槐(えんじゅ)の気持ち

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2008/11/25 21:44:10|旅日記
大同・北京の旅 (十三) 善化寺

大同・北京の旅 

(十三) 善化寺

 善化寺は南寺とも呼ばれ、山西省大同の西南にあり唐の時代に立てられ、玄宗の頃は開元寺と呼ばれ、五代の後晋初めに大晋恩寺と改名された。
 この寺院は、華厳経と密教との融合が試みられた舞台となった寺院でもあり、ゆっくりと落ち着いて参観するには時間が足りなかった、と後悔したのは、いつもの通り、後の祭りであった。
 この寺は、遼時代末の1122年に戦火に遭い、金時代の初めの1128年から1143年の間に修築が行われた。元の時代には晋恩寺と呼ばれ、規模もかなり大きくなっていて、元史によると、フビライの命を受け、この寺に四万人の僧侶が集まって仏事を行ったそうである。
 明の時代にさらに大規模な修繕が行われ、1445年に現在の善化寺に改名した。以上が今回世話になった桂林中国国際旅行社(AlaChina)のホームページで得られた情報で、これだけの情報では知的好奇心を掻き立てられる程のことはなく、“ついでに”という程度の意識で見学した。
 従って、今年の九月に奈良の寺院を見学した時に、「今後、中国を含めて寺院見学をするときには先ず伽藍配置をしっかり頭に描くことから見学を開始しよう。」と心に決めた意識が、全くかなたにすっ飛んでいってしまい、HPに投稿する「旅物語」の「善化寺」の稿は、写真に撮った「五龍壁」、「牛の像」、「大雄宝殿正面写真」、「三聖殿屋根」等があるが、これをどの様に繋げるか迷うばかりである。
 とくに「牛の像」など、「何故ここに?」という疑問を解く鍵を全く持たなかった。そこで、あとづけ作業になってしまうが、たまたまウェブ検索で見つかった以下の論文を参考にさせてもらうことにした。

 遠藤純祐、「善化寺(山西省大同市)の伽藍構成について −華厳と密教が融合した一形態として−」、平成十七年三月「現代密教」第十八号166頁〜190頁

 善化寺は、唐時代以降、漢民族にも異民族にも重要視され、また現代においても中華人民共和国国務院による「第一批全国重点文物保護単位」に故宮、万里の長城、白馬寺、大雁塔などと共に指定され、この善化寺の価値が公式に認知されていたことが分かる。
 伽藍配置は南から北に向かって山門(写真1-1)、三聖殿(写真4-1)、大雄宝殿が建っていて(写真4-2、4-3左右)各殿舎は南向きに位置している。大雄宝殿の西側には「普賢閣」、東側には「文殊閣遺跡」、また前面の「三聖殿」内には「華厳三聖」、即ち「釈迦牟尼仏」、「普賢菩薩」、「文殊菩薩」が奉られている。
 更に山門の南側には瑠璃製の「五龍壁」が、その直前に観た「九龍壁」(写真2-2)と龍の数と向きを変えて配置している(写真2-1)。その傍らには大変保存状態の良い「鉄牛」(写真3-2)が置かれている。この「鉄牛」は、本来河の妖怪を鎮め、水害から守るため作られ、「御河西岩」にあったものである。
 善化寺は遼代の普恩寺時代からの様子を保存した境内を有しており、そこに華厳と密教の融合した形を看取することができる。
 遼代から金代にかけ華厳思想が大いに流行し、善化寺に見られる「密教と融合した華厳」ということも、その時代の様子を如実に留めているものと解される。
 金代の華厳の特徴、いわば更に密教との融合を進めた華厳の様子を窺うこともできるかもしれない。となれば、重修に従事した圓滿なる僧は「盧舎之教」に通じた者と紹介されていたが、それは純粋な華厳ということではなく、密教との融合が計られた華厳を考えなくてはならないとのことらしい。
 大雄宝殿の五仏は、中央の大日如来、東方の阿 (あしゅく)如来、南方の宝生(ほうしょう)如来、西方の阿弥陀(あみだ)如来、北方の不空成就(ふくうじょうじゅ)如来であり、華厳五仏も密教の金剛界五仏も同じことなのだろう。
 大日如来の知恵とは、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。
 阿しゅく 如来の知恵とは、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵を意味する。
 宝生如来の知恵とは、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性をもつ事を覚る智恵である。
 阿弥陀如来の知恵とは、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。
 不空成就如来の知恵とは、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵とされている。
 以上の五つの知恵を五智といい五智を悟る仏が五仏ということになるのだそうだ。
 「田さん。丸窓は悟りの門ですよ。もう悟りの域に達してますか?」「悟りの境地に至るには五智が必要。まだまだ!」(写真4-4)

つづく









2008/11/18 23:40:54|旅日記
大同・北京の旅 (十二)華厳寺

大同・北京の旅

(十二)華厳寺

 今回、大同を訪れるきっかけとなった華厳寺である。
市内3kmの所に上華厳寺と下華厳寺がある。遼代に華厳宗の寺院として創建され、元代に焼失、明代に再建された際に、上と下に分けられた。先ず上華厳寺に足を運んだ。
 旅行前にウェブで調べ、東大寺への華厳経の伝播ルートとは、時代的に関係ないものであることが既に分かっていた。従って、実際にここを訪れる時には華厳寺訪問の意義は大分薄れてしまっていた。
 人通りの多い街中の寺院という感じであり、大通りから露地のような細い道を入って行くと、SUS製の手すりが両側についた石段が現れ、そこを上ると、見晴らしの良い高台に出て、そこに大雄宝殿があった(写真1-1)。
 上華厳寺は、7年間の改修工事が終わり、2002年に再公開された。大雄宝殿は、中国最大の仏殿のひとつで、日本の華厳宗の総本山である東大寺と様式が似ているのは当然のことだろう。とは中国の観光会社のウェブに紹介されているが、前月訪れたばかりの東大寺の大仏殿と比べると、その威厳、広大さ、華やかさ、どれをとっても及ばない感じがした。
 その屋根は東大寺と同様の黒い瓦葺きであり、両端には立派な龍の鴟尾(しび)が飾られている(写真1-3)。色合いから、屋根瓦は明方式、鴟尾は清方式と素人目には見えた。大雄宝殿の前に灯篭があり、それを見た田さんが、
「東大寺にも大仏殿の前に立派な灯篭があるのだそうですね。」
と質問してきた。そこで、
「確かにありますが、大分感じがちがいますね。」
と答えておいた。
 東大寺は大仏殿の屋根は二層であり、相対的な大きさから、立派な灯篭というには及ばない感じがしたし、なによりもこの灯篭の屋根の頂上の相輪の模様が随分違う、東大寺は水炎(写真1-2)だが、ここのは動物が宝珠を背負っている。
 更に周りを見回すと鐘楼があり鐘がぶら下げてあったが、青銅製ではなくて、鉄に近い感じがした(写真2-1)。仏殿内部は写真撮影禁止であり、内部の仏像の姿を記憶に留めることは出来なかった。また建物の名は記憶に留め得なかったが不思議な曲線をその屋根の淵に描いているお堂が目に映った(写真2-2)。
 建てているうちに歪んだというのではなく、意図が感じられるがその意図が何であるかは思いつけなかった。そして更に他の建物の屋根に目を移すと奇妙な屋根飾りが見えた(写真3-1)。
 この屋根飾りは屋根の中央に位置している。ズーム倍率を最大にしてみると、その姿がよく分かる。
 舎利殿(?)と思われる建物を挟んで一対の獅子頭が東西に向かってこれを守備し、舎利殿(?)の上には六つ足の想像上の動物が立ち尽くし、その背には蓮華座を載せ、更にその上には塔の場合の相輪に対応する、宝珠が天に向かって突き立っている。
 そして、獅子頭の上には東西に向かって一対の象が正立し、それぞれの背には蓮華座とその上にはビルマやタイの仏教寺院に見られるドーム寺院の形が置かれている。中国に象がいるはずもない、と思った途端、舎利殿ではなくて仏陀の出家の瞬間を表しているのではないかと思いついた。その建物の扉が一箇所だけ開け放たれているのはその瞬間を表しているのではないか。
 仏殿を拝観したあと、帰る途中、まさに寺院を建立中の光景が目に飛び込んできた。ちょうど屋根瓦を葺く直前というところであった(写真3-2)。日本でもこの様な光景は目にしたことがなく、しばらく眺めていた。
 次に下華厳寺を拝観した。
 ここは薄伽教蔵殿を主殿とし(写真4-1)、31体の仏像が安置され、その内29体が遼代のもの。特に脇侍菩薩は有名で、中国の仏教芸術を代表する逸品として切手のデザインにも使われているとのことである。人通りの多い街中の寺院という感じであり、大通りから露地のような細い道を入って行くと正面に薄伽教殿とかかれた大きな扁額がかかった殿舎が目に入る。
 次にここに併設されている大同市博物館の見学をした。ここも 仏殿内部は写真撮影禁止であり、内部の仏像の姿を記憶に留めることは出来なかった。

つづく








2008/11/13 23:27:14|旅日記
大同・北京の旅 ((十一)雲崗石窟寺院 その2)

大同・北京の旅 

(十一)雲崗石窟寺院 その2)

 第七号石窟と第八号石窟は双窟で、皇太后と孝文帝の共同執政時代に七年の歳月をかけて創られたのだそうだ。双窟の間は窟内で連絡しあい、そのためこの双窟を姉妹窟と呼ぶこともあるようだ。
 ちなみに第九号石窟と第十号石窟も双窟で、こちらも姉妹窟と呼ばれている。
 この連絡しあう通路の天井に五面仏の鳩摩羅天像が彫られ、手には弓や宝珠(それとも日)を高く掲げた姿が彫られている(写真1-1)。
 この双窟内には五面仏、三面仏など多彩で大きさも様々な仏像が神棚に彫られている。この両窟は「法華経」および「仏本行経」を題材につくられたもので、当時の仏教の盛況ぶりや北魏王朝支配階級の生活様式が反映されているとのことだ。
 次に第九号石窟と第十号石窟に行った。第九号石窟には天窓が開いていて、この天窓の周りは、その内側にも外側にも豪華で彩色豊かな菩薩像、竜王像、千仏像が彫られている。雲崗石窟寺院の多くの窟に天窓がついている(写真1-2)。
 窟の内部が暗く、内部に明かりを取り入れるためのもの、あるいは天窓を通して釈迦の慈愛が外界に到達させるためのものとばかり思っていたが、実はそれ以上に造窟時に非常に大きな役割を果しているということが、ガイドの田さんの説明で分かり、石窟寺院造窟の謎の一つが解けたのだった。
 田さん曰く、
 「石窟というのは下から上に彫り上げてゆくのではなく、上から下へ掘り下げてゆくのです。天窓は最初に窟の上部に入りこむ入り口で、この窓を最初に造り、そこから水平に掘り進んで行き、背丈ほどの高さまたは簡単な踏み台程度で届く高さで、奥行きのある空洞をつくり、同時に壁面や天井面に仏像を彫刻し、それが一通り終わると次に床面(岩肌)を堀下げて行きながら新たに現れた壁面に、像がつながるように彫り進めて行く」
のだそうだ。
 この説明で多くの謎が解けた。これまで高い天井や側壁上部に見事な形や色彩の仏像や飛天像が彫られているのを見てきたが、足場としての高い櫓を組み、作業者がそこまで上って彫刻作業をしているものとばかり思っていたのである。
 あるいは、先ず空洞を作ってしまい、また天窓も作ってしまい、そのあとで、壁面や天井面に諸像を彫って行くものとばかり思っていたのである。
 しかし岩床面を彫り下げて行く方式であれば、足場は常に岩の床面であり、安定していて、彫像作業も楽な姿勢でできたに違いない。
 しかし一方で、窟内の仏像の配置や彩色など造窟前に相当しっかりして精緻な設計図がないと、つなぎ目に狂いが出るなど完成度の低い窟で終わってしまうだろう。
 この造窟責任者は、先ず造窟指令者(皇太后か孝文帝)の窟に架ける主題・目的を理解し、それに基づいて窟の設計、現場監督を兼任したに違いない。
 その石窟責任者として、少数民族出身の甘爾慶時(王遇)が「魏・王遇伝」に残されているらしい。巨額な費用をつぎ込んで窟建築に失敗したら大変である。皇太后や孝文帝の信任が厚く。しかも優秀な建築技術を持っていたのであろう。
 次に第十号石窟は、飛天、楽団など躍動感あふれる像が彫られている(写真1-3)。楽団が手にしている楽器は、笛、横笛、琵琶、太鼓、尺八、ラッパなど多彩で、胡楽と呼ばれるもので、色濃く鮮卑族の生活臭が感じられるとともに、贅沢三昧の宮廷生活が伺える。
 時期的には七、八窟の双窟より古くに建てられたとのことである。この窟にも天窓が配され、天窓の敷居には須弥山図が彫られ、その両サイドにはそれぞれ日、月、弓、矢を持つ阿修羅像が配置されている(写真1-4)。
 この天窓の上辺には多彩でカラフルなウサギ、羊、虎、熊、猪、豹、樹木などの立体感溢れる彫刻が施されている。その天井には蓮華、四周に千仏、夜叉、舞神、真ん中に仏像が配されている。天窓の外側にも夜叉、供養菩薩、仏の坐像、力士像などが多彩な色とポーズで迫ってくる。
 次に第十一窟である。内部には外から見た光景(写真1-5)からは全く想像もつかない数の大小さまざまな仏像が壁面一杯にびっしり彫らている。千仏壁というのだそうだ。
 更に歩を進めて第十二窟へ。第十二石窟は別名「音楽の石窟」と称される。雲崗石窟は仏教音楽を借りて鮮卑族の音楽舞踏を十分に表現しているのだそうだ。
 第十二石窟の前室には輝かしい舞楽シーンがワンセット彫られ、生き生きとした奏者やくっきりした各種楽器が刻まれたことから、「音楽の石窟」とも称されるようになったのだそうだ。
 この窟にも天窓とその下に門がある。そして、天窓の周りの彫刻は鮮やかである。先ず門の外から中の天井の方向を見上げると、まるで田舎の農夫の様な出で立ちの人が弦楽器を奏でている様子の彫像がみえた。五本の弦がはっきり見えている。ギターと同じであり、まるで音が聞こえてくるようであった(写真2-1)。 また向こう側にはその演奏にあわすように楽器を奏でる天女や軽やかに踊っている天女(舞神)の彫像が天井に近い壁の部分を飾り立てている(写真2-2)。
 そして天窓の下の門の淵にもやはり楽器を奏でる天女像が刻まれている(写真2-3)。更には天窓の全周囲にびっしりと楽器を抱えた天女達が配刻されている(写真2-4)。
 そして次が、曇曜五窟として有名な、第十六窟から第二十窟であるが、いずれも10mを超える巨大仏像なので、外の通路から眺めることになった。曇曜五窟とは僧曇曜が北魏王朝五人の帝王を象徴したもので、その発端は太武帝の廃仏施策に端を発している。
 太武帝の廃仏施策によってお寺や法器が毀損されたり、迫害を受けた。その後、文成帝によって名誉回復されたが、いつまた以後の皇帝の気まぐれで廃仏施策がとられ悲劇が繰り返されるか分からない。
 霊岩寺の隣の通楽寺にいた僧曇曜は悲劇が繰り返され無い方法を日夜考え通し、ついに思いついたのが、「皇帝を如来にすれば良い」という先輩の法果の言葉で、その旨を帝に奏上したところ、喜ばれ、直ちに許可されたのであった。
 先ず第十六窟である。高さ13.5mの仏の立像であり、袈裟を羽織った像である(写真3-1)。まるでネクタイをしているようであり、像の中央部はまるで帯をしているようにも見えるが風化の跡である。
 次十七窟を飛ばして第十八窟である。この仏像はなんと仏教徒を迫害した太武帝拓跋濤である。晩年これを公開し、それを民衆に知らしめるため道教の支持者崔浩を処刑し、仏教界と和解したので、仏教の因縁観に沿って、その過失を許し、仏像を作ることになったそうだ(写真3-2)。
 第十九窟は曇曜五窟で最高の高さ17mの像で、仏教を復興させた文成帝を象徴している。この仏像と他の二体の仏像、普賢菩薩と文殊菩薩との三体を華厳三聖と呼ぶのだそうだ。
 こんなところに「華厳」という言葉が出てくるとは。文殊菩薩に対応するのは二代目で業績の芳しくない明元帝、普賢菩薩に対応するのが帝拓晃で文成帝の父だったが若いうちに他界している。
 滅仏策の時、暗に僧侶達を庇護したという実績が評価され普賢菩薩とされたのだそうだ。
 いよいよ曇曜五窟の最後第二十窟である。ここは石窟前壁が崩れ落ち露天となっている。高さ13.7mの大日如来、即ち最高位の仏像である(写真3-4)。北魏後世の諸帝であり万世一系を現している。
 更に西に行くと階段が見え、ガイドの田さんに一人で見てきて良いと言われ、荒れ果てた感じの第二十一窟以降の石窟を目指した。更に行くと、石窟が天窓を同じ高さにして整然と配列しているのが分かる(写真4-1)。
 全てを覗いてみるには時間が無さ過ぎなので、二、三覗いて見てから歩を戻し元の方へ歩いてゆくことにした。
 遠くを望むと東の方角に山並みが見え、常緑樹が青々としていて、それがまるで北魏時代と現代を区画しているように見えた。(写真4-2)
そして、視野を南に向けると石炭工場が整然と並んだ街並みが見えた(写真4-3)。田さんに
「あれは石炭工場ですか?」
と尋ねてみると、
「いえ、あれは雲崗鎮という村ですよ。」
とのことだった。
 帰途、雲崗石窟寺院遊歩道の両側にたくさんの土産もの屋があったが、石炭を素材とした見事な造形の置物が陳列されていた(写-真4-4)。
つづく







2008/11/10 20:07:59|旅日記
大同・北京の旅 ((十)雲崗石窟寺院 その1)

               大同・北京の旅

(十)雲崗石窟寺院 その1

10月24日(金)朝8:00頃ホテルを出発し、南西に向かって走る。目的地まで17km、車で30分もかからないところにある。途中ガイドの田さんが、「あれが万里の長城の跡ですよ。」と言うので、「写真を撮れますか?」とたずねると、「雲崗石窟寺院まで行けばいくらでも見れます。」との答え。
事前に田さんに日本から電話して、駄目もとで、「万里の長城跡と平城城跡を見学する機会は持てませんか?」と伝えておいたのだ。
 道路は整備されていてきれいだ。石炭の町と聞いていた割には、石炭がどこにも見られない。と思っていたら、田さんが、「2000年に世界遺産に指定された。その認定を受けるために、石炭のトラックが走れない旅游道路建設し、付近の民家を取り壊し、石窟の遊歩道を整備し、石窟自体も十分な保護措置が取られた。」との説明をしてくれた。
 程なくして、石窟正面の遊歩道へ出た(写真1−1)。万里の長城の下に石窟があるという感じであり(写真1−2)、北京八達嶺の様にレンガで覆われているわけではなく如何にも長期間手入れされず、放置されたという感じの長城であった(写真1−2)。
 しかしこの風情こそ見てみたかったもので、長城というより外壁という姿で、撮った写真を拡大すると、外壁の根元には砂の吹き溜まりがあり、歳月の風味というものを醸し出している(写真1−3)
 石窟は、中国東北地方の大興安嶺から移り住んできた鮮卑族(更に諸部族に分かれその内の拓跋氏)の北魏王朝の時代によって開窟された。
 仏教は、太祖道武帝の時代から、「天子則ち如来」の思想の元、国教として取り扱われ、漢民族との融和を勧めるためにも積極的に布教された。
 一時廃仏の時代があったものの、文成帝(452〜465)の時代に復活、当時の涼州(現在の武威)から呼ばれた僧雲曜によって、雲崗の石窟は武周山の断崖に開窟された。敦煌の莫高窟より遅れること80年ほど後であるとのこと。
 その敦煌の莫高窟が壁画を主体としていたのに対し、ここは殆どが彫像であり、その数は5万1000にも及ぶとのことである。
 それらが東西に配置している。東(写真右手)から第一屈、第二屈、・・・・、となっているが、古い順ではないとの田さんの説明だった。
 東側から見学することにした。第一屈と第二屈は共に中心仏塔式建造物となっている。即ち仏塔が窟の中心にあり、その天蓋が窟の天井部へと繋がっている。窟の周囲の壁にはいくつかの石像が鎮座していたが、その石像のうちいくつかが頭部のみ盗み取られ、なくなっている。 イギリスの探検隊とも日本の探検隊とも言われている。他国の文化財を持ち出すだけでなく、仏の頭を壊損させてしまうとは二重の罪を犯しているようなものだ。

 次に第三窟である(写真2−1)。奥行き、高さとも規模が最大で、雲崗石窟の東端に位置する。北魏皇室の雲崗石窟の掘削も第三窟に始まり、第三窟に終わったと言われている。
 色彩という点では他の窟に及ばないが、雲崗石窟の第一号であり、道武帝から宗教事務を一任された法果和尚が何故このような、ここ武州山のしかも石窟に寺院を建立したのだろうか。
 その答えが田さんから安く購入した「雲崗石窟と北魏の時代」李恒成著、米彦軍訳 山西省科学技術出版社刊 に記述されていた。
 要約すると、先ず、鮮卑族が洞窟住まいに慣れていたこと。第二に鮮卑族の発祥の地、嘎仙洞(かせんどう)と雰囲気が似ていた。第三には武州山にある最大の自然の洞窟で石窟寺院を創り易かった、とのことである。
 中に10mの弥勒仏が掘られているが、他は未完成で、固い砂岩の岩盤がむき出しになっている。余談だが、敦煌の莫高窟は、岩盤が柔らかい礫岩のために、巨大仏はほとんど掘られなかった。
 窟の地面に突き出た岩の上を田さんに続いて、ぴょんぴょんと飛び移りながら窟の奥の方へ入って行き西の方に歩を進めると、三体の仏像に出くわした。
 10mの弥勒仏(孝文帝自身)を中心に西側に弥勒菩薩像(息子の皇太子元恂)が東側には女性と思われる弥勒菩薩像が掘られている。
 中心の弥勒仏はどっしり構えた表情だが、西側の弥勒菩薩像は怒っているように見え、東側の弥勒菩薩像は西側に向かって、慈しんだ表情をしている。
 同著には、孝文帝と、孝文帝の徹底的な漢民族への同化政策に強く反対した皇太子との間の洛陽遷都に伴う骨肉の争いが紹介され、結局、孝文帝が息子を毒殺する破目になり、敬虔な仏教信者だった息子を往生させるために作ったのがこの第三窟とのことであった。
 更に、孝文帝派(=遷都派=改革派)と皇太子派(=遷都反対派=保守派)との争いは続き、523年に平城北部に六鎮の乱が勃発するに及んで、第三窟仏像彫りが止む無く頓挫した。
 この窟を掘削したことを通じて、北魏時代の民族融和の歴史をも語っている。鮮卑拓跋氏は北方少数民族として中国北方を制覇し、漢民族を含む各民族との同和、融合が余儀なくされた。
 この地が後に同じ少数民族の女真族の遼時代に大同という地名に変えられたことに納得できた。

 第四窟は第一窟、第二窟と同じ中心柱石窟であるが彫像の殆どが風化して崩れ落ちている。殆ど素通りした。

全体は東区(1〜4窟)・中区(5〜13窟)・西区(21〜45窟)に分かれている。東区から中区に移動する途中、当時の車の轍が残されている所があった。水槽の底部に保存されているが上に張った水は凍結し、上に田さんが乗っても大丈夫だった。この近辺は夜になると相当の冷え込みがあることが分かった。

 第五、六窟は双窟であり、壮観と言える四層楼閣木像建築物が外壁に現れ、遠景から見られたシンボル的建造窟(写真1−1右上隅)であり、窟の中も広大な洞窟、豪華な造り、派手な仏像群のある石窟となっている。
 第六窟は、雲崗石窟の中で最も保存状態のいい、彫刻のすばらしい窟といわれている。内部は、真ん中に柱がある古い形式の塔廟窟(中心柱窟)で、柱の四面の上部には、お釈迦様の誕生から成仏までの本生譚が描かれ、その彩色彫刻が実に美しい。
 この窟も第三窟と同様、皇帝一族の争いの歴史を背景に、造窟された皇太后と父を祀った石窟寺院であり、第三窟を造営している最中の五年間に造営されたことになっている。
 四層楼閣木像建築物は清時代に増築されたもので、東から見ても(写真3-1)、西からみても(写真3-4)雲崗石窟寺院の外景的アクセントになっている。
 楼閣を骨組む柱の交点には清王朝のシンボルである龍面が架けられている(写真3-2)。そしてその顔つきは精悍というよりひょうきんに見えた(写真3-3)。
 龍面は最上層の楼閣の柱にも飾ってあるのが分かった(写真3-5)。窟の壁面が大小おびただしい数の仏像で埋め尽くされていて、一つの窪みに複数の仏像が配置(二体仏、三体仏(写真4-1))されたり、その姿も、様々で、足を交叉したり、膝組みしたり(半跏)、更には宙を飛び交う姿勢の飛天(写真4-2、4-3)や多くの音楽神が彫られている。
 ところで、皇帝一族の争いの歴史についてだがややこしい。
465年5月、12歳の拓跋弘献文帝が即位したが、その八ヶ月後、わずか24歳の皇太后が摂政を勤め、大量に漢民族の大臣を登用し、政治を担当させ、鮮卑人の権限が弱められた。
 当然ながら鮮卑人の反感を買い、献文帝は母(皇太后)の意に沿わず、鮮卑人に肩をもった。その一因となった母による慕容白曜の処刑に対する復讐として母の恋人一家を殺したこと、さらに母による献文帝側の側近李欣の殺害などの応酬が続き、母と子の間の確執は深まるばかりであったが、結局軍配は母側にあがった。
 そして献文帝は在位5年で息子の孝文帝に皇位を譲った。その後も献文帝は戦争を機に政治介入を試み、ついに皇太后はひそかに献文帝を毒殺した。献文帝23才の時だった。
 その20年後、その皇太后も崩御し、孝文帝は思うままに執政が出来た。皇太后崩御の年490年から495年のたった5年間で第5窟と第6窟が掘削されたのだ。
 孝文帝の時代は北魏で最も安定した時代であり、この時代に造窟された第5窟と第6窟に棲む仏像の表情は柔和で、漢民族形式の仏、菩薩、護法、天人、飛天などのイメージを創出して雲崗石窟スタイルが形成された。
 そしてそのスタイルは益々芸術性を深め、仏像のみならず、その添え物や飾り物にも工夫が加えられ雲崗石窟の彫像技術を最高峰に成長させた。
 それは、少数民族の鮮卑族が樹立した北魏王朝を後世に印象付け、その王朝の実力と国力と文化的拡張の高さとを世人にアピールした。

 この窟を見ると、この窟の造窟に至るまでの、孝文帝の心の葛藤の様を思い遣ることが出来るような気がする。祖母の馮皇太后、父献文帝をどのように見つめていたのだろうか。
 たった五年で窟を完成した事実、窟内の仏像の柔和な顔つき、窟内に表現した釈迦の少年期までを描いた仏本行故事レリーフ、
皆心の葛藤を収め、自らを慰めるための物語として使ったのではなかろうか。

 つづく







2008/11/07 22:47:25|旅日記
大同・北京の旅 (九)木塔寺

             大同・北京の旅

(九)木塔寺

 昼食を木塔寺までの途中にあるレストランで摂った後、木塔寺に向かった。途中通った道路の両側には、あちらこちらに槐並木が見られた。このあたりの並木は殆どが槐か柳であった。
 木塔寺は縣空寺より更に南にあり、大同市から70kmのところにある中国最古の木造寺院であり、正式名を仏宮寺釈迦堂といい遼の1060年に建立された八角形の五重の塔である。
 約950年もの間、兵火にも落雷による火災の被害にも会わなかっただけでも立派である。
 今年、九月に訪問した奈良飛鳥寺、司馬遼太郎の「街道を行く2.韓(から)のくに紀行」を読み初めて、にわかに行きたくなってしまっている慶州。そこにある東洋最大と言われる寺院址の皇龍寺も九層の木塔を備えていたとのことであるが、今は礎石のみとのことである。
 奈良飛鳥寺も落雷による火災で、かっての壮大な伽藍(ほとんどが木造)は殆ど残っていない。この木塔寺はそのような被害に会わず、現存している。
 山門から入り、正面に伽藍を眺めて最初に気がつくのは、瓦の色であった。縣空寺の屋根が色彩豊かな黄色だったのに対し、日本の殆どの寺院の瓦の色同様黒であった。そして色彩も、例の黄色、青、緑、赤ではなく、黒と小豆色二色の落ち着いた彩色となっている。(写真1)
 今まさに整備中の寺であり、工事中の足場が掛けられたり、整地中の寺であり、今後の観光地化の目論見をひしひしと感じた。 観光地化が目的ではないにしろ、このような補修改築は繰り返し行われてきたはずである。その一つが清の乾隆帝のときであろう。乾隆帝の筆による篇額が各階ごとに掛けられていて、その言葉から乾隆帝の仏教に対する思いがかすかながら伝わってくる。(写真2下)篇額に書かれているのは。下から「天柱地軸」、「天宮高聳」、「釈迦塔」、「天下奇観」、「峻極神工」とある(写真2下)。最後の「峻極神工」の意味がよく分からない。扁額は、「この建物を文字で表現すればこうだ」と言いたげに、じつにいろいろな書風があって、見て飽きない。
更に塔頂には相輪が聳え立っていた(写真2上)。相輪の模様は写真を後で拡大しても分からなかった。日本の寺院の塔は輪は九層が普通だが、ここは五層で、その直径は大きく層間が離れていない。水炎の模様は良く分からない。そして二つの竜車と二つの宝珠が連なっている。輪によく飾られる風鐸は全くついていない。
デザイン的優雅さは薬師寺の相輪にはるかに劣って見えた。しかし相輪は落雷を最初に受けるところ。1000年近くも落雷による火災を受けなかったのも優雅さは無いものの落雷に対し頑強な構造になっているのかも知れない。
塔内部に入り、階段を上って行くと、最上階だったろうか、記憶が定かではないが、南面した仏像が五体配置されていた。
 中心に如来像、それを四体の菩薩像が囲む配置になっている。如来像と左右の二体の菩薩像は蓮座に着座した坐像であり、後ろの二体の菩薩像は立像で、いずれもカラフルで重々しさは感じられなかった。(写真3)
 塔の高所まで上がると周囲の景色が一望できる。見下ろすと四方の景色がまるで異なる。南側(推測)に山門、その向こうに山道と門前町が見事な瓦屋根の配列模様でならぶ(写真4−4)。
 そして北面を見下ろすと、両側に佛と書かれた小さな門とその奥にお堂が3棟配置されていたが、そこへは足を運ばなかった。 そしてそれらを小豆色をした壁が取り囲む。また遥かかなたには防風林や山並みが映るが、名前は分からない(写真4−2)。 西(推測)の方角には灰色の家並が映る。家屋は比較的大型で、きちんとした屋根つきであり、農家の家の構えではない。
 写真のほぼ中央に別の寺院の屋根が見えるが日本の寺院の屋根の色、形に似ている。さらにその遠方に山並みが見えるが、その山裾の地形は「黄土高原」という名がぴったりの景色であった。(写真4−1)

つづく