大同・北京の旅
(十三) 善化寺
善化寺は南寺とも呼ばれ、山西省大同の西南にあり唐の時代に立てられ、玄宗の頃は開元寺と呼ばれ、五代の後晋初めに大晋恩寺と改名された。 この寺院は、華厳経と密教との融合が試みられた舞台となった寺院でもあり、ゆっくりと落ち着いて参観するには時間が足りなかった、と後悔したのは、いつもの通り、後の祭りであった。 この寺は、遼時代末の1122年に戦火に遭い、金時代の初めの1128年から1143年の間に修築が行われた。元の時代には晋恩寺と呼ばれ、規模もかなり大きくなっていて、元史によると、フビライの命を受け、この寺に四万人の僧侶が集まって仏事を行ったそうである。 明の時代にさらに大規模な修繕が行われ、1445年に現在の善化寺に改名した。以上が今回世話になった桂林中国国際旅行社(AlaChina)のホームページで得られた情報で、これだけの情報では知的好奇心を掻き立てられる程のことはなく、“ついでに”という程度の意識で見学した。 従って、今年の九月に奈良の寺院を見学した時に、「今後、中国を含めて寺院見学をするときには先ず伽藍配置をしっかり頭に描くことから見学を開始しよう。」と心に決めた意識が、全くかなたにすっ飛んでいってしまい、HPに投稿する「旅物語」の「善化寺」の稿は、写真に撮った「五龍壁」、「牛の像」、「大雄宝殿正面写真」、「三聖殿屋根」等があるが、これをどの様に繋げるか迷うばかりである。 とくに「牛の像」など、「何故ここに?」という疑問を解く鍵を全く持たなかった。そこで、あとづけ作業になってしまうが、たまたまウェブ検索で見つかった以下の論文を参考にさせてもらうことにした。
遠藤純祐、「善化寺(山西省大同市)の伽藍構成について −華厳と密教が融合した一形態として−」、平成十七年三月「現代密教」第十八号166頁〜190頁
善化寺は、唐時代以降、漢民族にも異民族にも重要視され、また現代においても中華人民共和国国務院による「第一批全国重点文物保護単位」に故宮、万里の長城、白馬寺、大雁塔などと共に指定され、この善化寺の価値が公式に認知されていたことが分かる。 伽藍配置は南から北に向かって山門(写真1-1)、三聖殿(写真4-1)、大雄宝殿が建っていて(写真4-2、4-3左右)各殿舎は南向きに位置している。大雄宝殿の西側には「普賢閣」、東側には「文殊閣遺跡」、また前面の「三聖殿」内には「華厳三聖」、即ち「釈迦牟尼仏」、「普賢菩薩」、「文殊菩薩」が奉られている。 更に山門の南側には瑠璃製の「五龍壁」が、その直前に観た「九龍壁」(写真2-2)と龍の数と向きを変えて配置している(写真2-1)。その傍らには大変保存状態の良い「鉄牛」(写真3-2)が置かれている。この「鉄牛」は、本来河の妖怪を鎮め、水害から守るため作られ、「御河西岩」にあったものである。 善化寺は遼代の普恩寺時代からの様子を保存した境内を有しており、そこに華厳と密教の融合した形を看取することができる。 遼代から金代にかけ華厳思想が大いに流行し、善化寺に見られる「密教と融合した華厳」ということも、その時代の様子を如実に留めているものと解される。 金代の華厳の特徴、いわば更に密教との融合を進めた華厳の様子を窺うこともできるかもしれない。となれば、重修に従事した圓滿なる僧は「盧舎之教」に通じた者と紹介されていたが、それは純粋な華厳ということではなく、密教との融合が計られた華厳を考えなくてはならないとのことらしい。 大雄宝殿の五仏は、中央の大日如来、東方の阿 (あしゅく)如来、南方の宝生(ほうしょう)如来、西方の阿弥陀(あみだ)如来、北方の不空成就(ふくうじょうじゅ)如来であり、華厳五仏も密教の金剛界五仏も同じことなのだろう。 大日如来の知恵とは、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。 阿しゅく 如来の知恵とは、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵を意味する。 宝生如来の知恵とは、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性をもつ事を覚る智恵である。 阿弥陀如来の知恵とは、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。 不空成就如来の知恵とは、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵とされている。 以上の五つの知恵を五智といい五智を悟る仏が五仏ということになるのだそうだ。 「田さん。丸窓は悟りの門ですよ。もう悟りの域に達してますか?」「悟りの境地に至るには五智が必要。まだまだ!」(写真4-4)
つづく
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