西方流雲(50)
<<< 52. 豪雪 >>>
晃一は、車の屋根に積もった厚さ30cm以上の雪を、凍える素手で必死に掻き下ろしていた。 手袋はびしょびしょで役にたたず、仕方なく素手でやっていたが冷たさを感じる余裕もなかった。 その作業をしながら、この駐車場から車を駐車場の前の通りまで出す手立てを考えていた。その通りの方へ目を遣ると、車がひっきりなしに駐車場に入ろうとしては諦めて去ってゆくのが見える。 そして、それらの車のタイヤに雪は押しつぶされ、純白のアスファルト状態になっている。チェーンさえつければ、多少滑っても運転できない状態ではない。 あそこの出入り口まで車を移動できればなんとかなる、と目算した。金沢駅から歩いて来て、その駐車場の出入り口に立った時、晃一の目に映ったのは一面厚い雪に覆われた純白の面に、ぽつんと一箇所だけ雪の出っ張りが見える光景であった。 純白の面には犬の足跡すらなくて、平滑な白い面だけであった。幸い駐車場には網状の門扉があったのだが、開いたままになっていて、出入り口まで車を移動できればなんとかなる、という目算がたてられたのだ。 晃一はその駐車場に入って、ザックザックと音をたてながらその雪の出っ張りに一歩一歩向かって行った。そしてトランクを開ければシャベルもあるはずだし、チェーンも、タイヤを持ち上げるジャッキも入っている。先ずは車を白く厚く覆っているベールを取り除くことだと、自分に言い聞かせその作業をしていたのである。 昨日、またクレームの話が以前と同じところから連絡が入り、代替品をすぐに持ってきて欲しいと言われ、今朝金沢駅を発ち、名古屋経由で名古屋営業所の担当者とともに向かい、用を足して列車で帰ろうとしたのだが、雪で交通がストップしていたので、新幹線経由で羽田に出て、飛行機で小松飛行場におりたち、そこからシャトルバスで金沢駅に至り、少し暗くなりかけた雪空の下をここまで歩いてきたのであった。 ここに車を置いていったその日の早朝には空はどんよりしていたが、雪は降っていず、帰るまでの間に、これほどまでに積雪するとは夢にも思わなかった。 車の屋根の雪をおろし、次いでトランクの上の雪をおろし、そして後輪の周囲の雪を除去し、チェーンを装着しやすくした。 トランクから先ずジャッキをとりだした。晃一の手指はかじかんで何度もとり落とした。ジャッキを後輪タイヤの周りの露出させた地面の上におき、トランクにできた隙間にかばん等の持ち物を置き、次いでチェーンをとり出した。 相変わらず雪は降り続いていて、行き交う車に装着されたチェーンが道路を打つ音が次第に少なくなってきた。雪は乾いてサラっとした感じの粉雪であるが時々大粒になり、駐車場に接した建物の屋根から舞い落ちた大粒の雪のかたまりが風に舞い飛び、晃一のところまでやってきて、頭の上に舞い落ちたり、肩のところに漂着する。 雪の塊が大きく、肩の上に落下する時は、その時に行き交う車のチェーンの音が皆無であれば、まるで肩をタップされる様な感覚になるのである。 薄暗さが増し、駐車場に接した建物の窓から漏れる明かりや、大通り越しに見える金沢駅ホームの蛍光灯の明かりが届かなければ、とてもチェーン装着作業は難しく感じられ、絶望的な気持ちに襲われるところだったが、幸いそれらに助けられ 、ジャッキで車体を持ち上げ、浮いたタイヤにチェーンを巻き、その作業が両輪とも終りかけ立ち上がろうとしたその時、またもや雪の塊が晃一の肩をタッピングした。 もはや晃一の耳には、音という音は聞えなくなり、まるでニイニイ蝉が耳の中で鳴いているような耳鳴りが聞えるのみとなった。バスのチェーンの音など音源となるものはいくらでもある。しかし厚く積もった雪は無響室の吸音材の役割を果たし、晃一の耳に届く音を皆無にしている。 それだけに、時折、晃一の肩や頭に小さな塊となって落下する時のタッピング音は晃一の聴覚を刺激するのである。しかし、何度かそれをくり返すうちに その刺激にも慣れ、気にならなくなってきた。かじかんだ手は真っ赤になり、思わずコートのポケットに両手を突っ込んだ。 あとはジャッキをトランクに戻し、エンジンをかけ、駐車場の前の道路まで移動させることで、些細ではあるが、ちょっとした苦難から逃れられるのである。 そう思いながら、運転席のドアに手をかけた瞬間、妙に調子の良い、タッピングが晃一の感覚を捉えた。トトトト〜ン、トトトト〜ンと、まるでべートーベンの運命のドアをノックする拍子と同じである。後ろを振り返ってみるといつの間にか白い温かそうなオーバーを纏った女性が晃一の背後2mくらいの所に立っている。そして、晃一に、 「寒いでしょう。通りの向こう側の家だけど、少し温まって行きませんか?」 と、か細い声で話かけてきた。まるで、晃一のことを知っているかのような親しげな話かけかたであり、この日、この時、この場所に晃一が来ることを知っていたかの様な現れ方ではないか。晃一は、 「身も心も凍えてしまいそう。そこで温まらせてくれますか?」 と返事をしようとして辞めた。奇妙なことに、晃一がチェーン装着作業をしているところへ近寄るには駐車場出入り口から入ってくる方法しかないのに、何故か駐車場出入り口からは先程晃一がここに入ってくる時につけた足跡以外に足跡が無いということに気がついた為だ。 その途端軽い眩暈(めまい)を感じ、咄嗟にドアを開け、運転席のシートに倒れ込んだ。 そして、エンジンを掛けた瞬間意識を失ってしまった。消え入りそうな意識のもとでそれだけのことが出来たので、幸いにも、暫くして車内が暖まった頃には意識が回復した。 車の外を眺めまわしてみたが、周りには誰の姿も認められず、新しい足跡もみえなかった。 そのかわり、駐車場の出入り口のパトライトが点灯し、黄色い光線を回転させていることに気がついた。ギアーをバックに入れ、エンジンを噴かすと運よく動き出し、積もった雪を掻き分け駐車場の出入り口まで辿り着くことが出来た。 そして、その後は極めてノロノロ運転だったが、除雪されたバス通りに沿って泉野町にある自宅に辿りついた。 幸い自宅前の通りまでは轍が残っていて自宅の敷地内へも入れることが出来た。 普段は玄関のすぐそばに駐車するのだが、二階の屋根から転げ落ち雪だるまのようになって地上に落下することがあり、その下に置いてある車の屋根を直撃し、屋根が凹むという被害に合うことがあるという話を聞いていたので、玄関からは離れた位置に車を置いた。 玄関の鍵を開け、スライド式の扉を開け、家の中に入った時は、中にだれも居ないので、室内は冷え切っていて、しかも乾燥しきっていた。 早速石油ストーブを点け、その上にやかんを置いて、室内の昇温と加湿を試みた。 そして、食卓の椅子に腰掛けて、一服して、お茶を啜りながら先程の不思議な感覚をすこし余分に遡ったところからおさらいし始めた。
晃一は、八日市工場の赴任期間を終え、長岡天神の京都本社に戻った。京都から転出する時は、一人身であったが、京都に転入する時は、妻一人、子一人の三人家族になっていた。仕事は、圧電体材料から焦電材料の応用、即ち赤外線センサの仕事に変わり、更に転じて圧電ブザーの商品開発の仕事に変わった。 即ち、八日市工場時代までは材料技術者であり、京都に戻ってきてからは、センサ、ブザーといったデバイス関連開発技術者になったのである。 立場としてはその製品の技術面での責任者ということであり、直接ユーザーとの折衝やクレーム処理なども担当することになった。 その担当になって間もなくユーザーである大手家電メーカーから大きなクレームが入ってきた。 出荷検査、ユーザー側の受け入れ検査ともパスしたにも拘らず、製品にブザーを組み込み、その大手家電メーカーが海外に輸出し、倉庫に保管していてこれから出荷という時に発覚した故障で、ブザーでありながら音が出ないという症状ということで、金額にしたら数億円にのぼるクレームとのことである。 ユーザー側の品質担当者から晃一に帰宅直前に直接電話が入り、 「大変な額のクレームに発展する恐れがある早急に対策して欲しい」と言われ、それに対し、晃一は、 「対策を検討し、明朝連絡させて欲しい」 と応えたところ、相手の担当者は、烈火の如く怒り、 「何を言っているのか、今夜のうちに徹夜してでも対策品を準備し、明日には静岡まで持ち込むように。」 と言われ、圧電商品を一括して面倒を見ている課長から、 「相手の言っていることを否定したり無視することをやってはいけない。誠心誠意、相手の気持ちを満足させる言動が最初に必要だ。」と言われていたので、その相手側の担当者には、 「分かりました。今夜のうちに何とか対策品を準備し、明朝できるだけ早くこちらを出発したいと思います」 と言って切り抜けた。 幸い、この技術的問題の発生機序は既に解明されていて対策した試作品が完成後だったので、その対策品に検査データを添付し、梱包するだけで済んだ。そして、それを持って相手先の工場に持ち込み、発生原因の説明と対策品の手渡しを行った。 この出張も晃一一人だけでなく、その前任の課長や、名古屋出張所のその地域の営業担当者との三人でその会社を訪問したのだが、ユーザー工場の品質に対する姿勢などを肌で感じ、クレーム処理とは言え、晃一にとって有意義な体験となった。その後、相手からの工場見学依頼に対する対応など初めてづくしで、勉強につぐ勉強と言えた。 この仕事では、技術の直上の上司が取締役で、得意先まわりなどでかばん持ちを何度となく経験し、この取締役の人間的な面白さに触れることが出来、それも良い経験となった。 そして本社工場が手狭になってきて、担当部署全体が金沢へ移動することになった。部署全体の移動なので、組織上の送別会は無かったが、代わりにテニス部の有志が送別会を開いてくれ、そこには材料開発担当時代の技術のトップとなる取締りも出席していただいた。というよりテニスを通してさんざん世話になった方と言った方が近いかもしれないが、いずれにしても大変に有り難いことであった。 金沢は西金沢に工場があり、借り上げ社宅のある泉野町から車で15分程度のところであった。 そこへ移動してまもなく、以前のクレームと同じ静岡の得意先から小さなクレームが発生し、対策品を持参し、静岡の富士市に向かったのである。 晃一はその時点で転職を決意していて、すでに会社にその旨伝えていたので、名古屋営業所の営業担当者もそのことを知っているかの様な晃一との接しかたであった。 しかもその営業担当者だけでなく、その得意先の担当者も何故かかなり気遣いをしたものの言い方で、晃一の姿を最初に認めたときなど、 「薄さんが来てくれたので、もう大丈夫」 と歯の浮く様なことを言ってきたのだ。 1月になって益々雪は激しくなり、犀川の両岸には、雪が大量に廃棄され、金沢市内の小中学校の校庭にも雪が大量に廃棄され、校舎の二階の屋根から地面まで雪のスロープが出来、まるでスキーのジャンプ台の様な光景があちことに現出した。 この年の豪雪は昭和38年の豪雪をサンパチ豪雪と呼んだ様に、この昭和56年1月の豪雪をゴーロク豪雪と呼ばれることになった。毎日雪の被害がTV、新聞で繰り返し繰り返し報じられていた。 そして、金沢駅前の駐車場での出来事は晃一の人生における七不思議のひとつとなるのだが、この頃から晃一にとっての厳しい試練が始まることを、天は知っていた。
〜〜〜 つづく 〜〜〜 |