槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/01/08 22:10:07|物語
西方流雲(35)
              西方流雲(35)

      <<< 36. 対闇閑話 >>>

 そしてその年は大晦日を迎え、年が改まった。晃一は例年の如く東京東久留米の実家で年末年始を過ごした。

 昭和49年即ち1974年が明けたのである。そして既に七日が過ぎていた。

 年末年始を例年の如く実家で過ごしたが、多くの友人と会う機会があった。
その年末年始を振り返ってみた。
12月28日は仕事の後、南井さん、藤波さん、坂戸さんとの四人で、また藤波家をお邪魔して、麻雀をした。ふと、測定器室での出来事を思い出したが、そのことを口外はしなかった。
12月29日に東京に帰った。
年明け最初の出勤日は何事も無く始まった。
寮の自室に戻り、畳を背に横たわり、天井の木目をながめながら黙想していた。
 木目が晃一に語りかけてくる。
「晃一君、今年はどのような年にするつもりかい?」
「何も考えていないけど、例年になく多くのことが起こる気がするんだ。それに対して腹構えしておくこと。それが第一にすることだろうね。」
「第二は?」
「第二は身の回りに起こることを十分吟味、分析すること。」
「例の職場の組織変更とか勤務地変更だね。」
「そう。グループの殆どのメンバーがともに転勤になるので、違和感を感じないかも知れないが、やはり転勤ともなると、環境も変わるし、気候も変わる。何が起こるか分からないから気にはなるね。」
「しかし、秋頃の話ではないの? まあいいや。では第三は?」
「チャンスを利用すること。」
「何か良いことが起こるのかな?まあいいや。まだあるの」
「何事も一生懸命実行すること。」
「なんだか対象が皆ぼけているね。もっと具体的な目標は無いの?」
「ないことも無い。先ず、本を大量に読むこと。『徳川家康』、
『坂之上の雲』、『新書太平記』の完読、そして、テニスを通して京都社会に溶け込むことかな」
「そんなところかね。ところで、一つ教えておいてあげるが世の中の景気の退潮がもたらすものは大きいよ。八日市への組織ぐるみの転勤も景気の退潮がトリガーになっているのだよ。歴史的な景気退潮が起こるかも知れないね。晃一君はドルショックを経験しているから分かるだろうが、また希望退職募集ブームみたいなものが起こるかもしれないよ。」
 晃一は、「十分ありうる。」と天井に向かって頷き返した。そして、晃一なりの分析を天井に向けて投げかけた。
「それにしても物価上昇がひどい。特に砂糖のような生活必需品の上昇が目立つ。老人等年金以外に収入手段を持たない人々にとってはたまったものではないだろうな。」
「人々、特にマスコミが争って、物価上昇の被害者をスクープする。
 それが輪をかけて、景気退潮の加速を人々にイメージさせる。実際はそれほど加速がひどくなくても、ジャーナリストの一生懸命さが実相を過大に見せ付ける。
 それにうろたえる民衆が更に自己防衛的な過敏とも思える行動に走る。そしてそれをマスコミが追いかける。これを繰り返せば正帰還的破滅に至る。この様なヒート・アップを牽制するのは適度な熱放散しかない。
 この熱放散を民族レベルできるのはやはりマスコミである。
多々あるその日のニュースを紙面にレイアウトするのは、その新聞の編集長であり、一人の人間である。そのレイアウトの匙加減でニュースの注目度が変わってくる。それによって熱放散の程度が変わってくるものだ。今こそジャーナリストの見識が重要になってくる。」

その様な天井との会話が何日か続いた。
そして冬は益々厳しくなってきた。
そんな1月のある日、八日市工場への出張があった。そして奥山寮なるところで、一泊した。
 積雪が三十センチ程あった。次の日は日曜日だったので、近くにある国際スケートリンクというアイス・スケートリンクで何年か振りのスケートをした。
 その出費があったせいもあるが、経済状態は薄氷を踏む思いであった。あと一週間を五百円でやって行かねばならない。その様な状態になると、情緒は不安定になるし、神経質にもなる。
 神経質と言っても二通りある。身の周りが常に整理整頓されていないと承知できないタイプ。他は、整理整頓には無頓着でも、ものごとの成り行き、心象が気になって仕方のないタイプ。
 晃一は最近の自分が後者のタイプに近づいているように感じていた。
というような気分の晃一の耳に、東京に大雪注意報が出ているというニュースが飛び込んで来た。東京の雪は何故か郷愁を誘う。
 晃一が親元を離れ、初めて伊丹にやってきたときも東京は大雪で、なにか忘れ物をしたような気持ちをもったことを思い出した。
 翌年に「なごり雪」というフォークソングがはやったが、そこで歌われている歌詞がぴったりだったといえるが、時間が逆転するはずはないので、その忘れ物をした様な気持ちを表現出来なくて悶々としていたのであった。

 そしてこの年も春を迎えた。
 この頃の晃一はテニス一色であった。テニスをしないで一日を過ごすと体調の不調さを感じることが多々あり、雨をも恨むことがあった。

         <<< つづき >>>








2008/01/07 22:23:57|物語
西方流雲(34)
               西方流雲(34)

            <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>

 その様に世情は不安定な毎日であったが、仕事に関しては、すこしづつ圧電の面白さが分かってきた。

正月休み前のその年最後の日曜日、会社に出勤した。と言っても、朝と晩だけ炉の様子を見に行ったのであった。
やはり、何人かの人間が、同じような目的で出勤していた。
 前の会社同様エレクトロセラミクス関連の会社であったが、スケールがまるで違う。天井がばかに高く、焼成炉の種類も多かった。
すでに、寒さが本格的な冬であり、廊下や居室は冷え冷えとしていて、厚いジャンパーを着ていても寒い。しかし、炉の近くは心地良い暖かさとなっている。
 制御盤の前の椅子に座って、しばらく記録計の針を目で追っていた。
 あの日もこんな感じであった。ただし、深夜であった。
前の会社の渡辺部長が、セラミクスについて教えてくれた。
おまけに差し入れまでしてくれた。それがもう四年も前のことだ。
 夢中でもがきながら、赤い荒野に根無し草が漂い、風向きに任せて意図しない人生を歩んでこなかったろうか、そんなことは無い、という声がどこからか聞こえてくるのを期待しているのではないか。
 自分の船を自分で舵取りを本当にしてきただろうか。

 焼成炉をよくよくみると、途中から傾斜しているではないか。
 エレクトロニックセラミクスの焼成に何故登り窯が必要なのだろう。しかも随分長い、その先の先のほうを眺めてみると、なんと竹林へと続いているではないか。
 そして、靄まで漂っていて、更に焼成炉の先は靄に邪魔をされて、どうなっているか分からなくなっている。
 晃一は、そのあたりの光景を頭の中に描出してみた。
 たしか、三段構造になっていて、最も上段に食堂がある。そして、その下の平地にテニスコートが一面だけであったが、照明灯つきで作られていた。
 そして、更にその下の段の平地に、社屋の建物があり、そこの一角に炉が沢山設置された部屋があったはずである。晃一は現在その部屋の片隅にいるはずであった。
 三段構造の最も上段に位置する食堂の向こうには、更に、土壁があり、その傾斜部分や、その台地の面上にはこんもりとした竹やぶが西陽を完全にさえぎるように生えていた。
 いつ頃からそうなっているか分からないが、その台地の上には何があるのか以前から知りたいと思っていた。
「そうか、焼成炉が、登り窯となって竹やぶを突き抜けて、その台地の上に、せりあがっているのだな。どのくらい先までこの窯は続いているのだろう。」
と晃一は疑問に駆られ始めた。
 その立ち込めている靄を凝視すると、人影らしいものが認められた。
「あそこで、匣を炉から回収しているのか、ということは、炉は、あすこで終点だな。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
と思うまもなく、その人影がベージュの作業服を着ているのではなく、ピンクがかった色の羽衣の様なものをまとっているのが分かった。そして、炉から取り出した匣を空に向かって放り投げているように見えた。  
 それが、観ている晃一の方へ飛んでこないので、向こうの見えないところへ向かって放り投げているのだろう。
しかし苦労して成型して匣詰めして焼き上がりを期待して待っているセラミストにとってはたまったものではない。
 前の実験結果から今回の組成を決め、パートの人に、注意深く調合してもらい、一度仮焼し粉砕し、バインダー混合、脱水、造粒し、成型、匣組みをして、昨日の帰り際に匣を炉に投入したもので、多くの人が関わって製造されたものである。
 誰も注意しないのだろうか?、とあたりを見回したが、誰もいなかった。
「いるのは自分ひとりか、見過ごすことはできない。」
と思った瞬間、既に足が動いていて、その靄に向かって走っている自分が見えた。一跳びでテニスコートのある台地に移動し、更に一跳びで、食堂のある台地に移動できた。
 不思議なのは次第に近づいてきているはずなのに、その靄と匣を放りあげているその人間の姿が一向に近づいてこないのであった。
 ただし、靄の中で匣を放りあげているとばかり見えていたのが、実はこちらにおいで、と手招きしているのと、それが女性だということだけは確認できた。
「一体誰だろう?」
とおもいつつ、何故かなつかしさを漂わせる姿であった。
 そういえば、まだ仕事中だし、多くの人が関わって製造されたものを台無しにしているわけではないし、元の場所に戻ろうと思い、後ろ向きになって、あとずさりしようと思ったが、足が地に生えてしまったかの様に動けないのであった。
 前には進めるのであろうかと、恐る恐る足を動かしてみたら、全く軽々と歩を進めることが分かった。
 前に進めるのだったら、この焼成炉が何処まで続いて炉の終端がどの様になっているのか見届けておいても悪くは無いだろう。
そう思ってまた一跳びしてみた。
 しかし、跳躍しすぎたのか竹やぶの竹の一番高いところを通り過ぎて、まぶしいほどの夕日を浴びてしまった。
 まだ完全には日が落ちていず、大山崎の天王山の稜線にかかりつつある太陽は赤く染まり、そこからさらに中天にかけて赤から群青色へ、更にダークブルーへと絵にもかけないグラデーションの美しさであった。  
 目を下に移すと竹やぶはこんもりと真っ黒であり、その底に横たわっている焼成炉も、その側に居て、晃一に向かって手招きしていた羽衣の様な衣装を纏っていた女性の姿も当然見えない。
 ただ、晃一が跳躍する一瞬前に、赤い火の玉の様になって、同じ様に竹林の天井を突き破り西の方角に消えていったのが記憶の底に僅かに残っていた。

 「薄さん、薄さん。」
と呼ぶ声が背後から聞こえた。
宗さんだった。
「あれっ、宗さんも炉の様子を見に来たの?」
「800度を越えて、バインダーは飛んだ筈だから通気孔を閉じにきたんですよ。薄さんの方は終わったの?」
「終わりました。」
「先ほど坂戸さんが、帰りに藤波さんのお宅にお邪魔して麻雀をやらないかと言っていたけど、やりませんか?」と宗さんが誘ってきた。
「食事をしてからお邪魔しようよ。」
「では坂戸さんにその様に連絡しておくよ。」
「了解。前の喫茶店で食事をしてゆきません?」
「それでは先に行っていてください。すぐ行きますから。」
「では、先に行ってますよ。」
と言って、前の喫茶店に向かった。
 しかし、頭の中には、先ほどの感覚、いや幻覚のことを反芻していた。しばらく忘れていた感覚であった。

 京都に住むようになって、初めてのことであった。また冬かと、何年か前、玄啄の光悦寺で起こったことを思い出した。
 坂戸さんは、先に着いていたようで、すぐ始められる様に牌が並べられていた。
「待ってたで。」と坂戸さんの声が聞こえた。続いて藤波さんの奥さんが、お茶を持って顔を出してきた。愛想の良い顔をして、
「お待ちしていましたよー。日曜日なのに出勤ご苦労様でんなー。」

「ロン、また挙がりや、薄くん、今日は疲れているようやな。さっきから、つかまってばかりや。」
「風邪をひいてしまったのかな。炉の制御盤の前に座っていたら、居眠りをしてしまったようで。ところで、坂戸さん。会社の食堂の向こうに台地が競りあがっているように竹やぶになっているでしょう。あの台地の上はどうなっているのか知っていますか?」
と、晃一は先ほどからの気がかりを解消するため、聞いてみた。
 そこに居るだれかひとりでも知っていれば、という気持ちで声に出してみたのであった。
「今は竹やぶと、雑草の平地で、たけのこ畑だけど、かっては乙訓寺の境内だったらしいえ。」と藤波さんの奥さんが口を挟んだ。
「史学科卒だから、お前はこういう話に詳しいかもしれないね。」
と藤波さんが付け加えた。
 更に奥さんは、話を続けた。
「この辺一帯を乙訓郡というだけあって乙訓寺の境内は数万坪もあったらしく、桓武天皇の時代には、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を位置づけたということらしいえ。」
「えっ?乙訓寺ってそんなに古い歴史があるんですか。」と晃一は驚いてみせた。
「うちが知っとんのは、早良の親王の怨霊の話と、弘法大師に関する話との二つだけや。」
と、しばしパイを積む手を休めながら話始めた。
「五、六年ほど前にな、いづ豊で宴会やったときに、そこの主人がいっていたんやけどな、あそこの台地には桓武天皇の時代には、生贄(いけにえ)を祭る祭司場があったらしいんや。」
「なんの為にそんなことしたんやろ。」
と宗さんも話に加わり始めた。
「それがさっき言った早良親王の怨霊の話と関係しているんや。ようするに怨霊を鎮めるために生贄をささげたんやて。」
と坂戸さんが答えた。
 話が一段落したとみた晃一以外の他の二人は、パイをかき回し始めた。
 藤波さんの奥さんが更に詳しい解説を始めた。それは以下のようなものであった。

 早良親王は桓武天皇の実弟で、皇太子であったが、長岡京遷都の翌年建都の長官・藤原種継が暗殺された。 暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁された。親王は身の潔白を示すため断食されたが、十余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路に葬られた。
 その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件一五年後に早良親王を復権、崇道(すうどう)天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。
 今、全国至るところにある「御陵神社」」「春秋の彼岸行事」も早良親王の怨霊鎮めが元になっている。
 また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。
 一方、弘法大師と乙訓寺との関係は、以下のようなものだった。
 弘法大師は、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住した。
 大師在任中、弘法大師と同時に入唐、大師よりかなり早くに帰国していた最澄は空海をこの寺に訪れ、真言の法を教えてほしいと頼んだ。大師は親切丁寧にその法を伝授した。
 在唐期間の短かった最澄はその後も再三空海との交流を深め、二人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えた。
 弘法大師が中国から持ち帰った仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備した。
 大師はこの寺で仏典を研究される傍ら、中国から持ち帰ったみかんの木を栽培したり、狸の毛で筆を作ったりした。みかんは当時、西域渡りの珍果であった。

 その後、半ちゃんで麻雀のお開きとなった。時刻は十時少し過ぎていた。
 藤波家から晃一のいる調子大縄にある寮までは車で五分程度のところだった。部屋に戻って、ヘッドフォンでリリーのLPを聞き始めた。
 つい二三日前に大西さんが貸してくれたものだった。
そして、翌日いつもの様に出勤した。
 会社でも昨夕の登り窯のイメージが消えなかった。
 その焼成炉のところへ仕込んである焼成体の焼き上がり具合を見にいった。この一瞬がなんともいえぬわくわく感であった。
 予想したものが出来上がったか、色は、表面の光沢は、変形は無いか、収縮率は、と一瞬のもとに判断する。舐めた時の感触を参考にするというセラミストがいるということを聞いたこともあった。
 近くに宗さんが寄ってきて、「SNC系は圧電材料の基本組成ですよ。添加物の効果は出てきましたか?」と観た様子を尋ねてきた。
 SNC系とはPZT基本組成、即ちジルコンチタン酸鉛に対しSはストロンチウム、Nはニオブ、Cはクロムで、ニオブを多くすると、いわゆるソフト系PZT、クロムを多くするとハード系のPZTができ上がる。これに更に、ビスマスやタンタルやタングステン、ニッケルやコバルトや鉄を添加する。経時変化特性の改良に難しさのあるソフト系圧電材料の経時変化特性と温度特性の改善が晃一の担当であった。
 材料開発は、理論などなく、実験につぐ実験であった。組成を変化したり、プロセス条件を変化させる検討が全てであった。膨大な実験の量をこなすために実験補助者がいた。調合表は開発者が作成するものの、調合、混合、乾燥、造粒、成型、研磨、圧電特性測定は補助者が行った。   
 補助者は殆どが既婚者の女性のパートのおばさん達であった。
中に未婚者の女性もいたが、殆ど見分けがつかなかった。

 ある時、電極を形成し、分極し、更に分極状態の安定化のための枯化を行ったあとのサンプルを自ら測定を行っていた。両手を使う神経を使う作業であり。測定器のメータを凝視し、位相の針が零をぴったり示す時のもう一つのメータの読みをメモするというものである。
 この頃の晃一は、よく分からないことは、実際に自分で確認しないと気がすまない性質であった。測定は補助者にやってもらうのが普通であったが、圧電のテーマに変わって以来まだ日が浅いので、自ら測定をしていた。
 晃一が勤務していた会社は計測の自動化は世間でも進んでいる方であり、多少コンピュータが使われていたが、そのコンピュータも、当時はパソコンなどという小型で取り扱いやすいものはなく、したがって計測ソフトなんていうものも無い時代で腕づくの仕事であった。
 同じ測定器が二揃い並んでいて、他の測定器は誰も使っていなかったので、測定器の置いてある机に筆記用具を置いて測定していた。
 予定した測定値が出てくると、気がのって来るが、そうでないときは眠くなることがあった。
 測定が終わりかけたとき、隣の測定器を使う人の気配がした。
「薄さん、この測定器使ってよろしいですか?」
「すみません。今それをどかします。」
 彼女は、ゆっくり椅子に座り、測定するサンプルを机の上に並べ、ピンセットで0.5ミリほどの厚さの電極つきセラミック板を挟んで、測定器に取りつけられている治具にセットした。
 その手さばきは晃一はとても及ばないものであり、その手際の良さにしばらく見とれていた。
 見とれていたのは、手際の良さだけでなく、ピンセットを操る指先だった。ピンセットに添えられた人差し指は長く伸び、細く長い小さな行儀の良いルビーのような爪が指の先端に載っている。セットし終わると、晃一がやっていた様に、測定器のメータを凝視し、位相の針がゼロをぴったり示す様にダイヤルを回す。ダイヤルをその指がつまみ、三往復で、ぴったり位相がゼロに合う。
 メータを凝視し、長いまつげがまばたく。薄く小さな唇をぎゅっと噛んだ時が、ぴったり位相がゼロに合う瞬間であることが分かった。
 転職する前の会社の社長が、新入社員全員を京大和という料亭に招待し、芸妓さんをあげて、楽しい思いをさせてくれたことがあった。
 そのときの芸妓さんの一人は姿、仕草、手つき、笑顔、唄はこの世のものではないように思えたが、あの芸妓さんの指先、まつげ、口元とそっくりであった。
 そして前の会社の坂本幸子とも、那智の滝近くの中国風寺院で出会った巫女風女性とも雰囲気が似ているのであった。
 この場に尾崎が居ればきっとその事に否定はしなかっただろう。
 見つめられているのが気になったのか、
「薄さんはいつも何か考えながら測定してはるの?」
と薄い唇を動かせた。目つきはメータを凝視し、指先は相変わらず忙しく往復させているので、晃一は答え易かった。にも拘わらず、晃一は、
「その服きれいだね。その柄自分でえらんだの?」
と普段でも口に出さないような関係のない言葉が出てしまった。
 彼女は肌理(きめ)の細かい白い顔をうっすら染めて、今度は手を休め晃一の方を向いて、「おおきに、うちは勿論好きやけど、代々家に伝わっている特別な意味を持った模様で、その特別な意味は三十歳になった時に親から教わることになっているの。」
「へ〜。さすが京都だね。めったに聞けない面白い話しをありがとう。」
そう言って、そこを離れようとした時、彼女は、
「薄さん。待って。この柄どう思いはる? 昨日夢の中で誰かに同じ質問をされて答えられへんかった。そこでお母さんに聞いてみたんえ。」
「そうですか。その先聞きたいけど、今は仕事中だからあとで聞きたいな。もしその気があれば、仕事が終わったら、六時頃、前の喫茶店で待っていますよ。」
 それを聞いた彼女は少し蒼白になったが、長い睫を下に落して頷いた様であった。
 晃一は、「彼女の着ていた服の柄は、昨日登り窯の向こうにいた女性の着ていた服の柄とまるで同じだ。この偶然の一致は一体何を意味しているのだろう」と独りごちた。
 晃一は約束通り、会社のまん前にある、笹という名の喫茶点で彼女が現れるのを待っていた。
 晃一にとって、話題は一つ、彼女の素性を確認することだった。
しかし、いつまで待っても顔を現さなかった。
そして、八時まで待ったが、結局現れなかった。
よくよく考えてみたら、名前も知らなかった。
「転職し、この課に配属されて、八ヶ月ほどたって、グループのメンバーは、ほぼ全員名前を覚えたと思っていたが、未だ名前を知らない人がいたのか。」
と、晃一は迂闊な自分を恥じた。
 翌日、居室でグループの朝礼があった。点呼がとられ、パートを含め全員出席していることが確認された。
 しかし、彼女の姿はどこにも見えなかった。朝礼はパートの人も参加出来る様十時からはじめられ、全員居ることが確認された、というグループリーダーの小沢さんの話であったが、狐に抓(つま)された気分にさせられた。
 朝礼は、来年度からグループのほぼ全員が八日市工場勤務となる、という話題で、極めて重要なものであったが、晃一はそれをうわの空で聞いていた。
 朝礼後、晃一は宗さんをつかまえて、「今日は本当にパートを含め全員出席していたのかなあ?」
と聞いてみた。
「かなり前から今日の朝礼には全員出席するように根回しされていたことは、薄さんだって知っていたいたでしょう。」
と宗さんは答えた。
 確かにそうである、誰もが自分自身に降りかかる火の粉である。それを皆うすうす知っているので、余程のことが無い限り、欠席することは考えられないのである。
とすれば、昨日、晃一の隣で測定していた彼女は誰だろう。こころあたりを整理してみた。しかし答えが出なかった。そこで、
「圧電振動子の測定をする人は他のグループにも居る可能性ある?」
と、再度宗さんに質問してみた。
「商品技術に居る可能性はあるけど、最近同じ測定器を購入しているので、いちいち、うちのグループの測定器を借りるケースは先ずないですね。」
との宗片さんの返答であった。
 晃一は焦った。京都に居を移してからは、暫くなりを潜めていた発作がまた起こってしまったかと思ったからである。幻想にしてはリアルすぎると思った。
 そういえば、光悦寺でのこと、三千院での出来事、ともに晩秋から初冬にかけてだ。
そして今回もしかり。季節とどう関係しているのだろうと気になった。

         <<< つづく >>>







2008/01/06 22:16:18|物語
西方流雲(33)
           西方流雲(33)

          <<< 34. 嵐の前の静けさ >>>

 この頃の晃一はなんの悩みもトラブルも無い一生のうち最も安穏とした時期であった。
ということは、これから、晃一にとって少しずつ厳しい人生が始まろうとするのである。
 そして、この時期作成した以下の創作詩はその安穏とした時期最後のBGMといえる。

   ♪ 風に吹かれて冬月騒ぐ
           笹の小路の長岡京
     いにしえ薫るこの道を
           歩いて想うこの風は
                甘く、哀しい紫恋風 ♪
   ♪ それは君が僕に許した初めてのくちづけ
           いまは枯葉のひんやり風
     枯葉の川を歴史が流れ
           また今宵を吹く風に
               あなたのことをたずねれば
           今は黒百合、ビロードのなかで
               眼には見えない能登の人
               夢でも会えない能登の人
           明日は野の百合、野原の中で
               私の夢見る能登の人
   ♪ 風に吹かれて冬月騒ぐ
           笹の小路の長岡京
     天神下がりのこの道を
           歩き疲れて着く駅は
               甘く哀しい別れの駅
   ♪ そこは あなたが最後に僕に向けた紫の微笑み
           だけど 今は無色の冬の風 冬の風
     枯葉の川を歴史が流れ    
           また今宵を吹く風に
               あなたのことをたずねれば
           今は黒百合、ビロードのなかで
               眼には見えない能登の人

 11月最後の金曜日(11月22日)いとこの詠子ちゃんが、友達(良子さん)と一緒に京都にやってきた。
実相院、円通寺、三千院(以上は前日)、光明寺、勝持寺(花の寺)、大原野神社、善峰寺(以上は十一月二十二日)を案内した。
 善峰寺の紅葉は初めてだったが、嵐山の景観に劣らないという発見は貴重と思えた。また花の寺の相変わらずの、のどかさも気が休まるのだった。
 そう思えるのは一種の余裕とでも言えようか。三連休ということもあっただろう。なんとなく社会人になった頃のバイタリティを思い出すような元気さを自分に感じているのである。
 その証拠に、その三連休の最終日11月25日には伊丹に行った。別所とテニスをする為である。
 その時点ではとっくに別所は結婚をしていて、帰りに別所宅に立ち寄り、ユニゾン在籍時代行動をともにした人たちの消息を聞くことが出来た。
 その中に橋田さん(さざえさん)のものもあった。まだ独身とのことだった。とすれば二十五歳。「おどまかんじんかんじん」といっていたのを思い出す。多感な女性という思い出が残る。

 そして12月3日(月)27回目の誕生日である。
誕生日というのに、京都御所裏の簡易裁判所へゆくはめになってしまった。車の車庫証明、ナンバープレートの変更の手続きの為、向日市警察署へも行った。平日だった為、有給休暇をとり、まる一日を費やさねばならなかったのである。
 簡易裁判所で罰金が確定した。
しかし何故かこの日、これまでの晃一の心の垢を全て洗い落した感じがした。
 この翌年は晃一にとって多くのターニングポイントと思われることが起こり、彼の母親の予言通りの一年となるのである。

 この時点からその翌々年の五月、即ち、晃一が結婚するまでの月日が、後になって晃一が自分を回顧したとき、嵐の前の静けさの時期と呼んだのであった。
しかし、それは晃一にとっての内面での話しであって、その頃の日本の経済状況は決して生易しいものではなく、労使関係や家庭経済も大きく揺れることになる。
 したがって、晃一のノートには、多くのことが記され、多くの書物の読後感が記されている。
 また日記を記すというより、自分の考えをまとめてみるということに日記が使われたと言っても過言ではなかっただろう。

 仕事の内容もこれまでのポジスタというエレクトロニックセラミックから圧電セラミックスに変わった。
 この技術テーマは、実は晃一がやりたくて仕方の無いものであった。
 これまでの晃一が経験した技術テーマは、前の会社で、先ず、NTCサーミスタの仕事、ついでPTCサーミスタ、そしてその縁で今の会社に転職することになり、最初は同じPTCサーミスタ(=ポジスタ)の開発を行っていた。
 しかし晃一が学生時代に属していた研究室の教授は日本でも著名な圧電技術の先生で、松下電器やTDKでは、一目おかれていた先生であった。
 晃一は卒論はその先生のつてで、実家がある東久留米市の隣町の田無市にあった電気試験所に世話になっていたが、そこで指導してもらった、作土さんと宇野木さんは、国内では強誘電体研究の第一人者で、海外にも広く名が知られていた。
 作土さんは、後の晃一の結婚式の仲人をお願いした人であった。
その強誘電体もどちらかと言うと圧電体に近い材料であった。
 さらに、単に抵抗の温度特性だけが問題になるサーミスタに対して、いろいろな特性が複雑にからみあって利用性に結びつく圧電体は、技術の難易度も高くチャレンジャブルということもあった。
 この技術に触れることが出来たことが、後の晃一の人生の舵取りをすることになろうとは、この時、全く予想もしなかったことだが、“人間万事塞翁が馬“であって、このことがあったからこそ、・・・、と言う面と、このことがなければ、・・・・だったのに、と言う面との両面があり、その様な意味では、晃一にとっての大きなターニングポイントと言えるであろう。
 ターニングポイントというのはその時点よりも後のことがあってはじめて言えることであり、したがって、やりたい技術テーマにめぐり会えた晃一にとっては、順風に属する環境変化とは意識できたものの、ターニングポイントとは全く意識できなかったのである。
 その様な意味でやはり、嵐の前の静けさというのが正しい表現と言えるのである。その様な状況であったので、世間の状況を比較的客観的に見つめることが出来た。

 昭和48年12月10日(月)、即ち、誕生日の一週間後の日記に、社会の平衡状態、ということに関して以下の様に記している。
生活物資の社会的不足現象を解析してみたのだった。

---------社会の平衡状態について考えてみる。
というのも最近の資源不足であるが、総日本人がこの石油不足に危機感を抱かされ、節電、節約が民族的課題となりつつある。
 また、この危機を乗り切るため、種々の生活様式の改善策が打ち出されている。
 日曜ドライブの禁止、日曜日のガソリン販売の禁止、・・・、という様に、旧日本軍が敵地を攻め落とすような気勢が社会に芽生えている様に感じられる。いわば、“社会統制である。
 第二次世界大戦で、外国から資源封鎖され、止む無く戦争に走った。
 その時代と異なるのは、国民の生活レベルが格段に向上しており、高いポテンシャルにある。
 また戦争の悲惨さを経験していて戦争に対する嫌悪度も高いポテンシャルにあるということである。
 同じ課題解決策にしても、これらが負のポテンシャルにあるときは施策の殆どが、さらに悪い(負の)ポテンシャルを惹起してしまいがちだが、正の、精神的ポテンシャル状態にある今の日本人にとって、一見統制的な施策であっても、壊滅的な打撃というところまでには至らないに違いない。
 米の代わりに麦を主食とするというレベルの節倹と、ガソリンの売買を制限するのとでは、生命維持に対する危害までの距離が全く異なる。
 そう意識する“ゆとり“があるし、逆に、家康が生きる訓戒の第一とした”節倹“も本来の人間性を取り戻すためには必要だと思う”ゆとり“もある。
 その“ゆとり”を意識する感覚が、いわゆる“平衡状態、即ち落ち着くべき最適の状態”を放置することになり、いつの間にか本格的なパニックに陥ってしまう。
 節倹はそれほど簡単なものではない。
 節倹はある程度の反省と、ある程度のアクティブな抑制が必要である。
 なかには自分の浪費癖を自らが責め、この様な状況で自主的に節倹を始める人がいるだろうが、平均的には節倹が習慣であるように浪費も習慣である。なかなか節倹意識は高まらないだろう。
 浪費を戒める国民的な合意が必要で、分かりやすい理屈と、標語が必要である。
 そして、その標語に基づいたある程度の押し付けが必要だろう。
そういう標語を無視し、押し付けから逃れ、それを逆手にとった犯罪もどきの行為をする者が出てくるだろう。
 しかし、それを恐れていては何も出来ない。
 晃一には、標語がどの様なもので、ある程度の押し付けがどのようなものか想像がつかないが、その様なことが起こりうることは実感していた。
 ガソリンの供給不足は車の買い控えを助長し、成長しかけている自動車産業の足を引っ張ることになる。
 自動車産業から失業者が溢れ、ガソリン不足どころではなくなる。日曜ドライブの禁止、日曜日のガソリン販売禁止が、その禁止のしかたを間違えるととんでもないことになる。平均的に見て最も無理の無い状態、平衡状態におちつくはずである。

 以上が晃一を取り巻く世情であった。

 仕事がポジスターから圧電へ変わったことは、単に仕事の面だけではなく、宗 睦夫という生涯の友を得るという副産物を得ることになった。
 彼は、晃一が圧電のテーマに変わる前から圧電のテーマに携わっており、晃一が圧電を始めた当初は、殆どのことをこの宗氏より、指南を受けた。それ以来公私にわたり、精神的な支えとなり助け合ってきた。歳が同じということもあるかも知れない。

 晃一は、三十年後、自分を振り返る自分史のようなものを書き始めるのであるが、その程度に年を重ねた結果、不思議な世界を感じるようになるのである。
---天界というものがあり、そこにある通信網、天界ネットワーク、を瞬時に通って、自分にとって大切な人物とのメッセージを交換しあい、思いつき、インスピレーション、慰め、叱り、激励という感覚に形を換えて実世界での思いつき、気分の切り替え、自省、の念に至らせるという、天界に連なる精神世界があるのではないかと感じることがあった-------。

 例えば、仕事や人間関係、体調で厳しい状況にあり、落ち込んだ気分にあるとき、必ずといって良いほど東京の母親から電話があるのである。
 天界には太い中枢の通信網があり、その通信網は自分のところで終端していて、通信網からは何人かの人に回線が通じている。その一人が晃一の母親なのであるが、友人の何人かが、その回線の終端となっているような感じもしている。

 宗 氏は、伊丹の地で、互いに最初に社会人として共同生活を送った尾崎、斉田、戸津らとともにその回線の終端となっている一人であると言える人物なのであるが、この物語が進行しているこの時期は、その様な感覚は無かった。
 行動をともにすることが多く、一緒にパチンコ、マージャン、ドライブと独身時代をともに謳歌した、と言える。

 そして、この年、1973年も師走になった。12月15日土曜日にユニゾンテニス部の忘年会があった。
 出席者は、別所、倉原、鹿島、塩崎で、紅一点井上さんが参加した。尾崎は欠席だった。尾崎が少しづつ遠い存在になっていくような気がして仕方なかった。
 別所のところに初めての二世が誕生の予定ということで、めでたいことであった。晃一の親しい友人たちの中では始めての快挙である。
 ユニゾンの男子寮のトイレに拳骨で大きな穴ぼこをあけてわめいていた男が、・・・・・と、思わず噴出したくなってしまった。
自分はと言うと、大地に根を下ろしていない。迷いが見られる、と自分を責めざるを得なかった。
 晃一もすでに27歳、適齢期中の適齢期である。しかし、身の回りに適齢期の女性が居ないかというと決してそんなことは無かった。

   ♪木枯らしの吹く冷たい舗装道路
    その上を歩く、男たち、女たち、大人たち、子供たち
    聞こえるのは、ただの枯葉が道を転がる音のみ
    どの流れと同じ方向へ、又は逆の方へ
    何の音も発しない点が動いている

    それが、彼らの目的地に辿り着くと、
    また、感情のある人間となり、
    物を言い、者を聞く
    まるで道路の上を木枯らし風に転がされるように
    黒い物理的には小さな一点だったのに
    そしていつか雪が舞い、
    規則的な白いスペックルの流れが
    時折黒い不規則な流れとその行く先で交差する

 この年1973年も残り十日に迫った。
ただでもこの時期は人々の気持ちをせわしくするのに、この年は拍車をかける様に益々忙しい気持ちにさせる様な出来事、現象が起こった。

 ここまで来てしまったかということを、ポジスタの八日市工場担当者と仕事の合間の立ち話で聞いた。
曰く、「最近、洗剤を使わないのに、買い貯めしているんですよ。」
晃一は「どうして?」
曰く、「近くの雑貨卸売りにすすめられているんですよ。」
彼は、別に特別変わったことをしているわけでは無いという雰囲気で話をしていた。
 また、会社の帰り、時々寄る店で、パンを買ったが、その店に、他の一組の夫婦の客がいて、牛乳や洗剤等の買い物をしていた。
客曰く、「海苔二つ。」
店主、「うちで使うものだけはのこしておかねば。また近いうちに値上がりするだろうな。」
客、「マア、それなら値上がりする前に買って置こう。」
店主、「どうも、どうも」
 庶民というのは、このようなものかも知れない。商品とともに、この様な会話も流通して、不安を助長するのだろう。
 この会話は商店にとって都合の良い話で、そのまま売り上げの増加に繫がるだろう。
 言ってみれば、売上高を増加させるという商店本来の目的を抑制する対策が無い限り、消費者の買占めによる物価の高騰は終わらないのではなかろうか。
 店主に、「必要以上に購買を促してしまう言動は慎むように」と言っても無理だろう。
 一人一人の人間が、自分の言動が他人に及ぼす影響を、少しでも不安や不信を募らせるような慎むという気持ち、精神が庶民の道徳として芽生えないと物価の高騰は収まらないだろう。
 果たして自分はどうだろう。普段会社の中で、同じような言動を繰り返していないだろうか。考えてみると自信がないというのが正直なところであろう。

          <<< つづく >>>







2008/01/04 22:13:40|物語
西方流雲(32)
             西方流雲(32)

       <<< 33. オイル・ショック >>>
 
 そして再び薄晃一(うすきこういち)の身辺に戻る。
時は1973年のことである。ついでながら、薄 紅蓮、呉 東伝の日本滞在は6年目になる。

 晃一にとって、この時期の生活ほど、晃一の骨格を作ったことはなかった。伊丹で生活した頃の時期を起承転結の“起”の時期とすれば、この八日市での生活から四十歳前後までの時期は“承”の時期に相当すると言える。

 この年の秋、アラブの石油供給削減即ち、第一次 オイルショックがあり、日本経済は致命的影響を受けた。
政府の石油緊急対策に基づき、省エネ、ガソリン主要企業は石油、電力を十%削減。百貨店・スーパーでは 開店を三十分繰り下げ、石油スタンドの中には一 回に十〜二十リットルまでの供給制限するところも出て、マイカー族らに大きな影響を与えた。
 モノ不足とインフレが激化。トイレットペーパーパニックが起こったりして、これほどまでに一般庶民の生活に具体的な影響を受けたのは、戦後初めてといえるのではないか。
 当然この余波は晃一らにも降りかかるのであった。

 この年の夏は暑く琵琶湖の水面が何cm下がった、というニュースが毎日耳に入ってきた。
 晃一が身を寄せている寮は、アパートを借り上げた寮で、六畳間二つとユニットバス一つと、台所一セットという間取りで、ここに二名が住んでいた。
 部屋は六畳で、そこに、前の会社にいたときに購入したステレオ装置はあったが、TVは持っていなかった。
 そして壁の上の方には黒いアクリル板の上に金色の文字が刻印された柱時計がかかっていた。

   黒い時計の文字盤を
   金色の針が走る
    一秒間に刻まれる時間
    一分間に刻まれる時間
    一月に刻まれる時間
    一年に刻まれる時間

   自然界の現象は時間に対して対数的に変化する
   しかし人の心や意識は時間に対して直線的に変化する
   ・・・・かどうか、

   自然界の現象は時間に対して連続的に変化する
   しかし人の心や意識は時間に対して不連続的に変化する
   ・・・・かどうか、

       地震
         自信
           自身

   一睡後の人間の気持ち
   熱病から快癒後の気持ち

   自分を偽れる人間である自分
   悲しいものよ


 この年の秋、晃一のところには多くの訪洛者があった。
 九月中旬に両親、翌週には別所とかれの親戚の女の子、前週十月七日(日)には大学時代の親友の磯貝、そして十月十四日には晃一の弟が会社の仲間の友人数名とのドライブ旅行で、京都にたち寄ったので京都の街中で会わないかとの話であった。
 その時、ドライブで一緒だった弟の仲間の姉を紹介された。和歌山県新宮市の出身の娘とのことだった。
 晃一は、何故もう少し彼らを歓待して上げられなかったのか、と時計の針を追いかけながら考え悔んでいた。
 丁度、山岡荘八の「徳川家康」を読んでいるときであって、人間の器量ということが気になっていただけに、自分の人間の小ささに情けない気持ちに陥った。
 両親に対しても、もう少し歓待の気持ちを前面にだしても良かった、と後悔していたのだった。

 十一月十一日の日曜日、奥山寮に帰寮したのは、午前二時頃であった。
 門真を出たのが十二時頃だったが、二時間もかかってしまった。
途中で道を間違えてしまったのだ。
 高槻まではスムーズであったが、途中171号線から大山崎の山間へ入っていってしまったのだ。大山崎の山の中へ入ってからは夢のようなドライブであった。
 東山の満月と京都の深夜の灯火(50万ドルの夜景)といっためったに見ることが出来ない光景を見ることができた。そして山裾に出て、乙訓神社の横を通り会社の傍らに出てきた。

 門真へ行ったのは、学生時代の友人の埜々村欽造に会うためであった。
 すぐ寝付けなかったので、ヘッドフォンをつけてステレオを聞き始めた。
「なぜ、そんなに音楽がすきなの?」
と不意に闇が語りかけてきた。
「とくに和音、ハーモニーが好きだ。」
と答えにならない声を闇にむかって呟いた。
「CやF?、それともAマイナーやEマイナー?」
と闇は更に問い掛けてくる。
「疲れているときはAマイナー、陽気なときはC、反対だったかな」
と晃一は自信の無い答えをやみに向かって投げ掛けた。
「不協和音てやつは肌に合わない?」
「そう、肌はずーっと和音に慣れてきた。だから心地良いが、もし肌がずーっと不協和音に慣れてきていたら、きっと不協和音の方を心地よい和音とするに違いない。」
「それがわかれば良い。不協和音を奏でる輩を拒絶してはならないよ。」
「不協和音を奏でる輩とはビートルズのこと?」
「そう、彼らの歌は、歌詞を読み取ることが重要だよね。」
「ところで、生まれて初めて聞いた音は心地良くない?」
「初めて聞いた音でも心休まる感じがしたり、郷愁を感じたりすることがある。」
「心休まる音って、どの様な音?」
「中国風のドラとともに始まる曲、シエラザード、支那の夜というどちらかと言うとエキゾティックな感じのする音楽だね。那智の滝の近くにあった中国風寺院で耳にした音色は未だに耳に残っている。また、それを聞けば郷愁を呼び起こすに違いない。晃一の母方の祖父が支那文学の専攻であったということなので、隔世遺伝かも知れない。」
「なんで、その様な話題になったの?」
「自分がギターを持っていって、聞かせてあげたからだと思う。」
闇は今度は話題を変えて語りかけてくる。
「ところで、門真まで何をしに行ったんだい?」
「埜々村の下宿に行ったんだよ。」
「何しに?」
「昨日は久しぶりに彼と話をしたけれど、何か最近、彼の身にこれまでと違った心境が芽生えている雰囲気がした。運命とか人生の節目とか人生観的な話題になったからね。」
「それで帰りが遅くなってしまったのだね?」
「うむ。その様な心境になっている原因は二つあるようで、一つは仕事に関連して、もう一つは結婚のことのようであった。仕事の方では、最近、中央研究所の組織変更があり、同僚の殆どが事業部に移籍したのに、自分は中央研究所に在籍のままだ。一体会社は自分をどの様に評価しているのだろうという不安感が鬱積しているようだ。結婚の方は見合いの話が進行中とのこと。どちらに転ぶにしても自分の気持ちが不明確で、気持ちの整理がなかなか付かないということらしい。
 そんななかで、彼の作った詩は、以下の様なものだよ。

        埜々村欽造作詞
   「光の影のもとで」         1973.11.10

      いつしか夏の陽射を忘れ
      きらびやかな紅の衣なる樹々の間から
      寄り添う二つの影がつくりし枯葉の上に
      柔らかく落とし続ける光の影

      飽く迄も透き通りし青空が奏でるヴァイオリンの
      ストリングスの響きに
      そっと耳を澄まして
      光の影のもとで夢路に入る

      いつしか秋の陽射を置き忘れ
      白い絹の衣なる樹々の間から
      二つの赤いトンガリ帽子が描きしシュプールを
      柔らかく溶かしつづける光の影

      また邂逅う時も
      あの柔らかい光の影で

という様なものだったよ。」
「晃一君。君の方は結婚のこと考えているかい?」
「今は、『徳川家康』全二十六巻を読みきるのに精一杯だよ。やっと十四巻を読み終わったところだ。」
「大政所の死、朝鮮出兵の失敗、秀頼の誕生、三成の画策のあたりだね。」
「萩谷の結婚式に『キョウトノコウヨウモアカクソマリフタリノゼントヲシュクフクシテイル』という電報を打ったよ。470円だった。」
「自分の場合は、誰が相手になるかな。テニスの帰りに車で自宅近くまで送っている、阿佐井、植国、菅原、大西、田上、のうちの一人かな。ただし大西さんは戸津が気にいっているから駄目だ。会社の先輩はこの中から決めろ、というが、そう簡単には行かないヨ。」
「前の会社に気に入ったのは居なかったのかい?」
闇はしつこく聞いてくる。
「前の会社といえば、そんなことより、火災のあと、立ち直っているかというほうが気になるよ。社長がどの様に決断するのかも気になるね。」

「話を脱線させてはいけないよ。話を君自身のことに戻そう。血圧が高いと診断されたらしいではないか?」
「先日の社内検診で、血圧が上158、下は85で、しかも心肥大と診断され、京都市内の病院に精密検査に出かけた。しかし診断結果は、左利きでテニスをやる人は心臓が中心に位置するようになり、それが横からのX線検査で心肥大として撮像される。
血圧も運動する人は時に自律的に血圧が高くなる。
診断の結果は全く心配ない、というものであった。
それよりも兄弟の中に腎臓を悪くしたのがいるので、その方が心配だ」

 後に、晃一は厄年をすぎて脳梗塞から始まり、境界領域糖尿病、狭心症、リュウマチといった重大な病気になり、特に狭心症では冠状動脈にステントを留置する手術をし、一生ステントの御世話になるのだが、このときの診断は晃一に健康に関する油断をさせることになってしまった。
 晃一にとって、どこにどのような病院があるかなどということは全くの関心外のことだったのである。それが健康というものなのであろう。
 この時期晃一は、体力だけは誰にも負けない、という自信を持ち合わせていて、病院が近所の何処にあるかということなど全くの関心外であった。
 少しばかり体調が悪くても、睡眠の取りすぎとか、前日飲みすぎ、水分の取りすぎという原因にして気にしなかったのである。
 特にテニスをして発汗で失った水分以上の水分をとってしまうのが原因と考えてしまうことが多かった。
 また、テニスのプレー中足が痙攣することがあったが、単に緊張のしすぎということでかたづけていた。

 また別の日、晃一は闇に語りかけていた。
「最近インフレが、少しずつ進行していると思うが、原油の値上がりがもとになった供給不足で、生活物資の値上がりが起こっているのかね」
 闇は、
「それが原因なことは確かだ。インフレを下手に処理すると敗戦に劣らない歴史的屈辱を日本人が味わうことになってしまうかもしれないね。」
 闇は悲観的だ。
「今回のインフレがどうしてそういうことにつながるのかい?」
と経済学に疎い晃一は尋ねざるを得なかった。
「日本人が世界に誇れることはどんなことがあると思う?」
「最近の経済発展かな。これだけは世界に対して優越感を持っているのでないかな。」
「正しい見識だね。それを最も強くもっているのは政財界人だろうね。別の見方をすると、敗戦体験者と言っても良いかも知れない。」
「しかし、そのような優越感は今は良いが、経済発展が停滞し、他国に追い抜かれてゆくと、こんどは劣等感に転ずるということになるね。」と晃一は暗い見通しを暗闇になげかけた。
「そう、現在の経済発展の形をそのまま将来に展開すると、結局日本人の精神的汚濁をもたらすだろう。犯罪が増加し、愚痴、ぼやき、賭け事が充満した国になるだろう。」
「その様なときに天変地異がおこらないとも限らないし、もしそんなことが起これば、大パニックを通り越して、民族的諦観、逃避を引き起こし、最悪のパターンは、長い間の精神汚濁が戦争の恐ろしさを忘却させ、歴史的錯誤を日本人が再び犯すことになろう。」
「どうして経済発展の停滞が起こるの?」
「一本調子の発展など、どんな場合にでもありえない。人間の成長と同じだよ。肉体的成長、精神的成長いずれを見ても、一時期成長することがあっても、いつかは停滞する。
 どうしてその様な停滞が起こるかということだが、経済発展というのは、国民一人一人が自由に回せるお金が増加してしてる状態、すなわち生産量が増加している状態を言うのだろうが、使えるお金が増えるということは、品物の供給以上にそれを需要する量の方が増えると言うことであり、行き着くところは品不足。
・・・となれば、品物の奪いあいとなり、物価が上昇する。
物価が上昇すると買い控えが起こり始め、製品がダブつき生産抑制(減産)が起こる。物価上昇が起こっても、それに見合う収入増があれば、両者追いかけっこをしながらもある時期経済成長する。」
「その様な経済成長というのは問題があるのでは?」
「特に物価の上昇という面では問題ありだね。実態の無い利益や損失が生じ、その利益や損失は、新たな投資先を探し始め、実態の無い経済が動き始める。
 いわば、砂上の楼閣で、砂場の一角が崩されると、連鎖的に、全壊し、何もなくなってしまう。その時の経済担当者の自信は大きく崩れ、それが国民の自信のなさにつながり、国そのものの活力が低下してしまう。」
「それが結局国民的モラルの低下につながることになるわけね。」
 その様な闇との対話が多くなってきた。

 そして秋は更に深まり、紅葉のシーズンたけなわとなってきた。
紅葉と菊は秋の象徴であるが、この季節になって素晴らしさが加速するのは、大山崎の山の稜線が、赤から青へのグラデーションとなった夕刻の西の空に真っ黒に浮き上がった時である。
  
       <<< つづく >>>







2008/01/04 12:11:41|物語
西方流雲(31)
             西方流雲(31)

        <<< 32. 紫陽花を愛する人の死 >>>

 そして更に半年がすぎた。時は1968年春である。
この頃、晃一は大学三年生で、大学でテニス部のキャプテンをしている。
また、海外ではベトナム戦争と、国内では大学紛争と二つの争いが新聞の記事として目立ってきた。


 新たに加わった紅蓮の無償の仕事は、朝刊をホチキスでとめ、店の入り口の新聞架けに括ることであった。
 紅蓮は、ただホチキスでとめるだけではなく、紙面に少しずつ目を通す様になっていた。最初は写真を見るだけであったが、日本字に慣れるにしたがって、見出しをも読むようになり、世の中の動きが見える様になっていた。
     
 新聞で、この二つの争いを知るにしたがって、店の女主人、何秀麗の話を思い出すのであった。
 争いの当事者たちは、お互いを知らないことを知らないのだ。お互いの何を知らないのだろう?と自らに問いを発してみたが、まだ、日本に来て一年も経っていない彼女に分かるはずがなかった。
 彼女に代わって、二つの争いのうちベトナム戦争を、前年から就職が内定した今年にかけて、報道されたベトナム戦争に関する出来事を報告すると、

1967年:
1月 米大統領一般教書でベトナム限定戦争続行の意志を明示。
3月 北ベトナムはベトナム問題で直接会議を求めた米と北ベトナム両大統領の往復書簡内容を発表。北ベトナムはウ・タント国連事務総長の和平提案を拒否
4月 ラスク米国務長官が非武装地帯からの撤兵を提案。
  北ベトナム同案を拒否
5月 四月末からベトナム非武装地帯周辺で激戦、米海兵隊がラオス国道沿いの八八一高地を占領。米、南ベトナム軍は非武装地帯南半分に進入、掃討作戦を開始 
6月 ソ連・タス通信は二日、米機が北ベトナムでソ連船を爆撃、七人が死傷したと報道
  米・グラスポロで米ソ首脳会議、中東・ベトナム・核防問題を  討議、世界大戦回避で合意
7月 ベトナム沖で米空母フォレスタルが火災、132人死亡、63機損壊はベトナム戦最大事故
8月 米大統領、ベトナム派遣軍の45000人増強と所得税の10%増税を議会に要請した。
  北ベトナムは防衛、生産部門の要員を除く全民間人を疎開させる布告を出した
9月 南ベトナム大統領選でチュー国家指導委員会議長とキ首相の軍人組が当選した
  米は南ベトナム非武装地帯の南に、北からの浸透を防ぐ防止網設置を決定
10月 サイゴンの米軍司令部はベトナム戦争による米軍死傷者総数が十万人を突破したと発表
  全米でベトナム反戦週間始まる、二十一日国防総省前は最大、  今回のデモで681人が逮捕
  米軍が北ベトナム最大のミグ基地、フクイェン飛行場を初爆撃、北爆はさらに拡大した
11月 米軍がベトナム戦最大の死闘でダクト875高地占領、二十日間で死者249人、負傷873人
12月 大統領がローマ法王とベトナム和平解決策で会談
1968年:
1月 ベトナム正月停戦終了、北爆再開
2月 南ベトナムの「民族平和連合」がサイゴンでベトナム問題解決のため宣言を発表
  解放戦線が南ベトナムの47カ所で第2波攻撃を開始
3月 UPI通信カメラマン峯弘道氏が南ベトナムで殉職、日本人報道関係者で初めて
  ジョンソン米大統領「北爆を一方的に停止」と北ベトナムに和平交渉を呼びかけ、大統領選不出馬を表明
4月 南ベトナム民族民主平和勢力連合が大会宣言と中央委員メンバーを発表
5月 米、北ベトナムのベトナム和平会議は、パリの国際会議センターで手続きを問題を話し合うことから始まった。
  グエン・バン・ロック南ベトナム内閣が総辞職
  ベトナム第六回和平会議で北ベトナムは戦闘の相互抑制を拒否
7月 米、南ベトナム両国大統領がホノルルで会談
8月 南ベトナム18カ所で解放戦線と北ベトナム軍が攻撃開始
9月 ベトナム帰休の日本人「米兵」脱走とベ平連発表
10月 ジョンソン米大統領「北ベトナムに対する空、海、陸からの一切の攻撃を停止」と発表
11月 北ベトナム、南ベトナム解放戦線がベトナム和平拡大パリ会議参加を受諾
   パリの米代表部、ベトナム和平第一回拡大会議は無期延期と声明
   南ベトナム政府は拡大パリ会議に参加すると発表

となる。この年の三十五年後、今度は中東、イラクで類似した戦争が起こることになるが、人間というのは、斯くも物忘れのひどい動物で、戦争の悲惨さを記憶にとどめられないものであろうか。

さて話は戻る。
 この朝刊をホチキスでとめ、店の入り口の新聞架けに掛ける仕事も紅蓮にとっては日本字を覚える良いチャンスであった。字を覚えると記事に関心が持てるようになってきた。

 そして、また夏が来て、紅蓮が日本に来てちょうど一年という月日がたった。紫陽花の季節になった。
 そして、紅蓮は中村美恵子の自宅を、紫陽花の花を貰い受けるために訪れた。今度は、彼女の母と笑顔を交えて挨拶くらいは出来るだろうと期待していた。しかし、期待は見事に裏切られてしまった。
 またもや彼女の母は全くの無表情で紅蓮を一瞥したのみで、むしろ前回よりも機嫌が悪いように感じた。
 自分に何か行き届かないところでもあるのだろうか、と紅蓮はさびしい気持ちになった。それとも店の女主人何秀麗の話は嘘か人違いなのであろうか。いくら考えても答えが出てこなかった。

 暑さが最高潮に達しているのではないかと思わせる様なある日、久しぶりに、呉東伝が顔を出した。相変わらず仙人のような風貌の呉東伝は、この暑さでも汗一つかかず、それを見た店の同僚は、「あの人は本当に仙人に違いない、中国ではどんなことやっていた人?」と不思議がっていた。

 呉東伝は紅蓮とは離れて、芦屋にある古物商の斉藤栄爾の店に身を寄せていた。
 仕事といえば、時折斉藤栄爾の店に運び込まれる中国物の骨董品の目利きをすることであった。簡単なコメントを言うだけでよく、仕事と言うほどではなかった。
 斉藤栄爾は東伝が自分の店にいてくれるだけで、箔が付くような感じがしていた。自分の娘を託すことの出来るほどの人物はそう多いものではない。また、その娘もしっかりした賢い娘で、紅蓮を預かっている女主人の話では、ものごとの理解が早く、しかも思いやりや気遣いも感心するほどとのこと。
 きっとしっかりした親で、その親が、娘の将来を託し、しかも路銀ということで、極上の骨董品を預けられている。それほどの人間が悪人のはずが無い、というのが、斉藤栄爾の東伝を観る目であった。

 中国物の骨董品が店に入荷の無い日は、東伝は暇であった。

 そこで、その様な時は、古本屋を訪れ、古い時代の中国と日本の交流が記述されている書物を買い集め、それによって紅蓮と、自分自身の日本に於ける身の処し方を思案した。

 紅蓮は、久しぶりに中国語で会話をする相手を得て、思う存分、これまでの生活ぶりを報告した。
 東伝は、話を聞きながら、紅蓮の成長ぶりに目を細めた。
 日本語のレベルも東伝を追い抜くのは時間の問題と思われるほど上達していた。

 紅蓮は、必ずや日本と中国との架け橋になる人物に成長する予感がした。しかしながら、何の架け橋になるのかは東伝には皆目見当が着かなかった。東伝はかって夢の中に出てきた、崑崙の仙人の言葉、
「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。ここからはお前の番だ。青い色の璧の所に舟をつけよ。そしてみつけたら同じ事を言え。そして更に東に向かうのだ。」という言葉を一度たりとも忘れたことは無かった。

 東伝から伝える話題を特別に持っていたわけではないので、
「今日は紅蓮ちゃんも店が休みらしいので、一緒に大阪へでも行ってみないか?」
と誘ってみた。
 たとえはぐれたとしても、道順を聞くに不自由しないくらいに日本語が上達していることが分かったからである。殆ど買い物はしないし、衣食住にかかる経費が一切ないので、毎月の給料の分が積もってゆくのみであった。
 紅蓮は読んで見たい本があったので、大きな本屋に行きたいと思っていた。中国語の本はないにしても、日本語で書かれた本はあるに違いない、と読んでいた。「西遊記」だった。「封神演戯」、「水滸伝」と並び、中国では三大演戯と呼ばれていて、多くの人に愛されている本であった。日本でも「孫悟空」として広く愛読されているとの話である。
 紅蓮は「西遊記」の地方神が登場する場面が好きというより気になる場面なのである。それは、紅蓮が母蕾蓮、父鉦渓と離れ離れになるときに、父鉦渓は紅蓮に、
「三蔵法師が天竺に行くときに菩薩に命じられて三蔵法師に危難がふりかからない様につかず離れず三蔵法師の身を守った地方神がいたが、同じ様に、お前にもお前の身を常に守ってくれる神がいるはずだ。四六時中一睡もしないで神たちはお前を守ってくれる。」
と言って送り出してくれたことを思い出したのだ。
紅蓮から、久しぶりの中国語で。

「大阪には大きな本屋さんあるかしら。」と聞いてみた。

「それはあるさ。日本人ほど読書好きな国民はいないと言われるほどだよ。」
 その様に答えた東伝自身も、書物、特に日本の古書に興味があり、東伝が間借りしている古物商に古書を持ち込んだ客が店主と話しをしていたのを漏れ聞いていたのであった。
 その客は実は雑誌回収業者で、時々、雑誌に混じって、古書としての価値がありそうな書籍が混じっていて、それを10kg程度まとまると、古物商にもってきては、どんなに安く値踏みされても換金して帰ってゆくのであった。
 その客の話では、毎年春と秋に二回、梅田の阪急という名のデパートで古書市が開かれるというのだった。その開催日が丁度この日だったのである。

 しかし、この日梅田まで足を伸ばしたものの、余りもの人込みの多さにき、疲労困憊し、梅田で簡単な食事をしただけで帰ってきてしまったのであった。
 また、やすらぎを覚えるはずの植物がまるで無いのにあきれてしまい、簡単な食事をしただけで帰ってきてしまった。
 思った以上に梅田が近いことが分かり、行くチャンスはいくらでもある、ということが分かっただけでも収穫だった。しかしながら、電車の中の暑さには我慢できないほどであり、日本人は本当に我慢強いと思った。
 また、日本人の歩く早さにも驚いた。殆どの日本人が前傾姿勢で斜め下を見つめながら、深刻な顔をして歩いている。そして都心に近づくにつれ、前傾の角度が大きくなってゆく、というのが、紅蓮と東伝の共通の観察であった。

 その様なことがあったが、梅雨の季節がはじまり、また紫陽花の花の便りを耳にし始めたころのことであった。この日、今シーズン最初の紫陽花の花を花瓶に生けるところであった。
 まだ花が咲いているというにはほど遠い、みかん色の小さなつぶつぶ状態の紫陽花だった。一つの枝に三つの花輪がついていた。この枝を花瓶に挿そうとしたとき、三つの花輪のうちの一つが訳もなく、ポトリと花輪の根元から離れ落ちてしまった。
 床からその花輪を拾おうとしたとき、そのみかん色の小さなつぶつぶがポロポロところがり落ちてしまった。花を咲かす前に枯れ落ちてしまったのか、と少し気持ちを暗くした。

 紅蓮はいつもの様に、朝刊をホチキスでとめ、配架しようとしているとき、女店主の悲鳴とも聞こえるけたたましい声がした。
 一体何がおこったのか、心配になった紅蓮は、店の奥の厨房の更に奥にある女店主の部屋に向かった。
 受話器を右手に持ち、左手で額を叩いていた。悲しみに暮れていることがすぐに分かり、彼女の身の周りに不幸が起こったことが読み取れた。

 紅蓮にとっては、紅蓮たちが、文革の嵐に巻き込まれ、中国を脱出する直前に、紅蓮の父鉦渓が見せたあの表情以来の悲痛に暮れた顔であった。

 紅蓮は、
「おかあさん。どうしたのですか?」
と尋ねてみた。すると、
「今、恵美子ちゃんから電話があってね。・・・・・恵美子ちゃんのお母さんが亡くなったんだって。」
「えっ?どうして?」
と紅蓮も急に暗い気持ちになった。
 いつかは、紅蓮に向かって笑顔を見せてくれるはずという目標を持っていただけに目標を失った感じがしたのである。

 これまで中村恵美子の紫陽花の家を五回は訪れただろう。いずれも店に飾る紫陽花を貰い受けに行くためだったが、今度こそは中村恵美子の母の笑顔を見られるに違いないと期待して行っても、その度ごとに、期待を裏切られ、いまだ笑顔を勝ち取ることは出来なかった。
 あるときは、前の時におみやげを持ってゆかなかったのが、いけなかったのかと思い、小遣いを奮発して、ケーキをおみやげにもって行った。しかし、中村恵美子の母の顔はむしろ前回より愛想が悪いように見えた。
 またその次の訪問では、ケーキなんて土産では満足しないのだろうと思い、中国江南地方名産の、年画、桃花鵜(とうかう)を持っていった。
 しかし、この時も前回同様紅蓮の前に姿を現したものの、その表情に笑顔は無かった。この時、自分のふつつかな気持ちを、贈り物で誤魔化すという行いをたしなめられた様な気持ちを持ち、反省したものだった。
 
 またある時は、もらい受ける分以外に、もう一束紫陽花を余分に裁断し、中村恵美子の母に手渡そうとした。彼女は受け取ってはくれたものの、嬉しそうな顔というより、紅蓮を哀れむような、寂しそうな顔で苦笑いしていたことを紅蓮は鮮明に覚えていた。 
 たとえ一輪の花であっても、余分な存在であるはずがなく、みな平等に咲き誇っていて、平等に咲き誇る理由があるのだ。その理由を摘み取ってしまったことを、その無表情さで注意してくれたのだろう、とその日店に戻り、花瓶に飾られた紫陽花に目を遣ったときにふと気がついたものだった。

 この様に紅蓮は中村恵美子の母と会うたびに無言のメッセージを受け、そのたびごとに自分の不足したもの、自分が知るべきものに気が付かされるのだった。

 その人が亡くなったという報を紅蓮は信じられなかった。死因は交通事故とのことだった。一切家からに外に出ないはずなのに、何故交通事故にあったのか不思議で仕方が無かった。
 中村恵美子から女店主何秀麗への連絡では、痴呆症だったので、意図せずに外に出てしまい、路上を徘徊しているうちに車にはねられてしまったのではないかとの推測だったが、娘の中村恵美子にしても真相は掴めてないようだった。

 昨日の午後、紅蓮らと店でいつもの様に働いていた中村恵美子に最初の連絡があり、駆けつけた病院には、相手の車の運転手はじめ、近所の人が見舞いに来ていた。
 中村恵美子にとって、一歩も外に出たことが無い母が、何故外に出てしまったか不思議でならなかった。ところが、その近所の人たちの話では、
「いつもは、安全を確認しながら、町を歩いていたのに、今回はどうして気をつけられなかったのだろうか。」というもので、中村恵美子には信じられない話であった。実の娘が知らないことを何故多くの他人の方が知っているのか?
 多くの他人の方が知っていることを何故実の娘が知らなかったのか。中村恵美子にとって二重の胸の痛みであった。

 今日の明け方には、少し意識が戻りかけ、中村恵美子から女店主の何秀麗に、
「快方に向かっているので、危機は脱したようだ。」
と一度は連絡があったのだった。

 その日の神戸新聞の夕刊に、中村恵美子の母の死を悼む多くの談話が書き込まれた記事が載った。
 紅蓮は、目を皿の様にしてその記事を読んだ。知らない文字はたくさんあったものの内容を殆ど理解することが出来た。それを後日東伝に話した内容は以下の様なものであった。

 その日はどんよりとした灰色の雨空の日で、その雨空を映した生田川の上を、国道二号線のバイパスが交叉し、橋がかかっていて、その橋を新生田橋と言う。
 そして、広々として交通量の多い二車線の車道を挟む様に歩道が設けられている。
 山すそから少しずつ下る様にして架かっている新生田橋のその歩路を一人の老婆が。いつもの様に、坂を登る方向にゆっくりと歩いている。見ると片手に白いポリ袋をぶら下げている。

 実はこのおばあさんを多くの通行人が目にしていて、最初は一体何をやっているのかといぶかうのだけれど、何回か目にするうち、道に落ちているゴミを拾い集めている善行の主であることが分かり、その姿に胸を打たれない人は少なかった。
 そして、腰を大きく曲げてわき目もくれずに一つ一つゴミを拾う姿は、通り過ぎる人たちに、忘れ去った大事なものを思い出させるひとときを与えてくれるのであった。
 その話が口コミで広まり、この界隈を通りすがる機会の多い人にとっては、日常の光景と言っても良いほど有名な話になっていた。
 しかし時に歩道から車道に降りて、溝のゴミを拾おうとしている時があり、その様なとき、そこを通りすぎる人たちは、車に気をつけて下さい、と心から安全を祈るのであった。

 夕刊には次の様な通行人の談話が掲載されていた。
「そのおばあさんの風体だけど、一度みれば誰でも記憶に残りますよ。というのも、頭が地面についてしまうと思うほど腰を曲げながら歩いているのです。
 最初は片手に持った大きな白いポリ袋の中身が気になりましたが最近は気にならなくなりました。中に何が入っているか分かっているからです。
 路上に捨てられた、たばこの吸い殻を一生懸命一つ残らず拾って歩いていたのが分かったからです。」
「中には、そのおばあさんは吸い殻をすう為に拾っていると思ったのです。私自身最初はそう思ったくらいです。毎日、頭が地面に着く位に腰を曲げて拾っては白いポリ袋に入れ、拾っては白いポリ袋に入れ続けていたのです。」

「その日は五、十日であり、トラック等の業務用車両の往来がいつもより多かった
 今度は、拾っているものが煙草の吸い殻だけでないことがはっきり見えました。紙屑、空缶、新聞のちらし、その日の白いポリ袋は前回より大き目だった様に見えました。

 はじめは、そのおばあさんは、自分と同じ町内に住んでいるのだ
と早合点しました。
 なぜなら、更にその後もあちこちで見かけたのです。
 勿論、白いポリ袋を持たない姿を見たことは有りません。
 あまり何度も姿を見掛けるものだから、このおばあさんについ、次の様なことを考えてみたのです。
 腰が曲がってきたので、自分の出来る最後のボランティアとして、ごみ拾いをしている。いや、そうではなく、ごみ拾いをしているうちにいつの間にか腰が曲がってしまった。
 最近は、このおばあさんの姿をみると、何故か元気づけられるのです。黙々とごみ拾いをしている姿をみると、私達に一生懸命何かを訴えかけている様にも見えます。
 なんの為にそんなことをしているかと聞いたら、多分「自分の余生で、他人の為に出来る事をしているだけ」と答えるでしょうが、新生田橋で見たおばあさんの姿はむしろ「執念」と言う感じがしました。
 何故なら、普通の老人だったら、どんより曇って、今にも降ってきそうな空の下を歩き回ること自体控えるし、おまけに、山すそから新生田橋までは、普通の人普通に歩いて二十分はかかる距離なのです。
 そして坂を登る方向に移動しながら、腰を曲げて拾っては白いポリ袋に入れ、拾っては白いポリ袋に入れ続けていたのです。
このようなことを、娘の中村恵美子は全く知らなかったらしく、交通事故で亡くなって、新聞の記事になったり、お悔やみの為、自宅に訪れた多くの人からの話で初めて知ったらしい。
 娘の中村恵美子は、実の母が亡くなって大きなショックだったろうが、紅蓮も、いずれは中村恵美子の母の微笑みを勝ち取ろうと思っていただけに、目標をなくしてしまった様な気持ちになり、寂しさが胸をよぎるのであった。
 同時に、他人の心に潜む善の精神は必ずしも表情に現れないものだということをつくづく知らされた。
 葬儀には何秀麗とともに参列した。参列者の中には神戸市長をはじめ、多くの見知らぬ人がいたということであった。
 そして、祭壇には庭に咲いていた紫陽花と、多くの人の献花として紫陽花が飾られていた。


 そんなことがあり、紅蓮は自分の母、蕾蓮を思い出し、母の人生というものを知りたいと思う様になっていた。
 また、他人というものをこれまで同じ座標でのみ見つめてきた、その人の時間軸上での足跡を全く見たことがないことに気が付いた。
 自分の両親のこれまでの生き様、全く知らないが、たまたまこの瞬間に自分の視界に入っている人物の足跡、だれもが、その人独自の歴史をもっているのだ。
 そしてその人の更に両親、すなわち祖父母もいる訳で、祖父母の生き様はどうだったのだろうか?
 紅蓮は両親から、薄家は、ルーツを辿ってゆけば、漢の名君である文帝の母、薄姫であることをよく聞かされたことがあり、その話に非常に興味を持っていた。
 中村恵美子の母の死は、単に死を悼んだり、微笑みを勝ち取ろうという目標をなくしてしまった気持ちになっただけでなく、自分のルーツに思いを巡らすことにつながったのであった。

 一方東伝は、古の中国と日本との間の関係を調べることに余念がなかった。特に、人名、地名について、詳細に調べあげていた。
 呉東伝の呉という文字の地名があり、大阪池田というところに呉服町という地名があり、そこには古代、大陸から渡来した人たちがいたということを知った。
 また薄紅蓮の薄と言う文字を読み方は全く異なるが苗字として持っている人が日本にいることを知った。
 日本語では同じ漢字に対して複数の読み方があり、地名の呉は「くれ」、人名の薄は「うすき」と読むことを知った。また、中国読みに比較的近い音読みという読み方があるが、この読み方でも、中国語でウーと読むのを「ご」、また中国語でボウと読む薄は「はく」と読むらしく、更に、例えば毎日目にする「日」という文字がニチ、ジツ、ヒ、ビ、カ、と多彩な読み方をするのに驚いた。
 国名ですら日本と書いて、にっぽん、にほんと呼びわけ、両方とも普通に使われているとの話であった。

 中国では同じ読み方の異なる文字があっても、同じ文字を異なる読み方をするということはなく、日本語の複雑さを痛感した。
 中国でも時代ごとに同じ文字を異なる読み方をしてきたという歴史はあったが、同じ時代に複数の読み方をするということはなかった。

 日本では、この中国の、時代によって変わってきた読み方をその都度受け入れ、それらの読み方を共存させて使ってきたのであろう。
 漢代に渡ってきた読み方を漢音、呉の時代に渡ってきた読み方を呉音、明の時代に渡ってきた読み方を明音というらしいことが分かった。この様に分かってみると、文明の灯りは西から東へ、即ち中国から日本へ伝来したことが分かり、東伝は鼻が高くなる思いをした。
 その一方で、今の文化大革命真っ只中の中国を想うと、その誇りが惨めさへと変わるのであった。日本にやってきてみると、その感が益々強まったのである。

 とりわけ宗教に関して、日本人はとてつもなく多種の宗教を信じていることが分かりおどろいてしまった。
 宗教ほど文明との関わりが深いものは無い、とかねてから思っていた東伝にとって、多種の宗教を受け入れている日本人が不思議でならなかった。東の果てにあるこの国に宗教は時の権力者の思想と強く結びつく場合が多く、結びついた宗教は残り、そうでない宗教は淘汰される。
 多くの宗教が同時代に生きているということは、それだけ国家権力者の力が弱いことを意味している。
 ただし、この国でも第二次世界大戦で敗戦にいたるまでは、神道が主で、特に天皇は神格化され、その神格化された暦代の天皇の名前を丸暗記することが求められていた、ということで、敗戦後の新憲法には信仰の自由が謳われているそうだ。
 東伝が紅蓮とともにこの国にやってきたのは、敗戦から13年あまり経っていて、いろいろな神が崇められていて、それこそ八百万の神を信仰している民と思われても仕方ないほど信仰の自由が保障されていた。

 その様な思いをめぐらすことで、一日を過ごすことが多かった。
 そして季節が何回か移ろい、その間、東伝は紅蓮を伴い、港の見える六甲山の展望台、梅田阪急の古書市、京都花背近傍、ここでは紅蓮が京都市内を遊学する間、ひねもす峰定寺の舞台で書を読みふけり、紅蓮の将来と、自分たちがこの異国に佇む意味合いを考えるのだった。
 さらに京都万福寺等で開催される二十四節句の催しには、この国の人達との交流のチャンと考え、できる限り紅蓮を伴って出かけることにしていた。
 梅田阪急の古書市では「薄家の系譜」という古書を目にし、日本にも同じ苗字があるのかと思い、不思議な感懐を覚えたのであった。それを紅蓮に告げ、今度の日曜日にでも見にいったらどうか提案したのであった。
 次第に、日本人の「薄」という苗字の青年と出会う機会が増えて来ていることに意味を見つけようとしていたり、「呉」という文字のつく地名、酒に出会い、自分がこの地にいるのが全くの偶発的な出来事の結果ではなくて、全て天が演出している壮麗な舞台の様な気がしてきているのであった。
 これらの行動の結果、二人ともにこの国に関する見聞を広めて行った。

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