槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2022/09/12 17:11:05|あのシルクロード
あのシルクロード(第三回)

                           あのシルクロード(第三回)

   1) ウルムチ空港に到着
   2) 駱さんと再会、ご主人ともども両手を振って
         出迎え
   3) 大陸橋酒店(宿泊H)ルーム 内TV放送「西遊
         記」で歓迎
   4) ホテルの窓外の朝風景

 
              1)ウルムチ空港に到着
北京空港で、ちょっとしたトラブルと薄氷を踏む想いをしたが、北京から約二時間、日付が変わったばかりの深夜0時半頃無事ウルムチ空港に到着した。同乗していた人達の流れに乗って手荷物受け取り所までスムーズに辿り着き、手荷物が廻ってくる間、迎えの人達の人垣に目を遣り、ウルムチ到着後、最初の写真を片手で撮った。(写真上左)

     2)駱さんとの再会、ご主人ともども
       両手を振って出迎え

多くの人が深夜にも関わらず出迎えているのが見えた。あの中に今回お世話になる駱さん、そしてご主人の張さんも混じっているはずだ。こんなに遅く申し訳ないことだ。

既に日が改まった深夜0時半過ぎだが、この時刻は北京時間のもの、北京からウルムチまで実質的な時差を考えると、まだ宵の口というところなのだろう。この時間感覚が旅行中終始戸惑いを感じさせることになる。デジカメの日付は日本時間で設定されたままなので、プロパティで撮影時刻を確認すると、益々おかしなことになる。

手荷物を受け取り、出口に向かううち、満面笑顔の駱さんと、その側で大きく両手を思い切り振っている男性が目に入った。事前に写真をもらっていたので、この人が駱さんのご主人ということはすぐ分かった。この様子からこの人は善人だと判断できた。

               3)大陸橋酒店(宿泊H)ルームTV
       放送「西遊記」で歓迎

彼らの車、パジェロで、空港から30分くらいの所にあるホテル、大陸橋酒店まで送ってもらい、電子化されていない薄暗いカウンターでチェックインを駱さんが代行してくれて部屋に納まった。いつもの癖で、すぐTVをつけたら、なんと「西遊記」を放送していた(写真上右)。バス・ルームにはシャワー室だけだが洗面台含めて不潔な感じは全くしなかった(写真下左)。

     4)ホテルの窓外の朝風景
翌朝部屋の窓外には、街並みの向こうの砂漠と、そのかなたに山並みが見えた(写真下右)。その色から山肌には殆ど草木の無いことが分かる。ホテルの室内は冷房が効いている為か、暑さは全く感じないが、外の暑気の様子が気になる。
  
           本稿 完 次稿に続く
 







2022/09/09 12:01:00|あのシルクロード
     「あのシルクロード」(第二回)
中国 新疆・ウィグル自治区の旅(シルクロードの旅)
 
          1)旅の日程(最終版)
          2)宿泊ホテル
          3)旅の費用
          4)新疆ウィグル自治区の地図
          5)新疆ウィグル自治区の小数民族構成
          6)ウルムチ、トルファン、カシュガルの概要
 
             1)旅の日程(最終版)
成田での前泊と、帰途自宅最寄駅を通る電車の最終便に間に合わず、結局八泊十日の旅となった。また現地へ着いてからの日程も、飛行機のウルムチ着の時刻が深夜0:05で、睡眠時間不足にならない様、ウルムチ、トルファンの予定をいくらか変更した。以下の旅の日程表は、変更後の最終版です。
 
《D0=7/19(木)》  会社出勤 早めに帰宅後 西武池袋線 飯能から  池袋 日暮里経由 京成成田線で成田第二空港ビルへ 成田前泊 日航成田ホテル
 
《D1=7/20(金)》  成田9:00<中国国際航空CA422>北京11:45<乗り継ぎ>北京20:00<中国国際航空CA1295>ウルムチ0:05(7/21) ウルムチ泊
  ※北京11:45以降の時刻表示は全て北京時間(日本と−1時間の時差)、新疆地区とは時差が設定されていないが、北京とは実質的に−2時間の時差があり、新疆地区の会社の多くが新疆時間を使っている
 
《D2=7/21(土)》  AM10時頃 車で3時間のトルファンへ、蘇公塔、カレーズ、交河故城 人民広場 トルファン泊
 
《D3=7/22(日)》  朝8:00頃出発 高昌古城、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳群、火焔山 観光後 途中風力発電プラントを見て、ウルムチに戻る ウルムチ泊
 
《D4=7/23(月)》  ウルムチ市内のウィグル自治区博物館 国際大バザール見学 ウルムチ見学   ウルムチ泊
 
《D5=7/24(火)》  車でウルムチから240km離れた天池と、330km離れた五彩湾を見学。天池から五彩湾までは三角形の残りの辺を移動することになるので、240km+330km+αkmのドライブといった感じ。 ウルムチ泊
 
《D6=7/25(水)》  ウルムチから1310km離れたカシュガルへ1時間55分の飛行機での移動。ウルムチ8:15発中国南方航空、10:10カシュガル着後エイティガール寺院、バザール、香妃墓、職人街、カシュガル老城を見学 カシュガル泊
 
《D7=7/26(木)》  朝八時頃出発 カラクリ湖へ カシュガル泊
 
《D8=7/27(金)》  カシュガル人民広場周辺を散策後、16:15カシュガル発ウルムチ行きの飛行機中国南方航空CZ6806に乗り、ウルムチ18:10着 着後、張さんの学生時代の友人胡玉軍さんらと歓談のひととき ウルムチ泊
 
《D9=7/28(土)》  帰国の日(ウルムチ-北京-成田)、 ウルムチ9:40<中国国際航空CA1296>北京13:00<乗り継ぎ>北京17:00<中国国際航空CA421>成田21:00
 
《D10=7/29(日)》 7/28の西武池袋線 飯能行き最終電車に間に合わず、保谷行き最終電車に乗り、自宅から保谷まで迎えに来てもらい、自宅に着いたのは朝4:00近くだった。
 
2)宿泊ホテル
成田以外のホテルは、全て駱さんが手配してくれました。
成田      成田日航ホテル   D0
ウルムチ   大陸橋大酒店(ウルムチ市北京北路1号、   TEL:0991-7922856)
                 D1、D3、D4、D5、D8
トルファン  トルファン大酒店(トルファン市高昌路422号、)              D2
カシュガル カシュガル香都酒店(カシュガル市人民西路314号) D6、D7
     ※中国国内ホテルはいずれも三つ星ホテル。トルファン以外バスルームにはシャワーのみで浴槽がない、との事前連絡
 
3)旅の費用
成田-北京-ウルムチ間の航空運賃:
HISを利用したが予約の時期が遅れ、格安とは言えない174,060円(チケット158,000円+航空保険料・燃油サーチャージ料10,820円+中国入出国税等3,200円+成田空港施設使用料等2,040円)6月4日支払い(出発の45日前)
 
雑準備金:
衣服、下痢とめ当の薬、洗面用具、ウェストバッグ、靴等併せて20,000円ほど
海外旅行保険AIU加入代金          6,000円
 
中国ウルムチ着以降〜ウルムチから帰国便に乗るまでの費用見積もりは駱さんが見積もってくれた          計10,975元
(内訳  は以下の通り)
1.入場券      約185元(全コース現地払い)
2.ホテル代     約2540元/8泊(三つ星、朝食つき)
3.車チャーター代 約6550元(空港送迎、ウルムチ観光、トルファン観光、五彩湾観光,天池観光の4,300元+カシュガル3日間観光2,250元)
4.飛行機代(ウルムチ<>カシュガル 1,500元(往復割引運賃)
5.食事代      現地中国人並の食事 8×2=16食分 ? 6.その他雑費   中国語ガイド(トルファン、カシュガル)約
    200元
 
  その他 3,300元+10,000円
     ・駱さんへの謝礼 として250元/日×8=2000元
     ・北京空港での損失 800元
     ・ホテルマッサージ 2回で200元
     ・みやげ等     300元+10,000円家内への土産
   合計14,275元+10,000円=14,275×17円/元+10,000円=252,675円
  その他のうち、北京空港での損失、みやげ、マッサージを除外
  すれば、230、575円
  
  更に成田-北京-ウルムチ往復航空券代174,060円を加えると
  404,635円、それにあまりはっきりしていない食事代を平均50元×16食= 
  800元=13,600円を加えて418、255円となり、雑準備金26,000円を加え
  ると444,255円の総費用となった。
 
  成田-北京-ウルムチ往復航空券はより早期に格安を予約できていれば10万
  円以下に収まるので、正味の旅行代金は344,000円程度になり、ツアーに
  参加した時と同等か、それ以下と言える。雑準備金を含んでも37万円程度
  で、内容(質)から言うと、十分納得行く費用だったと総括しました。
 
    持参した現金は、30万円で、うち25万円+1,160円+手数料を元に1元=
  16.1円で  両替(100元札156枚)
 
4) 新疆ウィグル自治区の地図
今から40年以上も前の高校時代、東洋史の授業で、タクラマカン砂漠という地名を何度となく聞きました。そのタクラマカン砂漠を南北に挟んで、南に崑崙山脈、北に天山山脈が位置している。ともに中国の神仙達の出身地で、「封神演義」、「西遊記」などに登場しています。また、崑崙山脈は、筆者のブログに掲載の創作物語「運河の漣(さざなみ)」にも頻繁に登場させています。

そして、西安、敦煌へとつながっているシルクロードが、更に西に至り、トルファンで天山南路と西域南道へ分岐します。ここから天山北路沿いに60kmほど北西に行ったところにウルムチがあります。
 
        5)新疆ウィグル自治区の小数民族構成
ウルムチは人口200万人以上の大都市で、中心部の通りの車の渋滞は、日本の新宿、池袋を遥かに凌ぐように感じました。中国の急激な都市発展の様子が恐ろしいほどに感じました。また道路標識や案内は、どこでも中国の漢字(簡体字)や英文字に加えて、ウィグル文字が表示されていて、中国政府の少数民族
に対する処遇に如何に気を使っているかを強く感じました。

ホテルのどこの部屋にも置いてある備えつけの小冊子(中国語+英語)「新疆出遊指南 新疆(2007年版)」を見ると、『最初に多民族地域であることに触れられていて、新疆地区には47の異なる民族からなる1748万人が居住し、13の主要民族の中で、ウィグル族が最も多く47%(817万人)を占めています。次いで、漢族(570万人)、カザフ族(128.7万人)、回族(78万人)、キルギス族(4万人)、錫伯族(4万人)、蒙古族(15.9万人)、・・・となっている。このうち漢族はウルムチに集中しウルムチの居住者の70%を占める。したがってウルムチの都市化の牽引役は漢族が果たしてきたと言える。』のだそうです
 
      6)ウルムチ、トルファン、カシュガルの概要
カシュガルは、天山南路と西域南道が再び交叉する都市で、南方にはカラコルムを越え、ガンダーラを経てインドにいたる、所謂、玄奘が通った天竺(インド)への道や、サマルカンド、ブハラ、アシガバードを経てトルコに至り、さらにはローマへ通ずる道の玄関口ともなったシルクロード要衝の地で、天山北路とのみ接点が無い。ここには、天山山脈からも崑崙山脈からも雪解け水が流れ込み、樹々や畑の緑を潤し、一大オアシス都市を形成しているのです。しかし、ここもウルムチと同様、漢民族の人口増加と共に都市化が進み、家の価格も上昇し、買いたいところが買えないと、カシュガルの中国語ガイドさんがぼやいていました。
 
以上の様に、今回の新疆・ウィグル自治区の旅は、ウルムチを起点としてトルファン、カシュガルの三つの地域の旅でした。
 
以降のコラムより、訪れた観光地ごとに写真を添えて、旅物語を「あのシルクロード」と称して、心象を交えて記すことにします。また、これらの記事は、主に、シルクロードを旅行した直後の2007年に記したブログ文を引用し、その後、関連情報として主にWikipedia記事を参考に加筆したものとなります。従って、今回(2022年)記載時点での新疆ウィグル自治区の現状とは異なる点は多々あるかも知れないことをおことわりしておきます
            本稿 完 次稿に続く


 
 







2022/09/07 17:15:32|その他

あのシルクロード(第一回)

   1.序
筆者は2006年末に定年退職し、サラリーマン生活を卒業しました。その年の内に、あまりに余った有給休暇を消化すべく、中国の、杭州を旅行しました。

筆者にとってこのコースは初めてではなく、初めての時のコースは、杭州を含む、上海、蘇州コースで30名ほどの団体旅行で、おりしも中国の春節の時期に重なり、もの凄い雑踏と道一杯に溢れる自転車、乗車した観光バスは、その人や自転車をかき分けるように蛇行したり警笛を頻繁に鳴らしたりしながら進行する様は、いつ交通事故を起こすか分からない、というヒヤヒヤ感が間断なく襲ったことを記憶しています。

2006年の杭州旅行は成田でのツアー客の集合はなく、杭州空港でも集団のツアー客が集合している様子はどこにも見えない。
さて、困ったと思っているところへ、小柄な女性が現れ、「○○さんですか?」と聞かれ、「そうです。」と返事したところ。「案内する人がもう一人いるので、ここで待っていて下さい。」とのこと。

「そうか、今の人が、中国人日本語ガイドさんか、それにしてもツアー客が二人だけだとは、前回の中国旅行とはえらい違いだ。」と思ったが、もう一人の客は杭州での学会参加が目的で、空港から学会会場までの送迎だけとか。ということは、それ以降は、マンツーマンガイド、正確にはマンツーウーマンガイドということになる。小柄で、まだ高校を出たばかりでは?と感じるほどウブな印象をうけたのです。杭州と言えば、西湖、その西湖の北湖畔に住んでいるのだそうだ。
 
とりあえず、西湖の南湖畔に予約してくれているホテルで休憩し、1時頃来るから、それから西湖と、その周辺の観光地を案内してくれることになった。
 
そして定刻に現れ、西湖の周囲を徒歩で移動し、西湖湖畔にあったレストランでやや遅い昼食を摂り、今度は湖上に舟を浮かべ、西湖十景(断橋残雪、平湖秋月、曲院風荷、蘇堤春暁、三潭印月、花港観魚、南屏晩鐘、雷峰夕照、柳浪聞鶯、双峰挿雲)のうち、蘇堤春暁、三潭印月、花港観魚を見学し、また湖畔を移動し、今度は湖畔を離れ、周囲にある雷峰塔、岳廟、そして龍(ろん)井(じん)などがあり、龍井茶の産地、南宋官窯博物館などを観光することになった。
 
今も記憶しているのは、西湖の周りを徒歩で回っている時に何度か、ガイドの駱(らく)さんが、他の中国人観光客に「写真のシャッターを押してくれませんか?」、と頼まれたこと、多分中国人からみて、駱さんがガイドということが分かるのだろう、と感心し、信頼出来る人との印象を受けた一瞬でした。
 
そして、彼女の口から、「来年(2007年)シルクロードを友人と旅行することになっているが、同行しないか」という誘いがあったのです。
 
今度は自分が信用されたかと思った一瞬でありましたが、その時は、実際に、この誘いが実現するとは、夢にも思わなかったのでした。
 
その日の晩は、西湖 湖上の噴水ショーと、その後は西湖近くの劇場で、民族舞踏ショー(千手観音)を鑑賞しました。
 
そして、「終わるころ迎えに来るが、何か買い物を頼まれても良い」というので、「中国民歌のCDが欲しいので、可能であれば、買ってきてもらえますか?」と頼んだ。
 
特に曲名は伝えなませんでした。
 
当時は、無料で中国民歌を自宅PCで100曲以上ダウンロードしていて、いくつか気に入った曲があったが、駱さんの趣味の良さと、自分の好む曲をどの様に見てくれたかと確認できるのではないか、と思ったからでした。
 
そして、その年、2006年の年末だったか、駱さんからのメールで、「新疆ウィグル地区のシルクロードを旅行する予定だが、同行しないか?」との正式な誘いがあったのでした。友達と言うのがだれか気になるところですが 、後で分かったことですが、相手はご主人とのこと。「そうか、駱さんは既婚者だったのか」、と初めて知ったのです。
 
また中国人男性が同行するのであれば、安全面も保証されるだろうと、顔も見たことがないが、何故かそんな気持ちになったのを覚えています。
 
シルクロードはまだ子供のころ、TV放送がカラーになったばかりの頃だったと記憶している。14インチのブラウン管TVの小さな画面ではありましたが、NHKTVで放送されていた「シルクロード紀行」は、その主題歌とともに日本人、特に戦争を経験した自分たちの親の世代の人達の胸に強く刻まれたに違いありません。
 
それほど熱心に見ていたという記憶がない自分でも、砂漠をラクダの隊列が移動している場面と、その音楽はくり返し視聴し、懐かしく、還暦に達した半世紀を経て、益々その懐かしさは濃度を増すばかりで、再放送を見たり、YouTube番組を繰り返し再視聴したりするたびに心がどこか遠いところに舞い上がってゆく気持ちになり、懐かしさを感じていました。
 
また岩波文庫「西遊記」や、陳舜臣著の「天竺への道」も読み、中国文化、特に春秋戦国時代の中国には特に関心を持ち、宮城谷昌光著の歴史小説や、金庸の武侠小説には大変興味を惹かれ、多くの著書を読んで、中国、特に古(いにしえ)の中国に思いを馳せ、身近に感じていたのです。
 
それと、それ以前に会社のリフレッシュ休暇で、北京-西安-敦煌-西安-北京の旅を経験していて、敦煌ではシルクロードの代表的石窟寺院莫(ばつ)高窟(こうくつ)を訪れたり、月(ゆい)牙(が)泉(せん)・鳴沙山(めいささん)をラクダの背に揺られて観光したりしたことがあり、全く何も知らないところでもなかったという安心感もあったと思います。

敦煌よりも、更に西の地の砂漠地帯の雰囲気も、ある程度予想することが出来たのです。また朝日新聞発行の週刊発行の「シルクロード」を読み、予習をある程度はしていたのです。
「シルクロード」のウルムチ・トルファンとカシュガルを結ぶ回廊には多くの仏教遺跡があり、その内容については既に筆者のブログ「槐の気持」に「倭国(日本)への仏教伝来の道程」で詳しくまとめて投稿していますので。そちらも参照していただけると、「シルクロード」が日本人のDNAと共鳴しやすいことが分かると思います。
 
中国人の日本語ガイドの駱さんのご主人は、新疆ウィグル地区の出身で、張さんという名前(後出)で、ほかに、張さんの弟さん夫婦も同行の予定とのことだった。
 
シルクロードとは、Wikipediaを参考にして、Q&Aのスタイルで、箇条書き的に抜粋転記すると以下の様になると思われます。
 
Q1)いつ頃に活躍した? Ans1)紀元前2世紀から15世紀半ばまで(紀元前114年頃に漢王朝が中央アジアに進出し、武帝の配下、張騫、によってかつて未開の地であったこの地域をほぼ平定した頃が始まり)
 
Q2)どこにあって。全長は? Ans2) ユーラシア大陸の交易路網である。全長6,400キロメートル以上、
 
Q3)シルクロードの終端地は正倉院のある奈良?Ans3)正倉院にはシルクロードを経て流れてきた楽器や宝物があるので、そう思われがちだがシルクロードが南シナ海/東シナ海等海路、即ち海のシルクロードを経て宝物や楽器、絹織物が齎されたとしても、日本がシルクロードの終端地とするのは無理がある。両方向の物資の流れ、交易、があったとは言えないからである。
 
Q4)シルクロード敷設の目的と効果は? Ans4)張騫は武帝から、この地域の向こう側(特に西側)にある未知の土地を探検し、貿易相手や、同盟国の候補を探すよう命じられた。この探検で得た情報や物資は、中国の関心を呼び、外交や商業の正式な派遣を促し、兵士や万里の長城の拡張によるルートの保護に力を入れた。
 
Q5)交易で流通した物品は? Ans5)東洋(特に中国)から西洋へ:紀元1世紀初頭には、中国の絹はローマ、エジプト、ギリシアで広く求められた。その他、東洋からは茶、染料、香水、磁器などがもたらされた。更に紙や火薬の普及は、新興の商人層に大きな富をもたらしただけでなく、世界史とまではいかなくとも、さまざまな地域の歴史や文化を大きく変えることになった。

西洋から東洋へは馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、利益をもたらした。紙や火薬の普及は、新興の商人層に大きな富をもたらしただけでなく、世界史とまではいかなくとも、さまざまな地域の歴史や文化を大きく変えることになった。

交流は物品にとどまらず、人材、文化、経済、宗教に及んだ。また失われた12士族のうちのいくつかの士族(人材)は、弓月国(ユズキノクニ)に定住したり、更に東に歩を進めたりして、より定住しがいのある地を求めて東進し、最も東方に位置し、日出る国と思われた倭国(日本)に至り、朝鮮半島経由またはその他の経路で日本に至り、秦氏となり、倭国発展の原動力になった人たちの経路ともなっていた。

更には、秦の始皇帝や春秋時代の周を起こした太公望(姜子(きょうし)牙(が))のルーツともなっている姜族発祥の地 大月氏(だいげっし)国や仏教伝播に寄与した高昌(こうしょう)国や亀(き)茲(じ)国もシルクロードの拠点となっていた。また唐時代の玄奘による「天竺への道」であり、それ以前に玄奘が参考にした法顕もシルクロードを利用した。
 
Q6)かなりの未開地で危険ではなかった? Ans6)シルクロードは分散型のネットワークであるため、治安は悪く、旅人は常に盗賊の脅威にさらされていた。

山賊や遊牧民の襲撃に常にさらされ、人を寄せ付けない地形が長く続いた。途中の様々な中継地点を拠点とする一連の仲介者に頼らずにシルクロードの全行程を踏破する者はほとんど居なかった。西遊記で盗賊や魔王に襲われるシーンが間断なく現れるほど恐ろしい道であったようだ。
 
中国 新疆・ウィグル地区の旅(シルクロードの旅)-1-
旅日記序文
2007年7月19日(木)から7月28日(日)の間、あこがれのシルクロードの旅(新疆・ウィグル自治区)をしてきました。去年(2006年)11月に、杭州を旅行した時、日本語現地ガイドをしてくれた中国人女性(駱暁蘇さん=既婚)が、今回、
   ・旅の企画の作成
  ・ホテルの予約、現地ガイド(車と運転手さん付き)の手配
  ・中国語<>日本語の通訳
  ・写真撮影
  ・その他
 の世話をしてくれることになり、実現することになりました。個人旅行であるが故の、薄氷を踏むようなこともありましたが、還暦の歳に記念になる旅を経験できたので、「旅日記」としてまとめることにしました。そして、それから15年たった現在、その旅日記を再読すると、このシルクロード旅行が如何に自分の人生の財産の一部になってきたかを再認識でき、その後知り得た情報を含めて再編集してみる気になったのです。

尚、以降の文中の”去年”とか”来年”と言っている起点となる年はいま(2022年)から15年前、即ち2007年のことの出来事であり、15年の間に、現地の様子やウィグル族の人々の佇まいも大きく変化している可能性は否定しようもないが、それについては触れないでおこうと思っています。
 
【旅のきっかけ】
1)去年(2006年)11月、還暦の記念と、残った有給休暇の消化を目的に中国の杭州市周辺を旅行しました。JTBのツアーだったのですが、他に応募者がなく(家内にも、「トイレ事情がね!」と言って断られたので、旅の道ズレがいないと単独行になる。)、オプショナル・ツアーを含めて、ガイドさんと、マン・ツー・ウーマンで話す機会がありました。
 
2)その中で、かつて私は西安、敦煌へ旅行したことがあり(この時は家内が同行)、「次は更に足を延ばし、ウルムチ、トルファン、クチャ、ニヤ、ホータン、カシュガルといったシルクロードのまちを旅行したい。」と夢を語りました。
 
3)そうしたら、駱さんも来年7月新疆地区を、時間をかけて旅行する予定。同行しても良い、という有り難い話が聞けました。
 
## 後で分かったことですが、駱さんのご主人はウルムチ出身で、大学時代の同窓会に出席するため帰郷する予定、杭州の自宅から、その地までの往復を勤務する会社から長期休暇をとり、長時間ドライブで、あちこち観光しながら旅行する計画を持っていた様です。##
 
4)杭州旅行のお礼とシルクロードの旅を楽しみにしている旨のメールを駱さんに送信し、駱さんからは、「来年の夏、新疆の旅は若し都合が良ければウルムチで再会しましょう」
という嬉しい返信メールを頂き、以来26回のメール交換を経て旅の実現に漕ぎつけました。駱さんは日本語会話だけでなく、読み、書きも出来る素晴らしい人で、この人無しでは今回の旅の実現はなかった、と言っても過言ではありませんでした。その後も幾多の中国旅行でも通訳としてガイドさんとして、頑張ってくれて、中国や中国人、中国文化に人を介して接する機会を得ることが出来大変感謝しています。
 
 【旅前の心配ごと】
旅に心配ごとはつきもの、とはいうものの今回の旅は、行き先、日数、単独旅、持参金、どれをとってみても、これまでの4回の中国旅行に比較して、破格。これらの心配ごとを記録しておいて、自分自身の次回の旅への役立て、またこのウェブを見てこれから中国旅行をする人の参考になればと思い、あえて記すことにしました。
 
1)本当の一人旅となる成田からウルムチまで何もなければ良いが。北京空港での国際便から、国内便への乗り換え、荷物の遺失、盗難。歳と共に、勘違い、思い込み、度忘れの頻度が通常の生活でも増え、周囲の人の指摘で、失敗に至らず事なきを得る、ということが増えている。まして中国語と言えば、謝謝、你好、再見、晩安、不要と、会話には役立たない麻雀用語程度。たとえ親切な中国人が指摘してくれても通じない。
<対策>電子辞典中国語版(音声出力可)を購入し、持参
 
2)健康面の心配
還暦を迎えている人間は決して若くはない。おまけに、厄年の時に脳梗塞、5年ほど前に狭心症で冠動脈にステント留置状態、そして現在は頚椎の椎間板ヘルニアが治療中で、現在も薬を毎日朝7錠、夜4錠服用中。また会社の帰りにはほぼ毎日整形外科医院により、温湿布と首の牽引をする状態でした。
<対策>薬10日分の持参、ホテルでマッサージのサービスがあれば活用
 
3)高山病の心配
観光予定のカシュガルカラクリ湖は海抜3000mを遥かに越える高地。酸素不足による障害がおこらなければ良いが。
<対策>携帯用酸素ボンベの持参、かつ現地での調達
 
4)慣れない食べ物、水による腹痛や下痢を起こさなければ良いが。特に移動中に不意の便意や乗り物酔いに襲われなければ良いが。また寝不足に陥ると翌日が大変、伝染病の感染にも注意。
<対策>下痢ストッパー、酔い止め薬、催眠薬(デバス)の持参
 
以上の心配ごとのうち、3)を除いては、いずれも予期できなかった出来事がありました。しかし、総じて期待した以上に楽しく、充実した旅を経験でき、一生の宝になったと思っています。これは、ひとえに、駱暁蘇さんと、ご主人の張乃宁さんらのおかげといえます。彼らに謝謝。また「トイレ事情がね!」と言って同行を拒んだ家内も、快く餞別つきで送り出してくれ、これにも感謝です。
      
 では、次回から旅の詳細内容について「旅日記」として記してゆくことにします。
      第一回 完   第二回に続く
 







2022/07/08 18:17:17|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(最終回)
             倭国(日本)への仏教伝来の道程(最終回)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第十回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】

 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
第七回:
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
第八回:
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物(その1)
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】

第九回:
37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷。浄土思想
A)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
 
第十回:
 38)末法思想 による民衆の動揺を抑える浄土思想
@)末法思想とは
A)浄土思想
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥】
【良源:比叡山延暦寺の中興の祖】
【平安時代中期】
【空也:踊念仏の創始】
【源信:浄土教の祖】
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【良忍:融通念仏】
【鎌倉時代】
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
そして今回は最終回ですが、倭国(日本)のことを取り上げた中国の古史書についてレビューしたいと思います。
39) 倭国(日本)を取り上げている海外の史書
@) 概要                                          A)『論衡』
B)『山海経』
C)『漢書』
D)『後漢書』
【『北史』倭国伝】
【『隋書』倭国伝】
【『旧唐書』倭国・日本国伝】
【】倭国大乱について【】
【『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)】
【『後漢書』卷85 東夷列傳第75】
【『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭】
【『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國】
【『北史』卷94 列傳第82 倭國】
E)『魏志』倭人伝』『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
F)『晋書』
G)『宋書』
H)『南斉書』
I)『梁職貢図』
【】I.1倭国についての記述【】
【】I.2斯羅国(新羅)についての記述【】
ⅺ)『梁書』
ⅻ)『陳書』
IB)『北史』
【IB.1『北史』倭国伝】
IC)『南史』
ID)『隋書』
【ID.1『隋書』東夷傳】
【ID.2『隋書』タイ国伝】
IE)『旧唐書』
IF)『新唐書』
 
39)倭国(日本)を取り上げている海外の史書
以下仏教伝来とは直接関係ありませんが、海外、特に中国は時々の歴史において倭国(日本)をどの様な国とみていたかについて、Wikipediaから抜粋転記して紹介したいと思います。倭国を日本と呼び方を変えた史書もあります。
@)概要
倭の文字の初出は、正史は後漢初頭に書かれた『漢書』地理志(班固)であり、正史以外では『論衡』(王充)がある。『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海の中にあると書いており、『論衡』では、越常と倭が併記され、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。.『晋書』や『梁書』などでは「太伯之後」と記し、倭人が呉の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録している。

A)『論衡』
中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書、評論書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。 以下倭国に関する記載にういてレビューしたいと思います。
 『周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、周の成王の在位は前1042年〜前1021年とされるが、『論衡』自体はかなり後の前漢の時代の1世紀 に書かれたものである。白雉は食用、暢草(そう)は服用と記されているので、周代には暢草は倭でしか採れない、酒に浸す薬草とされていたと推定される。なお、暢草には、霊芝、ウコン、香花草、等の説がある。』

B)『山海経』
中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『倭は燕に朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。
『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。
参考 扶桑:古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木や建木などが共に記述として残されている。古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬萊山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。
「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという。

C)『漢書』
中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『中国正史で倭人の文字の初出は『漢書』地理志である。倭人について有の文字で記されるのは『漢書』が初にして唯一であり、その後の全ての正史では「在」の文字が用いられるので、有の文字は「発見」の意味で用いられ、「在」の文字は所在の意味で用いられたことが示唆される。』
【地理志燕地条】東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎・南蛮・北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。               【地理志呉地条】會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云 会稽の海の外に東鯷人有り。分ちて二十余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。会稽の海の外に東鯷人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。
 
D)『後漢書』
『後漢書』東夷列伝の中に倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。
「魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。また、安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝・霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。
【『北史』倭国伝】安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国と.                                           【『隋書』倭国伝】安帝の時(106−125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という               
【『旧唐書』倭国・日本国伝】倭国とは、古の「倭奴国」なり
この後は倭国大乱と卑弥呼の記事があり、『三国志』の『魏書』東夷伝の倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、大乱の時期を「桓霊間」(桓帝と霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。東夷伝にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東鯷人」の記事、『三国志』の『呉書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「澶洲」と誤記)の記事もある。
【】倭国大乱について【】
  中国の正史、『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭などに、倭大乱
(『後漢書』「東夷伝」)または倭国乱(『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭)として、概要次の通り記述されている。 
   
『倭国はもともと男子を王としていた(57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王、107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升等)。70〜80年を経て、倭国内で大乱(国王の座を争う内乱)が発生した。争乱は暦年(中国正史で歴年とは平均して8年±数年)続いた。邪馬壹国が勝利し、邪馬壹国の一女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。

【『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)】
『其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国乱(倭国王の座を争う内乱。王位争奪は良く有る事だが、外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)。8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ(中国史書では35歳に達すると年長大と表現される)、夫は無かった。』とある。また、

【『後漢書』卷85 東夷列傳第75】
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国大乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、さらに互いに攻め合い、8年±数年も主無き状態となった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共立し、王にした。
 
【『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭】
(後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、8年±数年も相互に攻め合った。そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。』 以下の2正史の記述は上記3書の引き写しである。

【『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國】
【『北史』卷94 列傳第82 倭國】


E)『魏志』倭人伝』『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
 中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑倭人条の略称。東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。
東夷伝の韓伝冒頭にも倭という記載がある。                                   韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。

F)『晋書』
武帝紀 太康10年(289年)条  この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀の神功皇后紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致するので、この女王は台与と考えられている。266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したと解釈した一説が提示されている。

G)『宋書』
倭国伝 『昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。』
『時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍とした。』
 
H)『南斉書』
列伝 第三十九 蛮 東南夷 『倭国関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく抄録したもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。
479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号を鎮東大将軍に昇格した』
 
I)『梁職貢図』
『梁職貢図』に記された皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子の中に、倭国の記載がある。
【】I.1倭国についての記述【】 
倭国は南斉の建元(479年〜482年)に、上表した。
【】I.2斯羅国(新羅)についての記述【】
斯羅國は元は東夷の辰韓諸国の中の一小国であった。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に服属し、あるときは倭に服属していたため、国王は使者を派遣できなかったとしている。普通二年(521年)に、募秦王(法興王)が、初めて、百済に随伴し朝貢する使節を派遣した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

ⅺ)『梁書』                                      『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が普通年間 (520年–527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑国は日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。慧深は、扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里(3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余里(8700km余)に扶桑がある。日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。
ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した。

ⅻ)『陳書』
陳書』(ちんしょ)は、唐の史学家である姚思廉が636年に編纂した史書であり、二十四史のうちの一つである。中国南北朝時代(439年 - 589年)の南朝最後の王朝である陳の断代史である。皇帝・王を中心に記した本紀6巻と、国に仕える家臣や周辺異民族のエピソードが記された列伝30巻からの構成となっており、表や志を持たない。
11世紀ごろ、北宋の史館修撰であった曾鞏らの手によって刊行された。

IB)『北史』
【ⅻ.1『北史』倭国伝】
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。

IC)『南史』
、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。

【IC-『南史』倭国伝】
南史倭国伝では、「倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。」に始まり、「倭国の風俗」、「倭の五王」、「侏儒国・黒歯国・裸国」、「文身国」、「大漢国」、「扶桑国」について記述されている。
『倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。そこの官には伊支馬があり、次を彌馬獲支といい、その次を奴往鞮という。人々は水稲、紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。薑、桂、橘、椒、蘇がある。黒雉、真珠、青玉を産出する。牛の如き獣がおり、名は山鼠、また、この獣(山鼠)を呑み込む大蛇がいる。その蛇皮は堅く、叩き切れない。大蛇の上部に孔があり、開いたり閉じたりして、時には光を放つが、その孔の中を射れば蛇は死ぬ。物産はほぼ儋耳や朱崖と同じ。風土気候は温暖、風俗は淫乱ではない。男女は皆、頭に何も被らないが、富貴な者は錦に様々な彩りを縫い付けて帽子とする、中国の胡公頭に似ている。飲食には御膳を用いる。そこの死者には棺はあるが槨はなく、土を封じて塚を作る。人々の性質は皆が酒を嗜む。習俗は正歳(歴)を知らず、多くが長寿で、あるいは八〜九十歳、あるいは百歳に届く。そこの風俗は女が多く男は少ないので、高貴な者は四〜五人の妻、賎しい者でも二〜三人の妻がいる。婦人は嫉妬をせず、窃盗はなく、争訟は少ない。もし法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその宗族を滅する。晋の安帝の時(396−418年)、倭王讃がおり、遣使を以て朝貢した。 宋の武帝の永初二年(421年)に、詔に曰く「倭の讃、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべし」。 文帝の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬曹達を遣わし、奉表して方物を献上した。』

【ID『隋書』】
 本紀5巻・志30巻・列伝50巻からなる。特に「経籍志」が名高い。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻・列伝50巻が完成し、第3代高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成、編入された。
 
【ID.1『隋書』東夷傳】
『隋書』の「東夷伝」は、第81巻列伝46にあたる。この書の中では、当時の俀國(倭国ヤマト政権)と、その王多利思北孤や朝鮮半島にあった高句麗・新羅・百済と琉求について記述されている。記述の順番は高句麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・倭国である。
俀(倭)に関する記述では、腕へ刺青を行っていたという風俗に関するもの、また聖徳太子が仏法僧を隋へ留学させたことなどが言及されている。

【ID.2『隋書』タイ国伝】
「隋書」では、他の書に見られる「倭国」のことを「タイ国」(タイ=にんべん+妥)と書いている。これは「壹=倭」、「大倭=臺=タイ」ということである。
同書に「日出ずる処の天子、云々」の「対等外交」の記事があるのに、「日本書紀」の聖徳太子の記事には「東天皇、敬みて西皇帝に白す」とある。これは両方の記事が同一でないことの何よりの証拠である。またこの書は、その記述からして、後漢の光武帝の金印、卑弥呼、倭の五王、そして「日出ずる処の天子」が、全て同一の国の歴史であることを証明する史料でもある。つまり1つでも九州のことであれば全て九州ということなのだ...
以下、この史書に対する解釈の仕方を詳細に記した記載を見つけたが、長文であり、「仏教の伝播」には関係ないので、割愛します。
                                         
【IE 旧唐書】「日本」の名称を最初に記載した史書
旧唐書には日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があったりした。
そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
     
【IF『新唐書』】
670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述があります
『新唐書』巻二二〇、東夷日本伝に『咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本』とあり、咸亨元年すなわち670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述がある『旧唐書』では倭と日本が並立した状態で書かれているが、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。
 
隋の開皇末に天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれている。そして、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている。出典は示されていないが、宋史日本伝の記事から、東大寺の僧侶「然が宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したと考えられている。以上のとおり天御中主から彥瀲までの32世、天皇は神武天皇以下皇極天皇まで列挙されている。またその後には光孝天皇までが詳述されている。
 
ただし、天御中主から彥瀲までの世数は宋史日本伝では「二十三世」であり、全ての名前が列挙されて数も合っているため、「三十二世」は二と三を取り違えた可能性が高い。『古事記』や『日本書紀』と異なる記事で注目される。また遣唐使に加わった橘逸勢や空海等の名が見える。最後に「邪古 波邪 多尼三小王」について触れられ(時代は明らかでない)、これらは屋久島、隼人、種子島のことともいわれる。なお、唐書を読んだフビライ・ハンは、「日本には金銀を豊富に産出するとある」と書かれていたことから日本に興味をもち、親交を結ぼうとしたが、当時の執権である北条時宗にすげなく断られたことがフビライの逆鱗にふれて、元寇につながったとされる。更に次のような記述もあるとのこと。「古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。
 
官には十二等を設けている。習俗は文字があり、佛法を敬う。椎髻で冠と帯はない。隋の煬帝がこれに衣冠を賜う。今、錦綵を以て冠を飾る。衣服の作り方は大変新羅に類似している。腰に金製の花を佩びる。長さ八寸。左右に各数枚。これを以て貴賎や等級を明らかにする。」
 
中国の代表的史誌(二十四史)とその内容(Wikipedia情報)
司馬遷『史記』
班固『漢書』

范曄『後漢書
房玄齢等『晋書
沈約『宋書

陳寿『三国志
蕭子顕『南斉書
姚思廉『梁書

姚思廉『陳書
魏収『魏書
李百薬『北斉書

令狐徳棻等『周書
魏徴・長孫無忌等『隋書
李延寿『南史

李延寿『北史
劉昫等『旧唐書
張廷玉等『明史

欧陽脩・宋祁『新唐書
薛居正等『旧五代史
欧陽脩『新五代史

脱脱等『宋史
脱脱等『遼史
脱脱等『金史

宋濂等『元史
二十四史は清の乾隆帝によって定められた。
中華民国期に至って、元史を改めた『新元史』が編纂され、政府によって正史に加えられて二十五史となった。しかし、『新元史』のかわりに、同じく民国期の編纂による『清史稿』を数えて「二十五史」とする場合もあり、一定しない。『新元史』『清史稿』をともに含めた「二十六史」という呼び方もされている。

また、第二次世界大戦後の1961年に台湾国民政府の手によって『清史稿』を改訂して正史としての『清史』が編纂されたが、北京の中華人民共和国政府は、同書が中国国民党の史観によって『清史稿』を改悪したものであるとしてその存在価値を認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期するため、何度か先送りされている。2019年現在、当年中の完成を見込んでいる。

                          第十一回(最終回) 完







2022/07/05 18:08:53|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その10)
         倭国(日本)への仏教伝来の道程(その10)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第八回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 第六回
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
第七回:
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
第八回:
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物(その1)
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】
第九回
37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷。浄土思想
A)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
 
そして、今回第十回は、以下の項目について紹介させていただきます。
38)末法思想 による民衆の動揺を抑える浄土思想
@)末法思想とは
A)浄土思想
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥】
【良源:比叡山延暦寺の中興の祖】
【平安時代中期】
【空也:踊念仏の創始】
【源信:浄土教の祖】
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【良忍:融通念仏】
【鎌倉時代】
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
39)まとめ

38)末法思想による民衆の動揺を抑える浄土思想
 
@)末法思想とは
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著した。そして、その後、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)などが著される。

この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして、下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられます。浄土往生の浄土については前回説明していますので、今回は”往生”の意味についてWikipedia情報を用いて掘り下げてみたいと思います。

『往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。

化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。

1.   胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
2.   卵生 鳥類のように卵から生まれる事
3.   湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
4.   化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。

天人など極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味』とあります。
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。

そこから意味が派生して、往生とは仏になる事と考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。

それでは次に末法思想とセットで考えられることの多い浄土思想について、再度振り返えっておきたいと思います。
 
A)浄土思想
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
『浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り、本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。そしてそれぞれの浄土には主宰する仏がいて、その関係は以下の様になっていると考えられている。』(Wikipediaより)
 
・阿弥陀仏---西方極楽浄土、
・弥勒菩薩---東方兜率天、
・大日如来---密厳浄土、
・観音菩薩---補陀落浄土、
・久遠実成の釈迦牟尼仏---霊山浄土(日蓮宗)

C)日本の各時代における浄土信仰
前回(第九回)、日本への仏教伝来以降、仏教の拡散で後世に名を残した名僧をとりあげましたが、以下では、時代順に現れた名僧を、Wikipedia情報を参考にレビューしてみました。ダブって示した名僧もありますが、子弟の関係も分かるので、再記して紹介したいと思います。

【飛鳥時代・奈良時代】
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られました。
          
【平安時代】
比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。

貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まったのです。

平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。
 
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥、「観想念仏行」】
承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
 
【良源:観相念仏の伝播】
良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。
こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。
         
【平安時代中期】
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
【空也:踊念仏の創始、社会事業に従事、あ阿弥陀聖】
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。

【源信:『往生要集』=「称名念仏」】
源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。

『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。
 
986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。
 
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。
後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。

この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。

こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。

B)日本の各時代における末法思想

【平安時代末期】
【「末法」の到来】
「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く、中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
 
【末法:世界の滅亡に恐怖⇒浄土教の急速な拡散 宇治平等院阿弥陀堂建立】
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。
 
さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は、本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微については、ともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
 
末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。前に記したYouTube番組の「西方極楽浄土」みたいなものか。但し外観だけではなく内観も宮殿のような建物で、鐘楼も全自動鐘撞装置という感じであったが。
 
この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
 
【良忍:融通念仏】
良忍(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。

この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。

【鎌倉時代】
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)

また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。

【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
 
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
 
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
 
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
1181年に比叡山に登る。
 
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。

阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し、必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。
 
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
 
その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すら不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。
 
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
 
【室町時代以降】
【蓮如:一向宗、吉崎御坊、門徒宗】
本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
 
寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
 
信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。
 
一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
 
蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
 
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)
その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。)
 
以上で「倭国(日本)への仏教伝来の道程」については勉強し尽くした感じがしていますが、ここで、これまでのまとめをしてみたいと思います。
 
39).まとめ

❶東アフリカ発祥の二本足歩行人類の祖先は日出ずる方向に安寧の地があることを感じ、そこを理想の地として移動して行く気概がDNAに刷り込まれ、それを羅針盤として今よりもマシな世界の東方を目指す人たちがいた。「今よりもマシな世界を」という願望が、それをかなえる手段として信仰が芽生え、人々のDNAに埋めこまれた。

❷その一つの具体例が古代イスラエル人(ユダヤ人)で、迫害され、国を失った彼らは、彼らのDNAに刷り込まれ、それを羅針盤として、今よりもマシな世界の東方を目指す人達であった。

彼らが立ち寄った中央アジアの大月氏国は姜族の発祥の地であり、周公旦ともども周王朝の建国に寄与した姜子牙(=太公望)や、秦の始皇帝のルーツとなった地であり、中央アジアの大月氏国で、かれらは混血しあったが、彼らのDNAには、日出る地を求めるDNAに、建国や独立思想の精神を高揚させるDNAが組み込まれた弓月君(ユズキノキミ)や東漢人(ヒガシノアヤウジ)と言った、倭国に多大な影響を及ぼすことになる混血種族が形成されました。
 
❸大月氏国は、インドで発祥した仏教がバーミアンやガンダーラを経て、更にシルクロードに沿って中国北方地域に伝播した中継点となっただけでなく、ガンダーラは仏像美術を最初に開花させた国でもあった。

そして、北伝仏教としては、大乗仏教としての色彩を明確にして、時には、土着信仰である太平道や五斗米道、更にはそれらから発展した道教と言った土着信仰や儒教が時の皇帝と結託した勢力によって、仏教は迫害を受けました。

しかし、これらの抵抗勢力に立ち向かうことのできるアイデンティティをもった仏教は、やがて景教徒やマニ教徒をも吸収しながら、更に東方を目指し、やがて倭国を目指す学僧の増加につながりました。

 ぞして、彼らの内の先駆者は倭国への仏教公伝よりも早く倭国に渡って、仏陀の教えを水面下で倭国の一般大衆に伝えていました。一般大衆の中には周公旦や呉の太伯の後裔たちも混ざっていました。
 
❹中国三国志時代には魏の曹操が、大月氏国王の使者伊存が、『浮屠教』と言う経典を景蘆という人物に口伝したことを聞きかじり、それを契機に、『浮屠教』の流布を魏の勢力拡大に貢献させることを条件に許しました。

魏の後に西晋を建国した司馬懿仲達は卑弥呼の配下の使者と面会し、倭国の国情を聞き、この国こそが以前から聞き及んでいた蓬莱の国に違いないと思い込み、倭国に一種の憧れを持つようになり、その気持ちが彼のDNAに刷り込まれ、彼の後裔である東晋の皇帝一族(全員が司馬姓)にもそのDNAは受け継がれ、さらに司馬一族か否かは推測の域を出ないが、倭国への仏教公伝前に、倭国に非公式に招かれていた司馬達等が倭国の重臣として仏教の受容のお膳立てをしていた。
          
❺一方、西晋時代以降は五胡十六国時代に突入し、胡族の拓跋氏による北魏が栄えたあと、北朝を統一した前秦の苻堅(ふけん)が、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築き、彼も曹操と同様信仰が国をまとめ版図の拡大に役立つツールということを知っていて、当時高僧と知られた仏図澄や釈道安を参謀に迎え、更には鳩摩羅什までを参謀に召喚し、その勢力を拡大しようとしていた苻堅は前秦の版図を更に東へ広げる為、自ら朝鮮半島で最も中国に近い高句麗を伺い、仏教を版図拡大のツールとして、倭国から依頼されていた聖徳太子の仏教の師としての招来依頼に応える形で苻堅の配下の仏図澄の弟子である高僧慧慈を送り出した。

慧慈は聖徳太子の理解力と研究能力才能に驚き、聖徳太子の著わした『三経義疏』の質の高さに驚き、仏教の師として招いた高句麗の高僧慧慈は任務を果たした帰国時、『三経義疏』の写しを持ち帰り、その内容のレベルに感心し、聖徳太子の資質を高く評価し、「日本に将来国王となる聖人がいる」と報告したとのエピソードがあり、「日本に聖人あり」、との情報流布は中国本土にも伝わり、鑑真の日本行きの動機の一つになったとも言われたのです。

その発端は仏教を版図拡大のツールとするという前秦の苻堅による仏教を版図拡大のツールとする策から生じたと言えます。因みに朝鮮半島では一番最初に高句麗が仏教を受容して、次に百済が高句麗から受容し、最後に新羅も高句麗から受容したことになっています。

❻その他、倭国への仏教伝来ルートとして無視できないのは、大乗仏教に属するチベット仏教や、タイ、ミャンマー、スリランカ等の東南アジア諸国によって受容された南伝仏教が雲南省の一地域で伝播・受容された南伝仏教(=上座部仏教)、そして中国北部より伝播した大乗仏教が混交した雲南省特有の仏教信仰の文化が出来上がり、それが、信仰心旺盛な民による衣食住を支える様々な習慣や技術を包含する文化と共に雲南省を源として長江を下って東シナ海沿岸の港湾都市である蘇州に至り、更には

海路により雲南人がそれらの文化とともに倭国に至り、独自の文化や信仰を展開した、と考えることも自然だと思うのです。
 
❼そしてもう一つの中国からの仏教伝搬経路として可能性があるのは、雲南省に上陸した南伝仏教が少数民族住地(現在の広西チワン族自治区)、広東省(広州)から福建省(福州)に至り台湾、琉球列島経由で海路倭国に至る経路が考えられるが、そのルートについての情報は見出せませんでした。
 
❽最後に考えられる仏教伝来のル―トは、❻に記載の東南アジア諸国経由で、雲南省に上陸せず、そのまま南シナ海、東シナ海の海路を経て倭国に至るルートですが、この海路は雨期による豪雨、また台風発生や台風の進路になるので、安全な航海は難しく、そのルートよりは❼のコース、更に好ましくは❻のコースが利用されることが多くなったものと思われます。
 
❾本回筆頭に掲げた図の様に、以上の中国から倭国に至る仏教の伝播ルートを図に表すと、以下の様になると思います。前記した図に、「春秋時代の周公旦一族や呉の太伯一族の倭国への移住と戦国時代の始皇帝一族と徐福らによる不老長寿薬の探索」についても付記してあります。
 
❿そして、倭国が「八百万の神」や「神道」といった土着信仰をもちながらも、外来信仰に対し柔軟な体制で受容する風土をも醸成できた要因として、紀元前に倭国に渡来していた、春秋戦国時代の姜子牙(=太公望)の手の者、さらには周公旦の一族の者が、自ら海路倭国へ赴き、黄河文明の産物、例えば「周礼」に記載された儒教の精神を伝え、意図ぜずに、倭国の風土になじませていたことが大きいのだと思います。
 
⓫恐らく、呉の太伯にも日出る国と見做せる蓬莱の国、扶桑国に対するあこがれの精神をDNAの中にもち続けていたのだと思います。その様な伝承を秦の始皇帝は聞き及んでいて、自分もいつかは日出る国と見做せる蓬莱の国へゆき、不老長寿の薬に出会い、死を恐れずに生き伸びることを夢見たのであろう。
 
⓬始皇帝は、日出る国と見做せる蓬莱の国に海路で辿りつくには、呉の太伯と同じ経路で行くことが好ましいと考え、北京から呉の蘇州まで舟で行ける「大運河」の造成を、秦国の版図を拡大するという名目で計画したのだろうと思います。

この大運河は空海ら、遣隋使、遣唐使が長安や洛陽に赴くのにも都合の良い水路であり、また逆に中国の仏教僧が、時の皇帝による迫害を受けた時に、迫害地から逃げ延びる水路としても使われたものと思います。そして仏教公伝よりもかなり以前から倭国へ移住した中国人仏教僧がいたと思われます。
                      第十回 完   第十一回へ続く