槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/12/05 22:22:18|旅日記
大同・北京の旅 (十七)孔廟・槐2

大同・北京の旅

(十七)孔廟・槐2

 10月26日、帰国の日、その午前中に孔廟と民族村を観光することになっていた。北京では最初の晩と昨夜の二回このホテル北京香江戴斯酒店に宿泊した。
 三ツ星ホテルなので、バスタブはなかったが、部屋のきれいさ、水周りの清潔さ、朝食のおいしさありがたかった。超お勧めホテルと言えるほど気に入った。
 中庭には槐ではないが、柿の木、その他どっしりと構えた貫禄のある樹が植えられていた。あるいは楡の木かも知れない。
 また、ホテルのすぐ周囲にも歴史的な建造物かと思ってしまうほどの極めて中国的な屋根が見えた(写真1-1)。
 ガイドの于さんに代理でチェックアウトを済ませてもらい、朝八時頃ホテルを後にした。車の運転手さんは、北京初日に飛行場とホテルの間を運転してくれた人の兄とのことだった。
 先ず、孔廟であるが、そこに到着するまで通行する道路の両側は槐ばかりである。13年前はじめて北京を観光したときはポプラの樹しか目に入らなかったし、記憶にもそれしか残らなかった。
 同じ様な道を通っているし、幹の太さから、13年前から同じように植えられていたはずなのにである。逆に言うと、自分の心象が13年の間に激変していることを痛感した。
 孔廟に着いたときはまだ時間が早すぎて開門されていなかった。その分、孔廟に接した通りの槐並木(写真1-2、1-3)やその下を通勤で通りすぎる人達の吐息を感じることが出来た。
 また孔廟を囲っている外壁に屋根がついていて、その屋根に動物達が複数頭鎮座している飾りがあるのが目に入った(写真1-4)。
 前日の故宮博物院の建造物の屋根にはどこを見ても必ず見られたあの屋根飾りである。これまでで一番接近して見られる状況だが、この様な屋根飾りをなんと呼んで良いのか分からず、ウェブであとで調べてみると、「北京の故宮の太和殿などには、瑠璃瓦の魔除けとされる走獣の屋根飾りがあり、清の時代に定型化したという。これは降棟の飾りで、先頭(左)の仙人が龍・鳳凰・獅子など想像上の神獣を従えており、数が多いほうが重要な建物とされている」という説明が見当たった。先頭が仙人でそれに従っているのが想像上の神獣というわけである。
 太和殿の屋根では最大九頭の神獣が並んでいた屋根があった。また同じウェブには、「湯島聖堂の大成殿には、棟に鬼\頭(きぎんとう)と呼ばれる魔除けの屋根飾りがある。
 鬼\頭は、一種の鯱で、龍頭魚尾の姿をして頭から潮を吹き上げている想像上の動物で水の神とされ、火災から建物を守るとされる。
 また、降棟には、鬼龍子(きりゅうし)と呼ばれる牙を持つ猫型龍腹の想像上の動物が飾られている。鬼龍子は、狛犬と同じように悪鬼や邪神が入ってこないように守る飾り。」とも書いてある。
 湯島聖堂も孔子を祀っているので、共通の飾りがあるかも知れない。そういうことかと思って見ると確かに鬼\頭が控えているのが分かる。
 またあれが頭から潮を吹き上げている姿か、と合点が行く。湯島聖堂の孔子廟の大棟には鬼\頭(きぎんとう)がのせられ、降り棟の四隅には鬼龍子がおかれている。
 鬼\頭は、龍頭魚尾で一種の鯱(しゃち)である。鬼龍子は、形が猫に似ているが、”すう虞(すうぐ)”を象ったものといわれている。
 ”すう虞”は虎に似た霊獣で、聖人の徳に感じて現れる一種の儀獣といわれており、生物を食せず至信の徳があるものとされている。
 写真1-4では鬼\頭が一番後ろに控え、その前に5頭のすう虞が一列に並んでいることになる。
  清<>瑠璃瓦<>鬼\頭/鬼龍子
という関係がはっきりしてきた。しかし、同じ「すう虞」でもこの五匹それぞれ形相が異なることがはっきり判る。
間もなく開門時刻となり、大きな朱門が開かれた。全体の案内図が先ず目に入った(写真2-1左)。孔子を祀っているので孔廟であり伽藍と呼ぶのはおかしいかも知れないが、この案内図を見ると一番南に配置する先師門から大成門(写真2-1右、2-2左)、大成殿、崇圣祠と、北に向かって一直線に配置し、大成門から東西、更に南北に回廊(展庁)が展開した仏教寺院と似た配置となり、それらで囲まれた内庭(境内?)には、11の、外庭には3つの計14の碑亭と呼ばれる石碑(写真2-2右)が配置し、外庭には科挙に合格した人の名を刻んだ石碑(写真2-4)が4箇所に建てられていた。
この碑亭の屋根(天蓋)の部分の彩色はブルーを基調として美しく、きれいな模様であった(写真2-3)。
孔廟は元の時代1302年に建立され、明、清と手厚く保護されてきて国家の祭礼や典礼に使われてきた、と案内図と共に文章で紹介されている。
大成門の手前にどこかで見たことがあるような孔子の石像が立っていた(写真2-1右)が、恐らくこれは更に新しい時代のものであろう。
大成殿(写真3-1)の瑠璃瓦屋根の軒下には「大成殿」、さらにその下には「萬世師表」と書かれた扁額が懸かっていた。「 萬世師表」とは「永遠に人々の模範を示す先生」という意味で儒教を開いた孔子のことさす言葉となっている。
大成殿内に入ると、孔子の弟子達の名前と姿の絵と簡単な説明がしてあった(写真3-2)。
事前に徳間文庫刊の「論語」と「孔子物語」を読んでいたのでいずれも名前は覚えていたが、それぞれのエピソードまでは思い出せなかった。
そして内部は朱色が基調でややけばけばしかったが、入室して左手に行くと琴等の楽器が置かれ(写真3-3)、その奥には孔子と、孔子の弟子の中では最も優秀とされた顔子の位牌が並んで配置され(写真3-4)ていた。
大成殿から出ると、カジュマロの大木(写真4-1)、恐らく数百年は経っているだろう、が目に入った。きっとこの樹に巣を造っているのだろう、カケス(とガイドの于さんは言っていた)が忙しそうに這え刷り回っていた(写真4-2)。カケスはガイドさんが知っている位だから、北京では希少な鳥ではないのだろう。たった一文字違うだけのカラスは中国のどこでも見たことが無い。境内には槐の樹が至る所で見られ(写真4-3左、右)、カジュマロの大木ほどでないにしても孔廟の歴史をみてきたに違いない。孔廟を跡にして街路脇の花壇に咲いていたバラ(?)が妙にきれいだった(写真4-4)。

つづく
 













2008/12/05 22:19:53|旅日記
大同・北京の旅 (十八)その他(ホテル事情、食事、鳥の巣など)

(十八)その他(ホテル事情、食事、鳥の巣など)

1)ホテル事情
 今回、大同では二つ★の大同飛天賓館、北京は三★のホテル北京香江戴斯酒店に宿泊した。
 前者は帰途列車を利用する予定だったので、「JTB WORLD GUIDE 中国」に大同市駅前であり、列車を利用する場合には便利であるとあったことと、これまで三ツ★までは利用したことがあり、それなら二つ★でも我慢出来るかということを今後のために確認する目的で、他のホテルを薦める観光会社Arachinaを口説いて決めたものであった。
 二泊したが、確かに居心地は良くなかった。窓の外の景色は悪くなかったが、水周りと、朝食と、自分の部屋に出入りするときのシステムがややこしくトラブルをおこしてしまうのだ。
 ホテルロビーに中華人民共和国になってからの歴代の首相の顔写真が目に入る(写真1-1)。このことからこのホテルが外国人向けというより、中国人向けであることが伺い知れる。
 チェックインするとルームカードを渡される。そして、このカードを部屋のある階のフロアキーパ(と言うのかどうかは知らない)に渡すと、交換に部屋の鍵を渡されて初めて部屋に入れるのだ。
 朝食に行くときも同じであり、鍵を閉めたら、それをカードと交換してもらい食堂に行き、戻ってきたらカードをまた鍵に交換してもらう。この手順を間違えて、大変なことになる。
 間違えた事情を説明するにも、フロントを含めて日本語を話せる人がいないのだ。ところが英語は通じた。それでなんとか助かった。
 この様なホテルシステムは日本には無いが、列車に乗るときも同じシステムだったので、メリットもあるのだろう。中国語の話せない外国人にとっては不便極まりない。
 しかしながらホテルの部屋の広さ(写真1-3)とホテルの立地条件は良く、食堂からは窓越しに大同の駅全景が見え(写真1-4)、黄土高原のかなたに佇む山並も見ることができた(写真1-2)。
 このホテルの評価は、あくまでも中国語の話せない日本人旅行客という位置づけであるが、水まわり、食事が良くないので、それさえ我慢できれば、駅に近いし、部屋は広く、室温も適温にコントロールされていて、窓外の景色だって悪くはない。ホテルシステムもそれを知っていればトラブルも起きないはずなので、水周り(水洗トイレ)の改善が先ず望まれる。
 一方、北京の北京香江戴斯酒店は極めて満足度が高く、バスタブが無くシャワーだけなので、それだけで三ツ★になっていると思われた。フロントは明るく(写真2-1)、部屋に入ると、ホテルの名前通りの良い香りに包まれる。香によって癒される感じがする。
 水洗トイレの水周りは清潔感溢れ、全く問題なく(写真2-3右)、TVもブラウン管ではなく液晶であった。
 建物は高層ビルではなく、ペンション風であったが(写真2-4)、部屋からは中庭が見え、そこには、柿、棗(写真2-3左)、楡、アカシアなどの木々が秋の佇まいを放っていた(写真2-2)。 初日は夜遅く着いて、翌朝まだ暗いうちに出発したので、それが分からず、朝食の恩恵にも与れなかったが、最終日では朝食をとることが出来、欧米人の宿泊客が多い理由が分かるような朝食メニューだった(写真2-4)。
 北京に宿泊するときは次回もここに決〜めた。
 ついでながら、ウェブで調べると、このホテルは北京皇城の内城、王府井金街の西側に位置し、交通が便利なところにある。天安門広場まで3分徒歩。近くには故宮博物館、人民大会堂がある。 香江戴斯酒店は独立的な庭式の酒店で、流水の音が聞こえた庭の中に千年の樹木、芝生、草花があります。
と紹介されている。
 確かにそんな感じがした。住所は北京市東城区南河沿大街南湾子胡同1号である。

2)食事
 成田から北京の機内食は毎度同じチキン(写真3-1)。中国国内便の北京から大同の機内食は丸いパン一つであった。
 いつもの通り食事の内容は特に重視しない旅ではあるが、今回は大同の名物料理と言われている刀削麺だけは食べてみたいと思い旅行社にリクエストをしていた。
 また北京ダックの賞味が予定に組み込まれていた。その他は成り行き任せ、ガイドさん任せであった。大同では縣空寺から市内に戻る途中で、比較的大きなレストランで昼食を摂った。
 時刻が早すぎてまだ開店する前だったので、店の外の景色の写真を撮って待った。冠雪した山並が目に入るちょっとした町のようであった(写真3-2)が町の名前は分からなかった。
 食事はガイドさん、運転手さん一緒に摂ってもらった。独り旅は食事をするときが寂しいのである。料理の名前を教えてくれと言ったら食事の後、料理名だけでなくその解説メモ付きで教えてくれた。ガイドの田さんは字体から几帳面さと誠実さが伺えた。 以下にそれを列記する。五花肉炒小日圓絲(豚肉とキャベツの細切の炒め)、西紅柿炒鳩旦(トマトと卵の炒め物)、山西○油肉(山西風豚肉の炒め物)、尖椒土豆絲(唐辛子とジャガイモの炒めもの)、炒飯、スープであった。<○はしんにゅうに寸>
 以上写真3-3、写真3-4の通りだった。麺は、キシメンの様な平うち麺だが、とにかく加齢と共に食べる量が減ってきているので、三人がかりでも食べきれなかった。
 その日の晩は、念願の刀削麺(写真3-5)を食べた。麺の上に載るトッピングは担々麺似で、麺の形は確かに刀で削ったように、平たく短かった。味は特に特徴があるようには思えなかった。
 北京では「傲蘭閣」というレストランで北京ダックを食べた。丸焼きしたダックを料理人が食べやすく裁くところを写真に撮らせてくれた(写真4-1)。
 その薄くスライスした肉を直径10cmほどの餃子の小麦粉の皮を10枚程と共に持ってきた。この皮で肉を包み、甘さのあるタレにつけながら食べるのである。
 北京ダックから取った他の部分の肉を盛った皿やご飯(炒飯)も運ばれ途中まで食べたところで(写真4-2)、トイレ(小)に行きたくなり席を立った。
 戻ってみたら、なんと店員が片付け始めているのだ。びっくりしたのはこちらだけではなく、店員もびっくり。店員は低姿勢に謝罪し、ガイドを呼んできて、「北京ダックの最初からやり直すか?」とのこと。「まだ箸をつけていなかった料理だけで良い。」と答えたところ、北京ダックと燕京ビール以外を殆どフルに持ってきた。
 折角“やりなおし料理”を持ってきてくれたので、それをほぼ食べつくし、満腹となった。

3)鳥の巣
 翌日は帰国の日であるが、孔廟を見学した後、中国56の民俗文化を展示した人類学博物館「北京中華民族園」に寄った。ここは雲南民族村に比べスケールは小さく、少数民族と思われる人達の姿は殆ど目にすることが出来なかった。
 唯一朝鮮族であろうか、少数民族の民族舞踊を見て民族村を観光している気分になれた(写真4-3)。それ以上に予期しなかった光景がここの高台で観ることが出来た。
 オリンピックの舞台となった競技場であり(写真4-4)、メイン会場の「鳥の巣」(写真4-5)であった。
 これで、中国の歴史で言うなら、北魏に始まって、遼、金、元、明、清、現代と七つの時代を旅したことになった。四世紀〜二十一世紀 1700年である。また、仏教、儒教、道教を巡礼したことになるかも知れない。

4)あとがき 以上長々と大同・北京の旅の旅日記を記した。中には前後関係や記載内容の正しさに自信の無いところも多々あり、折角持参した、ヴォイストレックや磁石をフル活用できなかった。唯一便りになったのはデジカメの撮影時刻であったが、それをみてもどこの写真だったか思いだせなかった写真も多々あった。
 撮った写真の数は、約470枚(内動画6)をオリンパスの二台のデジカメで撮った。このウェブに掲載したのはその1/4程度であり、選択するのも大変だった。
 今回の旅の発端は華厳宗の伝来ルートを探ることであったが、自分の事前の推理は残念ながら外れた。しかし、古来中国で、大同とか融和といった精神が如何に重要視されてきたか、ということが分かった。またチベット問題を機に現代においてもこの精神の必要性が認識されつつあるように感じた。








2008/12/04 0:16:25|旅日記
大同・北京の旅 (十六)景山公園 万春帝 槐

大同・北京の旅

(十六)景山公園・槐

 北京での旅行社による推奨観光コースは天安門広場、京劇観賞などが含まれていたが、これらを止めて、その代わりに、景山公園万春亭、孔廟、民族村をいれてもらった。
 当日北京に着いたのが14時で、それからの観光、そして翌日は14時半北京発の飛行機に間に合う様にするため12時には空港についている必要があり、AM中に観光を終えておく必要があった。従って、初日は故宮とすぐ傍の景山公園万春亭、帰国の日が、孔廟、民族村で精一杯となった。
 故宮の観光が終わりすぐ目の前の景山公園である。北京時間で夕刻5時頃であったがまだ十分明るい。ここを訪問する目的は、万春亭そのものより、ここにある明時代以来大樹として存在感があった槐(えんじゅ)を観ることであった。
 おそらく、ここの槐(えんじゅ)ほど重要な歴史の一こまが刻まれた樹木は無いだろう、自分のHPのタイトルを「槐(えんじゅ)の気持ち」としていることもあり、是非観たいものだと思っていたのだ。観光日程表の景山公園観光ののところは、
『「故宮」の北に位置し、頂上にある万春亭から紫禁城や市内全域が眺望でき、その麓には明時代からの槐(えんじゅ)の樹が植えられている「景山公園」を見学します。』
となっているが、“その麓には”以降の文章は自分で作文して、観光日程表の説明文に組み入れたのだ。
 その景山公園に一歩足を踏み込むと、槐の樹がすぐに目に飛び込んだ。正面に「待望楼」と記された扁額がかかる建造物(写真1-1)があり、槐越しに「待望楼」が映るアングルが容易に見つかり、それを写真に撮った(写真1-2)。「待望楼」の本当の命名の経緯を知る由も無いが、紫禁城に詰めている皇帝や、その一族、さらには後宮に棲む皇后、皇女達が時に気休めのため暫し休息をとるための観楼で、彼らが来訪するのを待ち望む、即ち主語は「待望楼」そのもので、それを紫禁城の外に建てたところになんらかの意味があるように思える。
 更に、槐の樹に目を凝らすと、まだ葉は青々と繁り、一部にはまだ花が咲いているところがあった(写真1-3)。そうかと思うと、花の部分とすでに豆の様な形の特徴的な実とが同居している槐の樹もあった(写真1-4)。
 景山公園へ入ってきた人の流れは、「待望楼」の前を左手に向かっている。于さんに促され、自分達もその流れに乗って歩き始めると、小山の頂上にある「万春亭」を目指して登り始める。
 于さんは身軽なのか、時間が切羽詰っているのか、足取りが軽い。途中尿意を感じ、トイレが無いか、と聞いたら、「我慢して下さい。」とのこと。普通のビルなら10階建ての階段を途中一息も入れずに一挙に登ったというほどのきつさであった。
 ハアハア言いながらもなんとか「万春亭」にたどり着く。そこはすでに国際色豊かな人達の群れで一杯だった。1/4は欧米人と思われる程賑わっていた。
 北面して西に向かい夕暮れの景色を待つ人達(写真2-1)、南面して、故宮の甍群を一望して気分を晴らしている人(写真2-2、2-3)、西面から流入して来ている人達、東面の出口から流れ出る人達様々であるが、高い所から下界を見下ろすという行動は人種を問わず気持ちよさを感じるものなのだろう。
 南面する故宮の甍群を背景にして、于さんに写真を撮ってもらった(写真2-4)。そして、旅行後、写真を整理していて、故宮の甍群を平山郁夫が描くとしたらこんな風に画くのではないかと思われる写真が現れたが、その写真はここでは割愛する。
この東面の出口からは下り坂である。途中大きな石碑がいくつかあったが、大きすぎて写真に納まらなかった。
 そして階段を下りに下って、まさに麓に降り着く直前に、于さんが右下を指差して、「あれが有名な槐の樹です。」と教えてくれた。確かに大きい。かなりの太さ、幹の太さ直径50cmはあろう、のところで数箇所伐採されていて、その伐採された切口付近から数本の幹が生えていて、これでさえ直径20cmはあろう。
全く堂々とした樹ではある(写真3-1、3-2)。
 この樹に纏わる話を書いた碑があり(写真4-1)、それには明の最後の皇帝崇禎帝が自縊(くびつり)をしたところとある。1644のこと、ということは、その時点で人の体重を支えられるほどの頑丈さがあり、そうなるまで10年はかかるだろうとして計算すると、370年近くの中国の歴史を見てきたのに違いない。 また逆に、明代から今日まで多くの人達がこの槐の大樹をみてきたのも事実であろう。夕暮れ近くになり、その記念碑がライトアップている。その傍に立ち、于さんに写真を撮ってもらった(写真4-2)。
 明代以来同じところに生えつづけてきた370本以上の年輪を重ねてきた槐。よくよく目を凝らしてみると、ここにも槐の実がぶら下がっている。
 季節が来ると、白い槐の花が満開になって、そしてそれが過ぎると、それが散り落ちた樹の下は純白のカーペットが敷かれた様になるのに違いない。
 崇禎帝は1644年のどの季節に自縊したのか知らないが、それが槐の花びらが散り降る季節であれば、明という時代の風景が、槐の花びらの落下が一筋起こるごとに、掻き消されてゆくように見えたのではあるまいか。
 すでに時刻は北京時間で五時半を過ぎ、山の東側の麓でもあるので、暗闇が訪れ始め、振り返って写真を撮ったその槐は黒い影となっていて(写真4-3)、歴史の闇に吸い込まれて行ってしまったようであった。そして出口へ。ここも彩りの美しい朱色の門(写真4-4)となっていて最後まで楽しませてくれた。

つづく








2008/11/29 22:30:13|旅日記
大同・北京の旅 (十五)故宮

大同・北京の旅

(十五)北京・故宮

 北京は、通過地としては、最近は中国旅行をする度に利用しているが、当地に滞在して観光をするというのは、十三年ぶりであり、おそらくオリンピック前後でその変貌ぶりがピークに達したのだと思うが、街並みが整備され、自転車やリアカーの量も減っているように思えた。
 トイレ事情、雑踏、埃といった不快感につながる環境は、北京に関する限り、大きく改善されていた。観光地もまた、同じように、整備されたようで、故宮も前回見学した時の印象に比較して、建造物、地面、植栽なども整備されたに違いなかったが、どこがどの様にという野暮な質問は于(う)さんにはしなかった。 一方で自分の方の内面的な心象の変化によっても当然、風景の見え方が変わってくる訳で、例えば中国という国に対する関心は深さを増し、それに比例して知識も増えている。歴史については、宮城谷昌光の春秋戦国物、浅田二郎の「蒼穹の昴」、陳瞬臣の「春秋戦国誌」、「十八史略」、徳間文庫版「史記」、「論語」、「老子・列子」、「孔子物語」などを読み、地理については、司馬遼太郎「街道を行く」や金庸の武侠小説に登場する中国各地の地名が知識として頭に残る。そして旅の後の「旅日記」の記載は次の旅への期待を膨らます原動力となるだけでなく、散在する知識をまとめるのに大いに役に立っている。
 知識が増えてくると、観る対象が全体ではなく、その一部の佇まいになり、正面とか、下方ではなく、上方となってきている、格好よく仏教用語で言うと、「胎蔵界」から「金剛界」と移行しつつあるとも言える。物質世界では、「樹木」や、観光建造物でいうと、「天井」、「屋根」となる。「樹木」では、いつ誰が、どのような目的または趣向でその「樹木」を植樹し、それが、大樹であれば、大樹になるまでにどの様な人達が、どの様な気持ちで育成してきたかが興味のあるところであり、「天井」、「屋根」にか関しては、その模様、色彩、構造、屋根飾り、軒下の造形、飾りつけ、屋根の稜線のカーブのしかたに関心を深めてきた。
 故宮もそれらの関心をもって、「樹木」については「槐(えんじゅ)」、建造物については上記の要素に注目した。

 「故宮(博物院)」は、かつての「紫禁城」であり、明の永楽帝が南京より遷都、新築した宮城で、明の後の元もそれを破壊することなく利用された。その元の時代は北京は「大都」と呼ばれ、遡る女真族の金王朝時代は「中都」。
 そして更に、大きく春秋戦国時代まで遡ると、周王朝の封建王国のひとつ燕の都、薊城に至る。そして中国史最後の王朝、満州族の清でも「紫禁城」は受け継がれ、多くの歴史ドラマが展開されている。
 その故宮は「午門」(写真1-1)から入り太和殿、中和殿、保和殿へと進む。「午門」はコの字型に南面し、高さのある朱色に彩色された単色の壁がその頭部に黄色い屋根瓦をつけた回廊となっている(写真1-2)。
 屋根瓦は鮮やかな黄土色であり、回廊の屋根、回廊の角に位置する楼閣の屋根等、故宮博物院の建物の屋根は例外なく黄土色である。
 屋根の軒裏はカラフルで複雑な彩色の模様が隙間無く施されていて目を楽しませてくれる(写真1-3)。そして屋根瓦に目を据えて観て見ると、屋根の垂れ下がる四本の稜線上に必ずと言って良いほど、獅子または竜の形をした鴟尾がいて、稜線の端部に、もう一頭の鴟尾(?)がいて、その二頭の鴟尾の間に外側に向かって、行儀良く、等間隔で座した九頭の動物がいる(写真1-4)。
 この様式は、故宮博物院の建物の屋根は例外なくこの様式をしていることに気がついた。大同の寺院の屋根瓦にもこの様式は見受けられたので、何か意味があることが分かるが、それが何であるかは分からなかった。
 さらに新たに気がついたのは屋根の色が実は黄土色だけではなく、朱色とのツートーンカラーになっているということだ(写真1-4)。
 「午門」をくぐると、どっしりと左右に構える狛犬というよりも獅子が睨みを効かせる(写真2-1左、右)。そして更に、建造物を通り抜ける時、天井に目を遣ると、彩色豊か造形美溢れる模様で彩られた天井が目に入る(写真2-2)。
 これを通り抜けると太和殿前の広大な広場に出る(写真2-3)。二層の屋根の間に「太和殿」と記された扁額が架かり、軒下の造形美、色彩美は相変わらずであり(写真2-4)、屋根の稜線に佇む、動物の座する姿も同様であるが、ここでは等間隔で座した動物の数は九頭ではなく四頭となっていた。
 太和殿の先には、中和殿(写真3-1左)、さらにその先には保和殿(写真3-1右)がつづく。中和殿は太和殿に向かう皇帝が一休みするところということだが、殿内(写真3-2)はなんとなくそんな感じがする。
 朱塗りの柱や窓枠、それに扁額や聯があり、皇帝はここで一休みするとともに、息を整え、心構えを新たにしていたのかも知れない。
 そして保和殿は大晦日や元宵節に、王侯貴族や文武両官を招き宴を開いたところで、どっしりと奥行きと広がりの大きな建造物であった。殿の北側の石段(写真3-3)となっている雲龍石は一枚の大理石からなっていて、房山から冬季凍った道を滑らせ運んできたのだそうだ。
 保和殿裏より内庭への入り口門(乾清門)は朱色と黄土色とのツートンカラー(写真3-4)で、特に門の両翼に佇む建造物の黄土色の甍群(写真3-5)は壮観であり、異様でもあった。
 日本ではまず見られない景観である。そしてここまで来ると、北の方角に目指す景山公園のてっぺんに建てられている万春亭がはっきり見えるようになる(写真4-2)。
 乾清門から故宮博物院の北側の出口となる神武門までの間には大小数えきれないほどの建築物があり、宝物が陳列されている「珎寳館」と浅田次郎の小説で有名な「珍姫の井戸」(写真4-1)に寄り、神武門に出た(写真4-3)。
 神武門も彩り豊かであり、朱色と黄土色とブルーで彩られていて、特にブルーの彩りの欄干は美しくしばし見とれてしまうほどであった。
 故宮博物院を参観しおえて、スケールの大きさ以上に色彩美、造形美の素晴らしさに感心した。芸術性というより、感覚性であり、黄河文明のいにしえより延々と中国人のDNAに伝承されてきている形を超えた存在であり、感覚、精神といった無形のものであり、仏教でいうならまさしく金剛界での曼荼羅と言ってもよいのではないかと思った。またこれらの感覚、精神が、急速な経済発展を求める社会情勢によって、日本と同様に廃れて行ってしまうのではないかという危惧をも故宮に群がる人々の姿をみつめながらふと思ったのであります。

つづく







2008/11/28 22:16:16|旅日記
大同・北京の旅 (十四)列車K616の旅

 大同・北京の旅

(十四)列車の旅

 往きは夜間成田を発ち、夜22時すぎに北京に着いた。そして翌日早朝に中国国際航空の国内便で、北京での日本語ガイドの于(う)さんの見送りを受け、大同に向かった。
 ところが、北京空港での手荷物チェックは予想以上に厳しく、整髪クリームや果物ナイフを取り上げられてしまった。成田出国の検査では引っかからなかったものであり、その厳しさに閉口した。さらに早朝出発で朝食をホテルで食べる時間がないので、ホテルで準備してもらったパンやジュースを手にしていた。このジュースも当然ながら取り上げられてしまったので、空腹を我慢しなくてはいけなくなった。
 一時間ほどで大同空港に着き、大同での日本語ガイドの田さんの出迎を受けた。そして大同の旅を終え、今度は大同から北京への帰り道で、帰途は希望して列車の旅とした。
 列車は5時間半の列車の旅でどうなるか不安でないことは無かった。その不安解消のため、桂林国際旅行社の担当の沈さんとのメールでの打ち合わせでは、1)大同始発北京終点の列車にする。2)座席は軟臥とする。3)昼食は事前に菓子を買っておく。社内食でも良い。ことなどを決めていた。
 しかし、初めての中国の列車の旅は、殆ど車窓を楽しむ間も無く終点に着き、再び于さんの出迎えを受けた。
 前日の大同での日本語ガイド田さんの話では、当初切符だけ受け取り自分で列車に乗り込むと思っていたらしかったが、初めての経験で、予期しない事態に遭遇した時に言葉は話せないし、列車に乗り込むまで付き合ってもらえないかと交渉した。
 沈さんとのメールでの打ち合わせではそうなっていたはずなのにと思わず悲鳴に近い交渉のしかたをした。その効果か、本当は最初からその積もりだったのかは分からないが快く付き合ってくれることになったのだ。
 独り旅の良さを予期しない事態に遭遇でき、それを体験できる良さがある、と公言していたのに自己矛盾ではあった。この自己矛盾を解消するには中国語を操れるようになるしかない、
と思ったが、またもや後の祭りである。
 列車はK616で座席は4名のコンパートメント(個室)で、軟臥ということだったが、軟臥と軟座の差異がよく分からず、何度か沈さんとやりとりをした。軟臥というのは中央にポットの置いてあるテーブルがあり、それを挟んで左右に二段のベッドがしつらえられているもので、寝台車という感じ(写真1-1、1-2)であるが、各人、寝台の上にいる必要はなく、昼間は下段に座っていることが多い。
 結果としてはこれが良かった。寝台の長さは180cm以上あり、そこに二人なのでゆったり感に大満足であった。コンパートメント(個室)で一緒になった他の三人は福州出身で自分より一つ年上のお茶商人の夫婦の二人と独り旅の女性であった(写真1-3)。
 コンパートメントのメンバーが揃うと、まもなくして、女性車掌が切符の検札にやってきた。検札の方式が日本とはまるで違う。中国人は身分証明書を持っているよう義務つけられているのか、自分はパスポートだったが、彼らは手にしていた切符だけでなく、その身分証明書を提示するのである。そして手にしていた切符(写真2-1)と交換に、カードのような切符(写真2-2、2-3)と交換するのである。
 そして、互いに自己紹介を始めた。
 お茶商人の夫婦は陳さんと言う名前で、福建省福州から杭州、南京、天津、北京を経て大同にやってきて、その帰りということであった。荷物からお茶を取り出してテーブルの上に置いた。楕円筒の缶に入った「牡丹綉球」と言う名のお茶で、ジャスミンのような良い香りがした。
 それをあげると言う。後で「牡丹綉球」をウェブ検索すると、「牡丹綉球は、花茶といい、緑茶ベースのジャスミン茶で、湯を注ぐと、花のように広がる」とあった。缶にはメーカー名も内容量も何も書いていなかったが、有難くいただくことにした。
 もう一人は35歳の旅を趣味とする独り旅の女性で、これまで旅行したことのある地名をメモしてくれた。それによると、海南、三○、桂林、雲南、宁夏、蘭州、広西、山東、内蒙、杭州、黄山、安徽、天津、南京、北京、・・・であった。
 その他、互いにメモに漢字を書きながら、中国語を話せない日本人と日本語を話せない中国人との間の漢字による筆談がしばらく続いた。
 そしてこちらから、写真を撮らせてくれないかと頼んだところ快く承知してくれ(写真1-3)、おまけに、この女性とのツーショットまで撮らせてくれた(写真1-4)。
 そして、その直後、陳さんは、やおら忍者のごとくするすると2階に這い上がった。梯子があるわけでもないのにどうして簡単に二階に上がって行ったのだろう。踏み台があるのだ(写真1-5)。一休みするのかと思っていたら、荷物の中から自分の黒いボディーのカメラを取り出した。なんとオリンパスの一眼レフE-420を取り出して見せてくれ、そのカメラで写真を撮ってくれた。 そのことや列車の座席では最も高級な軟臥、日本ならグリーン車に相当、を利用するところを見ても陳さん夫婦は中国でも生活レベルは上に属するのだろう。
 話というより、筆談で盛り上がっているうちに張家口という駅についた。すでに大同を発ち、3時間ほど経過しているが初めての停車駅である。始発駅(大同)と終着駅(北京西駅)の間の5.5時間の運行で、停車するのは、この駅ただ一つ。これで快速列車なのだ。
 ついでながら、快速列車は車番にKaisokuのKがつき、特急の場合TokkyuのTがついている。乗っているのはK616である。ちなみに運賃159元(約2550円相当)である。
 この駅に停車するまで、車窓を一切見ていないことに気がついた。張家口駅を発車して間もなく昼食の時間となり、陳さん夫婦たちは食堂に向かったが、自分は空腹感が無かったので、遠慮して、しばし車窓を眺めることにした。
 そして動画モードで写真を撮るという予定も実行しないといけない。またその間に我慢していたトイレ(小)も済ませておこうと思ったのだ。
 トイレは大小兼用、男女共用だが、汚れてはいなかった。女性でも問題のない程度だろう。
 そして、トイレから戻ってきて、しばし車窓の景色を眺めたが、車窓からは湖(写真3-1)や山(写真3-2)が近くに遠くに見えしばらく、通路の写真(写真4-1)や動画写真を撮っていた。そのうち、社内販売が回ってきたので、葡萄を一房10元で買った。冷たく冷やされていておいしかった。
 しばらくして、女性だけが戻ってきた。陳夫妻はきっと食堂の座席を暖め続けているのだろう。しかし、この女性が戻ってきてくれたお陰で、残りの約2時間も、金庸の小説の話題、中国人の血液型シェアの話題、日本人の性格論、你的杯子のことなどであっという間に過ぎて、全く退屈しない列車の旅となったのだ。
 特に、金庸の小説の話題では丁度読んでいる最中の「飛狐外伝」の登場人物の胡一刀や胡裴と言う名が彼女によって即座に書かれ、驚くと同時に親近感を感じることが出来た。
 しかし、あまりにも巧妙な天の配剤というか、あるいは、まるで、この中国の列車の初めての旅を快適に過ごせる様に、またHPでそれを紹介してもらい、中国の観光をPRしてもらいたいと中国当局が図ったのではないかと思えるほどであった。
 もし、そのような計らいがなかったのであれば(そのはず。)、たまたま軟臥を利用できるレベルの人だからかも知れないが、おおらかで、親切で好奇心溢れ、知的で人を楽しませる人なのであろうと言う感じがした。
 そして、中国と日本は世界で漢字を母国語とするただ二つの国(韓国もそうかもしれないが)という、互いに本質的に助け合える国同士という思いが更に強まった。
 これで、言葉の方をもう少し操ることが出来れば、さらに中国旅行が楽しいものになることが間違いないという強い想いも抱いた。
 そして、やがて終点の北京西駅(写真4-2、4-3)に到着し、再び于さんの出迎えを受けた。25日の残りは北京見学である。

つづく