槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/02/07 21:42:55|物語
西方流雲(50)
               西方流雲(50)

             <<< 52. 豪雪 >>>

晃一は、車の屋根に積もった厚さ30cm以上の雪を、凍える素手で必死に掻き下ろしていた。
 手袋はびしょびしょで役にたたず、仕方なく素手でやっていたが冷たさを感じる余裕もなかった。
 その作業をしながら、この駐車場から車を駐車場の前の通りまで出す手立てを考えていた。その通りの方へ目を遣ると、車がひっきりなしに駐車場に入ろうとしては諦めて去ってゆくのが見える。
 そして、それらの車のタイヤに雪は押しつぶされ、純白のアスファルト状態になっている。チェーンさえつければ、多少滑っても運転できない状態ではない。
 あそこの出入り口まで車を移動できればなんとかなる、と目算した。金沢駅から歩いて来て、その駐車場の出入り口に立った時、晃一の目に映ったのは一面厚い雪に覆われた純白の面に、ぽつんと一箇所だけ雪の出っ張りが見える光景であった。
 純白の面には犬の足跡すらなくて、平滑な白い面だけであった。幸い駐車場には網状の門扉があったのだが、開いたままになっていて、出入り口まで車を移動できればなんとかなる、という目算がたてられたのだ。
 晃一はその駐車場に入って、ザックザックと音をたてながらその雪の出っ張りに一歩一歩向かって行った。そしてトランクを開ければシャベルもあるはずだし、チェーンも、タイヤを持ち上げるジャッキも入っている。先ずは車を白く厚く覆っているベールを取り除くことだと、自分に言い聞かせその作業をしていたのである。
 昨日、またクレームの話が以前と同じところから連絡が入り、代替品をすぐに持ってきて欲しいと言われ、今朝金沢駅を発ち、名古屋経由で名古屋営業所の担当者とともに向かい、用を足して列車で帰ろうとしたのだが、雪で交通がストップしていたので、新幹線経由で羽田に出て、飛行機で小松飛行場におりたち、そこからシャトルバスで金沢駅に至り、少し暗くなりかけた雪空の下をここまで歩いてきたのであった。
 ここに車を置いていったその日の早朝には空はどんよりしていたが、雪は降っていず、帰るまでの間に、これほどまでに積雪するとは夢にも思わなかった。
 車の屋根の雪をおろし、次いでトランクの上の雪をおろし、そして後輪の周囲の雪を除去し、チェーンを装着しやすくした。
トランクから先ずジャッキをとりだした。晃一の手指はかじかんで何度もとり落とした。ジャッキを後輪タイヤの周りの露出させた地面の上におき、トランクにできた隙間にかばん等の持ち物を置き、次いでチェーンをとり出した。
 相変わらず雪は降り続いていて、行き交う車に装着されたチェーンが道路を打つ音が次第に少なくなってきた。雪は乾いてサラっとした感じの粉雪であるが時々大粒になり、駐車場に接した建物の屋根から舞い落ちた大粒の雪のかたまりが風に舞い飛び、晃一のところまでやってきて、頭の上に舞い落ちたり、肩のところに漂着する。
 雪の塊が大きく、肩の上に落下する時は、その時に行き交う車のチェーンの音が皆無であれば、まるで肩をタップされる様な感覚になるのである。
 薄暗さが増し、駐車場に接した建物の窓から漏れる明かりや、大通り越しに見える金沢駅ホームの蛍光灯の明かりが届かなければ、とてもチェーン装着作業は難しく感じられ、絶望的な気持ちに襲われるところだったが、幸いそれらに助けられ 、ジャッキで車体を持ち上げ、浮いたタイヤにチェーンを巻き、その作業が両輪とも終りかけ立ち上がろうとしたその時、またもや雪の塊が晃一の肩をタッピングした。
 もはや晃一の耳には、音という音は聞えなくなり、まるでニイニイ蝉が耳の中で鳴いているような耳鳴りが聞えるのみとなった。バスのチェーンの音など音源となるものはいくらでもある。しかし厚く積もった雪は無響室の吸音材の役割を果たし、晃一の耳に届く音を皆無にしている。
 それだけに、時折、晃一の肩や頭に小さな塊となって落下する時のタッピング音は晃一の聴覚を刺激するのである。しかし、何度かそれをくり返すうちに
その刺激にも慣れ、気にならなくなってきた。かじかんだ手は真っ赤になり、思わずコートのポケットに両手を突っ込んだ。
 あとはジャッキをトランクに戻し、エンジンをかけ、駐車場の前の道路まで移動させることで、些細ではあるが、ちょっとした苦難から逃れられるのである。
 そう思いながら、運転席のドアに手をかけた瞬間、妙に調子の良い、タッピングが晃一の感覚を捉えた。トトトト〜ン、トトトト〜ンと、まるでべートーベンの運命のドアをノックする拍子と同じである。後ろを振り返ってみるといつの間にか白い温かそうなオーバーを纏った女性が晃一の背後2mくらいの所に立っている。そして、晃一に、
「寒いでしょう。通りの向こう側の家だけど、少し温まって行きませんか?」
と、か細い声で話かけてきた。まるで、晃一のことを知っているかのような親しげな話かけかたであり、この日、この時、この場所に晃一が来ることを知っていたかの様な現れ方ではないか。晃一は、
「身も心も凍えてしまいそう。そこで温まらせてくれますか?」
と返事をしようとして辞めた。奇妙なことに、晃一がチェーン装着作業をしているところへ近寄るには駐車場出入り口から入ってくる方法しかないのに、何故か駐車場出入り口からは先程晃一がここに入ってくる時につけた足跡以外に足跡が無いということに気がついた為だ。
 その途端軽い眩暈(めまい)を感じ、咄嗟にドアを開け、運転席のシートに倒れ込んだ。
 そして、エンジンを掛けた瞬間意識を失ってしまった。消え入りそうな意識のもとでそれだけのことが出来たので、幸いにも、暫くして車内が暖まった頃には意識が回復した。
 車の外を眺めまわしてみたが、周りには誰の姿も認められず、新しい足跡もみえなかった。
 そのかわり、駐車場の出入り口のパトライトが点灯し、黄色い光線を回転させていることに気がついた。ギアーをバックに入れ、エンジンを噴かすと運よく動き出し、積もった雪を掻き分け駐車場の出入り口まで辿り着くことが出来た。
 そして、その後は極めてノロノロ運転だったが、除雪されたバス通りに沿って泉野町にある自宅に辿りついた。
 幸い自宅前の通りまでは轍が残っていて自宅の敷地内へも入れることが出来た。
 普段は玄関のすぐそばに駐車するのだが、二階の屋根から転げ落ち雪だるまのようになって地上に落下することがあり、その下に置いてある車の屋根を直撃し、屋根が凹むという被害に合うことがあるという話を聞いていたので、玄関からは離れた位置に車を置いた。
 玄関の鍵を開け、スライド式の扉を開け、家の中に入った時は、中にだれも居ないので、室内は冷え切っていて、しかも乾燥しきっていた。
 早速石油ストーブを点け、その上にやかんを置いて、室内の昇温と加湿を試みた。
 そして、食卓の椅子に腰掛けて、一服して、お茶を啜りながら先程の不思議な感覚をすこし余分に遡ったところからおさらいし始めた。

 晃一は、八日市工場の赴任期間を終え、長岡天神の京都本社に戻った。京都から転出する時は、一人身であったが、京都に転入する時は、妻一人、子一人の三人家族になっていた。仕事は、圧電体材料から焦電材料の応用、即ち赤外線センサの仕事に変わり、更に転じて圧電ブザーの商品開発の仕事に変わった。
 即ち、八日市工場時代までは材料技術者であり、京都に戻ってきてからは、センサ、ブザーといったデバイス関連開発技術者になったのである。
 立場としてはその製品の技術面での責任者ということであり、直接ユーザーとの折衝やクレーム処理なども担当することになった。
 その担当になって間もなくユーザーである大手家電メーカーから大きなクレームが入ってきた。
 出荷検査、ユーザー側の受け入れ検査ともパスしたにも拘らず、製品にブザーを組み込み、その大手家電メーカーが海外に輸出し、倉庫に保管していてこれから出荷という時に発覚した故障で、ブザーでありながら音が出ないという症状ということで、金額にしたら数億円にのぼるクレームとのことである。
 ユーザー側の品質担当者から晃一に帰宅直前に直接電話が入り、
「大変な額のクレームに発展する恐れがある早急に対策して欲しい」と言われ、それに対し、晃一は、
「対策を検討し、明朝連絡させて欲しい」
と応えたところ、相手の担当者は、烈火の如く怒り、
「何を言っているのか、今夜のうちに徹夜してでも対策品を準備し、明日には静岡まで持ち込むように。」
と言われ、圧電商品を一括して面倒を見ている課長から、
「相手の言っていることを否定したり無視することをやってはいけない。誠心誠意、相手の気持ちを満足させる言動が最初に必要だ。」と言われていたので、その相手側の担当者には、
「分かりました。今夜のうちに何とか対策品を準備し、明朝できるだけ早くこちらを出発したいと思います」
と言って切り抜けた。
 幸い、この技術的問題の発生機序は既に解明されていて対策した試作品が完成後だったので、その対策品に検査データを添付し、梱包するだけで済んだ。そして、それを持って相手先の工場に持ち込み、発生原因の説明と対策品の手渡しを行った。
 この出張も晃一一人だけでなく、その前任の課長や、名古屋出張所のその地域の営業担当者との三人でその会社を訪問したのだが、ユーザー工場の品質に対する姿勢などを肌で感じ、クレーム処理とは言え、晃一にとって有意義な体験となった。その後、相手からの工場見学依頼に対する対応など初めてづくしで、勉強につぐ勉強と言えた。
この仕事では、技術の直上の上司が取締役で、得意先まわりなどでかばん持ちを何度となく経験し、この取締役の人間的な面白さに触れることが出来、それも良い経験となった。
 そして本社工場が手狭になってきて、担当部署全体が金沢へ移動することになった。部署全体の移動なので、組織上の送別会は無かったが、代わりにテニス部の有志が送別会を開いてくれ、そこには材料開発担当時代の技術のトップとなる取締りも出席していただいた。というよりテニスを通してさんざん世話になった方と言った方が近いかもしれないが、いずれにしても大変に有り難いことであった。
 金沢は西金沢に工場があり、借り上げ社宅のある泉野町から車で15分程度のところであった。
 そこへ移動してまもなく、以前のクレームと同じ静岡の得意先から小さなクレームが発生し、対策品を持参し、静岡の富士市に向かったのである。
 晃一はその時点で転職を決意していて、すでに会社にその旨伝えていたので、名古屋営業所の営業担当者もそのことを知っているかの様な晃一との接しかたであった。
 しかもその営業担当者だけでなく、その得意先の担当者も何故かかなり気遣いをしたものの言い方で、晃一の姿を最初に認めたときなど、
「薄さんが来てくれたので、もう大丈夫」
と歯の浮く様なことを言ってきたのだ。
 1月になって益々雪は激しくなり、犀川の両岸には、雪が大量に廃棄され、金沢市内の小中学校の校庭にも雪が大量に廃棄され、校舎の二階の屋根から地面まで雪のスロープが出来、まるでスキーのジャンプ台の様な光景があちことに現出した。
 この年の豪雪は昭和38年の豪雪をサンパチ豪雪と呼んだ様に、この昭和56年1月の豪雪をゴーロク豪雪と呼ばれることになった。毎日雪の被害がTV、新聞で繰り返し繰り返し報じられていた。
 そして、金沢駅前の駐車場での出来事は晃一の人生における七不思議のひとつとなるのだが、この頃から晃一にとっての厳しい試練が始まることを、天は知っていた。

    〜〜〜 つづく 〜〜〜







2008/02/02 19:17:55|物語
西方流雲(49)
            西方流雲(49)

          <<< 51. 散文詩集〜〜弥須子抄〜〜 >>>

 互いに二人で人生設計する 暇も無く、間もなく妻が妊娠した。何分初めてのことであり、つわりがおちつくまで実家に帰り、お産は東京ですることになった。したがって新婚早々に一人暮らしをすることになった。
 社宅は、八日市工場のすぐ側で、昼食は自宅に戻り、妻の作った昼ごはんを食べて、また会社にもどるという生活が新婚直後暫く続いたが、それが元に戻った。
 買い物は車で行く必要があり、いつも一緒であった。それもしばらくはなくなった。
 晃一は妻から、「にゃんにゃん」とか「先生」とか、その根拠は分からないのだが、何故か、その様に呼ばれていた。その様に呼ぶ妻の声はしばらく聞けない。
 湖東三山や永源寺、あるいは京都といった観光名所を一緒にまわることも暫くは出来ない。
 そんな寂しさを紛らわすかの様に、暇な時は、詩を作って、彼女の結婚前の写真とセットにして『弥須子抄』というタイトルのアルバムつくりを始めた。
 最初のページには“S.50 5月19日となっていて、4枚の写真と、その隙間に、”弥須子抄 S50 5.19“とあり、一番左上の写真は、彼女が海外旅行をしたときであろうか、ホテルの一室で撮った写真だろうか、カメラに向かって落ち着いた眼差しを向けている。
 晃一はこの物語を書き始める時に、30年ぶりでこの一ページ目をみて、晃一はそれまでの長い歳月を想うと同時に、二つのことを省みざるを得ないのである。
 一つは弥須子の表情の変わり様である。当然30年という歳月は如何なる生物にもエージングという作用を及ぼす。生物ではなく、建物でさえ老朽化し、地形さえも地震などで変化し、川さえも浸蝕をうけ川筋を変えたり、川岸の様子を変える。草原の砂漠化、彗星の衝突も天文学的なエージングと言えるかもしれない。
 しかし、このページの弥須子の若き姿、表情も当然ながらエージングという作用から免れることは出来ない。問題はこの様な外見的なエージングよりも内面的なエージングの方が重要で、内面的に充実したエージングを経験してきたであろうか。
 当然ながら、30年の間寄り添った晃一の性格、個性、さらには晃一自信のエージングも作用していて、もし、彼女の内面的なエージングの結果、晃一の目に気に入らない彼女の一面が映っているであるとすれば、もしかしてそれは、晃一が持っている負の面が彼女のエージングにインプリントされたもの、即ち、晃一自身の負の属性を彼女の内面を通して見ているのかもしれない。
 晃一が還暦を迎える前後、二人の感情の交錯の中に、危ういものが数多く現れ出でて、二人の間の溝が深く広くなる一方の時期があるのだが、晃一にとっての時空を司る天は、このアルバムの1ページ目を晃一に開かせその収拾を図らせようとしていた。
 そしてもう一つの、“長い歳月を想うと同時に二つのことを省みざるを得ないこと”というのは”弥須子抄 S50 5.19”と書いた、手でちぎった様な淵部をもった紙片である。字体にはいささかの乱れもない。晃一はこの物語を書き始める頃以降は、脳梗塞の後遺症で、スムーズに目的の方向に筆先を滑らすことが出来なくなっていた。書き始めはまだマシなのだが書いているうちに線は右上がりになった、右下がりになったり、線のつもりがギザギザに折れ曲がる曲線になったり、それだけではなく、文字を書くスピードが大幅に低下してしまったのである。
 このアルバムに限らず技術報告書も病前に作成したものを見ては、自分が情けなくなることがある。
晃一は、50歳台の中ごろに、博士号をとるための学位論文を書くことになるが、その時に、過去自分が作成した技術報告書を見返すのであるが、その殆どが肉筆によるもので、字体もしっかりしてまるで他人の筆跡の様に見えて本当に取り返しのつかない
病気になってしまったものだと悲嘆に暮れる場面が幾度となく有ったのである。
 しかし、パソコン(ワープロ)の出現という先人達の技術予測になかった技術の登場は晃一のその様な悲嘆を減衰するのに寄与してくれたのだった。
 この様に『弥須子抄一ページ目』は晃一に30年という長い歳月に彼女との関わりで起った様々な出来事を思い起こさせるのである。
二ページ目には、ビキニ姿の彼女の写真3枚と、明るい太陽のもと、やや眩しげな視線の先にあるであろうと思われる海の写真とともに、“夏”という題の短い詩がやはり白い紙片に記されている。

              夏

        八月の野に何が
        八月の海に何が
           たわむれる草と波
              そして心が・・・・・
                  乳房が・・・・・
          野を走る
          海を泳ぐ
          弥須子の夏
                   晃一

 そして三ページ目は、
“今と昔、現実と夢 
いつか康子も・・・・。”
という文章が楕円に切り抜いた紙片に二行に分けて記され、やはり四枚の写真が配列されている隙間に配置している。
 これを書いた時の心象を晃一は未だに覚えている。
 結婚して晃一が気になっていたのは、康子の視線の先に、これから助け合って結婚生活をしてゆくことになるという光景が見られないことであった。
 これからどれだけ厳しい現実に遭遇するかも知れない。今とこれまでとは違うんだ。現実は夢とは違うんだ。いつか、そういうことに気がついて欲しい。
そんな気持ちを持っていたことを記憶していたのであった。

四ページ目。
 鳥取砂丘であろうか、地平線まで続く砂浜に片足でバレーのポーズをとっている写真一枚と、“舞影”というタイトルの詩が縦書きの綴られた長方形のA5サイズ程度の紙片が横置きに一枚上下に配置されている。 

              舞影

       砂に埋まるつま先
       そこに感じる無数の砂粒の自由
       砂の上に青空の乗っている自由
             そして潮の薫り
             そして潮のざわめき
       弥須子の指先にとまる そよ風邪
       そよ風は別名「明日」のこと
                     晃一

 日銀行員の娘として生まれ、四角四面的なところがあるのでは、との当初の印象に比べ、予想以上に自由で、躊躇しない性格は晃一にとって眩しくうつり、とまどうことが最初から少なくはなかった。
 自由さはいたずらっぽさにもつながる。躊躇しない性格は危険なことをしでかすことにつながることがある。
 この妻でないと起りえないことと記憶しているのは良くも悪くも数多いが、最初の出来事が、マニキュア事件であった。
 些細なことで夫婦ケンカをして、晃一はふて腐れて康子を無視して先に寝てしまった。
 晃一は、会社で、熱いときは靴下を脱いで、先から足の指が出るスリッパを履いて仕事をする癖が以前からあった。その日も同じ様にして仕事をしていた。
 晃一の実験補助者(女性)が晃一の足元を指差して、
「薄さん、足を怪我しはったのとちがう? ・・・・・いや、血では無いわ。」
と言った途端、ケラケラ笑い出した。
 びっくりして晃一も足元を見たら、なんと晃一の右足の爪が、親指、人差し指、中指が真っ赤に染まっているではないか。
 晃一はそれまで全く気が付かなかったのだが、前夜ふて腐れて先に寝入ってしまったあと、弥須子に真っ赤なマニキュアを塗られてしまったのだ。晃一は真っ赤になって、
「家内がマニキュアを塗っているときに、間違って液を垂らされてしまって落ちないんだよ。」
というのが精一杯の言い訳で、他の人に見つかるとまずいと思い、
「だれにも言わないでヨ。」
と言って、晃一はその場を逃げ去った。
 最初は、仕返ししないと気が治まらないと考えていたが、弥須子はこのイタズラ作業をどんな気持ちでやっていたのだろう、と考え始めたら逆に可愛そうなことをしてしまったという念の方が強くなり、結局その時も、その後も一言も彼女の前では触れず、この四ページ目に向かってのみ、そのことを思い出し語りかけるのであった。

五ページ目。
このページには右上辺と左下辺に貼られた二枚の写真の間に“寺訪れ”という詩が白い紙片に記されている。右上辺の写真は雲間から琵琶湖の湖面へ太陽光が落ちている写真であり、左下辺の写真は落ち着いた感じの寺の門前で、寺門の板壁に左手を添えている写真で、白いミニスカートと黒いチョッキを灰色のティーシャツの上に着ているものであり、大人っぽい表情をしている

                 〜〜〜 寺訪れ 〜〜〜

           門の内側で
            待っているよ
             明日と一緒に
           境内を歩いて一息ついたら
              そっと触れろよ康子の手で
                   門の柱を
              そっと嗅げよ康子の鼻で
                   杉の香りを
              そっと口ずさめよ康子の口で
                    僕の歌を
              柱、杉、歌、・・・・・寺の昔話
                                                       晃一
 六ページ目。
 五枚の写真が逆コの字型に配列され、コの字の隙間に、“つらら”という題の三行詩が記されている。写真の一枚は川べりの小さな岩に流れる水しぶきからできたつららと、それを面白そうに眺めている弥須子が映った冬の写真。

                 つらら

           もし○○だったら○○なのに
           つららは冬の剣 地を突く
           水の結晶 結晶の剣
                        晃一

 他の三枚の写真のうち、2枚は結婚前に晃一が弥須子を琵琶湖に連れて行った時に撮った写真で、車のボンネットに乗りながら、どこか彼方を眺めている写真であり、その視線の先に冠雪した鈴鹿山脈が琵琶湖湖面のかなたに見える写真である。何故か晃一はその様に各写真を配置してみた。

七ページ目
 このページに貼ってある写真は全て晃一と出会う前の彼女の写真であり、四枚の写真がページの上辺と下辺に二枚づつ貼られている。背景は湖、寺の池、川に垂れ下がった松の大木、野原か畑、服装はいずれも半そであり、初夏の候か。そしてページの中央に、その季節にはそぐわない、“菊の花”という題の詩が配置されている。

            〜〜〜 菊の花 〜〜〜

         枕の香りが日に薄れ
             夜闇に彷徨う菊の香
         忘れた一糸の細髪を
             手に採り想う菊の色
         夢にも出でぬその声を
             聞くにも聞けぬ名残花
         香化し美顔となる時を
         色化し美肌となる時を
             いつ戻るかと問う度に
         思い患う運命の
         思い患う昨日、今日、明日
         康子の髪、眉、目、睫毛、鼻、口、頬、唇、肩、乳房、・・・・
         すぐ、目の前に現れ出でよ
         そして、枕に香りを植えよ
                                                     晃一

八ページ目

           〜〜 栂尾二寺 〜〜

          神護寺の
            もみじの色を
              染め分けと
           人呼ぶ頃に吹く風は
           何時しか想いを古(いにしえ)に
           流してやまぬ清滝の川

          かわらけに
            興ずる人を
              俗人と
           人呼ぶ頃に見る石は
           何かを語る自我ゆえに
           飛ばせておくれ千靭の谷

          栂尾の
            鳥獣戯画を
              今の世と 
           人呼ぶ頃に見る空は
           澄んで心を故郷へ
           流して淀む寂想の韻

          人が今
            旅さすらいし
              康子路を
           もみじの山に比べるも
           残味をつつく妻様路
           恋しさ限りの京の冬入り
                                                  晃一

 ここに記した晃一の筆跡は、あとあと振り返って最も達筆で、気持ちが筆跡に乗り移った素晴らしいもので、晃一が後遺症を持ってから、この筆跡を見つめるたびに、もう一度この様な文字が書けたら良いのにと心の中で願ったことが何度あったかわからない。
 筆跡というのは、ある意味で、その人そのものの歴史であると、かねてから想っていた。親の筆跡の影響を多大にうけ、その後周囲の人達の影響を受けながら自分なりにまとめてきた筆跡である。
 晃一はもともと左利きで、漢字を書くにはハンデがあり、こういう字が書けるようになったのは、母親の達筆を見つめる機会が子供の時から多かったからに違いないと思っていた。
 文字を思ったとおりの形、寸法に書くには相当の脳の制御機能を無意識のうちに使っている。その機能を失い、それらの機能を一から構築し直さなくてはならない。晃一は脳梗塞にかかり、具体的に失ったものが3つあると想っていた。文字、声、そしてテニスの腕であった。これらについては別途一つの物語として後述する。

九、十ページ目
 九ページ目に三枚の写真がページの左側に縦に並んでいる。そのページに“寂姿月”という題の詩が三節に分けられ、それぞれの短い節が一枚一枚の写真の横に配置されている。
 写真は全て湖東三山の一つ金剛輪寺を撮ったもので、そのうちの一枚は晃一が最も好きな風景であり、深草色に染まった、波紋一つ起きていない池に今にも沈みそうな朽ち果て、半身が沈んでしまっている舟。
 秋にはこれに真っ赤にそまった紅葉の枝先が、水面に触れるまでに撓み、絵にも言えぬ美しさとなるのである。しかし写真の季節は初夏であり、この直後には弥須子はつわりを乗り越え、八日市に戻ってきていて、右側のページにはおなかを膨らませた弥須子が山門の前にたたずむところの場面が四枚貼られている。
 したがって、十四ページ目くらいまではギターのコードで言えば依然としてAマイナーやEマイナーなのである。

              〜〜〜 寂姿月 〜〜〜

           その一
 一輪のバラの色さえまだ褪せず
              漂う香り寂しそう
              鏡に映る虚の構と
              語る姿は寂しそう
           その二
  一時の添い寝のぬくもりいまいずこ
              戸惑う枕が寂しそう
              夢にも出でぬ虚の肌を
              思い出す目は寂しそう
           その三
       一切の夢も希望もたなあげて
              耐えて心にその日待つ
              今日と明日の秤り合い
              さみし姿もあと幾月

十一、十二ページ目
 この両ページの左のページは社宅の中で大きなおなかとなり、お産の為に東京の実家に帰る直前であり、右側のページは、弥須子が実家に戻ったあとで、また一人の生活が始まったころに作った、“笛吹きシャトル”という詩が一片貼られている。

           〜〜 笛吹きKETTLE 〜〜
  
               (一)
   笛吹きKETTLEの笛の音に
         ギターの調子を合わせると
        今日も哀調Aマイナー
            つまびく弦との共鳴が
何時しか胸に迫り来る
そんな今宵に耐えて控えて

               (二)
        笛吹きKETTLEの笛の音に
            併せ聞える妻の声
        いつか長調ドミソ音
            語ろう笑みとの共鳴が
        いつしか心を暖める
            そんな明日を望み控えて

              (三)
        笛吹きKETTLEの笛の音を
           かき消すほどのややの声
        ついに我子のうぶ声が
            聞かれるほどの人生の
        流転の不思議をかみしめる
            そんな良き日を待ちて控えて
                                  晃一

十三、十四ページ目
この両ページで、『弥須子抄』は一時中断する。そしてそれ以降は誕生した長男の写真のオンパレードとなり、弥須子が出てきても乳母車を引いていたり、赤ん坊を抱いている写真となり、写真だけで、詩は十四ページ目に記された、“歳月”という詩が最後になる。

            〜〜 歳月 〜〜
        初めて「新世界」を聴いて、
            又、今も聴いている
            十四年の歳月が流れた
              部屋を真っ暗にして聴いたっけ
              暗闇の中に真紅の炎が燃えていた

        何年か後の自分の姿は
        何処で何を考え、何を見て、何を欲して
        今二十七歳の妻と生まれたばかりの長男がいる
                 弥須子子に対する夫
                 長男に対する父親
          そろそろ第四楽章に入ったのだろうか

                 ロッキード事件 
                 泳げたいやき君
                 村多の株価445円
                 インスブルック冬季五輪
                 五輪書

十四ページ目の写真は一枚は晃一が生まれたばかりの晃一の長男を抱いている写真、残りの二枚は弥須子が晃一と出会う前に金沢兼六園を旅行したときの写真であり、八日市時代が終り、京都に帰り、更に転勤で金沢に赴任することになるが、この二枚の写真は金沢赴任の伏線を天がひいたのかも知れない。金沢赴任が転職のトリガーになったことを考えると、ここにある二枚の写真を天が貼らせたと言えるかも知れなかった。

           <<< つづく >>>







2008/02/02 18:06:12|物語
西方流雲(48)
               西方流雲(48)

        <<< 50. 結婚 >>>

 京王線の幡ヶ谷駅で、上りホームと下りホームとの連絡踏み切りで列車の通過待ちをしていたところ、対向側の遮断機から一人の男の子が下りきった遮断機の下をくぐって線路側に飛び出してきた。
 それをみた近くにいた人達の悲鳴を聞いて、近くにいた親と思われる若い女性が気がついたのであろう。驚いて、すこし線路に飛び出し、その男の子の腕をわし掴みにして遮断機の向こう側にひきずり込んだ。そして、「いったいどうしたの?危ないじゃないの。どうする気だったのと?」と大きな声を張り上げてしかりつけている。
「幸い遮断機が下りた直後で、まだ電車は来ていなかったから良かったけれど、
もし、電車が入ってくるところだったら、どうなったのだろう」
と思った人もいれば、
「母親が気がつかなかったら、自分が踏み切りの下をくぐり、その子の腕をとってひきずりこむ勇気はあったろうか」
と思った人もいたであろう。
その場面を反対側の遮断機から目にしていた晃一は、
「自分の今の心境が、あの小さな子の心にインプリントされてしまったのではないか」
と思った。
 その日、結婚式まであと一月に迫った4月の温かい日であったが、自分の妻になる人を親戚の人達に紹介するために親戚まわりをしていた。
 最後に訪問したのが幡ヶ谷に住む、晃一の父の二人の姉のうちの一人である和華里伯母宅であった。和華里伯母は薄一族の長老であり、早くに大学教授をしていた主人を亡くし、一人暮らしをしていた。晃一が中学生の頃、英語塾へ通う費用を援助してもらっていた恩のある人であった。
 また、晃一が生まれて初めて親元を離れ、就職のため関西に向かう時にも、一通の書状にその時の心境をしたためて送付した相手でもあった。
 一方で、以前、お見合いの話を持ってきてくれたことがあり、その時は、関西まで来るほどの気持ちは持ち合わせていないだろうと勝手に判断をしてお見合いを断ったこともあった。

 和華里伯母は一族の中ではもっとも格式を重んじる人で、お花(草月流)の先生もしていて、油絵を描くという趣味も持っていた。晃一の父の兄弟姉妹は、本人含めて7人いて、上に3人の姉と一人の兄、下に弟一人と妹一人がいたが、長女と兄は早逝していて、残り5名が存命していた。その5名のうち2名、即ち晃一の父の姉と妹が板橋、1名、即ち晃一の父の弟が埼玉県狭山市、晃一の父が東久留米に住んでいた。
 ついでながら、晃一の母には兄と弟一人づつと姉一人がいて、兄は戦死していて、姉は新潟の長岡市に住んでいる。そして弟は晃一の父の妹と結婚して、板橋に一緒に住んでいた。
 因みに、板橋は晃一の母の実家でもあり、したがって、ここが晃一の生誕の地になっている。したがって、板橋、狭山、幡ヶ谷の3箇所を回れば、親戚巡りが全て完了することになるわけである。

 この3箇所の最後にお邪魔したお宅が、幡ヶ谷にある和華里伯母宅であった。
 高校生の時に行った記憶があるのみで、幡ヶ谷駅からの道順に自信はなかったが、なんとか辿り着くことが出来た。呼び鈴を押すと、すぐ玄関が開き、笑顔で手招きしてくれて、部屋に案内してくれた。
 案内してくれた部屋は薄暗い感じがしたが、電気代の節約か、目がそれほどの照度を必要としないのだろう。
 目を下に落すと、小さな台机の表面が紫色した風呂敷の様な布に覆われて、その上に湯飲み茶碗が一対と菓子皿が一対置かれていた。その前に敷かれている座布団に座ることになった。
 部屋の薄暗さは、いかにも薄家一族の祖先の霊が和華里伯母に住み着いている様な印象を与えた。康子はこの雰囲気に驚いたことであろう。
 それを晃一同様に感じたかどうかは分からないが、もし感じたとしたら、その霊たちが歓迎してくれていると言う気持ちにはなれなかったに違いない。とすれば、彼女はこの結婚に否定的な気持ちに陥らざるを得ないであろうという不吉な想いが晃一の胸をよぎった。
 そして、その不吉な予感が的中した。和華里伯母宅を辞して幡ヶ谷の駅に向かう途中、
「無理! やはりやってゆけないと思う。辞めよう!」
と、半ばべそをかいたように晃一に言った。
 実は、親戚巡りの最初に訪問したもう一人の晃一の伯母、上板橋の沙詫代伯母宅を訪れた時から、沙詫代伯母の言動に違和感を感じていたらしく、それが“やっぱり”という言葉に繋がったのであろう。
 本来は、この様な時、晃一が必死になってその様な気分を打ち消すような努力をしないといけないのだろうが、何故かその気持ちを押さえつけるような外力を感じたのである。
 そのことを、後に晃一が自分の人生を振り返る時に、人生という時の流れのなかで、その出来事を振り返ると、その外力というのは“天の力“と思わざるを得ないことに気付くのである。しかし、それは今の時点より20年以上もあとのことになる。
 幡ヶ谷からは、新宿経由でそれぞれの家に帰宅することになった。康子は、京王新宿駅で電話ボックスをみつけると、そこに飛び込み、受話器をとり、母親に、この話を破談にしてくれる様泣きながら訴えていた。母親のそれを押し止める必死の説得の声が、少し離れていた晃一の耳に達した。
 晃一は、初対面の時の彼女に対して抱いた印象が正しかったのだ、という悔悟の気持ちが沸々と湧いてきたが、ここで破談にすることは、自分にとっても、彼女にとっても、今日回ってきた親戚にとっても取り返しのつかない大きな精神的痛手を背負い込むことになる。
 なんとか彼女の気持ちを安閑とさせねばならない、という気持ちになって必死に、思いなおすよう、説得を試みた。
 結婚した後の生活の場が、親戚がいる東京ではなく、滋賀県や京都府なので、気にならないのではないか、というのが晃一の説得の論理であり、彼女もそう思ったのだろう。
 結局は当初の予定通り、5月3日に京王プラザホテルで式を挙げることになったのである。
結婚後、色々な場面での親戚つきあいが出てくるにちがいない。特に晃一は薄家の惣領として小さい時から意識ずけされているので、まず親戚まわりをして、これからの伴侶を紹介する必要があった。その様な当初の考えを撤回することにした。
 結婚というのは、当人の全くの自由意志であり、相手を誰にするか、そのイベントをいつにしようか、全て当人の自由意志であり、当人の裁量に委ねられている。したがって当人の知恵、個性、人間性、活力をフルに発揮させて相手を決めることになるのであろう。 しかし、実際は当人が置かれている環境というものがあり、当人同士の相性がいくら良くても、その環境が許さない場合がある。晃一と菟新明初子の場合がそうであったろう。
 世間では、いくら周りの環境が許さなくても、それをはねのけてでも一緒になる形もあるが、晃一はその壁を乗り越えられなかった。
 また、いつの間にか、親との会話の中で、親としての結婚観を植え込まれる場合がある。例えば、
「妻、母としては、学歴が高いほど旦那や子供達に対して為になることをしてあげられると思うわ。」
「親としての人生設計では、長男は27歳の時に結婚してもらい独立してもらう、ということを考えてきたの。」
 そんなことが少しずつ晃一の意識に刷り込まれてきた。いつしかそれが晃一の自意識となり、相手を選ぶ時の主たる判断基準ではないにしても、意識の片隅に居ついてしまうのである。それらが積もり積もって高いハードルになってしまうものである。「そんなことはない。」と言えるようになるには、それなりの人生経験が必要である。親と同等以上の人格を備えないと難しいことである。
 そう、後年この物語を記している時期には思わざるを得ないのである。

          <<< つづく >>>







2008/01/27 0:59:04|物語
西方流雲(47)
               西方流雲(47)

             <<< 49. 康子抄 >>>

 そしてその年1974年は、その年を十分振り返る暇もなく年末を迎え、例年通り東京の実家に帰った。東京では例年の様に学生時代の友人達を誘い一年分の旧交を温めなおした。そして、その間出来るだけ時間を作って滝内康子に会う機会を作った。
 合計九日の年末年始休暇のうち七日を彼女と会う機会を作った。意志を固めたわけではないが、その方向に転がり始めている様に感じていた。
 その他、新蔵(12月31日)、入井、結婚式の司会をしてもらうことになる埜々村(1月2日)、そして1月4日には晃一の大学時代の友人達、磯貝、池神、朝黒、園藤、そして彼女の友人志水さん、伊奈田さんと合同で新年会を行った。そして高校時代の友人、幸野、巖川(1月5日)、ユニゾン時代の上司、同僚の福島課長、鹿島(1月5日)という様にフル回転で友人たちにも再会を果たし、旧交を結び直した。
 1月3日には一緒に明治神宮に初詣に出かけた。彼女は着物を着てきた。この頃の女性は、初詣には着物を着て出かけると相場が決まっていて、そのため、着物の着付け、髪型など苦労が絶えないことを、晃一は姉の場合を観て知っていたので、平服でもいいではないかと思っていた。
 一方では日本の美であり、守ってもらいたい伝統と思いながらも、他方ではそこまで無理することないのに、と思うのであった。
 無理することないのに、という思いをそのまま適用してあげたい彼女の姿であり、京都で着物姿の女性を見慣れていた晃一の目からは、着物を着て窮々として、ゆとりが全く見られない彼女を気の毒に思った。
 初詣の後、新宿の喫茶店に入り、お互いに友人達同志を紹介しあおうということとなり、前記の通り、一月四日の合同新年会となった訳である。
 会うたびに気心が知れて、彼女の良さに魅かれて行く様に感じた。しかし、彼女はどの様な思いで、七日もの間自分に付き合ったのだろう。八日市への帰途、新幹線の中で、車窓を眺めながら、晃一は、彼女の心情を量ってみた。
 実力行使がいつのまにか方向を変え、彼女としてもどの様に考えて良いか分からなくなったに違いない。彼女が半年の間、納得が行かなかった感情を正すつもりで八日市まで来たのに、其の気持ちをぶつける前に、その気持ちを理解される前に、肩透かしを食い、今度は逆の立場に立たされている。その変身ぶりを理解しないと先へ進めないのは当然であろう。
 晃一も、自分の変身ぶりを考えてみた。初めて会った時に、彼女に対して抱いた負の印象が薄れていたことは確かである。しかし、それだけで、この様に変身する筈はなかった。
 正月に明治神宮に一緒に初詣に行った帰り、京王デパートへ寄った。その時、全国の大学の校章や徽章の展示会をやっていた。その時、晃一の卒業した大学の校章と彼女が卒業した大学の校章が隣同士に並んでいた。
 何故かそんな些細なことにうっすらと晃一は運命を感じたものであった。晃一は迷信は信じないが、それまで運命という言葉も彼の側にはなかった。
 しかし、運命と言う言葉とは直接結びつかないものの、晃一の感覚に直接飛び込んできた幾つかの不可解なことが、これまで繰り返し起こってきた。
 もっとも新しい出来事を思い返すと、丁度昨年彼女が八日市までやってきた時、京都の案内のあと京都駅まで見送り、車で八日市に戻る時、八風街道に入り、晃一の住む奥山寮へたどり着く直前に、ラジオの雑音にまぎれて聞えてきた幻聴であった。
 それほど晃一にとってこれまでにない出来事があったにも拘わらず、会社が始まって最初の日曜日12日には気持ちは平穏となり、心は、また八日市の人間に戻っていた。遠いところに居ると情もついつい希薄となって行くような感じがした。大分時間が経った様に感じて仕方がなかった。
 初めて親元を離れ、新幹線から見えたおぼろげな車窓は過去を忘れさせる“忘れよ草“、過去の甘い感情の”忘れよ草”、しかし今回は珍しく富士山頂付近がくっきりと見えた。
 おぼろげな光景でなかったところがこれまでと異なる点であった。そうなっては、その土地に住んでいながら心落ち着けて仕事も生活も出来ないということで、これまで東京に未練や郷愁をつくってはならない、という気持ちに追いこんで来た。
 それらは自分にとっての先が見えなくなってしまう。それが赤い荒野に足跡を残そうとしている自分にとっては大問題なのだ、と自分に言い聞かせてきた。
 何度か東京で見合いをしたが、母親の顔を立たせる為であり、本心で見合いをしたことは無かった。
 今回はどうだったのだろう。胸に手を置いて考えても答えが出るものではなかった。なるようになれということであった。

 そして終に晃一は決心した。それまで、社会人に成り立ての頃から書き続けてきた日記を滝内康子に見せることにしたのだ。自分の過去が綴られている日記を見せるということは、彼女と一緒になることを決心したのに等しい。
 もっと互いに近くに居れば会って話しをして、より互いの気持ちを確かめあうことが出来るのに、電話では電話代ばかり膨らんでしまい、経済的な問題に発展しかねない。それ故、日記開帳ということにしたものだが、これが良かったかどうかは神のみぞ知る、ということだろう。晃一にとっての“天”はこれまでどちらかというと、否定的な存在であった。

            <<< つづく >>>







2008/01/24 0:02:03|物語
西方流雲(46)
               西方流雲(46)

           <<< 48. ホワイトノイズ >>>

 京都からは名神高速道路を使わず、東海道、国道八号線を経て帰ることにした。高速道路代が残っていないためだった。大津、石山、野洲を順に通過し、友定町の交差点を右折し、そこからは近江鉄道の線路に沿う八風街道(国道421号線)に入れば八日市はすぐである。
 車の中では、京都から絶え間なくカーラジオが話し相手だった。ラジオからは、年末ということもあり、その年(1974年)ヒットした曲が、何度も何度も晃一の耳を捉えた。

 ♪折れた煙草の吸殻で、あなたの 嘘が分かるのよ♪の「うそ」、「赤ちょうちん」南こうせつとかぐや姫、♪北の街では もう悲しみを 暖炉に燃やし始めているだろう♪の「襟裳岬」、♪うらみっこ無しで 別れましょうね。さらりと 水に全て流して♪の「二人でお酒を」♪私は泣いています ベッドの上で♪の「私は泣いています」♪去年のあなたの思い出が、♪の「精霊流し」、その他、「ひと夏の経験」山口百恵、「結婚するって本当ですか」ダ・カーポ、「昭和かれすすき」さくらと一郎、「傷だらけのローラ」西条秀樹、「よろしく哀愁」郷ひろみ

 どこの放送局も同じような歌番組を流していたので、気に入った曲が終わるとダイヤルに手をのばし、放送局を変えた。晃一はどちらかと言うと歌詞よりメロディー重視であり、これらの曲で、「赤ちょうちん」、「私は泣いています」、「昭和かれすすき」の三曲は晃一にとって新鮮なメロディーであった。八日市の住民になってからは、宗 睦夫、勝山 融との三人でジュークボックスを利用することが多かったが、特にリリーの絶叫する様な歌い方には魅力を感じ繰り返し聞いたものである。

 その魅力を大東さんに話をしたことがある。そうしたら翌日三十センチLPを持ってきてくれ、貸してくれたことや、実際に京都の丸山公会堂でのリリーのリサイタルを実際に聞きに行った、という記憶もその年の出来事であった。リリーのリサイタルに大東さんを誘っていたら晃一の人生もどの様に変わっていたかも知れない。しかし、そう思ったのは晃一が自分の人生を回顧することになる25年以上も後のことである。
 その様に繰り返し、それらの曲を聴いているうちに、八日市の駅を通り過ぎたとき、急にラジオの受信状態が悪くなり、脱調した時のホワイトノイズの音量が増えてきた。通常チューニング外れは少しづつ起るのであって、これほど急に起るはずはなく、異常な電波障害例えば電波妨害、放送局の機器の故障、例えば出力落ち、が起ったとしか考えざるを得なかった。しかし、一時的なアクシデントだと思いダイヤルはそのままにしていた。
 おかしくなってから五分くらいは経っただろうか、信号も少なく日曜の夜ともなると通りはたとえ国道であっても、閑散としていて、既に沖野町の近くまで運転して来た頃、それまでのホワイトノイズがうねり始め、僅かではあるが調べを持ち始めた様に感じた。 そしてそのホワイトノイズのうちの低周波成分が、少なくなってきて、人の声の様な響きに聞こえてきた。そしてその声の内容が僅かに言葉になっているのが聞き取れた。もしかしたら外から聞こえてきているのかも知れないと、スピードを落したり、窓を開けたりしたが、外からは何も聞こえなかった。
 同時に、窓を開けた瞬間、そのホワイトノイズも聞こえなくなった様な気がした。窓から吹き込む十二月の寒風により車内が冷えたので窓を閉めると、再びホワイトノイズがより鮮明な声を重畳して聞こえてきた。
 エンジン音を止めれば、より鮮明に聞こえると思い、こんどは車を停車させてみた。しかし、窓を開けた時と同様、声らしき音が消えただけでなく、ホワイトノイズまでもが聞こえなくなってしまった。
 おそらくバッテリーの状態が良くないのだろう、走行中はバッテリーに絶えず充電されるので、良いが、停車するとどこかで漏電していて電圧低下をしてしまうのに違いない。そう考えると一件落着の様に感じ、再び家路に向かった。動き始めると再びホワイトノイズが聞え始めた。
 そして、今度は意識の中だけで聞えたのかも知れないが、明らかに言葉となって、晃一に話しかけているのである。
「不幸になる。やめておいた方が良い。決めてはいけない。」
 そういっているのがはっきり分かったが、それを実際に音として聞えているのか、意識の中だけで聞えているのかは定かではなかった。
 この時のことは晃一はいつまでも忘れずに記憶に残るのだが、この頃の晃一は順風満帆であり、何をやめておいた方が良いのか、また決めてはいけないのか、そんなことは考える気持ちの深さやゆとり、歩調を持ち合わせていなかった。
 霊、迷信、天は勿論のこと、宗教をもまるで信じていなかった。それだけ若かったといえるが、それまで、本当に心身ともに打ちのめされるような経験をしたことが無い、というのが事実であろう。否定語や否定文は耳に入らないということは誰にでもあろうが、苦労知らずの晃一にとって、守らなくてはいけない否定語や否定文も遠い存在であった。
 野村町の会社のまん前の独身寮奥山寮についたのは夜十時を過ぎていた。吐く息は白く、白い息が消えた先にはオリオン座が中天にさしかかろうとしているのが見えた。

          <<< つづく >>>