西方流雲(40)
<<< 41. 転勤話 >>>
そして六月に入り、七月中旬から下旬の間に、八日市工場への転勤が決まった。晃一のみならず、生涯の友となる宗 睦夫や長岡事業場での直接の上司だった小沢さん、歳は晃一より若いが同僚である幸野、一年先輩の福田さんら長岡で圧電材料の開発を担当していたメンバーの殆どが、まとまって転勤ということになったのだ。 また大いにはめを外すことが出来た時期であった。 はめを外すということは晃一にとって一般社会学を学ぶチャンスであり、積極的にチャレンジした、といえる。とりわけ、麻雀、パチンコ、ジュークボックス、飲み屋が定番といえた。 こういうことで行動をともにした友人は一生の友人となる。その一人が宗 睦夫であり、ともにこの地にいて無茶をした仲であった。 更に、他の一人、後に奈良大和国分寺の住職となる香津山 融、この三人が常連であり、残り一人がゲストであった。そして彼らと行動を共にする時以外はテニスをした。
6月30日の日曜日、皇子山運動競技場の一角にある皇子山テニスコートにテニスをしにいった。 皇子山運動競技場は後に琵琶湖マラソンの出着地となるところで、琵琶湖は浜大津の近くの山裾の斜面にあった。気候は既に梅雨時にはいっていて、そこに向かうときはまだ曇りですんでいたが、着いた頃には本格的になり、回復しそうにもない雨となっていて、テニスコートは既に水溜りで出来ていた。 会社のテニスクラブの先輩、室生さんに誘われて入会したテニスクラブはパンダクラブという名前で、世話役兼クラブの代表は目の周りにクマをつくっていてパンダそっくりの人であった。 定着したコートを持っているわけでないので、借りることの出来る場所を転々として渡り歩くジプシークラブであった。そのジプシークラブの中で、内輪のテニス大会があり、晃一はシングルスで決勝まで進んでいた。そして決勝を皇子山テニスコートで実施することになっていた。 そこで、そのまま帰ろうとしたら、室生さんが、「うちに来て、焼肉を食べて行かない?」と誘ってくれた。晃一は独身であり、食事をするところは何処でも構わなかったので、誘いを受けることにして、一緒に室生さんの自宅に向かった。 室生さんの自宅は大津から近くの石山寺あたりの団地であった。途中で牛肉を買い込み、二人だけであったが焼肉パーティということになった。 たまたま奥さんは実家に帰っていたときであったので、ちょうど良い食事相手を見つけたというところであったのだろう。焼肉用の鉄板に牛肉を載せビールを注ぎながら、「折角の決勝戦なのに雨で残念なことをしたね。」 といった。晃一は、 「パンダクラブへ入会した目的は、テニス大会で優勝するとか、テニスの腕を上げることではないんです。もともと京都が好きで、京都の地元の人と仲良くできればと思ったからです。だから、優勝できなくてもいいのですよ。もっとも決勝まで進めるということは、一番多くの人と試合が出来たことになり、一番多くの人と知り合いになれるわけですから、それはそれで好ましいことなのですけどね。」 「そうだったのか。前から勝つということに執着しない人だなあ、と思っていたけど、そういうことだったのか。」 「周りからみて面白くないですか?」と答えが返って来そう無い質問をした。村尾さんはそれに答えるかわりに、 「京都が一番身近になる方法があるよ。」と言った。 「何ですか、それ。」 「京都の女性と結婚したらいいんじゃない?会社のテニス部にたくさん若い独身の女の子がいるので、選べばいいのではない?薄君は東京人だから、東男に京女でちょうど良いと思うけどね。」 「でも、僕は生粋の江戸っ子ではないんですよ。本籍地は仙台で、親父の代に東京に住みついたらしいんですよ。」 そんな雑談をしているうちに四時を回ったし、酔いも醒めたので、帰宅することにした。 七月中旬から下旬の間に八日市に転勤になることになっていて、それが翌月に迫っていた。今日は西に向かって帰ることになるが、転勤後はもしまた室生宅にお邪魔したら東に向かって帰ることになるんだな、と思いつつ室生宅を辞した。
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