槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/01/15 21:55:04|物語
西方流雲(40)
              西方流雲(40)

              <<< 41. 転勤話 >>> 

 そして六月に入り、七月中旬から下旬の間に、八日市工場への転勤が決まった。晃一のみならず、生涯の友となる宗 睦夫や長岡事業場での直接の上司だった小沢さん、歳は晃一より若いが同僚である幸野、一年先輩の福田さんら長岡で圧電材料の開発を担当していたメンバーの殆どが、まとまって転勤ということになったのだ。
 また大いにはめを外すことが出来た時期であった。
 はめを外すということは晃一にとって一般社会学を学ぶチャンスであり、積極的にチャレンジした、といえる。とりわけ、麻雀、パチンコ、ジュークボックス、飲み屋が定番といえた。
 こういうことで行動をともにした友人は一生の友人となる。その一人が宗 睦夫であり、ともにこの地にいて無茶をした仲であった。
 更に、他の一人、後に奈良大和国分寺の住職となる香津山 融、この三人が常連であり、残り一人がゲストであった。そして彼らと行動を共にする時以外はテニスをした。

 6月30日の日曜日、皇子山運動競技場の一角にある皇子山テニスコートにテニスをしにいった。
 皇子山運動競技場は後に琵琶湖マラソンの出着地となるところで、琵琶湖は浜大津の近くの山裾の斜面にあった。気候は既に梅雨時にはいっていて、そこに向かうときはまだ曇りですんでいたが、着いた頃には本格的になり、回復しそうにもない雨となっていて、テニスコートは既に水溜りで出来ていた。
 会社のテニスクラブの先輩、室生さんに誘われて入会したテニスクラブはパンダクラブという名前で、世話役兼クラブの代表は目の周りにクマをつくっていてパンダそっくりの人であった。
 定着したコートを持っているわけでないので、借りることの出来る場所を転々として渡り歩くジプシークラブであった。そのジプシークラブの中で、内輪のテニス大会があり、晃一はシングルスで決勝まで進んでいた。そして決勝を皇子山テニスコートで実施することになっていた。
 そこで、そのまま帰ろうとしたら、室生さんが、「うちに来て、焼肉を食べて行かない?」と誘ってくれた。晃一は独身であり、食事をするところは何処でも構わなかったので、誘いを受けることにして、一緒に室生さんの自宅に向かった。
 室生さんの自宅は大津から近くの石山寺あたりの団地であった。途中で牛肉を買い込み、二人だけであったが焼肉パーティということになった。
 たまたま奥さんは実家に帰っていたときであったので、ちょうど良い食事相手を見つけたというところであったのだろう。焼肉用の鉄板に牛肉を載せビールを注ぎながら、「折角の決勝戦なのに雨で残念なことをしたね。」
といった。晃一は、
「パンダクラブへ入会した目的は、テニス大会で優勝するとか、テニスの腕を上げることではないんです。もともと京都が好きで、京都の地元の人と仲良くできればと思ったからです。だから、優勝できなくてもいいのですよ。もっとも決勝まで進めるということは、一番多くの人と試合が出来たことになり、一番多くの人と知り合いになれるわけですから、それはそれで好ましいことなのですけどね。」
「そうだったのか。前から勝つということに執着しない人だなあ、と思っていたけど、そういうことだったのか。」
「周りからみて面白くないですか?」と答えが返って来そう無い質問をした。村尾さんはそれに答えるかわりに、
「京都が一番身近になる方法があるよ。」と言った。
「何ですか、それ。」
「京都の女性と結婚したらいいんじゃない?会社のテニス部にたくさん若い独身の女の子がいるので、選べばいいのではない?薄君は東京人だから、東男に京女でちょうど良いと思うけどね。」
「でも、僕は生粋の江戸っ子ではないんですよ。本籍地は仙台で、親父の代に東京に住みついたらしいんですよ。」
そんな雑談をしているうちに四時を回ったし、酔いも醒めたので、帰宅することにした。
七月中旬から下旬の間に八日市に転勤になることになっていて、それが翌月に迫っていた。今日は西に向かって帰ることになるが、転勤後はもしまた室生宅にお邪魔したら東に向かって帰ることになるんだな、と思いつつ室生宅を辞した。

            <<< つづく >>>







2008/01/14 0:59:01|物語
西方流雲(39)
             西方流雲(39)        

          《40. 最後の見合い 》

 その出会いは、如何にも晃一らしいもので、晃一にしてみれば、謀られたというより、全く意図しない何の心の準備も無い出会いであった。即ち姉夫婦に企てられた見合いだったのである。
 晃一の大きな趣味は硬式テニスをすることであった。テニスが出来るとあれば、何処へでも行くという程テニス漬けになっていた。

 ゴールデンウィークの帰京時に、義理の兄にテニスに誘われた。
綱島に会社のテニスコートがあるので、そこで一緒にテニスをしようという話があり、まさかその帰りに見合いの席が用意されているとは夢にも思わなかったのである。
 晃一にとって三度目の見合いであった。
と言っても、晃一はテニスの帰りであり、服装といってもテニスウェアのままであった。
 晃一は、もともと積極的に女の子にモーションをかけるという方ではなく、むしろこれまでは逆の立場にたたされることが多かった。テニスの試合があると、頼みもしないのに、数人のテニス部の女の子が応援に来たり、クラブの合宿で、車で合宿地へ行こうとしたりすると、晃一の車には晃一以外、女の子ばかりが乗っているなどということもあった。この様なことが晃一は恥ずかしくて仕方がなかった。
 言ってみれば、女の子からちやほやされた時期であった。しかし、晃一は、このような立場はあまり自分にとって良いことでは無い、ということが分かっていて、なんとかしなくては、と思っていた。
 何ヶ月か後の話になるが、京都から八日市への転勤はその様な意味でも良かったのである。
 五月のゴールデンウィークの初日、4月29日に東京都東久留米市にある実家に帰った。
 その二日前に実家の母親から電話があり、帰る旨伝えてあった。相手のある話なので、帰ることだけは確認しておこうということだったのだろう。

 帰った其の日に、TVを見ていると、晃一の母が、
「誠さんが、5月1日にテニスをしようと言っていたけど、何か他に予定していることある?」
と話かけてきた。
「特に他に用事は無いけど、テニス用の服や、靴を準備して来ていないヨ。」
と晃一は、いかにも残念そうに答えた。すると、
「一万円あれば、全て揃うでしょ。まだ時間があるから買ってきたら。寄付するわよ。」
「それは有り難い。そうしたら、行くと誠さんに伝えておいてくれる?」
「いいわよ。ところで、二日以降は何かすることあるの?」
「特に無いけど、もしかしたら幸野や巖川または大学時代の友人と会うかも知れない。」
「そう。じゃ京都に戻るのはいつ?」
「四日の夕方には帰るよ。」
晃一は、大学卒業するまでは、東京を離れた生活をしたことがなかった。したがって、学生時代までの友人は殆ど全てが東京か、少なくても関東在住の人達であった。
 関西に在住するようになってからは、彼らに会うには、正月休みか、五月のゴールデンウィークを利用して会うしかなかった。彼らに電話をかけまくり、アポを取る訳である。磯貝、浅袈、麻倉、池神、遠東といったメンバー、あるいは、巖川、幸野、尾澤、濃箕、二氏見といった高校時代の友人達であった。巖川、幸野はこの時期既に結婚していた。他は全員独身であった。東京に帰る前に京都からアポを取るということは一切しなかった。そして中学時代の須月、新蔵、そして向井先生。
 一度か二度だが小学校時代の親友、加藤木―― いまだに音信のある小学五、六年の時の担任、西村伊都子先生の言によると、竹馬の友――であった。
 晃一は、依然として、自分が根無し草であることを認識していて、気変わりして計画を変えたくなったときに、それをさせない制約となるからであった。帰京時に、はからずも義理の兄の誠さんとテニスを出来るようになったのも、その様な性格の賜物といえない事も無かった。
 根無し草というのは、自分を律し得ないところを持つ半面、時間、空間のいずれにも拘束されない気安さがあった。
 風が吹けば、風に乗って漂い、上昇気流がおこれば、それにのって、高いところまで舞い上がってゆく。雨が降れば叩きつけられ、水路に流し込まれ、果ては大海原まで運び込まれることもある。
 一方で、どんな環境にあっても打たれ強いたくましさをも持っている、と友人達からは見られていた。
 しかし決してそうではなく、そう見せかけていただけであった。それだけストレスとなって、心の奥にしまいこまれるのが分かった。こころの糸は張って行くばかりであった。
 テニスは晃一が自己表現できる唯一のオアシスであり、健康づくりの手段であった。しかし、この時期健康に関する危惧は全くなく、近所の病院がどこにあるか知らなかったほどであった。
 義理の兄の誠は軽量発泡建材メーカに勤務している。企業人になって、数年のうちに一級建築士の資格をとった技術者である。しかもテニス好きであり、晃一にとってまたとない親近感を抱ける存在である。
 何試合かダブルスの試合をしただろうか、12時を過ぎて次第に人が増えてきた。天気も良いし、5月の薫風、若葉のもと、おりしもテニスブームである。多くのテニス愛好者が繰り出すのも当然である。
 「晃一君、混んできたのでそろそろ上がろうか。着替えるの面倒だからこのまま帰ろうか。」と、ややせわしそうに誠が右手に車のキーを持って話かけてきた。少し前にトイレに 行って来ると言って戻ってきたところだった。何か用事が出来たのだろうか。
「いいですよ。そろそろ上がりましょう。」
「何か用事が出来ましたか?」
とは晃一は言わなかった。義理の兄を少しでも困らせたくはなかったので、従順であった。
「車はあそこだよ。さっき動かしておいた。」
それで車のキーを手にしているのか、と独りごちた。
コートから出て、二十歩も歩かないうちに車に乗ることが出来た。
綱島のそのコートを後にして、五分ほど経った時であろうか、義理の兄が、
「帰りに食事をして行こう。」
と運転しながら言った。晃一は、
「急ぎの用事があったわけではなかったのですね。」
と言う代わりに、
「どこか良いところ、ありますか?」
と聞いてみた。母からの差し入れの一万円から、靴とテニスウェアを買った残りの二千円しか手元に持っていなかったので、あまり、高級な店だと困るのだ。したがって、あまり高くないところ、という気持ちが入っていたのである。
 一方で、おごりだろうと思っていたが、晃一には同じ様な場面で、小学生の頃に苦い思い出があった為に、そういう気持ちにさせたのである。
 晃一は中学一年まで武蔵野市吉祥寺で暮らしていた。吉祥寺にいた時は母が下宿屋をやっていた。
 そこに下宿していた人が、後楽園球場にプロ野球を見に連れて行ってくれることになった。母は五百円をその下宿生に預けて、息子をよろしく、と頼んだ。ナイターだったので、その五百円には食事代も入っているのだと思い込み、何が食えるのかと期待していたのだった。
 ところが、野球は観戦出来たが、夕食にはありつけなかった。世間知らずの晃一には五百円の価値が分からなかったこともあったが、何故か騙された様な気持ちになったのを覚えていた。
 まだ吉祥寺に闇市があった時代、1950年代中頃のことであった。

義理の兄は環状七号線と国道二十号線の交差点を右にハンドルをきった。
晃一が、「あれっ?」と晃一が声をだすと、ほぼ同時に、義理の兄は、
「これから、晃一君に会ってもらいたい人がいるのだけど。」
と、嫌を言わせない口調で宣言した。晃一は、
「いいですけど。」としか言葉が出なかった。
 内心では、「見合い?」との疑念が起った。もしそうだとしても、義理の兄を困らせるわけに行かない。その結果の晃一の返事であった。
 向かう方向は新宿であった。
その頃、新宿西口側は大きな変貌を遂げていた。晃一が学生の頃新宿西口には淀橋浄水場と、小西六の工場があったことで知られていた。浄水場を囲う様に盛り上がった縁提がその両側に雑草を従えた小径となって、周囲を築いていた。その小径が小さな桜並木となって、春には桜の名所と知られていた。
 その名所と小西六の工場とで広大な新宿の一角を占めていて、それらが立ち退きすれば、巨大空間が出来る。そこに最初に建設された高層ビル群の一つが京王プラザホテルであった。
 その地階に樹林という喫茶店があり、そこが見合いの場所らしかった。専用駐車場に車を置き、晃一は誠さんに従って、付いて行った。
 晃一らはテニスウェアのままであったが、先方は和服を着たお母さんと一緒で、ブルーのレースの裾がついたワンピースを着ていた。
 見合いといっても、相手のことや、家族のことも何も分からなかったし、誰の紹介かということも聞かされていず、予備知識全くなしでの対面であった。
 自分のことも、どの様に紹介されているかも分からず、見合いという形とは全くかけ離れていた。
 対面したあと、どうしたかは、日記にも書かれていず、この物語を書いている時点では全く記憶が無い、というのが正直なところであった。
 しかしながら、結果として、必ずしもピッタリと気が合いそうな人ではないということと、その理由となったであろう、線の強さが感じられず、その時はお断りしたことは確かであった。
 したがって、晃一にとっては特に何事も無かった様に五月の連休が終わったのであった。

         <<< つづく >>>







2008/01/13 0:39:41|物語
西方流雲(38)
                西方流雲(38)

         <<< 39. 十二項目の体験の記 >>>

 そして、次に日記が記述されている日付は6月5日(水)であり、その日の日記は、冒頭に、4月12日から6月5日の間に一体何が起っていたか、という文章が記述されている。
そして、その間書く暇を持てなかったのであり、書くことが恐ろしかった、と続き、更に、この様に今晩書くことになったのは、もう一度自分の身の回りに起っていることを整理する必要性を大いに感じているからだろう、と他人ごとの様に書かれている。この間具体的に何があったか、十二項目書かれている。
   @ 英会話をはじめたこと
   A 中学時代の友人伊川の結婚式に出席したこと。
   B 福島さんのお宅をお邪魔したこと。
   C 見合いをしたこと。
   D 英会話に野村和代という人がいること。
   E 英会話の教師にMiss. Claytonがいること。
   F 会社のクラブのテニス合宿に参加したこと。
   G 軽井沢で、会社のクラブのメンバーのうちの何人かの有志で行くことになったこと
   H 立石と初めてテニスの試合をしたこと。
   I 修学院、桂両離宮を拝観したこと。
   J 圧電材料の材料開発の大詰めであること。
   K 英会話のサマーパーティの監事をやることになったこと。
 このうち、晃一の人生に最も深く関係することになるのが、Cであった。しかし、この日記を書いている時点では、その様な意識は全くと言ってなかった。D、Eと同程度の重要度であった。後日の日記にこのときのことを振り返って詳しく記述されている。そこで、それ以外の出来事について、記憶のあるところを辿ってみる。

*** 英会話をはじめたこと ***
 英会話はこれからの晃一の人生にとって必要不可欠な技術であった。晃一はエンジニアとして会社に勤務しているが、子供の頃は外交官になることが夢で、高校入試の第二志望として選んだ高校は、その様な気持ちの余韻がその頃まで残っていた証拠であろう。
 晃一が中学時代のほとんど過ごした東久留米にはクリスチャンアカデミーという外国人のための学校があった。中学時代はそこでどの様な仕事をしているのか分からなかったが、長瀬さんという英語の先生に英会話の勉強ということで、週に一度その人の家に勉強しに行った。そして高校に入ってからも、クリスチャンアカデミーでの英会話教室に通った。
 しかし、高校時代はテニス部に属し、テニスに熱中していたので、次第に足が遠のき結局途中で挫折した格好になった。このとき、もし挫折せずに通い続けていたら、晃一の人生はどうなっていたか分からない。しかしこういうことは、“人間万事塞翁が馬”に属するものであって、その時点を過ぎていくつもの山あり、谷有りを経験して初めて言えることであった。
 何故英会話か、というと晃一にとってはビジネスツールとかステイタスということではなく、単純に外国のこと、外国人と話しお互いに理解しあうことがとてつもなく素晴らしいことの様に思えたからである。特にアメリカは西部劇にかぶれていたことがあったためか、なんとかして行きたい国のうちの一つであった。
 そして、この日記をつけている日より後に実際に京都のKECという英会話教室に通うことにしたのであった。そして、そこで、野村和代という生徒や、豪州人であるMiss. Claytonという女性教師が気になり始めたのだった。そして、その年の7月には祇園祭りに、Miss. Claytonを引っ張り出し、案内した。最初は晃一の方が英語もどきで話かけていたが、途中から彼女が日本語を話しはじめた、きっと自分の英語は通じていなかったのだろう、としょげてしまった。

*** 中学時代の友人伊川の結婚式に出席したこと ***
中学時代の友人である伊川の結婚式に出席した。中学時代に仲の良かった友人としては、須月に引き続いて、二人目であった。
 須月(すずき)、新蔵(にいくら)、伊川とは、よく麻雀をやったものである。自分と、須月、新蔵の三人は久留米中学へは転校してきたという共通点があり、特に須月とは、中学一年の時に転校してきて、同じクラスの一番違いの出席番号でもあり、クラスでは二人して目立つ存在となってしまった。
 そのクラスは担任が鳴海昌助という数学の先生であった。髪型にうるさく、度の強い丸い枠つきの眼鏡をかけていた。数学の授業ではドリルが大切だ、ということで同じ問題を何度も何度も繰り返した。それをドリルと称し、ドリルをすれば、数学の問題は解けるようになる、という教え方であった。したがって授業の進捗は遅々として進まなかった。
 晃一は、ドリルと称して同じ問題を繰り返しているうちに、次へ次へと先を進めることにした。そして、それでも時間があるときは、ノートの片隅に絵を描いていた。その絵を見せる相手が須月であった。絵は殆どの場合、雲間から五重の塔などの寺院の建物が現れているもので、天上から下界を見下ろした構図であった。

*** 福島さんのお宅をお邪魔したこと ***
 福島さんとは、晃一が最初に勤務した会社で、最後に晃一の上司だった人で、晃一の技術分野であるエレクトロセラミクスの分野では第一人者と言われた防衛大学の尾崎教授のもとで暫く経験を積んだ跡にユニゾン株式会社へ来た人で、その前は北海道炭鉱でのエリート社員で、北炭解体とともに、次の勤務先として 防衛大学の尾崎教授の研究室を経て伊丹の地にやってきた晃一同様の東京人であった。
 福島さんも、晃一が退職して、しばらくして、ユニゾン株式会社の何人かの若き人材とともに退職し、この頃は東京の自宅に住んでいたのである。晃一がたまたま東京の自宅に帰っている間に、ユニゾンOBが集う話が出てきて最も都心に近く、集まり易い福島さん宅に集合することになったのである。晃一より一回り以上年齢が上の福島さんは、晃一からは住む世界が違う人のように思えた。

*** 会社のクラブのテニス合宿に参加したこと ***
 晃一の人生のうち四十二歳に脳梗塞で倒れるまでは、テニスを主軸にした人生であり、特にこの合宿を起点として加速したと言える。中学二年から高校三年までは軟式庭球をし、大学一年からはずっと硬式テニスをやってきているが、社会人になって、今の会社に転職するまではそれほど熱心にやっていたという感じは無かった。 ときたま、別所や尾崎とプレーする程度であった。
 テニスの合宿などというのは、晃一にとって学生時代の合宿以来であった。
 その時と大きく異なるのは、女子部員の参加があるということだろう。そして、合宿地までは何台かの車に分乗してゆくことになったのだが、何故か晃一の車には女性三名が乗ることになった。
 三名とは、大東さん、田仲さん、菅原さんの三名だった。三名はそれぞれ、女性らしく、出すぎたところはなく、晃一からみたら好感の持てる女の子であった。
 晃一はその頃伊丹時代に購入した中古車のマークUに乗っていた。
 五人のりだったが、後部座席にその三名がのった。
 したがって助手席が空いていた。丁度長岡天神の踏み切りに差し掛かったとき、合宿に参加するはずのクラブ仲間の肥田君が反対方向に歩いてきた。晃一は、後続車が無いのを確認し咄嗟に車を止めて、「乗っていかない?」と声をかけた。運良く、助手席に落ち着いてもらった。もし、助手席にもう一名女の子に乗られたら大変なことになる、と後部座席の三人を乗せた時から思っていたからだ。 運良く、というのはその様な理由からだった。
 女の子は好きなのであるが、女の子の団体には極めて弱いのであった。しかし他人からみれば羨ましいに違いない光景で、その光景を晃一は他人ごとの様にもてる自身を感じていた。また、その様な気分に甘んじる自分を持て余していたともいえる。この様な気分は、自分の精神を繋ぎ合わせているバネの弾力性を弱め、飛躍するだけのバネ弾性を失わせてしまうのではないかと感じさせていた。
 不特定多数の女性と付き合う限り、この様な状況から脱することは出来ず、ろくな人間になれないに違いないという気持ちが沸々と湧いてきた。
 どうしたら良いか、答えは簡単であった。特定の一人の女性にすれば良いわけだ。
 そんなことを漠然と考えていた頃の合宿であって、そして合宿行きの出来事であったのだ。もっと若い時の晃一であれば、運良く、などとは決して思わなかったろう。
 その様に思っていたのだが、今度は会社のクラブメンバーの何人かで、軽井沢で、テニス合宿をすることになった。
 男子5名。女子4名という組合せだった。当初、女子5名だったが、女の子の一人が急に都合が悪くなり、来られなくなったらしい。晃一はこの様なメンバー構成になった経過を全く知らされていなかった。直前に持参するもの、予定表が大東さんから配布された。まるで遠足のような雰囲気であり、ばかばかしい感じもしたが、自分は特に面倒なことをする必要もないので、文句も言わずに付き合うことにした。

*** 立石と初めてテニスの試合をしたこと ***
 立石電気の中央研究所は晃一が勤務する会社から距離で一キロ以内のところにあり、しかも晃一の大学OBが多く在籍していた。そこのテニス部と晃一の勤務する会社のテニス部との間で交流試合をすることになった。
 特に、そのうちの一人は、大学時代のクラブの後輩であった。こんなところで、後輩とテニスの試合をするなんて感慨深いものがあった。それ以来、立石の大学OB会の忘年会等に声をかけてくれる様になった。時空の交錯というのだろうか。

*** 修学院、桂両離宮を拝観したこと ***
 学生時代の友人の磯貝が来洛した。離宮というのは晃一の肌に合うものではない。また京都の寺院とは何故か趣を異にする建造物で、別荘という感じであるからである。
 しかし、同じ離宮として使われた円通寺は晃一のお気に入りで、何回訪れたか分からないほどであった。別荘であるからには、格別の景色が必要で、庭園しかも借景式庭園が必是となる。
 晃一が最初に訪れた円通寺は紅葉シーズンさなかの平日で、人もいず、紅葉したもみじの窓枠に収まった比叡山が借景にふさわしく、修学院離宮・柴衣事件で有名な後水尾天皇と同じ気分で景色を楽しめたからであろう。修学院離宮も同じ後水尾天皇による造営と言われている。
 磯前に誘われるまで、特に行きたいと思うところではなかった。あるいは晃一にとっては格式が高すぎると言ったところかも知れない。

*** 圧電材料の材料開発の大詰めであること ***
 晃一の会社での仕事は、ソフト系圧電材料の温度特性と経時変化を改善することであった。
 圧電材料は機械的な衝撃を与えると、電圧を発生したり、逆に電圧を印加すると機械的な変形を起こしたりする材料で、PZTと呼ばれる材料がその代表的なもので、鉛、ジルコニウム、チタンの酸化物からなっている。
 このセラミクス材料に電極を設け、圧電振動子とし、交流電圧を印加すると、特定の周波数で共振する。
 この周波数は応用に際し、周囲温度変化にも経時的にも安定していることが必要で、ソフト系圧電材料は、一般に経時変化が良くなく、これを改善する圧電材料の開発が晃一に与えられたテーマであった。
 このテーマに着手した当初は、竹馬の友となる宗 睦夫氏に多くのことを教えてもらった。
 この技術開発で、その様な開発目標を達成できそうな組成がもう少しで見つかりそうなところまで来たのであった。その様に晃一の日記には書かれているのであるが、そう思うのは早計であることが後に分かるのであった。

*** 英会話のサマーパーティの幹事をやることになったこと ***
英会話教室のクラスメートで、サマーパーティをやることになり、その監事をやることになった。総員三十名足らずのメンバーであったが、何故か監事をやることになった。
 しかし、これには晃一にとって、他人に見せる表情の大切さに関して、後々忘れることの出来ない大失敗をしでかしたのであった。
 場所は河原町三条に近い通りに面した大きなレストランで、コンパに適したスペースのある鍋物主体のレストランに決まった。予約等の監事としての仕事はスムーズにゆき、会も順調に進んでいた時、英会話インストラクターのクレイトンさんが、何かを言いたげに晃一の方に視線を送っているのに気がついた。
晃一はその後ろ側に座っていた野村さんという女性に目をやっていたのである。その視線の途中にクレイトンさん座っていたのであった。同じ視線の中にいた彼女にしたら、自分の方を見ていると思い、
「何か用?」
ということだったのだろう。それを感じながら晃一は顔を無意識にそらせてしまった。
何かが顔をそらせたのであった。そして、その何かが振り返らそうともさせなかったのである。
晃一はもともと視力が抜群であり、かなり遠方まで良く見える。この様なことはこれまで一度や二度ではなかったのである。
ただでも人付き合いがうまいとは言えない晃一にとって、英会話のインストラクター、外国人、若き女性と言う様に、相手にするには苦手な立場を併せ持っていた。それにチャレンジするというのが青春の証であろう、と思っていた。
その自信の無さがその様にさせたのであろう。後で、彼女の方を見た時は知らん顔していた。
その様な気まずさを修復する器用さをその場では晃一は持ち合わせていなかった。
 その様な苦い思い出も時間の経過とともに色あせてくるもので、八月の祇園祭りの時には、祇園祭りの案内を買って出ることが出来た。

以上の様に、晃一にとって、日記に記述されていない4月12日から6月5日の間多くの出来事があった。しかし何よりも大きかったのは将来の伴侶となる女性との出会いであった。

      <<< つづく >>>







2008/01/11 22:20:35|物語
西方流雲(37)
          西方流雲(37)

          <<< 38. 卯月日記 >>>

部屋に戻って、
「そういえば、去年の五月の連休は、伊丹時代の友人、戸津、斉田、尾崎とドライブしたために実家には帰らなかったからな。」と晃一は呟いた。五月の連休までにはまだ随分日があるのに気の早い話だな。」と呟き返した。

そして桜の季節になった。

桜の花ビラ舞う空に
いつか覚えたあの歌で
心の春を迎え呼ぶ

本来は明るい飛翔の季節なのだが、この年1973年はオイルショックの影響が顕著に現れた年で、庶民生活への打撃が大きかった。
 石油危機・モノ不足・大手商社の買い占め が進行している。その原因は、前年の10月6日、イスラエル軍とエジプト・シリア軍がスエズ運河東岸とゴラン高原で、陸・海・空三軍を動員した大規模な戦闘に突入した。この第四次中東戦争の勃発は、日本にも深刻な石油危機を招いた為であった。
 これをきっかけに、「石油の供給制限による生産削減でモノ不足が発生する」という噂が日本中に飛びかい、買いだめ騒動が全国で続発した。
 トイレットペーパーや洗剤の買いだめに走るなど、一部の消費者がパニック状態になり、商品を提供する商店側も大混乱におちいり、それをまたマスコミが報道し不安をあおるという悪循環であった。また、背景には大手商社などの買い占めもあった。
 この様な状況が庶民にだけ影響するはずはなく、企業への影響も少しずつ出始めている。
 家電メーカは生産削減のもとで利益を確保するために、使用電子部品の購入価格の抑圧や購買予定の変更、延期を部品メーカに求めてくる。それを正当に行おうとする為、仕様の見直し、特採の中止を求めてくる。
 これらの家電メーカに、大量にコンデンサや圧電製品を納入している晃一が勤務している会社は、不景気になるごとに、この様な試練に遭うことになる。
 特採の不実施というのは、仕様に外れたいわば不良品でも、景気が良く、部品不足の時は、合意のもとで、ぎりぎり仕様から外れた製品は特別に採用されて売買されるのである。
 通常、仕様はある程度のマージンをみているようなので、実際にはギリギリで仕様はずれになった製品はほとんどの場合問題なく使用できるのである。
 しかし不況になると、特別に採用されるどころか、厳密に仕様に基づいた受け入れ検査が行われ、ほんの僅かな外観はずれでも厳格に不良品と見なされることになる。その程度ならまだ良いが、規格の見直しで、益々不良品が湧出することになる。
 部品メーカの宿命と言って手をこまねいている訳に行かず、その様な不良の発生を極力抑える必要がある。この様な状況に対する経験は後日、工場に配転になったあとに体験することになる。

 その前に、このころ最初に晃一の勤務に影響した出来事が、この桜が満開の候に起った。
ストライキである。
 三十分間、しかも朝の出勤時のものなので、実際の業務に大きく影響することはなかった。しかしながら、会社の正門では、組合員によるバリケードがはられ、出勤して来た管理職の何人かは、社内に入る際、小競り合いがあり、緊張する場面を見るにつけて、ストの実感をした。
 この様な状況では残業は出来ず、したがって、終業時刻がきたらすぐに帰宅することになる。
 晃一は帰寮してからの、有り余る時間を読書に費やした。そして日記をつける時間もたっぷりあった。

○四月二日(火)
 昨日ついに「徳川家康」全26巻を読み終えた。前年7月24日に第一巻を読み始めて、八ヶ月かけて読み上げたわけである。あくまで小説で、完全な史実ではなく、著者の史観、思想をミックスさせた家康であるが、それでも歴史の流れの一こまが少しは分かったような思いになった。
 また300年も続いた徳川幕府の正体の様なものも分かってきた様な感じがした。

 話は信長が政権を取る以前の場面から始まっているので本に書かれている期間は一世紀の長さにわたる。第二十六巻「立命往生」で完結するが、家康が死の直前、家臣、秀忠、於茶、等に遺す言葉は、家康の思想の完成されたものであり、それを徳川家が忠実に実行したために三百年が続いたのであり、トインビーに「歴史上に存在した世界国家である。」と言わせるだけの国家的思想があり、その思想は歴史の流れに乗り、遺された人、子孫全体への訓戒となり得るのだろう。
 多くの登場人物があったが、自分は一体誰に最も似ているだろうか。

○四月八日(月)雨
昨日からひっきりなしに雨が降り続けている。
桜の花も真っ盛りなのに、この雨では。
 先週の土曜日、夕刻の花の寺、善峰寺を見に行った。善峰寺からの京都の夜景は素晴らしかった。月は丁度満月、しかも土曜日と言う安らぎ感から尚更余裕をもって眺められたためか、この上なく情緒があった。大東さんの性格の一端を見たが、なかなか趣を解する人のようだ。
 先週のストライキの後、スーパいずみやに車を置き、パチンコ屋まで歩いていった。その途中、駅に向かう道で、田んぼの畦道が舗装されているような細い道があるが、その道を歩いていると、突然の如く春を感じたようだった。道の両側にある雑草はとっくに芽をふいているし、連翹の花が黄色く枝を包んでいる。そして皮膚に快く触れる、そよ風、そして空、....。
 自分にとっては、今年の春は四月五日に始まったと言える、と晃一は呟いた。今まで合計二十七回春を迎えたが、今年の様に、突然に、しかも明確な日付をもって春を感じたのは、初めてであった。
 昨年の春は転職で、春を味わうところではなかった。その前年は菟新明初子と付き合いで、それところではなかった。何ものにも囚われない自由な気分で春を迎えるのは久ぶりといえる。
 そのためか、自然の色、造形が美しく感じられる。
 又、歩いている女性の顔も美しく見える。何かの反動か、それとも何かへの備えであろうか。
 もはや二十七歳という気持ちが作用しているのかも知れない。ということは、今年は結婚に至らずとも、そのきっかけは作れという天命かもしれない。週刊誌の運勢欄にあった十二月生まれは、「結婚を前提とした付き合いを始めるとうまく行く、というフレーズが目に留まるというのも二十七歳がなせる業かも知れない。

○四月九日(火)雨
 雨が降り続いている。
曇天のもとの桜はさえない。
服のポケットから山陽ドライブの時に立ち寄った喫茶店のマッチがみつかった。岡山市新町の国道二号線沿“サン”、姫路大手前通り入る“コロンバン”、姫路、大劇前“コンパ”。
 京都府知事選で蜷川さんが僅差で大橋さんを破った。自分は大橋さんにいれた。
 その根拠は何だったろうか、と考えてみた。
 蜷川さんは共産党色の強い人で、社共共闘と言っても主体は共産党の方にあった様に感じた。
 共産党も自民党も、主義主張こそ異なっても、組織としての行動力学は変わらない。そこから生まれる組織統制主義は同じで、他人の異なる考え方は排斥するという点では変わらないだろう。
 ただ自民は見下した様な排斥を、共産党は相手の欠点だけを指摘する様な排斥のしかたをするのだろう。蜷川さんが七選をすることになるのは異常で、これが実現するのは組織統制主義や排斥主義がうまく行ってしまっていることで、これが京都府民に浸透しているということは京都府民の閉鎖性を物語っている。
 京都府民の閉鎖性が蜷川さんを当選させたのか、蜷川さんの長い府政が、京都府民に閉鎖性を植え付けたのであろうか。
 いずれにしても僅差ということは、この閉鎖性を打ち破る勢力が現れて、変わってきている
のである。
 京都は日本を代表する歴史のある都市であり、知名度と言う点では、東京、大阪に並びうる国際都市になる資格がある。開かれた歴史都市になってもらいたいものだ。
 もう一つの京都の欠点は、物価が高いということで、これも閉鎖性と関係しているだろう。
 自由な流通が阻害されるのであろう。観光都市なので、物価が高くても売れるからという理由付けもあるようだが、そうではない様な感じがする。
 晃一のこの日の日記に何故か、新聞の切り抜きがセロテープでとめられている。「史跡めぐり早分かり百科C、仏像」というコラムである。文と絵 伊藤好一郎(史跡文化財研究会委員)とある。仏像には四種類あり、如来、菩薩、明王、天があると言うところに赤線がひいてある。
 更に分類すると、如来は釈迦、阿弥陀、薬師、大日で装身具はつけていない。菩薩は普賢、地蔵、弥勒、観世音等で、釈迦如来が出家する前の王子時代の姿がモデルで、まだ悟りまで至っていない修行中の悉達太子(しったたいし)のことである。だから菩薩は煌びやかな装飾で彩られている。更に明王は如来の変身のようなもので、威によって仏法を広め導くという意味で憤怒相をしている。阿吽の形をして門の左右に配置されている不動明王がその代表である。天は毘沙門、梵天、帝釈天、吉祥天等で仏教成立前の民間信仰を取り入れた神で仏教守護の役目を持っている。
 晃一はこの時点では宗教には全く興味がなく、信仰が自分の役に立つとは全く考えていなかった。にも拘わらず、この時期の日記帳に新聞の切り抜きが貼られていたということは何か晃一の人生の伏線がすでにこのころ曳かれていたということであろうか。京都に魅かれ史跡めぐりが寺院訪問であれば当然の流れとも言えるが、それだけでは無いものを晃一の遺伝子が持っているのかも知れない。
 その遺伝子は後年、晃一の気持ちの持ち方に大きく影響する仏教の教えである意味ある四つの言葉を知ることになる。これをまとめて四諦といい、
1 苦諦(くたい)  苦に関する真理
2 集諦(じったい) 苦の原因に関する真理
3 滅諦(めったい) 原因の滅に関する真理
4 道諦(どうたい) 方法に関する真理
である。晃一にとって、この四つの道程は晃一のその後の人生そのものと言える。しかし健康で将来を見つめるばかりの晃一にとって忘れても良い程度の単なる情報であった。

○四月十一日(木)
花の寺へ行った。桜の花が満開である。白蓮、沈丁花、連翹(れんぎょう)、雪柳、椿、ゼネストで、先週金曜日に引き続き平日にも拘わらず会社が休みとなり、京都の桜を見逃すことが勿体無い様に思え、近くの花の寺及び善峰寺へ足を伸ばした。帰りには、いずみやへ行って買い物をし、さらに止めておけば良いものを、パチンコ屋へゆき二千円すってしまった。
  この様に、この年1974年の春は晃一の日常のごく平凡な生活が続いていた時期であった。

      <<< つづく >>>







2008/01/10 0:05:42|物語
西方流雲(36)
 
           西方流雲(36)

         <<< 37. 備前焼幻想 >>>

 春と言っても三月のはじめの頃はまだ寒く雪の降ることもあった。
そんなある日、当てもなく独りで山陽方面にドライブに出かけた。
地図を持たなかったのが失敗の始まりであった。
 道路標識をあてに走っていたので、自信はないが、岡山あたりまで来てしまった様である。姫路あたりまでは何回か来たことがあったので、自信があったが、姫路を過ぎてからは、本当に自信がなくなってきた。
 少し行き過ぎたかな、と心配し始めた頃に、道路沿いに雰囲気の良い喫茶店が眼に入り、地理の確認がてら一休みすることにした。
 岡山市内だとしても岡山の郊外であるに違いなく、サンという名の喫茶店の店内はがらんとして人の気配が全くしなかった。
 土曜日ということと、まだ昼間であるということで空いているのかも知れないが、採算がとれるとはとても思えない閑散さであった。
 晃一の名も日光即ちサンであり、名前に呼び込まれてしまった様な感じがしないでもなかった。
「従業員が少なく、労務費が経費の大部分を占める昨今では、従業員数を切り詰めて償却費を賄っているのかも知れない。」
「又は大きなチェーン店組織で、他の繁盛している店の利益を横流しして総合的に採算を取っているのかも知れない。」
などと、想像を巡らしながら、最寄のソファー風の椅子に腰を下ろした。
 腰がスッポリ収まるようなゆったりとしたクッションの緩い椅子であった。
見上げてみると正面のテレビで競馬の中継放送をしていた。ちょうどテレビの真正面に座ることになってしまったのである。
 多分、店員から見たら、競馬の中継放送を見に来たと思うに違いなかった。
 競馬になど全く興味がなくても、ガラあきの店内にはどこにでも自由に座れる席が他にもいくらでもあった。
 にも拘わらず、その様な位置を陣取ってしまったので、誰からみても競馬が気になって店に入り込んだとしか見ようが無いのに違いなかった。
 人生にはこの様な誤解が時として起こる。意としない行動や動作が第三者から逆に目的をもった行動、動作のように見られるのである。
 そして、さらに誤解は度を越えた。
 店員が同じコーヒーカップを二つ持ってきて晃一の目線と同じ程度の高さのテーブルの上に置いて行ったのである。ソファーに深く腰掛けたので、カップの中身を目にすることは出来なかった。
 同じデザインで同じ大きさのコーヒカップを店員が持ってきた意味を晃一は目をパチクリして考えてみた。
 店員がもし、連れがいると誤解し、その分も持ってきたかもしれない。それでは二人分とられてしまうかも知れない。さきほど注文する時、コーヒーと言っただけで数を言わなかったのが失敗か?それとも昼間からホステスが侍ってくれるのであろうか。
 店の彩色はやや危なげであるが、内装は洋風のおちついた雰囲気のものであり、そのような怪しげなもてなしを商売にしているとはとても思えない。
 一体何の謎掛けだろう。なんの仕掛けだろう。
 考えれば考えるほど分からなくなるのであった。
 こんな事に誰でもめったに遭遇することは無いだろう。一体どうしてこの店の通常のサーヴィスなのだろうか。それとも誰か話相手が来るとでも言うのだろうか。
 そんな想いを巡らしながら左手を伸ばし左側のコーヒーカップを手にした。
 背後で誰かが笑っているように感じた。今度は手にしたコーヒーカップをテーブルに戻し、今度は右手で右側のコーヒーカップを手にした。すこし軽く感じた。またチャプチャプした感じが全く無い。コーヒーカップの中を覗いてみた。
 あられが入っていたのであった。
 こういうものは普通、小皿に載せてくるものだ、と独りごちながら苦笑してしまった。
しかし、こんどは背後で店員がこちらを見て大笑いしている。
全く人を馬鹿にしている。
来店した客にこうやって客を観察して楽しんでいるのだろうか。
そうも思ったが、何か教訓めいたメッセージをもらった心地の良さを感じた。後ろを振り返ってみた。確かに店員はこちらの方に指をさしながらまだ大笑いしていた。
  しかし、よく見ると、指先はこちらを指していたが、少し自分よりは上のほうを指しているようであった。
テレビの方だと気が付いた晃一は振りかえってテレビを見ると、なんと騎手が乗っていない馬が先頭走っているのである。それを見て笑っていたのである。
 晃一も思わず笑ってしまったが、晃一が笑ったのは、騎手が乗っていない馬ではなくて自分自身の誤算であったといっても良いと思った。
 店員は、こんなにおかしい競馬の場面をみて、何故この客は笑わないのだろうと思っていたに違いない。それが理由が違っても笑いはじめたので安心したのであろう、カウンターの方に戻っていった。
 競馬のそのレースは終わっていたが、晃一はまだ苦笑を終わらせなかった。この喫茶店に入ってから僅か十分程度の出来事だったろうが、その間に揺れ動いた自分の心象を整理してみた。
 しかし、それは車を運転しながらでも良いだろうと思い、その店を後にすることをした。
 僅か三十分程度の喫茶店での休憩であったが、旅でこそ味わうことの出来る経験であろう。

 旅をする意味はいろいろあるが、その一つは旅の途中で遭遇する様々な出来事を自分の心象と対比して考え、自分の性格を見つめるチャンスをつかむことであろう。

 再び車に乗り、運転をしながら黙想を開始した。カーラジオからは、“あかちょうちん”という曲が流れていた。
 いつも同じ場所に留まれば、身の周りに遭遇することもマンネリ化し、それを材料に自分をコントロールする機会はなかなか訪れないし、ものごとを考える機会も無くなってくる。
 しかし旅というのは、遭遇することも新しいし、出会う人も自分のことを外見以外に何も知らない。
 人間同志の話というのは、互いに最も興味のありそうな話をするもので、話し相手が興味を持ちそうか否か、話し相手になりそうか否か考えながら会話をする訳で、もし話し相手との付き合いが長く、相手を知っていればいるほど、話の内容は限定してゆく。
 相手が技術者であれば、技術的なトピックスを話題に出すし、テニス仲間であれば、テニスの話題をするということになる。
 しかし、旅で出会う人間は相手も旅行者であれば状況は違うであろうが、そうではなく、例えば旅先の地元の人間だとすると、自分の属性、人間性、個性、出身など全く意識しないで話をするので、この上もなく嬉しい話をされる場合もあるし、不愉快な気持ちになるになる話をされる場合もあるだろう。
 しかし、それも自分のそれらの状況を全く知らない人間が言うのであるからそれに一喜一憂することがおかしいのだ。
 いくら不愉快なことをいわれても相手を許さなくてはならないのが旅であり、その投げかけられた相手の言葉の内容と自分の心象とを対比させて、自分の心象を異なる次元に遷移させる機会を求めることができるのが、旅の効能かも知れない。
 もし、先ほどの喫茶店で、自分に競馬の話をしかけた人があっても、その人にそっけない素振りをする訳にはゆかず、むしろ、その話題に溶け込もうとする。そんなことが素直に出来るのが旅のよさである。
 そんな言い訳をしながら、同じ方向に、即ち岡山市内の中心地に向かっているはずだった。
 喫茶店の店員に、地名やら、岡山市内までどのくらい時間がかかるか聞けばよかったかなと思いもしたが、気の向くままの旅ドライブであったから、道路標識頼りで良いのだと考えることにした。
 これが、人生の一場面であったら、余りにも無茶な行動ということになるのは明らかだが、人生には色をつける添加剤が必要で、最初からどうなるか分かる添加剤よりは、成分も量も分からない
 添加剤をドープする興味の方がはるかに大きい。 そんな論理が暗黙のうちに晃一の精神に住み着いている様に思えた。
 ほんの僅かな添加剤であっても、母材の純度が高ければ効き目は高い。
 旅というのは、自分の心の純度を意識的に高めている状態なので、ほんの僅かな添加剤であっても、添加剤の種類によっては新鮮で高い効き目を呈するのであろう。
 喫茶店でのことは、本当に些細な日常的に起こりえる僅かな量の添加剤であったのだろう。しかし、なんとなく溜め込んだストレスを開放すべくあてもなくはじめたドライブであり、そのことが知らぬ間に純粋な気持ちにさせていたのだろう。
 
 何分か進むうちに、二号線に遭遇できた。いままで走ってきたのも二号線だった筈なので、バイパスなのだろう。いずれにしても岡山市内では合流するだろうと思い込み、空いているバイパスのほうにハンドルを切った。
 しかしいくら南下しても岡山市内らしきところへは行きつかず、レンガ造りの煙突が目立ちはじめてきた。工場地帯で、土曜日でも出勤日だったのであろう。
 時計を見たら五時少し過ぎであった。
 工場帰りの工員さんであろう。道狭しと、徒歩で、自転車で、家路につく人びとが溢れていた。全ての人が家路についているのではなく、自分と同様、一週間の疲れを癒すために、一杯やってから帰る人、若い男女は互いの話で親しさを増し、あるいは情愛を深めて青い一日を省みているのかもしれない。
 そう見える光景は晃一の願望そのものかも知れなかった。


 よくよく注意してみると工場という工場、皆焼き物を生産しているようだ。
 備前焼であり、それに気がついたのは、バイパスが終了し、もとの国道二号線にもどりかける交差点に、備前焼窯元と書かれた大きな案内板が眼に飛び込んだためであった。
 備前まで来たのだ、と感慨深げであったが、後に地図で確認して分かったことだが、備前市は兵庫県の明石市に接した岡山県でも最も東側の市になるので、特に感慨深げになる必要は無かったのであった。
 岡山市内には届かなかったが、既に夕刻、日帰りドライブコースとしてはここが限界だろう、ということで備前伊部で折り返すことにした。
 ちょうど備前焼の色調で彩られたレストラン兼土産物屋という感じの店で食事をして折り返すことにした。
 店内には一組の老夫婦と一人の老人がいたのみで他は女子店員が一人いたのみであった。その女子店員に、
「お食事ですか?」
と尋ねられ。「そうです。お勧め料理ありますか?」
「このあたりは瀬戸内の魚を使った料理がお勧めですが、今日は
鰆(さわら)の焼いたのがあります。それにします?」
 晃一は、鰆の焼いたの、とは趣の無い料理の紹介だなと思いつつ茶褐色で長方形をして僅かに凹面状に反り返った備前焼の皿の上に鰆の焼き魚と、赤から黄緑色へのグラデーションの生姜が載っている光景を想像した。そして、
「それで結構です。それと他に夕食になるようにご飯と漬物、味噌汁も一緒にお願いします。」
そして、「こちらへどうぞ」といって老人と背中合わせになるような向きに座らせられた。
 座ってみて気がついたのだが、妙に落ち着くのであった。
 その様子を感じ取ったのか、背後に座っていた老人が、「お若いの、どうだい、そこの座り心地は? 特等席なんやで、そことここの場所はな。」
と声をかけてきた。
 晃一が返事をする前に次の言葉を続けた。
「誰がそこへ座っても一様に気持ちが安らぐんや。何故か分かるかいのう?わしの研究によると、客が出入るこの店の戸口と反対側にある勝手口を除いて、周囲何処をみても備前焼で覆われているんや。備前焼というのはどういう特徴があるか知っているかな?」
「釉薬を一切使っていないこと?」
「それもそうだがもっとすぐ分かることがあるやろ。」
「色ですか?」
「そうや、その色や、赤茶けた色は何の色か分かるかいな?」
「鉄の色ですね。」
「そうや、鉄の色それがヒントやね。」
「分かりました。磁気を発生させる鉄成分ですね。それによる磁
気が集中している場所がこのあたりなのですね。」
「よく分かった。技術屋さんかな?」
「そうです。材料技術屋です。」
「そりゃ良かった。ところでお若いの、一つ分からないことがあるんや、分かったら教えてくれんかな。」
「分かることであれば、教えるというよりコメントさせていただきます。」
「備前焼というのは知っていると思うが、平安時代の須恵器の流れを汲んでいるんだが、その色は今の備前焼の色と違い、暗い青色がかっているんや、どうして今の色になってしもうたのかようわからんのや。須恵器のルーツは土師器(はじき)と言って、そちらはどちらかと言うと暗い赤みがかって今の備前焼の色に近いんや。」
「その程度だったら分かります。鉄というのは、酸化第一鉄と酸化第二鉄があって、前者は赤、後者は青味がかるのですよ。どう違うかというと、前者が三価のイオン、後者が二価のイオンからなっていて、熱処理温度によって変わるんです。
 低温では三価のイオンの酸化第一鉄に、高温では酸素が抜けて、二価のイオンの酸化第二鉄になるんですよ。」
「そういうことか。なるほど。最初は高温で焼く技術がなくその為に三価の第一酸化鉄の混じった土、即ち土師器が、そして時代とともに高温で焼く技術が出来てきて、二価の第二酸化鉄の混じった土、即ち須恵器が出てくるということだね。
 そこまでは分るんやが、そしたら何故またこの色、どう見てもこの備前焼は三価の第一酸化鉄だけど、高温焼結技術は益々発展しているのに、何故その技術を放棄したんやろ、やはり備前焼は謎だらけやな。」
 そう言いながら日本酒が注がれた備前焼製のお猪口を晃一に向かってさしだした。
 晃一は反射条件的に、そのお猪口を受け取ってしまったが、受け取ったものはそれだけでなく、温かみのあるぬくもりであった。
 そして、今度は晃一が備前焼の謎についての推理を吐露した。
「先ほど、酸化第一鉄と第二鉄の話をしましたが、同じ焼成温度でも周りの雰囲気によって変化するということもあるんですよ。したがって、必ずしも高温技術がなくても、周りの雰囲気をうまく制御出来れば、酸化第二鉄の色は出せるはずですよ。」
「なるほど、その周りの雰囲気というのは、どの様なものなんやろ?」
「それは還元性の雰囲気で、たとえば、二酸化炭素と一酸化炭素というのがありますが、後者のガスは強い還元性を呈します。人間は一酸化炭素ガスの充満する雰囲気では生きて行けませんが、これは血液中のヘモグロビンが脳まで搬送して生命活動に不可欠な酸素を一酸化炭素ガスが奪い取ってしまうからです。
二酸化炭素と一酸化炭素との違いは酸素の量の違いで、酸化第一鉄と第二鉄の違いも酸素の量の違いだけなのです。したがって、酸化第一鉄を一酸化炭素に触れさせれば、酸化第一鉄は酸化第二鉄になって、一酸化炭素は二酸化炭素になるのです。」
「一やら、二やら、ややこしい話だけど、要は一酸化炭素ガスが充満した雰囲気で焼成すればそれほど高温で焼かなくても青色が出せるし、高温で焼いても二酸化炭素ガスが充満した雰囲気で焼けば青くならず茶褐色を保つということやな。」
「そういうことになりますね。鉄以外にも、コバルト、銅、ニッケルなど同じ様なものです。焼き物は顔料を如何にその化学変化と色変化の関係をうまく利用するかと聞いたことがあります。焼くときに使う薪の種類や粘土の種類によって何が違うかというと、微量であっても含まれているこういう成分が違うのではないでしょうか」
「その話を、登り窯の場合に適用するとどういうことになるか、話してくれんか。」
「私は登り窯という名前は知っていますが、実際見たことも、そこで焼かれた陶磁器も実際に見たことがありません。ですから、あくまでも憶測の域を出ませんが、こういうことは言えると思います。」
 その老人は先ほどまで座っていた晃一の背面の位置から、晃一の隣の位置に知らぬ間に席を変えていた。そこに、それまで眼につかなかった五十歳前後の女店員がお茶を持ってきて、「社長さん、席を替わりはりますか?」と老人に向かってにこやかに話しかけてきた。
「ほな、お茶はここに置いておきますさかい。」
「お前も話に加わるか?この若いのは目からうろこが落ちる様な話をしよるで、丁度お前も好きな登り窯のところや。」
「あと三十分くらいしたら店閉めますさかい、それまで引き止めておいて下さいね。」と言って晃一に向かって軽く会釈して、店の奥に消えた。
 晃一は、この人社長さんなのか、どうりで暇そうに見えた、と独りごちた。すると老人は、それが聞こえたかの様に、「少しでも暇を作って、勉強せんとな。先ほどの話を続けてくれんかな。」
「登り窯の場合の話でしたね。備前焼は登り窯で焼く場合があるのですか?」
「最近はほとんど工場で生産するので、使うことは殆どないが古備前は殆どが登り窯を使いよった。この一帯伊部は古窯址(こようし)が群になって分布していて、山や丘の斜面に創られていたらしく殆どが登り窯だよ。」
「それで、登り窯なのですね。分かりました。ではあて推量ですが話しをさせてください。
 先ほどの二酸化炭素と一酸化炭素の重量を比較しますと、二酸化炭素の方が重いんです。したがって登り窯ですと、上の方に一酸化炭素、下の方に二酸化炭素が滞留することになります。
ということは、上の方に青身がかった焼き物が、下の方に赤みがかった焼き物が出来るはずです。」
「どうかね、お若いの、そのことを確認したいと思わんか?」
と、その老人はやや踏み込んだことを言い始めた。

 その日のうちに京都まで戻りたいと思っていた晃一にとってはやや迷惑な老人の提案だった。
 しかし、成り行き上、拒絶する訳にも行かず、「確認したいのはやまやまですが、実は私は京都に住んでいて、今日中に帰り着こうと思っていたのですけど。」
「京都の人間にしては、言葉つきは関東風やけどなあ・・・。明日は日曜日やないか、明日帰ればいいやないか、宿はうちでよければ一泊二食つきでただや、うちは家内と二人だけやから全然遠慮はいらへん。」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「よし、決まりや。店閉めるでー。」
と奥の方に向かって大きな声で、その老人は叫んだ。
 奥の方から、先ほどの五十前後と思われた女性の声で、
「戸締りは終わりました。いつでも帰れます。車も先ほど呼んでますやさかい、もうすぐつきますやろ。」
という言葉が終わるか終わらないうちに、車のクラクションの音が店の外から聞こえた。
 晃一はクラクションの音の方に視線を向け、観念し、「そんなことしたら、ご迷惑ではないのですか?」と聞いてみた。
「大歓迎や。」
と、老人とその五十前後と思われた女性の同時の声であった。
ということは、この二人は夫婦か、と合点がゆき、割烹着からチャイナドレス風の正装に着替えたその女性の姿が目に入った。
 先ほど感じたよりは若く、四十歳程度に見えた。視線が涼やかで、唇が薄く、その唇に薄いピンクの口紅が上品に塗られていた。
老人は、
「明日、邑久窯址(ゆうきゅうようし)に行ってみようやないか。
そう言えばまだ自己紹介してへんかったな。わしは、藤原いうんや。あれはわしの家内で、土師氏の末裔の娘で、焼き物の技術ではわしはあいつに及ばんのや。」
と言った。
そこへニコニコした顔で、晃一らのところへ近づいてきて、
「では、帰りましょう。えーと、何さんでしたっけ、さあ行きましょう。」
と言った。すかさず晃一は、
「私は薄晃一(うすきこういち)と申します。申し訳ありませんがよろしくお願いします。」
と挨拶して、立ち上がった。
「薄さんは少しアルコールが入っているやろ。薄さんの車はうちの若いのが運転して行くからわしの車に乗って来なさい。わしはアルコールが苦手で全く飲んでいないので運転はわしがやって帰ろう。」と老人はやさしく言ってくれた。
 三十分ほどして、老人宅へ着いた。ガレージは一面青黒い焼き物で敷き詰められていた。
 そして家の外壁は赤黒いレンガが、高さ五十センチ程度の高さまで積み上げられ、其のてっぺんにはすみれの苗が埋っていた。
 そしてレンガ塀で囲まれた家は平屋で、敷地も建坪も、並みのものであり、財産は全て他のものに費やしてしまったという感じであった。
 玄関の構えも荘重という感じよりも、落ち着いてはいるが、ごく普通の大きさであった。
「粗末な構えやろ。会社の方に全て使ってしまってな、家の外装に手間をかけられへんかったんや。」
と老人が晃一の心を見透かしたようなことを言った。そして奥さんが補足する様に、
「本当は半分は社業に、他の半分を備前古窯史跡(びぜんこようしせき)の保存に使ってしまったというのが事実や。以前は岡山市内の一等地に居を構えていたんよ。それを売り払って出来たお金を史跡の保存の方に殆ど全て投じてしまったの。そんなの市役所に任せておけば良いのに、何かに取り付かれたよう。」
「そういうお前こそ、その話を知ってわしのところへ来る気になったと言うではないか。普通は逆やで。財産を手放したら愛想をつかして出てゆくものだよ。
ま、その理由はあとで納得ゆく理由があること教えてもらったけどね。薄くん。この人はね、土師氏の子孫なのだよ。
さあ、こんなところで立ち話をしていないで家の中に入ろう。」
と言って戸口の方へ晃一を案内した。
 屋根の高さが一メートルも無い。それどころか入り口がどこにも見えないのである。隣家の大きな豪壮な佇まいの家とは対照的である。
 家の外壁は分厚いガラス製で、そのてっぺんは無造作に割ったような破断面が不規則に突き出している。
 この曲鏡面が周囲の町の灯や月や星の明かりを集光しているようできらきら光って美しかった。
 明らかに青板ガラスの青緑色が基調になっている、と思ったのであるが、その瞬間、その色が青緑色から乳桃色に変わった。
 そして、その色が隣り合った破断面に移動してゆく。まるでネオンのようであるが、街中で見るネオン灯の下衆さは全く感じなかった。
 この仕掛けは中に入り、その老人藤原氏に聞いて初めて分かった。
 藤原氏は二メートル四方はあると思われる御影石(みかげいし)の上に立ち止まっている。
 そして晃一が藤原氏の隣の位置に来た時、藤原氏は、
「そこを動かないで下さい。」といった。そして、次の瞬間、二人の体が沈み込んで、その沈み込みが終わると視線の正面に戸口が現れた。その戸を手で開け、藤原氏は奥に入っていった。
 老人は備前焼の科学的側面を老人なりにまとめようとしている。 晃一を自宅まで呼んだのは、晃一がセラミック材料のことを良く知っていて有意義な知識を仕入れる、というのが目的とばかり思っていた。
 しかし、この奇妙な建物の屋根の仕掛けを見ると、そんなことは既に知っていて、何か他の理由があってつれてきたとしか思えなくなってきていた。
 廊下の奥の方から人が近づいてくるのが分かった。驚いたことに奥さんである。いつの間に先廻りしていたのだろう。
 先ほどよりも更に若返って見え、三十歳台としか見えなかった。
 生地の色が青みがかったチャイナ服で、胸と膝あたりにピンクの大きな芍薬の花の図柄が葉とともに描かれていて、襟の合わさったところには、小さなコスモスのような図柄の花が飾られていた。
 チャイナ服は半袖であり半袖の中から伸び出た腕はおしろいを塗ったようにもち肌で、彼女の実年齢を益々分かりにくくしていた。
 玄関から案内された廊下は、やや上り坂で、ところどころ急な上り坂があり、二十メートルほど歩いたところで、広いロビー風の大広間に着いた。
 なんと、驚いたことに、先ほどまで一緒にいたと思っていた藤原氏が、にこやかにソファーに腰を落としながらこちらを向いていた。
 まったくこの人達はいつの間にかいなくなって、いつの間にか
出てくる人達だなあ。と独りこちた。
 部屋には中国風の曲が流れ、懐かしさを感じることができたが、 同時にふと那智の中国風寺院で聞いたメロディーを思い出した。
藤原老人の後ろに従ううちに、視界が急に明るくなった。
その明るさの光源は、最初は明る過ぎて輪郭さえ捕らえることが出来なかった。
 しかしながら目がその明るさに順応するにつれて、その輪郭がはっきりし始めた。そしてこれは最近晃一が目にしたことがある光景とそっくりであることに気が付いた。
 その光源に向かった登り窯の様でもあり、晃一が勤務する会社のトンネル炉の様でもある存在が横たわっていた。
 そして、その周りで誰かが手をあげている。こちらへ、という手招きの格好で、なにやらゆらゆらと動いているのである。
 後ろから、「家内だよ。」との藤原老人の声である。
 有り得ない、と晃一は心の底で叫んだ。有り得ない理由を反芻している中に次第に近づいて来ていて、その誰かの表情や、着ている服の模様がはっきりしてきた。

 その表情は、会社で圧電振動子の測定をしていて隣で測定していたパートと思われた女性である様でもあり、菟新明初子の様でもあり、那智の滝の側の中国風寺院にいた女性の様でもあった。
またその服装は、牡丹が描き込まれているチャイナドレスであった。
 晃一は空腹感を覚えていた為か、夜食という言葉が頭に残っていて、その女性の周りを見渡し、食卓の有無を確かめていた。
 しかし、彼女の周りは靄っていて確認することは出来なかった。
 登り窯は手前の低いところが黒赤色のレンガで、向こう側の高いところが黒青色のレンガで覆われていて、その間は黒赤色から黒青色へのグラデーションで少しづつ色が変わっていた。
 丁度、レンガの色がグラデーションで少しづつが変わるあたりに藤原老人の姿が見えた。
 いつの間に場所を変えたのだろう。藤原老人がその女性と同じ様に手招きの格好で両腕を前後に揺らしている。そして今度こそ藤原老人の前に食卓が配置されていて、山盛りになった肉料理が並べられていた。
 晃一がそちらの方に歩を進めようとした瞬間、その手前に大きな川の流れが目に入った。
 それほど急流でもなく、深いようにも思われなかったが、川の向こう側に行くのに大きな障害になる川の様に思えた。助走して飛び越えられる幅程度にも見えるし、そうでも無い様にも見える。
 この川を越えて行かないと、あの料理にありつけないし、下手すると帰ることも出来なくなってしまう、という気持ちの一方で、あの川を越えるのに失敗したらどうなってしまうという気持ちで葛藤している自分の姿が見えた。
 前向きの気持ちが強くなるにつれて、その川の幅が広くなり、流れも速くなるようである。
 また、失敗した時の恐怖が先にたつにつれて、対岸にある料理、藤原老人の姿、そして牡丹が描き込まれているチャイナドレスを身につけた女性の姿もぼやけて見える様になるのであった。
 また、川幅は狭くなり、流れも緩やかになるのが認められた。
 そして躊躇を重ねていると、背後から、「薄さん、トントントン、薄さん、トントントン」
という声と音が聞こえた。
他にも人がいたのかと思い、後ろを振り返ろうとしたが、首が回らなかった。
 しかし、正面の光景は次第にボケて行く様である。
 それと対照的に背後からの声がはっきりしてきた。そして思い切って振り返ろうとした瞬間、目の前に暗闇の先の天井が現れた。

 晃一は、目をこすって立ち上がり、入り口のドアに向かった。
------電話かな。
 電話器は寮の各部屋にあるのではなく、この借り上げ寮のオーナーである鷹野さんの自宅玄関にあった。寮生は実家等との連絡には、鷹野さんの電話番号を教えていた。電話の向こうから晃一の母、薫の声が聞こえた。
「元気なの?今度の五月の連休には帰ってきてね、お父さんもあまり体調が良くないようだし。」との事だった。
晃一は、「分かったよ。今度の連休は帰る。四月二十九日に帰ることにする。ところで、お父さん病気なの?」と聞いてみた。
「そうでもないけれど、疲れているみたい。」という母の答えだった。
 晃一の父、為次は六十歳を過ぎていたが、相変わらず会社勤めを続けていた。
 長らく経理畑の仕事をしていて、他に後継者がいないので社長との調整でそうなったのだろう。
 晃一の父がこの会社を退職するのは、この時期から二十年以上も先のことである。晃一の父は、百歳まで生き伸びることになるのであるが、勿論、晃一の家系では最長寿で、過去帳を見ても九十歳を越える長寿者は他に現れていないのである。
  
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