話しだった。
孫一は、小みちの説得で本願寺派、即ち信長の敵方になるのだが、小みちは説得にあたって、自分の信じるものの為に力を貸してくれという。
自分の信じるものとは観音である。
観音を信ずる小みちと、孫一との間には、川がある。
一方の岸には孫一がいて一方の岸には小みちがいる
孫一は、女性を如来と奉ることを生来の夢としているが、その川を渡って、小みちのいる岸に渡るということは、自分も観音を奉る人間になると言う事であり、本願寺派に付くと言うことである。
 男女の出逢いと言うのは、同じ船に乗って川を下ってゆく姿ではなくて、川の両岸に対峙している姿というのが妥当だろう。
自分の知るものと知らないもの、その意識そのものが、両の岸だろう。その後、どちらかが、どちらかの岸に渡っている形、川を流れている船に両方ともたどり着き共に船に乗って下流に向かってゆく形があるかも知れない。それが結婚というものかも知れない。
そんな風に晃一の胸中に「結婚」という二文字が、少しずつ形をなして来ている様に感じていた。

         <<< 28.運命の伏線 >>>

既に秋も深まり、京都では紅葉がもっとも美しい季節である。特にこの年は、夏は暑く、各地で渇水騒ぎがあり、特に琵琶湖では毎日水位がニュースになっていたほどである。この様な年は急に気温の下がるこの季節に見事な紅葉が始まるのである。
この紅葉単独では駄目、また寺院の佇まい単独でも駄目、両者揃って初めて、絵にも言えない美しさとなる。
そして今日は毎年この季節に訪れている神護寺を訪れた。
晃一にとって最も心が癒される寺院である。
特に紅葉の季節が特上である。
しかし晃一にとって神護寺行きは、もう二つ程楽しみがあった。
一つは次いでに高山寺へ寄り、明恵上人像 の写真を撮ることである。
初めて撮った写真が極上であると、又そこへ行き同じ風景の写真を撮りたくなるという性格であった、神護寺も然りであった。
そしてもう一つの楽しみは高山寺からの帰り、高山寺とは通りを挟んで反対側にあり、貴船川を紅葉したもみじ越しに眺めることの出来る という名の割烹料理屋に寄る事だった。
ここに、おかみか女中か解らないが、いかにも京都を漂わす美しい人がいたのであった。その店を後にする時は、三つ指揃えて丁寧に、しかも上品な微笑みを浮かべながら礼を言うのである。その物腰がなんとも言えず良いのである。

折角カメラを持っているのだから、なんとかその人を撮ろうと思うのだが言えなかった。

濃い藍色の地に真紅のバラの模様が描かれた和服を纏ったその人が、紅葉に囲まれた神護寺の軒下でこちらに向かってポーズを作ってくれたのが、紅葉真っ盛りの11月11日の日曜日であった。年は晃一より明らかに十歳は年上だろう。名前も特に聞いたことは無かった。その割烹料理屋から目と鼻の先とは言え、晃一でさえ息をきらせてしまう長い階段を歩きにくい和服を着てよく付き合ってくれたものだと、まるでひとごとのように不思議に思った。

出会いというのは一体誰が演出するのだろうか?
その人が長いことかけて描いてきた軌跡、
そして自分が、やはり長くかけて描いてきた軌跡
その軌跡と軌跡が時空の一点で交差し、そして今ここに一緒にいる、というのが出会いかもしれない。一点でおわらず、その後も同じ軌跡を互いに描く形が結婚というものだろう。
と明晰に定義できたと思った瞬間、そのひとは夢の中から消えてしまっていた。
晃一にとって同じ軌跡を互いに描くことになる伴侶を得るのはそれから二年後のことになるが、この時期はまだテニスに熱中していた。

クラブでテニスをしていると、自分だけ楽しむという訳には行かなかった。
ちょうど世の中テニスブームで、テニスのラケットを片手に街をぶらつく、というのがひとつのファッションかの様だった。
その様な感じの女の子がクラブに多く在籍していた。
ほとんどが初心者で、従って、晃一はキャプテンの村尾さんともども、その女の子たちに教えなくてはならない羽目になった。
ところが、その直後に試合をすると大抵が負けにはならずとも、あまり満足のゆく勝ち方ではなかった。そんな訳で、テニスを女の子たちに教えることが煩わしいことのように感じはじめていた。
そんな些細な気持ちが、いつしか女性に対する一線を画する気持ちとして晃一の気持ちとして定着してゆくとは晃一にも気がつかなかった。

この頃の晃一は健康、対人関係、仕事どれをとってみても順調でまた会社の女の子からもちやほやされた時期でもあった。
別の見方をすると、晃一にとって、嵐の前の静けさとも言える時期だったのかもしれない。
ちやほやされるということが、如何に危険なことか、天のみぞ知るというところであろうが。では天は何を知っていたのであろうか。


 その天について考えさせられることが起こった。

 すでに秋も深まり紅葉の便りが頻繁に聞かれるようになったある晴れた日曜日であった。
 テニスの練習がなく、久しぶりに、静かな寺を訪れてみようと思い、岩倉実相院へ行くことにした。というより、その近くにある大雲寺という寺をかねてから訪れたいと思っていて、いまだに果たしていなかったからだ。
 岩倉実相院を訪れたときにもらうパンフレットの片隅に付録として記述されている寺で、実相院からの帰り道、そのパンフレットに目を通すたびに、今度こそは忘れずについでに行ってみようと思いながら、いつも果たせなかったからだ。
 寺は平安時代末期に創建された実相院よりも百年前に創建され、かっては広大な寺領をもっていたと言われ、「源氏物語」若紫の巻にも「北山のなにがしの寺」として登場するのだそうだ。
 そこに病を治す祈祷師がいて、普通なら治らない病もこの祈祷師にかかると治ってしまう、というくだりが書かれている。
 そして境内にある鐘は日本で二番目に古い寺らしい。

 四条川原町から京都市バス「実相院ゆき」に乗った。実相院の停留所の少し手前に大きな病院があり、その祈祷師にちなむのだろうか、と思った。
 その停留所をおりて、実相院に入る手前の右手の小道を少し登ったところにあった。
 なるほど古そうな寺であったが、真紅のもみじの葉に空が覆い隠されるように佇んでいた。
 まるで燃える様なもみじとはこのことを言うのだろう、と独りごちながら、しばしお堂の石段に腰をおろし一休みすることにした。
 腰をおろして、寺庭の隅の方に目をやると、そこのもみじだけは黄葉で、枝垂れた奥に鐘楼が静かに起立していた。
 じっと目を凝らしてみると、白い鉄筋の建物があるのに気がついた。
「こんな絶景のところに興趣を壊す建物だな」と晃一が思っていたら、その建物の玄関、というより裏門であろうと思われるところから、二人の大人が歩きながら晃一の方へ話しながら近づいてきた。
 最初は声だけがしていたが、次第に話の内容が聞こえる様になってきた。一人は白衣、他の一人はパジャマ姿の中年の夫人であった。
「ますます、気にいらないな。実相院に行くか、散歩も邪魔してはいけないし」と思って、立ち上がろうとしたとき、その話声のなかに、晃一にとって気になる言葉が多発することに気がついた。
 「左利きの人は、ほとんどが右脳がやられてしもて左半身が麻痺すると言わはってましたけど、わては小さい時から正真正銘の左利きで、小学校のころ先生から直すよう言われたんやけど、頑固だったせいか結局直さないできてしもた。なおしておけば脳卒中なんかにならなくて済んだのに、一生後悔するわ」
と患者とおもわれる中年の婦人が付き添いと思われる看護婦に話かけていた。
 「その傾向はあるかもしれませんね。でも軽かったんで、良かったですよ。リハビリが大切ですから頑張って下さいね。」
と白衣の人が答えていた。

 晃一も根っからの左利きだったのである。それをこれまでの彼の人生に最大限に生かしてきたと言える。
 テニスもしかり、野球もしかり、卓球もしかりだった。唯一の困ったことと言えば、中学時代の習字の時間だった。なぜか晃一は習字というのは絶対右手で書かなくてはいけないと思い込んでいた。

 そんな晃一を特徴つけるキーワードの「左利き」を耳にして気になったわけである。
 この時から約十五年後、晃一がこの中年婦人と全く同じ運命に遭遇することになろうとは知る由もなかった。

 後になって考えると、この様な些細としか思われないことが「運命の伏線」だったのかも知れない。
 大雲寺という、紅葉で燃え立つ空間に、他の観光客の姿を一切立ち入らせず、閑寂さのなかで、その二人の会話を晃一の耳に届くように故意に天が演出したのかも知れない。
 晃一は実はその時、全く何も感じなかったのではなく、「何が原因で脳卒中なんかになったのだろう。きっと運が悪かったのだろうな」とは思ったのであった。
 しばらくして、晃一は大雲寺を後にして実相院に向かった。
 実相院は大雲寺にも増して紅葉は燃える様であった。
 観光客も多いとは言えず、晃一はこの見事な紅葉を独り占めしているようで気分が良かった。
 建物に入ってすぐ右手の廊下のある向こうに小窓があり、そこから秋の日差しを浴びた紅葉が透かし絵のようにまぶしく視野に飛び込んでくる。
 この光景が晃一の脳裏に強く焼きつき、後日、晃一が見る夢の中に、この焼きついた光景を背景にした場面が何度となく登場することになるが、そのひとつをきっかけに晃一の不幸が始まることを思えば、この日の実相院・大雲寺行きは晃一にとっての大きなターニングポイントとなったといえなくもない。

         <<< つづく >>>







2007/12/31 13:22:16|物語
西方流雲(26)
            西方流雲(26)

         <<< 26. 夏季休暇 >>>

 新幹線の発車まで約1時間ある。
 そう思った晃一は皇居前のここに来たら必ず寄ることにしている休憩所に足を運び、コーラとミックスサンドを注文した。
 彼女と始めて話しをしたのもここで、つい二十日前のことだった。
 椅子に腰をかけ、ぼんやりと暑さにうだる外をながめていた。
 東京の空の代名詞の様な景色の下で、わずかな風になでられて、黄緑色の葉が小刻みに揺れる。
風がわずかな擾乱を起こすと、風に連れられて葉の波もザーっと流れてゆく。
 八月一日〜六日、この六日間がまるで一瞬の様に通り過ぎた。この休暇で自分はどの様な花をみたのだろう。
晃一は自問自答を続けた。
浜 妙子と晃一は呟いてみた。

その人はこの六日間自分の心の中にどの様に定着していたのだろう。

コップの半分ほど残ったコーラの中でレモンの種が二つ、
浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ
ある時は2つ一緒に、またある時は一方が他方を
       追いかけてゆくように
茶色く透き通った液体の中で、
       いつまでもそれを繰り返してゆく。
目を移すと、花壇の手前にある砂利に着陸しては飛び立ち、
飛び立っては着陸する鳩の一群があった。
人の無関心な歩みには邪魔されずに、
       砂利の上や花壇の淵石に止まっている
そして、時々急ぎ足で通り過ぎる人には
       道を譲る様に飛び立つ

 汚れてはいても、ここから見る東京の空は大きく、何百メートルか先に見える丸の内のビルまで目を遮るものは無い。
 あのビル群の一つに今ごろ彼女が働いているのだ
 自分にとっての六日間、彼女にとっての六日間、その六日間は彼女にとってどの程度の懐かしさとして残るのだろう。
 人の出会いはいつどこでどんな風に始まるか分からない。

       運命的に?
      必然的に?
     規則正しく寄せては退いてゆく潮の様に?
 又は人の死が全くそれまで干渉の無かった二つの個性を
     遭遇させる。
      そして、初めての出逢いから何日か後、
再会という形で六日間を費やした。
      コップの中の氷が大分溶けたのだろう。
     液面が上がり、その分をのどの渇きの中に注いだ。
     彼女が私の夏季休暇に活けた花は、
    自分にとっては彼女の思惑とは反対の方に捕らえている    かも知れない。

 そう思いはじめていた。
 いつしかテーブルの上においた袋の中にあるネクタイが晃一の話し相手になってた。
 ジュークボックスの蓋を誰か開けて中を覗いている。
 そう言えば、ここに坐ってから同じ曲が何度も繰り返しかけられていた。
イェスタデイ
♪Yesterday all my trouble seem so far away,……..
 まるで晃一が自分の六日間の休暇を繰り返し回顧するかのように流れていた。
   ♪ Yesterday ♪
 まわりに坐っている人達にとっての「Yesterday」はどんなだったのだう。

 昨日ボーリング場で精一杯ボールを転がしていた老夫婦
自分はと言うと、昨夜、かっては古巣とも言える井の頭公園を彼女と歩き、長く縁遠くなっていた、
 あの幹、あの湧き水、あの池の水中に繁茂した藻
 数十年の時間が一挙に霧散した様な感覚を今も覚えている。
 そんな感覚に浸る時、
 大事な人になるような予感もするのだが、
 夏の夜の井の頭公園で赤い格子模様の浴衣姿を着て隣を添い歩いた彼女は一体何者?
 自分の昔の無邪気で素直だった気持ちを思い出させる忘れな草だったのだろうか
それとも、夏期休暇のたんなるレジャー設備だったのだろうか

四日の日、雷雨で道路は渋滞した雨宿りをかねて近くのレストランに駆け込んだ
しばらく空模様を二人で眺めたあと、
「二人の関係はこれからどうなるんだろう」
と自分から切り出した。
しかし晃一が自分の考えを言う前に、彼女は席を対面から隣に移し、堰を切ったように彼女の口から言葉が出た。
その内容は晃一の心を刺す様なものばかりであった。
稲妻が彼女の顔を照らすと、
そこに涙が溢れているのが分かった。
その涙が何を意味するのか晃一には分からなかった。
分かっていれば、彼女を自分の伴侶として長く付き合ってゆくことも出来ようが、その資格を自分は持っていないと、晃一は悟ったのだった。

どの様な気持ちのもとでこのネクタイが買われたのか考えてみたが、これぞと言える決定的なものは思い付かなかった。
新幹線に乗る前に、ビル群をはるかに見渡せるこの場所で、納得したかったが、目の 前のネクタイは、晃一自身の気持ちを覗き込むばかりでネクタイ自身の経歴を語ろうとはしない。

   晃一は視線をビル群から路上の鳩に移した。
   二、三才の子供とその親が路上の鳩に
    ポップコーンをまいていた。
     ポップコーンに群がる多くの鳩と少し離れて、
無心に何かを求めている一羽の鳩がいた。

         それでも良いではないか。
         その方が良いのだ。
         その様に呟かれた言葉が、
              晃一自身に当て嵌まる言葉なのか、
              彼女に当て嵌まる言葉なのか
         次第に区別が出来なくなってきた。

自分は自分の畑に何の種も撒かず将来を見つめ、
その一要素である結婚を考えていた様だ。
話し相手のネクタイに手をさしのべ、その席を離れ東京駅に向かった。三時十五分に発車すると、六時十分頃京都につくことになる。そして、あと数時間で夏期休暇が完全に終わることになる。


 晃一にとっての一年間の楽しみは、正月休み、ゴールデンウィーク、夏期休暇と言うように長期休暇であった。既に、ゴールデンウィーク、夏期休暇が終わり、なんとなく寂しい感じがしていた。祭りの後の寂しさと言うものであろう。
晃一は転職してから三ヶ月程立ち、精神的に少し安定してきている自分を感じ、学生時代に頑張ったテニスをやることにした。

ある日会社で昼食を取ったあと、食堂の傍らに設置されている練習ボードの傍にいたら、ラケットを持って練習していた人を見つけた。
晃一は近寄ってゆき、
「テニス部の方ですか?」
と聞いてみた。後で村雄さんと言う名であることが分かったのだが、その村雄さんが、「そうだけど、テニスをするんですか?」
と逆に丁寧に尋ねてきた。晃一は、
「学生時代に少しやりました。社会人になってからは殆どやってないんですよ。ところで練習は盛んなのですか?何曜日が練習日ですか?」
と続け様に質問した。すると村雄さんは、
「明日は水曜日なので、硬式テニス部の練習日です。僕も出ますので是非練習に来て下さい。」
これが、その十四年後に脳卒中で倒れるまでの晃一のテニス漬け人生の始まりであった。

 晃一は指を折って数えてみた。中学時代に軟式を二年、高校時代軟式三年、大学時代硬式を四年、社会人になってからは今日まで指折り数える回数しかやっていなかった。
テニスが晃一の人格形成にどれほど関わってきたか、晃一自身より晃一の母や姉が良く知っていた。
 テニスを最初にはじめるきっかけを作ってくれた武賀井先生とは中学卒業後も長く親交を続けている。
高校時代の軟式テニス部の練習は、とにかく声を出す事が重要で、何かと言えば声を出しながらの練習だったことを思い出す。
 心身ともに鍛えられた。

大学時代はキャプテンを勤めたが、部を率いることの難しさや、自身の技術レベルとキャプテンという役割との間のギャップに悩まされたが、心身の鍛練だけでなく多くの経験が積めた。
そんなことを思い出しながら、その晩、彼の寮の押し入れを開け、テニス用運動靴を探していた。

        <<< つづく >>>