槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2022/09/23 21:49:32|あのシルクロード
あのシルクロード(第八回)

あのシルクロード第八回
中国 新疆・ウィグル地区の旅(シルクロードの旅)-13-

【D3-4:トルファン・ゼベクリク千仏洞】
1)火焔山の麓に位置するゼベクリク千仏洞
2)ウィグル語で「装飾された家」の意味
3)マニ教は仏教文化を受容し、マニ教石窟は仏教石窟へと変身
4)黄赤色に染まるゼベクリク千仏洞を約一時間観覧し帰途につく

 
1)火焔山の麓に位置するゼベクリク千仏洞
北京時間11:00少し過ぎ、ゼベクリク千仏洞の入り口の直前のところの光景から火焔山の麓に位置することが分かる(写真)。すぐ近くで見ると火焔山の縦縞や断層、そして火に焼けたような色が眼前に見える。
 
2)ウィグル語で「装飾された家」の意味
ゼベクリクというのはウィグル語で「装飾された家」の意味らしいが、確かに外観の造形美を感じる(写真)。6〜14世紀に造られた83箇所の石窟があり、40箇所に壁画があるとの話であった。
 
そのうちの数箇所を拝観したが、イスラム教徒によって破壊された顔面の無い仏の姿は無残である。しかし、それ以上に各国探検隊によって剥ぎ取られた形跡も沢山あり、敦煌の莫高窟よりスケールが小さい。


因みに、現地観光案内書「吐魯番旅遊」には、後者の破壊のことは記述されているが、前者の破壊については記載されていない。
 
3) マニ教は仏教文化を受容し、マニ教石窟は仏教石窟へと変身
また時代を遥かに遡ること7世紀末にはマニ教がこの地トルファンで栄え、この千仏洞にはマニ教石窟も造られたが、マニ教徒がトルファンでの最大勢力の仏教を次第に受け入れ、マニ教石窟は仏教石窟へと造りかえられたとされている。
 
マニ教は仏教との接点が多く、「叡智を重んずる」、「殺生をしない」、「他者を重んずる」、「自らを省みる」といった共通の教義をもっていたとのこと。
 
壁画は西ウィグル王国時代(9〜11世紀半ば)のものが多く、花を手にしたウィグル教養人を描いたものが多く、その内容は仏教の大乗経典の因縁物語、経変画、千仏が描かれているとのこと。アスターナ古墓群の壁画に、花鳥図が描かれていたのを思い出した。
 
 4) 黄赤色に染まるゼベクリク千仏洞を約一時間観覧し帰途につく
ゼベクリク千仏洞は太陽光線を受けると、黄赤色に染まる(写真上3)。背景の山も赤く焦げ付く。約一時間観覧し帰途につく。(写真上4)

【D3-6:トルファン・トルファンからの帰路】
トルファン市街地でガイドをしてくれた李さんとお別れし、ウルムチへの帰路につく。
1)ウルムチへの帰路は蘭新(北疆)鉄路と並行してドライブ
2) 天山山脈の雪解け水で周囲の緑に活力
3) 風力発電プラント
4)孫悟空が鉄扇公主(牛魔王)と戦い、芭蕉扇で炎を消したところ

 
1)ウルムチへの帰路は蘭新(北疆)鉄路と並行してドライブ
再び鉄路と並行して走る国道312号線を使う運転手の庫さん、駱さんとの三人での3時間足らず、距離にして180km程度の距離をひた走るドライブとなる。
 
鉄路は蘭州、ハミ方面から伸びている蘭新鉄路がトルファンで、ウルムチ方面へ向かう北疆鉄路とコルラ方面へ向かう南疆鉄路に分岐する。トルファンへの往き、帰りとも車窓から鉄路が目に入ったが、
いずれも貨車のみで、客車にはお目にかからなかった(写真)。
 
2) 天山山脈の雪解け水で周囲の緑に活力
途中、大河とも、湖ともいえる水を一杯湛えた景色に何度か出くわす。天山山脈の雪解け水がいつまでも流れ去らず、周囲の緑に活力を与えているのだろう(写真)。
3) 風力発電プラント
そして、この国道312号線の現在の名所が風力発電プラントであろう。つい最近の観光案内ではアジア第一のスケール、とあるが、駱さんの話ではアジア第二のスケールとのことだった(写真)。中国人にしては日本人の様に言うことが奥ゆかしい。血液型がA型だろうか。
 
そして、北京時間18:00頃にウルムチ市街地に到着した。ウルムチ市は確かに車の洪水で、東京なら首都高速道路の感がある。(写真)
 
【D3-5:トルファン・火焔山】
4)孫悟空が鉄扇公主(牛魔王)と戦い、芭蕉扇で炎を消した
これまでに観光した高昌故城、アスターナ古墓群(以上南麓)、ゼベクリク千仏洞(北麓)はいずれも火焔山の麓にあった。西遊記で火焔山ほど有名なところは無いだろう。
 
 
三蔵法師と孫悟空らの一行が火炎に阻まれ、孫悟空が鉄扇公主(牛魔王)と戦い、芭蕉扇で炎を消したという話の舞台となったところである。その場では遠くで良く見えなかったが、後で撮った写真を引き伸ばしてみると、孫悟空らしきが芭蕉扇を上段の構えで仰ぎ、その後ろに三蔵法師を守る様に緒五能、沙悟浄が付き従っているような群像が見える。
 
トルファン最後の訪問地ということだったが、前記の様に火焔山は遠近双方から眺めてきたので、それで良いだろうと思っていたが、運転手の庫さんとガイドの李さんは、西遊記に因む「火焔山」という観光標識のある、即ち、三蔵法師の一行が通っていったであろうあたりを案内してくれた。
 
ゼベクリク千仏洞に行く途中に、既に火焔山を通行する三蔵法師一行の像が(写真)見えていたが、帰途は下車し、赤黄色に焦げた砂礫の上に立ち、北京時間で丁度12:00頃の灼熱地獄を体感した。(写真)
 
李さんのガイドとしては、ここがトルファン最後の観光地となる。三人で火焔山の観光標識を背に写真を撮った(写真)。火焔山の上空は真っ青な空が覆っていた。太陽の直射熱の凄さをうかがわせる。
 
そして再度この青空と火焔山をバックに写真を撮った(写真)。
 
考えてみれば、我が家は三息子、だれが、孫悟空、猪八戒、沙悟浄に似ているか。そして自分は三蔵法師? いやいや「あなたは白馬、私が三蔵法師」と家内に言われそう、などと思いながら火焔山を後にした。
 
岩波文庫版「西遊記」は10巻もある大著の愛読書であるが、いつも飛ばしているのが、ところどころに出てくる詩の部分である。訳者の労で七五調とはなっているが、それでも理解するのは難しい。新疆ウィグル自治区の旅行をして以来既に15年経っているが、今だにこの理解を卒業できていない。
      本稿  完   次稿に続く
 







2022/09/21 23:32:12|あのシルクロード
あのシルクロード紀行(第七回)

あのシルクロード紀行(第七回)
中国 新疆・ウィグル地区の旅(シルクロードの旅)-10、11-
【D3-1:トルファン・高昌故城へ】
1)  朝ホテルから窓外に見える山並み
2)窓外に連続して見える火焔山の壮観な山肌

 
1)朝ホテルから窓外に見える山並み
 
北京時間8:00に、トルファン市街地から南東に約50km離れた、高昌故城に向い、そこから北上してアスターナ古墳群、火焔山、ゼベクリク千仏洞の順に移動するというのが本日の観光コースで、トルファン二日目の旅となる。朝ホテルから窓外を眺めると街並みのかなた東の方に、うっすらとそれほど高くない山並みが見える。(写真)
 
 2)窓外に連続して見える火焔山の壮観な山肌
今日の行き先はいずれも火焔山の麓にあるので、迫りくる山の斜面はたて縞状に風食され、且つ断層が現れている。車での移動中、窓の外には壮観な山肌が次から次へと現れる。
赤く染まっていない山はだを見て火焔とは言いにくいが、そこに陽炎が立てば、肌に感じている温度から、火焔が立つ前か火焔が鎮火した跡と思いたくなる。(写真)
 
そんな勝手な推測をしているうちに、写真の様な異様な建造物と巨大な温度計が車の窓外に現れた。これまでトルファンで記録された最高温度は気温49.6℃、地表温度83.3℃とのこと。その気温が表示されているのかも知れない。
 
山肌に縦縞のある火焔山を少し遠くから眺めてみると、段差のある地面が広がっているのが分かる。段差の手前の地面は砂というより土の黒さであり、人工的に地表を研削したように見える。(写真)
 
そうこうしているうちに、高昌故城の入り口に到着した。

【D3-2:トルファン・高昌故城】
1)ロバ車の御者はカタコトの日本語を話すウィグル人
2)高昌国王麴文泰に「仁王経」を講釈する玄奘は凄かった
3) 観光客目当ての写真撮影の為の歌舞音曲を演奏
4) 高昌故城のCG俯瞰図のどこにいるか分からない

 
1)ロバ車の御者はカタコトの日本語を話すウィグル人
北京時間8:50に到着。早速中に入るとロバ車が待機しているのが見えた。ロバ車の御者はウィグル人であろう。カタコトの日本語で話しかけてくる。トルファン土着民の西方インドヨーロッパ系の文化、漢民族文化、イラン系文化を積極的に摂取し、外国語を習得する能力のDNAは今のウィグル人にも伝承されているのかも知れない。また日本人観光客が多いことを伺わせる。
 
写真のロバが振り返っている方向に見えるのが高昌故城の遺跡である。そこに至るまでの走路の両側の砂地には、タマリスクが所々に茂っている。目的の場所に到着、下車すると、リズム感溢れるウィグル音楽の演奏が聞こえてくる。音は大きな城門の中から聞えているようだ。
 
高昌故城にはそれぞれ異なる時代に築かれる三重の城壁がある。周囲5kmの外城の中央部にあり、外城東南角に、1万平方mの寺院遺跡があるとのこと。山門、庭、講経台、蔵経楼、本堂などがあるとのこと。
 
2) 高昌国王麴文泰に「仁王経」を講釈する玄奘は凄かった
どれが何かは分からないが、山門の前に立つと玄奘が講経台から高昌国王麴文泰らに「仁王経」を講釈している姿が目に浮かぶ。(写真)「天竺への道」の、麴文泰が玄奘に傾倒する様を読むと、玄奘の凄さが伝わってくるが、これだけ仏教が人の心を捉えた歴史はそれほどあるものではない。
 
3) 観光客目当ての写真撮影の為の歌舞音曲を演奏
トルファンは歌舞の町であり、早速、歌舞音曲を演じている観光客目当ての写真撮影に納まる(写真)。胸に右手を置くポーズをとると願いが叶うという。
 
4) 高昌故城のCG俯瞰図のどこにいるか分からない
「シルクロード紀行No.3トルファン」朝日新聞刊には、高昌故城のCG俯瞰図が紹介されている。この図の何処に立っているのか分からないが(写真)、風食された建造物に時代の逆送りをさせて、ブラストされて飛び散った砂礫のひと粒ひと粒を元の位置に戻す時間反転処理をした時の佇まいを想像しても何も出てこない。もう一度来ると、もう少し輪郭のはっきりした佇まいが現れるかも知れない。

【D3-3:トルファン・アスターナ古墓群】
「古墳群ではなく古墓群」という駱さんとの会話から見学が始まった。
1)文物や装飾品とともに埋葬され、発見されたミイラ
2)花鳥を描いた4連屏風の壁画と六重屏風壁画の戒め図
3) 古墓群周囲の塀は古墓に眠る人々と現代人を隔絶      
4)十二支像

 
1)文物や装飾品とともに埋葬され、発見されたミイラ
なんの変哲もない、砂礫だけからなる平地(写真)に斜坑の入り口が現れる。墓は500箇所ほどあったが、そこに眠る遺体は殆どミイラ化し、多くの文物や装飾品とともに発見されていたらしい。
 
墓の三箇所が展示され、観光地となっているのだそうだ。(「トルファン旅游」丁暁○編著:○は山冠の下にヒ)その一つの入り口から降りてゆくと、その突き当たりに鮮やかな壁画が現れた。
 
2) 花鳥を描いた4連屏風の壁画と六重屏風壁画の戒め図
一つは花鳥を描いた4連屏風の壁画、もう一つは、六重屏風壁画の戒め図である。
どの様な戒めを説いているのか、自分たち自身に対する戒めか、後世の人達への戒めか、よくわからないが、多分、死者の魂が、生きていた時にしでかした愚業を再び繰り返さないようにという配慮で造られたものと解釈するのが自然の様に思われてきたが良くわからない。
 
古墳内の壁画が一般に、死者を守る、死者の魂が彷徨(さまよ)わないように生活必需品を合葬する風習などから考えて、上記の解釈で良いのではないかと思われる。
 
ここから出土された多くのミイラは新疆ウィグル民族博物館とトルファン博物館に展示されているとのこと。
 
 3) 古墓群周囲の塀は古墓に眠る人々と現代人を隔絶
古墓群の周囲は現代的な中国風塀が現代人と古墓に眠る1000年以上も昔の人達を隔絶するようだ(写真)
 
 4)十二支像
その塀の向こう側(現代側)に出てみると十二支像が立ち並んでいた。自分の干支の犬の前で写真に納まった(写真)。
 
 そして、猪(ブタ)の前に立つ駱さんの写真を撮らせてもらった。現代側には古墓群を見おろす観楼があり、最後に観楼から古墓群を眺め下ろした。(写真)

            本稿 完    次稿に続く


 







2022/09/20 17:22:05|あのシルクロード
 あのシルクロード紀行(第六回)

  あのシルクロード紀行(第六回)
    【@D2-4:トルファン・交河故城】

1)観光事務所に向かう馬車とそれに乗る地元の人達
2)前方どこを見ても、崩れたレンガや土盛りがある上り坂
3)レンガ造りで、威厳のある形を台地の上に残している建物
4)見る角度にとって異なる顔を見せる交河故城
 
時計は北京時間であるが、すでに19:00をまわっている。ついに交河故城にやってきた。トルファンの交河故城と高昌故城はシルクロードの象徴であり、来る直前に読んだ、「天竺への道」陳瞬臣にも頻繁に出てきた。二筋の川が交わる土の崖にあり、崖の長さ1650m、幅600mに、城門、道。役所、寺院、民居、洞窟、井戸などがある。
 
1)観光事務所に向かう馬車とそれに乗る地元の人達
片方の川に架かる橋を渡る前の光景で、観光事務所であろうか、その建物に向かう馬車とそれに乗る地元の人達(写真)の姿に、実に中国的な風情を感じた。写真の右上に見える土の崖の上が交河故城である。橋を渡る時、川にはアヒルの群と、川辺に佇み、彼らにえさを播いている老人の姿が見えた。
 
2) 前方どこを見ても、崩れたレンガや土盛りがある上り坂
橋を渡ると、崖の上に至る上り坂がある。前を見ても、横を見ても崩れたレンガや土盛りが見られる。それを背景に駱さん(手前)と李さんの写真を撮らせてもらった。(写真)ここに安西都護治所が置かれた唐の時代にも、彼女等と同じ年代の女性たちが生活していたに違いない。そのころも同じ様な気候であったなら、サングラスや日傘の様なものを携帯していたのだろうか。
レンガ造りで、威厳のある形を台地の上に残している建物
少し行って現れたのが、レンガつくりの建屋で、しっかりした形を台地の上に残している。一部を除き、建物や道路は台地を掘り下げて作られていて、南東部は居住区、中央は行政区、北部が寺院と墓所ということが出土品から分かっている。
 
3)見る角度によって異なる顔を見せる交河故城
少し北西部に歩き、太陽の光がまぶしく、土やレンガの突起構造物が濃い影を造るようになったが感覚的には、いまだ真昼間である。すのこが敷き詰められている、少しむこうには、いまだ発掘作業をしている現場の様な地点が点々と見える(写真)。北西方向に向かって、180°のつなぎ写真を創るべく、少しづつ角度を変えて写真をとったが、角度によって明度の差が大きく、景色の方を調整すると、空の明るさが不連続となり、満足できるつなぎ写真は出来なかった。パノラマモードで撮影すればよかったのだ。
 
あのシルクロード紀行(第六回A)
中国 新疆・ウィグル地区の旅(シルクロードの旅)-9-
 
【D2-5:トルファン・トルファンの夕べ】
1)バーベキュー広場に集まってくる人々
2)広場の入り口には葡萄姑娘の像
3)バーベキュー広場で、駱さんと夕食。ちゃっかり爺さん
4)宿泊ホテル入り口
 
1)バーベキュー広場に集まってくる人々
D2の予定は、交河故城の見学で終り、ホテルに向かう。北京時間で既に21:00を過ぎているが、外はまだ明るい。しかし人々は三々五々とバーベキュー広場に集まってくる。(写真) 
 
まだ明るいので、そこを通りすぎ人民広場へ、小さな女の子二人がくるくると舞っている。親から教わったのか、友達同士で練習しあったのか分からないが、リズム感溢れ、魅力的に踊っている。大人になったら一人前の踊り手として活躍するのであろう。
 
 
2)広場の入り口には葡萄姑娘の像
広場の入り口には葡萄姑娘の像が立ち、すり鉢状の底には演奏会のステージがあったが、その日が演奏当日ではないらしく静かなままだった。(写真)
 
人民広場を跡にして、先程のバーベキュー広場で、駱さんと夕食を摂った(写真)。
テーブルにつき、着席するや、やかんにお湯を入れて店の人が持ってきた。
 
3)バーベキュー広場で、駱さんと夕食。ちゃっかり爺さん
駱さんが席を離れ、料理を注文しに行っている間にどこからか頭に帽子を被り、白い服を着た、しわだらけのおじいさんが近づいてきて、なんの断りも無く、持ってきた大きな瓶にどくどくといれ、何事もないかの様に去って行った。ちゃっかり爺さんだ。
駱さんを通しビールを注文したら、予想外に冷えたビールが出てきて、シシカバブとラグメンを食べ、遅い夕食を終えた。シシカバブとラグメンはウィグル族にとってごく普通の家庭料理であり、これに葡萄を加えて、これ以降の旅行中にうんざりするほどの常食となる予感がする。おいしいのでそれは歓迎である。
 
4)宿泊ホテル トルファン大飯店
そして、ホテルに着いたのは、北京時間で、日付が変わる直前であった(写真)。ホテルの敷地内には、舞台が組まれていて、恐らくトルファンの歌舞音曲が演じられたのだろうが、我々がホテルに着いたときは完全に終わっていた。ウィグル人の歌舞音曲は賑やかである。
唱、楽器演奏、ダンスと踊りまくり、歌いまくり、奏でまくるのだ。
旅行中、どこにいても耳に入ってくる音楽があり、旅行後に駱さんに
「その曲の入ったCDを入手出来たらお願いする。」と言ったら早速送ってもらったが、無残にもバキバキに割れていた。そうしたら後日駱さんにガイドを依頼している日本人に託して日本にもちこみ、その人から郵便で手元に送られてきた。有難いことだ。スルーガイドの駱さんの信頼度が益々高まった出来事であった。
 
日付が変わる直前であれば当然かもしれないが、新疆時間では22:00少し前であった。明日のトルファン観光は、高昌古城、ゼベクリク石窟寺院等である。楽しみだ。
        本稿 完 次稿につづく

 







2022/09/18 21:26:54|あのシルクロード
あのシルクロード(第五回)

      あのシルクロード(第五回)
 
中国 新疆・ウィグル地区の旅(シルクロードの旅)-7-

【D2-3:トルファン・蘇公塔】
トルファンの宿泊予定のホテルで2時間ほど休憩したあと蘇公塔に向かった。蘇公塔に着いた頃は気温が40℃は越えていただろう。経験したことの無い熱さを肌で感じた。しかしかえって気持ちが良い。汗が服に留まらず、ベタベタした感じがしないからだろう。空は青くまぶしい。早速、高さがある塔(37m)を写真に撮ろうとすると、真っ黒のシルエットになって写ってしまう。
 
清の乾隆帝時代(18世紀後半)トルファン郡の王ソライマンが父のために建立したイスラム寺院。その父の像?と蘇公塔全景を背景に写真を撮るも、像も自分も真っ黒、帰ってから、明るさとコントラスト調整でやっと写真上1まで修正。像の足元には白い花の低木が見られるが、何の花か。
 
そして、蘇公塔に近づき、その手前の円形広場の中心に立ち写真を撮るも、やはり、黒いシルエット。明るさとコントラスト調整でなんとか見れる様になる(写真)。この中心点に立ち手を拝むように叩くと、鳴き竜の様に音の残響が聞える。鳴き竜は床と天井との間に定在波が立ち、ちょうど定在波の腹の位置に耳が来るので、ビ~~ンという残響が聞えるのだが、ここは、床はあるが、上にあるのは青天井のみで、定在波が立つはずが無い。それでは何故残響が?
 
塔の側からこの広場を見れば分かるかもしれない。階段を上り(写真)、見晴らしの良いところへ向かう。明るさ調整をしないとこれほどの青い空となり、建造物の輪郭が浮き上がる。塔は全てレンガを積み重ねて建てられている(写真)。幾何学模様が美しい。
 
建物の上階の見晴らしの良い場所に上り、そこから円形広場を見おろす(写真)と残響の理由が、円形広場の円周部に配置し、広場を囲む様に配置した低い壁ではないかと推測。円形の直径と音速の関係から周波数を計算すると、10Hzを切る。(超)音波が研究対象の自分としては考え込んでしまうネタである。
 
以上の音のことはどんな旅行案内にも書いていない。この残響を故意に実現しようと思って建造物を設計しているのならたいしたもので、たとえこの円形広場のみ最近造られたとしても、中国人の科学に基づいた遊び心が伺い知れる。
 
そんなことを考えながら、目を右手に移すと、緑野に所々土で出来た建物が崩れ落ちた姿をほうぼうに認めた(写真)。これらが、交河故城や高昌故城の様な遺跡でないと言える証拠は無いのではないか。目を凝らして見ると、それらの広大な地域は緑の塀で囲まれていて、入り口の門が施錠されているようにも見える。
 
発掘調査が予定されているのかも知れない。胸がワクワクする。時計を見ると、すでに北京時間であるが、18:30を過ぎている。
          本稿 完   次稿に続く
 







2022/09/14 11:38:43|あのシルクロード
あのシルクロード(第四回)

あのシルクロード(第四回)
中国 新疆・ウィグル自治区の旅(シルクロードの旅)-4-

【D2-1:トルファン> @ウルムチからトルファンへ】

          1)高速道路を一路南へ
          2)冠雪した標高5000mを越える天山山脈
          3)風力発電プラント
          4)逃げ水に全く遭遇しない、どこまでも続く
    直線道路
          5)水の流れが砂礫を浸蝕しながら流れたあと

1)高速道路を一路南へ
朝8:00頃起床し、バイキング方式の朝食を済ませ、10:00に出発となった。張さんは16年ぶりの同窓会の後も、友人たちとの付き合いに忙しく、今日は、駱さんと、運転手と現地ガイド(トルファンから)との4人の行動となる。運転手は庫建栄さんという人で、車は2000ccくらいの中国製の車で車内はゆったりとしていた。
 
高速道路を一路南へ
ウルムチの市街地を通りすぎ高速道路を一路南へ。
 
2)冠雪した標高5000mを越える天山山脈
少しずつ、民家は減ってきて、車窓から見える景色は、いよいよ想像していたものとなってきて、澄んだ空を背景にし、冠雪した標高5000mを越える天山山脈が見えてきた(写真)。そして、その手前に一直線に伸びたポプラ並木の緑が目に入り、近くに砂漠が迫っていることを忘れさせる。
 
3) 風力発電プラント
更に、進むとアジア第二位と言われる規模の風力発電プラントを左右に見るようにして通過する。全ての風車が回転しているわけではないが、このあたりは普段は強い風が吹き、その風で、この道路と並行して走る汽車が転覆したことがあるとのことであった。トルファンからの帰路、車をとめて写真を撮った。
 
既にこの辺りの地面には草木が見られず、既に砂漠地帯に入っているのかと尋ねてみると、違うとのこと。
 
そして、さらにドライブを続けると、近くに山が迫ってくる光景が多くなった。山にはやはり草木が一切なく、なんとなく薄い黄緑色に見えることがあるが、その様な土の色なのだろう(写真)。きっと土に鉄が含まれていて赤錆色や青色となるのだろう。
 
 4)逃げ水に全く遭遇しない、どこまでも続く直線道路
そんなことを独りごちているうちに、車は更に進み、今度は平地の無草木地帯、即ち砂漠地帯を走る。山が迫ってきていないので、道路は直線である。地平線と空との境界線を目指して、どこまでも続く直線道路である。不思議なことに、これほど気温が高いのに逃げ水に全く遭遇しない。陽炎を引き起こす条件になっていないのに違いない。(写真)
 
5)ロプノールを彷彿させる水の流れが砂礫を浸蝕しながら流れたあと
そして、相変わらず迫り来る山は見えず、地表は細かい砂というより砂礫の平原が続くのであるが、時々道路と交差する方向に、砂礫の地表を無造作に引き裂く様に横たわる筋があちこちに見られるようになった。明らかに水の流れが砂礫を浸蝕しながら流れたあとである。
 
天山山脈の雪溶け水が創りだしたに違いない(写真)。彷徨える湖ロプ・ノールを思い出した。このような光景を古代の住人が目にしていたら、地表に水路を敷く愚かさにすぐ気が付き、地下水路の必要性を誰もが着想するだろう。
ロプ・ノールとはWikipediaによると、
『ロプノールあるいはロブノールは、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した塩湖で、「さまよえる湖」として知られている。この湖があったのは、現在の中国・新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州チャルクリク県であり、隣接するロプノール県ではない。』とある。
ロプノールには、タリム盆地を取り囲む山脈の雪解け水を集めるタリム川(正確にはタリム川の分流)とチャルチャン川が流れ込むが、湖から流れ出る川はない。つまりロプノールは、内陸河川であるタリム川の末端湖のひとつであり、湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため、次第に塩分が蓄積して塩湖となった。紀元前1世紀の頃にはまだ大きな湖であったという記録が残されているが、4世紀前後に干上がったと見られている。

          本稿 完  次稿へ続く