槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/01/21 23:37:55|物語
西方流雲(45)
               西方流雲(45)

            <<< 47. 洛北 正伝寺 >>>

 そして師走も早二十日を過ぎようとした金曜日の午後、五月に見合いをした滝内康子から会社に電話がかかってきた。近くまで来たので、会ってくれないか、という内容であった。
 突然のことで大変驚いたが、結局二十二日の日曜日まで相手をした。
 五月の連休の時にテニスの帰りに、断れない状況下で見合い、と言っても事前に名前も、顔も家庭環境も、学歴も全くしらずに会い、そのまま相性を見出せず、記憶の彼方に去っていた人であった。
 しかし、電話口で名前を告げられた時、すぐに顔を思い出せたので、全く記憶の彼方に去っていたのでもなかったのだろう。
 丁度半年が立っていたが、彼女の方は、記憶の正面に晃一のことがぶら下がっていたのかも知れない。形としては晃一の方が再会を拒んでいた形なので、頭に来ての行動だったかも知れない。
 または、彼女自身の複雑な気持ちを年内に整理する目的で八日市までやって来たのかも知れなかった。その様な詮索をすることが極めて苦手な晃一は、近くの名所を案内することで時をやり過ごそうとした。
 車で、近くの永源寺、また京都は清水寺を案内した。殆ど車の中での会話だったが、冬であり、車の窓は閉めているので、騒音は行き交う車の音と、自分が運転する車のエンジンだけであった。
 したがって話をするのには最高の環境であったが、もともと口が重い晃一だったので、それほど多くのおしゃべりはしなかった。
 その会話の中でも、彼女がどちらかと言うと我儘な性格であることと、人生を力強く生き抜くというパワーに欠けているという第一印象を拭い去ることは出来なかった。
 しかし、こんな遠いところまで、意を決してやってくるという一途さはそれらのマイナスの印象を少しでも減らす効果があったことは確かであった。
 永源寺には永源寺ダムと呼ばれる人工の貯水池がある。そこには、水をせき止めるための高さのある堰水壁があり、その底部には、せき止めた水を水位に合わせて放流するための水門がある。その水門を見おろすと、十メートルほどの直下に見える。高所恐怖症の人間だとひとたまりのも無い高さであり、晃一も、こういうところは苦手であった。
 堰水壁の上辺部には、車がやっとすれ違うことが出来る幅の車道と転落防止の為の幅一メートル足らずの壁が、高さ一m程度の高さの柵が両側に作られていた。片側の柵の向こうは蓄えられた水、他の柵の向こうは深さ十メートル余りの谷が見えた。
 その一メートル足らずの幅しかないコンクリート製の柵の上に彼女がぴょんと跳びあがり、足を滑らす様に歩き始めたのである。晃一は心穏やかでなかった。もし突然突風が谷に向かって吹いたら彼女はどうなってしまうか。バランスを崩して谷底に転落してしまうかも知れない。
 そんなうろたえた表情の晃一の顔つきを楽しむ様に平然と歩を進めている。晃一から見ると、その姿は晃一を責めているようでもあり、自分のことをじっくり見てくれと言っている様でもあった。パンタロンの裾が大きくそよぐ度にどきっとすることを何度か繰り返すうちに、やっとその行為が終わり晃一の靴裏が乗っている地面に着地した。

 京都では洛北正伝寺を案内した。血天井で有名な寺で、比叡山の山容を借景した庭園が晃一は好きで、それまでに何度もそこを訪れていて、古都の懐に抱かれるような感慨を行くたびに持っていた。 そこへ彼女を案内する気になったのは、自分の奥のところを見せるということであり、そういう気になったことは、その年の五月に初めて会ったときに比べ、彼女に対する気持ちに多少の変化が現れていることを意味しているように意識できた。

 正伝寺は、何年か前に尾崎と一緒に訪れたことのある光悦寺から距離にして一キロメートルもない小さな寺院であり、山道を歩くと左手にゴルフ場が見えるところである。
 ここを訪れ、借景の比叡山を眺めた後、大きな背伸びをして廊下に背をして上を見ると血天井が眼前に現れる。
 徳川側の忠臣鳥居元忠らの最後の場所となった、伏見城での修羅場での声が耳をつんざ劈く様な感じがする。そしてそれが鎮まると、次には光悦寺での出来事が頭をよぎるのであった。

 光悦寺で晃一が倒れたとき、近くの医者が駆けつけてくれ、晃一の容態を診てくれた。更に、崇徳院の怨霊の話を聞いたことを思いだした。その怨霊は人に認められたい、認められたい、と一生懸命になっている人の心に住み着き、それがかなわないということが分かった時に活動を開始するということなんや、という話が晃一の心の襞にしっかりと残っていた。
 光悦寺、源光庵、三千院(寂光院)ともに、晃一が奇妙な体験や卒倒したりしたところであり、其の度に、何かの霊片が晃一の精神のどこかに入り込み、住み着き堆積して行くような感懐をここに来る度に感じるのであった。しかし、それは晃一の気分に危害を与えるものではなくそっとしておいた。

 三十年も後に、このころのことを思い出す機会があり、正伝寺のことを思い出し調べてみると、この寺は、別名下御霊神社と呼ばれることがあるらしい。寺院でありながら神社とも呼ばれるのは神仏混交で、違和感を感じさせるが、歴史の長い京都には多くの怨霊が存在し、それらを鎮める祠もまた数多い。
 この下御霊神社の祭神は、そうした御霊を祭ったもので、京都の中でも特に強い怨霊を八つ祭る神社として知られ、この八霊を指して八所御霊とも呼ばれているという話を発掘している。
 このような怨霊が晃一と相性が良さそうというのは、晃一の足が自然にこの地域に向くことからもがてんの行くことであった。
 物語が進行しているこの時点では、そんなことは知らなかったので、単に気持ちを安らかに出来る寺という位置づけしかしていなかった。
 彼女は晃一の隣に座り、晃一と同じ様に無言で借景の比叡の方を眺めていた。晃一から彼女のそうしている面貌をみる角度は、かって神戸六甲山の見晴らし台からじっと神戸港を見つめていた女性を見た角度と同じであり、長い睫毛、肩まで降りた長い髪は同じであった、無言の姿が晃一に語りかける内容は全く違うように感じたが、一瞬、この人は自分の妻になる人かも知れないという気持ちを持ち、それを温めている自分の姿が見えた。
 正伝寺を後にして京都駅の方に向かった。新幹線の時間に少し時間があったので、駅近くの喫茶店で三十分ほど過ごし、彼女を送り返した。
        
              <<< つづく >>>







2008/01/20 0:39:24|物語
西方流雲(44)
              西方流雲(44)

           <<< 46. 市会議員 >>>

 晃一が住んでいる独身寮は奥山寮という名前で、食事は土日以外は準備されるが、土日祝祭日は外食しなければならない。八日市駅近くの食堂で食事を済ませることにした。
 ラーメンと餃子を食べながら、店に置いてあった新聞に目を通した。隣のテーブルに客がいて、もしかして、その客の持ち物かも知れないとも思ったが、その客のテーブルの片隅に折りたたんで置いてあったのを手繰り寄せ、目を通し始めた。
 するとその隣のテーブルの客がぶつぶつ言い始めた。新聞を晃一が持って行ったことを咎めているのかと思い、晃一は耳を側立ててみた。
「田中さんも終に政権を手ばなす様だな。」
「最初から短命の予感があったが、どうしてやろか。」
「最近の経済情勢は最悪やから、どうこれを切り抜けるつもりやろか。」
「日本人は情報に毒されている。」

 その一言を聞き、晃一はこの人物がどの様な顔をしているのか興味を持ち、新聞越しに覗いてみた。まだそれほど年をとっているとは思えない。図体は大きく、顔からは精気が漲って目は輝いていた。
 晃一は、ここ近江の地が近江商人の発祥の地であることを聞いたことがあった。西武鉄道の開祖、堤康次郎の出身地であり、先程利用した近江鉄道も西武鉄道系の私鉄であり、使っている車両は晃一にとって懐かしいデザインの、黄色とチョコレート色のツートーンカラーであった。

「島国根性を持っている日本人が多種多様な情報を正しく取捨選択できるだろうか。一つ間違えると、無意識のうちに、方針を持たないということが日本人の属性になってしまう。困ったものだ。」
 このぶつぶつが厨房にいた店主にきこえたのか、奥の方から、
「先生、またぶつぶつですか?思い切って立候補されたらどうでっしゃろ?革新候補として出馬されても、我々ここの商店街の連中は皆支持しますさかい。」
「僕には、近江の保守的な血が流れているけど、気持ちは琵琶湖をきれいにしたいということだけなんだよ。情報の弊害も心配だけどね。」
「男武村が泣きますよ、先生。折角東大出て、周りのものが期待しているというのに。こんな田舎町の市議で終わって良い人物じゃありませんよ、先生は。」
 そうか、この人は市議会議員だったのか、と晃一は頭のなかで呟いた。ぶつぶつはまだ続いていたが。
「琵琶湖が公害に汚染されてゆくのと同じように、人間も情報に汚染されて行くのではないだろうか?特にTV番組制作のダイナミクスが怖い。」
 晃一は思わず、「どの様に怖いのですか?」と口から出そうになった。すると、その人物は、それに答えるかの様に、「マスコミ、コマーシャル、視聴率、興味本位の低俗番組。」
と、いくつかのキーワードを口からこぼし、これらの言葉を使って四則演算しているかのようだった。

 晃一のこの日1974年11月23日(土)の日記には、その日、京都実相院、大雲寺、円通寺、を訪れたことを記したあとに、二十世紀情報を伝達する最短の媒体はやはりTVであろう、と記されているが、まさかその二十世紀のうちにTVと同じか、それ以上にパソコンという装置がでまわり、それを用いたインターネットが情報媒体の主役になろうとは夢にも思わないのであった。
 また、日本の政治も、この日から世紀を跨ぐ年までの四分の一世紀の間に、その日の大雲寺で見た、風に翻弄され、寺庭片隅から反対の隅まで吹き移されたり、寺庭のあちらこちらで旋回する紅葉のように大揺れしてゆくのである。
 そして、たまたまその日居合わせたこの人物が、八日市市長、滋賀県県会議員、を経て政界を登りつめ、自民党を経て、さきがけという名の政党の党首となり、また大蔵大臣にまでなるとは、晃一によらず、そこの店主も思いもしなかっただろう。

 この頃は一日置きに日記を記している。

1974年11月25日(月)
 この日、給料日だったが、給料の配布がなかった。それだけ不況の波が押し寄せている。会社は希望退職募集にたいする抗議を理由にストライキをした。午後からは会社に居るわけには行かず、金剛輪寺、西明寺、彦根城を訪問した。いずれも行きたくて仕方がなかったところだが、しばらく行ってなかったので、思い切って彦根城まで足を延ばした。やはり紅葉は抜群にきれいで、染め分け、真紅、黄色というように色とりどり模様が色鮮やかだった。
 彦根城の中に入るのは初めてであったが、伏見城、大阪城と異なり、むしろ伊賀上野城の如く、如何にも人が住んでいた城という感じで、外に映る紅葉と、その上方に見える琵琶湖の風情、井伊直弼の城ということで感慨深かった。西明寺では不断桜がまだ咲いていた。それでも風が吹くたびに桜の花びらが舞い落ちるのが見られた。
 おりしもこの頃、新田次郎の「武田信玄」を読んでいる最中であったが、秋の夜長とは言え、なかなか先に進まなかった。
 昨日一日遅れの給料配布だったが、十月と十一月に予定外の出費があり、あっと言う間になくなりそうな心細い気持ちになっていた。出費の内訳をメモしてみた。
 車のブレーキディスクの交換 15000円、
 名神高速での車の故障修理  11300円
 エンジン取替え       65000円
 スーツ           39000円
 革靴             4000円
           合計  144300円


1974年11月27日(水)
 七十二時間ストに突入した。七十名の希望退職反対のストでまる三日間の連続ストであった。この様子では一時金も、どの程度出るか分からないが、厳しいことに変わりは無いだろう。
 この希望退職は、希望という名前がついていても、実は肩叩きという噂があった。労働組合は委員長が民生系であり、徹底抗戦という意味があり、前代未聞の七十二時間ストとなったのである。
 京都は以前から蜷川知事が共産党系の知事で府政を執っていた為、革新色が強く、企業の労組も委員長が民生出身や共産党員が少なくは無かった。
 晃一が勤務していた会社も御多分に漏れず、委員長が民生出身であった。労使協調を否定し、勤労者の一方的な庇護を主義としていたので、当然ながら企業側からみれば、追い落としを画策し、せめて中立系の労組であってもらいたいと思うのは当然であった。
 この頃、主要労組は総評、中立労連、同盟、新産別の四つであった。中でも過激とされたのは、総評に所属の全国金属や合化労連であり、これらの上部団体に所属する企業内労組のストは日常茶飯事であった。
 晃一が最初に勤務した会社の労組は無所属だったが、親会社の方の労組は同盟系の全繊同盟であり、晃一が組合長を務めていた労組が合併した後も、全繊同盟に属していた。
 その会社が希望退職に踏み切る時は、会社側、労組側とも、希望退職のノウハウを持ち合わせていず、全繊同盟の世話になった。
 その時、会社を存続させる前提で、退職者の最高の退職条件を引き出そうとしている、交渉術や姿勢はただただ感心するだけであった。そんな経験を持った晃一にとって、総評系の組合でも馴染めないのに、まして民生系の委員長が率いる労組に馴染める筈がなかった。
 八日市事業場に転勤して間もなく、会社の建屋に入るまでの会社の構内で殆ど毎日、組合のビラ配布があり、それを貰って職場に向かうようになっていた。
 晃一は、その様に、その労組に馴染めない為か、ビラを受け取らずに職場に向かうことが少なくなかった。
 ビラ配りをしている人間にしてみれば、頭に来るに違いない。そう思ってもビラを受け取る気にはならなかった。
 そんな毎日を繰り返すうちに、ついに組合関係者からお呼びがかかった。毎日ビラを受け取らない人間に、喝でも入れようとでも言うのか、今度の土曜日に自宅へ来い、とのことだった。
 何故自宅か分からなかったが、特に予定も無かったので、書いてもらった地図を頼りに、その人の自宅を訪問した。
 晃一の住んでいる奥山寮から歩いて十五分程度の所にあった。まだ建てたばかりの綺麗な家だった。ドアをノックしたら、先ず奥さんが現れ、ついで、くつろいだ服装の本人が現れ応接間に通された。
 ビールをご馳走になりながら聞いた話は、以外や、晃一が普段考えていることと同じであり、組合の支部役員はやっているものの、決して労使協調路線を否定する立場ではなく、八日市支部の役員の殆どが、執行部主流派(京都本社派)とは異なる立場に立っていることが分かった。
 結局、其の日は意気投合という形で終わり、晃一は心地よい気持ちで寮に戻った。それは晃一にとって地元の人間の自宅を訪問した始めての日でもあった。
 そして、それ以来晃一はビラを受け取る様になった。
 不況はますます激しさを増してきている。前の会社では繊維ショック、ドルショックだったが、今回はオイルショックで性質が異なっている。
 ドルショックでは、輸出産業、特に繊維産業が打撃を受けたが、他の業界、特に電気、電子は内需に大忙しで、ドルショックの影響は殆どと言って良いほどなかった。
 物資が不足するというのではなかったので、当然のことであった。むしろ輸入価格が低下し、物価は安定してきていた。
 しかし、オイルショックは基本生活物資の不足であり、どの様な業界にも打撃を与えるし、国民全員が、等しく影響を蒙るのである。
実感として不況を感じ、買いだめや、懐の引き締めが行われるのである。
 久しぶりに、パチンコをし、その後、喫茶店「チャオ」に一人で入り、時をゆったり過ごした。
♪♪♪
 サイモンとガーファンクルのハーモニーに、店内に置かれた棕櫚の葉が同調して小刻みに震えるテーブルの上のコーヒーの温かさが外にもあれば、世情も順調なのだが、寒風の中にゆれる棕櫚の葉が真実さ
♪♪♪
 その日の夜、TVで「十二人の怒れる人」を見た。ヘンリー・フォンダ主演の感動的で、見ごたえのある内容であった。十二人のそれぞれの個性が実に鮮やかに描かれ、その個性による自我への圧迫が、一人一人崩され、最初から無罪を主張した一人に次々に同調してゆく。そして最後に十二人の陪審人全員が無罪を主張することになる。
そんな内容であった。

 12月になった。八日、日曜日に尾崎、別宮宅を訪問した。晃一が勤務していた村多製作所でさえ、これほど迄に厳しい状況なのに、はるかに規模が小さく経営基盤も軟弱な彼らの勤務するユニゾンがオイルショックの影響を強く受けない筈はなかった。
 彼らの話では風前の灯火という状態らしかった。晃一の様な独身者はまだしも、彼らの様に、妻帯者はたまったものでは無いだろう。企業の存続すら既に保証されていない様な状態に至っているとのことであった。
 晃一が、もしこの年転職を果たしていなかったら、今頃どうしているだろう。彼らを気の毒に思うと同時に、この景気の状況に、無関心でいるわけにはゆかなかった。
 
 景気が悪いと、世の中が変革気分となる。田中角栄の後、三木武夫が総理大臣になった。政治の金権的な構造を打破し、清潔な政治をする必要がある。
 そしてこの景気の回復をさせるのが新内閣に託された課題であろう。組閣で目新しいことは、文部大臣に民間出身の永井道雄氏が任命されたことであろう。
   ♪♪♪
   突然一人になりたくて
   そぞろ歩いたら
   いつの間にか寺の音
   近江湖東西明寺

   不断桜も耐えきれず
   枝にはいつしか白い雪
   ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~、鳴く雪と、
   ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~、忍ぶ雪と、

   紅葉の下を潜り抜け
   陽に透く陰は染め分けの
   そんな昨日は夢のよう
   そんな昨日は誰のもの
   ♪♪♪

 景気は更に悪くなり、12月12日から四日間一時帰休で連休となった。給与は90%支給される。
 余分な生産をしないで、在庫圧縮による経費削減と、四日間給与十%の天引きによる経費削減での見積もりの合計は前者に関しては、在庫圧縮効果で、月商20億円として4日/20日倍で4億円、人件費の10%の削減で、平均月給が20万円として、一人当たり、4日/20日倍で4万円、同じ日に500人が帰休するとして、2000万円、合わせて4億2000万円のプラスとなる。
 景気の良いときは作らねば損、景気の悪いときは作ると損、今の時期は丁度後者の時期に対応する。

 帰休を含めた四連休の三日目、暇があるときには金がない。まさにそれを地でゆく状態だった。
 しかし性来じっとしていることの出来ない性質で、そのような金欠状態でありながら、また京都へ出かけたのであった。
 金欠状態でありながら、京都まで行けたのは、交通費の半分を出してくれた人がいたからだ。この日の日記を、三十年後に、自分史風に物語を書き付けて行くのだが、交通費の半分を出してくれた人が誰か全く思い出せないのである。
 花背から嵐山へ出てきた人か、さざえさんと話の仕方がそっくりだったとのみ書かれている。日記の同じページに、金欠病の原因が遊興であること、自分の人生が品も格も無くなってきている、とも記されている。更に、この日、京都の朝は曇りで寒かったともある。

   ♪♪♪
    灰色の雲に向かって問う人
    白い吐息にかすむ朝
    夢の枕を起き出でて 常とは違う登り道
    既に葉の無いもみじの木
    行き交う人のいそぎ足
    消しわすれたか、昨夜の火
    師走の世情に浮く草の
    根をつけるにも今朝の雲
    粟田の関で待つ雨と、明日への関で待つ雨は
    青い冬空 青蓮院
   ♪♪♪

         <<< つづく >>>







2008/01/18 23:39:33|物語
西方流雲(43)
               西方流雲(43)

          <<< 45. 実相院 床紅葉 >>>

 そうこうしているうちに11月の紅葉シーズンになり、その23日(土)京都に紅葉を見に行った。毎年11月23日は京都、とくに神護寺に行くのが恒例だったが、今年は、何故か岩倉実相院から大雲寺、円通寺に足が向かった。京都駅前からバスに乗って行くことにした。
 丁度、晃一の愛車、中古のマークUが車検中である為だった。
玄啄方面にも足を伸ばしてみたい気がしたが、方向がやや違うので、あきらめることにした。一人で京都をブラつくのは久しぶりである。
 岩倉操車場のバス停を降りて、実相院に向かうまで畑の畦道を、背に陽を浴びながら歩いてゆく。のんびりとした人間らしい一日を過ごせた。崩れかけた土塀、比叡山の遠景、柿の木、見様によっては全て絵になる光景であった。徒歩だと車では行けない風情に接することが出来るのである。
     
 円通寺は初めて見た紅葉があまりにも綺麗で印象的だったためか、今回は紅葉がややくすんで見え、むしろ実相院の方が印象に残った。晃一はこのときもカメラを持って行き写真を撮りまくった。
 とくに実相院では門扉(山門?)をくぐる前から始まって、白壁に投影されるもみじの葉の輪郭、そして普通の民家にような佇まいの入り口(玄関)をくぐって、右手の廊下に足を運ぶと、またとない写真撮影の題材となる様な光景を目にした。

 この光景と、この寺の静かな佇まいは、年月とともに薄れることなく、晃一の頭に焼きつき、特定の人物とともに繰り返し夢に現れることになる。そしてその些細なことが十五年後に晃一が四十二歳で脳梗塞を患うことに多少の関係があったこともここで記しておく。その光景とは、以下の様に描写できるであろう。
 一枚の光の反射が全くない暗黒のスクリーンを晃一の全視野に展開し、そのスクリーンの中央から少しずれた領域に、全スクリーンの1/10程度の面積の縦長の領域を配置し、そこに真っ赤に紅葉したもみじの図をはめ込む。
 そしてはめ込まれたもみじ図の下半分が床に映ったもみじで逆さ紅葉となり、手前に近づくにつれて最後は真っ黒になるグラデーションの光景が映し出されている。
 床はやや紫がかった色を呈し、僅かに、板張りの板と板との継ぎ目が、水平方向に走る罫線の様である。この場面を撮った写真は、晃一が生涯撮り続けた多くの写真のなかでベストスリーに入るものと位置づけられることになる。
 後にこの寺院の観光案内の中で、「床紅葉」「床緑」と愛称のついた黒光りする床として紹介されることになる、その光景である。
晃一は子供の時から絵を描くことが好きで、人物や静物の輪郭を黒い線でなぞると絵が引き立つことを知っていた。
 そして色のグラデーションや風景、形のグラデーションも構図として引き立たせるのに良い構図になることも知っていて多用したが、一方で本来無いはずの輪郭を描き加えることが、何か偽っている様な後ろめたい気持ちに陥ったこともあった。
 しかし、その様な後ろめたい気分を凌駕して晃一の夢の中に繰り返し出てくる場面には一人の登場人物がいた。千住のおばあちゃん、と晃一が呼んでいた、晃一の父方の祖母であった。
 その「床紅葉」の場面の下部は床張りとなっているのだが、いつの間にか、そこにその祖母が現れ、立ち塞がり、黒いシルエットとなるのであった。
 その祖母は、晃一が中学二年の時吉祥寺から東久留米に引っ越してきた時に亡くなった。その時の親戚への連絡は、晃一が母に頼まれて、言われた通りの電文で電報を打ちに行った。
 祖母は亡くなる直前まで寝たきりで、全ての面倒を晃一の母がやってきた。晃一は時折祖母が寝ていた部屋の前の廊下を通るとき、祖母が「水、水・・・。」と声を出しているのを耳にし、水を湯注瓶に入れ、飲ませてあげたことがある。
 たまたまそれを母が見ていて、「晃一は本当に優しい子なのだから。」と誉めてくれたことがあり、その時の嬉しい気持ちをいつになっても覚えていた。しかし、葬儀、自宅で行ったのだが、の時、読経をする僧侶がたまたま風邪をひいていたらしく、読経をしている最中に読経につまったり、咳き込んだりするのであった。
 これが妙におかしく、ついにたまらず、晃一ら参列していた子供たちの何人かが声を立てて噴出してしまったのである。これで誉められたことが帳消しになってしまった。晃一は還暦近い歳になって、身近な人を失いはじめるが、晃一はそのときのことを思い出し、何と失礼なことをしてしまったかと振り返るのであった。
 そのように、とっくに亡くなった祖母が、この様なお気に入りの光景の中で、時折出現するのはどういう意味があるのかと不思議に思っていた。夢に出てくる祖母は動き回りとても元気であり、ついでに手招きするのであった。一体何を暗示しているのだろう、と、しばらくは気味が悪かった。

 ついでに、時は1988年に飛跳する。この時晃一は既に結婚していて、三人の息子の父親になっていた。また勤務先もそれまでの村多製作所を退職し、オリンピック光学に転職していた。
 住所も転職直後に居住していた西八王子散田町の社宅から埼玉県入間市の仏子という、かわった地名の地にあるニュータウンの一角に転居していた。
 その年の夏期休暇に晃一家族は東北方面にドライブ旅行をした。
岩手県平泉から越前高田、仙台、山形というコースであった。仙台は晃一の本籍地であり、菩提寺が通称“赤門寺”と呼ばれている称念寺という寺ということを、毎年お盆の頃に実家に来る其の寺からの挨拶状を見て知っていた。
 最初からそこを訪れるという計画を持っていた訳ではなかったが、伊達政宗の菩提寺である瑞願寺を訪れた直後に突然、脳裏をかすめたのが手招きしている祖母の姿と本籍地の本材木町という地名であった。
 ただしその地名は既になく、東北大学医学部裏ということをいつか聞いたことがある事以外、地理に関する情報は持ち合わせていず、通称“赤門寺”だけを頼りに行くことにした。
 伊達政宗の青葉城跡近くということが分かり、先ず青葉城を訪問し、その帰りに立ち寄ることにした。
 近づくにつれて、親戚、両親、姉らの誰かが定期的に訪問し、その土産話を聞くことは、これまで何度となく有ったが、薄家の惣領と言われながら一度も訪れたことのない先祖代々の墓のある菩提寺、そこを自分と自分の家族、特に長男を伴って訪れることが、薄家にとって計り知れない程の歴史的価値がある様に思えてきた。
 父は次男であったが、長男が早逝し、しかも子供は女ばかりであったため薄家を継ぐのは父の役目となり、その長男である晃一が薄家を継ぐということが、親戚内での暗黙の了解事項となっていて、本来、当の本人である晃一の存在はもっと大きくても良かった筈なのに、何故か薄家の親戚内では影が薄かった。
 本人もそれを承知していて、そのため、仙台という地や伊達政宗に憧れはあったものの、菩提寺や先祖代々の墓の話題になると一歩自ら退くという態度を示していたのだった。
 通常は、目的地にすんなり辿り着くことが稀な晃一にとって、不思議なことに、その寺に全く迷うことなく到着し、その界隈は多くの寺院があるため、花屋も多く、容易に花と線香を買うことが出来、墓地に足を踏み入れ墓を探した。
 それほど広くない境内に、高密度に墓が並んでいた。
整列というよりは乱立という並び方で、寺の歴史の古さを感じた。家族全員で薄という文字が刻まれた墓標を探した。そして間もなく
墓標が見つかった。上にそれほど大きくない球体の石が台座の上に乗っかった個性的な墓であった。
 準備した花を生け、全員で雑草を除去し、墓石に合掌し、更に線香を上げた。そして一万円を包んで、住職に渡した。
 この様に、其の年1988年、晃一にとって記念すべき先祖代々の墓参が偶然行われたのである。しかし、偶然という言葉を使うにはやや抵抗があり、考えてみれば辿ってみると、その原点に実相院の「床紅葉」の場面、と、図らずもそこにしばしば登場した祖母の手招きがあったからだと思っていたからである。
 晃一家族の墓参は、その様子を撮った写真を晃一の両親に見せたのをきっかけに、親戚中に知れるところとなり、父の二人の姉、即ち長老格であり、薄家の法事等主たるイベントを実質的に執りしきる二人の伯母に大いに喜ばれたのである。

 仙台には、すでに親類縁者は誰も住んでいなく、すでに老齢に達して、しかも東京在住の二人の伯母も病気がちで、とても墓参する体力がなかったのである。
 晃一は知らなかったのだが、この頃晃一の両親や親戚の間で先祖代々の墓を東京に移すことが、相談されていたのである。そこに薄家の惣領が前触れもなく仙台を訪れ、墓参だけでなくお布施までしてきてくれたものだから、話が一挙に加速し、その翌年1989年に先祖代々の墓をうつすことになった。
 東京から晃一が車を運転し、母と晃一の長男の武蔵を伴い、お骨をとりにゆくことになった。東北自動車道を途中一回サービスエリアに入り休憩しただけで仙台についた。
 着いたのは、早朝四時ころであり、予約してあったホテルで仮眠をとった。不思議なことにこの時も全く迷いもせず、ホテルに到着し、そこから称念寺までも、武蔵の記憶をあてにして、すんなりと到着したのであった。
 このときばかりは、余りにもことがスムーズに運ぶので何かに、と言ってもこの場合先祖の霊ということになろうが、導かれている様な気に囚われた。まだ小学生である長男が、前の年に同じ場所を訪れたと言っても、それほど順序だてて道を覚えているはずがない。
その長男に先祖の霊が入り込んで道案内しているとしか思えなかった。
 とすれば、先祖代々の霊の為に良い事をしているのだろう。
 墓に向かって読経をしてもらった後、寺の人に一切をやってもらい、晃一らはそれを見つめるばかりであった。
 その墓の石を動かした途端、中から、カマドウマが、待ちくたびれたとばかり数匹飛び出してきた。同時に中からなんともいえぬ匂いがしてきた。かび臭いが何か懐かしさを漂わす匂いであった。
この墓に眠っているのは最も新しいものでも、ほぼ三十年の間、この敷石は開かれなかった訳である。
 三十年ほど前には、祖父や祖母の時代のものであった。その祖父母が人生の大半を生きてきたこの地に、静かに眠り続けてきたところを起こされたのである。
 中は一メートル四方の空間で、御影石で五面を囲まれた石室の底面に、殆ど粉々になった無数の遺骨が無造作に散在していた。
 それらを、スコップの様なものでかき集め、二つの新しい白い骨壷に満杯に詰め込んだ。それとは別に小さな骨壷が隅に置かれていたので、それも引き上げて、一通り終わって、再び読経して、敷石を元に戻した。そして、来た道を反対方向に向かい帰途に着いた。異なるのは、車のトランクに大きな白い骨壷二つと、小さな骨壷一つ入っていたことであった。
 墓の移転は、面倒な手続きと費用がかかるが、これは晃一の親の世代の人達が全てやってくれたので、晃一は車を運転するだけで良く、武蔵は晃一の次世代の代表として付き合うというだけの話であったが、おそらく武蔵にとっては何の感懐も残らず記憶のかなたになるのであろう。
 小さな骨壷を、その埋葬者であった晃一の父の弟である為也叔父宅へ運び、薄家代々の墓の移転事業が終わった。
 晃一にとっては短時日での仙台までの往復ドライブであり頭にズンと来る疲労感を感じた。
 ついでに、翌年1989年の春、墓の移転先である所沢聖地霊園を墓参りした時の話はいつまでも忘れ得ぬものとして、ここに記述する価値があるだろう。
 三月の彼岸も明けた最初の土曜日に実家に行こうとした。自宅から実家に車で行くときに途中、墓を移した墓苑の近くを通る。たまたま其の日は自宅を出発したのが早く、そこを昼には十分早い十時少し前に通りかかった。
 そのとき彼岸の時に墓参するのを忘れていたことを思い出し、花も線香も準備していなかったが、苑内の売店で買えば良い、ということにして、いつも右折する交差点を直進し、一度左折し、更に、一度右折して墓苑に到着した、2500円の二束で一対の花と、線香を買い、墓石のあるところへ向かった。
 墓石は黒御影で、五年ほど前に晃一の母が、親戚から浄財を募って、それを元手にしつらえたものだった。分譲墓苑なので、どこも面積は殆ど同じに区画されていて、整然と多くの墓石がならんでいたが、まだ空きがポツポツと見られた。
 墓を移設したあとの最初の日曜日に親戚一同約三十名が集合して、墓の移設を記念する法事(納骨式)が開かれた。誰が亡くなったわけではなく、仙台から移設した先祖のお骨を納骨するだけであったので、悲壮感は全く無く、親戚一同が一同に会すイベントという感じであった。
 したがって晃一がそこを訪れたのは、それ以来二回目であった。
墓石の天面には鳩の糞で白く汚れた部分が数箇所あったのと、墓石の周囲の地面に、しだ系雑草が点々と生えていたので、きれいに糞を拭き取ったり、引っこ抜いたりした。
一通り清掃が終わり、線香を挙げるのも終わり、墓を囲った敷石に腰をおろした。
 その瞬間背中の下の方から湯気の様なものが背中を這い伝わって上昇してゆく様な、ゾクっ、とした感じがした。同時に体が浮き上がる様な、体全体が弛緩するような、非常に心地良い感覚に浸れることが出来、大きく癒される感じがした。
 晃一がこれまで体験したことのない感覚であり、場所柄、先祖の霊が墓の移転を感謝して、その様な感覚をプレゼントしてくれたのかも知れないと思い込んだのであった。
 しかし、後に知ることになったのだが、仙台での薄家は裕福で小作人を雇い、同じ敷地内にかれらを住まわせてやっていて、中に病気等で死者がでると、手厚く葬るだけでなく、同じ墓に埋葬してあげたのだそうだ。
 そういう霊達にとっては、墓の移転はどの様な位置づけなるのだろう。
 見知らぬ地に移されて迷惑がっているかも知れないし、それどころか呪っているかも知れないのだ。
 その年の秋にその呪いとも言うべきトラブルを晃一を襲うのである。
 しかし、それはまた後の記述にして、再び、実相院風景、即ち1974年に戻す。その時の隔たりは、丁度15年である。

 実相院の紅葉を楽しんだあと、大雲寺、円通寺へ足を延ばした。 前に大雲寺を訪れた時は、すぐ側の病院から患者と看護婦が出てきて、二人がゆっくりと散歩しながら、何気なく話しをしている中に晃一にとって気になるものがあった。
 その見事な紅葉は変わらないにしても、そのあたりを歩いている人は皆無であった。目の前にあるのは、本堂の前の一面紅葉の寺庭と寺庭の片隅にある鐘楼である。
 時折なでる様に吹く涼風によって、枝から紅葉が落下し、寺庭をスイープする音が、白色雑音の様に晃一の耳に飛び込んでくる。
その音がしない時はまるで、無響室にいるような感覚となり、耳鳴りが聞こえるようだ。まるで耳の中にニイニイ蝉が居る様にチー、チーと高い音が聞こえるのだった。寺庭を覆った紅葉は風が吹くごとに、大きな箒に掃ききよめられるかの様に、寺庭の隅に移動させられ、右往左往する。時に旋毛の様に寺庭を回転する。
 白色雑音はどの様な周波数の音をも飲み込むし、どの様な音でも発生しうる。言ってみれば無限の帯域を持った音なのだ。晃一の会社での仕事は、この時点では圧電材料の開発であった。それが、次第に研究開発の対象が圧電材料の応用に変化して行き、変位、振動、音波、超音波を発生したり、検出するデバイスの研究となってゆく。
 最初に音に興味を持ったのは、缶や瓶や小箱の口を耳の近くにかざして見るとサーという音がする、この音の正体は一体何?ということであり、小学三年の頃の疑問であった。小さな時は音というのが風の一種だと思っていたので、風も無いのに音が、聞けるということが不思議で仕方無かったのである。
 次に音に関して不思議に思ったのは、雷の音で、雷が何故ごろごろと鳴り響くか、ということであった。稲妻が見えて何秒後かに落雷音が聞けるのは、光の伝わる速さの方が音の伝わる速さより早いことを知れば容易に理解できたのだが、いつまでもゴロゴロ聞ける理由が分からなかった。
 雷神が小さな太鼓を一つだけではなく、沢山アーチ状に連ねて持っているのは、きっとゴロゴロゴロゴロなる音を表現するには太鼓が一個では足りないという意味があるのだろうと思ったりしたのも子供の頃であった。空で光が発生すると音が出るという結びつきは花火の光と音の関係でも誰もが知っていることであるが、そういうものだと思い込む以上に、何故かと自分自身に問いを発するというのが晃一の特徴であった。
 実相院での白色雑音考は尽きない話題であったが、円通寺にも行く予定にしていたので、ベンチから腰を浮かし、また歩き始めた。
 その日は円通寺に寄った帰りに、ガトという喫茶店で一服し、京都を後にして、東海道線の近江八幡で近江鉄道に乗り換え、八日市に帰りついた。

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2008/01/17 19:11:48|物語
西方流雲(42)
            西方流雲(42)

          <<< 44. 湖東三山 >>>

 一日を使って湖東三山を見学した。三山三様の風情だが、晃一は特に金剛輪寺が気に入っていた。丁度秋に入る季節だからだろう、と自分に言い聞かせた。
 西明寺の不断桜も冬には楽しみだ。百済寺もそこから見渡した夕景は素晴らしい。戸津、斉田、尾崎とドライブで国道307号線沿いから見た夕景を思い出させる。水田に映る夕景がなんとも言えない素晴らしさなのだ。
 滋賀県は日本で最も城の多い県として知られている。城が多いということは寺も多い。しかし、比叡山に近いためか信長による叡山焼き打ちの、とばっちりを受けた寺も多い。金剛輪寺も同じであった。
 そのせいでもあるまいが、このところ歴史小説を読む機会が増えている。松本清張の「火の縄」という本を読み始めている。歴史小説はあくまでも小説なので、歴史の真実を伝えているか否かはわからないが、種々の作者の目を通してみれば、最大公約数的な歴史観は持てるのではないかと晃一は考えていた。
 晃一にとっての歴史小説といえば、吉川英治、山岡荘八、司馬遼太郎の三人であり、松本清張の本は珍しいと言える。社会人になる前は、晃一は殆ど小説を読まなかった。
 きっかけは、吉川英治の「宮本武蔵」であろう。山岡荘八は「徳川家康」、「伊達政宗」を読んだ、司馬遼太郎のものは、「項羽と劉邦」を読んだが、あまりにも多い中国人の人名に拒絶反応を示し、挫折した経験があった。
 しかし、後に最も多く読んだ小説は、司馬遼太郎のものであり、更にのち、二十年後に脳梗塞に倒れて以降、落ち込んだ気持ちを支えてくれたのは宮城谷昌光の中国春秋戦国時代を題材にした「中国物」であったことを考えると、「項羽と劉邦」の挫折が逆にバネになったとも言える。
 湖東三山は、殆ど信長に焼かれたと言われている。信長を扱った歴史小説を読んだときは、その方策の妥当性を肯定的に受け入れたが、湖東三山の焼き討ちの歴史に触れると、その妥当性は薄れ、光秀の行動にむしろ共感を得るように感じる。
 もし、八日市工場への転勤がなければ、湖東三山を訪れることもなく、光秀観が変わることも無かっただろう。
 光秀観が変わる、ということは人の見方が変わるということで、他人と付き合う上で第三者の評判、非難を無視して向き合うという基本姿勢を変えるということであり、その様な意識の発芽のチャンスを得たのであり、転勤が晃一の人格形成にも、良い影響を及ぼしたと言えるのである。
 とは言え、この頃の晃一は、病的とは言えないが、精神的には不安定な時期だったと言える。
 精神的に不安定になると、自分のこれまでを振り返りたくなるのが晃一の癖であった。1974年10月8日(火)時点で自分の職歴を振り返って、日記帳に記してみた。
 
 八日市での仕事は本当に充実していた。また、仕事以外でも友人たちとの付き合いも楽しい時期だった。自然環境に恵まれ、同僚に恵まれ、上司にも恵まれ、と言うことなしの独身生活であった。
 特に、宗 睦夫や勝山 融らとは、麻雀、パチンコ、コンサート、ドライブ、アルコールと行動を共にし、独身時代にやっておくべきことでは全てやったと言う感じであった。また独りの時は、京都や湖東三山、彦根城へ出かけた。

             <<< つづく >>>







2008/01/16 22:43:15|物語
西方流雲(41)
              西方流雲(41)

          <<< 42. 夏期休暇1974 >>>

 晃一の日記には、七月九日(火)に一行、参院選、社公共の勝利、保革逆転間近、テニス部に新人二名、と書いているだけで、転勤引越しをした期間は何の記述も無く、次の日記の記述は、丁度盆休みが終わる直前の8月18日で、それは会社の同僚宗さんと、西井君と三人での九州、四国ドライブから帰った日であった。

 長期の休暇では、晃一は殆どの場合実家に帰ったが、
実家に帰るよりも、仲間とドライブする方が面白い、ということで、その夏休みも実家に帰らなかった。
 そして、九州は、大分、宮崎、鹿児島、熊本、四国は松山、高松を巡り、高松からフェリーで神戸に辿り着いたのだった。
神戸港でフェリーから降りて二十分しただろうか、片側三車線の広い通りで車線を変更したとたんに前を走っていた車に追突してしまった。
 車のバンパーあたりが、僅かに凹んだのと、同乗した女性が運転者の奥さんで、大事をとって病院に行って、なにかあったら連絡するということになった。
 相手も後方を十分に確認せずに車線変更した、という晃一にとっての言い分はあったが、両者急いでいるということもあり、互いに住所、氏名、連絡先を教えあっただけで、警察にも届けず、後日手紙や電話で連絡しあうことになった。
 そうなった理由は追突された方が、すこし前にも追突されたばかりであり、処理の方法を知っているという訳であった。
 このとき、晃一は追突されやすい、あるいは交通事故に会い易い人種がいることを知った。
 逆に晃一は一度も追突されたことはなかった。晃一はその後何度か、後で考えると、ぞっとする様な危険な場面を乗り越えるのであった。といっても、殆どが晃一の交通違反に基づくもので、弁解の余地がなく、殆どの場合アルコールがからんでいた。
追突に関しては、誠意をとことん見せたので、相手に高飛車に出られたり、いいがかりてきなことも一切言われず、数回手紙を交換したのみで大過なく終わらせることが出来た。
 この九州、四国ドライブで晃一は、大自然の素晴らしさを味わうことが出来、おおいにリフレッシュできた。
 その年、1974年の夏季休暇は以上の様に終わったのである。

          <<< 43. モダンタイムス コンデンサ選別作業 >>>

 そして世の中の景気は益々悪化し、その陰は晃一達にもいろいろな形で忍び寄ってきた。
 晃一の勤務する会社はコンデンサ等セラミクス電子部品では生産量、売り上げ、シェアとも国内トップで、全世界でもトップクラスに入る企業で、大量生産で高品質の製品を低コストを実現することで定評があった。
 高品質を実現するために、選別工程は不可欠であった。選別工程は通常はパートの人が行う工程であり、その製品の主力生産工場である八日市工場は大量に選別処理する必要があった。
 もっとも厄介なのは外観不良であった。この当時、パソコンなどという装置はなく、当然のこと画像認識を自動で大量に行うことは不可能であった。
 したがって、人間の目に頼らざるを得なかった。
 この作業は、限度見本、即ち良品と不良品の境界の現物、さえ見れば、誰にでも出来るものであり、部長でも、課長でも、平社員でも、男でも女でも、管理職でも事務系社員でも処理スピードの差異は多少あれど、誰にでも出来るものであった。
 ある日、選別作業割り当て表というものが回覧されてきた。最も左の列に氏名が、職位順に、したがって皆井部長を最上位に、伊那田課長、・・・・と、氏名があらかじめ記載されていて、最も上の行に、土日を含んで、一ヶ月分記載されていた。一回につき一人二時間、最低三回で、間接部門の全社員が分担して作業するための割り振り表であった。
 その表が晃一のところへ回ってきたときは、皆井部長、伊那田課長を含め殆どの.部員が記載していた。殆どのメンバーが何故か同じ日にエントリーしていた。晃一もそれに倣い、前の回覧者と同じ日付欄に○印をつけて隣の席の宗 睦夫に回した。晃一は、その表を手渡す時に、
「宗さん、選別ってどうやるのでしょうね。難しい作業なのですかね?」
と尋ねてみた。宗氏は、
「すでに体験済みの人の話では、誰にでも出来る単純な作業らしいですよ。」
と表に記入しながら答えてくれた。
 そしてエントリーした日が来た。
 ベルトラインを挟んで十人前後の人、全員が同じ課の人間で、他に皆井部長らの役職者がピンセットを持ち待機している。このベルトに大量の種々なサイズのセラミックコンデンサユニットが流れて来て、外観不良品をはじいて行くのである。一つ一つ裏返しては外観不良かどうかを目視で判断してゆくのであった。非常に単純な作業であったが晃一はいくつものおもしろい経験をした。
 先ず一生懸命にならざるを得ない最適のベルトの速さがあるということが分かった。遅い過ぎると、あきてしまい、選別の信頼性が低下し、早すぎるとついて行けなくなり選別ミスが起る。この最適の速さだと隣の人とおしゃべりすることは出来ないが、かといって滅茶苦茶疲れるというほどでもなかった。
 第二にこんな作業でも連帯感が生まれるものだということが分かった。
 恐らく誰もが不景気のせいだ、とわかっていても、何故こんな仕事をしなくてはいけないのかと自問するだろう。
 嫌々この作業に加わっている人もいるに違いないのだ。しかし、部長を筆頭に職位に拘わらず一生懸命選別している姿を見ると、何故か連帯感を感じてくるのが分かった。また晃一が勤務している会社にも厳しい状況が押し寄せていることが実感として理解出来た。
晃一はこの年から七年後に大手精密機器メーカに転職し、そこで“非常事態宣言“という言葉を何度となく耳にするのであるが、その度ごとに、このときの選別作業のことを思い出すのである。
同じ釜の飯を食うという言葉があるが、正にその様な感じであった。

 ベルトに流れはじめたコンデンサユニットは袋からベルトの上にばら撒かれたばかりの様に乱雑に山積みされていて、幾重にも重なっているのもあった。
 しかし、最後の人から送り出されるときにはきれいに配列されているのである。特に整然と配列させなくてはいけない、という決まりは全くなかったが、選別しているうちにそうなってゆき、整列しているほうが選別しやすいということが、自然に分かってきたのである。また、後の人がダブって選別しないように整列させているという面もあるようだった。全員で暗黙の配列のルールを作っているようにも見えた。
 一、二回のダブリであれば選別の信頼性を向上させるだろうが、それ以上のダブリは選別の効率を低下させるのである。そんなことも暗黙のうちに分かってきた。この様な暗黙のルールというのは言葉や文字の伝達によるルールよりもはるかに守られる、それが第三に分かったことであった。
 聖書の「心に愛がなければ、どんなに立派なことばでも相手の胸には響かない。」という言葉を思い浮かばせる様な作業でもあり、言葉、文字という手段を用いずに、ものごとや考え方を他人の胸の内に伝達することの出来る手段は何だろうと考え始めるきっかけとなり、晃一にとってどれほど貴重な体験になったか分からないのである。
 また、こんなことでも嫌がらないで実行すれば、何かしら得るものがあるということも学び、なんでも経験することだという姿勢を晃一の胸に定着させることになったのも、この時からだと言える。
 しかし、この姿勢は自分自身を忙しくし、健康状態にも影響してゆくことになろうとは、この時点では全く予測も出来ないことであった。
 そして、この選別作業は様々な過去の記憶も連想的に呼び起こすことにもなった。
 最後のコンデンサユニットの山が流れ終わり、そのベルトラインが停止した直後に起る目の錯覚はいつまでも忘れない感覚であった。チャップリンのモダンタイムスと全く同じ感覚である。
 次々にベルトで流れてくる製品のネジ締めを、やっとこの様な道具を用いて処理して行くのだが、ベルトが止まっても、その作業を続けているという場面である。
 晃一はもともと映画を鑑賞するのを趣味の一つとしていたが、この当時特にチャップリンの映画が好きで、笑いの中にあるペーソスに触れることが好きで、京都の映画館で上映しているのが分かると、必ずといって良いほど見に行った。
 モダンタイムスも京都で観賞したチャップリンの映画の一つであった。そして、チャップリンの映画で連想的に思い出すことは、中学時代に社会の先生が授業そっちのけで、映画をみて感激した様を話してくれたことである。
 その先生とは、この物語を書いている更に三十年あまり後の時代でも、須月、新蔵ともども交誼を重ねていて、そのことを有りがたく思うのであった。
 後に、晃一はこの会社での、誰でもが出来る訳でない三大経験を回想するのだが、この選別作業の経験がそのうちの一つであった。他の二つは、得意先に対するクレーム処理と、外注対象としての刑務所訪問であるが、少し先のことになる。
 そして、その転勤のあった年も早くも九月に入り、秋分の日がかかった三連休の最終日九月二十三日月曜日である。この年のこの月、三連休が二回あったことが、日記に記されている。

          <<< つづく >>>