西方流雲(30)
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中華料理のメニューが貼られているやや煤(すす)けた感じの壁に、えんじ色に染まった、漆塗りの釣瓶の形をした花瓶が掛けられ、そこに一輪の紫陽花の花が生けられている。 それは紅蓮(こうれん)らが神戸に着いた日、芦屋市在住の斉藤英爾(さいとうえいじ)と言う名の、七十歳前後のいかにも温厚そうにみえる人物が港まで出迎えてくれ、目印として持っていたものであった。目印として、紫陽花の花を持っているということになっていたのである。 しかし、紅蓮、東伝(とうでん)ともその花を一度も見たことがなく、途方にくれていたが、運良く出迎えの人たちの中で花を持っていたのは一人だけであった。 その用を果たすと、今度は歓迎の花と化し、紅蓮の手に渡った。 紅蓮は、「謝々。」と言いながら東伝とともに頭を下げた。 斎藤英爾は平手を左右に振りながら、 「これは、お嬢さんにお似合いだ。」 と、にこやかに、語りかけた。親子だと思っているのであった。 そして一週間経った今日でも花瓶の中で元気良く精彩を放っているのである。
その紫陽花の花に、接する様に貼られたはがき大の日めくりカレンダーを一枚づつ毎朝最初にめくるのが紅蓮の仕事になった。 このカレンダはページを一枚破りとる毎に、昨日と今日との境界を感じ取り、紅蓮は新しい日の始まりに胸を膨らませることが出来るのである。 「神戸に来て、日めくりするのが早くも七回目になったわ。 つい十日ほど前には。この手指が触れるものは、今とは全く別世界で、運河の河岸に植えられている槐(えんじゅ)の樹に、この手の平をあて、うつむきかげんに河面を見つめていたのである。 父 鉦渓、母 蕾蓮は今頃どうしているのだろうか? そう思わない日はなかったが、なるべく考えないようにした。 考えたら世話になっているこの家の女主人に申し訳ないと思ったからである。 彼らが神戸埠頭 に着いたのは、1967年7月29日午前8時30分であった。 そして彼らの落ち着き先として用意されていたこの店に着いたのは、その日の夕刻であった。途中、取りあえず必要な身の回り品を買ってきたからである。 紅蓮には、なにもかもきらびやかで、珍しいものであった。 これまで紅蓮が育ってきた江南の地に比較し、空の色は同じだが、光の色、空気の香り、地面の踏みしめた時の弾力性、鳥のさえずりかた、….何もかも珍しく、その様な物、光景を、目にする度にたちどまり、先にたって案内をしてくれている斉藤氏に、東伝を通して尋ねた。
当然のことながら紅蓮は全く日本語を知らない。 そこで何故だかわからないが、日本語の達者な東伝を通して、通訳をせがんだのである。 紅蓮の聞きたいことを中国語で東伝へ、その中国語を日本語で東伝が斉藤英爾に訳し、斉藤英爾がしばらく考えて思いついたことを日本語で東伝へ、そして東伝は中国語で紅蓮へ伝達するというきわめて手間のかかる作業であった。 しかし、時折斉藤英爾から呉東伝への説明だけで、東伝から彼女への中訳の前に彼女は理解してしまっている様なことがあり、斉藤は、 「この子は頭の良い子だ。この国にすぐ順応し、活躍してゆくに違いない。」と感じた。
薄紅蓮が、斉藤英爾からもらった紫陽花の花を、珍しく思ったのも当然で、多くの花の原種が中国で、そこから世界中に広がって行ったというのが、一般的であるのに対し、 この紫陽花こそは、原産地が日本で、中国を経てヨーロッパに広がり品種改良されたという、日本の花の代表選手なのである。 斉藤英爾が、そのことを知っていたというよりは、この季節、日本のどこでも、最もきれいに、且つ普通に咲いている日本らしい花と思っていたのである。
紅蓮がまず知りたいことは、 「この花を、少しでもこの状態のままにしておくには、どうしたら良いか」、 ということであった。 紅蓮は首にぶら下げている首飾りを握りしめながら、この花に魅かれるものがあった。また魅かれる理由がその色にあることに気がついていた。 その仕草を見つめていた呉東伝は初めて薄紅蓮に出会った時のことを思い出していた。 そして、太湖のほとりにあった船宿を辞める時の送別会で見た夢を思い出していた。 あの時、夢に現れた白眉、白髪、白装束で、青銅色の皺の深い顔をした老人は、 「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。ここからはお前の番だ。青い色の璧の所に舟をつけよ。そしてみつけたら同じ事を言え。そして更に東に向かうのだ。」
この日本という国が、あの夢に出てきた老人が言っていた東の地になる訳だが、 「この地でわしは何をせねばならんのか」 と独りこちた。また、 「これから、どの様なところで生活することになるのか?」 ということだった。
紅蓮は神戸の町は同じ港町の上海と似ていると感じた。 また、「これから運河を遡って、蘇州の様なところまで行くことになるの?」 と東伝に、斉藤英爾に質問してくれ、とでも言うような目つきを東伝に向けた。
東伝は先ほどから紅蓮の仕草を観察していた。
「この子は自分が連れてきてしまった様なものだ。確かに文革の嵐が吹きつけ身の安全を確保する為という、これまでの経過を知っている者なら誰でも納得する理由はあるが、それはあくまでも表向きであり、実は、自分が崑崙山の一老人の代理人であり、天のお告げにしたがって東方へ赴き、途中から太湖を経て運河を下り、天命を実行するのにちょうど良い相棒をみつけ、更に東方の国、日本で、大願成就させるつもりであることを、誰が知ろうか?その使命を背負っているので、勉強を一度たりともしたことがない日本語を通訳できるほど使いこなせているのだ。」 と神戸の地を踏んで以来ずーっと思っていた。 「この子は、ある意味で、その犠牲者かも知れない。」という哀れみと、 「これからがんばって働いてもらわないといけない。」という期待とで、紅蓮を見守っていたのだ。
「まず日本語を教え込もう。」 と思いつき、そのためには頻繁に人が出入るする店、料理店が好ましいと思いつき、上海を離れる前から神戸の上海料理店に世話になる手筈を整えていたのだ。 神戸には中華街南京町があり、春節、重陽節等の節分には中国本土並みの賑やかな催しがあるのだ。
紅蓮は小さな日めくりカレンダーを一日分めくり、そのあと紫陽花の花を見つめては、その紫色の神秘さの中に引き込まれてゆくのであった。その花の色が次第に青から赤っぽい紫に変わってゆくような気がして仕方なかった。 紅蓮は、本当は藍色と青の中間の色が好きだったが、それは彼女が蘇州を離れる時、母、蕾蓮から形見としてもらった服の色そのものだった。更には彼女が身に着けている首飾りも青紫色をしていて太陽の光が射すと青紫色の光を発するのであった。
その日は店の定休日であったので、少し店の界隈を散歩しようと決めていた。 紫陽花の花が、山の手の方へ歩いていったところに咲いているという話を聞いていたからであった。 まだ、日本語が殆ど話せない状況であったが、前向き指向の彼女にとって臆するという言葉など持ち合わせていなかった。
まだ朝九時を少し過ぎた程度であった。 少し雲が広がっていたが雨の心配はなかった。 店の前の道を左手に歩いて行き、左折することを四回繰り返せば、ほぼ同じ場所へ戻れる、という彼女なりの算段だった。 前日、紅蓮が世話になっている店の女主人である何秀麗からも、 「明日は店が休みなので、店の周辺を独りで散策してきたら?」と言われ同時に簡単な何秀麗が書いてくれた地図を渡されていた。 地図には一本の赤い線が道路に沿って描かれていて、紅蓮の算段に合う様に、店を出発点として店の前の道を左手に十分歩いたところで左折し、更に二十分歩いたところで左折し、三十分ほど歩いたところで左折、更に二十分程度歩いて、店の前の道との交差点に出会ったところでその交差点を左折し、二十分ほど歩いて店に戻るという計二時間弱の行程であった。 交差点には分かり易い目印と地名が漢字で書かれ、読み方が中国文字で当てられていた。そして地図が書かれた紙片の下辺に店の名前と電話番号がかかれていた。 地図にかかれた漢字は、皆見たことのある字ばかりで読み方が異なるだけであった。
この時期は盛夏であり、うだる様な暑さであり、クーラーなど無い時代で、店の天井にぶら下がっているプロペラみたいな大きな扇風機以外に厚さを凌ぐ手段は何も無かった。 しかし戸外に出ると頭上に広がる青空を感じるだけで、室内にいるよりましであった。 気温はそれほど苦にならなかったが、湿気には閉口した。最初の交差点を左折するあたりに来ると、中華街の雰囲気は全くなくなり、やはり異国という感じがした。 人の行き交う速度、車の量、人々の動き、どれをみても中国、といっても紅蓮の住んでいた蘇州界隈の話だが、そこよりは活気があった。 また文革で殺気だった若者の姿も全く見られなかった。若者たちは皆上を向いているような感じがして、それも紅蓮にとって心地良い印象で、この国に来て良かった。落ち着いたら両親を呼び寄せようなどと考えながらひたすら山の見える方角に歩いていた。
山の見える方角に歩き始めてから、十五分ほど経っただろうか、背後から呼びかけるような声がした。 「もし、あのう、...。」 日本語が分からないだけでなく、自分のことを知っている日本人がいるはずがないと考えていたので、背後からその様な声がしても、振り返ることなく歩いていた。 ところが又、 「もし、あのう、...。」 という声がした。少なくとも前方に歩いている人はいなく、背後にも他に足音は聞こえなかった。もしかしたらと思って、背後を振り返ってみた。 そこにはちょうど紅蓮と同じ位の女性の姿が見えた。そしてその女性が手を上げ、微笑みながら駆け寄ってきた。 「こんにちは。紅蓮さん。私同じ店で働いている中村恵美子。」 紅蓮は見覚えのあるその顔を見て安心したが、日本語を理解できないで、どうやって意思を通わそうかと躊躇した。しかし何も言わないよりは中国語でもと思い、中国語で、 「ニーザオ、ミンパイウオ―マ?」と返した。 それでも挨拶を交わしていることがお互いに理解できた。またお互いに同世代だということもなんとなく分かった。 しかし、その後は肩を並べながら、お互いに身振り手振りで話を始めた。 そして、やがて彼女が紅蓮に神戸の町を案内してあげる、と言っていることがわかった。しかし、彼女は、 「自宅の庭に大きな紫陽花の花が咲いているので見にこない?」 と言っていたのだ。中村恵美子は、店に飾ってある紫陽花を紅蓮が毎日世話をしている姿を見ていたのであった。 紅蓮は大きくうなずき、相手の手を取りながら、 「シェーシェ、シェーシェ」と嬉しさを体一杯に表現した。 こうして中村恵美子は紅蓮にとって日本人の最初の友人となった。 このことは紅蓮にとって日本に来て最初の喜びであったが、まもなくこのことが日本に来て最初の悲しみにつながるとは夢にも思わなかった。
二人は、紅蓮が左折することになっていた二つ目の交差点を曲がらずに六甲山に向かって直進していった。 中村恵美子は正面の山を指差しながら、 「ロッコー。」と口にした。 紅蓮も真似して、 「ロッコー。」と口に出してみた。 なんとなく響きの良い言葉であった。 緩やかな上り坂になって来た。
まもなく、こじんまりとした黒い瓦屋根の家に着き、その家の庭に導かれていった。 庭には青紫から赤紫へかけてまるで連続して色が変わってゆくような配列で紫陽花の花が咲いている。 「ここが私の家。」 と中村恵美子が言っているだろうことは、日本語の分からない紅蓮にもすぐに分かった。 必ずしも大きいとは言えない庭だったが、庭全体が紫陽花で埋め尽くされていた。 しばらく、庭に置かれた石椅子に座って空を見上げて見ると、蘇州にいた時と同じ色の空であった。そして急に身の回りから締め付けていたものから解放された気分になってきた。 また、しばらくして、一度屋内に姿を消していた中村恵美子が一人の小柄で、背中が大きく曲がった老婆の手を取りながら紅蓮の方に近寄ってきた。 紅蓮は、精一杯の笑顔で頭を下げた。 しかし、相手の老婆は微笑みもせず、一切表情を変えずにじっと紅蓮の顔を上げるばかりであり、この突然の訪問者を迷惑がっているように見えた。 老婆は、紫陽花に向かって二、三度頭を上げ下げして、また紅蓮の方を相変わらず迷惑がっているかの様に見つめてからまた家の中に消えていった。 そしてしばらくしてまた中村恵美子が出てきたが、なんとなく悲しげであった。 明らかに申し訳なさそうな表情であった。 彼女は、「さっきのは、年とって見えるが自分の母で、最近はもの忘れが激しく、家の外に一度でも出ると、帰ってこれなくなってしまう。だから、日に一度、私が庭に連れ出し、外の空気に当たらせているの。家には他に家族がいず、二人だけで生活しているの。」ということのようだった。 この時代、痴呆症という病名は一般的でなく、せいぜい精神病という病名でかたづけられていた。中村恵美子の母はその病にかかっていて、恵美子は一生自分の母の面倒をみてゆく覚悟を決めていた。 それが自分の運命だと断じていたのであった。
「母は、若い時から紫陽花が大好きで、庭を紫陽花で一杯にすることが夢だったらしいの。 母が病気になってから、紫陽花の苗を埋めはじめ、もう十年が経っている。」 もし、互いに言葉が通じれば、この様に言い訳できるのに、と思って気分が落ち込むのだが、同じ店で働いている以上、いずれ意思を通わせ会うことが出来るだろう。そう思って自らを慰めた。
紅蓮は、恵美子の母が眺めやったのと同じ方向を眺めてみた。紫陽花の青い花の向こうに、まるで、紫陽花に接するように神戸港がゆらゆらと見えた。 まるで海から湯気が昇っているようだ。毎日毎日、彼女の母はこの景色を見ているのだ。あの海につながったところに上海があり、揚子江を上れば蘇州がある。 今頃、父と母はどうしているのだろう。病苦に苛まれるのと、迫害に悩ませられるのと、どちらが過酷か。 その先に夢を持てないのなら、同じことかも知れない。紅蓮の父母は、その夢を紅蓮に託し、紅蓮を異国に追いやったのだ。そのことを十分わきまえている自分はこれから何をしなくてはいけないのだろうか? その様に思い巡らすことが出来るのは、まだ幸せといえるかも知れない。 しかし、中村恵美子の母は、その年齢からいって、夢を思い巡らすことなど到底出来ないだろう。たとえ母といえども、その様な状態の人間をサポートしている中村恵美子は偉いという他ないのである。 紅蓮は中村恵美子の手をとって、「謝々。再来。」と言って紫陽花の家を後にした。
紅蓮がその店の新入りの住み込み店員となってから、はや三ヶ月たった。必要に迫られたこともあるが、紅蓮の日本語はめきめき上達し、通常の日常会話であれば、殆ど不自由しなくなった。また店主のはからいで、六甲山のふもとにある日本語学校に通い始め、日本語の読み書きも少しづつ習熟して、新聞の見出し程度てあれば、意味を理解できるようになってきた。
紅蓮の朝の最初の仕事は、相変わらず、花が生けてある花瓶の水を取替え、花の様子をみて、しおれかけていれば、花を取り替えるというものだった。 紅蓮が来るまでは、この仕事は店員の当番制であったが、毎朝あまりにも紅蓮が嬉しそうに、この仕事をやるので、いつのまにか紅蓮が専任になってしまったのである。 三ヶ月たった今も、紫陽花の花がいけてあった。紫陽花は二,三日すると中村恵美子が自宅から持ってきてくれた。十月末なのにまだ元気良く咲いているとのことだった。 彼女の母も、店で紫陽花の花を生け続けている、という話をすると喜んでくれるとのことだった。その話を聞いて紅蓮は紫陽花を通して彼女の母と会話をしている気持ちになった。
最初に中村恵美子の自宅を訪れた日、店に帰ってから、中国語を話せる店主から、どこへ行ったかと尋ねられ、その旨、説明したところ、 「あら、中村さんのお母さんにお会いしたの。お元気だったかしら?」 「暗い表情をしていて、挨拶もしてくれなかった。」 と紅蓮は正直に話した。 「でも仕方ないのよ。病気だから。いくら歓迎する気持ちがあっても、それを表情に表せない病気なのよ。許してあげてね。昔は、この界隈でも評判の気立て良しでね。おまけに美人だったものだから、彼女が通るだけで周りが明るくなったものよ。」 あの日の中村恵美子の母の表情にはそういう事情があったのか、もしかしたら本当は歓迎していてくれたのかも知れないと、気分が少し晴れてきた。そして、知識欲旺盛な紅蓮は更に、 「奥さんは中村さんのお母さん知っているの?」と聞いてみた。 「よく知っているわ。だって同級生だったもの。成績はいつもトップクラスだった。クラスのだれもが彼女をまぶしく感じ、近寄りがたかったのだけれど、どういうわけかクラスで劣等生だった私とは気があって、よくおしゃべりしていたわ。そういうきっかけになった話を未だに覚えているわ。」 「そういう関係だったのですか。知りませんでした。そのきっかけというのを聞いてもいいですか?」 「いいわ。それはね・・・・。私はクラスで劣等生でおまけに中国人だったものだから先生も難しいこと聞いても答えられないと思っていたのか、どちらかというと自分流に答えられることしか質問してこなかったのね。ある授業で、先生がだれでも答えられる質問だ、と前置きして私に質問してきたの。ところが私が答えられなかったので、その先生が、『こんなこと知らないなんて一番恥だぞ』と怒鳴り散らすので、私もかっときて、『一番恥なのは、知らないことを知らないことです。』と言い返したわ。そしたら普段『すいません。』のひとことであとずさりする私が、そんなこと言ったものだから、先生もクラスメートも唖然としたのだけれど、その授業のあとの休み時間に、彼女がちかよってきて、『素晴らしい言葉だった』と褒めてくれたの。 そして、その後、彼女の家に遊びに行くことが増えてきて、いろいろなおしゃべりをした。 その中に、知らないことを、知らない状態から知らないことを知る状態にするのにはどうしたら良いか、ということと、知らないことを知らない状態のままだと、どういうことがおこるか、ということを話あったわ。 後の方の答えは“戦争になる”だったわ確か。知らないことを知らない状態のままだと行き着くところは結局は戦争ということで二人の考えが一致したの。 あんな優等生の彼女の考えと、劣等生の私の考えが一致するなんて、自分もすてたものではない、なんて思ったものよ。 それ以上に、信じることの出来る極上の友達が出来たことが嬉しくてたまらなかったな〜。まるで昨日のことのよう。紅蓮ちゃんも早く心の許せる親友が出来るといいわね。
そんな中村美恵子の母に関する話を聞き、それまで暗然としていた、恵美子の母にたいする印象が急変した。また彼女の母のことについて、知らなかったことを知ることが出来た喜びも、このとき初めて味あうことが出来た。そして、そのうちまた彼女の家を訪れることにしようと決めた。
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