槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/02/16 1:12:34|物語
西方流雲(52)
             西方流雲(52)

         <<< 54. 脱神戸、知日の旅 >>>

              ( 一 )

 日付を1969年に巻き戻す。場所は神戸の中華料理店。紅蓮が日本に来て最初の友人となった中村美枝子の母が亡くなってから二年の歳月が経っている。その初夏の候である。店主の何秀麗が大事な話をする為に、店員全員を自分の部屋に集めたところである。
 紅蓮は、最近店内に客のいないことを確認すると、中村恵美子との間で、次のような会話をすることが時々あるのだった。
「最近、ここの奥さん、店に顔を出すことが少なくなっているように思うけどどうしたのかしら。」
「私達がしっかりしてきたので、自室で経理をする機会を増やしている。そう息子さんが言っていたのを聞いたことがあるわ。」
 紅蓮は、この二年間、日本語学校に夜間通いつづけ、貪欲に言葉を覚えつつあったが、時に、語の意味があやふやになり確認することもあった。
「経理って、収入と支出のこと?」
との紅蓮の問いに対し、
「そう、最近お客さんが増加して売り上げが増えたので、きちんと経理をしないと、税金を払いすぎたり、逆に脱税で訴えられることが絶対ない様にする為に、神経を使っているらしいの。」
というのが、中村恵美子の推理であったが、紅蓮は、それが本当の理由ではないような感じがしていて、
「体調が悪いのでなければ良いのにね。」
と気になっていたことを中村恵美子に打ち明けると、中村恵美子も、
「私も、それは心配しているの。時々凄く疲れた表情をする時があるのね。」
 そんな会話を幾度となくすることがあった。ちょうどそんな頃にタイミングを合わせたかのような、店主の何秀麗(かしゅうれい)の店員全員に対する集合の呼びかけであった。
 紅蓮は何秀麗の部屋に入るのは初めてであった。
 なにげなく部屋を眺めまわすと、柱時計は夜の九時を指している。柱に沿って、視線を落としてゆくと、柱に花瓶が吊るしてあり、その花瓶にたわわに咲いた紫陽花が飾られているのが目に入った。その紅蓮の視線に気がついた何秀麗は、
「その紫陽花は中村さんのお宅に咲いていた紫陽花よ。」
と言い、紅蓮は黙って頷き、
「中村さんのお母さんは、奥さんにとって、本当に、本当に大切な友達だったのですね。二年経ってもまだ忘れられない人だったのですね。でも気持ちを沈み込めすぎて、健康を損なわない様にして下さい。私達それが一番心配なのです。」

 そこに集まった従業員全員と言っても、紅蓮、中村恵美子の他、アルバイトで近所から来ているアルバイトの高校生、何秀麗の息子夫婦、去年からコック見習いということで息子の料理の手伝いをしている若者の6人で、息子の何秀勲(かしゅうくん)が料理長で、アルバイトの高校生が皿洗い、紅蓮と中村恵美子がウェイトレス兼客室の整理整頓、室内の飾りつけ等の接客を担当していた。
 彼女等の何秀麗の健康を心配する声に対して、何秀麗が答えようとするのを遮って、長男が代わって、
「実は、皆さんにこのように集まっていただいたのは大切な話があってのことです。それは、紅蓮ちゃん達が心配してくれたことは実は当たっていまして、母は近く、大学病院に入院して、暫く養生しなくてはならなくなったのです。
 この店は、これまで母の顔でやってきた様なところがあるので、その母が店に現れなくなると、店が成り立たなくなると思われます。そこで、非常に残念だし、皆さんには多大な迷惑をおかけすることになってしまいますが、この店をたたむことにしました。皆さんがこれから困らないような対策を一緒に考えて路頭に迷うことが決して無いようにしたいと思いますので、是非了解してもらいたいのです。」
 紅蓮は、何秀麗がそれほどまでに健康を損なっていたとは思いが至らず申し訳なさを感じた。もっともっと奥さんの手伝いをしてあげればよかった。
 中村美枝子の母が亡くなった寂しさに打ち克つことが出来ずに、沈痛な気持ちでこの二年間過ごしてきたのだわ、かわいそうに、それが原因に違いないわ、と独りごちた。
 また、中村美枝子は、自分の母がそれほどまでに大切な友人として位置づけられていたのか、亡き母もきっと天国で有り難いと思っているに違いない、と独りこちた。
 そして今度は何秀麗本人が、
「来週初めに、早速検査入院して、いろいろな検査をするのですが、その結果なんともなければ退院できるので、そうしたら継続よ。すぐ退院出来なくても治療して元の様に健康になれれば、何時頃になるかはっきりはしませんが、店は再開よ。入院中は退屈でしょうから、時々皆さんも顔見せに来てね。」
と入院と退院の見通しを述べた。ここで言った皆さんというのが紅蓮と中村美枝子であることは、ここに集まった全員に容易に察しがついた。
 紅蓮は、
「必ずお見舞いに行きます。紫陽花の花を沢山持ってゆきます。多分中村さんと一緒にゆきます」という意志を溢れんばかりの眼差しをつくり、何度も何度も頷き、心で会話をした。そして、
「お見舞いになんか行かなくて済むように、すぐ退院できることを祈っています。」と締めた。
 ついで、中村美枝子が、
「退院したら、母と語り合ったことや、一緒に行動したことをもっと話して下さい。きっと今の自分にとって役に立つことが一杯あると思うの。約束して下さい。」何秀麗は一瞬声をつまらせながら、
「分かった。約束する。」
と言った。
 そう言う会話を交わし何秀麗を見送ったのが僅か3ヶ月前。そして今、紅蓮と中村恵美子の目の前にあるのは、何秀麗の名前が彫られた黒い墓標である。
 神戸港がかなたに見渡せるメモリアルパークに、ひときわ目立つひょうたん形の紫陽花の花壇があり、瓢箪の片方の円の中心部に何秀麗の墓標が、他方の円の中心部には中村恵美子の母の墓標が配置していた。
 そこへ、何秀麗が入院していた病院の看護婦長さんが花束を抱えて近づいてくるのが見えた。この看護婦長も何秀麗と中村恵美子と高校生の時に同級生で、先生達からは三羽烏と言われ、学校では何秀麗、中村恵美子とつかず離れずの毎日であった。
 墓標のところまで来て、紅蓮と美枝子の姿をみつけると、
「やっぱり、分骨して、二人の遺骨をこの様にならべ、紫陽花の花に埋もれ、港の見える丘に埋葬してあげられて良かった。亡くなる一週間ほど前に彼女の病室に呼ばれ、二つ彼女の願いを聞かされたの。この様に葬って欲しいと言われたのがひとつ。そのとおりにできてホッとしたわ。それにしても人の命というのははかないものね。」
と語りかけてきた。
 紅蓮は、「婦長さんも、あのお二人と一緒の文殊様だったのね。今となっては一番寂しいのは先生婦長さんかも知れませんね。」

 紅蓮にとって、日本においては、人の死→仏教→仏様→如来・菩薩・明王・天→知恵→三人寄れば文殊の知恵という連想がしやすかった。
 それを聞いた婦長は、
「文殊って、三人寄ればの?....残念ながら私なんかあの二人の知恵には敵わなかったわ。私は他人とのかかわりの中に医療という仕事を据えて、これによって人を幸せにする、ということに多少の知恵を使ったと言えるかも知れませんが、負の幸せというのかなア。病気というネガティブな状態をそれより悪いネガティブな状態にさせない現状維持か、良くてネガティブな状態をネガティブでもポジティブでもない状態に回復させると言ったことで、前向きのものではなかったかも知れませんね。だって医療なんてのは、もとの健康な状態にもどすということが目的でクリエイティブな幸福を他人に与えるものではありませんからね。」
と、自分の仕事に100%誇りを持っているわけではない、ということを言いたげであった。やはりクリエイティブな幸せを他人に与え、それを喜んでもらい、更に一緒になって新しい幸せを創造する、という人生の方が余程充実感を
感じる、と言いたげな印象を、看護婦長から受けた。
紅蓮は、中村恵美子の母や何秀麗の死去をまのあたりに見て、自分の両親のことに想いを馳せるのであった。

 中村恵美子の母や何秀麗と同じ世代であり、いつ致命的な健康障害に見舞われるかわからないのだ。今頃母、薄蕾蓮、父、薄鉦渓はどうしているだろうか。
 二年前文化大革命のさなか、紅衛兵らによって迫害され、太湖に追いやられ、離れ離れになってしまった父母は今頃どのような暮らしぶりだろうか?
 このメモリアルパークから遠く神戸港のかなたを紫陽花越しに眺めていると、そのような深い思いに沈んで行くのだった。
 しばし、三人とも沈黙したあと、期せずして三人同時に、
「癌の前では、医療はまだまだ太刀打ちできないのね。」
とため息交じりの声を洩らした。
 紅蓮はこれまで不思議で仕方がなかったことを、思い切ってその看護婦長に聞いてみた。
「先生、奥さんはどうして、これほど短期間の間に亡くなってしまったのですか?」
「癌だったの。膵臓癌だったのね。それが判明した時には末期で、手の施しようもなかったのね。彼女が店員の皆さん全員を集めて、検査入院するので、しばらく休業する、と話をしたことがあったでしょ。その時はもう余命3ヶ月という進行した状態だったのね。それまでは、腰に鈍痛を感じることがあり、単なる腰痛と思っていたのね。」
「どうして三ヶ月前になるまで分からなかったのですか?」
「紅蓮ちゃんは、膵臓が体のどのあたりに在るか知っている?」
「先生、そのことと関係あるのですか?」
「関係がおおありなの。膵臓という臓器は、全ての臓器の中で最も見えにくいところにあってレントゲン写真ではなかなかみつからないのね。
 みつかった時は、癌組織がかなり大きくなってしまうだけでなく、すでに転移したあとで、手の施しようがなくなっている場合が多いの。
 よくある本人の自己診断ミスは椎間板ヘルニアのような腰痛と勘違いしてしまうことなのね。本人の自己申告を医師、特に整形外科医師は否定することは勇気のいることで、椎間板ヘルニアの手術までして、なお痛みが取れず再度精密検査をして見つかるというケースもあるくらいなのよ。
 問診というのは、患者の病状を知る重要な医療行為なのだけど、自分の抱えている体内の異変をどの様に正確に、医師に伝え、医師がどの様に聞き出すか、それが本当に重要な診療行為と言えるのだけれど、そのような症状を的確に表す言葉なんて、普通は持たないわよね。
 特にそれまで健康優良児で殆ど病気に罹ったことの無い人ほど、その様な言葉を持たないのね。彼女の場合もそうだったのではなかったかと最近思えて仕方ないの。
 中国人ということもあって自分の体調をうまく伝えられなかった、というハンデもあったかも知れなかったわね。医療にどっぷり浸かっている私が近くにいながら、こうなってしまったのは、私にとっても、残念で、癪で仕方ないのよね。」
と長々と、婦長の感懐がまるで追悼の辞の様に述べられたのであった。
 紅蓮は、目頭を押さえながらその様に述懐し、自分自身を責めている婦長さんが気の毒になり、
「今一番悲しい思いをしているのは婦長さんかも知れません。どうかご自身をお責めにならないで下さい。」
といい、中村恵美子も心から大きく肯いているようだった。
と言いながらも、その言葉が本当に慰めの言葉になっているか気になった。日本にきて二年間、一生懸命日本語を勉強したが、まだまだ心の篭った日本語を使えていない自分が見えるのであった。
 日本人の心をつかみ、日本人の心に響く様な言葉遣いができるようになるためにはどうしたら良いのか。また自分にとってそれが本当に重要なことか、まだ答えの出せない紅蓮であった。

一呼吸おいて、婦長が、
「ところで、あなたたちはこれからどうするの?何か計画あるの?何さんからさっき二つお願いされたと言ったでしょ?もうひとつがあなたたちに関することなのよ。
 いつも彼女が言っていた、『中村恵美子さんは、あの中村さん、ここに眠っておられるね、その娘さんだから、聡明さ、手際のよさ、他人に対する心配りの深さ、どれを見てもこの店で一生働いたままで終わっていい若者では無い。』といっていた。
 また紅蓮ちゃんのことも、自分が本当にできなかったことを託せれば、という気持ちがあってのことだと思いますが、『あの子には中国人が持ちがちな自分本位なところがなく、日本人以上に日本人が昔からもっていた自然や生き物に対するやさしさや憐れみ、慈しみを持っていて、そして向上心といった良さをももっていて、医者とか看護婦に最適な人材といえる。勉強熱心だし、しゃべることのできない木々や花からのささやきの言葉を聞ける子のように感じる。人の心に癒しの種を蒔くことができる子の様に思うの。』といっていた。そして、『自分が死んだあと、なんとなく彼女らに医療に尽くす気持ちが無いかきいてみて、もし、それがあるようなら、その気持ちが敵うなんらかの協力や後押しをしてあげて欲しいの。』とも言っていた。
 どうかしら、考えてみない?まだ二人とも若いから看護婦ではなくて医者にだってなれないことも無い。・・・・、また来月の祥月命日には私はここに来るけど、もしその気があれば、あなたたちもここへ来てね。
 ああ、今日は間に合ってよかった。前からこの話をしないといけないと思いながらできなかった。店に電話したら息子さんが、「あなた達ここへ来ていると聞いて、追いかける様にしてやってきた甲斐があったわ。では私はこれでお先に失礼。元気でね。」

 二人は、すぐに帰る気にならず、なお1時間ほどそこに留まり、何秀麗の思い出を紫陽花の花を見つめながら語り合うのであった。
 しばらく沈黙したあと中村美恵子が、口を開いた。
「奥さんが私たちに医療の道に進むことを願っていたとは思いも拠らなかった
けれど、紅蓮ちゃんはどう思う?」
「私は外国人だから、帰化したら別でしょうけど、簡単には医療の道には進めないと思う。私には中国にいた時から不思議なお告げがあって、それに従うのが自分の人生だと思っているの。そのお告げの中に、医療への関与というのが
入っているかは誰も分からないの。」
「へー。そのお告げって、誰が、どんなことを言っているの?」
 中村恵美子を紅蓮は日本に渡ってきて、初めての心の許せる友人と思っていた。
 その親友の質問なので、これまでの経緯を話しても良いだろう。そう独りごちてから、
「私たち家族四人は、文化大革命で迫害を受け、呉東伝さんに助けられて、両親を中国蘇州にある太湖のほとりに残し、私だけ日本に来ているのだけれど、それは表向きで、東伝さんの話では崑崙の仙人というのが居て、その仙人のお告げというのが、東伝さんの気持ちを大きく動機付け、私を東の果ての国、即ちこの国日本に連れて行くのもそのお告げに入っているというの。
 私も自分の夢の中にも、その崑崙の仙人が出てきて、東伝さんに告げたことと同じ内容のお告げを何度かされたことがあるのよ。ただ東の果ての国、即ちこの国日本へ行くことは告げているものの、そこで何をしなくてはならないかはいまだにお告げがないの。」
その話を聞いて中村恵美子は合点が言ったという表情をして、
「そうだったの。奥さんが生前よく私に言っていたのは、あなたのことを『何か、すごく大きく気高い運命というか、天命のようなものをあなたが背負っているように思えるの。中村さんは彼女と付き合っていて、そういうことをあなたに感じたことない?』と聞かれたことがあるの。そういうことだったのね。」
「そんな大袈裟なことではないと思うのだけれど、この国でやらなくてはいけないことがある様に思えて仕方ないのね。今度の日曜日に東伝さんに会うことになっていて、今後の身の振り方について相談しようと思っているの。恵美子ちゃんは誰かに相談するの?」







2008/02/12 22:46:52|旅日記
京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)

 智積院の「冬の非公開文化財特別公開」は、長谷川等伯による襖絵と名勝庭園で、再度の火災に会い金堂を失い、本尊大日如来は新金堂とともに昭和48年に造顕されたとのことである。庭園を埋め尽くすさつきにまだらに残る前日の雪はやや中途半端な感じがしたが、風格のある堂宇の構えや庭園の一角に佇む砂模様に残雪した雪紋は造形美を感じた。遊び心で、フォトショップで着色してみた。
 
 この日は、そのあと、空也上人像で有名な六波羅密寺、小野喬(おののたかむら)の冥界での出仕で有名な六道珍皇寺、更に八坂の塔の近くを通り、八坂神社、四条河原町から河原町通り、五条通り、烏丸通りを経て京都駅に帰着。万歩計は27000歩を示していた。
 







2008/02/12 22:05:42|旅日記
京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)

 9:30頃JR草津発新快速で20分前後、京都駅に10時前に着き、駅B1にあるコインロッカーに荷物を置き、財布とデジカメと金庸の文庫本「伊天屠龍記」をコートのポケットに突っ込み、ベルトに万歩計を装着し、全行程ウォーキングで巡ることに決め、一路東山七条に向かった。文庫分は、ウォーキングに疲れたら最寄の喫茶店で本を読みながら、疲れを癒すためである。

 前日の真冬の寒さから一晩で、春たけなわの暖かさへのトランジション。純白の世界から一夜のうちに紅梅咲き誇る色彩豊かな世界へ。殆ど満開状態なので、雪の前日よりもっと前に咲いていたに違いない。人間は勝手なもので、一瞬の時の移ろいと勝手に解釈し、美化する。

 しかし、その様な解釈と美化に十分耐えることが出来るほど充分にどっしりとした落ち着きと品格を漂わせる寺であった。

 ここ智積院(ちしゃくいん)と前日雪の中を訪れた東寺との共通点はともに真言宗の古刹で、ともに創建に空海が関わっていることであろう。その割りに仏教色は薄く、見せる非公開文化財は庭園と長谷川等伯の襖絵であった。
         







2008/02/11 23:54:57|旅日記
京都 冬の旅(その1:二月九日)

京都の寺々の雪化粧を久しぶりに目にした。
2/8(金)大阪出張があり、その帰りに京都に立ち寄ることにした。しかし旅行客が閑散としている筈のこの時期にしては、三連休ということもあり、ツアー客で混んでいて京都市内に宿を取ることが出来ず、結局、JR新快速で京都から二十分程度にある草津のホテルに宿泊することにして予約していた。それが結果的にラッキーだった。ホテルのロビーに「京都散策(冬号)」というイベントガイド小冊子が置いてあり、その中の主記事に、「冬の非公開文化財特別公開」というのがあり、万歩計を腰につけていたので、ウォーキングを兼ねる観光ということで、東寺、智積院、六波羅蜜寺、六道珍皇寺を巡ることにした。但し、二月九日は朝から雪がチラツキ始めたのと夜は八日市工場時代の上司らと再会懇親することになっていたので、結局この日は東寺のみとなった。

 東寺は京都駅に近いこともあり、少しでも余裕のあるときは、一時間ほど新幹線に乗る時刻を遅らせて訪れることにしている。雪の降り方が刻一刻と激しくなって行くのが分かる。

 ここの非公開文化財公開というのは五重塔の初層内部の公開で東寺の象徴ともいうべきこの建物の内部を観覧できるとはなんとラッキーな。

 初層内部は大日如来に見立てた心柱を守護する様に四仏や菩薩像が安置されている。これらや、金堂、講堂に安置された仏像群を見上げているうちに、安らかで静かな落ち着いた気分になれる。そして仏像に関する知識を得るのには比叡山に並ぶ最適の空間と言える。







2008/02/11 22:30:57|物語
西方流雲(51)
                   西方流雲(51)
           
                <<< 53. 転職 >>>

例のクレーム対応のための静岡出張がある以前の話である。
突然、掛井次長に呼び出され、
「先程オリンポスという名の会社から君に電話があり、随分いろいろと君のこと聞きよったが、得意先か?」
と質問された。晃一は咄嗟に、
「我々の得意先で、韓国のデジタルウォッチメーカーですよ。去年長岡京のほうの我が社を訪問して20万個のオーダーをいただいたところですよ。」
と答え、その場を凌いだ。
 それと同時に、その実在の会社の買い付け担当者が訪問した時のことを想い出した。
晃一がその担当者と対面した時、晃一の名刺の名前(ファーストネーム)を見て、
「名前を見ると、いつか家族と離ればなれの人生を送ることになる」
と気味の悪い事を言われたことを思い出した。それ以来、晃一は韓国嫌いになり、『風の丘を越えて』という韓国製の映画を見るまでその気持ちは変わらなかった。
 しかし、その様な記憶があったものの、実はこの頃晃一は転職の決意をしていて、転職先として、晃一夫婦の実家がある東京を本拠とするオリンピック光学と折衝を続けていて、最終の面接が残っているのみの状態で、”オリン”という言葉が次長から出された時は一瞬冷や汗が出たというのが正直なところであった。
 妻が手の痺れを訴え、とても3人の子供達の面倒は無理そうで、この年の様な豪雪が頻繁に起るようなら、尚更生活の基盤をここに置き続けるのは難しいという悲観的な気分に負けてしまっていたのである。
 その頃晃一は昼食が頭痛の種であった。いつも給食センターからの弁当で済ませていたが、必ずしも味が良いとは言えず、一緒に京都から転勤してきた妻帯者は皆奥さんに作ってもらった弁当を持ってきていた。それが出来ない晃一としては、近くにレストランがあれば、そこへ行くのだが、経済的な負担を増やす訳にも行かず、結局毎日昼食の時間がすぐ終わればと思うのであった。
 また、そう思うのは味の問題だけではなかった。京都からの転勤者で、妻帯者の中で、唯一弁当を持ってこない晃一に対して、気の毒がる眼を向けられたり、
「奥さんに作ってもらえば良いのに。」
などと言われることがあるのも、晃一にとっては迷惑なことであった。
 手が痺れるという身体的なハンデを負った妻が、金沢へ戻れる兆しが全く伺えない状況では、「現状では無理だ。」と答えるしかないのであった。しかし、その次に、
「どうして?」
という質問が追い討ちをかけたら何と応えれば良いのか。そのQ&Aを突き詰めて行けば、結局、「夫婦間に心情的な溝が出来てしまっている」ということになり、究極の事態として、離婚してこの地(会社)にとどまるか、転職するかの二者択一しかない、ということになってしまうのである。
 それに、晃一は気の毒がられることが最も嫌いなことであり、そうされるとなんとなく見下されているような情け無い気分になるのである。以前晃一は、自分がもしかして他人を見下すような性格をしていないか闇に問い掛けたことがあった。
「他人に対して憐れみの気持ちを持つことは良い事なのでは?」
との晃一の問いかけに対し、闇は、
「いや、そうとも言えないよ。例えば、勤務している会社が倒産してしまい、収入のあてが無い人がいる。もし君が、そうでなく通常に勤務する会社があって収入の心配がなければ、その人を気の毒がる気持ちが生まれようが、もし君が、勤務していた会社が倒産しただけでなく、失業期間に失業手当ももらえない、即ちその人以上に厳しい状況にあったら、その人を気の毒がる気分になるかい?
あるいは、胃潰瘍に悩まされている人がいる。もし君が健常者であれば、その人を気の毒に思うだろう。しかし、君が、胃潰瘍よりも重篤な胃癌になっていたら、憐れむ相手は胃潰瘍になっている人ではなくて胃癌になった君自身ということになるのでは?
 あるいは、君の友人の中に1000円落とした人間がいたとする、君がもし10000円盗まれていたとしたら、その友人を気の毒に思うだろうか?そんな心のゆとりは無い筈だ。それどころか友人の方が君を気の毒がるに違いない。」
「そう言われてみると否定のしようが無いね。気の毒がる感情というのは水のようなもので、必ず高いところから低いところへ流れる、ということね。そして、その場合、高いところから低いところへ流れる、というのは見下すというのと同義語になる訳ね。」
と、晃一の理解を吐露した。そして闇は、
「高いところから低いところへ流れるという関係は、人間関係のいたるところにあるよ。会社での上司、部下の関係、プロ野球球団の監督またはコーチと選手の関係、学校での先生と生徒の関係、しかし、最も無条件に否定しがたいのは親子の関係だろうね。それに夫婦関係もそうかな」
 それには異論がある晃一は、
「それは、時期によるのでは? 例えば、子供が生まれたばかりの時、子供は一方的に親によって庇護される。しかし、親がこの世を逝去する時は、逆の立場になる。それに親子の関係というのは、気の毒がるという関係ではなく、庇護、養育、孝養という関係ではないの? 親子の関係では、庇護、養育、孝養という関係を使うとすると、それを拒んだり、回避しようとするほうがおかしいよね。
 それから夫婦関係は微妙だね。互いに気の毒がったり、がられたりする事態は、自分にも影響する。見下しても、自分のものを見下すのと同じことになるので夫婦ケンカの最中でも無い限り気の毒がるということはいないだろうね」
「それでは聞くが、拒んだり、回避しようとすることがおかしくない場合というのはどういう場合かな。それと、夫婦の場合、一方が不治の病になってしまったとする。その場合、咄嗟に自分の置かれた立場がどうなるか考えたり、これからどうしたら良いかの対策を考えるのではないかい?」
「それこそ、先程言った“見下す気持ち”があるときだと思う。見下すというのは一種の差別で、これに対しては拒んだり、回避するのが当然と思うけどね。」
「だけど、君が一方的にそう感じているだけで、気の毒がっている人には微塵も見下す気持ちが無かったらどうする?」
「転職を考え直せと言うのかい? その決断に迷う時期は通り過ぎてしまっている。」
 闇は尚も説得を続ける。
「そう考えてしまうのは君の情けないところだね。決断してもそれを実行する前であれば、遅すぎるということは無いと思うよ。」
 結局、晃一はこのゴーロク豪雪の年1981年、積雪惑わされながら転職することになるのであった。
 道路はまだ雪が深かったので、最終的に引越しに使う4トントラックを比較的広い通りに待機させ、そこまで、小型トラックで中継しながらピストン輸送で荷物を運搬した。完全に雪に埋もれた子供用のブランコは置いて行かざる得ず、その他は、全て運び終り、後は、自分の身ひとつと、車のみとなった。

 東京へは、遠回りにはなるが、途中山中温泉で体を癒し、八日市、湖東三山に寄り名神高速で向かうことにした。八日市では宗 さん宅に寄り、湖東三山では金剛輪寺の以前からお気に入りの風景を心に焼き付けることが目的であった。山中、山城、粟原温泉は近くの温泉郷であったが、初めての訪問であり、平日だった為か、山中温泉の知名度にしては客は観光客は少なく閑散としていた。やはり豪雪の影響なのかもしれない。山中温泉で一泊し、宗 さん宅でも一泊させてもらった。

              <<< つづく >>>